デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.99-141(DK320007k) ページ画像

明治42年9月6日(1909年)

是日、栄一等一行、渡米実業団ノタメ特ニ用意サレタル「百万弗列車」ニテシアトルヲ発シ、タコーマ、ポートランド、ヴァンクーヴァー、スポカン其他ノ諸市ヲ巡回ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK320007k-0001)
第32巻 p.99-102 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年(渋沢子爵家所蔵)
九月五日 晴 暑
午前七時起床、入浴シ、畢テ支度ヲ整ヒ、事務室ニ於テ一行ノ事務ヲ処理ス、八時朝飧ヲ食ス、後此地ノ寺院ニ抵リテ説経ヲ聞ク、会衆凡二千人余、頗ル謹厳静粛ナリ、牧師ノ演説畢リテ十一時過キ旅館ニ帰リ、十二時自働車ニテ湖水ヲ隔テタルクライス氏ノ農場ニ抵リ、乳牛飼養ノ実況ヲ見ル、一時過キ同農場ニテ午飧シ、牛舎及農場等ヲ一覧シ、午後五時帰宿、更ニ衣服ヲ更メテ、ローマン氏ノ晩飧会ニ抵ル、兼子ハ病気ニテ欠席ス、近親十数名ヲ会シテ懇篤ナル宴アリ、午後十時直ニ汽車場ニ抵リ、一行ニ充テタル特別列車ニ搭シテ、払暁シヤトルヲ発シテタコマニ向フ、此汽車ハ米国巡回中一行ノ為メ特ニ設ケタル列車ニシテ、各部屋・客室・食堂等マテ整頓シタル最上等ノモノナリ、以テ一行ヲ優待スルノ鄭重ナルヲ知ルニ足ル
九月六日 晴 冷
午前六時頃ヨリ汽車進行ヲ始メ、七時半タコマニ抵ル、八時支度ヲ整ヒ、汽車中ノ寝室ヲ出テ汽車中二テ朝飧ス、汽車タコマヲ過キ森林中ノ停車場ニ抵ル、是ヨリ先キ水力電気工場ヲ一覧ス、弐万八千馬力ヲ
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得ルト云フ、一覧畢テ森林中ヲ進行シ、レニヤ山行ノ小汽車ニ乗替ヘ山中ノ氷塊一覧ノ筈ナリシモ、兼子昨日ヨリ少シク所労ナルヲ以テ、氷塊一覧ノ事ヲ見合ハセ停車場ニ休憩ス、夜食後車中ニテ、山林伐木ノ事ニ関シ種々ノ質問ヲ為ス、此夜汽車中ニ於テ就寝、此夜ハ一行多ク氷塊一覧ノ為メニ山中ニ行キタルニヨリ、汽車中僅ニ数人ヲ止ムルノミニテ、頗ル寂然タリキ
九月七日 晴 冷
午前七時起床、支度ヲ整ヒ汽車ノ観覧室ニ抵リ、堀越・増田等ト共ニ車中ノ食堂ニテ朝飧ス、後車ヲ下リ近傍ニ石炭山ノ採掘事務アルヲ聞キ、小邱ヲ上リテ一覧ス、東部資本家ノ経営ニ係ルト云フ、目下試掘中ニテ一日六七噸ヲ出スモ、他日ハ数百噸ヲ採掘シ、コークスヲ製造スル見込ナリト云フ、午前十一時頃昨日レーニヤ氷山一覧ノ為メ出向キタル一行帰着シ、余等ノ下車セシヲ知ラスシテ発車ス、依テ電報ニテ汽車ヲ其地ノ停車場ニ呼戻シテ乗車ス、午後一時午飧、二時過タコマ市到着ス、ホテル・タコマニ投宿ス、小休後商業会議所ニ抵リ、会頭・会員十数名及市長モ来会シテ歓迎ノ挨拶アリ、依テ一言ノ答詞ヲ為ス、畢テホテルニ帰リテ夜飧ス、夜七時半此地ニ在住スル日本人ヨリ一場ノ演説ヲ乞ハレタルニヨリ、音楽堂ニ抵リ演説ス、八時半ホテルニ帰リ、兼子ト共ニ当地ノ有志者ハイド氏ノ催ニ係ル接伴会ニ出席ス、兼子モ同伴ス、来会者頗ル多ク、音楽ノ余興、茶果・氷菓等ノ饗応アリ、夜十一時散会帰宿ス
九月八日 半晴 冷
午前六時半起床、入浴シ、畢テ支度ヲ整ヒ事務所ニ抵ル、八時堀越夫妻其他ト共ニ朝飧シ、後事務所ニ於テ当務ヲ協議ス、十時半一行中ノ十数名ト製材工場ヲ一覧ス、株式組織ニシテ、当地商業会議所会頭グリツグス其社長ナリト云フ、規模宏大ナリ、利益モ饒多ナリト、土地ノ面積弐百エーカー余ニシテ、数ケ所ノ貯木池アリ、動力ハ蒸気ニテ弐千五百馬力ヲ有スト云フ、大小種々ノ製材自由ナリ、畢テ再ヒ自働車ニテ木製水道管製造工場ヲ視ル、規模小ナレトモ工場ハ整頓セリ、製出ノ木管外部ハテールヲ塗ルモ、内ハ原質ノ儘ニテ五十年余保存スト云フ、一覧畢リテホテルニ帰リ休足ス、午後一時半市内ノ商業倶楽部ニ案内セラレテ午飧会アリ、食卓上主人側ノ挨拶ニ応シテ一場ノ食卓演説ヲ為ス、後田中・頭本二氏ト共ニ、市長及倶楽部ノ副会長ノ自働車案内ニテ、市街及公園其他ヲ遊覧ス、午後五時帰宿、七時ホテルタコマニ於テ当地商業会議所ノ催ニ係ル宴会アリ、会頭グリツグス司会者トナリテ、食卓上挨拶アリ、依テ答辞演説フ為ス、後土居・中橋松方等ノ演説アリテ、米国人ヨリ二人ノ演説アリ、十二時散会、直ニ汽車ニ乗込、タコマヲ発ス
九月九日 晴
午前七時起床、汽車既ニホルトラントニ着ス、支度ヲ整ヒ車ヲ下リ、歓迎員ノ案内ニテ先ツホルトランド・ホテルニ抵リ、朝飧ヲ食ス、後電車ニテ市街ヲ巡覧シ小山ノ上ニ抵ル、先年博覧会開催ノ土地ヲ見ル午後一時旅館ニ抵リテ午飧ス、後又市街及工場等ヲ一覧シ、旅館ニ於テ地方人士ノ催ニ係ル宴会アリ、司会者ノ挨拶ニ次テ一場ノ答辞演説
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ヲ為ス、夜十一時散会ス
九月十日 雨 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、食後河ニ沿フタル製材所ヲ一覧ス、夫ヨリ河ヲ下リテバンクーバニ抵ル、途中小麦製粉所ヲ見ルオールコツク氏ノ経営ニ係ル、此日ハ蒸気船ニテ午飧シ、河ヲ下リテハンクーバニ着ス、此地陸軍ノ兵営アルヲ以テ、将軍某氏ハ一行ノ為メニ練兵ノ式ヲ行ヒ、且士官集会ノ倶楽部ニ於テ小宴ヲ開キテ一行ヲ饗ス、畢テ午後五時頃ヨリ汽車ハンクーバヲ発シテスホケンニ向フ
九月十一日 晴 冷
午前六時汽車スホケン市ニ到着ス、昨夜来沿道ニ砂漠多クシテ塵埃車中ニ塡ス、七時起床、支度ヲ整ヒ客室ニ抵ル、八時朝飧ヲ食シ、当市歓迎員ニ導カレテ先ツ商業会議所ニ抵リ、後ホテル・スホケンニ投宿シ、市ノ歓迎員ト共ニ国立銀行及トラスト・コンペニーノ店ニ抵リ、営業ノ実況ヲ視察ス、各店ヲ順次訪問シテ六行ヲ巡覧ス、且営業ノ概況ヲ質問ス、後水力電気会社ニ抵リ、又市内有名ノ河川ヲ見ル、畢テ商業会議所ニ於テ午飧ス、来会者二百名余ナリ、午飧畢リテ市街ヲ自働車ニテ一巡シ、三時クラル氏ノ庭園ニ開カレタル園遊会ニ出席ス、五時半帰宿、午後七時当地有名ナル割烹店ニ於テ、商業会議所ノ催ニ係ル盛宴アリ、会スル者約二百名余、食卓上司会者ノ歓迎演説ニ対シテ答辞ヲ述ヘ、他ニ数名ノ演説アリ、夜一時半散会帰宿ス
九月十二日 晴 冷
午前七時起床、支度ヲ整ヘテ朝飧ヲ食シ、後一室ニ於テ委員会ヲ開キ要件ヲ議決ス(六商業会議所会頭ヲ常議員トスル事、毎日曜日ハ可成委員会及総会ヲ開キ要務ヲ協議スヘキ事、随行員ハ可成順次ニ宴会ニ出席セシムへキ事、専門家ハ勉テ実地ノ調査ニ従事スヘキ事、其他共同経費支弁ノ方法、又ハ紐克滞在時日延引ノ事等ヲ報告シ、畢テ午飧ヲ食ス、食後地方人ノ案内ニテ市街ヲ遊覧シ、夜飧後当地ノ劇場ニ案内セラル、劇場ノ規模小ナレトモ、東京ノ有楽座ニ比スレハ大ニ優レリ、演劇モ亦観ルヘキナリ、畢テ汽車ニ抵リ車中ニテ就寝、翌暁八時半ヨリ汽車ボタラツチニ向フ
九月十三日 晴 冷
午前七時半起床、車中ニテ支度ヲ整ヘ、朝飧後汽車進行ヲ始メ、一農場ニ抵リテ小麦収獲《(穫)》ノ実況ヲ見ル、十二時ホツタラツチニ着ス、製材会社ノ主任者迎ヘテ市内ニ抵リ、一会堂ニ於テ午飧ス、食卓上主人ノ歓迎辞ニ対シテ答辞ヲ述ヘ、食後製材工場ヲ一覧ス、百事整頓シテ規模広大ナリ、畢テ汽車ニテスポケンニ帰着シテ汽車中ニ宿ス、夜ローマン氏夫人ノ同行ニ関シ種々ノ協議ヲ為ス、又常議員会ヲ車中ニ開キテ種々ノ報告ヲ為ス、翌朝ヨリ汽車アナコンダニ向テ進行ス
九月十四日 晴 冷
午前七時頃ヨリ汽車進行シテ、十時頃モンタナ州ナルアナコンダ精煉所ニ抵リ、工場ヲ一覧ス、規模宏大ニシテ機械整頓セリ、畢テ汽車ニテビーテニ抵リ、鉱山採掘ノ実況ヲ一覧ス、蓋シビーテハ銅ノ原鉱ヲ出シ、アナコンダハ之ヲ精煉スル所ナリ、一覧畢テ其地ノ商業倶楽部ニ於テ地方人ノ催セル歓迎会ニ出席シ、食卓上一場ノ答辞ヲ述ヘ、宴
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畢テ亦汽車ニ帰リ、夜半頃ヨリ進行ヲ始ム
田中シヤトル領事ハ、此地ニテ一行ト離レテ任地ニ帰ル
九月十五日 晴 冷
午前七時起床、支度ヲ整ヒ汽車中ニテ朝飧シ、旅中ノ公務ヲ談ス、此日ハ終日汽車中ニテ荒漠タル原野ヲ経過シ、時々風塵車中ニ入リテ旅況索然タリ
九月十六日 晴 冷
午前七時起床、車中ニテ支度ヲ整ヘ、八時朝飧ヲ食ス、九時頃ハルゴニ抵リ、地方人士ノ案内ニテ、合衆国政府及州政府合力ニテ設置セル大学及農事試験場ヲ一覧ス、十一時汽車ニ帰リ午飧シ、午後二時半グラントホークニ抵リ、歓迎員ノ案内ニテ、自働車ニテ地方ノ農場ヲ一覧シ、収獲《(穫)》ノ実況ヲ見ル、又農学校ヲ一覧シ、商業倶楽部ニ抵リ茶菓ノ饗応アリ、歓迎委員長ノ挨拶ニ対シテ一場ノ答詞ヲ述フ、此日市中遊覧中、学校児童男女数百名ノ唱歌歓迎ハ尤モ一行ヲ感セシム、午後六時半汽車ニ帰リ終夜進行ス、夜飧後接伴員ギルマン氏ト談話ス、翌暁六時過汽車ヒビツクニ到着ス
九月十七日 晴 冷
午前七時起床、車中ニテ支度ヲ整ヒ、七時半朝飧ヲ食ス、八時半頃ヒビツクニ着ス、直ニ下車シテ鉄鉱ヲ見ル、スチビンソント称スル鉱ナリ、産額五十万噸余、極力産出セハ百五十万噸ヲ得ヘシト云フ、費額及利益等ノ割合ハ壱噸概算三弗ヲ要シ、クリヒランドニ於テ四弗ニ売却スレハ壱弗ノ利益アリト云フ、尋テマホニングト称スル鉄鉱ヲ一覧シ、又ハルト云フ鉄鉱ヲ見ル、共ニ前者ト同方法ノ採掘ナリ、而シテハルト云フハ一年凡三百万噸ヲ産出スト云フ、其仕掛ノ広大ナル只驚クニ堪ヘタリ、午飧後車中ニテ同行中ノ米人ヨリ一場ノ演説アリ、又セントホール新聞記者ノ訪問ニ接シテ一場ノ談話ヲ為ス、夕方ダルーズニ着シ、鉱石ヲ湖水運搬ノ船舶ニ積込ノ桟橋ヲ見ル、実ニ愕クへキ大規模ナリ、畢テ七時半ダルーズノ客舎ニ投宿ス
但夜飧後ナレハ、単ニ入浴シテ後日記ヲ編成ス
九月十八日
午前七時起床、入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、後旅館ノ前ヨリ蒸気船ニテ湖水ニ出テ、鉱石・石炭又ハ穀物等ノ積卸ニ関スル設備ヲ見ル、午後メーソン社ニ抵リテ午飧シ、午後市街ヲ遊覧ス、小山ノ上ヨリ湖面ヲ眺望スル光景頗ル佳ナリ、夕方一鉄工場ニ抵リ、更ニ化学工場ヲ一覧ス、午後七時再ヒメーソン結社ノ会堂ニ抵リ晩飧ス、司会者ヨリ歓迎ノ辞アリ、依テ答辞ヲ述ヘ、畢テ汽車ニ搭シ、夜十一時汽車ミネヤホリスニ向テ出発ス
明日ミネヤホリスニ於テ大統領謁見ノ筈ニ付、其際ニ演説スヘキ原案ヲ、頭本・水野二氏ニ協議シテ文案ヲ車中ニ於テ起草ス


竜門雑誌 第二六四号・第四六頁明治四三年五月 ○青淵先生米国紀行 随行員増田明六(DK320007k-0002)
第32巻 p.102-103 ページ画像

竜門雑誌 第二六四号・第四六頁明治四三年五月
    ○青淵先生米国紀行
                 随行員 増田明六
○上略
 - 第32巻 p.103 -ページ画像 
九月五日 日曜日(シヤトル市第五日)
前後数日間間断なき歓迎応接等に忙殺され、疲労少からざる一行は、今日は日曜の事なれば朝も緩くり休息せんと思はぬには非ざる可けれど、午前九時には接待委員迎に来る約なりしかば、夫迄に朝食(食事には必ず一時間を要す)を済まして、凡ての準備を為し置かねばならぬ、其上今日は深夜に此地を辞して、出先より特別列車に乗り込む筈なりければ、夫是の用事に通常より早起せされば手廻り兼ぬる恐ありて、是迄よりは尚多忙を感じたり
青淵先生及同令夫人外一同、午前十時より正午迄プレスビテリアン教会堂に到りて特別祈祷会に参列して、祈祷及説教を聴聞し、夫れより自動車にてゼー・ダブリユー・グライス氏の農場に到り、同氏邸にて午餐の饗を受け、農場内を巡視して、午後五時帰路市内を巡覧してホテルに帰る
夜は当市有力者は一行を三四名乃至五六名に区分して各自邸に於て晩餐の饗応を為す、青淵先生及同令夫人は田中シヤトル領事及同令夫人と共にローマン氏邸に招かれ、鄭重なる饗応を受けられ、午後十二時同所より直に停車場に到り、特別列車に乗組まれたり
玆に附記すべきは、一行の上陸以来今日迄乗用の自動車は、皆当市商業会議所会員が自用のものを、運転手と共に一行の使用に供用せられ且万障繰合せ自らも此自動車に乗りて、一行の為に便宜を計られたるなり、其好意謝するに余り在りとす


竜門雑誌 第二六五号・第四九―五八頁明治四三年六月 ○青淵先生米国紀行 随行員増田明六(DK320007k-0003)
第32巻 p.103-108 ページ画像

竜門雑誌 第二六五号・第四九―五八頁明治四三年六月
    ○青淵先生米国紀行
                  随行員 増田明六
左に日本実業家を招致せんと始めて主唱したるシヤトル市の発達及商業会議所の沿革を記述するも、敢て無用の事に非ざるべしと信ず。
○中略
シヤトル市商業会議所の沿革
○中略
 而して今や会頭はジェー・デー・ローマン氏就任す、同会議所の隆盛期して待つ可きものなり。
 ローマン氏は明治四十一年其夫人と共に米国観光団に加はり、日本の事情を視察せられたるが、先是同氏が会頭に就任する哉公言して曰く、目下シヤトル商業会議所の尽力すべき事は、日米両国の親交を以て第一とすべしと、氏が如何に日本人に同情探きかを察するに足るべし。
特別列車の事
一行の為めに仕立られたる特別列車は、プールマン会社が一行の為に特に新調に属するものを供給したるものなるが、其美麗なると設備の完全なるには一同孰れも驚きたる程にて、先づ先頭に汽関車が二輛、荷物車が二輛、食堂車一輛、次いで寝台車が七輛、総計十二輛より成り、各車共日本の夫れよりは頗る長大なれば、総延長一町半位もあらんかと思はれたり、而して一寝台車は十室に別たれ、一室二人の寝台
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を出来し、一隅には洗面処、一隅には便所の備付あり、電灯三個は各室毎に必要に応じて点火せらるゝ仕組なり、此内最後の一車は観覧車と唱ひて、車中に居ながら四辺の景気を眺望することを得、又食堂車に接する寝台車は、日中に於ては事務用及集会用として使用するに適する装置に用意せられたり、一行は此列車を本陣として三ケ月間乗換の心配もなく米国内を旅行する事を得るなり、如何に一行を優遇するの鄭重なるかを悟らしめたり。
特別列車に一行と共に乗組みたる米国人側委員
 委員長ローマン氏 シヤトル市商業会議所会頭
  太平洋沿岸聯合商業会議所会頭にして、我一行の接待委員長なり
 委員 ハイド氏   タコマ市商業会議所代表者
  食料品に関する案内担任
 同 ストルマン氏  桑港市同上
  機械に関する同上
 同 クラーク氏   ポートランド市同上
  建築業・造船業・粘土工業に関する同上
 同 ヲスボーン氏  ロスアンゲルス市同上
  雑貨業・商業会議所事務に関する同上
 同 ムーア氏    スポケーン市同上
  市制・運輸業・市街鉄道に関する同上
 同 グリーン氏   満洲ハルピン領事にして米国々務省派遣
  絹綿糸貿易に関する同上
 同 エリオツト氏  米国商工務省派遣
  新聞業・関税に関する同上
 同 グード氏    シカゴ大学教授・博士・米国商工務省派遣
  教育・医学に関する同上
 同 ギルマン氏   ウヰスコンシン大学教授・博士ミルウオーキー、セントポール、ミネアポリス及デルース諸市商業会議所代表者
  銀行・株式取引所に関する同上
 同 マンス氏    シカゴ、デスモインス及オマハノ各市商業会議所代表者
  農業・園芸・肥料・車輛製造・電力・倉庫等の案内者
 同 ローゼンバーク氏 バツフアロー商業会議所代表者にして紐育洲西北部を代表す
  建築業・造船・電力に関する同上
 同 フランシス氏  セントルイス及カンサス市商業会議所代表者
  ミゾリー州前知事にしてセント・ルイス博覧会総裁たりし人なり
 右の外婦人書記二名と、我一行の雇入れたる書記邦人二名・米国人一名と、此列車の機関師一名・火夫一名と監督二名、各車に一名宛のボーイ(黒人)とコツク及ウヱーター十名、荷物掛一名とが一行の外の乗組員なり。
九月六日 晴(月曜日)
一行は米国人側委員と共に五日の夜より特別列車の人となり、午前六時ノーザーン・パシフイツク鉄道を進行し始めたり、七時半タコマ市に到着したるが、玆に下車せずして汽車中始めての朝餐を済まし、再度進行を始め、九時十五分カポウシンに着、水力電気工場二万八千馬力を一覧し、森林中を進行して一時半アツシユフオードに着、車中午
 - 第32巻 p.105 -ページ画像 
食を済まし、是れより一行は馬車に乗換へ、レニヤ山のニスクオリー氷山を見て、八時国立公園の旅店に到り同処に一泊したるが、青淵先生には令夫人前日来少敷不快なりし為め是を見合はせ、森林中の一停車場に停車せる車中に就寝せられたり、此夜車中残留は青淵先生・同令夫人・頭本氏・堀越氏・同令夫人及小生等数人に止まり頗る寂然たりき。
九月七日 晴(火曜日)
青淵先生には車中朝食の後、頭本氏・堀越氏及汽車監督と共に車を下り、附近の石炭山の採掘事務所見物に出掛けらる、此炭山は東部資本家の経営に係り、目下試掘中にて一日六七噸を出すも、他日は数百噸を採掘してコークスを製造する見込なりと云ふ、午前十時前日レニヤ氷山見物に赴きし一行アツシユフオードに帰着すると共に特別列車は進行を始め、炭坑視察に赴ける青淵先生等を置き去りに為しぬ、小生等驚きて注意したれども最早不及、漸く次の停車場に到り列車を玆に残し、機関車一輛に客車一輛を附して特に青淵先生等を迎ひ、再度進行を続け、十二時イートンヴイルに着し、木材伐採の事業を見る、此地は海抜三百呎の高地にして、其挽材所には多数の邦人就働し居れるを以て、是等の人々は旗を樹てゝ一行を迎ひ、万歳を唱へ、青淵先生は切株の上に立ちて一場の訓戒的演説を与へられたり、此処を見畢りて午後二時タコマに到着、タコマ・ホテルに投宿す、午後四時タコマ商業会議所に於て会頭・会員十数名、市長等の来会ありて歓迎の挨拶あり、青淵先生之が答辞を述べられ、畢てホテルに帰り、夜食後テンプル・ヲブ・ミユゼツクに於て開かれたる在留日本人の歓迎会に臨み青淵先生には一場の演説を試みられ、八時半帰宿し、更に令夫人と共にシー・エツチ・ハイド氏夫妻の催に係る歓迎会に臨まれ(ハイド氏は四十一年タコマ商業会議所を代表して日本観光に来りし紳士なり)たるが、同氏が衷心よりの款待には一行何れも満足したる由にて、音楽の余興、茶果・氷菓等の饗応あり、青淵先生・同令夫人には午前一時頃帰宿せられたり。
九月八日 曇(水曜日)
青淵先生には午前十時半シント・ポール・ヱント・タコマ製材工場を一覧せらる、此会社は株式組織にて、当地商業会議所会頭グリツグス氏其社長なり、規模宏大にして土地面積二百ヱーカー、我四十四町余にして、数箇所の貯木池を有し、動力は蒸気にて二千五百馬力を有すと云ふ、大小種々の製材器械に依りて自由に截断せらるゝ様甚だ奇なり、夫より木製水道管製造工場を参観せらる、此工場の規模は小なれども整頓せり、製出の木管は外部はテールを塗るも、内部は原質の儘にて五十年は確に保存すと云ふ、畢りてホテルに帰り、更に午後一時半商業倶楽部に於て商業会議所及商業倶楽部員催の午餐会に臨まれ、主人側の歓迎の辞に次きて一場の食卓演説を試みられ、是を畢りて自働車にて市街及公園を遊覧し、午後帰宿せられ、七時半よりタコマ・ホテルに於て、商業会議所の催に係る晩餐会に出席し、会頭グリツグス氏司会者となり、一場の挨拶に次きて、青淵先生答辞を述べられ、午後十二時宴を撤し直に汽車に乗込まる。
 - 第32巻 p.106 -ページ画像 
此夜令夫人は、一行の夫人と共に、グリツグス氏令夫人の饗応を受けられたり。
午後十一時半発車《(ママ)》す。
○中略
九月九日 晴(木曜日)
午前六時ポートランドに着す、午前八時当市商業会議所議員の出迎を受け、予て用意せられたる自働車に分乗してポートランド・ホテルに抵り、朝餐を喫す。
朝食後は特別電車に乗じて市街を巡覧して小山の上に抵り、先年博覧会開催の土地を見る、十二時半旅宿に帰り、商業会議所催に係る午餐会に臨み、午後二時再度自働車に分乗して、市街及附近に所在する製材所・鉄工場・馬具製造所・家具製造所・発電所・製鉄所等を一覧し午後四時より青淵先生は当地在留日本人の為めに、基督青年会館に於ける邦人演説会に出席して一場の演説を為し、旅宿に帰り服装を改めて、午後七時より同ホテルに於て開催せられたる晩餐に臨み、司会者の挨拶に次きて一場の演説を為されたり。
九月十日 雨(金曜日)
午前九時青淵先生を始め一行はホテルを辞して、商業会議所に於て用意したる河蒸気船に搭乗して、ウヰラメツト河に舟遊を試む、沿岸のポートランド製粉会社及びウヰルソン・クラーク製材会社を巡覧し、流に沿ふてコロンビア河に到り、船中に於て午餐の饗を受け、午後二時バンクーバーに着、上陸して此地に駐在せる陸軍少将モース氏の率ゆる歩兵・工兵・山砲兵及衛生隊の分列式を参観し、畢りて同兵営将校集会処に於て同少将の催にかゝるレセプシヨンに臨み、午後五時馬車に乗じて停車場に赴き、列車に乗り込みたり。
此日車中にて紐育総領事館発の左の電報を接手し一同万歳を三唱す。
 久邇宮殿下には今七日御安着、一行皆無事。
○中略
九月十一日 晴(土曜日)
午前八時半スポーケーン市に到着す。
昨夜来沿道に砂漠多しと見へ、砂塵車中に浸入して堆積す、急ぎ朝食を終り、青淵先生・同令夫人を先頭として、一行停車場に出迎はれたる当市歓迎員に握手の後、自働車を列ね導かれて先づ商業会議所に到り、市長・会頭其他の歓迎委員と会し、会頭の歓迎の辞に対し青淵先生答辞を述べ、夫れより定られたるホテルに抵る、当市にては一行を不残一所に収容すべきホテル無きを以て、止を得ず五個のホテルに分宿したり、青淵先生・同令夫人・神田男爵・同令夫人・水野総領事・同令夫人・田中領事・堀越氏・同令夫人・多木氏・同令夫人はスポケーン・ホテルなり、一行の事務所は此ホテルに設けらる。
九時半一行は別れて各其関係事業の視察に向はれたるが、青淵先生は歓迎員に導かれて国立銀行及トラスト・コンパニーの商店に抵り、営業の実況を視察す、順次歴訪の銀行六個に及ぶ、夫れより市内の中央に在る水力電気事業を参観し、又市内有名の河川を見、畢て商業会議所の会議室に於て開かれたる午餐会に臨まる、来会者二百名、非常に
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盛会なり、午餐後自働車に分乗して市中を巡覧し、三時当市鉄道会社副社長ルイス・クラーク氏邸に催されたる園遊会に出席せられ、四時半商業会議所に於て当市在留日本商人倶楽部の催にかゝる演説会に出席、一場の演説を試みられ、一ト先ホテルに帰り、午後七時よりデベンポーツ料理店に於て商業会議所の催にかゝる晩餐会に臨み、司会者の歓迎演説に対して答辞を述べられ、午前一時帰宿せらる。
此夜令夫人は、他夫人と共にセネトル・ターナー氏夫人より晩餐を受けらる。
九月十二日 晴(日曜日)
此日は寺院礼拝を随意とせり。
午前九時よりホテルに於て委員会を開く、青淵先生議長となり、六商業会議所会頭を常議員とする事、毎日曜日は可成委員会及び総会を開き要務を協議すべき事、随行員は可成順次に宴会等に出席せしむべき事、専門家は勉て実地の調査に従事すべき事、其他共同経費支弁の方法を了議し、又紐育滞在日数一週間延期の事等を報告せられたり。
午前十一時より一行は特別電車に乗じて近在遊覧を為し、及ハイデン湖畔の旗亭に於て商業会議所催の午餐の饗を受け一旦帰宿す、午後八時同所案内にてヲルフアーム座芝居見物を為し、十一時汽車に帰る。
九月十三日 晴(月曜日)
午前八時ポトラツチに向て発車し、途中広大なる農場に到り、小麦収穫の実況を見、十二時ポトラツチに着す、製材会社々長の案内にて市内に抵り、一会堂に於て同社の饗に係る略式午餐を受け、食堂社長の歓迎辞に対して青淵先生答辞を述べられ、後工場を一覧す、畢て汽車に戻りスポケーンに帰着し、其儘同停車場に停留して翌日を迎ふ。
九月十四日 晴(火曜日)
午前六時アナコンダに向て発車す、八時半着す、出迎の電車に乗じてアナコンダ銅鉱精煉所に至り、工場内作業の実況を見る、規模の宏大にして機械の整頓せる驚く許りなり、畢て汽車に戻り午餐の後、再度出でゝワシヨー公園に到り州立養魚場を見て汽車に帰る、午後二時十分アナコンダを発車して、三時十分ビユーテ市に着し、特別電車に乗じてレノード鉱山に到り、銅鉱採掘の実況を一覧す、蓋しビユーテは銅鉱を出し、アナコンダは之を精煉する処なり、一覧してシルバー倶楽部に於て同地人士の催に係る歓迎晩餐会に臨み、司会者の歓迎辞に次きて青淵先生答辞を述べられ、十時半汽車に帰り、十一時十分フアーゴーに向て発車す。
九月十五日 晴(水曜日)
終日車中に在りて荒漠たる原野を通過するを以て、砂塵車中に舞込み旅情索然たり。
九月十六日 晴(木曜日)
午前七時四十五分フアーゴーに着す、列車内にて朝食を終り、八時四十五分州立農学校及同農事試験場を一覧す、各種の牛馬豚鶏より樹木土壌等に就き教授より詳細の説明を受け、畢りて地方人士に依りてメソヂスト・クラブに於て催ふされたる歓迎式に臨む、途中路傍農学校学生・小学校男女生徒及市内の老幼男女数百名、列を為して一行を歓
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迎す、依て一行は自動車を停止し、神田男爵一行を代表して車上に起ちて英語演説を為す、フアーゴーは和訳の「遥か行く」なり、一行は前途遼遠尚遥かに行かねばならぬ、少年諸君と永く談話を為す時間を有せざるは甚だ遺憾とする処なりと局を結び、別れてクラブに着すれば歓迎員既に在りて一行を迎ふ、司会者の歓迎の辞に次いて青淵先生答辞を述べられ、夫れより茶菓の饗を受けて、十二時自動車に送られて列車に戻り、グランドフオーク市に向て出発す。


竜門雑誌 第二六六号・第二七―三〇頁明治四三年七月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320007k-0004)
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竜門雑誌 第二六六号・第二七―三〇頁明治四三年七月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
九月十六日の午後
汽車中にて午餐を為す、十二時半頃某停車場よりグランド・フオーク市商業会議所代表者乗り込みて行々同地に於ける歓迎の順序を青淵先生に語る、午後二時三十分同市に着す、直に自動車にて歓迎委員と共に先づ市中を見物し、夫れより広袤涯り無き大農場に到り、玉蜀黍の截断機・貯蔵庫(此貯蔵庫は其之れを収穫したる当時の滋養分を、其儘翌年の収穫期迄保存すると云ふ)を見、尚農学校・競馬場・精麦所を見、畢りて公園に到り倶楽部に於て茶菓の餐を受けたり、青淵先生は市長の歓迎の辞に対し、一行を代表して鄭重なる謝辞を述べられ、再度自動車に分乗して午後五時列車に帰着す、見送れるもの老幼男女数百、併かも少しも雑踏の状無く整粛たりしには一同敬服したり、六時半発車。
 米国にては、州の法律を以て某州内にて煙草又はアルコール性飲料の販売を禁止せるを見受けたるが、グランド・フオークも、其州の法律に依り苛もアルコール性を含有する飲料を販売する商店皆無なり、其整粛たりしも此故ならんと思はる。
九月十七日 晴(金曜日)
六時半ヒツビング市に着す、朝食を終り八時半、青淵先生を先頭に一行下車して鉄産地に向ふ。
一行はワシントン、ヲレゴンの二州に於て、驚くべき森林を見て一驚し、中西部に到りてモンタナ、ダコタの二州を通過し又驚くべき大農場地を見て二驚し、今玆にミネソタ州に入りて更に一層驚くべき大鉄鉱区を見て三驚を喫したり、米国の富強偶然にあらざるなり。
最初見たる鉄鉱地は、大北鉄道会社所属のスチブンソンと名くる鉱区なり、応袤三百六十ヱーカー、地表は丘陵起伏あれ共、何れも表土の砂石三四十呎を取除くときは、其地下百五十呎迄は六割三分と云ふ驚くべき鉄分を有する砂鉄なり、鉱区内には幾条の鉄道敷設せられ、採据しつゝある地点に貨車を送り、一掬六噸《(マヽ)》のステーム・シヤベルと称する採取機に依りて貨車に掬ひ込まる、賃車は六七台にて一列車を為し、一車の積載量五十噸(即五十掬)也、而して積載し終れば之を一と先停車場に送る、此貨物列車の時々刻々縦横に走せ違ふ様如何にも壮快なり、停車場にては之を五十台乃至六十台を一列車となし、別の機関車に依りてシユーペリオル湖畔の大桟橋に送り、直に汽船に積載
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せらる、此鉱区一日の採掘量は一万噸にして、一噸の採鉱費は(表土取除費三十仙、採掘費平均二十五仙、スチーム・シヤベル費二十五仙)八十仙、之に会社の総掛費一弗、又鉱区よりデルース迄の運賃八十仙デルースよりクレブランド迄の輸送船賃四十仙以上、合計三弗なるがクレブランドに於て販売する一噸の価は四弗なりと云ふを以て、結局一噸に付き金一弗宛の利益なり。
次ぎにマホニング鉱区を見たり、此鉱区はスチブンソン以上の広大なるものにて、其採掘高も一層多量なりとの事なり、又ハルと称する鉱地を見る、一年産額凡三百万噸なりと云ふ、採掘の方法前者と同じ、是等の鉱地は含有量に於て多少の相違あれども大小三十五箇所ありと云ふ。
此マホニング鉄鉱は千八百九十三年に発見せられ、其他の鉱区も之と相前後して発見せられたるものなりと云ふ、斯くして採掘したる鉄鉱は、一旦汽車に依りてシユーペリオ湖畔のデルースに送られ、其処より更に水路に由りて、シカゴ、クリブランド、ピツツバーク等の地方へ輸送せらるゝなり。
十二時半汽車に戻り、車中にて午食の後、同行の米国人側委員グード氏(シカゴ大学教授)のヒツビング鉄鉱区に関する講話ありたり、其要旨は此辺一帯の地は一億年以前は海なりしが、其後漸次陸地の為めに犯されて遂に陸地に変じたるものなり、即ち上層の土地は深く海底に没し、下層の砂石が陸上に露れ出づるに至れり、其証拠にはマホニング其他の鉱区の地中に赤土を発見すべし、此赤土は即ち上層の土にして、其質は水も通ぜざる程緻密なるを以て、其上に在りし砂石は海水の減退と共に流失したるも、此赤土と此下に在る鉄鉱を含有する砂石は、半円形を為して存在せる次第なり云々、青淵先生はセントポール新聞記者の車中に来訪せるありて一場の談話を為られたり、午後四時デルース市に着し、大桟橋を見る。
此鉄鉱を積卸する大桟橋又大々的の設備にして、是亦一驚を喫したり此大桟橋はシユーペリオル湖畔に在りて大北鉄道会社に属す、長二千呎のもの三個、其上には各四条の鉄道を敷設す、鉄鉱列車此の鉄道に停止すれば、貨車の底は容易に開き、鉱石は桟鉱の穴より落下し、大なる円筒に依りて、下に待ち受け居る特殊の形を為したる汽船に注入す、此汽船の収容する量は実に一万噸にして、僅々四時間を以て積込み終ると云ふ、而して此の一桟橋の一側に一万頓の大汽船六艘を横着けに為す事を得ると云ふに至つては、実に驚愕の外無からずや。
此夜は車中に宿泊する筈なれば、急ぎ大桟橋の見物を終り、列車に帰着して夕食を済ましたるが、列車は終夜一地に停止するものなるを以て、青淵先生及令夫人には同地ホテル・スポールデングに到りて入浴を為し、再度列車に帰着して宿泊せられたり。
九月十八日 晴(土曜日)
朝食を車中に終り、午前九時に蒸汽船に搭乗して湖水に出で、港湾の形勢より鉱石・石炭又は穀物の倉庫及是等の物品積卸に関する設備を見、夫れより特別電車に乗じてメーソニツク・テンプル(メーソン社)に到りて午餐の饗を受け、一時半自働車に分乗して案内に連れられ市
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街を遊覧す、公園の小山の上よりシユーペリオル湖を眺望する光景頗る佳なり、午後四時小山を下り、鎔鉄炉製造所・石炭酸製造所、及鉄工場を一覧し、六時再度メーソン社に到り、商業倶楽部の会頭プリンス氏及会員と接見し、六時半同処に於て有名の珍味白魚料理の饗を受けたり、同会頭プリンス氏の鄭重なる歓迎の辞に対し、青淵先生一行を代表して答辞を述べられ、十一時汽車に戻り、同三十分ミネアポリス市に向つて発車す。
明日ミネアポリス市に於いては、大統領と謁見の筈なれば、青淵先生には其際に演説せらるべき原稿起草に付き、水野・頭本の両氏と協議し、深夜眠に就かれたり。
○下略


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一〇一―一二九頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0005)
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渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一〇一―一二九頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第三章 回覧日誌 西部の一
    第一節 シヤトル市
○上略
九月五日(日)晴
 午前総会を事務室に開き、水野総領事を事務総長に推し、加藤辰弥氏を書記長、又川崎巳之太郎氏を事務員に嘱托することに決す。
 午前十時団長以下一同、当市第一の長老教会の礼拝に参列す。午後零時半自動車にて市外二十哩なるレツドモンドのクライス氏別荘に赴き、午餐を饗せられ、模範牛飼場を見る。午後七時より各三四人づゝ分れて、接伴委員の私宅に招かれ、晩餐の饗応を受く。是より先き中野会頭は、団員一同を代表して、答礼旁会頭ローマン氏其他の宅を訪問す。
 今夜皆列車に入る、列車は今回招待の為に特に組織せるもの、凡てプルマン会社受賞の車輛(一名之れを百万弗列車と云ふ)にして、設備華麗を極め、接待頗る懇切なり。米国側接伴委員長ローマン氏此処より同乗、其他米国政府より命ぜられたるグリーン氏(ハルピン領事)エリオツト氏(商工務省嘱托)グード氏(シカゴ大学教授)ギルマン氏(ウヰスコンシン大学教授)商業会議所側の接伴員ハイド氏(タコマ市)ストールマン氏(桑港)クラーク氏(ポートランド)オスボーン氏(ローサンゲレス)モーア氏(スポケーン)マンス氏(市俄古)ローゼンバーガー氏(バアフアロー)の各代表者及田中シヤトル領事同乗す。
 此日紫藤章氏(横浜)一航海後れて来り、本団に合す。
    第二節 シヤトル市の概況 ○後掲ニツキ略ス
    第三節 タコマ市
九月六日(月)晴
 午前七時タコマ市着、此所に出迎のタコマ商業会議所会頭グリツグ氏、其他数名の接伴委員等一行と共に列車に便乗し、直に支線に入り、更に無蓋貨車に転乗して、カアボシンの水力発電所を見、午後二時アッシュフォードに着し、馬車に分乗しタコマ山の中腹ナショナル・パークに立寄る。レニヤ山は華州中最高の山にして、海抜一
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万四千五百二十八呎、我富士山より高きこと約二千呎、死火山にして、其形我富士山に似たるが故に、邦人は之れを称してタコマ富士と云ふ。而してタコマ市民は、此のレニヤ山を呼んで又タコマ山と云ふ。更に馬車にて有名なるニスクオリー・グレシヤと云ふ氷河に達す。此のグレシヤの氷壁は高さ百五十呎、広さ二百呎、其源は猶五哩を隔つるジブラルタル・ロツクの脚下にあり。其最も広き部分は幅約一哩あり、気候暖き日、氷河の流るゝ速力は、二十四時間に十八吋なりと云ふ。
 千古不滅の大氷塊は、宛然丘陵の如きものあり、皆其偉観を嘆賞せざる無く、夜はナショナル・パーク・インに泊す、皆タコマ市接待委員等の好意による。夕食後神田男の氷河の講話あり。但し団長以下五六の者は、此夜列車中に留る。
九月七日(火)晴
 午前七時半旅宿を発し、十時アッシュフォルドに帰着、直ちに汽車に搭じ、途中イートンビルの製材所並に材木作業を見、同処に労働せる同胞数十名に対して、渋沢団長より訓辞あり。此より先、団長其他昨夜より汽車に居残れる人々は、此一行の帰着を待つ間に附近の見物に出で居りしを、機関手心附かずして汽車を発し、二三哩進行の後、再び男爵以下を拾ひに行きしは、後日の好笑柄となれり。
 午後二時半タコマ着、直にタコマ・ホテルに入り、四時商業会議所の歓迎式に臨む。又消防隊の行列を見しも、極めて簡単なるものなり。午後七時半、タコマ音楽堂に於て渋沢男及南博士は、在留日本人の講演会に出席し、一場の講話をなす。数百名の邦人来会せり。八時半、接待員ハイド氏宅に接見会あり。
九月八日(水)晴
 午前は各自製材工場・木管製造所・製粉所・製煉所・石膏細工所・客車製造所及び銀行・新聞社等参観に赴く。
 午後商業会議所の午餐会に招かれ、後ち市内を見物し、午後七時半タコマ・ホテルの晩餐会に臨む。グリッグス氏司会、渋沢男・中野土居・中橋・神田男・松方諸氏演説し、又主人側よりは、会頭グリッグス氏、メトーン、プラット二氏演説す。宴後十一時半汽車に帰る。十二時発。沼野ポートランド領事、此処まで出迎へ、一行と同乗して、ポートランドに向ふ、本日更に書記として小塚斉氏を雇入る。
 此日中野会頭は団員一同を代表して、答礼旁市長リンク・会頭グリッグス氏其他の宅を訪問す。
 婦人の部 午後七時ハイド夫人の晩餐会に招かる。
    第四節 タコマ市の概況○後掲ニツキ略ス
    第五節 ポートランド市
九月九日(木)晴
 今暁濃霧の中にウヰラメツト河の大鉄橋を渡る、長さ六哩余世界第一の長橋と称す。夫れより去る卅八年中に開設されたる大博覧会の建物を右手に眺めつゝ、七時二十分ポートランド停車場に入る。
 午前八時ポ市商業会議所会頭マクマスター氏、其他接伴委員及び在
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留同胞有志者の出迎を受け、直ちにポートランド・ホテルに投ず。
 各自朝食を終はりたる後、十時より一同市内回覧電車にて市中を巡覧し、大博覧会の遺物なる森林館を見物し、一千二百尺の高地、カウンシル・クレストに遊ぶ。十二時半ホテルに於て、ポ市商業会議所より、全団員に中餐の饗応あり。次に主客一同ホテルの庭前に於て紀念撮影を為し、後直ちに各製造所の回覧に向ふ。
 午後四時半より第七街とテーラー街の角なる、基督教婦人青年会館に於て、在留同胞の為め、渋沢男・大谷・巌谷三氏の演説あり。日本人会長下村真鋤氏司会し、領事沼野安太郎氏紹介を為す。
 午後七時よりポ市商業倶楽部に於て、ポ市商業会議所主催の晩餐会あり、会頭マクマスター氏、我が天皇陛下の万歳を唱へ、渋沢男は大統領閣下の健康を祝し、オレゴン州知事マクアーサー氏の歓迎の辞に次で、神田男・岩原氏・松方氏等の演説あり、一同歓を尽して深更帰館す。今夕の宴会には一行各自に色別の徽章を附け、以て言語の通不通を明にする方法を採れり。即ち英語は赤、独逸は青、日本語のみの分は白とす。
 此日欧文速記者マクブライド氏を書記として雇入る。
 婦人の部 は、製粉会社々長セオドラ・ウィルコックス夫人の案内により、市中を巡覧し、同夫人の私宅に於て、午餐の饗応を享け、午後はルイス夫人の接見会に列し、夕刻ラッド夫人達の晩餐会に赴く。
九月十日(金)曇 小雨
 午前八時半一同自動車に分乗して、アッシュ街埠頭に着、九時「オレゴン鉄道及ネビゲーション」会社の好意にて提供されたる、ティー・ジェー・ポッター号に乗込み、ウィラメッテ河(コロンビヤ河の支流)を下り、航走三十分計にして、右岸なるウィルコックス氏の製粉場に着、一同上陸して二十五分計り参観す。同製粉会社はウィルコックス氏の所有なるが、氏は当州にて有名なる財産家にして尚他に二十余個所の工場を有し、東洋に麦粉を輸出すること、太平洋沿岸第一位にありと云ふ。再び川を下りて、午前十一時頃左岸なるクラーク・ウィルソン製材会社を見る。十二時頃船に帰り、ポ市商業会議所より贈れる食事、並に在留日本人商業組合より贈られたる寿司・折詰等にて午餐を喫す。食後喫煙室にて、沼野領事よりオレゴン事情の説明あり。(別記)
 一行を乗せたるポッター号は、ヴァンクーバー市を後にして上ること数哩、左側にヲッシュードなる小村あり。盛に丸石を採掘せるを見る。コロンビヤ河口の波堤に用ふるものなりと云ふ。
 午後三時華盛頓州のヴァンクーバー(加奈太領と同名異地、米大陸に此例多し、混ず可からず)に上陸、直に出迎ひの馬車にて、ヴァンクーバー兵営に向ふ。行くこと一哩余、左側に練兵場及び兵営あり。司令官はマウス少将にして、歩騎砲工の四隊あり、兵員約千四百名、其の管轄は(ワシントン・オレゴン・アイダホの三州に亘る)三時二十分マウス少将の各兵科閲兵及分列式あり。終つて将校倶楽部に茶菓の饗応を受く。各将校及び夫人の叮重なる接待、及び二音
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楽隊の勇ましき奏楽などあり。互に万歳を唱へて此処を辞し、午後四時半ヴァンクーバー停車場に至り、玆にポ市より見送られたる沼野領事・同夫人・秋州書記生・下村日本人会長、其他諸氏と別れ、特別列車にてスポケーン市に向ふ。薄暮コロンビヤ河の沿岸を通過するに、雨後の山水嘆賞に価するもの多く、又処々に仕掛たる鮭捕器械の如きは、昨日森林館内にて模型を見たる物なれば、殊に一行の感興を惹けり。
    第六節 ポートランド市の概況○後掲ニツキ略ス
    第七節 スポケーン市
九月十一日(土)晴
 午前四時スポケーン市著、同八時半同市商業会議所員等の出迎ありて、直に「スポケーン」「フェンニントン」「マヂソン」「カアニエル」「ヴィクトリヤ」「リツドバス」の六ホテルに分宿し、事務所をスポケーン・ホテルに置く。
 曩きに当団総会に於て決議せし、紐育滞在一週間延期の件は、米国主人側の好意により同意の旨報あり。即ち十月十二日より二十一日まで紐育に滞在し、従て同地以後の各地も、亦一週間宛順次繰り下げ、桑港出発は、十一月三十日の地洋丸と決定せり。午前九時半より、一同スポケーン・ホテルに集合し、案内者と共に自動車に分乗して、製材・製粉・発電所・銀行・学校・病院・各商業区域等を見物す。正午時商業会議所に於て、一同に午餐の饗応あり。午後二時より市内各所見物、午後三時より「スポケーン・エンド・グランドエンパイア」鉄道会社の副社長、ルイス・クラーク氏の邸宅を借りて、商業会議所員各夫人主催の園遊会あり。一同参列、午後四時半旅館に帰る。
 午後七時半より、太平洋沿岸随一と聞えたる、料理店ダベンポートにて大晩餐会あり。席上商業会議所会頭グードオール氏司会、市長ブラット氏の歓迎辞、渋沢男・神田男・上遠野三氏の答辞演説あり此会場は余り大ならざるも、満場を生果《(花カ)》を以て装飾し、卓上に噴水を仕掛くるなど、歓待至らざるなし、大井卜新氏微恙あり、沙市在住の甥、大井千之氏を特に呼寄せ随員に加ふる事とす。
 婦人の部 午前十時三十分、自動車にて市中を見物し、午後一時銀行家バッターソン夫人の私邸にて午餐の饗応あり。午後三時よりルイス・クラーク氏邸に赴き、男子側と共に園遊会に列席、午後七時よりは、前元老院議員ターナー夫人の宅にて、晩餐の饗応を受く。
九月十二日(日)晴
 当市の歓迎順序に依れば、午前は各製造会社、工場等を参観し、午餐の饗応ありて、午後も各所見物の筈なりしも、我が団の都合に依りて、昼間のプログラムを廃されたき旨同市商業会議所に交渉し、快諾を得たり。依りて午前九時半より、スポケーン・ホテル内、団長室に於て委員会を催し、凝議午後に至る。尚ほ引続き総会を催す筈なりしも、時間の都合にて延期せり。
 前記委員会の内容は、
   一、随員新規傭入れを制限する事
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   一、随員外の者を列車内に同伴することは、短時間と雖も遠慮すべき事
   一、給仕人の心付の件
 午後四時より渋沢男・石橋氏の両氏は、同市日本人会の請に応じ、同市商業会議所の一室に於て演説す。午後八時より一同「アウヂトリアム」座に観劇す。但し商業会議所の案内なり、劇名は『サーカスの娘』と云ふ、即ち団長より主人公ポーシイに扮したる女優に花束を贈る。十一時頃特別列車に帰る。
 一行中南博士・渡瀬・紫藤の三氏は、マンス氏の案内により有名なる当地のヴルマン農学校を参観し帰途モスコー農園を視察したり。
 曩きに一行より別れてシヤトルに滞在せし原博士は、此日当所にて一同に会せり。
 婦人の部 午前はホテル内に休息し、午後よりグラスゴー氏の催しにかゝる晩餐会に出席し、午後八時よりは、男子側と共に観劇に赴く。
 各専門家研究の必要上、自今左の如き分課を定めて取調の便宜を謀る事とせり。
 一、銀行業(ギルマン氏担任)渋沢男・左右田氏・神野氏
 二、輸出入商(グリーン氏・ハイド氏担任)岩原氏・大谷氏・堀越氏・田村氏
 三、絹綿貿易業(グード氏・グリーン氏担任)西村氏・坂口氏・町田氏
 四、農業園芸(マンス氏担任)南氏・渡瀬氏
 五、綿糸業(グード氏・グリーン氏担任)日比谷氏・高辻氏
 六、株式業(ギルマン氏担任)中野氏・小池氏・岩本氏
 七、造船業(ロウゼンバーガー氏担任)松方氏
 八、土木建築業(右同上)原(林)氏
 九、車輛製造業(マンス氏担任)上遠野氏
 十、人造肥料業(マンス氏担任)多木氏
 十一、電気業(ロウゼンバーガー氏・マンス氏担任)原竜太氏
 十二、市制(エリオツト氏担任)松村氏
 十三、教育(グード氏担任)神田男・巌谷氏
 十四、医学(グード氏担任)熊谷氏
 十五、商業会議所(オスボーン氏担任)中野氏・高石氏・西池氏
 尚ほ左の三項に付き若し必要あらば、米国側に於て、左記の人々質問相談に応ずべき事とす
 器械 ストールマン氏、食料品 ハイド氏、米国関税 エリオツト氏
    第八節 スポケーン市の概況○後掲ニツキ略ス


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一三一―一五七頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0006)
第32巻 p.114-119 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一三一―一五七頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編第四章回覧日誌中部の一(往路)
    第一節 ポットラッチ
九月十三日 (月) 晴
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 今朝午前七時半、スポケーン市を発し、アイダホ州ポットラッチに向ふ。途中華州内オークスデールに停車し、一同下車して麦畑中に「スラッシ・マシーン」の運転せるを見る。此辺はエリバア氏の所有地にして、一日の産出高優に千五百俵(百斤俵)に上ぼると云ふ。十二時半ポットラッチ駅に着、一同は直ちにポットラッチ製材会社の特設会館階上に案内せられ、略式接見会の後、手軽なる中餐の饗応を受く。席上同社副支配人レールド氏の歓迎辞あり。(総支配人ターソー氏は、他行中なりし故)渋沢男之に答ふ。中食後階下のデパートメント・ストーアを見物す。此建築は当会社の特設会館にして、中餐を饗せられたる階上の広間は、同会社雇人等に対する各種の娯楽場にも使用さるゝものなり。(階下にはデパートメント・ストアの外、郵便局・銀行等あり)後数町を隔てたる同製材会社工場に向ふ。当会社は資本金約七百万弗にして、一日の製材高は七十万立方呎に達し、伐材及工場等一切に使用する人員千二百人の多きに上れり。尚ほ当地に至る鉄道支線数十哩は、同会社の私設にして、採伐区域の如きも、四十哩四方の広大なる土地を有すと云ふ。午後六時ポットラッチを発して、午後十時頃、再びスポケーン市に立寄り、停車数十分にして、アナコンダに向ふ。
    第二節 アナコンダ
九月十四日 (火) 晴
 午前八時半、アナコンダ着。市長ガングナー・副知事マシュソン、及商業会議所接待員等の出迎を受け、直に特別電車にて、銅鉱精煉所に向ふ。当会社製銅の量は、優に米国産銅の五分の一に位すと云へば、其広大盛況以て察するに足る。因に鉱毒問題は、当精煉所の如きも多年苦慮する処にして、現に数年前、近郊の住民より、鉱毒損害賠償問題起り、爾来硫黄の混じたる悪瓦斯は、総べて大煙突を通じて空中に放散する仕掛と為せり、其煙突の大なる真に米国第一なりとす。帰途煉瓦製造所及び同郡の養魚場を見物し、終りて列車に帰り、二時同処を発してビュートに向ふ。
    第三節 ビュート
 午後三時十分、ビュート停車場に着、ビュート実業家協会々長ヴロフィー氏・市長ネビンス氏、其他諸氏の出迎を受く、一同は特別仕立の電車に迎へられ、先づ附近の風景を眺め、後有名なるレオナード・マイン、即ち大銅坑を参観し、特に希望者はエレベーターにて地下数千呎に降り、坑内通風喞筒作業等を見るを得たり。夜はシルバア・ボー(銀弓)倶楽部に於て晩餐会あり、午後十一時ファーゴーに向て発す。
 シヤトル領事田中都吉氏は、シヤトルよりタコマまで同行せられしが、一時任地に帰り、スポケーンにて再び一行に加はり、当ビュートにて遂に一行に別る。
 婦人の部 午後銅山見物の後、市立工業学校を参観し、プローフィー夫人宅に茶菓を饗せられ、夜は銀弓倶楽部の晩餐会に列す。
    第四節 アナコンダ及びビュート概況○後掲ニツキ略ス
    第五節 ファーゴー及グランド・フォーク
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九月十五日 (水) 晴
 終日列車内にあり。同日午前八時五分、ビリングス市を過ぐ。此地はビュートを去る二百三十哩にして、人口約一万四千、養羊・砂糖及砂糖大根の産地として名高き所なりと。
九月十六日 (木) 晴
 午前七時四十五分、ファーゴー市に着。九時五分、一同自動車に分乗して、当地州立農科大学に向ふ。(約一哩半を隔つ)先づ同大学敷地内を巡覧するに、途上新築中の家政学校教室あり、主として農家の士女に家政学を教授する方針なりと云ふ。同大学敷地は約一哩四方あり、飼養せる牛羊には逸物多く、就中生れて僅かに二年を経たる壮牛は、当州展覧会に於て一等賞を得たりと云ふ。それより市中を巡見せるに、中学校前に男女の生徒整列して一行を歓迎す。神田男即ち之に対して一場の演説を為せしに、大に歓呼喝采を博せり。
 午前十時五十分メソニック・テンプルを訪ひ、一同階上の大広間に着席す。商業倶楽部長・大学総長・副知事・市長等列席し歓迎式あり。商業倶楽部長の紹介にて、大学総長ウースト氏歓迎の辞を述べ渋沢男之に応ふ。時に当地在住の一青年今井某(京都人)なる者あり、流暢なる英語を以つて歓迎の辞、及び日米国交につきて所見を述ぶ。同人は、米国中学校卒業生にして、当市唯一の同胞なりと云ふ。十一時五十分同処を辞して、直ちに列車に帰り、グランド・フォークに向ふ。時に十二時十分。
 午後二時半、グランド・フォークに着、直に出迎の自動車に分乗し先づ市内の重立ちたる所を巡覧す。途々各商店を見るに、殆んど職業を抛ちて、日章旗を軒頭に掲げ、若くは街道を横ぎつて掲ぐる等頗る歓迎の意を尽せり。先づベーコン氏の農場に赴きて、玉蜀黍より家畜の食料を製出せる作業(サイロ)を見、次にファーゴー市と隔年に開かるゝと云ふ勧業共進会場を見、更に渺茫たる麦隴の内にスラッシヤ作業を見る。此辺は米国唯一の大農場にして、南北三百五十哩、東四五十哩ありと云ふ。斯くて農場を馳せ廻ぐること約十五哩余、午後四時過ぎ、リンコルン公園内の田園倶楽部に入り、屋内に茶菓の饗応を受け、庭園に臨める廊下にて略式歓迎会あり、此際、商業倶楽部会頭ドクトル・テイロル氏の歓迎の辞あり、渋沢男は一応の答辞の後、『前車の轍を踏まずとは東洋の警語なれど、予等は大いに前車の轍を踏みて当地の農業に倣ふ処あらんとす。但し日本は土地小にして、到底大農法を学ぶ能はずと雖も、而かも智力を用ふる農業に於ては、或は貴地に勝れんも測られず。』云々と述ぶ。
 次に大学新校長マクコイ氏歓迎の辞を述ぶ。之れに対しては神田男の答辞あり。後互に万歳を祝し合ひ、再び列車に帰る。時に士女の停車場に見送り来るもの多く、宛然十年の旧知の如し。夜に入りヒッピングに向ふ。
 要するに当地方は日本人の周遊するもの珍らしき為にや、到る処の市民の歓迎に、其真情の溢るゝばかりなるを見る。
 先にシアトルにて、一行と会せし中橋氏・村田随行員は、此日又本団と別れて、直ちに帰朝の途に着けり。
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 婦人の部 午後キャンベル夫人宅に茶菓の饗応を受く。
    第六節 ファーゴー及グランド・フオーク概況○後掲ニツキ略ス
    第七節 ヒッビング
九月十七日 (金) 晴
 午前六時半ヒッビング第一鉄鉱区に下車し、数町を徒歩し、採掘中のスチブンソン鉱区に向ふ。その面積約三百六十英加ありて、一年の産額千八百万噸に達すと云ふ。而も採掘作業の容易なること、実に予想以外にして、恰も土砂を掬ひ上ぐるが如し。午前十時二十分更にマホニング鉱区に至る。当区は世界第一の大鉱区なりと称し、其面積実に千百英加にして、坑深約二百呎に及べり、マホニング鉱区に隣りて、オリバア鉱業会社あり。同会社は例の有名なるロックフェラー氏の所有に属すと。二大富豪の地を隣りして、而も同一事業を経営せるは一偉観と云ふべし。午前十一時半ヒッビング市に着す。人口約一万五千人の小都市なるも、少時下車してセラース氏の鉱区を見物し、更に車内に帰りてヅルースに向ふ。午後列車進行中に於て、グード教授のヒッビング鉱山に関する講話あり。其大要左の如し。
    △ヒッビング地方の鉱山に関する グード教授講演
  ヒッビング鉄鉱区はミネソタ州の東北隅にありて、此の地方及び東南地方一帯は、一億年前には総て大海の底にして、陸地はビリング地方より北方に始まり、那威国まで続き居りしが、此陸地は種々の形となりて、追々海に流れ行き、遂に現今の如く広漠たる土地を生ぜり。即ち東北方の陸地の上層は海底に沈み、却て下層の砂石が上層となりて、新に土地を造り出せしなり。故に其上層の土砂は黄色を有し、尚ほ其上を流れし土砂は、現今の皮層にして硅石に富めり。本日午前巡覧せしマホニング近傍にては、一定の深さに達して、頗る美麗なる赤き粘土を見るべし。蓋し此粘土は、その昔上層の土地たりしなり。其粘土は水に浸さるゝことなければ、其上の土砂には如何に水分を含むとも、粘土以下に透浸する能はず。即ち其水は流れ流れて土砂を洗ひし為に、硅石は遂に皮層に露はれ出で、赤き粘土と鉄鉱とが下に残留せるに至る。斯くして鉱石は余り厚層ならねど、其形半円形にして、赤き粘土を混ぜざるもの即ち鉄鉱とす。而して今日巡覧せし地方の鉄鉱の非常に鉄分に富めるは、硅石が流れ去りし為に外ならず。二十五万年前には、此地方は一面の氷河に蓋はれ居りしが、ミゾリー河の一帯は厚き氷に蓋はれ居りて、其氷の厚さ一哩より二哩に及びしと云ふ。其氷は追々南方に流れて、土地を洗ふこと恰も鉋を以て削るが如くなりしが、南方に進むに従つて温暖なる為め、氷河は遂に北方に流れ去れり。其際南部地方には、多量に土砂を残留せり。今朝巡覧せし鉄鉱の鉄は、其際雪中に混溶し居たる遺物なりとす。此鉄鉱を開くに当り、先づ第一に必要なるは、鉄鉱の上にある土砂を取去ることなり。此皮層の土砂は、凡そ一億年前のものならん、尚ほ此地方に大湖水あるは、大氷塊が土地を削り去りたるに由る。云々。
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 グード教授は、序にグランドフォーク地方の説明を為して曰く
  『此地方にも一帯の氷塊ありしが、追々北方に溶流して、レツドリバーの渓谷に流れ込み、遂にミスシッピー河に入り、三百余哩の長流をなせり。今の諸湖水の各広大となりしは、幾多の小流相合して泥土を持ち来り、湖底に沈澱せしによる。尚ほ氷雪は融けて土砂を積み、遂にハドソン河に流れ込むに至れり。斯くて一面の湖底にありし処は、表面に露はれて広大なる土地を造出せり。此地方より北の方、加奈陀と米国との境に至れば、湖底たりし部分凡そ七百哩あり。湖底は此点よりして、四百哩の北に発す。斯くして当地方より北に四百哩加奈陀に七百哩の間に広漠たる地方あり。既に巡視せしファーゴー地方は地下百呎の深さに達して、此土砂を含むを発見し得べし』云々。
 又大北鉄道会社の接伴員ヒルマン氏は、一行の為に下の如き講話をなせり。
  『此鉄鉱区は東西五哩巾半哩以上一哩なり。一行の巡覧せし、ヒッビング地方は、此鉱区の殆んど中央にありて、其周囲五哩に達し、其鉄鉱は世界中他に比類なき多量の鉄分を含有せり。而かも其採掘容易にして、一噸の採掘費用は、鉱山に於ては僅に一弗に過ぎず、此五十哩の広大なる鉄鉱区の所有者は合衆国銅鉄会社及び大北鉄道会社にして、其他にも小会社数多あり。此のマホニング鉱山は十三年前に始めて採掘に取り懸りしものにして、同年間に産出せし鉄鉱は一億六千七百万噸、千九百七年には、二千七百万噸、同八年には二千三百万噸を出せしが、本年は二千五百万噸来年は三千五百万噸を採掘の予算なりとす。斯くて年々多くの鉄を採掘せんとするは、鉄が追々高価となり行くに依る。此鉄脈を少し離れて、マツサービー、ロフエービツク、マノマニー、マーケツト、バーミリオン等の五鉄鉱あり、是等総ての鉄鉱の産出額は、千九百七年は四千三百万噸、明年は五千万噸採掘の予定なりとす。
  斯く多量の鉄鉱を産出せんとするは、全く木材の欠乏によるものにして、鉄鉱の需要益々増加せんとの予見なり。其証拠には、鉄道の枕木なども、是より東部に於て鉄製のものあり。其一本の枕木は二弗五十仙位にして、又汽車の車も鋼鉄製と為しつゝあり。現に紐育地下鉄道の車体は、殆んど全部、鋼鉄を以て造られ居れり。是を以ても、即ち鉄の需要益々多きを証明するに足らん。
  現今大北鉄道会社にて鉄鉱を出す所、湖岸に三箇所ありて、其桟橋に千七百万平方尺の材木を用ゐ居れり。然るに今回新に造る桟橋は、全部鉄製の計劃にて、尚今後は、自働車をも橋梁をも、多くは鋼鉄を以て造るに至らん。
  此の鉄鉱は始め有名なるヂエームス・ヒル氏一個人にて購入せしが、之は諸重役等に相談する暇なかりし為にして、後に至りヒル氏は購入当時の価を以て、大北鉄道会社に売渡せるに、其価は約六百万弗にして、其の広さは四千英加あり。今朝巡視せしマホニング鉄鉱は、其の四分の一にして約千英加あり。(但し税吏の調査
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に依る。)此一千英加の鉱区は、八千二百万噸の鉄鉱を含めり、即ち最少額一噸一弗とするも、八千二百万弗の値ある訳なり。而して採掘年限は、今後尚ほ四十年を継続し得べしとなり。尚ほ大北鉄道会社は、鉄鉱にて多大の利益あるのみならず、鉄鉱一噸に付き八十仙づゝの運賃を要求し居れば、一日の産額四万噸として、其利益の莫大なるを知るに足るべし、而して大北鉄道の株主は、何人にても此の工事の財産権を有す。尚同会社は鉄鉱の為めに日日千乃至千二百の列車を動かし、一汽鑵車は能く七十の貨車を運び、一列車は良く三千噸を運ぶ。其七割四分乃至八割三分を以て運賃を計算するなり。現今同会社の所有線路は、総て一万哩に達せり。蓋しジエームス・ヒル氏は、極めて人格高き人にして、心服するもの頗る多し』と
 斯くてヒル氏の功徳を聴くを得しが、此日恰も同氏の七十二回の誕辰に相当せるに因り、渋沢団長より祝電を発す。
 午後五時過ぎ、列車はヅルース市の一端なる鉱鉄船渠に着し、今朝巡覧せし鉱区より、此処に運ばれたる鉄鉱の、更に鉄船に積み込まるゝ状況を視察す。其の桟橋は三筋に分れ、各二千二百四十四呎ありて、其桟橋にある流樋は、総数千〇五あり。真に偉観と云ふべし。
    第八節 ヒッビング市概況○後掲ニツキ略ス
    第九節 ヅルース市
 午後六時ヅルース停車場に着く、当夜は何等の催もなきにより、各自随意行動を執る、即ち一部の人々はスポルヂング・ホテルに投宿し、他は皆列車内に眠れり
九月十八日 (土) 晴
 午前九時、一同は歓迎委員の先導にて、埠頭より特別の小汽船に乗じ、シューペリオル湖の一部を航走し、各穀物倉庫・製材会社・鉱鉄船渠等より、湖辺の景色などを巡覧す。当港は各地よりの穀類・鉄鉱等の集散地にして、船舶の往来頗る盛なり。但し毎年十二月より翌年四月中旬頃までは、堅氷の為めに交通を絶たるゝと云ふ。
 又此湖口に突出せる長島と本土との間には、電車を空中に吊りて、往復せしむべき大鉄橋あり。蓋し世界無二の設備なりと称す。
 斯くて十二時半メソニック・テンプルに至り、階下の広間にて昼餐の饗応を受け、午後は一同自働車に分乗して、市内及後背の山上に上り、全市を俯瞰するに、眺望又頗る佳なり。
 午後六時半より、再びメソニック・テンプルに向ひ晩餐会に臨む、卓上に湖水の名物「ホワイト・フィッシユ」あり、此魚直訳すれば白魚なれども、其形我が国の白魚に似るべくもあらず、寧ろ大さは鯛・鱸に類し、風味も淡泊なる魚なり。
    第十節 ヅルース市の概況○後掲ニツキ略ス



〔参考〕東京日日新聞 第一一七六八号明治四二年九月一四日 ○渡米実業団歓迎(十一日在ポートランド沼野領事発電)(DK320007k-0007)
第32巻 p.119-120 ページ画像

東京日日新聞 第一一七六八号明治四二年九月一四日
    ○渡米実業団歓迎
      (十一日在ポートランド沼野領事発電)
実業家一行は九月九日朝ポートランド着、商業会議所よりの出迎を受
 - 第32巻 p.120 -ページ画像 
け、午前は観覧車にて市内を見物し、午後は数組に分れて製造工場・市庁、学校等を観覧し、同夜商業会議所の主催に係る晩餐会に臨み、席上会議所会頭・知事代理・市長・マウス少将及ウイルコツクス等の日米親交に関する熱心なる演説に対し、渋沢男・中野会頭外三名の答辞あり、盛会を極む、十日朝汽船にてウイラメツト、コロンビヤ両岸の製材所・製粉所を観覧し、午後晩香坡兵営に到着、マウス司令官は一行の為めに特に陸軍閲兵式及び招待会を開催したり、一行の当地滞在は短かゝりしも、米国官民の熱誠なる歓迎は詳細当地各新聞に報道せられ、日米の親交と貿易の促進に資する所大なるものありたり



〔参考〕実業之日本 第一二巻第二二号・第四―一二頁明治四二年一〇月一五日 我渡米実業団の一行に如斯奇談あり 九月十四日、シヤトルの日本実業団旅館 華盛頓ホテルに於て 特別通信員社友加藤辰弥(DK320007k-0008)
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実業之日本 第一二巻第二二号・第四―一二頁明治四二年一〇月一五日
    我渡米実業団の一行に如斯奇談あり
      九月十四日、シヤトルの日本実業団旅館
      華盛頓ホテルに於て
              特別通信員社友加藤辰弥
 (1)一行皆渋沢男に舌を巻く
「何といつても渋沢さんは実にエライ』といふ一語は、一行中に於て屡々繰返へさるゝ言葉である。
成程実にエライ、第一一行中船中で第一の朝起きは渋沢男である。出帆の翌日より大抵毎日朝五時過には必ず床を離れ、秘書役の増田明六氏を起して、幾回となく甲板上を運動される。それは元気なものである。
次に運動が済むと読書される。是れは一行中の予想外とした所で、男に驚いた特色の一つであつた。一行中読書家の大関は堀越善重郎氏であるが、氏に次ぐものは男爵である。殊に朝食前と雖、少許の時間を利用して読書さるゝ熱心と気力に至ては唯感歎の外はない。
 (2)上陸後も第一の朝起者は男爵
上陸後男爵の大活動に至つては更に驚くべきものがある。上陸後も第一の朝起者は矢張り男爵である。早い時は五時、又如何に前夜遅くなつても六時には必ず起きられる。起きれば直に増田秘書役を呼び起して、新聞を見、日米の貿易並に経済の事に関した書籍を読まれる、八時の飯前にはモー訪問客が詰め懸けてゐる。それから各種の歓迎を受け、工場・銀行・会社等を視察し、演説を為すこと一日少くとも二・三回、夜は晩餐会・夜会・芝居見物等を終て、旅館に帰る時は既に十二時を過ぎ、晩きは二時、三時に及ぶ事がある。而して男爵はどこに往つても団長として、中心として、注目・歓迎・談話の集注する所であるが、男は毫も疲労の色なく、其精力の旺盛なること一行の壮者も遠く及ばない。真に勇気絶倫、一行中の大異彩である。
 (3)渋沢男の発揮されたる大勇気
工場巡視はなかなか疲労する者である。それを日に幾つともなく見せられて、中には一つの都市で同一の種類の殆んど同一の工場を三つも四つも鄭寧に案内されて見る時は、実際うんざりする事がある。従て一行外の或日本人が、セメて同じ者は省略して貰う事にしたらどうですと注意する者があつた。
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渋沢男は之を聞て毅然としていはるゝ様、今回の事は箇人の漫遊でない、お客となつて来た以上は主人の膳立に従はねばならぬ。先方が非常なる好意を以て案内して呉れるものを、一つでも断はるといふのは無礼である。余は如何なる工場へでも、如何なる困難の場所へでも苟くも生命の続く限り喜んで行く決心だといつて、先の言ふが儘に熱心に出席されて居る。其元気の旺盛なる事、実に当るべからずである。
○中略
 (12)渋沢男美人に包囲せらる
 上陸後渋沢男の会話は、頭本元貞氏が主もに通訳の労を執つて居るが、男は自から直接に外人と話の出来ぬのを非常に遺憾とし、もどかしさの余り時々自分で仏蘭西語を唸られる事がある。成程男は其昔し仏国へ留学された事があつた、古るい話であるが、男の記臆力の強き仏語は今に少し覚えて居られる。之を聞た仏語通の婦人連は前後左右より男を取囲み、パレー、ブー、フランセーといつて話し懸ける、男は一向辟易せず、例の愛嬌たつぷりの顔に微笑を浮べながら、アンプー(少しばかり)と言はれ、覚束なげに挨拶位の言葉を交はされる。之が非常の愛嬌となつて、バロン渋沢は仏語を話されるといふ事が評判になり、新聞紙の如きは『バロン渋沢は仏語に巧なる上流紳士也』と書たものがあつた。
 (13)一行中第一の読者家
船中読書室の上客は堀越善重郎氏である。氏は暇があると常に書物を読で居る。実業家で氏の如く読書する人は少いであらう。書籍はすべて原書であるが、財政・政治・経済・歴史の書籍を初として、其他種種なる外国雑誌の類である。
渋沢男もよく読書室に入つて来られる、男は日米の財政史、米国の歴史、日本交通史といふ様な書物を見て居られた。
其他の人は真面目に読書する者は誰もない、されば広き読書室も常に淋しく、稀に机に向ひ居る人があるかと思ふと、日記を書たり、又は故郷に送る手紙を書たり、又は読書室が静粛なるを幸ひに午寝に来る人などであつた。
○中略
 (15)日本婦人競技に優勝を得
ミネソタ号には、我実業団以外に約五十余名の米国人あり、又森村組の紐育支店長村井保固氏外数人の日本人あり、出発後両国人合同して航海中毎日各種の競技を為し、勝利者に賞品を与へる事にした。賞品授与者は渋沢男爵夫人とセルダン夫人とが選ばれた。米国の勝利者には渋沢夫人の手より之を授与し、日本人の勝利者に対してはセルダン夫人の手より与ふる事にした。
斯る事には学生以外の日本人は一体駄目なものだ、体裁は悪るし、平生から練習も趣味もないので、勝利者は大抵米人のみだらうと思つて居つたが、何ぞ図らんだ、送別会の席上で賞品を与へる時になると、半数の受賞者は日本人であつたので、皆驚て仕舞つた。殊に針糸競技で渋沢男夫人が勝ち、スプレー競技で高梨たか子女史(渋沢夫人の親戚)が勝つたのは頗る振つて居つた。
 - 第32巻 p.122 -ページ画像 
○下略



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一〇二―一〇九頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0009)
第32巻 p.122-124 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一〇二―一〇九頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第三章 回覧日誌 西部の一
    第二節 シヤトル市の概況
華州の西北部に位する商港にして、太平洋沿岸中最も重要なる都市の一なり、其発達の迅速なる、合衆国中多く其比を視ず。而して其建設は半世紀以前に属すれども、千八百八十九年の火災に依りて、市の大部分は烏有に帰し、其後更に大規模の建設を画して、遂に今日の盛況を成すに至れり。
千九百〇六年には人口弐拾壱万人なりしも、千九百七年二十四万千百五十人となり、千九百八年には二十七万六千四百六十人に達せり。
千九百〇八年に於ける輸出入額は、一億二千四百九十五万二千二百七十一弗にして、外国輸出額は千八百四十三万六千五百九十一弗、沿岸輸出額四千六百八十九万二千二百七十五弗、外国輸入額は二千五百七十八万千〇七十二弗、沿岸輸入額三千三百八十四万九千三百四十三弗を示せり。而して日本との貿易は千九百〇八年に於て、輸出一千三百九十七万三千五百六十六弗にして、前年に比し二百七十五万六百八十八弗の増加を来たし、其輸入額は一千二百四十二万四百四十六弗となり、前年に比し七十五万五千三百三十八弗を増加し、合計三百五十万六千六十七弗の増加を見るに至れり。之れを対加奈陀及支那貿易に比すれば頗る多額なるを示せり。
水陸の交通機関は共に遺憾なく完備し、其沿岸航海には太平洋汽船会社、加奈陀太平洋汽船会社、漢堡汽船会社、西北汽船会社、エル・エツチ・ゲーイ汽船会社、アラスカ沿岸汽船会社等にして、外国航海は大北汽船会社及日本郵船会社と為す。両者は大北鉄道会社と聯絡をなし、当港と東洋諸国との航海を開始し、千九百五年、大北汽船会社は同航路を開始するに至り、現今に於ては両社共同運輸の姿なり。而して千九百八年当港に入港せし船舶は、総数九百五十七隻にして、其総噸数百七十三万〇四百〇六噸、出港せしもの総数七百八十一隻、此噸数百六十五万八千二百二十二噸なりとす。
陸上の交通は主として左の四大鉄道による。
南太平洋鉄道は当市を起点とし、太平洋沿岸を通じて桑港・羅府より更に合衆国南岸を横切り「ニューオレアンス」より「シカゴ」に達す。
ユニオン・パシフィック鉄道(故ハリマン氏系)は、当市より合衆国大陸を横断して「ミルウォーキー」「シカゴ」に達せり。
大北鉄道(ゼームス・ヒル氏系)は大北汽船会社・日本郵船会社の船舶によりて東洋諸港と連絡し、当市より加奈陀に入り、晩香坡市を通過して、英領加奈陀を横断し「シウペリオル」湖畔に出で、更に「シカゴ」に達す。
金融機関、千九百八年の調査によれば、銀行の総数二十六個、総資本金六百十六万七千弗、総預金六千九百三十八万八千七百九十一弗七十六仙、而して資本金五十万弗以上のものはデキスター・ホートン銀行(百万弗)国民商業銀行(同上)スカンデナビア・アメリカ銀行(五
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十万弗)シヤートル国立銀行(五十万弗)等なりとす。
最近数年間に於ける当市銀行手形交換高は左の如し。
 千八百九十七年    三六、〇四五、二二八弗
 千九百〇〇年    一三〇、三二三、二八一弗
 千九百〇四年    二二二、二四七、三〇九弗
 千九百〇八年    四二九、四九九、二五一弗
此市に於ける製造業は、至つて幼稚なるものなれども、製粉業・製材業・建築材料・農業副産物・牛酪・煉乳・造船其他日用雑貨類は主なるものにして、千八百九十年に於ては、製造場の総数三百三十一箇所三千七百六十八人の使傭人により千二十万三千七弗を生産したりしもの、千九百八年に於ては(当市商業会議所及及製造業者倶楽部に於ける調査による)製造場の総数一千五百余に上り、一万七千人の使傭人を有するに至り、一年間に支払ふべき給料は、一千五百万弗にして、六千万弗を生産するに至れり。是に由て之を観れば、過去十年間に於ける製造場の数は、約五割八歩の増加にして、生産額に於ては倍額を増加せり。
当市に於ける公園の数は二十箇所にして、其総面積四百十五エーカーなり。而して更に昨年市会の決議により、一百万弗を募集して、之れが改善の費用に供せり。当市有公開図書館は拾万五千部の図書を有し千九百九年度の一ケ年間維持費として、十四万五千九百二十三弗八十八仙を備へたり。
学校教育の完備せるは、当市の誇りとする処にして、市内に五十七箇の公立小学校と、三箇所の公立中学校、一州立大学並に各種夜学校十箇所ありて、三千人の生徒を有す。
市の補助によれる公立慈善学校は、ワシントン湖畔に在り、七十余名の薄倖なる青年を収容す。
公立学校は五人の学務委員によりて厳重に監督せられ、学務委員は三年毎に改撰す。之れ等の公立学校に要する一年間の経費は、約百五十六万弗にして、教員の数八百名、之れに支払ふべき給料は、一ケ月七万弗なり。
今を去ること二十五年前、即ち千八百八十四年に於て、本邦人数名漂流して当港に上陸せり。之れ日本移民の嚆矢となす。後ち千八百八十九年の頃には処々より集まり来たる者百五十名以上に達し、漸次桑港方面より来たる者、或は寄港の船舶により集合せる者増加し、千八百九十二年には、三百六十余名に及べり、後ち千八百九十六年日本郵船会社の航路を開くに及びて、此処に寄り来たる者大に増加し、現今にては市内及附近に居住するもの男四千三百九十七人・女五百二十一人小児百六十三人・学生二百二十二人・家内労働者二千八百四十二人・無職業者九十九人・合計九千二百余人なり。在留者の多くは製材・漁業・農業等各種の労働又は家内労働に従事するものなりと雖も、独立又は商店員として、商業に従事するもの亦尠からず。
    アラスカ・ユーコン太平洋博覧会記事
アラスカ及ユーコン地方の富源を世界に紹介し、太平洋沿岸西北部の商工業を発達せしめん為め、華州シヤトルに開設せられたるものにし
 - 第32巻 p.124 -ページ画像 
て、千九百〇九年六月十一日より約四ケ月間開会せられ、同十月十六日閉会せられたり、開期中入場者の数四百万人に達したりと云ふ。
会場はシヤトル市の郊外ワシントン及ユニオン湖の附近に在りて、州立ワシントン大学の敷地に建設せられ、会場の総面積二百五十英加に余れり、而して其開設費は一千万弗、出品及設備費に五千万弗を要し米国政府は六十万弗を支出せり。
会場の建築物は二十余個に分たれ、工芸館・農業館・器械館・森林館美術館・鉱業館・漁業館・通運館・家畜館・北極館・日本館・病院・政府館、アラスカ・フヰリッピン・華州・布哇・救助・外国等の諸館より成り、而して其出品部類は教育・美術・心芸・工芸・器械・通運電気・農業・園芸・林業・採鉱・冶金・漁業・人類学・経済・体育・歴史の十六部に分たれたり。
開期中我実業団の訪米を機とし、九月四日を日本日と称し、日本館庭園に於て一大園遊会を挙行し、且つ紐育ビルヂングに於ては、盛大なる晩餐会を催され、会長ジョン・エドワード・チルバーク氏を始め、華州知事其他多数名士の演説ありたり。
日本館は三万弗の予算を以て建設せられ、日本古有の寺院風の建物にして、日本よりの出品物売価五十万弗に達し、出品人員三百名に及べり。
千九百七年九月、該博覧会委員トーマス・バーク氏及ベーカス氏の日本を訪問せし結果、日本政府に於ても賛同することゝなれり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一一一―一一四頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0010)
第32巻 p.124-125 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一一一―一一四頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第三章 回覧日誌 西部の一
    第四節 タコマ市の概況
シヤトル市を距る南方四十哩、ピューゼット内海の湾頭に位する商港にして、華州に於てはシヤトル市に次ぐ繁華の都市たり。曾ては州内第一の都市なりしも、シヤトルの急速なる発展に凌駕せられて、遂に其首位を譲るに至れり。気候頗る温暖にして、死亡率僅かに、千分の七、之を合衆国中に於ける、最も健康の地となす。
水陸交通の便シヤトルに譲らず。当市を通過する四大鉄道は、ユニオン・パシフィック、大北鉄道、シカゴ・ミルウォーキ・ピューゼットサウンド鉄道及びノーザン・パシフィック鉄道にして、後者の合衆国西部起点は当市なり。而して此等の鉄道会社の取扱ふ貨物の多量なる太平洋沿岸に於ては、他の都市の遠く及ばざる処なり。沿岸航行の汽船は、皆何れも当地に寄港するを常とし、且つ北太平洋汽船会社航路との接属点なる故を以て、東洋との貿易は、シヤトルに次で密接の関係を有せり。加之近来シカゴ・ミルウォキー鉄道会社と、大阪商船会社との聯絡成立し、東洋諸国と直航を開始せらるゝに至れり。電車鉄道は百八十五哩に達し、二百五十五哩のコンクリートの道路を有し、一万二千二百八十八の電話を架設せり。
当市は製材・製煉・製管等の工業発達し、大小製造所の数四百十六、倉庫の面積、九千六百平方呎、合衆国西部に於ける最大なる製粉所あり。且つ最も著名なる小麦の集散地にして、世界中最長大なる小麦の
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倉庫を有す。而して製錬所は、太平洋沿岸に於て、最大なるものを有し、且つ鑵詰業の盛大なるは、デンバー以西其比を見ず。材木及製材業も亦太平洋沿岸に冠たり。水力電気は市内点灯用並に各種動力に使用され、其廉価なること合衆国中最低位なりと称す。
市内に最も完備せる一高等学校あり。二千人を容るゝに足る大講堂を有し、二万五千人の学生を収容し得べき、コンクリート式大運動場(スタデウム)あり。
タコマ市に在住する我が同胞は、約六百五十名。其附近に在る者約五百余名にして、市内に於ける独立営業者五十名。請負業・洋食店・洗濯業・旅館業・理髪店・料理店等にして、同地を距る北方四哩の地ファイフと称するは、人口五百有余を有すれども、其大部分は同胞農業家を以て一村を為し、俗称之をファイフの日本村と称せり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一一七―一二四頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0011)
第32巻 p.125-127 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一一七―一二四頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第三章 回覧日誌 西部の一
    第六節 ポートランド市の概況
オレゴン州の西北、コロンビア、ウイラメッテ二大河の合流点に近く位し、此の二大河の流域たる、広大にして豊饒なる、沃野二十五万平方哩の産物集散地にして、オレゴン州商工業の中心たるのみならず、また、太平洋沿岸の一大都会とす。且つポートランドは、合衆国有数(太平洋沿岸唯一)の淡水港たり。港は市の中央を貫流する、ウィラメッテ河にして、深さ二十五呎乃至三十呎あり。河底を浚渫して築港を完成するが為め、二百万弗を費したりと云ふ。四十万弗の乾船渠を始めとし、埠頭・荷揚場・倉庫等は河の両岸に櫛比して、設備頗る整頓せり。コロンビア河口を溯ること百哩の上流に位すれども、港の面積頗る広濶なるが故に、数十隻の船舶を一時に碇泊せしむるを得。又ポートランドよりコロンビアの河口に達する間は、河底を浚渫して、二十六呎以上の舟路を通ず。コロンビア河口は従来頗る危険なる場所の如く考へられしが、合衆国政府は、盛んに河口に防波堤を築き、舟路の改良に従事しつゝありて、最近の報告によれば、二十六呎以上の深さを得たりと云へば、竣工の暁には、三十呎乃至四十呎の深さに達すべく、大陸を横断する諸鉄道の聯絡と相俟て、水陸運輸の便、他に比するものなきに至るべし。
陸上にありてはポートランドを終端停車地とせる鉄道は「ユニオン・パシフィツク」、南太平洋、オー・アール・イン、北太平洋、大北、加奈陀太平洋、「スポケーン・ポートランド・シヤトル」(北岸鉄道)、「バーリングトン・アストリヤ・コロンビヤ、リバー」鉄道等にして、シカゴ・ミルウォーキー線も、近く当市に接続されんとす。
水運、遠洋航海にはポートランド・アヂアチック汽船会社あり、専ら日本・支那等の東洋諸国と交通し、又沿岸航海には「ポートランド・サンフランシスコ」「カリフォルニア・オレゴン」「ダーラス」「ポートランド・アストリア・スペンセル」組「コロムビア河及ピュゼットサウンド・ケロツグ」通運、「シエバー」組、「キヤム」組、「ワシュゴールラキヤマス」通運会社等あり。
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オレゴン州の製造工業として最も顕著なるものは、小麦製粉業・製材業・獣肉貯蔵・麦酒醸造業・鮭缶詰業・製紙業にして、多くポートランド市内又は其附近に散在す。製材業は当市の最も著名なるものにして、其工場数六百五十四箇所、職工三万人を使役し、毎年二十億呎の製材を出せり。其投資額約五千万弗に達す。製材の輸出先は日本・支那・南亜弗利加・西印度諸島・南及中央亜米利加・南洋諸島にして、内国にありては加州及び「ミスシッピー」流域最も多しとす。而して市内各製材所の産額は、千九百八年に於て、五百十七万五千百六十九呎、其価額三百六十三万五千弗なり。
又州内に産する小麦の産額は毎年四・五百万石に上る。当市より(千九百八年)輸出せし小麦の総額は、千三百万ブッシェル、価額千百七十余万弗、米国に於ける小麦の輸出港としては、紐育の次に位す。其輸出先は英国及東洋なり。同年中当港よりの輸出品総額は千六百六十四万弗にして、英国・香港・日本・支那諸港へ向つて輸出せり。又同年中当港輸入総額は、約三百万弗にして、印度・日本・英国等の順位による。
在ポートランド帝国領事館の調査によれば、日本人の同市在留者千人其他州内各地に在留する者二千人、合計オレゴン州内在留者三千人、又同領事館の管轄区域に居住するもの、アイダホ州二千人、ワイオミング州二千人、総計七千人なり。
在留者の多くは農業労働者・家内労働者・鉄道労働者・製材労働者・伐木労働者等なれども独立の商業及農業に従事するもの亦尠からず。オレゴン州の法律は日本人其他総て外国人(支那人を除く)に対して、内国人と均等なる土地所有権を認む。今後州内に於ては、日本人の事業として最も有望なるは、土地を所有して農業を営むにあり、而して農業の地価は、既墾地一エーカー二十弗(小麦圃又牧草地)より三百弗(菜園)に達す。果樹園地は未だ果樹を植付けざるもの一エーカー百五十弗にして、既に成熟したる果樹を有するものは、千弗乃至千五百弗の市価を有す。本邦人にして市街宅地を所有するもの尠からずと雖も、其数未だ詳ならず。
     沼野領事のオレゴン州談
 オレゴン州はコロンビヤ河の南、カリフォルニヤ州の境に到るまでを云ふ。其面積は約九万平方里、朝鮮の全面積より広し。人口は近年非常に増加せしも猶ほ六・七十万に過ぎす、其地勢の概略は、太平洋沿岸より東方四哩にして「キャスケード」山脈あり、更に東にはロッキー山脈あり、所謂日本潮流より来る温暖なる空気は、キャスケード山脈に衝つて雨となる。其以東は乾燥地方にして恰も砂漠の如し。此地に至れば樹木殆んど無く、僅かにセーヂブラッシと称する一種の醜草あるのみ。従つて一体に未開の土地多しと云ふ。即ち当オレゴン州は、地の東西に依て其事情殆んど全く異れり。西部には各種の樹木多く、就中グラフツリー即ちオレゴン松、頗る多し其樹木の繁茂せる土地は余り広からざれど、頗る緻密にして良材多く、米国に於ける森林の六分の一は、実に当州にありと称せらる。従て当州の人は如何に無益に伐材するとも、殆んど無尽蔵なりと誇
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称し居れり。併し将来人口増加し来らば、現今の如く無造作に焼き払ふことはなかるべし。遮莫前大統領ルーズベルト氏も、富源の保存殊に森林の倹約を厳重にせんことを切論し、且つ各地方の天災などを防がんことを努めたり。
 コロンビア河は、太平洋沿岸第一の大河にして、源をロッキー山に発し、千四百哩を流れて太平洋に注ぐ、此河は諸処に急流ありて、大船はポ市附近以上に溯航するを得ず。其上流は閘門の制に依りてアイダホ州ルーイストン市まで上ることを得、此市河口より九百哩の上流にあり。沿岸諸地方は概ね土地乾燥し居れど、小麦の産出頗る多く、殊にスポケーン、ワラワラ地方には、大規模なる農業経営され居り、其小麦はコンバインド・ハーベスト・マシーンなどを用ひて苅込み居れり。コロンビア河に依てポ市に集注す。住民分賦に就て言へば、其雨量多き西部は、最も早く開拓されしを以て、人口も多し、即ち当州の人口四分の三は、分水嶺の以西にあり。而して東部オレゴン州に至れば、一平方哩の人口一人の割合にも達せず、之は灌漑の方法不備なればなり。然れども其方法さへ附かば、大いに発達すべき見込あり。斯く人口稀薄なる為め、之を開拓せんとて政府は自ら水の供給をなし居れり、蓋し欧洲より来る移住民を誘致せんが為ならん。
 尚コロンビア河は、今より二十年前までは水浅く、僅かに十五・六呎に過ぎざりしも、沙市などの長足なる進歩発達に覚醒され、且つはジェームス・ヒル氏の力に依りて大発達をなせり。而して現今にては二十六呎の水深となり居れば、大船も自由に入港し得べし。尚ほパナマ運河の開鑿全通までには、浚渫を完全ならしめんとて、市民頗る努力し居れり。又た政府は陸軍省に命令して、目下河口のみの開鑿に従事し居れり。更に産業に就て云はゞ、西部は気候温暖にして、雨量も多ければ、農業最も発達し居れり、彼のフード河岸の林檎の如きは、最も有名にして、遠く倫敦の市場にまで輸出し居れり。太平洋沿岸は殊に牧畜業に適せり。然るに東部オレゴンは、現今まで殆んど開拓されず、僅かに麦若くは牧草を獲るに過ぎざれども、此東部オレゴンにも無限の財源はあるなり。元来此地方及び以南は、ハリマン氏の鉄道系統に属せしも、同氏は専ら、南カリフォルニヤに力を尽し居れるを以て、遂にヒル氏の勢力範囲内に移れるの観を生じ来れり。尚ほコロンビア河には鮭の漁獲甚だ多し、其概況は既に当市森林館に於て見られたるが如し。
 当州第一の都市はポートランドにして、人口約二十五万あり。其他は僅かに一・二万を有する小都会に過ぎず。ポ市領事館の管轄区域は三州に亘り、其州内に住む同胞の数は、ワイオミング二千人、オレゴン州三千人、アイダホ州二千人、合計七千有余の同胞あり。其の多くは労働に従事し居りて、中には三・四成功せしものあり。
 当オレゴン州は日本人にも土地の所有権を与へ居るが故に、在留同胞の為めに頗る便宜なりとす。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一二九―一三〇頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0012)
第32巻 p.127-128 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一二九―一三〇頁明治四三年一〇月刊
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 ○第一編 第三章 回覧日誌 西部の一
    第八節 スポケーン市の概況
華州の東部スポケーン郡に在り。シヤトル市を距る東方三百五十哩にして、スポケーン河貫流す。一に水力市の称あり。此河の落差百三十二呎にして、最少限度に於ても尚三万二千馬力を得るは容易にして、現に一万五千馬力を得つゝあり。人口は十二万にして、日本人の此所に定住するものは百余名に過ぎざれども、付近の農園・鉱山・製材場其他雑業に従事するものを算するときは三千余に達すと云ふ。
水運の便を欠くと雖も、蒸汽鉄道・市街鉄道は四通八達し、大北鉄道北太平洋鉄道等の集合点にして、加奈陀太平洋鉄道も亦東北より当市に達す。
東部華州は小麦の産地にして、当市は之れが集散の地たり。而して商工業は特に盛大ならずと雖も、カスケード、ロッキー両山脈間の中心点とも云ふべき地にして、礦業は頗る盛なり。製造業は未だ振はずと雖も、製材・製粉・機械・農具・煉瓦・鉄工・家具・鑵詰等の製造業は、稍見るべきものあり。此等の工場に使用する被傭人一万二千人にして、之れに支払ふ金額は、一年一千二百万弗とす。而して一千九百八年の生産総価格は、千七百万弗にして、東部華州は無限の鉱物と肥沃の田野を有し、且つ之れが加工の原動力たる水力に豊富なるが故に将来商工業の発達大に見るべきものあらん。
国立銀行四ありて、資本総計三百四十二万五千弗なり。水道は市の所轄に属し、之れにより毎年三十二万五千弗の収入を得。公立小学校の数二十三、之れが建築に費したる金額は百四十五万弗とす。日刊新聞三、発行総数四十五万に達す。当地には米国巡回裁判の、東部に於ける本部あり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一三四―一三五頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0013)
第32巻 p.128-129 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一三四―一三五頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
    第四節 アナコンダ及びビュート概況
アナコンダの銅製造所は、世界に於ける最も進歩したるものにして、建築費用九百万弗、米国に産する銅の二割五分を製煉し、使用人の数二千人(其附近を合算すれば三千人に及ぶ)一箇月の労銀二十一万五千弗を支払ふ。通常の観光者が一応此製煉所を見たりとて、能く其如何に大なるやの概念を得る能はざるものあり。玆に数字を以て之れを表すれば、一昼夜(二十四時間)に製煉する銅鉱の分量一万噸、石灰石の使用量二千三百噸、使用する骸炭六百五十噸、製煉用の石炭五百噸動力用の石炭五百噸、一分間に使用する水量三万五千ガロンに達す。
ビュート市は海抜五千七百呎の所にあり。一八六四年の創立に係る。
人口は一九〇〇年に於て三万四百七十人、アナコンダ近郊を合して十万人、アナコンダの銅鉱銀鉱の本社はビュート市にあり。此銅鉱及銀鉱は一八九九年に四千五百万弗にて現会社に買収されたり。此附近に於ける金銀銅等の諸会社を合算する時は、一年の各種金属の鉱石産出額、尠なくとも二千五百万弗に達す。銅の産出額は(アナコンダ、ビュート附近総計)二億五千万斤に達す。アナコンダ製煉所の世界第一
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たることは前述の如くにして、鉱毒防禦の為めに、コンクリートを以て煙筒の築造をなせり。其高さ三百五十呎。アナコンダには銅鉱の外に、尚ほ煉化石製造所あり。硅石及び耐火煉化を造る。何れも銅製煉の為に必要なるものなり。其他製銅会社の鋳物部、又は醸造場等あれども数ふるに足らず。是等の労働者は世界に於て、最も高額の賃銀を払はるるものなり。鉱山のみに於ける賃銀は、一箇月に二百万弗に達すと云ふ。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 附録・第八〇―一〇一頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0014)
第32巻 p.129-136 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 附録・第八〇―一〇一頁明治四三年一〇月刊
    ワシヨウ製煉所
               工学博士 神田礼治氏報
ワシヨウ製煉所はモンタナ州のアナコンダ市の東二哩の地に在り、工場は山腹より階段的に設置せられ其麓に達す、場内の地積八十八町八反八畝歩にして、諸建築の偉大なる、設備の完整せる等、実に世界第一の大製煉所と称すべきものなり。
従来当アナコンダには一大製煉所ありて世人を驚かせしものなりしが数年前「アマルガメイテッド・コッパー・コンパニー」なる大会社の組織せらるゝや、旧製煉所を全廃し、且つ之を取毀ち去り、玆に最新の機械と嶄新の設備に依り此新製煉所を新設したるものなり、此製煉所の建築費は総計金壱千八百万円なりしと云ふ、惟ふに旧製煉所とて或は其以上を費して建設せしものならんには、米人の旧を捨て新を採るの行為は、到底我日本人の夢にだも為し能はざる所ならんか。
抑も「アマルガメイテッド・コッパー・コンパニー」なる大会社の組織せられたるは、当地を距る二十八哩の同州ビュート市に於ける数十の会社合同し一会社と成りて該地の諸鉱山を稼業し、且つビュートに於ける幾多の製煉所を廃して、一括鉱石の全部を当ワシヨウ製煉所及グレートフオル製煉所に分送し、両所に於て製煉することゝ為せしものなり。
余輩はアナコンダの旧製煉所を十数年前に実見し、其盛大に驚きたる者なるが、今や再び此地に遊び、旧製煉所の影だも見ず、却て其反対の山腹に新製煉所あるを見て驚き、其工場に入りては場内到る処塵一片もなき清潔なるに驚き、大工場に職工の僅少にして恰も人なきが如き有様に驚き、諸機械の完備と巧妙に驚き、諸機械の操業円滑且つ完全なるに驚き、鉱業の発達も玆に至りて極れりと謂ふも、敢て不可なかるべしとの感を起せり。
今左に該工場の各所に於ける装置の大要を列記せん。
ビュート市に於ける諸坑より採出の鉱石は、当地に到る二十八哩間一般の広軌鉄道に依るものにして、鉱車は底開け式なり、一車の容量五十噸にして五十車を以て一列車となす、故に一列車能く二千五百噸の鉱石を輸送す、我国の一列車は何噸の鉱石を曳き得るや之を知らずと雖も、日本の鉄道が狭軌なりしは実に遺憾とする所なり。
ビュートより輸送されし鉱石は、製煉所の最下段に到る、然るに之を工場の最上段に致さんとするには直立三百尺の高低あり、此三百尺を登るには適当の勾配を得んが為め、鉄路は更に八哩の距離を以て屈曲
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迂曲を為し、遂に上段に達せしむ、斯の如くするも尚ほ勾配の急なるが為めに、五十車を以て一列車とせしものを変成し、八車乃至十二車を以て一列車たらしむ。
毎日ビュートより輸送の鉱量を一万噸とす。
ビュートより来りし鉱石が工場の最上段に達するや、玆に直に底開け車を開扉し鉱石溜に投下す、其鉱石溜は
  二等鉱  容量各千二百五十噸 八個  其総量一万噸
  採試料鉱 容量各二百噸    十三個 其総量二千六百噸
  石炭   容量二千五百噸   一個
斯の如く多量の鉱石を貯蔵すべき鉱石溜を有すと雖も、処理する鉱量多大なるを以て、僅に一日分を貯ふるに過ぎざるなり。
此工場○試料採取所は木造にして六階の建物なり、之を二区に分ち、各同一の機械同数を備ふ、各区に於て処理する鉱量一日一千八百噸、即ち若し二区共に運転する時は、一日三千六百噸を処理し得るものなり。
此工場に入る鉱石は、鉱石溜《ヲワービン》より圧搾空気車《エヤーロコモチーブ》に依て運送し来り、工場の下部に致す、而して先づ噛鉱機《クラツシヤー》に依て破砕し、揚鉱機《エレベーター》(バケツト式)に依て最上段に揚ぐ、夫より鉱石はブラントン氏専売の自動式試料採取機《ヲートマチツクサンプラー》を通過し、漸次自然的下行し、遂に最下段に達す、其間試料採取機に依て鉱石は五分の一と五分の四に切り分けられ、其五分の四を棄て五分の一を取りて、更に之を五分の一と五分の四に分ち、斯の如くすること幾十回、終に下段に達せし時は、恰も原鉱一噸より僅に三封度二分の試料を取るものなり。
斯くして得たる試料は、実に完全なる原鉱の平均にして、此試料を分析に付し、他は製煉に供するものなり、我日本に於ては分析に就ては厳密なることを云ふ者あるも、未だ試料を取るの不完全に就て論するもの少し、蓋し鉱石の平均含有を定むるには、其試料採取法の良否こそ実に重大のものと云ふべし、我国に於ても漸く鉱石売買盛んならんとす、宜しく試料採取の法を講ずべきなり。
当所の撰鉱所は幅四十二間半、長六十間の大建物にして、機械完備し操業順序整ひ、場内の清潔なる一滴の水の溢るゝなく、鉱粉の洩れ流るゝなく、実に予輩をして水仕業を為す撰鉱所に非ざるかの感を起さしめたり。
此工場を四区に分ち、又夫れを更に二区づゝに分ち、全体を八区となし、毎区各同一の機械を同様に設置す、故に其何れの部分に故障を生ずるとも、単に一区を休止すれば足るものにして、他の部分には何等の影響を及ぼさず、且つ又鉱石の供給に不足を来すことあるとも、其内の幾区を休止し他区は完全なる操業を為し得て、其便益なると経済的なるは論を俟たず、近年此種の設計は米国鉱業上の工場に流行を来せり。
当撰鉱所は一区に於て一日一千百噸の鉱石を処理するものにして、全部に於て八千八百噸を処理し得るものなり、今左に其各区に於ける諸機械の数を示さん。
  ブレーキ式噛鉱機《クラッシャー》     一区に付一台………八区に付八台
     装口幅十二吋二十四吋
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  同上                   二台………十六台
     装口輻五吋長十五吋
  ハシツ式粒鉱跳汰器《ジツグ》       六台………四十八台
  荒砕転鉱機《コールスロールス》      一台………八台
     幅十五吋径四十二吋
  細砕転鉱機《フアインロールス》      一台………八台
     幅十五吋径四十二吋
  エバンス式粉鉱跳汰器《ジツグ》      三十六台………二百八十八台
  中間鉱再砕転輥機《ミツドリングロールス》 一台………八台
     幅十五吋径四十二吋
  エバンス式中間鉱跳汰器《ジツグ》     十二台………九十六台
  径六尺ハンチントン砕鉱磨         三台………二十四台
  エバンス式仕上跳汰器           十二台………九十六台
  ウヰルフレー式淘汰器           三十二台………二百六十四台
其他に分級器・沈澱器・断水器・揚鉱機・筒篩等大小種々のもの殆ど無数と云ふべし。
当工場に於て撰別せられたる「コンセントレート」即ち汰物は、皆床下の溝を流れて場外に在る「セツトリング・タンク」即ち沈澱槽に入る。
沈澱槽の数九個あり、各十九尺角深さ十五尺にして、四百二十噸の汰物を沈澱せしむ、故に九個の沈澱槽に沈溜し得べき総鉱量を三千七百八十噸とす、該沈澱槽より流出する上は水(オバーフロウ)は泥鉱沈澱池に流入す。
沈澱槽に沈澱したる汰物を左の三種に分つ
  細粉汰物
         是は焼鉱室に送る
  第二沈澱汰物
  横沈泥鉱………是は固鉱所《プリツケツト》に送る
当室○撰鉱用汽缶室に、スターリング式汽缶にして各三百馬力のもの十個を備ふ、故に三千馬力を得るものなり、各缶は個々に径十四尺高百六十尺の煙突を有す。
当室○撰鉱用原動機室には四段汽筒三回膨脹式汽機二個を有す、汽圧は二百封度の蒸汽を用ひ三千三百馬力の動力を発生するを得るも、蒸汽を経済的に用ひんが為めに、百五十封度の汽圧にて一千七百五十馬力を発生せしめ居ると云ふ、尚其他にフレーザー・エンド・チヤルマース製作所製の千百五十馬力汽機一個を備ふ、但し是等の汽機は当工場に水力電気を用ゆるに至りたる以来之を予備的のものと為すことゝ成れり。
当工場に使用する水力電気は、遠く百哩を距るミゾリー河より六万ボールトの電圧を以て送電し来るもの、及フリンク・クリーキ河より二万二千ボールトの電圧を以て送電し来るものにして、其総馬力を五千とす、而して此電気を二千二百ボールトに下して使用し居れり。
汰鉱を沈澱せしめたる沈澱槽より流出の上は水《ウハミズ》に混在せる泥鉱を沈澱せしめんが為めに、大なる沈澱池六個あり、各池の大さ幅六十間、長さ百五間なり、此処に沈澱する泥鉱はリツジヤアーウード式の架空索線法に依りて、五噸容のバツケツトを以て掻き揚げ、之を天日に干燥
 - 第32巻 p.132 -ページ画像 
し固鉱所に送る、該池より流出する水は之を上部の工場へ繰り返し、鉱炉の鍰流其他に再用す。
斯の如く泥鉱に至るまで再び製煉に供する組織なるを以て、真に流出する鉱物は僅少なるを得べく、従て撰鉱上の鉱物消耗を最少ならしむるを得るものと云ふべし、宜べなるかな、当工場に於て撰鉱上の採収率は百分の八十三にして、其失ふ所僅に百分の十七に過ぎずと云ふ、蓋し斯の如き撰鉱上採収率の良好なる結果は、恐らくは撰鉱学の元祖たる独逸国に於ても未だ知らざるべく、無論我日本に於ては斯の如き好結果を得たる鉱山なかるべし。
当工場○焼鉱所にはマクドウガル式の焙焼炉にエバンス及クレペトコー氏が改良を加へたる径十六尺高十八尺なる六階形の炉六十四座を備ふ、各炉一日に焙焼する鉱量を四十五噸とす、此焙焼を施す鉱石は、前に記したる二種の汰物にして、焙焼したる鉱石は炉の下底より自然的に圧搾空気車に落下し、同車に依て反射炉に運送す。
焙焼炉は回転式にして其真棒は冷水を通過せしめ熱せしめざらしむ。此焙熱を施すに些少も燃料を要せず、鉱石中の硫黄を燃料として充分なりと云ふ。
焙焼炉より発散する瓦斯は之を沈煙室(ダストチエンバー)に導き、此所に於て飛散の鉱物を沈澱せしめ、而して後其瓦斯のみを煙突に去らしむるものとす、其沈煙室の下底は三角形を為し、所謂ホッパーにして、沈澱したる鉱物は自然的に下段に於ける圧搾空気車に落下し、該車に依て反射炉へ運送せらるゝ所となる。
当工場○反射炉に反射炉《リバーペシートリー》八座あり、各炉の長さ百二尺乃至百十六尺なりとす先きに焙焼したる鉱石は悉く此炉に於て熔解せらる、燃料には石炭を用ゆるものにして、炉内に鉱石の熔解するや毎八時間に鍰を掻き出すこと二回なり、其掻き出しを始むるは、炉内に熔解したるものが深さ三吋乃至四吋に達したる時を以てす。
鍰を掻き出すや直に流水の急走せる溝中に入るものにして、グラニユレート(粒体)と成らせられ、自然的に流れて遂に放棄所に行き、堆積せらる、此鍰を流す為めに要する水は、彼の沈澱池より繰り返し来りしものなり。
此鍰掻き出しの業は一人の職工が施す所なるも、急ぎ之を行へば二十分時間に能く六十噸の鍰を流し去ると云ふ、反射炉の下底に溜りたる鈹マツトは、炉の横側より時々抜き出すものにして、先づ銅板製の出口より鋳鉄溝に流れ、夫より十噸容の鉄器に注ぎ、此器に依てコンバーター(真吹?)へ送る所となる。
反射炉より発する煙は華氏六百度の熱を有するを以て、炉端を離るゝ所にスターリング式三百七十五馬力の汽缶二個を備へ、其余熱を以て蒸汽を発生せしむ、斯の如くにして六百馬力を得ると云ふ、是れ全く廃物を利用するものなり、尚ほ又反射炉に用ゆる石炭の半燃にて灰中に落下するものは、水流に依て跳汰《ジツグ》器室に送り、之を淘汰して骸炭を撰出し、熔鉱に用ゆるものたらしむ。
泥鉱及細粉鉱を固めんが為め、ブリツケツト(固鉱)法を施す、其固鉱にはチヤンバース・ブラザースのエンドカツト・オーガー・タイプ
 - 第32巻 p.133 -ページ画像 
煉瓦石製造器機を用ゆ、此機一台にて一日七百噸の鉱石を固むるものにして、当工場○固鉱室に同形の者四座を備ふ。
ブリケツト法を施し固鉱する者を左の諸鉱とす。
  一、細粉汰鉱
  二、一等粉鉱
  三、沈澱池泥鉱
  四、粉末骸炭(反射炉の灰より産出)
是等の諸鉱は、鉱石溜に貯へられたるものを運鉱帯《コンベーヤー》に依て此工場に運搬し来り固鉱機に入る、諸鉱の此機に入るや、攪拌せられて能く混和し「オーガー」式なるを以て全体の混合物が長き棒と成つて衝き出され、ベルトの上を自然的に搬送せらる、而して其中途に回転式切断機ありて、其鉱棒を十封度の重量を有する様に切断せられて、熔鉱炉に装入するに適したるものと為す、該工場の建物は幅十間、長さ四十五間の広大なるものにして、熔高炉三座を有す。
各高炉の幅は羽口の点に於て五十六吋(四尺六寸四分)高は羽口以上装入口まで十八尺、水筩二段の高さを有す、炉の長さ及処理鉱量等左の如し。
  長さ五十一尺の高炉………二座
   各炉一日の処理鉱量一千六百噸にして流出口二ケ所を有す
  長さ八十七尺の高炉………一座
   一日の処理鉱量三千噸にして鍰流出口三ケ所を有す
故に三炉にて一日処理の鉱量を八千六百噸《(マヽ)》とす。
高炉はマツセソン氏の専売式なるが、同氏は当製煉所の所長(マネージヤ)たる人なり、炉底は耐化煉化石を以て布き、其下は冷水を循環せしめたる鉄板より成る、長さ五十一尺の高炉は、各径七尺にして四十五度の傾斜を有する煙筒三個に依て炉内の瓦斯を煙道に導く。
長さ八十七尺の高炉は、同形の煙筒五個を具ふ。
高炉の瓦斯と煙は悉く沈煙室(ダストチエンバー)に入り、固形物を沈澱したる後、大煙道に導かるゝ所と成る、其沈澱室の構造は焙焼炉より出る所のものと同一なり。
熔高炉に装入すべき鉱石の類は、長百三十一間、幅二十八尺、高二十尺の大なる鉱石溜に貯へられ居るものなり、其鉱石溜は内部に中仕切りありて
  一等鉱・荒汰物・石灰岩等に区分す
是等の装入物を抜き出すには、鉱石溜の下部に於ける戸扉を圧搾空気に依りて開け、装入列車と称する鉱車へ投入す、其装入列車は直に高炉の上段に来り、高炉の両側より炉内に装入するものなり、高炉の戸扉は数ケ所同時に圧搾空気に依て開けられ、数十の鉱車は皆横開け式にて一時に装入せらる、其軽便にして神速なる実に巧妙を極む、日本にては高炉の上を「オプンチヤージ」と称する炉頂に蓋なきものを良好とするが如しと雖も、米国にては皆煉化石構造の上覆を有す、蓋し鉱石其他の調合は総て精確に量目を秤り、其分量宜しきを得たるものなれば、敢て、炉内の工合に不調を来すが如きこと無きを以て、敢て「オプンチヤージ」の必要を感ぜざるべし、若し然りとせば或は炉頂
 - 第32巻 p.134 -ページ画像 
の開放式ならざる方可ならんか。
高炉に装入量は、一調合を八千四百封度乃至一万二千封度とす。
高炉より流出の鍰と鈹は径十六尺の円形前炉(セツトラー)に入り、鍰は其上を溢流し流水に依て粒体たらしめ放棄せらる、鈹は時々下部より抜き、十噸づゝ鉄器に取り、之を「コンバーター」(真吹?)に送る、前炉は半吋厚の鋼板を以て製作したるものにして、其内部は厚さ一尺の硅酸煉化石を以て巻きたるものなり。
該工場○コンバーター室の建物は幅三十間に長八十六間の大なる建物にして、場内十三個のコンバーター(真吹炉と称すべきか)を備ふ、此コンバーターは横置樽形式(ホリゾンタル・バーレル・タイプ)にして、径八尺、長十二尺五寸なり、其運転は水圧機に依るものなり、該工場に電気式のクレイン六十噸のもの十個、十五噸のもの二個あり、前者は主に鈹器・鍰器等の運搬に用ひ、後者は主に工作所へ運搬するの用に供するものなり
コンバーター一個に装入する鈹の量は之を七噸とす、而して是より生ずる鍰は之を鍰壷に取り、機械にて型に移し冷却せしめたる後鉱石溜に送り、再び熔鉱に装入する所となる。
此室○高炉原動室にコルリス式汽機を備へ、直接に煽風機を運転する装置とす、其煽風機左の如し。
  コンナースブイル形 六個
  ルーツ形      二個
是等に依て高炉へ送風する風量を二十四時間に三億六千立方尺とす、其風圧は四十オンスなり。
又此室内に空気圧搾機あり、其数・気圧及空気の用所等左の如し。
  汽圧十六封度のもの(コンバーター用)    七台
  同九十封度のもの(高炉・鉱石溜等の開扉用) 三台
  同九百封度のもの(圧搾空気専用)      四台
尚ほ此室に、コンバーターに要する水圧器の為めに水圧三百六十封度を有せしむる「ハイドロリツク・プレツシユワー・ポンプ」あり。
近時水力電気を使用するに至りし以来、幾多の汽機は此室内に遊び居る姿と成れり。
此室○電力室内には、六百馬力の「モーター」より直接帯皮を以て運転せしむるにルーフ式煽風機四台を備ふ、風圧は四十オンスにして、二十四時間に二億万立方尺の空気を送るものなり。
当工場内各所の運搬に使用する圧搾空気に依て運転せしむる列車は、「エチケーボーター・エンド・コンパニー」と称する会社の製作に係る「エヤー・ロコモチーブ」にして、其車数二百四十輛あり。
各車の重量は十二噸半乃至二十二噸までのものなり、圧搾空気の圧力は空気溜に於て九百封度なるも、之を使用するには「リヂウシング・バルブ」に依て百五十封度に下すものなり
場内に於ける此車道の延長を十二哩半とす、鉱車の装入に要する時間は僅かに二分間にして、実に迅速を極む、全工場に於て運搬する量を一日一万三千噸とす。
当工場の煙道は広大なるものにして、其幅員の大なる、延長の大なる
 - 第32巻 p.135 -ページ画像 
共に稀なる所なり、今左に其延長等を示さん。
  熔高炉と其沈澱室間   長千六百五十三尺 幅二十尺 高十五尺
  反射炉と其沈煙窒間   長千二百五十三尺 幅二十尺 高十五尺
  焙焼炉と其沈煙室間   長四百八十八尺  幅二十尺 高十五尺
  コンバーターと大煙道間 長七百〇三尺   幅七尺  高七尺
是等の煙道は皆合して大煙道に連続す、其大煙道の総延長二千三百二十四尺にして、前後其幅を異にすること左の如し。
  前部 長千三百三十四尺間 幅六十尺  横壁高二十尺
  後部 長九百九十尺間   幅百二十尺 横壁高二十尺
以上の煙道は皆煉化石に鋼鉄を以て構造したるものにして、其底部は双方より三十度の傾斜を以て三角形を成し、沈下したる煙灰は自然に落下し、下底の蓋を開きて鉱車に取るの装置たらしむ。
煙突は内径三十尺にして、其基礎より頂上迄の高さを三百尺とす、然りと雖該工場の最下部たる此地の平地より云へば、該煙突の頂上は九百三十二尺の高さを有するものなり。
従来此地に於ても煙害の問題ありしと雖、此高煙突を建築したると、広大なる煙道を設けたる以来、最早低地に於ける農業に煙害を及ぼさずと云ふ、宜なる哉、余輩等該地に到りし時、恰もアナコンダ市に共進会ありしが、其出品の主なる者は農産物と家畜類にして、其見事なるは、此附近の農産が煙害を蒙らざることを証するに足れりと云ひ居れり。
当工場内に亜砒酸を製する所あり、是は砒素を多く含有する鉱石より先づ其砒素を蒸発せしめ、酸化したる後冷室に於て之を沈澱せしむるの法なり、之を行ふには先づ「ブラントン」専売の回転式焼鉱炉(ハース)に於て焼鉱し、而して夫より発散したる砒素をして屈曲迂回(ヂツグザグ)の煙道を通過せしむ、玆に於て砒素は空気中の酸素と化合して亜砒酸と成り煙道の寒冷なる所に至りて結晶し沈澱する所と成る其煙道の長さは二百四十尺なり、斯くして得る所の亜砒酸(AS2O3)は百分中九十の者なるを以て、之を再び骸炭の燃火に投じて更に今一回蒸発せしめ、而して終に百分中九十九・八の亜砒酸(AS2O3)に精製す、是れ即ち販売に適したる者なり。
当工場に於て一日に要する諸物品類大凡左の如し
  鉱石      一万噸   石灰炭      二千三百噸
  骸炭      五百五十噸 石炭(反射炉用) 五百噸
  石炭(動力用) 五十噸   水一分時間    三万五千瓦倫
  使役人     三千人
  一ケ月の支払金三十万弗
ビュート市より当地迄二十八哩間、鉱石を運搬する運賃を一噸に金十二仙とす、之を我日本の金に換算する時は一哩に付き約八厘六毛に当る、米国の如き物価高貴なる国に於てすら斯の如く運賃僅少なり、我日本に於ても鉱石の如き粗物の運搬は、何卒斯く低廉ならんことこそ望ましけれ。
当工場に於て銅の仕上りは何程位なるやと云ふに、ビュートに於ける採鉱費及運鉱費等をも込め、製煉仕上りの所にて銅一封度に付金九仙
 - 第32巻 p.136 -ページ画像 
なりと云ふ、之を我日本の金に換算すれば銅百斤金二十四円にて仕上る計算と成る、故に現下我日本の相場を百斤三十二、三円とすれば、百斤に付き八、九円の利益と成る勘定なり、況んや尚ほ其上に銅一封度中に一仙四分の三の金銀を含むと云ふ、其金銀の割合左の如し。
  銀 一仙二分の一(但一オンスを六十仙とす)
  金 〇仙四分の一(但一オンスを二十弗六十七仙とす)
鉱石の含銅は平均百分の五乃至六なりと云ふ、而し製煉上の損失は左の如しと云ふ
  反射炉の鍰中含銅  百分中〇、四
  熔高炉の鍰中含銅  同〇、三
但し反射炉の鍰は再び熔鉱製煉に供するを以て、之を悉く失ふものにあらざるは論を俟たず。
反射炉及熔高炉より産出の鈹及鍰の分析結果左の如し。

           反射炉の鍰《スラツグ》  熔高炉の鍰《スラツグ》
               %            %
  酸化鉄(JeO)    三二・八         一六・八
  石灰(CaO)      三・〇         二七・二
  硅酸(SiO2)    三九・六         三八・三
  礬土(Ac2O3 )    一〇・二          八・三
  硫黄(S)       〇・六          〇・三
  銅(Cu)        ―           〇・二九
  金銀(Au,Ag)      ―           痕跡
  銅(Cu)      四二・八         四七・一
  鉄(Je)      二七・八         二五・二
  硫黄(S)      二五・九         二四・一
  銀(Ag)  一噸ニ付一五・五℥    一噸ニ付一六・四℥
  金(Au)      同〇・一一℥       同〇・一℥




〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一三八―一四五頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0015)
第32巻 p.136-138 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一三八―一四五頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
    第六節 ファーゴー及グランドフォーク概況
  (上)ファーゴー市の概況
ファーゴー市は、北ダコタ州に於ける重要なる市の一にして、鉄道幹線二個の交叉点たり。
セントポール及ミネアポリスの西北二百五十哩の所に在りて、東西四百哩・南北三百哩の地方に対する集散点なり。
主として農業・畜産及鉱山に関係し、南北ダコタ、ミネソタの西部、モンタナの四州に対する、実業的関係最も密接なり。千九百八年の調査によれば
  国立銀行        三
  私立銀行        一
  トラスト・コンパニー  二
  資本及積立金総計  八十五万弗
  預金額       六百万弗
之れを三年前に比すれば、二百五十万弗の増加なり。
 - 第32巻 p.137 -ページ画像 
一年間に於ける手形交換所交換高三千二百七十五万弗。
  郵便局取扱金銀出入  二百万弗
  郵便切手売上高一年間 九万九千六百五十七弗六十仙
  金物卸売の大会社      一   雑穀卸売会社    二
  絹物卸売          一   馬具類卸売     二
  紙類卸売          一   文房具卸売     一
  葉巻卸売          三   瓦斯管諸機械卸売  一
  バター・玉子類似の商品卸売 一   肉類卸売      一
  石油卸売          二   其他農具の卸売  二十
以て此市が農業地方にありて、農具の集散点たるの事実を見るべし。
  小学校           七   実業学校      二
  高等学校          一   新教神学校     一
  カトリツク大学       一   音楽学校      二
此他北ダコタ州農科大学・製薬学校・合衆国の農事試験場あり。
市制を布ける面積二千三百五十エーカー。
人口一万八千乃至二万。
課税の為めにする評価額五百三万八千弗。
道敷き十五哩。
  水道大鉄管延長  四十哩   下水鉄管延長  三十五哩
  瓦斯の大導管   二十五哩  電灯線     十八哩
  電気鉄道延長   三十四哩  電気街灯    二百十七
当市が客年(一九〇八年)市街改良の為めに投じたる金額は、二十二万五千弗なり。
  寺院        二十五
  病院の大なるもの    二
  ホテル        十五   其の室数  一千
    競馬会社・競馬場あり
  日刊新聞  二   週刊新聞  五
  電話会社  一   其の加入者 三千三百
此市を通過する鉄道は大北鉄道とノーザン・パシフヒツク、シカゴ・ミルゥオーキー・セントポールの三線なり。
  客車一日の出入  五十   急行列車  三
此市附近に於ける地価は、近来非常に昇騰したれども、今日尚ほ一エーカー三十弗乃至五十弗にて、之れを買収することを得べし。之れをアイオワ、若くはイリノイス州に於ける一エーカー百二十五弗乃至百五十弗余に比するときは、比較上非常なる優勢の地位を占むるとは、当地方人の最も誇つて言明する所なり。
  (下)グランドフォーク市の概況
此市は極めて近年の発達に係り、一代以前には、広漠たる原野に少数の土人が各地に散住したる外、何等見るべきものなく、歴史もなく伝説もなく、数百年の間、殆んど文明人士の生活に適せざる所として放棄されたりしが、最近僅に三十年にして今日の如く発展し、又大いに発展せんとする一都市となれり。
元来北ダコタ州は、ロッキー山以東に於て、農業的最も重要なる州に
 - 第32巻 p.138 -ページ画像 
して、其面積七万平方哩、総面積四千五百万エーカーの内、約九割は耕作に適す。尚州内の大部分は、地下に石炭層を含み、所謂天恵無尽の地なり。
一九〇九年全州に於ける小麦の産額は一億ブッセル、即ち一エーカー十五ブッセルの割合に当る。其他麻二千万ブッセル、裸麦二千万ブッセル、オート麦五千万ブッセル、馬鈴薯五百万ブッセル、石炭五十万噸、乳酪六百万弗、各種畜産の価額五百万弗に達し、一年間の農業産物総価額三億五千万弗と称す。
此州が小学教育の為めに費す年額四百万弗にして、他に普通教育の為めに、土地の寄附を受けたるもの、其価額五千万弗に上る。
州内に於ける財産の総価額は十億弗以上。
此市の発達は最近三十年の間なれども、殊に長足の進歩をなしたるは一八八八年、合衆国の一州として編入されたる以来のことなり。
此市は北ダコタ州北端に於ては、自然に商業の中心たるの好地位を占む。此州元と農産を主とするを以て、農業に関しては、一切の最善の方法と発明を採用し、此点に於ては優に合衆国の第一位に居れり。
耕作には多く蒸汽機関を用ひること多く、牧畜用としてはサイロ(牧草を其儘に冬期迄保存収容する機械)を採用し、其他凡百の機械を利用するが故に農業の各部門に渉つて手工を用ゆること極めて少し。
此市興つてより僅に十数年、而かも人口已に一万四千に達し、道路延長十五哩、至る所下水・排水・上水・街灯の設備を有し、点灯及水道は市有に属す。但し水道は瀘過式にして最も堅牢なるものと称す。
市の小なるに拘らず、寺院・基督教青年会・婦人青年会・図書館・公園・病院等何れも整頓せり。
此市に州立大学あり、八の分科を含む。教員七十名、学生一千名。小学校の教員七十名、小学児童三千名、校舎七。
製粉業・製材業相当に振ひ、其他鉄・鋼鉄・家屋建築・屋根用鉄板・煉瓦(州内に用ゆる煉瓦の六割は此市にて製出す)、屋根葺諸材料等、此市に産するもの多し。
グランドフォークの一特色は、全然禁酒の都市たる事にして、一の居酒屋もなく、市内に於てはアルコール製の飲料を一滴も販売することを許さず。
日刊新聞 二、週刊 三、其他定期の雑誌多し。
商業倶楽部は会員三百名あり、最も敏活に活動しつゝあり。
附記
  停車場に五十三台の自働車を備へて、実業団の一行を迎へたるにより、此市の倶楽部に於て、市民より歓迎の宴を開きて一行を饗せられたとき、余は自働車の多きに驚きて、我帝国の首府東京にても、五十台余の自働車を卒爾に集むることは難しと言ひて賞誉せしに、其市民中の一婦人、即ち自働車の所持者は余の言を不満として、当市にては猶二百七台の自働車ありと、一行中の人に誇りたる一笑話ありし所なりき。(青淵識)



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一五一―一五五頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0016)
第32巻 p.138-140 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一五一―一五五頁明治四三年一〇月刊
 - 第32巻 p.139 -ページ画像 
 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
    第八節 ヒッビング市概況
ヒッビング地方に於ける鉄鉱の産出は非常なるものにして、地平面の土壌を掘り去れば、即ち総て鉄鉱なりとの、殆ど夢の如き話は、当地にては事実に之を見るを得べし。
此地は有名なる鉄鉱脈、メサバ山脈の一端にあり、マホニング鉱、及びバルクプール鉱の両鉄鉱、及びスチブンソン鉱は、何れも採掘額百万乃至百二三十万噸に達し、其他採鉱年額百万噸を超ゆるもの少なからず、要するにメサバ山脈には、約五十八の採鉱地あり、一年の採鉱額千二百万噸を超ゆると云ふ。
鉱石はヅルース市を経て、ピツツバーグ及びシカゴ、ゲリー等の製鉄所に供給せらる。
メサバ山脈に並行して、十五哩を隔てたる所に、バーミリオン脈と云ふ鉄鉱脈あり。著名の鉄鉱数鉱を有す、オリバー鉄鉱会社に属し、採鉱年額四五百万噸に上る。
此山脈の鉱石は、多くツーハアバーを経て、ピッツバーグ、シカゴ等の製鉄所に送らる。尚此ヒッビング地方に於ける、鉄鉱の重もなる産出額を挙ぐれば左の如し。
    ヒッビング産鉄高表

 鉱坑        一九〇七年産出量   一九〇八年産出量
                  噸          噸
 アグニユー  …………一四九、〇八四…………一六四、四八六
 アルバニー  …………四三九、〇八四……………六四、八六〇
 バート    ……一、五〇一、二七二……一、四六〇、九九八
 タショーム  …………二五八、七九三…………二二八、三八六
 クラーク   …………三一九、九八三…………三三四、五九四
 クロックストン…………三四九、八五三…………一五四、八六八
 サイプラス  …………二六〇、九四八…………一一五、七四五
 デール    …………………………………………………………
 グレン    …………二〇五、四二六…………二七二、一四二
 ハートレー  …………三三四、六四六……………五五四、六二《(マヽ)》
 ハル     …………一五七、三六六…………一六三、〇二〇
 ハルラスト  ……二、九〇〇、四九三……二、九二六、六八三
 ジョルダン  ……………六一、九九六…………一一八、五二九
 ローラ    …………一四九、四一〇…………一七六、七二五
 リートニヤ  …………三〇一、三六八…………二八九、四九〇
 レオナルド  …………一三七、三一六……………………………
 マオニン   ……一、五六四、三三二…………六一一、五九二
 モンロー   …………一五六、八〇九……………………………
 モーリス   ……二、〇七六、三八八…………五二八、一五四
 マイヤース  …………一五三、七七〇…………一五〇、二四九
 モルトン   …………………………………………………………
 ナッソー   ……………一九、一七二……………………………
 ピーアス   ……………六八、八八六……………………………
 ピルスベリー …………四八九、七一八……………五九、八八九
 - 第32巻 p.140 -ページ画像 
 ラスト    …………二一三、三五五…………二二七、〇七九
 セラース   …………一五五、〇六〇…………三五四、七八〇
 シェナンゴー …………三八七、〇九三…………四六一、八八七
 スチブンソン ……一、一四二、九七七…………五一六、七七〇
 サスクイハンナ…………一三七、二〇七…………一八二、三五二
 スクラントン …………………………………………………………
 デナー    …………一九〇、九〇三…………一七四、〇三三
 ユテア    …………三〇四、八六四……………五七、一九四
 ユノー    …………………………………………………………
 ウッエグ   …………一一三、三三四……………一九、六一〇
 ウンニフレッド……………九四、八六七……………六一、三四一

ヒッビングの人口は、一九〇五年度に六千五百六十五人あり。
近年の産出鉄鉱一ケ年三千万噸と号す。
一九〇七年には、レーキ・スペリオル産鉄地方、マアクエツト・ゴヂビック及びメノマリー地方を併せて、其総産出額四千二百万弗に上ぼれり。其内ヒッビングは、最も主要なる地歩を占む。
此市は鉄鉱の産出以外には、特に何等の見るべきものなく、物価は非常に高価なりと云ふ。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一五七―一五九頁明治四三年一〇月刊(DK320007k-0017)
第32巻 p.140-141 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一五七―一五九頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
    第十節 ヅルース市の概況
此市はシューペリオル湖の西岸にあり。湖上の運輸便なるを以て穀物材木の積出地たり。又附近より産出する鉄鉱石の輸送地たる地位を占む。人口は意外に少なきも、船舶の出入数非常に多く、対岸のシューペリオル市(ウヰスコンシン州に属し、ヅルースと州を異にすると雖も経済上の関係極めて密なり)と此市の船舶の出入合計噸数は一年大約二千四百万噸に達す。其輸送力の大なることは、此市の誇りとする処なり。ゼニス骸炭会社は一日に二百五十噸のコークスを製造す。
此市とシューペリオル市とにある製粉所は其数四にして、一日の製粉高は八千バーレルなり。
大北動力会社は、現在三万馬力の発電をなし、近き将来に於て、一万馬力を増加の計画あり。
港湾の入口に架する鉄橋は、特殊の構造にして、旅行中の一偉観なりき。在留の本邦人は十四五人なり。
此市に関する主要なる統計左の如し。

    (一九〇〇年)       (一九〇八年)
人口 五万二千四百六十九人   七万六千人
死亡率(人口千人に対し)    九人、三一
建築許可証下附の数 三百三十件 千二百三十六件
其価額 八十八万四千二百十一弗
                二百七十三万九千五百三十六弗
郵便局の収入 十二万七千五百三十二弗二十四仙
                二十八万二千百二十九弗四十三仙
 - 第32巻 p.141 -ページ画像 
湖水運搬荷物発着数 千百七十二万四千二百四十五噸
                二千三百七十九万七千百六十二噸
其価格 一億三千五百十万九千百九十六弗
                二億二千三百十一万四千三百二十弗
ヅールスより積出貨物一日の平均分量…………七万五千百十九噸
鉄鉱積出高 九百四十六万五千三百五十五噸
                千八百七万四千四百三十八噸
石炭の着荷 二百六十七万六千五百九十七噸
                五百八十万五千七百〇三噸
穀物エレベーターの数………………二十一
其分量             三千十七万五千噸
穀物の着荷 四千六百八十五万千百十一ブツシエル
                八千四百五十万八千百六十二ブツシエル
穀物の積込 四千四百六十万二千八百六十五ブツシエル
                八千百二十一万二千七百五十二ブツシエル
港に入りし船舶の数 三百二   四百一
同上噸数 二十八万四千四百七十四噸
                六十一万九千四百四十七噸
ヅルース地方に於て伐り出したる材木 五億六千七百四十八万二千呎
                三億六千七百十四万六千呎
図書館の蔵書部数        五万二千三百四十七部
同上一日の貸出書籍平均数    五百三十九部
鉄道の当市に入るもの十線、尚ほ近々に二線を加へんとす
公園の総数  十   其面積  三百五十エーカー