デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
5節 災害救恤
8款 災害救恤関係諸資料 1. 大阪市火災
■綱文

第31巻 p.412-414(DK310060k) ページ画像

明治42年7月31日(1909年)

是日、大阪市北区ニ火災発生ス。栄一、罹災者ニ対シ、金壱千円ヲ賑恤ス。大正二年三月右ニツキ賞勲局総裁ヨリ銀杯一個下賜サル。


■資料

青淵先生公私履歴台帳(DK310060k-0001)
第31巻 p.412 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳         (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
大正二年三月十二日 明治四十二年七月大阪市北区火災ノ際、罹災窮民ヘ金壱千円賑恤候段、奇特ニ付為其賞、銀杯壱箇下賜候事         賞勲局総裁



〔参考〕新聞集成明治編年史 同史編纂会編 第一四巻・第一三〇―一三一頁 昭和一一年六月刊(DK310060k-0002)
第31巻 p.412 ページ画像

新聞集成明治編年史 同史編纂会編  第一四巻・第一三〇―一三一頁 昭和一一年六月刊
  大阪市の北半猛火に裏まれ
    一万五千四百戸を焼尽す
〔八・一 ○明治四二年東朝〕 大阪の大火 ○卅一日午前四時四十分、北区空心町二丁目玉田莫大小工場より出火、炎天続きに乾き揚りたる折柄なりし上、珍しき強風ありしかば、火の手は忽ち四方に広がり、見る間に松ケ枝小学校に燃え移り、火勢益々猛烈となりて如何ともする能はず、火勢は西手に廻りて、午前七時頃は松ケ枝町松ケ枝筋に出で、尚一方の火の手は岩井町方面に移れり。如何にしけん、当日は、
△水道の水出でず 警官・消防夫は必死となりて消防に手を尽したるも、火勢益々猛烈にして到底防止すべくもあらず、東北の烈風は益々吹き荒みて紅蓮の燄を煽り、乾き切りたる長屋建の各戸は恰も枯葉の焼くるが如く西南に燃え進めり、又南方は信保町二丁目に燃進み、岩井町・壷屋町・河内町の大半を焼きて此花町に燃え移り、天満天神の裏手に至りしが、消防夫の必死に手を尽くしたるため、幸ひに此の方面は亀の池にて喰止むるを得たりしが、西方に拡がりし火勢益々猛威を逞しうして旅籠町を焼き、堀川にて喰止んとせしも能はず、遂に
△対岸に尚延焼し 卅一日午後一時、伊勢町・木幡町・桶上町・老松町に燃拡がらんとし、控訴院・回生病院等熾に火の子を冠り、防火夫は東西に入乱れて奔走し居れり、此の一帯の地は、中等以下の貧家多く、主なる建物は松ケ枝小学校・天満郵便局等に過ぎざるが、午後一時までの焼失戸数は
△正に一千余戸 に上れり。〔下略〕
〔八・三 ○明治四二年東朝〕 大阪大火続報、焼失家屋の調査。一万五千三百九十戸。 ○下略
 - 第31巻 p.413 -ページ画像 



〔参考〕明治大正大阪市史 大阪市役所編 第一巻・第九六三―九六六頁 昭和九年四月刊(DK310060k-0003)
第31巻 p.413-414 ページ画像

明治大正大阪市史 大阪市役所編  第一巻・第九六三―九六六頁 昭和九年四月刊
 ○第十章 保健及災異
    七、大火
○上略
 北の大火 明治四十二年七月三十一日午前四時頃、北区空心町二丁目七十番地(莫大小製造販売業者)より出火、連日の炎天と折柄の疾風とのため火勢猛烈を極め、延焼実に二十四時間、終に三十六万九千四百三十八坪の地を舐め尽し、東西の延長三十町四十間に及び、建物凡そ一万千三百余を烏有に帰せしめ、損害一千五百万円、府市税・区費及聯合区費の減収十三万円と推算せられた。罹災町数は五十一箇町であつて、その中二十箇町は、全焼の厄に遭ひ、また罹災地域は北区総面積の一割四厘であり、全市面積の二分に相当する。北区は土地柄、官公衙・銀行・会社・学校等の所在地であつたが、それ等の類焼を蒙りしものは大阪控訴院・大阪地方裁判所・北区役所・大阪一等測候所府立工業試験所及商品陳列所・北警察署・堂島米穀取引所・市立大阪高等商業学校等を始めとして頗る多い。更に罹災者戸数の職業別を見るに次の如くである。
 労働者 四、一五九  商業  三、八〇五  雑業             二、二七三
 製造業 一、五五八  会社員   七七二  官吏               五二五
 無職    四七八  運輸業   二九九  医師・教師法律ニ関スル職業者   一三〇
 学生     五八  農業      六  鉱山業                四
                                 計   一四、〇六七
  (備考)職業別数の焼失戸数に一致せざるは、家族にして他の業に従事せるものを記入せしに因る。
 大火の報天聴に達するや、八月六日侍従日野西資博を差遣せられ、罹災民救恤補助の思召より、御内帑金一万二千円を下し給ふ。官民天恩に感泣し、只管災害の復旧、罹災民の救済に努む。即ち府市は固より、軍隊及民間諸団体は一致協力してこれに当り、別に大阪郵便局は罹災民の貯金非常払戻を行ひ、農商務省山林局は建築木材供給の便を計り、又各火災保険会社も保険金の支払に特別の便法を講じた。而して一朝罹災の場合支払はる可き貯金・保険金を有する者は兎も角、然らざるものに至つては忽ち路頭に迷ひ、市その他の救済施設によつて日々の糊口を潤ほすの外なかつた。玆に於てか大阪市はそれ等の窮民救護のため、市内各所に罹災民収容所を開設すると共に、先づ期間を三期に分つて、第一期を貧富混淆救護の時期、第二期を半永久的救護設備の時期、第三期を住宅給与時期となすの方針を立て、罹災者の応急救護より次第に復業自活に向つて救恤の実を挙ぐ可しと為した。このために一方に於て就職口の詮索、職業の紹介、貸家の周旋、就職資料の給与、帰郷船車券の交附等諸般の方法を講じて遺漏なきを期し、且被救護者をして救護の本旨を悟らしめ、苟も偸安一日を空うせんとする者を反省退去せしむるに意を注いだのである。かくて市内各所の罹災民収容所に於ける救護人員は次第に減じ、後所謂半永久的設備として木津川収容所を開き、他の収容所を全部閉鎖するに至つたが、木
 - 第31巻 p.414 -ページ画像 
津川収容所も亦十月二十四日を以て閉鎖することを得、第三期の救護施設はその必要を見ずして終つた。木津川収容所は開設期間六十九日であり、収容人員二万千九百九十七人であつて、被収容者の罹災前と収容所退去後との職業別は概ね一致し、健康状態その他特殊の事情に基くものゝ外、何れも原業に復せしが如く、大阪市の救護施設は大なる成功を収めたのである。
○下略