デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.55-83(DK320004k) ページ画像

明治42年8月19日(1909年)

是日栄一、渡米実業団一行ヲ率ヰテ東京ヲ発シ、横浜ヨリミネソタ号ニ乗船、シアトルニ向フ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK320004k-0001)
第32巻 p.55-57 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年(渋沢子爵家所蔵)
八月十九日 半晴 大暑
午前六時起床、入浴シ、畢テ新聞紙ヲ一覧ス、又頭髪ヲ理ス、荒井氏ヘ書状ヲ作リ、且留守中ノ要務ヲ筆記ス、七時半朝飧ヲ食シ、九時過家ヲ発シ、兼子・愛子ト共ニ自働車ニテ停車場ニ至ル、此日渡米一行東京ヲ発スルニ付、場内送別人ニテ、立錐ノ地ナキニ至ル、停車場ノ階上ニテ見送ノ人々ト会談シ、十時三十二分発ノ特別汽車ニテ横浜ニ抵ル、送別ノ人頗ル多シ、銀行集会所ニテ家族・近親ノ人々ト共ニ午飧シ、一時新埠頭ニテ一同会合シ、小蒸気船ニテ本船ミネソタ号ニ抵ル送別ノ人尚多ク船ニ来ル、午後三時解纜、此日天気晴レテ船平穏ナリ、七時夜飧シ、食後甲板上ヲ散歩シ、且一行ノ人々ト雑談ス、夜十時東京野崎氏○広太・横浜来栖氏○横浜商業会議所副会頭来栖壮兵衛等ヨリ無線電信来ル、堀越氏ヲシテ返信ヲ発セシム、十時寝ニ就ク
 (欄外)
 天候ハ悪シカラサルモ暑気堪へ難シ、夜ニ入ルモ涼ヲ覚ヘス
八月二十日 曇 冷
午前六時半起床、船室内ニテ入浴シ、畢テ甲板上ニ出テ散歩ス、朝来炎熱堪へカタキモ、時々驟雨アリテ涼風来ル、日米ト題スル雑誌ヲ読ム、八時半朝飧ヲ食ス、後又読書シ、又ハ甲板上ヲ散歩ス、午後一時午飧ス、食後一行ヲ会シテ、各地ヨリ撰出ノ人士各相紹介シテ、一般ノ行動及挙措ニ関スル打合ヲ為ス、予ハ団長ノ資格ヲ以テ一場ノ演説ヲ為シ、且委員撰挙ノ事ヲ定ム、午後雨歇ミテ冷気頓ニ加ハリ、亦炎熱ヲ覚ヘス、午後七時夜飧、其前甲板上ヲ散歩ス、食後一行ト喫煙室ニテ談話ス、夜十一時就寝、午後二時過ヨリ雷雨頻リニ至ル
八月二十一日 曇 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ甲板上ヲ散歩ス、八時半朝飧ヲ食ス、後日米雑誌ヲ読ム、又書類ヲ調査ス、午飧後喫煙室ニテ一行協議会ヲ開キ委員ヲ定メ、中野武営氏委員長トナル、各専門家ノ会合ヲ催フス為メ神田男爵ヲ会長トシテ協議会ヲ開ク事ヲ定ム、同船中ノウエリアムウオーレス氏ニ面談ス
喫煙室ニテ一行中ノ遊戯スルヲ視ル、曾テ阪井氏○徳太郎ニ托シタル英文ヲ堀越氏ニ反訳セシム、読書室ニテ日米又ハ米国事情ノ訳書ヲ読ム、夕七時晩餐後喫煙窒ニテ一行中ノ諸氏ト談話ス、夜十一時就寝
大阪ヨリノ無線電信ニテ、牧方火薬庫爆発《(枚)》ノ事ヲ報シ来レルニヨリ、一行ヨリ同地ノ師団長ニ電報シテ之ヲ慰問ス
八月二十二日 曇 冷
午前七時起床、船室内ニ於テ入浴シ、後甲板上ヲ散歩ス、昨夜ヨリ霧深クシテ海上濛々タリ、船千島近ク航行スル為メナリト云フ、昨夜ヨリ冷気頓ニ加ハリ、亦炎熱ヲ覚ヘス、八時半朝飧ヲ食ス、後日米ト題スル雑誌ヲ読ム、又甲板上ヲ散歩ス、午後一時午飧シ、後福島甲子三
 - 第32巻 p.56 -ページ画像 
氏ヨリ送ラレタル不可不読ト題スル一書ヲ読ム、又米国事情ヲ訳セル書類ヲ一覧ス、夕七時夜飧ス、後喫煙室ニテ一行ト雑話シ、又囲碁等ノ遊戯ヲ視ル、夜十一時就寝ス
八月二十三日曇 冷
午前六時半起床、入浴シ、畢テ甲板上ヲ散歩ス、八時半朝飧ヲ食ス、食後ベデカ案内記ヲ訳セシ米国各都会ノ状況及其団体、歴史ノ梗概ヲ略記セル書類ヲ一覧ス、午後一時午飧シ、後喫煙室ニ於テ一行ヲ会同シテ、旅行中ノ規律及行動ニ関スル打合ヲ為シ、各分課ヲ定ム、後遊戯ニ閑ヲ消ス
終日雲霧濛々トシテ四顧分明ナラス、時々汽笛ノ声ヲ聞ク、夕七時晩飧ヲ食シ、後喫煙室ニテ遊戯ス
八月二十四日 曇 冷
午前六時半起床、入浴シ、畢テ甲板上ヲ散歩ス、八時半朝飧シ、後読書ス、又昨日一覧セシ米国案内記ヲ読ム、午後一時午飧シ、後甲板上ヲ散歩シ、又喫煙室ニテ人ノ囲碁スルヲ一覧ス
夕七時晩飧ヲ畢リテ喫煙室ニテ遊戯ス
八月二十五日 曇 冷
午前六時半起床、入浴シ、畢テ書類ヲ点検ス、八時半朝飧ヲ食シ、後甲板上ヲ散歩シ、又米国史ヲ読ム、午後一時午飧、食後一行喫煙室ニ会シテ行儀作法ニ関スル打合ヲ為ス、午後三時又米国史ヲ読ム、夕方ヨリ遊戯ニ閑ヲ消ス、七時日本料理ノ晩飧ヲ食ス、東経百八十度ニ至リ西経ニ入ルヲ以テ、此日ハ再ヒ二十五日トセサルヲ得ス、故ニ一日再来スルナリ、午前六時半起床、入浴ヲ廃ス、船室内ニテ日記ヲ編成ス、八時朝飧ヲ食ス、後米国史ヲ読ム、午飧後喫煙室ニテ一行ヲ会シテ礼式ノ事及行儀ノ事ヲ談話ス、又米国史ヲ読ム、午後七時夜飧後遊戯ニ閑ヲ消ス
八月二十六日 半晴 冷
午前六時半起床、入浴シ、畢テ米国史ヲ読ム、八時半朝飧ス、食後中野・岩原・堀越諸氏ト一行ノ分課及其人撰等ヲ内議ス、後臥床ニテ休憩ス、午後一時午飧ス、食後又室内ニテ小憩ス、蓋シ船少シク動揺スレバナリ、夕方ヨリ遊戯ス、午後七時夜飧ス、後遊戯ス
此日ハ朝来天気朗晴ナリシカ、風強クシテ船少シク動揺セリ
八月二十七日 曇 冷
午前六時半起床、入浴後室内ニテ喫茶ス、八時半朝飧ヲ食ス、後船室内ニテ中野・岩原・堀越諸氏ト一行ノ分課及其人撰ノ事ヲ内議シ、更ニ各商業会議所会頭ト会議シテ、原案ヲ示シテ分掌ノ順序ヲ協議ス、午後一時午飧ス、後各商業会議所其他ノ委員ヲ会シテ、一行ノ各課分掌ノ順序及其人撰等ノ事ヲ談ス、同船ノ米国人ヨリ明日船中ニ於テ祝盃ヲ挙クルノ催アル事ヲ聞知セシニヨリ、之レニ答礼スル為メ、神田・岩原・松方・堀越四氏ヲ委員トシテ其方法ヲ調査セシム事トス、夕七時晩飧シ、後喫煙室ニテ一行ノ囲碁ヲ観、又遊戯ス
八月二十八日 曇 冷
午前六時半起床、入浴後喫茶シ、後米国史ヲ読ム、八時半朝飧シ、食後喫煙室ニテ談話シ、又甲板上ヲ散歩ス、中野氏ト各分課ノ件ニ関シ
 - 第32巻 p.57 -ページ画像 
テ種々ノ協議ヲ為ス、午後一時午飧ス、後一行中各分課ヲ設ク事ヲ一行ニ明示シテ、其指名及定員等ハ団長ニ於テ之ヲ決スル事トス、午後三時喫煙室ニ於テ、米国人乗客中ヨリ一行ヲ歓迎セラルヽニ付一同参会ス、代表者スチビンソン氏ヨリ、米国人ヲ総代トシテ歓迎ノ詞ヲ述ヘラレ、堀越氏之ヲ訳ス、依テ余ハ一行ヲ代表シテ答詞ヲ述フ、神田男爵之ヲ訳ス、尚賓主各数名ノ演説アリ、五時過ニ至リテ散会ス、後甲板上ヲ散歩シ、七時晩飧ヲ食ス、食後遊戯ニ閑ヲ消ス
八月二十九日 曇 冷
昨夜ヨリ風強ク船少シク動揺セリ、午前七時起床、入浴シ、畢テ甲板上ヲ散歩シ、又米国史ヲ読ム、八時半朝飧ス、後一行中各分課ヲ設クル事ニ付テ中野・松方・岩原・堀越諸氏ト会話ス、一時午飧シ、後食堂ニ於テ一行ヲ会シテ、各分課ヲ設クル順序ヲ協議シ、人員ノ定数及其指名ハ団長ニ一任スル事トナレルヲ以テ、余ハ其ノ掛リ分ノ人員ヲ指名ス、後、各分課ニ於テ簡単ナル規程ヲ設クル事トシテ、其手続ヲ定ム、又一行全般ニ係ル経費支弁ノ為メ、各員ヨリ分頭ニ支出スヘキ金額ヲ定メ、会計課ニ納付セシムル事トス、夕七時晩飧ヲ畢リ、後喫煙室ニテ会話シ、又船室ニテ遊戯ス
八月三十日 曇 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ甲板上ヲ散歩ス、昨夜来風穏カニ船静ナリ、八時半朝飧ヲ食ス、後喫煙室ニ於テ一行中ノ数名ト会話ス、ヒル氏著ノ合衆国ノ将来ト題スル書ヲ再読セシム、此日ハ晩飧後ニ於テ船員及同船ノ旅客ヲ招宴スル筈ニテ余興ノ準備等ニ各員多忙ナリシ、午飧後米国史ヲ読ム、又本邦ニ発スヘキ端書数葉ニ署名ス、七時晩飧ヲ畢リ、九時ヨリ船中食堂ニ於テ招待会ヲ開ク、会スル者百名余、内外人間ニ各様ノ余興アリ、米国方令嬢連ノ音曲合奏、本邦方ノ催ニ係ル能狂言ヲ英語ニ訳シテ之ヲ演シタルモノ、尤モ多数ノ喝采ヲ博セリ
演芸ニ先チテ、余ハ一行ヲ代表シテ挨拶ヲ述ヘ、船長及米国人中ノスチビンソン氏答辞ヲ述フ、後又競技会ニ於ケル優勝者ニ賞品授与ノ事アリ、船中歓声湧カ如ク、賓主充分ノ歓ヲ尽シ十二時散会ス
(欄外)
 此日一行ヲ喫煙室ニ会シテ、幹事以下各課ニ於テ制定シタル規程ヲ示シテ、一行ノ承認ヲ得タリ
八月三十一日 晴 冷
午前七時起床スルモ、昨夜ヨリ少シク風邪気アルヲ以テ入浴ヲ罷メ、船室ニ在テ日記ヲ編成シ、又米国史ヲ読ム、八時半朝飧ス、食後甲板上ヲ散歩ス、此日夕方ニハ本船着港ノ事ヲ船内ニ伝聞スルヨリ、一行上陸ノ手配ニ忙殺ス、午後三時ホード・タウンセントニ到着ス、是ヨリ先無線電信ニテ水野紐克総領事・田中領事○シアトル領事田中都吉・織田一(博覧会掛官)米国人セームム・ヒル《(セームス・ヒル)》氏其他諸方ヨリ電報ノ祝詞来ル、タウンセント到着後、本船ノ速力ヲ緩メ、終ニ同港ニ一泊ス、蓋シ明日シヤトルニ於ル歓迎ノ手筈ニ関シ、本船ノ入港ヲ少シク遅カラシムル為メナリト云フ、夜水野・田中・頭本・中野、其他ノ諸氏ト、本船着後歓迎ノ手続ニ関シ、祝詞ニ答フル辞令ヲ協議シ、其文案ヲ草定ス、夜十二時過ニ至リテ漸ク寝ニ就クヲ得タリ

 - 第32巻 p.58 -ページ画像 

渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛 (明治四二年)八月三一日(DK320004k-0002)
第32巻 p.58 ページ画像

渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛 (明治四二年)八月三一日
                  (佐々木勇之助氏所蔵)
                   (ゴム印)(佐々木)
                    九月廿七日(印)
爾来益御清適御坐可被成、遥賀仕候、老生及実業団一行総而無事且航海も案外平穏ニて、今夕ハ将ニシヤトルニ安着し得へしと存候、兼而船中ハ病人ニて送るへく予期せしも、反対ニ一回も食卓ニ欠席せさりしハ、奇観とも可申事ニて、自分なから意外ニ相考居候位ニ御座候、一行中之節制等ニハ最初より中々之苦心も有之候しか、中野氏抔別而心配せられ、船中ニて大概之規程及分課等も設定し、一同服事之筈ニて、一小共和政治団之成立とも可申都合ニ相成候間、向後とも烏合之衆とて銘々勝手ニ相成候様之事ハ有之間敷と存候、御安心可被下候、船中日之摸様《(々脱カ)》も篤二まて申遣候ニ付、御聞知可被下候
留守中ハ別而御高配と察上候、韓国中央銀行設立ハ如何之摸様ニ候哉定而申込ハ南満ニ類似之勢ニ相成候事と存候
市原氏之身上ニ付而ハ、別ニ相替候義ハ有之候哉、然時ハ、第一銀行ニ対して幾分之優先株を付与せられし歟、御序ニ、其成行御通知被下度候
東洋汽船会社之事ハ、其後如何ニ相成候哉、大川もし十一月頃桑港へ被参候義ニ候ハヽ、其際承合も可仕候得共、紐克府ニてハ殊《(事)》ニよりモールスニも面会すヘく、又ハリマンと会見之機会も有之候歟と存候旁其前ニ会社之現状承知致度候ニ付、可成早く御申越被下度候
銀行事務ニ付而ハ、特ニ申上候愚見とてハ無之候、只下季之金融界之如何予知仕兼候ニ付、精々持重之御経営《(マヽ)》ニ出候様企望仕候、右等船中之概況申上度、如此御座候 匆々敬具
  八月三十一日
                      渋沢栄一
    佐々木勇之助様
           梧下
尚々日下・市原其他之各位、又ハ営業部之諸君ヘ別々出状不仕候、貴台より宜敷御伝声之程願上候也
回答済印 佐々木勇之助様 親展
渋沢栄一 八月三十一日


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治四二年)八月三一日(DK320004k-0003)
第32巻 p.58-59 ページ画像

渋沢栄一書翰 八十島親徳宛(明治四二年)八月三一日(八十島親義氏所蔵)
其後御健康如何御坐候哉、折角御摂養専一ニ存候、但し病気ハ余りニ心配ニ過候ハ、却而心経《(神)》より其病を増長せしむる恐有之候ものニ付、其辺呉々御注意可被成候、古聖之所謂死生有命富貴在天といふハ、余りニ任他主義ニ過候様なれとも、もし自己之思考を以て之を改善せん
 - 第32巻 p.59 -ページ画像 
とするも、決而其宜を得さる筈に付、少くも死生有命之一句ハ不易之言と一任候方歟と存候、右等之事充分ニ理解いたし、何等之物我も胸中ニ相生候事無之を以て、真ニ大悟徹底と可申筈ニ付、儒教も禅学も其終局ハ一ニ帰し可申歟と存候、呉々安神立命之御工夫専一ニ御励磨有之度候
横浜解纜後、船中之景況ハ篤二まて詳細ニ申通し候ニ付、御聞取可被下候、先頃と異り案外ニ航海平安ニて、船気とてハ一日も無之、中々之勇気ニて壮年者と相伍し居候間、其辺御省念可被下候
留守宅之会計上又ハ王子之普請向ニ付而も、大要篤二ヘ之書中ニ相認め、尾高と貴兄ニ御相談之上適宜ニ取扱候様と申遣候、可然御画賛可被下候
倉庫之事務ハ新創之際ニも有之、可成不都合無之様進行いたし度、百事佐々木君と御相談被成、精々業務進歩候様、御勉力有之度候
ミネソタ号今午後三時頃タウンセントニ到着し、夫より米国之委員等歓迎之為来会之由ニ付、大概夜ニ入りシヤトル上陸と相成可申故ニ、予期よりハ二日程早く相成候訳ニて、一同大悦罷在候、明日より之日程ハ、今夕米国委員会見之上ニて取極め、弥以米国巡礼相始り候都合ニ御坐候、右一書申上度如此御坐候 匆々不備
  八月三十一日ミネソタ号船中ニ於テ
                       渋沢栄一
    八十島親徳殿
           梧下
八十島親徳様 御直披 渋沢栄一
「四十二年」 八月三十一日 「米国シヤトルより」


(八十島親徳)日録 明治四二年(DK320004k-0004)
第32巻 p.59-60 ページ画像

(八十島親徳)日録 明治四二年(八十島親義氏所蔵)
八月十九日 晴 蒸暑
○上略
渋沢男爵始渡米実業団ハ、愈本日ヲ以出発セラルヽニツキ、徳子ト同列ニテ新橋ニ至レハ、已ニ停車場構内ハ人ヲ以テ埋マリ、立錐ノ地モ無キ位、其中ヲアチコチト徘徊スレハ或ハ卒倒デモセンカト恐ルヽ計也、渋沢男爵・同夫人ハ階上ノ休憩室ヲ特ニ借受ケラレ、玆ニテ見送者ニ会見セラル、ヤガテ十時卅二分ノ臨時列車ニテ出発、コヽニ又混雑ノ有様ハ、徳子ト予ト互ニ見失ヒ、多少案シツヽ己レ独リ車室ニ乗組ミ、横浜着後ニ始メテ無事ヲツキトメシヲ以テモ知ルベシ、渋沢家ノ一行及見送人共七十人位ハ銀行集会処楼上ニ息ヒ、且昼飯ヲ認メ、一時税関新築波止場ニ至ル、コヽハ未タ落成ニ至ラサルモ、今日ハ特ニ使用ニ供セシナルガ、兎モ角ミネソタ本船ハ桟橋ニツカヌニツキ、
 - 第32巻 p.60 -ページ画像 
皆小蒸汽ニテ行クノ外ナシ、渋沢家ニテハ東洋汽船ノランチヲ専用セシガ、他ニモ数隻ノ小蒸気アリ、見送人ノ大部ハ波止場ニ留マリシモ尚本船見送人ニテ甲板上ハ雑沓ヲ極ムルニ至レリ、予ハ病体乍ラ本船ニ至リ、男爵及令夫人・増田氏・高梨嬢○孝子等ニ親シク送別ス、男爵ノ室ハ最上階ノ最先端ニシテ、坐室・寝室及浴室ヨリ成リ完備セリ、堀越氏其隣ニ居ヲ占メ、増田・高梨等皆同階ノ中ニ手近ク陣取レリ、幸ナ事ハ乗客割合ニ少キヨシナレハ、一行主従五十人モ先気楽ナ方ナラン、一行中ニハ予ノ知レル人々不少、中野・日比谷・神田・巌谷・加藤辰弥・小池・飯田・原・田辺・岩原・土居、其他中ニハ混雑ノ為顔ヲ合ハス事ヲ得サル人モアリシ位也、帰途本船ヲ下ラントスルトキ甲板上非常ノ大混雑ニテ汗ビツシヨリ、人ニモマレ押サレ、中々ノ大賑ナリシモ無事ニ下船、ランチニテ暫ク本船ノ附近ヲ名残惜シク徘徊シ、三時ノ出帆ヲ防波堤外マデ送リ帰ル、他ノ見送船ニハ楽隊・彩旗等ニテ大景気ノモノモアリシ○下略
   ○中略。
九月二十六日 日曜 晴
○上略
渋沢男爵ヨリ渡米第一回ノ御書状ヲ頂戴ス、海上ハ極メテ平穏ナリシ由、不相変予ノ健康ニツキ強ク憂慮セラレ、死生有命・安心立命ノ必要、所謂大悟徹底ヲ説カルヽ事極メテ懇切也
○下略
九月二十七日 雨
○上略
渋沢男爵ヨリ昨日書状ヲ贈ラル(八月卅一日シヤトル発)本日返書ヲ発送ス○下略


竜門雑誌 第二五六号・第五一―五三頁 明治四二年九月 青淵先生の渡米(DK320004k-0005)
第32巻 p.60-62 ページ画像

竜門雑誌 第二五六号・第五一―五三頁 明治四二年九月
    青淵先生の渡米
△新橋停車場の光景 昨日まで何や斯やと世務に忙殺されつゝありし青淵先生は、這回帝国民を代表する所の平和なる外交的使命を帯びて渡米の途に上るべく、時は八月十九日、夜来の豪雨霽れたれど雲影尚ほ低く迷うて、飛鳥山頭の樹林を罩むるの暁、令夫人・令嬢と与に自働車に乗らせられて、警笛一声勇ましく曖依村荘を立出で、疾風の如く新橋停車場に馳着きたるは午前十時過にてありき、駅前の広場には各区実業団体の見送りに充つべく、幾棟かのテントの設けさへありて彩旗日に輝き、銘旗の風に戦ぐ、开が中はギツシリと見送人を以て満たされ、左右の入口亦た人雪崩を打ちて揉合ふ、絹帽綾羅の間に颯爽と白扇の閃く様は、遠く望めば沖の白帆か蝴蝶の人に戯るゝの風情あり、先生は徐に車を下らせられ、令夫人と与に面に誠意の満てる幾千の紳士淑女に迎えられつゝ、人垣の間を縫うて、特に先生の為めに設けられたる楼上の貴賓室なる休憩所に入らせける、間もあらせず大隈伯・小村伯・松尾男爵・高橋男爵・添田総裁・高橋総裁・園田孝吉・荘田平五郎・益田孝・千家府知事・尾崎市長・豊川良平、早川千吉郎・池田謙三・大倉喜八郎・村井吉兵衛・古河虎之助諸君を始め、別れを
 - 第32巻 p.61 -ページ画像 
告げんとて訪ひ来る朝野の紳士引きも切らず、室の正面に立構えたる先生は、慇懃に右に握手、左に告別の挨拶に、殆ど息を吐く間もあらせられず、又室の左側に姻戚の夫人令嬢方に附纏はれつゝありける令夫人も、入り代り立ち代り訪ひ来る貴婦人令嬢に対し、懇ろなる名残の挨拶に忙はしく、瀟洒たる錦綉、清楚なる綾羅の粧ひ眼眩く、和気靄々として瑞気室に満ち、宛ら天女の一堂に集ひ参らせるけるかと見惚るゝ許り、時は迫りて人尚ほ絶えず。
△発車前の光景 頓て先生は時刻は善しと、本社長篤二君・阪谷男爵穂積博士・各夫人令嬢等一族の方々と階下に降れば、人は潮の如く弥や増しに勝りて身動きもならばこそ、徐に黒煙を吐かせつゝ一行の乗車を待てる特別仕立のボギー列車、予て誂への二輛の専用車に乗込みぬ、左れど寛かに憩ふべき席さへもあらず、車窓の前には十重二十重に人の入乱れて窓近く別れを告ぐるもの、幾重の人垣に隔てられて、遠く名残を惜む紳士淑女の数知れず、折柄響く発車の汽笛、途端に起る万歳の声、暫しは鳴りも歇まず、予定の午前十時三十二分徐に轢り出せる一行の列車は、鯨波の如く起れる万歳の声を浴びつゝ、蒙々と噴き出づる竜煙を空に残して横浜指して急ぎ行きぬ。
△横浜の光景 斯くて午前十一時過ぎ横浜停車場に着すれば、此処も亦た春花秋草の一時に萌え出でたらん如き出迎えの紳士淑女は揉みつ揉まれつ、其混雑名状すべくもあらず、先生は令夫人と与に予て第一銀行横浜支店長石井健吾君の用意しける馬車に乗じ、令息篤二君・阪谷男・穂積博士・尾高幸五郎君・同次郎君・佐々木勇之助君・八十島親徳君・杉田富君等の随伴にて同地銀行集会所に、門下生其他の見送人は西村旅館に憩ひぬ、此日横浜市にては一行の芽出たき門出を送らんとて、沿道両側の軒頭に国旗を交叉して祝意を表し、街上は轔々轣轆耳も聾する許りにて、開港五十年紀年祭当日の光景に弥や勝さる盛観を極めたりとぞ。
△発船前の光景 頓て先生は、午後二時姻戚の方々に擁せられて税関の告別場に抵れば、早や此処にも雲霞の如く見送人の蝟集せるありて握手の礼、告別の挨拶、片時の暇だにあらず、程なく渡米団と染抜きたる旗を翳せるランチに乗込み、海上の一大浮城かと見紛ふなる満艦飾を施せるミネソタ号に移乗せられたるは正に二時半にして、又もや見送人の包囲とする所と為りしぞ懐かしくもあれ、令夫人亦た惜まるる名残の尽きせぬ折節、抜錨の汽笛一声鳴り渡ると同時に、檣頭高く発船信号旗を掲げられぬ、舷上より見下す先生、舷下より見上ぐる人扨ては遠く波止場より見送る無数の紳士淑女、眼には誠の光り耀きて帽子は頭上に舞ひ、ハンカチーフは鬢辺に渦巻き、万歳万々歳の声は漂渺たる洋上に響き渡りて、海若も躍り出でんかと恠まれ、煤煙愈々濃かに先生一行の搭乗の栄を荷へる巨船ミネソタは、悠々錨を揚げて時は三時三十分、鑿々晴波を蹴立てゝ雲濤万里の航途に上れるこそ勇ましけれ。
△告別の詩歌 先生並に令夫人の室は、第三層左舷二号及び四号室にして、此日先生が新聞記者等の請ひに応じて賦せられたる告別詩、阪谷男の狂歌、積積博士夫人の詠歌は左の如くなりとぞ
 - 第32巻 p.62 -ページ画像 
                  青淵先生
    愛此清風一味真  嗤他満地幾紅塵
    城中昨夜趁涼客  翻作雲濤万里人
                  阪谷男
    航海は名も太平に終るべし
         ミンネソーダと異口同音
    日米の中野大谷治兵衛にて
         通夫幸次郎渋い爺さん
                  穂積博士夫人
    亜米利加は隣と思へど旅衣
         別るゝ袖のさすが露けし
                  同
    堀越氏前夜鼠賊の為めに用意のトランクを
    盗まれしと聞きて
    心とく夜半の白浪かゝる哉
         あすたつといふ君が船出に


東京日日新聞 第一一七四二号 明治四二年八月一九日 渡米実業家の出発 本日午後三時横浜解纜(DK320004k-0006)
第32巻 p.62 ページ画像

東京日日新聞 第一一七四二号 明治四二年八月一九日
    ○渡米実業家の出発
      △本日午後三時横浜解纜
今回渡米する渋沢男以下実業家の一行は、愈々今十九日午前十時三十二分新橋発臨時列車にて横浜に赴き、午後三時同港解纜のミネソタ号に便乗出発するに付、鉄道院にては該臨時列車を二等ボギー車一輛、特別車二輛、一等ボギー車二輛、二等ボギー車三輛を以て編成し、同一行並に見送り者の乗用に充つることゝなしたり△土産物見合せ 実業家の一行は最初各個人にて、国産を土産物として携帯する筈なりしが、其後個人の贈物を廃して、団体より記念となるべきものを持参すべしとの議起り、結局大和魂を代表すべき桜樹数万本を土産として贈り、之を華盛頓の大統領邸宅附近に植附くる事とせば最も可なるべしとて、略々之に一致したるが、桜樹は日本にてこそ繁茂すれ、彼の地の地味と気候とにては生育するや否や疑問なりと唱ふるものありたる為め、今回は是も沙汰止みとなりたりと△シヤトルの歓迎費 シヤトル商業会議所に於ける日本実業団招待費は二万弗と決定され、市は直に一万弗を支出し、其他は有志の醵出に待つことゝしたるが、シヤトル市は同実業団が始めての上陸地点なるを以て、相当なる歓迎の費用は決して吝むべきにあらず、他の市府に対して模範たらんことを期せざるべからずと、非常なる意気込みなりとの事なれば、同一行が彼地到着の際は定めし目を驚かす盛況なるべしと


東京日日新聞 第一一七四三号 明治四二年八月二〇日 渡米実業団出発(DK320004k-0007)
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東京日日新聞 第一一七四三号 明治四二年八月二〇日
    ○渡米実業団出発
渡米実業団の一行は、予定の如く十九日午前十時三十二分新橋発臨時列車にて、帝都を後に渡米の途に上れり、一行は何れも胸間に日米国旗を交叉せる金属製徴章を佩び、見送者への挨拶も匆々各自列車に分
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乗す、之より先き同停車場には小村外相・大隈伯、石黒・千家両男、石井・押川・若槻各次官、阿部東京・高崎大阪両府知事、古市博士・松尾日銀総裁・大倉喜八郎、長岡・村田両陸軍中将、安田善三郎・原田虎太郎・尾崎市長・原敬・大久保商務局長、其他代議士、朝野の紳縉、実業家等約二千余名犇々とプラツトホーム場外広場等に詰掛け、列車の進行を始むるや、一同脱帽最も静粛に一行を見送りたるが、阪谷男・池田謙三、其他二百余名の諸氏は、乗船見送りの為め特に一行と共に下浜したり△車中の混雑 特別列車の乗車券は、列車出発約二十分前既に売切れとなりし程なれば、車中の雑沓はプラツトホームの雑沓にも勝り、一等・二等・三等を通じて身動もならぬ程に押詰り、見送の為め車内に入り込みし人が、引き返し得ずして横浜まで連れ行かれたるもありき△赤心の吐露 列車中部の一等室に乗り込める高辻奈良造氏 佐竹作太郎氏・佐竹氏随員名取和作氏等見送人に擁せられて、元気よく雑談に耽りつゝありしが、高辻氏が胸間の渡米実業家徽章を取外し、傍なる大橋新太郎氏に示し居たる時、名取氏天麩羅でせうなと云へば、大橋氏は『勿論です、実はもつと気の利いたものを作る筈だつたのですが、間に合ひませんでね、是では諸君が渡米中懸けて居られると中から出て来さうですよ』と笑ふを、高辻氏受けて『赤心吐露といふ奴ですね』車中皆哄然として笑ふ
      △横浜に於ける見送人の雑沓
△出迎人の包囲 汽車は予定の如く、十一時九分横浜ステーシヨンに着きたるが、此時既に電車若しくは、前列車等にて先廻りし居る見送人、及周布神奈川県知事以下数百人の横浜の出迎人は黒山の如くプラツトホームを埋め、汽車は着きたれど、少時は下車せんにも足の踏み処もなき程なりき、渡米実業家諸氏は汽車中の暑熱に苦しみ来り、更に又此処に出迎人の包囲に苦しみたり△各自の休憩所 横浜到着後約二時間は各自随意に定し休憩所に入る筈なりしより、ステーシヨン前には「中野様」「渋沢様」「根津様」など書る小旗を立てし俥が、それぞれ見送人を乗て休憩所に走り、見送らるゝ実業家諸氏も多くは人力車を駆りたれど、渋沢男・日比谷氏等数氏は馬車を駛らせ、雲の如き群衆を分けて進む、渋沢男・町田氏・小池氏・南氏は銀行集会所に入りて、西村旅館を見送人休憩所に宛て、大井・渡瀬二氏は上州屋、千歳楼には土居・佐竹の二氏、中野武営氏は、海岸通蓬莱屋へ入りたるが、是等見送らるゝ人も送る人も殆ど皆実業家なる中に、一人巌谷小波氏のみ遅塚麗水氏・石橋思案氏・長谷川天渓氏等の諸文士に擁られて、休憩所も他とは変れる料理店吾妻に入れるは目立たり△上屋参集午後一時までには一行皆午餐を終り、税関新埋立地第六号上屋に参集する筈なりしも、混雑の折柄とて定刻までに参集せる渡米実業家は一人も無く、同二十分頃より日比谷氏を先頭として、外諸氏相前後して見送人と共に車を駆り来れる時は、鋪石に鳴る轍の響轟として少時は鳴りも止まず、さしも広き上屋も一時三十分頃には立錐の余地なきまで人を以て、埋められ了りぬ△上屋内の告別 上屋内の光景は只雑然たりと云ふべきのみ、見送人が玉なす汗を拭ひつゝ見送るべき人を尋ね廻り、漸くにして尋ね当ながら二言三言を交す間もなく、又他の見
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送人の襲来に本意なく引込むもの場内幾十組、皆これを繰返し居る様は、真面目なる顔せるだけに一段滑稽なる感あり、新橋にては別段の告別式も無かりしかば、此処ぞ正式の告別式場ぞと見送る人々も見送らるゝ人々も思ひ居りしが、フロツクコートは背広と相摩れ、シルクハツトは山高と相打ち、靴の音、雪駄の響、シガーの煙、香水の匂、幾千の群衆は只雑然と屋内に満ちて寸時も静ならず、動き喚き叫び答ふれども、竟に何等公然たる告別式の挙げらるゝ模様もなし△忙中閑論 上屋入口には横浜銀行集会所員出張し居り、船内まで見送る人の為めに実業家諸氏の船室図を配布したるは、見送り人の為めには頗る都合よき企なりしが、これと場内数個所に『混雑の折なれば見送人諸君は此処にて告別せらるべく、船内には御出なき様願上候』と告示せるとは相矛盾するものなりと、真面目に論ぜる忙中閑人もありき
      △船上人の波人の山
△一行第一の重み 時は既に一時半を過ぐれども、渋沢男爵の馬車は猶来らず、見送人が『男爵』『男爵』と呼ぶ声各処に起り、先発のランチは既に汽笛を鳴らしてミネソタに向へる時、鋪石を噛む輪声高く二台の馬車は男爵の一行を乗せて入場し来れり、前なる馬車より男爵のフロツクコートに山高帽の姿現はるゝや、場内万歳の叫声満ち、夫人令嬢其他男爵一家の人々静々と入る、流石は一行第一の重鎮なり△二千の大衆ミネソタを襲ふ 当日郵船会社にては一行及び見送人の為めに小蒸気十数艘を出したれど、本船まで見送りし者二千に近かりしにぞ、小蒸汽の往復目眩ゆき程なりき、午後二時十分兎も角も一行ミネソタの甲板上に上れば、さしもの巨艦一・二・三層の甲板より、喫煙室・食堂に至るまで人の波人の山、船員も呆気にとられて呆然たる許りなりし△混乱更に混乱 甲板上の混雑は税関上屋に数倍せり、新橋ステーシヨンより尋ね当てずとて尋ね廻る見送人あり、船室判明せずとて戸惑ひするものあり、トラツクに次ぎて花籠行き、花籠に次ぎて行李運ばれ、急忙混乱は猶ほ続けども只場所を代へたるのみにて、光景は新橋以来更に変る処なし△縁波を切つて進む巨艦 解纜定刻三時二十分、船員なる一支那人銅羅を鳴らして甲板の上下を廻り、出帆の近けるを告ぐ、次で左舷に集まれる小蒸気はけたゝましく汽笛を吹き立つるより、見送人は我先にとタラツプに引き返す、左舷は忽ち人を以て埋められ、後より押し前より堰き、中に挟まれたるものは苦し紛れに叫び出すもあり、折柄欄に靠れて既にランチに下りたる見送人に挨拶し居る巌谷小波氏の如きは、人波の為めに遂に鉄柵の上に押し上げられ柵上よりハンケチを振り居たるを見たり、斯くて小蒸汽・伝馬等、約二十艘に下乗せる見送人は、高く本船の甲板を望みて『万歳』『健康を祈る』など叫び、実業家は甲板上より帽子・ハンケチを振りて応ふ、斯くて我実業界の代表者を乗せたる巨艦ミネソタが緑波を切つて進み出でたるは、定刻三時を遅るゝ正に廿分なりき


竜門雑誌 第二六一号・第一二―一八頁 明治四三年二月 ○青淵先生渡米紀行 随行員増田明六記(DK320004k-0008)
第32巻 p.64-70 ページ画像

竜門雑誌 第二六一号・第一二―一八頁 明治四三年二月
    ○青淵先生渡米紀行
                 随行員 増田明六記
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名残の万歳がまだ耳の奥に響く様に思はれるが、船は已に港外に出でたれは、青淵先生及令夫人には船室に入りて軽装に更め、再び甲板に出でゝ涼を取られたり、此日は炎熱焼くが如く、加ふるに新橋・横浜の両停車場は勿論、船中に於ても見送人の雑沓甚しかりしかば、其暑さ云はん方なし、此上船上にて蒸されてはと気遣ひしが、幸ひ南風徐ろに来り、船の南行と共に涼風襟を披き、大に愉快を感じたるも束の間にて、東京湾の口を出で稍々方向を転ずると、今迄の向ひ風は追手と変じ、又も苦熱を感ずるに至つた、今が今横浜を立つ迄、種々雑多の要事や人の応接も、今は悉皆絶無して、急に閑散の身となりたると共に、出立前迄漲り詰めたる気力が急に弛みて、暫く何事も手に付かす茫乎として居る内に、晩餐の時刻に近づいた、食卓は青淵先生の注意を以て、一行の卓子は他のと別にされた、蓋し食事中も種々の打合せや談話等を差支なく為し得る様にとの事からで、他に何の理由も無いのである
一体食卓には「タキシート」を着用する様にとて、一行凡て出立前用意した事であるが、今日は乗船の日で行李等も十分解く遑が無いからとて、皆平服のまゝで出席したが、見渡せば西洋人も皆略服であつた「メヌー」にある料理の名前が読めぬ為に、第一の料理から順次に指したら良いだらうと思ふて、三四種もあるスープを皆取寄せたと云ふ滑稽の談を聞きし事ありしが、一行食卓給仕の内に紋付羽織袴の日本人と外二名の日本人ありしかば、食事の注文には何等不便を感ずるもの無かりし、聞けば是等日本人は大北汽船会社が一行の為に特に乗組ましめたとの事である、其他のボーイは皆広東辺の支那人なり、是は賃銀の安き為なりと云ふ
午後九時横浜商業会議所及中外商業新報より、青淵先生宛に一行の健康と航海の安全を祈るとの無線電信に接した、即ち先生より感謝の答電を発せられたり
食事後先生及令夫人には甲板上を散歩せられたるが、先生には更に喫煙室に至りて、一行談話の中心と為りて、午後十一時迄を談笑の間に費されたり
平常寸暇も無く、特に出発前殆と昼夜絶へざる公私の要務に忙殺せられ、其上送別会にて苦しめられたる青淵先生も、此日よりは信書の往復も無く、電話の送答も無く、来客も無ければ訪客の必要も無き次第となられしが、胸中嘸ぞノーノーせられたるならんと察せられたり、海上至て平穏なりしが、夜間の炎暑は日中を凌ぐ程にて、容易く眠ること能はず、夢現つゝの間に夜を徹したり、翌朝船員に聞けば室内は百十度なりしと云ふ、青淵先生が横浜出帆に臨み賦せられたる一詩を左に録す
  愛此清風一味真  嗤他満地幾紅塵
  城中昨夜趁涼客  翻作雲濤万里人
玆に船中にて毎日繰り返す日課を述れば左の通り
 浴室を有する船客は、何時にても欲する時入浴を為し得らるれど、其他のものは幾人かにて一の浴場を使用するのである、其入浴順は湯番のボーイが御客の命ずる時刻を適当に按排して定むるので、大
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抵朝食前に限られてある、故に朝は此ボーイに呼び起さるゝ迄は寐て居ても、朝食の時刻に後るゝ気遣は無い、朝寐の人には不都合なり、ソコデ朝入浴の準備出来たと知らさるれば、寐床を出て歯を磨き口を嗽ぎ、直に湯室に赴く、湯は海水で温熱自在に旋に依りて加減することを得、別に淡水(所謂上り湯)は桶に在り、石鹸とタオルもチヤント備へられてある、浴し了りて船室に帰れば、室附きのボーイは已に寐床を奇麗に片付け、靴を磨き紅茶(又は珈琲)に砂糖にミルクと、バタを付けて焼いたパンを運び置いてある
 夫れから髭を剃り(外人の男子には、腮髭を伸ばした客は一人もない、又之を伸ばし放しで構はぬのは甚だ不潔だと云ふのである)頭髪を梳り、奇麗のホワイトシヤツと、塵を払た折目正しきズボン・チヨツキ・上衣を着用に及んで甲板に出づる迄には、ドウシテモ一時間を要す
 甲板上にて運動しつゝ新鮮の空気を呼吸して居る内に、朝食準備の鑼が鳴り、三十分を経て食卓開始の鑼が又鳴り廻る
 食堂に入り定まりたる卓席に就けば、毎食のメヌーは印刷して卓上に備へられてある、メヌーに書いてある料理には番号が附してあつて、其番号を云へば其料理をボーイが持参して来る、料理は何んでも好むものを取り寄せるのであるが、健啖家は第一号から終りまで食つても差支ないのである
 朝食が午前八時半で、昼食が午後一時、晩食が午後七時半である
 昼食も三十分前に食卓準備の鑼が鳴る、本当なれば夫れから朝と同じ様に、顔手を洗ひ、髪を梳り、服の塵を払ふて居ると開始の鑼が響くと云ふ順序なれども、日本人は其様な事は仕ない
 昼食後先づ往て見んとするものは、日々階段の上に掲示せらるゝ其日の正午に於ける船の地点である、天候・位置・航程・風向総て是で明了である
 お茶の時、是は毎日午後三時半食堂に於て開かるゝので、紅茶と砂糖とミルクの外に、塩煎餅・カステーラ等の菓子が用意されてある時々番茶が出て来るが其味格別である
 食堂に入る時の服装は、朝と昼との両度は詰襟・白服・縞服・無地の服等様々、又靴も赤・白・黒何れにても少しも差支無いが、晩食は左様はいかない、外国人は先づ髭を剃り髪を整ひ、タキシートを着用し、婦人も御作りを為し、礼装に更める、是が本式であるけれども、無頓着な日本人は遑があつても面倒臭がりて、船室内でチヨット髪を櫛けづる位が最上で、服も漸く上衣丈黒服に着換ゆる位が関の山で、コツコツと出掛けて行く(一行は外国人とは別に食卓を囲んであるから、是れでも少しも差支は無かつたのである)
 午後七時晩食準備の鑼が船内を鳴り廻る、やがて七時半ゾロゾロ食堂に進入して食卓に就く、晩食のメヌーは朝や昼とは違つて、料理の数も二十種位ありて一番御馳走が有る、其内で好むものを命ず
 三食共食事は船賃の内に包含されてあるけれど、飲料は別だ、欲するものはボーイに之を命ずれば、直に持て来る、即ち之を伝票に記して遣れば、後に代価を請求に来る
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序に船内各種の設備を述べ置かん
 晩食後より十一二時迄は大抵玆処で費すのである、喫煙室には十数個の卓が配置されて居て、其上に碁盤・将棋盤・西洋将棋、其他内外の各種遊戯の具がある、又傍に酒舗《バー》ありて、各種の飲料煙草を販売して居る
 読書室には備付の各種書冊があり、又信書用紙・封筒・インキ・ペン等が用意されて在る、中々立派のものなり、一行の中には玆処は静かで良いとて、読みに来た序に寝て帰る人もある
 理髪床は外国人が従事して居て、髭剃りが二十五仙(我五十銭)、刈込(髭剃らずに)七十五仙(我一円五十銭)なり、日本の如く髪を刈り髭を剃り、而して髪を洗ひ油を附ければ、夫れこそ一弗五十仙は是非掛るなり、此処にて一寸した日用品は購ふ事を得れども、何分高価にて買ふ気になれず
 次に客室(一等室凡て二人入りなり)を一寸紹介すれば、室内広さは九尺四方位、一方には寝台が上と下と二個あり、下の寝台の下は一尺五寸位あれば、大概のものは之に押し込むを得るなり、其反対の側に三尺程の腰掛が出来しありて、外に洋服其他雑品を容る戸棚あり、化粧鏡・洗面器等奇麗に邪魔にならぬ様装置しあり、又電灯は天井の真ン中に一つと各寝台に一つづゝ備付けられ、呼鈴は寝て居て手の届く処にある、仮令数十日を此一室に蟄居しても格別苦労にならぬ感じがする、実に結構至極なり
八月二十日 金曜日 晴
青淵先生及令夫人にも、昨夜は落着きて眠られざりしと云はれたる、前夜の蒸熱は今朝に繰越され、苦熱甚し、午前七時先生と共に甲板に出でゝ運動を為す、足並を揃へてコツコツと上甲板一等客室の周囲を一巡するときは百八十歩にして、三歩一間の六十間、一町なり、之を六巡して少憩の後前八時食堂に入る
朝食後暫く甲板を運動したる後、先生は読書室に入りて読書せらる
午後二時喫煙室に於て団員の総会を催ふし、各地商業会議所会頭より其地の団員及随行員を紹介したり、原林之助氏中野会頭の声に応じて起立し、之れでも立つて居るなれば御承知を請ふと云はれたるは、頗る振つたる挨拶なりし、右終りて団長たる青淵先生議長となり、一行は日本実業家代表者なれば各自責任を重んじて、一言一句、一挙一動共に慎まざるべからざるは勿論、全員一致の行動を取ること必要なれば、此際委員を設けて是等に注意するの必要あらんかと提議したるに大谷嘉兵衛・土居通夫氏等を始め全員之を賛し、玆に左の委員を選挙したり
 渡米実業団
  団長 青淵先生
  (青淵先生は東京出発前団長に選定せられたるものなり)
  委員長 中野武営氏
  委員 は各地商業会議所会頭協議の上定る事
大北汽船会社より、同社東洋総支配人マツクウヰリアム氏を団員渡航中一切の便宜を与ふる由にて同乗せしめられたるが、同氏の発起にて
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日米両国人より委員を選定し、航海中各種の競枝を行ふて愉快に此航程を過さん事に決す
此日団員の食堂に出づる服装を、特別の場合の外は黒き服なれば、必ずしもタキシートを着せざるも良き事と一決す、青淵先生は平常はモーニングにて出席のことにせられたり
午後三時、大阪枚方に在る陸軍火薬庫爆発して人畜の死傷ありとの無線電信に接す、即刻青淵先生より第四師団長へ見舞の電信を発せられたり
晩餐後喫煙室は先生を中心として談話湧くが如し
此日午後より涼風吹き、加ふるに海上平穏にして心身爽快、恰も海水浴場に在るの感あり
航程正午(十九日午後三時より)二百八十哩、位置北緯三十七度七分・東経百四十三度五分、風向南西
八月二十一日 土曜日 晴
午前二時頃夢うつゝに大雷鳴強雨の音を聞く
青淵先生及令夫人共些しも別条なく元気旺盛なり
朝食前先生と共に甲板運動を試む、先生は朝食後読書室に入りて午前を費されたり
午後一時半団員協議会を開く、前日の議に附せられたる委員の選挙は各地会議所会頭協議の上、左の如く決定せられたり
 委員 土居通夫   西村治兵衛
    松方幸次郎  大谷嘉兵衛
    上遠野富之助 日比谷平左衛門
    佐竹作太郎  岩原謙三
    根津嘉一郎  中橋徳五郎
    大井卜新   西池成義
    左右田金作  伊藤守松
    田村新吉
青淵先生議長と成りて左の議案に付き協議を為す
 一委員の任務を定むる事
 一専門家会を組織して各専門の取調事項に就きて協議する事、専門家の委員長を神田男爵と為す事
 一団長所属の名誉書記を選定する事、但団長の指名に依る事
 一随行員をして可成各其従事の事業に関する取調を為す便宜を与ふる為め、相当の資格を与ふる事
右議事終りたる後、青淵先生には団員は一致の行動を取る為め、外交に関する場合のみならず、其他の場合に於ても個人的に議論又は賛否を為さす、可成委員に協議の上之を為されんことを希望する旨の演説を為されたり
午後三時より、デツキビリヤード競技会開催せられ、甲板頗る賑ひたり、小生は原林之助氏と組みて米人に対抗して大に勉めたれ共、運拙く敗北に帰したり
晩餐前青淵先生と共に甲板を運動する例なれども、濃霧深きを以て止めたり
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夜船長代理ナベン氏、青淵先生始め一同と握手し、且挨拶を為す、同氏の談に依れば、今次の如き平穏の航海は近頃に無き事なり、多分此後も十中九分迄は平穏に終るべしとの事なりし
前夜来濃霧深きを以て、船長は一二分毎に汽笛を鳴らして警戒しつゝ船の進航を為したり
航程正午三百二十五浬、位置北緯三十九度五十八分・東経百四十九度五十分、風北東
八月二十二日 日曜日 濃霧深く晴曇を見分るを能はす、海上平穏なれども霧深く甲板の運動も為し難し、午前巌谷氏一行の年齢調を為す
 青淵先生(七〇)中野氏(六一)日比谷氏(六一)
 佐竹氏(六〇) 根津氏(四九)岩原氏(四六)
 堀越氏(四七) 原氏(五二) 町田氏(四四)
 小池氏(四四) 神田男(五二)渡瀬氏(五〇)
 高辻氏(四〇) 南博士(五〇)熊谷氏(三〇)
 巌谷氏(四〇) 大谷氏(六五)左右田氏(五九)
 原博士(五六) 西村氏(四八)西池氏(四一)
 藤江氏(四四) 土居氏(七二)大井氏(七六)
 岩本氏(三二) 石橋氏(三八)坂口氏(五五)
 松方氏(四四) 多木氏(五一)田村氏(四六)
 伊藤氏(三一) 神野氏(六〇)上遠野氏(五〇)
一昨年来遊したる米国実業家中七十歳以上のもの三名あり、吾一行も均しく三名なリしは奇なり
船室・食堂ともボーイは清国人なるを以て、ブロークンヱングリツシユにても少しも気が置けないで甚だ好都合なり、尤も丁寧の言葉を使つても彼等に通ぜざるなり、故に湯を欲するときはホツトウオーター入浴の場合にはバツスと一喝すれば立処に便ず
晩食後青淵先生の故藍香翁逸話の一節、左右田金作氏の奥様と下女と云ふ落し話、巌谷小波氏の玉取小供と云ふ御伽話あり、一同興を感じ夜の更るを覚えざりし
航程正午三百三十浬、位置北緯四十二度十七分・東経百五十六度二十七分、風南
八月二十三日 月曜日 霧稍薄く漸く日光をすかし見る事を得、青淵先生の読書を好まるゝ事は今更云ふ迄も無き事なれども、二十日以来暇さへあれば船室に在りて、又は読書室に入りて読書せらるゝを常とす、此日も朝食前は甲板運動を為し、其後昼食迄は読書室に在られたり
午後青淵先生の注意に依り、喫煙室にて外国礼義に資する為め、園田孝吉氏著赤心一片と云ふ書物の朗読あり、一同謹で之を聞く、婦人を扶けて食堂に入るの段に於ては、之を実地に練習し度しと希望するもの甚多かりしが、実行することを得ざりし、ソロソロ洋食に飽きて日本料理を希望する者多数と為り、ステワートに談じて一行の持寄品を肴として、此夕日本食会第一回を開く、但一団の人員は十五人に限られたれば、其之に加はることを得ざりしものは、不平を唱へたるもありし、晩食後協議会を開く、青淵先生議長と為り、昨年日本の視察に
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来りし米国太平洋沿岸の実業団体は、日本の各地に於て招待を受けたる際、感謝の意を表する為め日米両国語より成る一の言葉を一同にて唱和したるが、我一行も之と同く彼我共に通ずる壮厳なる一の言葉を定め置き、必要の場合に唱和するの必要あらざるかと提議せらる、一同之に賛成したるを以て、其調査委員として左の諸氏を先生より指名せられたり
  神田男爵   松方幸次郎氏
  岩原謙三氏  渡瀬寅治郎氏
  高石真五郎氏
無線電信は今夜限りにて、明日は通信距離以外に出づるとの掲示ありたり
航程正午三百三十八浬、位置北緯四十四度二十九分・東経百六十三度三十三分、風南


竜門雑誌 第二六二号・第四一―四九頁 明治四三年三月 ○青淵先生渡米紀行 随行員増田明六記(DK320004k-0009)
第32巻 p.70-77 ページ画像

竜門雑誌 第二六二号・第四一―四九頁 明治四三年三月
    ○青淵先生渡米紀行
                 随行員 増田明六記
八月二十四日 火曜日 細雨蕭々
二十三日の正午、北海道函館辺と同緯度の海上を航行し、尚漸次北東に進みしものなれは、今日は朝来寒気身に泌みて、間服にては我慢し切れざる程なりけれは、青淵先生も冬服を着用せられたり
霧未た深くして甲板運動も不愉快なりとて、先生には朝食前より日米交渉五十年史を携へて読書室に入り、午前中を玆に費されたり
喫煙室にては、前日来開始せられたる碁・将棋の競技を始め、五目並べ・十六武蔵・トランプ・闘珠盤等の戦午前中より頗る盛にして、孰れも脇目も触らず夢中の体なり、玆へ甲板に於ける競技委員が順番の来たのに何ぜ出て呉れぬとて怒鳴り込む、又甲板にてはデツキビリヤート・輪投・毬投・競走等の競技中々盛んにして、一等船客総出の賑なり
青淵先生は午後喫煙室に出てゝ碁・将棋等の競技を傍看、批評せられたり
正午航程三百三十五浬、位置北緯四十六度十四分・東経百七十一度四分、風南
八月二十五日 水曜日 細雨蕭々
南風強く船体動揺烈しかりしも、青淵先生・同令夫人共に些も別条なし、先生には不相変午前中は読書室に在られたり
午食後喫煙室に於て、先生の注意に依り、加藤恒忠氏の「ハイカラ振り」の内、宴会作法特に婦人に対する動作、外人と握手の仕方、宴会に招かれたる時の心得方等に関する一節を、一人が朗読して一同謹聴す、是れは西洋婦人の手を取つて食堂に連れて往くとき、注意して裳裾を踏まぬやう、相手の婦人を見失はぬやう、婦人だと思ふて堅く手を握り占めぬやう、食堂にて滑つて転ばぬやう、座席を間違へてまごつかぬやう、結婚と云ふ言葉は使つても可いが、妊娠と云ふ一語は禁物だとか云ふ、種々の注意なり
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堀越氏団員の集会せるを機とし、一言注意し度き事ありとて起つて、一、便処は紳士用と淑女用と区別せられ、明らかに入口に記され居るにも不拘、一行の紳士にして淑女の便処に入らるゝものありとて、西洋婦人より注意を受けたり、本日以後日本語にて入口に其区別を記し置きたれば注意を請ふ、二、大小の便器は夫々備付あれば、万止を得ざる場合の外は取り違ひ無き様注意を請ふ、三、大便実施後は確実に後方のハンドルを押し上げ、必ず之を流失する事、隣室の西洋人其臭気に堪へずとて苦情ありし事、四、西洋大便器は腰を掛けて用を弁ずる仕組なるに、上に上りて日本流に跼むものある為め、次きの人は之に腰を卸す事能はずとて苦情ありたれば注意を請ふ、五、浴場にて日本的に湯槽より湯を掬ひ出して外にて洗ひ、浴場外に流水したる人ありとて苦情を申込まれたり、爾後必ず槽内にて洗ふを請ふと、以上誠に御尤もの演説を試みられたり
甲板では前日来引続きたる競技が益々進行して、今日からはチヤンピオンの仕合となり、競技者も見物人も船の動揺するにも一向平気で居る、喫煙室の方では碁・将棋其他の競技が団員集会の終るを待兼て開始さるれば、又一方では本日正午より明日正午迄の航程浬数の賭が盛に行はれたり
第三回目の日本食会が開かれ、青淵先生・同令夫人も、之に加入せらる、今夜の献立は味噲汁、牛肉と玉葱の煮付、玉子焼に佃煮、之に持寄りの御馳走が海苔の佃煮・味付海苔・辣薑・福神漬・日本酒・日本茶等なり
正午航程三百三十五浬、位置北緯四十七度五十九分・東経百七十八度五十一分、風南
八月二十五日 水曜日 快晴
細雨晴れて天気清朗なれども、風力は昨日より弥増して船の動揺一層烈し、されど青淵先生始め一行は已に十九日より海上に慣れたればにや、船暈を感じたるものなかりし
此日東半球を通過して西半球に入る、即ち西半球の二十五日なり、昨日も水曜日今日も水曜日、一生に一日儲けたる訳なるが、帰航には反対に一日飛び超ゆるから差引損得なくなるなり、今日より経度は西経に移り、日毎減じて往く、午前中北緯四十八度の辺を通過するとき、船員の話に玆は樺太の国境と同緯度の処にて、北方にアリスーシアン群島が見ゆる筈と云はれたるが、双眼鏡を取りて熟視したるも見えざりし、未だ濛気の十分晴れざる故ならんか、名の知れぬ鳥が奇声を発して船を掠む処を見れば、正さしく近くに島があるならんと思はれたり、何しろ北緯四十八度の処を通過するのことなれば、寒気の度合中中烈敷、冬服丈にては迚も我慢し切れず、外套を着て過すに至れり、夜も普通二枚の毛布にては遣り切れず、ボーイに頼んで尚二枚を借りて過したる程なりし
毎夜の日本食調理に余分の手数を要するとてコツク奴不平を喞つ、依つて本日より希望者は一食若干宛支出して之を彼等に与ふる事になしたり
青淵先生は不相変読書に耽られ、時々甲板及喫煙室に於ける競技を傍
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看せらる
正午航程三百十浬、北緯四十九度一分・西経百七十三度三十八分、風西南
八月二十六日 木曜日 晴
前日来の強風少しも衰へす、船体動揺一層甚しかりければ、青淵先生にも一寸不快を感ぜられたりしが、為之食事を廃せらるゝに至らず、三食共に食堂に出でられ、其間読書を廃せられたる事なし
夜喫煙室に於て一品陳列会を開く、但其品は特に其人に限らるゝ必要品(仮令は医師の医療器械の如し)は之を除き、審査委員に於て旅行する何人にも必要と認らるゝものを一等とする事、而して同一の品を出したる者より双方共に一弗づゝの罰金を徴するとの規定なり、集まりたる物品は日本少女の人形・美人絵葉書・己れの小供写真・短刀・ステツキ・化粧道具・爪切・荷物括糸・小楊枝・磁石・体温器・一文銭一緡・按摩棒・旅行枕・懐中晴雨計等にして、審査の結果は懐中晴雨計が一等賞で、小生の出品した旅行枕が二等賞に当選したり
正午航程三百十八浬、北緯四十九度二十九分・西経百六十五度六十一分、風西
八月二十七日 金曜日 晴
風尚止まず、船体動揺依然たり
午前十時青淵先生の船室に於て委員会を開く、先生議長となり、団員一致の行動を取る必要上部署を定め、其事務は団員に嘱托せんとする事を計られたるに、一同異議なし、即ち部署を左の如く定め、其嘱托員は先生に一任する事に決せられたり
 一幹事
 一新聞検閲掛
 一庶務掛
 一会計掛
 一記録掛
 一随行員は各其主人の事務を補助する事
尚一行の上陸後混雑間違等を生ぜざる様、一行の組分を為し、各組に一名づゝの組長を設け、組長は其組員に団長命令の伝達、巡回各地の発着及招待会等に於ける時刻の通知を重なる事務とする事、而して其組分及組長の嘱托は、各地商業会議所会頭に一任の事を決せらる
甲板に於てはチヤンピオン連中の競技盛にして、喝采の声海波を圧倒せん計りなり
一等船客中の米国人を代表してコロラト州議会上院議員ヱー・エム・ステブンソン氏外十一名より左の案内状を受取る
 ミネソタ号に在る日本の親友に一書を呈す
 本船に乗組める米国人を代表して、下記のものは我々の海岸に接近したる此際に於て、我国に来遊せらるゝ日本実業団一行を誠心誠意を以て歓迎せんと欲す、依て此歓迎の意志を表し、且我国を愉快に旅行せられん事を希望し、玆に茶菓を用意致候に付き、来二十八日午後三時半喫煙室に御来会被下候はゝ幸甚に候
  千九百九年八月二十七日ミネソタ号に於て
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             コロラト洲デンバー市
                 ヱー・ヱム・ステブンソン
             ニユーヨーク市
                   ヱス・ヱル・セルデン
             横浜、大北鉄道会社支店
               シー・ヱフ・マツクウイリアム
             同市在留
                 ジヱー・アール・ゲーリー
             モンタナ州ヘレナ市
                  ダブリユー・ワーレース
             加州サンフランシスコ市
                      ヱータルボツト
             コロラト州デンバー市
             ドクトル、ヱス・デー・ホプキンス
             ワシントン州スポケーン市
                陸軍大尉ジヱー・ホツトマン
             マニラ市
                    ダブリユー・ロード
             同
               ジヱー・ダブリユー・クイレン
             同
                   アール・ヱム・ロパー
             アリゾナ州ホニツクス市
               ジヱー・ダブリユー・ドーリス
右に対し青淵先生より直に其厚意を謝し、且当日は一同必ず欣然参会する旨回答せられたり
正午航程三〇八浬、北緯五十度十二分・西経百五十七度三十五分、風北西
八月二十八日 土曜日 曇
午前九時団員総集会を開く、青淵先生議長席に就き、前日委員会に於て協議せられたる各地組分及組長氏名を、各地商業会議所会頭より如左報告せられたり
 東京(三組)
  甲組 組長原林之助氏
   青淵先生・同令夫人(随行員増田明六氏・同高梨タカ子氏)中野武営氏(随行員加藤辰弥氏)堀越善重郎氏・同令夫人・原林之助氏(随行員田辺淳吉氏)
  乙組 組長高辻奈良造氏
   神田男爵・同令夫人・日比谷平左衛門氏(随行員飯利来作氏)岩原鎌三氏・渡瀬寅治郎氏・高辻奈良造氏・南鷹次郎氏・町田徳之助氏
  丙組 組長巌谷小波氏
   佐竹作太郎氏(随行員名取和作氏)根津嘉一郎氏(随行員上田碩三氏)小池国三氏(随行員飯田旗郎氏)巌谷小波氏・熊谷岱
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蔵氏
 大阪 組長高石真五郎氏
   土居通夫氏以下九名
 京都及名古屋 組長西池成義氏
   西村治兵衛氏以下六名
 横浜 組長大谷嘉兵衛氏
   大谷嘉兵衛氏以下六名
 神戸 組長田村新吉氏
   松方幸次郎氏以下四名
尚来る三十日午後九時より食堂に於て本船一等船客の米国人男女一同の招待会を開く事、及其案内状は青淵先生団長の資格を以て発する事と議決せられたり
右終りて青淵先生・同令夫人外実業団員一同は、午後三時より米国人に依りて催ふされたる招待会に臨みたり、来会者は内外人合せて約百名、会場は喫煙室にて之に国旗を以て装飾し、各卓子には菓子とサンドウイツチ山の如く盛られて在り、三鞭酒が注いて廻られると、主人側総代上院議員ステブンソン氏先づ起ちて挨拶を為し、我 天皇陛下の万歳を祝し、且実業団の健康と成功を祈る、堀越善重郎氏之を和訳す、次ぎて青淵先生団を代表して答辞を述べ、米国大統領タフト氏及前大統領ルーズベルト氏の万歳を祝し、且本船米国人の健康を祝す、神田男爵之を英訳す、次ぎは中野武営氏各地商業会議所を代表して謝辞を陳べ、高石真五郎氏之を英訳し、夫れより神田男爵の英語演説、セルドン氏・マツクウイリアム氏等の演説数番あり、和気靄々室に満ち五時半解散せり
夕食後青淵先生は喫煙室に於て碁・将棋の傍看批評に余念無かりし
正午航程三百二十二浬、北緯五十度十八分・西経百四十九度十四分、風北西
八月二十九日 日曜日 強雨
此日南風強く、其上強雨にて船体動揺烈し
午前十時よリ団員総集会を開く、青淵先生議長席に就き、去二十七日委員会に於て議決したる団務の部署を報告し、且其取扱員を左の如く指名嘱托したり
 一幹事は団長に直属して左の事務を取扱ふものとす
  一応接 新聞記者其他来訪外人に関する事項
  二儀式 招宴歓迎等に応する事項
  三文案 文書の往復事項
  四右の外団長直轄事項
 一新聞検閲掛は左の事務を取扱ふものとす
  一本団に関する記事及日本よりの諸報告を検閲する事、但参考の為め他の重要なる新聞雑誌を閲読する事
  二検閲したる事項は毎日団長に報告する事、但団長に於て必要と認めたる事項は、団員に報告することあるべし
  三新聞雑誌の種類は会計掛へ申出、其購入を求むるものとす
 一庶務掛は左の事務を取扱ふものとす
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  一団長の命令・訓示、其他の必要事項を団員に伝達する事
  二団員の意見又は希望を団長に建議する事
  三団員相互の便宜を計り、努めて意志の疏通を謀る事
  四右の外団長より命せられたる事項
 一会計掛は左の事務を取扱ふものとす
  一旅行中の費用は勿論各自の自弁に属すれども、共同費用に係るものは、団員の醵出金を保管して之より正当の支払を為す事
  二共同費用に充つる為め団員より醵出金を徴収する事、但第一回の醵出金額は如左する事
   一正賓百弗(夫人は其半額)
   一専門家七十五弗(同其半額)
   一随行員五十弗(婦人随行員は其半額)
  三支払は中野委員長の指揮に依る事
  四第一回醵出金にして不足の場合には、会計掛員協議の上其必要額を予定し、団長の同意を得て団員より徴収する事
 一記録掛は左の事務を取扱ふものとす
  一本団日々の重要事項を記録し、且本邦に通信を為す事
次ぎに青淵先生より、前記部署の事務取扱員を左の通指名嘱托したり
幹事 中野武営・松方幸次郎・岩原謙三・堀越善重郎・頭本元貞の諸氏
新聞検閲掛 頭本元貞・石橋為之助・高石真五郎・西池成義の諸氏
庶務掛 大谷嘉兵衛・上遠野富之助・渡瀬寅次郎・松村敏夫・田村新吉・高辻奈良造・西池成義の諸氏
会計掛 佐竹作太郎・土居通夫・日比谷平左衛門の諸氏
記録掛 巌谷小波氏
右終りて日比谷平左衛門・高辻奈良造両氏の鐘淵紡績会社に於ける職工の状態に関する講話ありて、且兼て団長より団員は個人的に議論又は賛否を為さざる様との注意に依り、之を諸君に計ると前提して、先きに米国より照会を受けたる日本労働問題に関し、質問を受けたる際は、同社職工の状態を以て、日本に於ける労働者の状態として答弁するも差支無き哉の提議あり、青淵先生は、此一事を以て日本労働者の状態と云ふ事を得ざるべきも、紡績業に従事する日本の労働者は如此状態なりと云ふ位は、敢て差支無かるべき乎と一同に諮りたるが、甲論乙駁の後、遂に代表的意味に於て之を使用するは不可なりとの事に決す
正午航程三百三十二哩、北緯五十度十八分・西経百四十度二十分、南風
八月三十日 月曜日 曇
風収まり浪平かなり
午前十時団員総集会を開き、青淵先生議長となり、実業団の覚書を討議し、左の如く決定す(上陸の日近きに在り、毎日委員会ヤラ、総集会等が開催せられ、青淵先生は頗る多忙なり)
    渡米実業団覚書
 一本団を渡米実業団と称す
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 二本団は米国太平洋沿岸商業会議所の招待を受け渡米する一行より成る
 三本団に団長一名・委員長一名・委員若干名を置き、団員の部署を定め、其規程を設け、以て団務を処理すべし
 四団員は凡て団長の指揮に服従すべきものとす
 五団員は各々自重して其言行を慎み、専ら日米両国の親善を進め、通商の発展を期すべし
青淵先生は、覚書第五項を敷衍して、本団は愛国心を以て精神とすべし、本団の後方には日本国民あることを忘る可らず、愛国心を精神となして、誠心誠意事に当れば、何物か之に抗するものあらざるべしとて、言忠信行篤敬雖蛮貊之邦行矣と古語を引いて、懇切なる注意を与へられたり
今夜九時食堂に於て米国人招待会を催ふし、其席上此間中の競技優勝者に対する賞品授与式を執行し、夫れより左記順序に依りて招待会を開催する都合なれば、是に出演する人々は其稽古にて大騒ぎなり
    ミネソタ号同船 米国人招待会順序
      第一部
 一挨拶          渋沢男爵
 一答辞          スチブンソン氏
 一合唱及奏楽(三曲)   米国紳士淑女有志
 一仕舞(羽衣)      舞伊藤守松氏 スケ中野武営氏
 一合唱及奏楽       米国紳士淑女有志
      第二部
 一謡曲(松風)      高辻・町田・田辺・西村・西池・石橋・巌谷・飯田の諸氏
 一バイオリン独奏(一曲) 米人ホープ嬢
 一ピアノ独奏(一曲)   同パラシス嬢
 一剣舞(鞭声)      斎藤修君
 一狂言(太刀奪)(英語) 大名高石氏 冠者飯利氏 武士上田氏
 一君が代         日米人一同
      散会
午食も済み晩餐も済むと、食堂は委員とボーイ総掛にて食卓を片付けるやら、装飾を為すやらにて一時大混雑なり、軈て定刻前に至れは見紛ふ計り立派となり、天井は各国の国旗を以て縦横に張られ、四方は日米両国旗にて装飾され、迚も船中の食堂とは思はさる程なり、定刻に至れば米賓を始め、船長並重なる船員及実業団一行何れも男女盛装して参会した、其数百幾十、先以て競技会の優勝者に対する賞品授与式を執行し
 米国人の優勝者には、青淵先生令夫人の手より賞品を授与し
 日本人の優勝者には、セルデン令夫人の手より賞品を授与せられたり
右拍手喝采を以て始り、拍手喝采に終り、次に招待会に移り、簡単併し意を込たる小宴の後、青淵先生先づ起て挨拶を為し、且現大統領タフト氏及前大統領ローズベルト氏の健康を祝し(神田男爵英訳)次にステブンソン氏答辞を述べ、且我 天皇陛下の健康を祝す(堀越善重
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郎氏和訳)尚此席に於て船中の優待に対し、一行より大北鉄道会社長ヒル氏に宛たる感謝状を朗読し、且船長代理に感謝状を送呈したり、(同社にては一行の賃金を半減にしたり)之にて式を終り、余興に移る、西洋人の合唱・奏楽・独奏、何れも手に入つた者、伊藤氏の舞、中野氏のスケ、連中の謡曲、斎藤氏の剣舞は遣り度て耐らぬ人々だけありて上手の者なり、狂言太刀奪は先づ其大体の筋を神田男爵西洋人の為に説明して、夫れから遣つた故に西洋人も腹を抱いて大悦び、是が終りてホープ嬢の弾奏にて君が代を一同合唱し、之にて式を終り、主客大満足の後午後十二時半散会したり
明日は愈々シヤトル入港


竜門雑誌 第二六三号・第五九―六〇頁 明治四三年四月 ○青淵先生米国紀行 随行員増田明六記(DK320004k-0010)
第32巻 p.77 ページ画像

竜門雑誌 第二六三号・第五九―六〇頁 明治四三年四月
    ○青淵先生米国紀行
                随行員 増田明六記
八月三十一日 火曜日 晴
目醒むれば両舷に陸地を見る、一行の勇気百倍す、何れも我劣らじと双眼鏡を手にして甲板に起てり
午前十時大北鉄道会社々長ジヱームス・ヒル氏より無線電信にて祝詞を寄せらる、即団長たる青淵先生の名を以て返電を発す、正午頃より祝電頻りに来る、シヤトル博覧会○アラスカ・ユーコン太平洋博覧会帝国事務官織田一氏より「明九月一日夜一行を招待して日本料理(すき焼)の饗応を為さんとす」と云ふ電報達す、一行雀躍したり
午後三時、大北汽船会社支店より、本船に乗組める一行の接待員マツクウヰリアム氏宛電報あり、曰はく米国税関の好意を以て、日本実業団員の行李は一切関税せずして無税通過となれり
午後四時ポート・タウンセントに入港す、定規の検疫ありしも、一行中には一人の病傷者なし、検疫終るを待兼ねて紐育総領事水野幸吉・シヤトル領事田中都吉・シヤトル博覧会事務長官織田一・頭本元貞及び華盛頓州日本人会長高橋轍夫・博覧会出品協会事務長竹沢太一・新聞記者土屋霊水・高畠淡影の諸氏を始め、シヤトル商業会議所議員エム・エフ・バツカス氏、ジヨイ・プレセン氏を始めとし、其他重立ちたる実業家・新聞記者等陸続上船して青淵先生を包囲し、彼の祝辞、先生の答辞、互に換はす握手の内に、はや日米両国の親善頓に親厚なるを覚ゆ、蓋し先生の此の間に於ける歓喜亦極まりしならんと察せられたり、夕餐は是等歓迎人と共に食堂に於て会食す、午後先生には、中野委員長と共に歓迎の為め上船したる水野・田中・頭本の諸氏と相会し、明朝上陸の際に於ける種々の打合せを為す、即ちシヤトル商業会議所議員並に官民有志一同の歓迎会に関する事、来訪新聞記者に対する事等其主なるものなりし、是等打合済したる後、青淵先生には歓迎会に於ける答辞の立案、来訪新聞記者に配布する渡米実業団の主意及び米国に対する感想等の起章を為し、深夜就臥されたり
来船の歓迎員は一同船中に一泊せり
○下略

 - 第32巻 p.78 -ページ画像 

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第七五―八六頁 明治四三年一〇月刊(DK320004k-0011)
第32巻 p.78-81 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第七五―八六頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編本記
    第二章 渡航日誌
八月十九日(木)晴
 午前十時三十分、特別列車を以て新橋停車場を発す。一行已に四十余人、各方面の見送人、実に万を以て算ふべく、さなきだに広からぬ新橋停車場は為めに破れんばかりなり。十一時八分横浜着。各自便宜休憩の後、午後一時税関上屋に集合し、此処にて告別の上、大北汽船会社のミネソタ号に乗組む。見送りの男女尚ほ堵の如し。始め此等の人々は、皆波止場にて告別し、船迄は来らざる手筈なりしも、桟橋に用意せる小蒸汽の案外多数なりし為め、一同之に乗りて船内まで見送りに来りたれば、さしもの大船亦た為に充溢して、頗る雑踏を極めたり。午後三時三十分解纜出発す。見送人は尚小蒸汽大伝馬に分乗し、旗を立て楽を奏しつゝ、港外まで尾航して別を惜めり。此日残暑甚しきも風浪穏なり。
八月二十日(金)曇時々驟雨
 中食後総員喫煙室に集合し、各商業会議所会頭、各地の正賓・専門家及び随員を互に相紹介し、後団長の指名にて、中野武営・土居通夫・西村治兵衛・松方幸次郎・大谷嘉兵衛・上遠野富之助・日比谷平左衛門・佐竹作太郎・岩原謙三・根津嘉一郎・中橋徳五郎・大井卜新・西池成義・左右田金作・伊藤守松・田村新吉等の諸氏を委員に選定せり。
 大北汽船会社の東洋総支配人マクウイリアムス氏本船に同乗し渡航中一切の便宜を謀る由を告ぐ。尚同氏の発起にて、同乗の日米人間より委員を選出し、渡航中各種の競技を行ふことに決す。即ち一行中よりは高辻・名取・加藤三氏委員に選まる。尚右に付各有志より醵金して、之に対する賞品を購入す。
八月二十一日(土)晴
 中食後喫煙室に総会を開き、専門家委員会を組織するに決し、神田男を委員長に推し、即刻委員会を開催して、各専門家の取調希望事項を委員長手許まで差出す事に決す。午後三時無線電信を以て、
 『大阪府下枚方火薬庫爆発、人畜死傷の事』を報じ来る。即刻団長より第四師団長宛、土居氏より大阪府知事宛にて、見舞の電報を発す。
 今日より各種競技始まり、甲板には『シヤフルボード』・輪投等に、勝負を争ふ声賑はしく、又喫煙室には囲碁・将棋に雌雄を争うて余念なし。今夜喫煙室に於て、船長代理ラベン氏一行に挨拶を為す。
 八月二十二日(日)曇
 試みに一行の年齢を取調ぶ左の如し。
 渋沢男―七〇 中野―六一  日比谷―六一 佐竹―六〇
 根津―四九  岩原―四六  原―五二   町田―四四
 小池―四四  神田男―五二 渡瀬―五〇  高辻―四四
 南博士―五〇 熊谷―三〇  巌谷―四〇  大谷―六五
 左右田―五九 原博士―五六 西村―四八  西池―四一
 - 第32巻 p.79 -ページ画像 
 藤江―四四  土居―七二  大井―七六  岩本―三二
 石橋―三八  坂口―五五  松方―四四  多木―五一
 田村―四六  伊藤―三一  神野―六〇  上遠野―五〇
 名取―三七  飯田―四四  飯利―三九  増田―三六
 加藤―二五  上田―二三
 大阪の大井氏(七十六)を最年長とし、東京根津氏随員上田氏(二十三)を最年少者として、平均四十六歳強なり。且つ去年来遊せし米国実業家団体にも七十歳以上の老人ありしが、今回の一行にも、七十歳以上三人あることを認む、曰く大井氏(七十六)土居氏(七十二)渋沢男(七十)又奇と云ふべし。
八月二十三日(月)曇
 本日無線電信故障ありて通ぜず、中食後は喫煙室に総会を開き、高石氏団長の命にて園田氏著『赤心一片』の一節、西洋の交際法を朗読す。
八月二十四日(火)曇
 無事
八月二十五日(水)曇時々小雨
 中食後、名取氏大阪新報所載、加藤恒忠氏の「ハイカラぶり」を朗読す。
同上
 東西両半球の境界を過ぐるを以て、玆に同日の重なれるに逢ふ。土居氏句あり、曰く『徒然の拾ひ物なり秋一日』
八月二十六日(木)晴
 中食後総会に於て、神田男シヤトル博覧会の状況、同市の形勢に付て、一場の講話を為す、夜喫煙室に一品会を開く、各自所持品を持ち寄り、其傑出せる者に賞を与ふる事とす。田村氏出品、懐中バロメートル、第一の選に入る。
八月二十七日(金)曇
 午後食堂に委員会を開き、団長各分担を定めて、左の如く各員に通知す(団長指名)
 「幹事」中野・松方・堀越・頭本、「庶務」大谷・上遠野・渡瀬・松村・田村・高辻・西池、「会計」土居・西村・佐竹・日比谷、「新聞検閲」頭本・高石・石橋・西池、「記録」巌谷、
 同船米国人一同より、明日午後三時、我が一行を招待して、喫煙室に小宴会を開く由申込あり。即ち団長指名にて、神田男・岩原・松方三氏之に対する諸般の打合をなす。
八月二十八日(土)曇
 本日一行を七組に別つ。即ち東京を甲乙丙三組と為し、横浜を第四組、京都・名古屋を第五組、大阪を第六組、神戸を第七組と為す。
 各組に理事を置く、左の如し。
 東京甲(原林)乙(高辻)丙(巌谷)横浜(大谷)京都・名古屋(西池)大阪(高石)神戸(田村)
 中食後食堂に総会を開き、原林氏「ベデカー抄訳に就て」米国旅行心得及「シヤトル市形勢」を朗読す。
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 午後三時半、団員一同喫煙室に於ける米人の招待会に臨む、米人側より、発起人代表者デンバア市撰出上院議員スチブンソン氏挨拶(堀越氏通訳)あり、之れに対して渋沢男答辞(神田男通訳)を為し其の他神田男の英語演説、米人有志の演説等あり。三鞭の杯を挙げて、主客の健康を祝し、四時後散会す。
八月二十九日(日)雨風
 午前食堂に総会を開き、続て分科会に移り、各申合を起草す。左の如し。
    会計掛申合○略ス
    庶務掛申合
一、庶務掛は左の事務○略スを掌るものとす。
二、庶務掛に係長一人を置き、大谷君を推薦す。
    幹事申合
幹事は直接団長に属して、左の事務○略スを取扱ふものとす。
    記録掛申合○略ス
    新聞検閲掛申合
  ○一―三前掲ニツキ略ス。
四、頭本元貞君を掛長に推薦す。
 午後総会を開き、高辻氏『鐘ケ淵紡績会社労働者取扱に就て』一場の講話を為し、団員の賛同を需む。
八月三十日(月)曇時々雨
 午前団長室に幹事会を開き、渡米実業団覚書を起草す。左の如し。
    渡米実業団覚書○略ス
 午後喫煙室に総会を開き、覚書及各分科申合を披露す。会計係の申出に依り、各員共同資金を定め、第一回分として其半額を納め、名取氏之を保管する事とす。其割合左の如し。
 正賓金百弗 専門家金七拾五弗 随員金五拾弗 婦人半額夜九時より、同船者米国人男女一同を食堂に招待し、留別の宴を開く。渋沢男の挨拶、スチブンソン氏の謝辞、代理船長への感謝辞、及競技会賞品授与式等を行ひ、次で余興に入る。
八月三十一日(火)晴
 午前より両舷に陸地を見る。正午頃より無線電信頻りに来る、左の如し
 一、水野総領事より、田中領事・頭本氏とポート・タウンセンド迄出迎ふ事。
 二、織田博覧会事務長官より、明一日夜一行を招待して、日本料理(スキ焼)の饗応をする事。
 其他大北鉄道会社長ジェームス・ヒル氏、(沙市)華州日本人会長高橋徹夫氏、晩香坡田村商会、桑港川崎巳之太郎氏等より続々歓迎の辞を寄せらる。此中ヒル氏に対しては、直ちに団長より答礼の返電を発す。
 沙市大北汽船会社支店より、本船接待員マクウィリヤムス氏宛の電報によれば、税関の好意を以て、団員の行李は一切検閲せざる由なり。
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 午後四時ポート・タウンセンドに着、定規の検疫ありしも、一人の病傷者を出さず。此際水野紐育総領事・田中沙市領事・織田博覧会事務官長・竹沢同事務官・頭本元貞氏・高橋華州日本人会長・土屋旭新聞主筆・藤高畠北米時事主筆等を始め、米人側にては、沙市商業会議所接伴員バツカス氏等出迎に来る。
 夜、食堂に団長・幹事等、上記出迎の諸氏と会して、上陸の打合を為し、明朝沙市着、午前七時本船に歓迎式を行ふに付き、其準備の為め、団長・委員長及幹事の協議深更に及ぶ。此夜出迎の諸氏一同船中に泊す。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五五四―五五五頁 明治四三年一〇月刊(DK320004k-0012)
第32巻 p.81 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五五四―五五五頁 明治四三年一〇月刊
 ○第三編第三章感謝の決議
    第四 往復汽船に対する決議
甲 汽船「ミネソタ」号に関する感謝の決議(原文英語)
千九百九年八月二十七日「ミネソタ」号航行中、日本渡米実業団員は左の決議を通過したり。
 「吾人は大北汽船会社々長ルイス・ヒル氏に対し、我団渡米の航海中、『ミネソタ』号の船長及船員の任務に忠実なること、及経営の行き届きたることに対し、吾人の深厚なる認識を表す。尚ほ吾人は本船の船長及船員が、我一行に対し安全且つ愉快なる航海を為さしめんが為めに万般の手段を講ぜられたること、及行届きたる親切に対し感謝の意を表すること。
 一行は前述の汽船会社代表者シー・エッチ・マックウィリアム氏が特に一行の為めに航海を倶にし、又旅中の愉快を図り、一行の求むる処に応ぜられたる配慮に対し感謝の意を表す。」



〔参考〕太陽 第一五巻第一三号・第一―二頁 明治四二年一〇月 実業家諸氏の渡米と日米関係 法学博士浮田和民(DK320004k-0013)
第32巻 p.81-83 ページ画像

太陽 第一五巻第一三号・第一―二頁 明治四二年一〇月
    実業家諸氏の渡米と日米関係
                 法学博士 浮田和民
今や我が渡米実業家諸氏は、米国の彼方より彼方に、歓迎又た歓迎せられて彼我の厚誼旧年に異ならざることを証明しつゝあるは、日米両国民の為めに甚だ慶賀す可き事なりとす。去る八月十九日一行の新橋を出発するや、大隈伯は見送りの群集を打眺めつゝ、是れ則ち時勢が実業家に重きを措き来れる嘉徴なりと申されたる由、而して国民新聞記者は大隈伯の観察に同感を表したる後、更に一歩を進めて考ふれば是れ蓋し日本国民が米国民に対する友誼の表現に外ならずと附言せり余は大隈伯並に国民記者の観察に加へ、是れ我が国民が始めて現代の外交は単に政府と政府との交渉に非ずして、実に国民と国民との関係なること実際に認識したる近来の一大快事なりといふを憚らざるなり
過去十九年間立憲制度の形式は有り乍ら、我が行政各部の行動は依然として専制時代の旧態を存し、従来外務省のごときは、外交を以て単に外務省の独占事業と思ひ、外交上の成敗一に省内の私事に似たるの観ありしが、今回実業家諸氏の渡米するや、外務当局者は特に之れを引見して、之れに外交上の重要事件を委嘱し、其の尽力に依りて日米
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の旧交を温め、彼我の関係を円満ならしめんことを希望し、剰へ一行は午餐を賜はり、国民の熱誠なる好意に送られて発途したり。去れば此の一行は恰かも国民を代表する平和全権大使の資格ありと称するも亦た強ち誇張の言にあらざるなり。顧ふに明治四年特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允・大久保利通・伊藤博文諸公以下総員四十八人を欧米に差遣せられし以来、重大なる国命を帯びて、多数海外に渡航せるもの、今回の一行五十余人に若くはなかる可し、岩倉全権大使の一行は直接その目的とせし使命を成就すること能はざりしと雖ども、是れより内治を改革して漸次外交に及ぶの国是を定め、遂に今日の成功を見るに至れり。今回渋沢男・中野氏等の一行が如何なる結果を齎らし帰る可きかは、猶ほ将来の実蹟に徴せざる可からずと雖とも、国民は此一行が尋常一様の遊歴に非ずして、日米の前途に重大なる関係あることを看取したり。某新聞は、小村外相が一行の発途に先だち一行に向ひ左の如き意見及び希望を開陳したること報道せり。
 諸君、日米関係は過去五十余年親交を続け来りたるが、近来動もすれば其親交の危殆に陥らんとするが如き風聞を流布するものありと雖も、日米の関係は実際何等蟠る所ある事なし、然れとも外間の離間中傷は絶えず其働を止めたる事なかりしため、遂に我政府は日米親善の誠意にして永久的なる事を表彰せんため、去年十一月日米協約を協定せり、コハ唯日米両政府互に有せる従来の意思を文書に表はしたるに過ぎずして、該協約が新関係の発端といふにあらず、之を要するに日米間を離間せんとする題材に充てらるべきものは、太平洋覇権問題と移民問題なりとす、而して太平洋問題に就ては我が帝国は誠実の意思を有し、一時中傷者の云ひ触れたるが如き比律賓布哇占領などと云ふ事には思ひ到らざる所にして、要は平等公正の精神を以て太平洋における現状を維持せんとするにあり、米国政府又能く之を解し、日米協約に現はれたる所は即ち此の精神を公にしたるに過ぎず、而して移民問題に至つては既に日米両政府の間に十分なる了解あり、今日にては何等の懸案となり居るものにあらず、而して我政府の確立せる方針亦益同問題を容易に解決せしめ、殆ど誠意を示すに便あり、由来外国に移民を奨励するてふ政策は、日露戦争前までは我国の力めてたる所なれども、日露戦争後我国は一島国より変じて大陸国となれり、而して之を政治上・経済上より見るに斯く大陸国となりたる我国は最早人口の増加を憂るに足らず、否人口の増加する程其勢力を増加する所以にして増加したる人口は之を東洋方面に集中して、東洋に於て拡大したる勢力の支持を計らざるべからず、之れ我国が人口を自国附近に集めて置かざるべからざる理由とす、又経済上よりいふも、我国が外国と商工業の競争をなして優秀の点は、労働の著しく低廉なる事にあり、コハ他の点において材料といひ機械といひ、劣等なるにも拘らず、我の能く競争に堪へ得る所以なりとす、されば此優秀なる点を失ふは、我商工業に取りて非常の損失といはざるべからず、此点よりいふも、我人口の我国附近にある事を最も利益ある事とす、而して我政府は此処に鑑みる所あり、従来の海外移民奨励の政策を捨てゝ、我帝国附近の開
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拓経営に力を用ひんとす、現に三月以来米国に移民するものゝ数の著しく減じたるも、此の方針に基けり、されば我が国が米国と解意せる移民制限は、正直誠実に之を行ふ事を得るや、言を須たざるなり、終りに将来日本商工業の大顧客たるべき国は、世界中米国と清国と二国より外にあらず、されば諸君は之を心に置きて、渡米後も十分将来貿易の隆盛を計る道を研究されん事を望む、云々
○下略