デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.154-215(DK320009k) ページ画像

明治42年9月21日(1909年)

是日、栄一等渡米実業団一行セント・ポールニ入ル。次イデシカゴ、クリーヴランド、其他ノ都市ヲ巡回シテ、十月十一日ニュー・ヨークニ向フ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK320009k-0001)
第32巻 p.154-157 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年 (渋沢子爵家所蔵)
九月二十一日 雷雨 冷
午前五時過汽車セントホールニ着ス、七時起床、支度ヲ整ヘ八時朝飧ヲ食ス、食後案内ノ人ニ導カレテ市街ヲ一覧シ、正午オーヂトリヨム
 - 第32巻 p.155 -ページ画像 
ト称スル公会堂ニ抵リ、市内商業者ノ催ニ係ル大宴会ニ出席ス、有名ノセームス・ヒル氏、其他ノ名士モ来会ス、食卓上一場ノ答辞演説ヲ為ス、畢テヒル氏其他市長等ヲ訪問シ、午後六時ミネソタ倶楽部ニテ地方有志者ノ催ニ係ル晩飧会ニ出席ス、八時半汽車ニ帰リ、ヱリオツト氏其他ノ来訪ニ接ス、秘密結社ノ事情説明ノ為ニ人ノ来訪アリ、夜十一時過汽車セントホールヲ発ス
九月二十二日 雨 冷
午前七時起床、支度ヲ整ヒ、朝飧ヲ食ス、八時半マヂソンニ着ス、ウエスコンシン大学ヨリ歓迎ノ人、車中ニ来リ、州知事モ来リ迎フ、自働車ニテ大学ニ抵リ、総長ノ案内ニテ校内ヲ一覧ス、日本ヨリ来リテ修学スル学生ニ一場ノ訓示ヲ為ス、夫ヨリ農科大学ニ抵リ牛馬飼養ノ方法及牛酪・バタ等製造ノ方法ヲ見ル、畢テ総長ニ謝詞ヲ述ヘ、再ヒ汽車ニテ午後二時半ミルオーキー市ニ着シ、地方歓迎員ノ案内ニテ製革所及麦酒醸造所ヲ見ル、何レモ規模宏大ナリ、後ホテル・ロヰスターニ投宿ス、夜七時半当地商業会議所ノ催ニ係ル宴会ニ出席ス、来会者無慮三百名、州知事・市長・陸軍中将等ノ来会アリテ、饗宴最モ鄭重ナリ、主人側ニハ司会者・知事・市長・中将等ノ歓迎演説アリ、依テ答辞演説ヲ述ヘ、十二時過散会
九月二十三日 晴 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ支度ヲ整ヒ、八時朝飧ヲ食ス、後自働車ニテ湖水ニ沿フタル公園ヲ経テアルムス・チヤルマスト云フ鉄工所ニ抵リ場内ヲ一覧ス、構造壮大ニシテ頗ル整頓ス、工場ノ敷地三十六エーカーアリト云フ、起業費六百万弗ニシテ、一ケ年ノ事業高弐千五百万弗ナリト云フ、一覧畢テ、工場内ノ倶楽部ニ於テ午飧シ、一場ノ答辞演説ヲ為シ、夫ヨリ市役所・商業会議所・穀物取引所・廃兵院等ヲ一覧シ、取引所ニテ一場ノ挨拶ヲ述ヘ、夕五時旅宿ニ帰ル、晩飧後当地ニ於テ新築セシ公会堂ニ於テ催ス処ノ音楽会ニ抵ル、来会者七・八千人ナリト云フ、頗ル盛会ナリキ、畢テ直ニ汽車ニ搭シテ市俄古ニ向テ発車ス
九月二十四日 晴 冷
午前七時起床、支度ヲ整ヒ観覧車ニ出レハ、シカゴ市ノ人多ク歓迎ノ為メ来会ス、朝飧ヲ車内ニ於テ食シ、畢リテ直ニ自動車ニテ旅宿コングレス・ホテルニ抵ル、七年前投宿セシ、オージトリヨム・ホテルノ改名セルナリ、十時地方人士ノ案内ニテリンコールン・パルクヲ一覧シ、第一国立銀行ニ抵リ、地方有数ノ銀行家ニ会見ス、後ストツクヤード内ノ倶楽部ニ抵リテ午飧ス、食後一場ノ謝辞ヲ述ヘ、夫ヨリ汽車ニテゲリーニ抵リ、大規模ノ製鉄工場ヲ見ル、汽車自由ニ場内ヲ通過ス、畢テ旅宿ニ帰リ、晩飧シテ、直ニ衣服ヲ改メテ劇場ニ抵リ観劇ス蓋シ当地商業会議所会頭スキンナー氏ノ案内ニ係ル、夜十一時過観劇畢テ帰宿ス、此夜ノ演劇ハ時々舞踏ヲ為スモノニシテ、特ニ本邦ノ少女ノ如ク扮シタルモノ多ク、其風采容儀ハ頗ル拙劣ナリキ
九月二十五日 晴 冷
午前七時起床、入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、食後室内ニテ、シヤトル市ノ田中領事・ホートランドノ沼野領事○沼野安太郎・桑港永井領事○永井松三ニ書状ヲ認テ郵送ス、且田中・沼野二氏ヘ為替金ヲ送付ス、十二時半ヘ
 - 第32巻 p.156 -ページ画像 
ビヤン氏ノ案内ニテ湖岸倶楽部ニ抵ル、シカコ・ミルオーキー鉄道会社ノ催ニ係ル午飧会ニ列シ、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、後市加古大学ニ抵リ、校内ヲ一覧シ、校長宅ニテ茶菓ノ饗応アリ、教員ホルトン氏夫妻ト会話ス、蓋シ氏ハ日本ニ来遊セシ人ナリ、午後六時帰宿、七時晩飧シ、十時半ヨリ、頭本氏其他ノ人々ト、トレビオン新聞社ヲ一覧ス、規模宏大ニシテ、経営敏活ナリ、五十余年継続シテ営業スルト云フ、十二時過帰宿ス
九月二十六日 晴風 冷
午前六時半起床、直ニ入浴シ、畢テ日記ヲ編成ス、八時朝飧ヲ食シ、後家人等ト撮影ス、柳原寿三郎氏セントルイヨリ来訪ス、又東京瓦斯会社員前田某来話ス、十一時オーデトリヤム劇場内ニ於テ、カンソーラス博士ノ耶蘇教カ東洋ヨリ得タルモノト題スル演題ニテ説教アリ、畢テ旅館ニ帰ル、午後一時ホテルニテ午飧シ、二時過ヨリ堀越民・中野氏等ト松原領事○松原一雄ヲ訪問ス、午後四時過旅亭ニ帰リ、シヤトル領事田中氏、及ホートランド領事沼野氏ヘ書状ヲ発送シ、且寄附金合計六百弗ヲ郵送ス、又桑港領事ニ書状ヲ発ス、午後七時此地ノ青年会館ニ抵リ、晩飧ノ饗ヲ受ク、神田・渡瀬・田村・石橋ノ諸氏同行ス、食卓上一場ノ謝詞ヲ述ヘ夜十一時帰寓ス
   ○九月二十七日ヨリ十月一日マデ記事ヲ欠ク。
十月二日 曇 寒
午前五時頃汽車クリブランドニ着ス、七時起床、朝飧ヲ食シ、九時地方歓迎員ノ案内ニテ市内ノ旅館ニ抵ル、地方新聞記者来リテ談話ス、十二時半旅館内ニテ此地商業会議員ノ催ニ係ル午飧会アリ、食卓上市長ノ演説アリ、依テ答辞ヲ述ヘ、食後自働車ニテ市内ヲ遊覧シ、公園ヲ散歩ス、午後四時、前ノ州知事タリシヘリツク氏宅ニテ茶菓ノ饗応アリ、畢テコントリリ《(ー)》倶楽部ニ抵リ、商業会議所ノ催フセル晩飧会ニ出席ス、食事後舞踏会アリ、夜十一時頃旅宿ニ帰ル、此日ノ案内ハ終日商業会議所会頭ブロス氏ニシテ、兼子・頭本氏同伴セリ、風強クシテ寒気面ヲ冒スノ感アリキ
十月三日 晴 暖
午前七時半起床、少シク風邪気ナルニヨリ、入浴ヲ廃ス、八時半ヨリ各商業会議所会頭ト共ニ朝飧シ、今日、団員ノ総会ニ関スル要件ヲ協議ス、十時事務所ニ於テ総会ヲ開キ、要務ヲ議決ス(米国側ヘ紀念品贈与ニ関スル経費支出ノ件、常議員撰定ノ件、明日久弥宮殿下《(久邇宮殿下)》ヘ伺候ノ件、其他諸件ヲ議定ス)午後一時半午飧シ、後大野伊之助氏及新聞記者等ノ訪問ニ接シ、三時頃ヨリ本邦留守宅篤二・武之助等、佐々木尾高・八十島等ヘノ書状ヲ認ム、又シヤトル及桑港ノ領事ヘ書状ヲ発送ス、七時半晩飧シ、後露人ノ来訪アリ、夜十二時就寝ス
此日ハ久弥宮殿下ヘノ伺候ヲ他人ニ托シ、明日此地ノ歓迎ヲ受クル事ニセシヨリ、終日旅宿ニ在テ書状ヲ認ムル事トス
横山徳次郎氏ヘ書状ヲ発シテ、児等ノ勉学ヲ依頼ス
十月四日 曇 冷
午前六時半起床、直ニ入浴シ、畢テ日記ヲ編成ス、八時朝飧ヲ食シ、九時市内ニアル鋼線製造会社ニ抵リ、場内各所ヲ巡覧ス、鋼線ノ細キ
 - 第32巻 p.157 -ページ画像 
モノハ𥿻糸ノ如キニ至ル、実ニ巧緻ト云フベシ、一覧畢リテ公園ニ抵リ、草木培養ノ事ヲ説明セラル、十二時過青年会ノ案内ニテ商業会議所ニ抵リテ、会員ト会シテ午飧ヲ共ニス、食後一場ノ演説ヲ為ス、二時旅宿ニ帰リ、更ニ頭本氏ト共ニヘリツク氏ノ銀行ヲ一覧シ、又他ノ銀行ニ抵リテ、市内電車鉄道ニ関スル処置ノ事ヲ聞ク、後自働車ニテ十哩余ノ田舎ニ赴キ、養老院及感化院ヲ見ル、合計人員約七・八百人其経費ハ市ヨリ支出スト云フ、一覧畢リテ帰宿シ、此夜七時半商業会議所ノ催ニ係ル宴会ニ出席ス、有名ノロツクヘーラー氏参席シテ、種種ノ談話ヲ為ス、会頭ノ演説ニ次テ、一場ノ答辞ヲ述ヘ、夜十一時散会、十二時汽車ニ帰リ、午後一時就寝《(前)》、汽車夜中ニダンキルクニ向テ進行ス
十月五日 晴 冷
午前七時半起床、汽車中ニテ支度ヲ整ヒ、八時過朝飧ヲ食ス、九時車ヲ下リテ、ダンキルク市ノ汽鑵車製造所ヲ一覧ス、ヒルトルヒヤ市ニアル、ホードビン製造所ニ比スレハ稍小ナルモ、規模モ大ニシテ諸事整頓セリ、一日ノ製造高弐台ナルモ、近ク加倍スヘシト云フ、畢リテ室内温暖器ノ製造所ヲ見ル、鋳形ニ用フル砂ノ配合肝要ナリト云フ、夫ヨリ自働車ニテ数哩ヲ行キ一村落ニ抵ル、葡萄ノ名産アリト云フ葡萄園ニテ小憩シ、葡萄酒醸造所ヲ一覧ス、畢リテ汽車ニ帰リ午飧シ、汽車バツハローニ抵リテ又車ヲ下リ、当市ヨリ来レル歓迎委員ノ案内ニテ病院及小児病院ヲ見ル、市ノ有志者ノ寄附行為ニ成ル財団法人ナリト云フ、一覧後公園ヲ経過シ、後案内セシ〔  〕《(欠字)》ノ家ニテ休足シ五時半ホテル〔  〕《(欠字)》ニ投宿ス
   ○十月六日以後ノ日記ヲ欠ク。


渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛(明治四二年)一〇月三日(DK320009k-0002)
第32巻 p.157-158 ページ画像

渋沢栄一書翰 佐々木勇之助宛(明治四二年)一〇月三日
                  (佐々木勇之助氏所蔵)
八月三十一日附貴翰、米国シカゴニて拝見仕候も、日々多忙ニ罷在御答延引仕候、先以貴台御清適欣慰之至ニ候、老生及実業団一行爾来無事、米国各都市ニ於る歓迎ハ予想以上ニて、只々日夜応答と奔走と饗宴と各事物之見物ニ忙殺せられ居候、併太平洋沿岸ハ勿論、其他内地ニ入りたる各都市ニ於ても、真ニ歓待を尽し、取扱之鄭重なるのミならす、多数歓迎員ハ申迄も無之、市街一般之人士、就中児童抔まて手を挙げ帽を振り、歓声湧か如き有様ハ、愉快此上も無之義ニ御座候、ミネヤホリスニ於て大統領謁見も好都合ニ相済申候、当日老生之演説も米国各種之新聞ニ好評有之候も、タフト氏之演説も尤以厚意を寄せられ候言語ニ有之候、其後セントホールニて有名之セームス・ヒル氏にも会見款談し、且食卓を接して会食仕候、又グランド・ラヒツトニ於てオーブライヤン大使にも会見、同しく会食仕候、只毎日早朝より自働車ニて工場見物いたし、多くハ倶楽部等ニて午飧し、其地方人士少きも百名以上之会合ニて、殆ント毎日二回宛之歓迎演説ニ対する答辞を述候都合ニて、相手ハ代るも当方ハ持切之姿なるニ閉口仕候、併神田男爵ハ英語充分なるニ付、時々英語演説之補助を得て、聊か休息之場合も有之候、尚此末之巡回都市今日よりも多く候ニ付、一面ニハ
 - 第32巻 p.158 -ページ画像 
少々退屈之気味も相生候も、篤と熟考候時ハ、此等之行為ニして両国之通商と平和とニ利益ありとせは、飽迄努力して、此度之挙をして幾分ニても効果有之候様と、弥増奮励罷在候間、御省念可被下候、此等之心事桂首相・小村外相抔へも申上度候得共、中途ニ於て苦心を吹聴候様相成候ハ、却而功を衒ふ之嫌有之候ニ付、多忙旁呈書も見合申候貴兄もし石井次官ニ御逢被成候ハヽ右等之情緒御一言被成下度候、第一銀行之営業別条無之事と遥祝仕候、韓国銀行創立ニ付、株式引受等之都合、兼而御打合之如く相運不申候由、不得已事と存候、爾後公債之価格ハ追々引上候由、定而諸会社株式も上景気と存候、只金融之模様如何ニ候哉、精々御注意被下度候
東洋汽船会社之成行ハ如何相成候哉、十一月末ニハ桑港ニ参り、帰国ハ地洋丸ニいたし候筈ニ付、其際幾分か真想を知り申度と存候、種々申上度事共有之候も、何分執筆之時日無之、匆々拝答如此御座候
                          敬具
  十月三日
                  クリブランドニ於て
                      渋沢栄一
    佐々木勇之助様
            拝復
尚々日下・市原其他之諸君ヘ対しても呈書之時間無之ニ付、欠礼仕候貴台より宜御伝声可被下候、又西脇氏以下ヘも何分之御通声頼上候
米国ニ於て市加古とスポケン、グラント・ラヒツト等ニて、各種類之銀行ヘも参観仕候、随分広大なるにハ敬服いたし候も、一寸一覧位ニてハ中々真想ハ知悉仕兼候ニ付、批評的之言辞ハ申上兼候、乍去森林とか農場とか鉱業とか、運送方法抔之宏大整備ニハ、実ニ欽羨之外無之候、老生或宴会之席上演説ニ、学者ハ理窟ニ陥り、金持ハ憶病ニなり易く、冒険的大胆なる者ハ時態之観察を誤るの弊有之候を、世間之通患とするニ、米国之事業ハ右等数種之難事を容易ニ解決して、一挙併用之概あり、是れ近来米国之事業駸々他国を凌く之実因ならむと論せしも、決而御馳走ニ対する御世辞ニハ無之積ニ御座候、乍序右等申添候也
佐々木勇之助様 親展 渋沢栄一
十月三日


竜門雑誌 第二六六号・第三八―四四頁明治四三年七月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320009k-0003)
第32巻 p.158-163 ページ画像

竜門雑誌 第二六六号・第三八―四四頁明治四三年七月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
○上略
 - 第32巻 p.159 -ページ画像 
九月二十一日 雷雨 (火曜日)
午前五時セントポール市に向つて発車し、三十分にして着す(ミネアポリス市と当市を称して双仔市と云ふ)
(列車の停車場に停止せる間は便処に入るを禁ぜられ、爾来一行は此禁止を固守し居れるが、今日の如きは昨夜十時停車場に在る列車に乗込み、今朝五時に発車して卅分を経て又停車場に停止したれば、此三十分にて用を便すること能はざる多くの人々は、停車場に着すると共に急ぎ其便処に赴く様、笑はずには居られざりし)
車中にて朝餐を済まし、九時青淵先生始一同、自働車にて歓迎委員に導かれて停車場を出発す。
此市にては見物すべき会社・工場の数甚だ多きを以て、一行が不残之を見物せんこと到底出来得べき事に非されは、各其欲する処を見物する事に為したり、青淵先生は如例頭本氏及歓迎委員と同乗して市街を一覧し、正午オーデトリアムと称する公会堂に到り、市内実業家の催に係る大宴会に出席せらる。
此オーデトリアムはセントポール市が世界に誇る大建築物にて、鉄骨煉瓦コンクリートより成り、建築費四十六万弗、一万数百人を容易に入場せしむることを得ると云ふ、又必要に応じては大小数室にも之を分割使用することを得る仕組なり。
一行の招待を受たる午餐会場は、数日前大統領を歓迎饗応したる其儘の善美を尽せる装飾を利用したるものにて、天井は青葉を以て全部を装ひ、夫より数箇の大花籠を吊し、四方の壁と柱とは日米国旗にて装飾され、卓上には花を盛り、床には噴水を設けたり、主人側には市長を始め、有名なる大北鉄道会社々長ゼームス・ヒル氏、同社支配人エリオツト氏其他の名士あり、午餐会を終らんとする時、司会者たる市長歓迎の辞を述べ、次きにゼームス・ヒル氏起ちて、今回日本実業団の一行が米国に上陸せられ、爾来各地に於て盛大なる歓迎を為したれ共、蓋し我州の歓迎には及ばざるべし(其意は同氏所有の鉄道を無賃にて通行することを承諾しあればなり)否今後の旅行に於ても同様ならんと思考すと説き起し、日本の進歩の著るしきを賞讚し、日米両国は相提携して将来世界に雄飛せざるべからず云々と演説し、次ぎて青淵先生は一行を代表して起ち、盛大なる歓迎に対し深謝の辞を述べ、又一行渡米の目的を説きてヒル氏の厚意を謝し、終りに此州前知事ジヨンソン氏の逝去に就き、如此有為の政治家を失ひたるは、啻に此州否米国の損害に止まらず、実に世界の為めに痛み悲まざるを得ず云々と深甚なる弔意を述べられたり、次ぎて、神田男爵の英語演説ありたり、献立の内に蛙の脚・野生の鶏・野生の米等珍妙の料理ありしが、孰れも美味なりし、午後四時午餐会終了を告ぐ、夫より青淵先生は自働車を駆り、ヒル氏・市長・エリオツト氏等を訪問して謝意を述べ、午後六時よりミネソタ倶楽部にて、オーナー氏外数氏の催に係る晩餐会に出席せられ、八時半汽車に帰りしが、次いてエリオツト氏其他の来訪に接し、又メーソン結社の事情説明の為二名の来訪者に接せられたり、午後十一時半マデソンに向て発車す。
      ジヨンソン氏の逝去
 - 第32巻 p.160 -ページ画像 
 此日午前三時此州の知事ジヨンソン氏逝去せられたり、同氏は民主党中錚々たる大人物にしてブライアン氏にして起たざれば、是非共候補者たるべき資格を有す、輿望頗る重く、タフト氏に代りて次季の大統領は同氏を除きて他に需むる事能はずと迄、国民の重望を荷ひたる人なりしが、溘然易簀せらる、真に惜しむべきの至なり、青淵先生は一行を代表して同氏未亡人に対し鄭重なる弔電を発せられたり。
九月廿二日 晴 (水曜日)
午前七時三十分マデソン市に着す、車中朝食を終り、青淵先生外一同八時三十分自動車に分乗してウヰスコンシン大学を参観す、現在学生四千五百名、内女学生千五百名なりと云ふ、邦人の在学生九名は一行を校庭に迎へ、総代富本茂氏簡単なる歓迎演説を為す、青淵先生即一同に対し訓戒的演説を試まれたり、夫より大学総長は一行を講堂に誘ひ、一場の歓迎演説を為す、神田男爵答弁を述べられる、目下暑中休暇の為め各分科共授業なきを以て此が見物を略し、先づ図書館を一覧し、農科大学に到りて各種の乳牛・肉牛・耕馬・輓馬・乗馬等に就き分科大学長の説明を聞き、又学生実験の為め備付けられたるバタ製造所を見、更に学生の実験に供する嶄新なる各種の農具を見たり、分科大学長の説明に依れば、此農科大学は勿論各分科に於ても社界に要用と認むる新機軸の発見事項は、直に之を此州に発表して実行せしむると云ふ、故に此大学は州の事業と密接の聯絡を為し、州に於ける問題は必ず大学に諮問する規定なりと云ふ、畢りて汽車に帰り、十一時三十分ミルオーキー市に向て発車す。
車中にて午食、二時十五分ミルウオーキー市に着す、青淵先生以下歓迎委員の案内にて自動車に分乗し、先づヒフイスター・バウゲル皮革会社に到り、生皮の煮沸・冷却・引き延し・鞣・仕上等順序に参観す(此会社一日の製革牛馬併せて一万五千枚なりと云ふ)畢りてパブスト麦酒会社の業務を一覧して、麦酒の饗を受け、ミシガン湖辺の公園を巡遊して、午後六時半ホテル・ヒフイスターに投宿す、七時半同ホテルに於て商業会議所の催に係る晩餐会に出席せらる、来会者無慮三百余名、州知事・市長及日露戦役の際我国に従軍したる陸軍中将マクカーサー氏等の来会ありて、饗応鄭重なり、主人側に於ては商業会議所会頭ベル氏司会者として挨拶を為し、夫れより知事・市長・中将の演説あり、終りに青淵先生が答辞を述べられ、十二時散会す。
九月二十三日 晴 (木曜日)
午前八時半歓迎委員に迎へられてシカゴ・ミルウオーキー・エンド・セントポール鉄道会社の工場を見る、次ぎに癈兵院を一覧し、夫れより蒸気・電気の汽缶及モートルを製造するアリス・チヤルマース会社を一覧す、其構造の大なる、設備の大仕懸にして完全なる、自ら人間知識の無限なる事を悟らしめられたり、聞く処に依れば同社の資本金三千万弗(払込資本千五百万弗)にして、一箇年の事業高弐千五百万弗而して此工場敷地は三十六エーカーにして是と同一の面積を有する工場が紐育、ミネアポリス、セントルイス、ボストン及びシカゴの五地に在りと云ふ、一覧了りて高級社員の倶楽部に於て午餐の饗を受く、
 - 第32巻 p.161 -ページ画像 
社長は起ちて、日本実業団の当社を巡覧せられたるを感謝す、渋沢男爵は見る多き(ミルオーキー)と云ふ日本語を以て当社に讚を与へられたるが、畢竟石炭と鉄の価の低きが米国工業の発達を助けたるものにして、其他には深き理由なしと謙譲し、本社は最近二年間に於てゲリーの大鋼鉄工場に二十五台の大なる機関を供給したるのみならず、同期間に之を同社に送付し、之を取立て之を使用し得らる様に為したるが、此機関は何れも一千馬力を有するものなり、本会社の製造品は米国に於て七割、日本に於て二割、英国等に於て一割を需用せられたり、英国は有名なる鉄工業の国なるが、其竜動に於ける水道鉄管は本会社の製造したるものなり。
本会社の特色とすべきは、瓦斯・蒸気・水力に関する種々の機械を凡て一手に製造するに在り、故に或る会社が各種の機関を各国に注文して、運転後種々の故障を起して困難するが如き弊害を除却するを得べし、云々。
次ぎに一行と同行したるウヰスコンシン大学教授ギルマン氏は、此地に於て一行の諸君と分袂するに付き、実業団の諸君に一場の挨拶を述べんとて、過去三週間日本実業団員と起居を共にして、日々厚き芳志を受けたるを深謝す、同行中特に感心したるは諸君が謙徳なる特性を有せらるゝ事なり、一例を挙ぐれば昨夜もフイスター・ホテルに於ける晩餐会に於て、渋沢男爵は知り居らるゝに不拘、予の従事するウヰスコンシン大学のベースボール選手が日本に於て其選手と競技して敗戦したる事を、一言説き及ばざるが如し云々、尚諸君の研究事項に付ては、諸君も中々多忙なるに付き、在米中若し十分取調ることを能はずして、帰国後研究するの必要を生じ質問等せらるゝ事あらば、喜んで出来る丈の尽力を為す積なり云々。
右に対し青淵先生は起ちて、一行に代りて謹で歓待を受けたるを深謝す、本社の参看に当て、多忙なる社長自身案内の労を取られたれは特に深謝する処なり、貴社の広大なるは云ふ迄も無く、如此大会社に在りながら総ての業務整備して、一糸乱れざる事、設備の完全にして能く行届ける事等、貴社に依りて教を受けたる事多し、本日は此会社の原動力とも云ふ可き此倶楽部に於て鄭重なる饗を受けたるが、蓋し此食事は甚大なる滋養分を有し、軈て日本に帰国の上、之が消化せられて、其効果の顕著なるを知る事を得べし云々、又ギルマン氏の袂別の辞に対し、吾々は到る処饗宴を受けたれども、是れ形に顕はれたる馳走なり、されど観察に関する饗応は形に顕はれず、又直に消化するを得ず、此形に顕はれずして、大なる滋養分の効果を顕はすべき饗応を吾々はギルマン氏より与へられたる事を、深く記臆せざるべからず、故に玆に今日は同氏と有形の御別れは為せども、無形の御別れは他日に在り云々、右畢りて先生には午後五時半ホテルに帰る、夕餐の後七時半商業会議所の案内にて、市民が五十万弗を投じて新築したるオーデトリアム(公会堂)落成祝に於て催されたる音楽会に赴き、午後十二時汽車に帰る、午前二時三十分シカゴ市に向て発車す。
九月二十四日 晴 (金曜日)
午前五時シカゴ市ラサール停車場に到着す、車中にて朝餐の後九時歓
 - 第32巻 p.162 -ページ画像 
迎委員に迎へられて自働車にて旅宿コングレス・ホテルに抵る、青淵先生・同令夫人が七年以前欧米漫遊の際投宿せられたるオーデトリアム・ホテルの改名せるなりき、青淵先生は十時歓迎委員の案内にてリンコルン・パークを一覧し、第一国立銀行に抵り、同市有数の銀行家に会見す、後ストツク・ヤード(ストツク・ヤードは屠獣会社の集りたる処にて五会社あり、孰も牛・羊・豚を屠殺して、生肉の儘又は燻肉・缶詰等に為して、米国内は素より海外までも輸出する有名の会社なり、生等の観たる時は幾十頭と無き牛が一列を為して屠場に逐ひ込まれ、順次鎖で一脚を縛せられ逆に吊り上げらるゝや否や、屠手は鋭利の刀を以て咽喉を切断して屠殺し、直に之を次の場処に吊したる儘順次に送附して、皮を剥き、腹を割き、臓腑を去り、箒にて洗ひ、冷蔵庫へ貯蔵せられたり、一日屠殺の数平均千八百頭なりと云ふ、豚殺しの場処は惨酷の状寧ろ見ざるに若かすとて見物を見合はせたり、青淵先生は此前旅行せられたる際一覧したればとて、全く此見物を止められたり)内のサツドル・エンド・サーロイン倶楽部に抵りて午餐の饗を受け、食後一場の諭辞を述べられ、夫れより汽車にてインデアナ州ゲリーの大鋼鉄工場に抵り業務を一覧せらる、構内は鉄道縦横に貫通して如何にも大規模なるには驚嘆したり、見畢てホテルに帰り、晩餐の後ホテルの直隣なる劇場へ商業会議所会頭スキンナー氏の案内にて観劇に赴き、十一時帰館せらる。
 シカゴ市は人口二百五十万を有し、米国第二の都会なれば、十階、廿階の大厦高楼櫛比して、道路には馬車・電車・高架鉄道縦横に馳せ違ひて、人道の雑踏も亦甚しく、轟々として耳の聾せんかと疑はれたり、併し煙中空を馳せ、風塵衣袂を掠むるに至ては、不愉快の感を禁する能はざりし。
二十五日 晴 (土曜日)
青淵先生には午前中在宿信書を認められ、十二時ヘビヤン氏の案内にて、ミシガン湖岸のサウス・シヨワー・カントリー倶楽部に抵り、シカゴ・ミルウオーキー・エンド・ピユゼツトサウンド鉄道会社の催しにかかる、午餐の饗を受く、食後卓上演説を為し、後シカゴ大学に抵り、校内を一覧の上、総長ジヤドソン博士の邸に於けるレセプシヨンに列し、嘗て日本に来遊したる教授ホルトン氏夫妻と会談し、午後六時帰宿せられたり、シカゴ大学には日本人の講師家永豊吉氏あり、日本留学生も十数名在校せり、晩餐後の青淵先生は、十時半頭本及一行中新聞事業に関係ある人々と共にトリビユーン新聞社を一覧せらる、一日の発行部数十五万、印刷機械の精巧なる、従業者の敏活なる、一見して甚だ愉快を感じたり、米国の日刊新聞は日曜日には日本の新年初刷と同様に、彩色絵入の面白き小説・滑稽・ポンチ等の欄を設けたる特別号を附録と為す、代価は平時と同一にして、売高は二倍以上なりと云ふ、同新聞社は千八百四十七年の創立にして、現在社長の祖父の創設したるものなりと云ふ、十二時帰宿。
九月二十六日 晴 (日曜日)
朝食後写真師来り、青淵先生及令夫人に是非にと懇請して、撮影し去れり、青淵先生にはホテルに於て東京瓦斯会社々員前田氏と会談、十
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一時直隣りのオーデトリアムに抵り、世界に名高き大説教家ガンソーラス博士の基督教が東洋より得たる者は如何と云ふ演題の説教を聞き旅宿に帰られ、午餐後領事松原一雄氏邸を訪ひ、午後七時基督青年会の招待に応じ、同会館を一覧の上、大学倶楽部に導かれて晩餐の饗を受け、一場の謝辞を述べられて帰宿せらる。
東京基督青年会の丹羽清次郎氏、欧米旅行の途中当地に来り会し、同席に列せられたり。
九月二十七日 晴 (月曜日)
青淵先生には、朝食後午前九時案内者の先導にて美術館に至り、シカゴ市区改正設計案を一覧の上帰宿せらる、午後六時半コングレス・ホテルのゴールド・ルームに於て、シカゴ商業協会の催に係る大晩餐会に出席せらる、此ルームはゴールドと名付くる如く、四壁及天井に彫刻せる様々の美術は、金色燦爛として目を眩する許なるに、尚其上に意匠を凝したる装飾を施したる事なれば、美観驚嘆する計なり、主人側は当市第一流の紳士百余名手に小形の日章旗を持ち、一行は之に反して星章旗を手にして日米人交互に席に就く、饗宴酣なる頃、氷にて造りたる日本人の等身座像を先頭に、次いて米国の鷲其他種々の形十数個を、正装のウヱーター担きて食卓の間を行列する様、嘗て見ざる饗応なりし、軈て三鞭の注き廻はらるゝに及、先つ交互に元首の万歳を三唱したる後、司会者たる同協会の会頭スキンナー氏起ちて挨拶を為し、イリノイズ大学校長ゼームス博士・同協会副会頭ホヰラー氏の演説あり、右に対し青淵先生の一行代表演説に次きて、神田男爵・松方幸次郎氏の演説あり、十二時に抵りて解散す。
此夕青淵先生令夫人は、一行夫人共に同ホテル、イングリツシユ・ルームに於て同様晩餐の饗を受けられたり。
明朝午前三時三十分サウスベンドに向て発車する予定なれば、急ぎ行李を引纏めて、午前一時半ラサール停車場に待合せ居る列車に乗込みたり。
   ○スキンナーノ挨拶次掲ノ如シ。


エドワード・スキンナー演説草稿(DK320009k-0004)
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エドワード・スキンナー演説草稿
              (エドワード・スキンナー氏所蔵)
Baron Shibusawa and other Friends from Japan :
  By favor of the enterprise and patriotism of the foremost cities of the Pacific coast, with the cooperation of the great railways, Chicago welcomes tonight, from the hand of His Imperial Majesty the Emperor of Japan himself, the most distinguished representatives of a masterful people ever yet offered the hospitality of the world's youngest great city. This city and association has had the good fortune to have as our guests, in April 1908, the party of Japanese making a tour of the world, and in April of this year, in this very room, a dinner was given in honor of your able, distinguished and charming countrymen, Mr. Wada, Director General, and Mr. Sakai,
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Commissioner General, of the Japanese Exposition to be held in Tokyo in 1917.
  In your comprehensive tour of the United States you have been able to devote four days to the study of the resources in commerce, manufacture, education, art and science of a city which, almost in the life of living citizens, has grown from a frontier trading post to the American continent's central commercial capital, and which, with a population of two and a quarter million, has multiplied nearly forty-fold since 1854, when Japan, after a period of seclusion and isolation, was opened to the world.
  You, sirs, believe in your advantages of race and geography; and we of Chicago, too, believe that we have peculiar strength in the character of our people and our natural situation, while we both believe that we are to be of world importance in the progress of civilization; and it is because we have for our city, as you have for your nation, ambitions in common, and with like characteristics to justify them, that we are profoundly and sincerely interested in your country and your people.
  A modern writer aptly remarks: "In the Japan of today the world has a unique example of an Eastern people displaying the power to assimilate and to adopt the civilization of the West, while preserving its own national identity unimpared."
  In its power of assimilation and adaptation, Japan evokes the admiration and even the apprehension of the world.
History records no such wonderful transformation from the archaic to the modern as is offered by Japan's renunciation of medievalism, and the institutions of feudalism, with one stroke of the pen. In the edict authorizing the constitution in 1868, the Emperor of Japan thus laid down the lines on which he and his advisers had determined Japan should be thenceforth governed:
  "The old uncivilized way shall be replaced by the eternal principles of the universe.
  The best knowledge shall be sought throughout the world so as to promote the imperial welfare."
  What Japan has done with earnestness, enthusiasm and self-sacrifice, industrious in peace and terrible in battle, to carry out his lofty principle of reform, the world with amazement confesses.
  In the creation of a new national character the educational and cultured classes are intent upon cutting out everything which is indefensible, unserviceable, and are intent on adopting and adapting from every nation such qualities as will better
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enable Japan to progress and be free. Men of the highest rank and culture are engaging in commerce, once a lowly and almost discredited activity. Japan is striving for a high moral standing, and her thirst for knowledge of all kinds is one of the most pleasing features of her aggressive and interesting genius.
  We believe that the power of Japan will be exercised for the good of the world, that her strength will never be used in disregard of international welfare, that she cherishes no policies of aggression, and that her aspiration is the preservation of national independence in the broadest sense consistent with her status in the family of nations.
  We recognize in you gentlemen not only representatives of commerce, industry and education, but representatives of the Japanese people, and as such ambassadors of peace and good will, and you will find here, as you have found to the North and West, and will find to the East and South, a cordial welcome, a desire to be helpful and a willingness to co-operate with you in everthing that will advance the interest and welfare of your country and your people.
  "May we, to whom Japan opened the door in 1853 never be found remiss in sympathy and trust, whether in the field of diplomacy or of commerce.
  Every American who visits Japan and truly knows its people, returns with the sweet saying of St. Francis Xavier, 300 years ago: 'This nation is the delight of my soul.'"


Chicago Commerce (Extract) 1909. 【Japan's most illustrious…】(DK320009k-0005)
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Chicago Commerce (Extract) 1909.
  …………………………
  Japan's most illustrious delegation to visit the United States was the group composing the so-called Honorary Commercial Commissioners of Japan, received in Chicago by The Chicago Association of Commerce, September, 1909, the Association's president being Mr. Edward M. Skinner. This delegation was led by Baron Eiichi Shibusawa, accompanied by the Baroness, by the presidents of the chambers of commerce of Tokyo, Kyoto, Yokohama, Kobe, Osaka; by other distinguished business men, both merchants and manufacturers; by editors, by Japanese consular representatives in the United States, Mr. K. Matsubara being consul at Chicago; by many private secretaries, and by many prominent Americans acting as official escorts. Professor John H. Wigmore, formerly teacher of law in Japan, and an outstanding member of the Chicago hosts, declared the honorary commissioners to be more distinguished than any known to him in the historic intercourse between Japan
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and America. The delegation was about sixty in all, its men of affairs representing banking, commerce, agriculture, horticulture, manufacture, stocks, municipal government, electricity, education, medicine, transportation, publications, etc.
  The distinctive social event of the Chicago visit of the Honorary Commercial Commissioners of Japan was a grand banquest in the beautiful and famous Gold Room of the Congress Hotel, the women accompanying the delegation dining with Mrs. Skinner in another place, afterwards joining the greater party. At the speakers' table, associated with Baron Shibusawa and President Skinner, were presidents of Japanese chambers of commerce, President Edmund J. James of the University of Illinois, President Harry Pratt Judson of the University of Chicago, Professor John H. Wigmore of Northwestern University, Professor J. Paul Goode, of the University of Chicago, and attending the Japanese delegation as official representative of the United States Department of Commerce and Labor; Alderman Theodore K. Long, representing Mayor Fred Busse, of Chicago; Harry A. Wheeler, Vice-President of The Chicago Association of Commerce, and others. The speeches of the Chicago speakers were laid before the Japanese visitors in their own language.
  Among the banquest speakers were President Skinner, President James, Professor Wigmore, Vice-President Wheeler, Baron Shibusawa, Baron Kanda, Kojiro Matsukata.
  President Skinner keyed his tribute to these thoughts: In the constitution of 1868 the Emperor of Japan ordained: "The old, uncivilized way shall be replaced by the eternal principles of the universe. The best knowledge shall be sought throughout the world so as to promote the imperial welfare."
  President James, with discriminating compliment for the studious and observing Japanese youth who had come under his teaching, offered a notable appreciation of the Japanese race, with their unique place among the nations, saying in noble testimony:
    "I do not think that human history can show another instance like this in which, within the space of a single lifetime, a member of one civilization has by peaceful means projected itself into the very heart and center of another civilization, mastered its secrets and enrolled itself high up in the list of its really forceful elements."
  Professor Wigmore, once teacher of Anglo-Saxon law in Fukuzawa University, learnedly and happily drawing upon Japanese history, told the story of Miyamoto Musashi, famous
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Samurai swordsman of 300 years ago who introduced the two-sword style of attack and defense, a style expressed in national policies, and "which has placed Japan in its present position of leadership," in this instance America being taught that" a true patriotism and the highest intelligence consists in keeping fast hold of our own best traditions, while constantly seeking and frankly accepting whatever is good for us in the methods of other and older countries."
  Stressing the development and importance of Japanese-American trade, and of reciprocity in such relations――a point afterwards taken up by Baron Shibusawa――Vice-President Wheeler said:
    "Japan today stands as one of the marvels of national development, and to the casual observer it is difficult to understand how in half a century you could pass from isolation into the forefront of the world powers, but to the student of your history this development holds nothing of mystery, and he would find the key needs not to read beyond the provisions of the charter oath, nor even beyond that one all-embracing provision: 'Wisdom and ability shall be sought after in all quarters of the world for the purpose of firmly establishing the foundations of the empire.'"
  President Skinner, presenting Baron Shibusawa, drew abundantly from the facts of an extraordinary career adequately to introduce this business-statesman to the appreciative business world of Chicago. This record visualized a master Japanese who had studied law, politics, finance; who had founded Japan's first stock-company bank; who had fostered industries and railways, at one time a director in seventy companies; who had cultivated literature, education and philanthropy.
  Baron Shibusawa replying in part said:
    "Since our arrival in this great metropolis, through the kindness of The Chicago Association of Commerce and other distinguished gentlemen, we have had rare opportunity of going through some of the most wonderful industries and commercial establishments we have ever visited;
    "We come as guests of the associated chambers of commerce of the Pacific coast, who were kind enough to send us an invitation to come over and meet them in their own country, in return for a similar invitation which we sent them last year, and which they so kindly availed themselves of.
    "In coming over to your country, we thought it well to
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devote as much of our time as you might leave at our disposal to the investigation of your commercial and industrial conditions, and in carrying out this object I have to thank you gentlemen of The Chicago Association of Commerce for having attached to our party a representative in the person of Mr. Manss, and I wish to take this opportunity of thanking him also, personally.
    "When I visited Europe and America, seven years ago, and just before I left my native shores the chambers of commerce throughout Japan held meetings and unanimously passed resolutions charging me with a message to the chambers of commerce and to corresponding bodies in America and Europe. That message was to the effect that we businessmen of Japan had no idea of being secluded from the business activity of the world, but, on the contrary, we wished to be accepted as cooperators in the development of the commerce of the world. And some of you gentlemen assembled here tonight may remember that on the occasion of my visit here seven years ago I had the honor of calling upon the then president of your chamber of commerce and tendering to him a paper containing a copy of that resolution.
    "As to the interesting address which Prof. Wigmore favored us with, I must say that I was simply surprised at the very correct and extensive knowledge he possesses of our ancient history. I must confess to you that I have learned for the first time tonight that Musashi was the adopted son of Buzaemon. We aspire to be Musashi in the pursuit of our objects; we aspire to use two swords, but our intention is to wield our swords for purposes different from that for which our valiant warrior used them.
    "We also have had the great pleasure of listening to a profound, philosophical and historical disquisition from the lips of the distinguished president of your state university.
  I was very much interested in regard to what he said in respect to the historical relations between the East and the West, and I sincerely appreciate and thank you for the very liberal and sympathetic way in which he discussed those relations.
    "I was also interested to hear from him that the various nations of Europe and America vied between themselves to appropriate us as their affinities; but if I were given the choice between these different affinities, I would say that I would be called Yankees of the East."
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  Baron Kanda and Mr. Matsukata concluded acknowledgement of Japan's pleasure over the hospitalities of Chicago. Baron Kanda, graduate of Amherst College, had been first president of the Foreign Language School of Tokyo, one of the foremost authorities on foreign languages in Japan. Mr. Matsukata, master shipbuilder, was a graduate of Yale, and later a student at Oxford University and University at Paris.
  In part said Baron Kanda:
    "Diplomacy may do much, but the real lasting relations between nations must be founded upon the friendship of the people themselves. I am neither a diplomatist nor an international lawyer; and even if l were one, I would not on such an occasion as the present touch upon the dangerous ground of international politics; but l can assure you that those of us who have spent some of the happiest years of our lives in this country, who think that we know America almost as well as our own country, never give a thought to any of those rumors, but always feel confident that the great Pacific which binds the two nations together, deep down below in its profound depths, is actually pacific, true to her name."
  Said Mr. Matsukata:
    "This city, the Great Central Market of the United States, is the great railroad center of this great republic, and, more than that, in the future it will control the finances not only of the United States, but of the whole world.
    "I remember very well one of your patriots in time of hardship in the period of the founding of this great republic in this American continent, I remember, Patrick Henry said: 'The past is the lamp of the future.'"


竜門雑誌 第二六七号・第四〇―四七頁明治四三年八月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320009k-0006)
第32巻 p.169-175 ページ画像

竜門雑誌 第二六七号・第四〇―四七頁明治四三年八月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
○上略
九月二十八日 火曜日 (晴)
午前六時三十分サウスベンド市に着す、車中にて朝食を終り、九時三十分青淵先生以下一行、商業会議所歓迎委員の案内自動車に分乗して市中を巡覧の後、スチユードベーカー車輛製造会社を観る、資本金五百万弗、従業者の数二千八百人、各種車輛・自動車等を製作す、日本なれは大工が鉋を以て削る処を、凡て革砥を以て為すは一見奇異に感せられたり、夫れより市庁に到り、建築及び図書室・食堂等を巡覧し又第一国立銀行に到り、営業の状態、金庫の装置等を観る、青淵先生は頭取と会し、種々質問せらるゝ処ありしが、同行の紙幣発行額は資
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本金(十一万五千弗)を限る事、割引手形は最長期九十日以内なる事其利息は年六分の割なる事、預金は凡て無利足なる事、貸付金は多くの場合無担保なる事、取引先は商売人及製造家なる事、株主配当金は年一割を毎期継続せる事等なりし、十二時十五分ノートル・ダム大学に到る、同大学は千八百四十四年の創立にして、加特里久宗に属す、廊下に閣竜に関する種々の絵画を掲け、又窓の上部及天井には、有名なる画伯グリゴリー氏の筆に成る彩色の種々の絵画あり、又講堂の正面には日本の仏壇に均しき装置あり、続て附属チヤーチを参観し、畢りて同校食堂にて午餐の饗を受け、夫れより三時、基督青年会に到るスチユードベーカー車輛製造会社の寄附なりと云ふ、図書室・読書室・小児読書室・食堂・浴室(温浴、蒸汽浴等あり)夜学室(徒弟の為に設けたるものなり)球戯室・寄宿室等を観たるが、其整備の完全せるには只驚嘆の外なし、畢りて四時三十五分列車に戻り、服装を改め、五時五十五分オリバー・ホテルに到り、商業会議所の開催に係る歓迎晩餐会に臨み、司会者の歓迎の辞に次きて、青淵先生一行を代表して謝辞を述べられ、十一時停車場に帰着して列車に搭し、同四十五分グランド・ラピツドに向つて発車す
九月二十九日 水曜日 (雨)
午前六時グランド・ラピツド市に到着、車中にて朝食の後、八時半同市貿易協会代表者の案内にて、青淵先生以下一行自動車に乗して貿易協会事務所のレセプシヨンに臨み、会頭ノツト氏・市長ヱリス氏の歓迎挨拶に対し、青淵先生答辞を述べ、畢りてオブライエン氏(本邦駐在米国大使)大株主たるエブニング・ニユス新聞社に到り、印刷室、売子の為に設けられたる学校、水泳室、無線電話室、社長室等を見、夫れよりインペリアル家具製造所及バーキー・エンド・ケー家具製造所を看る、十五世紀・十六世紀時代の家具、参考として陳列せられたり、此地は家具製造を以て名あり、人口十一万人、同品製造所三十八此職工七千人、一ケ年の産額千六百万弗に達す、毎年一月・七月の両度合衆国中の家具販売人仕入の為め当市に集合し、各製造所の全力を込めたる製造品も為に不足を告くる事ありと云ふ、十二時カントリークラブに到り午餐の饗を受く、此席に駐日米国大使オブライエン氏出席して一同と握手せらる、氏は当市の出身にて、目下賜暇帰国中なりしなり、二時より自動車にて、市街各所の見物を為し、一旦列車に戻り、服装替の上、七時よりパントラインド・ホテルに於て、貿易協会の催にかゝる晩餐会に臨む、オブライエン氏・上院議員スミス氏の演説に次きて、青淵先生一行を代表して謝辞を述べ、尚神田男外二名の演説ありて、主客歓を尽して十二時解散、列車に帰着す
工学博士高峰譲吉氏、一行出迎として当市に到着、共に列車に搭す
九月三十日 木曜日 (晴)
午前一時グランド・ラピツド市を発し、同八時デトロイト市に到着、車内にて朝食を済ます、九時騎馬巡査の一隊を先頭として、歓迎自動車一隊停車場に集合して一行を迎ふ、即青淵先生以下列車を辞し、該自動車に分乗してホテル・カヂラツクに向ひ、少憩の後ミシガン・ストーブ製造会社に到り、暖炉の製造を見、続いて水道設計及公園を巡
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覧の上、デトロイト短艇倶楽部に到りてパークデビス会社開催の午餐を饗せられ、高峰博士の簡単なる歓迎演説に対し、青淵先生一行を代表して答辞を述べられ、畢りてパークデビス会社に到り(同会社は千八百六十六年の創立にて資本金八百万弗、製品一年の販売高千五百万弗、従業者数三千人、米国内支店出張所の数十箇所、国外には竜敦・シドニー・孟買・セントピータースボルク・東京の各地に支店を有し製薬会社としては世界一なりと云ふ、高峰博士は此会社の顧問にして彼の有名なるタカヂアスターゼは此会社の製薬なり)製薬の各室を巡見し、後室外に出でゝ同会社附属消防隊の消火演習を見、午後三時パツカード自動車製造会社を一覧し、夫れより公園及市街を巡覧して、五時半帰宿、晩餐の後、七時半歓迎委員と連れ立ちてテンプル劇場に赴き、観劇の後十一時帰宿す
十月一日 金曜日 (晴)
午前十時青淵先生以下一行出迎の自動車に分乗して公園を巡回の後、バーロース計算器製造会社に到る、会社員先導して各作業室を案内説明し、計算器を運転して一同に示せり、巡覧終りたる後、一室に於て日本の算盤と此の算器との競争加算を試しが、加算器にて四分間に計上したる同数を、和算にては二人掛りで五分を要し、其上誤算なりしは遺憾なりし、夫れより幻灯を映じて、野蛮時代より文明時代に到る迄の計算の方法進歩の状態及会社の作業の有様など示したる後、第一銀行及日本銀行等をも映出して拍手を受けたり、十二時デトロイト倶楽部に到り、商業会議所の催にかゝる午餐の饗を受け、司会者の歓迎演説に対し、青淵先生答辞を述べられたり、午後は一行各自希望のものを縦覧する事となり、青淵先生はフリーア氏邸に到りて美術品を観覧せられたるが、同氏は巨万の富を有するに拘らず、妻も無く子も無く、只美術品を友とするのみなりと云ふ、目下清国漫遊中にて不在なりしが、特に一行の為めに開館したるものなり、日本の美術、特に光琳の絵は世界無比と称せられ、我国美術家の賞讚垂涎措かさる所なりと云ふ、同氏は死後之を米国政府に寄附すべく、特に一館を華盛頓に建てゝ之を陳列すべき旨昨年国会に提出して可決せられ、大統領の裁可を得たる由なり、午後五時ホテルに帰り、七時半よりカデラック・ホテルに於て開催せられたるレセプシヨンに引続、八時開会の晩餐会に臨まれたり、演説者は商業会議所会頭サムナー氏・青淵先生・ライヤン氏・神田男爵・ラツセル氏・水野総領事・デンビー氏なりし、左に各演説の梗概を掲く
   サムナー氏演説
 日本実業団は平和の使節なり、吾人は誠心誠意を以て一行を歓迎するものなれども、当市滞在日数少き故、十分なる歓迎を為す事を得ざるを遺憾とす、渋沢男爵は日本に在りて最も多忙なる人なり、此偉人が凡てを犠牲に供して、団長として来遊せられたるは、吾人の特に感謝措く能はざる処なり、云々
   青淵先生の演説
 一行が此市に到着以来、商業会議所議員其他本市全体の紳士が、一見旧知の如き温情を以て、一行を歓迎せられたるは、衷心喜悦に堪
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へざる処なり
 一行はデトロイト市の名を聞く事久し、特に予は箇人として特に其名を詳かにせり、高峰博士は予の二十有余年来の親友なり、同氏とは本国に於て一の事業を共にしたる事すらあり、同氏が久しき前米国に来り、当市に於て技術を成功せられたるが、蓋し当市諸君が我同胞を擁護せられたる故なりと思考す
 一行五十人の多人数団体を為して米国に来りたるは、偶然にあらざるなり、回顧すれば吾国は米国の為に睡を覚され、爾来両国の国交は益々親善を重ね、貿易は歳と共に増進しつゝありと雖ども、更に一層之等を進めんとせば、両国実業家は深く提携せざるべからざるなり、是れ一行が米国太平洋沿岸聯合商業会議所の招に応じ来遊したる所以なりとす
 吾々の貴国に対する感情は終始渝る処なく、従来の懇篤なる情誼を感謝して、益両国貿易の発展を希望する外、何物も存在せざるなり、吾々は政治外のものなれども、日本政府も亦、同感情を有せるを以て、日米両国間に何等紛擾の生ずる如きは断じてあらざるなり、蓋し一行が到る処に於て盛大なる歓迎を受くるは、相互感情の親善なる確証にあらずや
 吾々はシヤトル市到着以来、到る処の事物を見、仮令ば山林の有様を見て日本は如何と思ひ、大農式の有様を見て日本の小農法は如何と思ひ、鉱山を見て其原料の富豊なるに驚き、何が故に造物主は、米国に厚くして日本に薄きかを慨嘆したる者なりしが、当デトロイト市に到着以来、各種の工場を巡覧して、吾人の慨嘆は一の杞憂に属するものなる事を悟りたり、デビス工場・計算器工場・自動車会社は、果して地の利を得たるが為めに斯く盛大に到りしか、蓋し然らず、吾吾も益勉励・耐忍・誠実の精神を以て事に当れば、日本をして当市の如く繁盛ならしむる事能はざる事なきを信ずるに到れり此奮発心は当市の賜なり、此賜は諸君より饗せられたるものなり、云々
   フランク・ジー・ライアン氏の演説
 日本実業団一行が当市に来訪せられたるは頗る感謝する処にして、予は先年日本に旅行したる際、懇篤なる歓待を渋沢男爵等より受けたるを深く記憶せり、今回、幾分なりと酬ゆるを得たるは、衷心喜悦に堪へざるなり
 米国と日本は恰も兄弟なり、此若き兄弟相融和し、互に提携して、世界の文明を図らざるべがらざるなり、云々
十二時解散、直に列車に搭す
十月二日 土曜日 (晴)
午前一時デトロイト市を発し、同七時クレブランド市に到着す、直に朝食を済まし、九時出迎の自動車に青淵先生以下一同分乗して、ホテル・ホレンデンに向ふ、正午同ホテルに於て略式午餐会あり、商業会議所会頭ブテツシユ氏・市長ジヨンソン氏歓迎の挨拶を為し、青淵先生一行を代表して謝辞を述ぶ、会散じて後一行歓迎委員と共に、思ひ思ひ自動車を馳せらして景勝の地を巡覧す、青淵先生は先づ市街を縦
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覧して、有名なる石油王ロツクフヱラー氏の寄附にかゝる幽邃なる公園を過ぎて、同氏の別荘に到り、門内に自動車を乗り入、暫時休憩の後集まれる一行の自動車十数台列を為し、先頭の自動車にはロ氏自ら乗り込みて先導を為し、奇巌怪石の間を過ぎ、広漠たる平野を過ぎ、鬱蒼たる深林を通過し、際涯なき耕地の中間など約十哩を馳せ、漸く元の門に帰着したるが、始より終り迄邸内に在るの感を抱くこと能はさりし、此邸内面積四百五十英町なりと云ふ、クレブランド市は偉人の淵叢地として、有名なるロツクフエラー氏、現大統領タフト氏、ジヨン・ヘイ氏は何れも邸宅を此市に有せり
青淵先生はロツクフエラー氏邸を辞して、公園内の美はしき墓地に至り、ガーフヰールド大統領の墓を拝し、夫れより前知事ヘリツク氏邸のレセプシヨンに臨み、一旦ホテルに帰り服装を替へ、更に六時カントリー・クラブに到り、七時より晩餐会に臨む、司会者商業会議所会頭ブラツシユ氏の歓迎演説ありて、青淵先生一行代表演説、外三四の演説あり、畢りて舞踏会に移り、水野総領事夫人日本人を代表して舞踏す、此日終日商業会議所会頭ブラツシユ氏は、青淵先生と自動車を共にして種々説明の労を取られたり、午前一時散会、ホテルに帰着す
十月三日 日曜日 (晴)
日曜日なれば巡覧日程なし
午前八時半事務所に於て総会を開く、青淵先生議長と為り、左の事項を議決す
 一、久邇宮殿下に拝謁の為め一行の総代を選む事、総代は団長指名の事
 二、常議員として各地商業会議所会頭之に当る事にスポーケン市に於ける幹事会に於て決定したるに付き、事後承諾を求むる事
  但会頭にして永く欠席するときは他の常議員兼任の事、又常議員を設けたる故を以て船中にて定めたる各掛を廃止せざる事
 三、第一回払込金は紐育迄の費用に充当したるものなれば、紐育到着の上は第二回の払込を為す事
 四、実業団と同行せる米国各地商業会議所代表者及実業団の巡回する各地商業会議所会頭及其他実業団の為めに尽力せられたる人々に対し、謝意を表する為め紀念品贈与の事、其種類は甲乙丙丁に分ち、費用は正賓及専門家より支出する額と寄附金とを以て充つる事
 五、一行の内に不平を続くものある由、随行員の内に於て特に甚しき様子なるが注意を要する事
 六、シヤトル市に於て雇入又は附属したるものは、日本より同伴したる随行員と同一の待遇を為す事は、米国側委員より断り出たるに付き、之を承諾する事
 七、昨年太平洋沿岸商業会議所代表者日本横浜上陸の日を紀念する為、一行は十月十二日紐育到着の日祝宴を開き、一行及同行米国人不残出席の事
 報告
 久邇宮殿下及同妃殿下には紐育に於て挙行されたるハドソン・フル
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トン祝典に御参列の為、御滞米遊はされしが、十月三日紐育御出発帰朝の途に就かせられ、翌四日午前七時二十分ナイヤガラ瀑布に御着あらせらるゝに際し、一行全員拝謁せん事は、クリブランド市民の定めたる歓迎日程を無にする恐あるを以て、団長は当市に残留し団長の指名に依る中野氏始め左記の六名総代として、三日の夜十時普通列車に聯結したる特別列車のインデアナ号に搭じて当市を発しナイヤガラ瀑布に到着して殿下を御待受申し上げ拝謁する事
 大谷氏随行員斎藤君はミネアポリス市以後、中橋氏随行員たりし柴原君はデトロイト市以後、一行と分離したり
 久邇宮殿下伺候総代人を、団長より左の如く指名せられたり
  中野武営氏 土居通夫氏 西村治兵衛氏
  大谷嘉兵衛氏 神田男爵 伊藤守松氏
  外に水野総領事 同夫人 松原領事 ローマン氏 書記として加藤辰弥氏
   以上
青淵先生に依りて指名せられたる久邇宮殿下伺候の一行は、午後十時特別列車の内インデアナ号に乗込みてクレブランド市を出発したり
青淵先生は午後ホテルに在りて訪客に接せられ、且信書を認められたり
十月四日 月曜日 (晴)
午前九時青淵先生始め一行は自動車に分乗してホテルを発し、米国第一と称せらるゝアメリカ鋼鉄々線会社を見る、原動力を発する汽鑵室に到れば一処に積載されたる石炭が機械に依りて自動的に焚口に投じ焼滓及灰等亦、自動的に鑵外に出つるを見る、夫れより順次製線工場に到れは、幾条と無く赤き鉄線が縦横に馳て、自ら入るべき窄道(鉄線を順次細める窄度なり)を尋ね進入して、出ては亦入り、漸次細き窄道を自ら通過して、始め長三尺厚一寸五分幅二寸五分の鉄片が、遂には径一分位の針金に変形す、其尤も細きものは絹糸の如し、又錆留の装置を一見す、之は前記の鉄線が又自動的に鉛・亜鉛又錫の鍋中を一度通過するときは、之が鉄線かと見まがふ計の美麗なる針金と変ず又針金の剛質を柔かく為す装置を見る、之は針金を円筒形の土焼壷に入れ密閉して電気を通ずるなり、一覧終りて公園に到り附属の植物暖室及種々の花卉を見る(米国の公園は何れのものも暖室を備へ置き、花卉を培養しては時々公園に移植するを常とす)夫れより転じて技芸学校を参観す、幾多の生徒仕事場に着して珍客の来観にも目も呉れず孜々として勉強する様いと床し、是より午後に掛けては一行随意の視察となりたるが、青淵先生は当地基督青年会の案内にて商業会議所内の会堂にて午餐の饗応を受け、食後演説を試みられ、夫れより偶々本日開会せらるゝ当地電気鉄道に関する調査委員の報告会に出席して其報告を聴聞せられ、又養老院及感化院を参観せらる、収容人員長幼合せて七八百名、経費は市の支出に属すと云ふ、午後六時帰宿せられ服装替の上、七時半商業会議所に於て開かれたる晩餐会に出席し、有名なるロツクフエラー氏と隣席に着席、種々談話を交換せられたり、演説は会頭の歓迎演説に次きて、青淵先生一行を代表して一行渡米の理
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由を述べ、且歓迎に対し謝辞を述べられ、夫れより米国人側にて三名の演説あり、午後十一時解散、ホテルに帰着し、服装替の上直に列車に搭乗す
三日夜十時インデアナ号にてクレブランド市を出発したる中野氏一行は、本日午前七時二十分ナイヤガラ瀑布に到着して、久邇宮殿下を奉迎し、殿下より懇篤なる令詞を賜はりたり、尚殿下には一行の為めに三鞭酒の盃を挙けて実業団使命の成功及旅行の平安を祝され、一同感佩して退出したり
殿下にはローマン氏が実業団の為めに非常に尽力せる旨聞し召され、金剛石入カフス釦一組を下賜せられたり
斯くて総代の一行は、同日正午同客車に搭乗して、午後五時クレブランド市に帰着したり
十月五日 火曜日 (晴)
午前三時三十分クレブランド市を発したる列車は、同じ朝の七時にダンカーク市に到着したり、急き朝食を終り、八時半青淵先生以下歓迎自動車に分乗して、アメリカン・ロコモテーブ会社を一覧す、資本金五千万弗、職工賃銀一日三弗以上十弗なりと云ふ、磁石にて鉄鉱を吸上け、之を貨車に移し工場内を運搬する様甚だ軽妙なり、又室内煖炉製造処を一覧す、鋳形に用ゆる砂の配合頗る肝要なりと技師は説明したり、此社の製品を青淵先生の取締役会長たる帝国劇場会社に販売したりと談し居たり、夫れより数哩を隔てたる一村落に至る途中、小学児童が一行を路傍に待受けて白布を振りて歓迎す、葡萄酒の名産地なりと云ふ、葡萄園に小憩して折柄熟実したる葡萄を取るに委せて饗せられ、又葡萄酒醸造会社を一覧して葡萄酒の饗を受け、畢りて汽車に帰り午食、午後〇時十五分出発して午後一時三十分バツフアロー市に到着す


竜門雑誌 第二六八号・第二一―二七頁明治四三年九月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320009k-0007)
第32巻 p.175-180 ページ画像

竜門雑誌 第二六八号・第二一―二七頁明治四三年九月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                  随行員 増田明六
十月五日 火曜日 (晴)
午後〇時十五分ダンカーク市を発す、車中午食を済まし、午後一時三十分バツフアロー市に到着す
バツフアロー市に於ける本日の日程は、団員随意に研究方面の視察を為す事に予て同市商業会議所より定められてありたれば、一同は歓迎自働車に打乗りて、一先ホテル・イロクオイスに到り、暫時休憩の後各其希望する方面に向て出発したり、青淵先生は先つ公園に到りて天然の風光を賞し、夫れより市立慈善病院を参観して、夕刻ホテルに帰宿せらる
夜は各員四五名宛各関係事業に区別せられて、各処に招待せらるゝ約なり、青淵先生及令夫人は西村治兵衛・伊藤守松氏等と共に、当地銀行頭取グートヱーヤ氏邸に招かれたるが、同氏夫妻は親族一同と共に先生等を迎へ鄭重なる饗応を為し、且食後令嬢及親族婦人等の弾奏に依る音楽会を催ふして旅情を慰藉せられたり、先生等は厚く芳意を謝
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して午後十二時帰宿せらる
十月六日 水曜日 (晴)
午前九時三十分ホテル迄出迎へられたる自働車に分乗して、青淵先生以下一行商業会議所に於て催ふされたる略式レセプシヨンに参集す、製造倶楽部頭取兼市長フランク・エー・ベーヤー氏は、市を代表して謹て諸君を歓迎す、本職は多く言ふを要せす、諸君願はくは親ら充分視察せられて、充分利益を得られん事を希望すと、簡単にして尽したる挨拶を述べ、次きに商業会議所会頭エー・シー・マツクドーガル氏は、諸君の来遊は市民挙て歓迎する処なり、諸君は此機会に際し十分視察を遂け、利益する処は之を利用せられんことを希望す、吾々は諸君の国より学ふべき事一にして足らす、山林の経営、市の行政及軍事衛生是なり、我市の行政は甚た不完全なり、日本は最近の戦争に於て偉大なる功果を奏せり、就中軍事衛生の完全なりしは、我等の大に敬服する処なり、然れとも我等の主とする処は平和なり、加奈太の如きは何時如何なる困難を引起すやを知るべからざるも、若し日英米の三国が協力団結するに於ては、将来国際間に何等異変を生する事なかるべきを信すると共に、之が実行を希望するものなり云々と述べ、於是青淵先生は一行を代表して、先づ当市民及実業家が挙て一行を歓迎したるを深謝し、又一行の玆に来遊するに到りし理由を説明し、且演べて曰く、一行米国に上陸以来、到る処熱誠の歓迎を受け来れるものなるが、当市に於ても亦頗る懇切なる歓迎の温情に接するは、蓋し日米両国実業上の意志相融和し居るの結果ならすんはあらず、会頭マツクドーガル氏は当市が日本より学ふ処多しと云はれたるも、コハ却て恥入りたる次第なり、山林に関しても、市政に関しても御褒辞を受くる程進歩せず、軍事上の衛生に付ては、維新以来数度の困難に際会したれば、其の時実際より受けたる教訓を実行し居るに過きさるなり、平和を主とするとの御精神に対しては、吾々は決して当市人に譲らさるものなりと断言するを憚らざるなり、我々一行は既に平和の使節なり又日英米三国聯合云々の御説ありたれと、吾々深く思考するに、実業界に於て商業上の握手を為すときは、ヨシ政治上の聯合なしと雖とも其握手を分離せさる以上は、政治上の団結より以上の効果ありと思考す、云々、畢りて市中を巡回し、途中マツキンレー氏紀念碑や、マツキンレー氏が無政府党員ツオルゴスの為に負傷を負はせられ後治療を受けられたるミルバーン氏邸宅等を、車上より瞥見しつゝ、共同墓地(墓地の価は巾二十尺長十六尺にて、三百五十弗乃至五百弗なりと云ふ、埋葬は凡て土葬なり)を巡回の後、当市水道貯水池を一覧す、イリー湖より淡水を吸収して、一日一人の用量三百五十ガロン宛の計算を以て全市に供給すと云ふ、夫れより婦人会員のみより組織せられたる二十世紀倶楽部に至り、又バツフアロー倶楽部を看る、ダイニングリーデング、スモーキング、ライブラリー、ビリヤードの各室、水泳池、浴室・遊戯室・酒舗の各室、到れり尽せりと言ふ可き装置なり、一覧畢りてヱレベーター製造会社に到りて製造の状態を看、正午ホテルに帰着して、商業会議所開催のランチオンに臨む、同会頭マツクドーガル氏の簡単なる挨拶に対し、青淵先生一行を代表して、又簡単に
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謝辞を述べ、且商業会議所より代表者として、ローゼンバーク氏を、遥々太平洋岸迄派出して、爾来一行の為に大に尽力せられたるを深謝せられたり、終りて午後一時四十五分、テレース停車場より特に一行の為に用意せられたる特別列車に乗して、ナイヤガラ瀑布に向て出発す、二十浬の距離を四十分計りでナイヤガラ市に着し、下車すれは十数台の自働車は已に一行を待受けたり、是は吾々の午餐中バツフアロー市より差廻されたるものなりと云ふ、青淵先生以下一同之に分乗して先づプロスペクト公園を通り抜け、山羊島橋《ゴートアイランドブリツヂ》を過きてゴート島に到り、自働車を降りて、断崖絶壁の岩上より鉄柵に椅りて、アメリカ瀑布の滝口より急転直下する激流を瞰下したるときは不思快哉を連呼したり、此瀑は高百六十呎巾八百呎、奔湍飛沫濛々として上り、日光之に映して美麗なる虹を描出し、其景実に名状すべからず、夫より沿岸の道路を馳車して三姉妹島の風光を賞し、再ひ他の断岩の頂上に到りて蹄鉄形せる馬蹄の滝《ホールスシユー》(又加奈太滝とも云ふ)を見る、高さ前者と同一なるも、長さは確かに之に数倍せり、上流の水洋々として大海の如く、濃青色の波濤を翻し、更に一転下すれは鼕々として天に轟き地に響き、幾万斤の綿を攪乱して無限に落下するが如く、又瀑壷よりは飛湍高く中空に舞ひ、其豪大なる状態、壮厳なる景色は、到底筆にも辞にも現はす事能はざるなり、此下を一隻の小蒸汽船白煙を吐きつつ悠々と往来するを見る、コハ此瀑見物者の為めに備へられたるものなりと云ふ
夫れより英米両国を聯絡する鉄橋(長千弐百呎)を超へて、対岸英領加奈太に到る、此橋の両端に各関税ありて、出入人の荷物を改めつゝあるを見る、鉄橋を通過すれば玆に特別仕立の電車三台用意せられ、青淵先生以下之に分乗して、ナイヤガラ河上流沿岸のオンタリオ発電会社に到り、其屋上運動場より急流《ラピツド》の豪壮なる様を見、去て又他の電気発電所を見て、馬蹄の滝の前面に位置するリフレクトリ割烹店に於て、加奈太政府より吾々一行出迎の為に派遣せられたるダブリユー・テー・アール・プレストン氏の催されたるレセプシヨンに出席し、同氏の歓迎の辞に対し、青淵先生一行を代表して厚く謝辞を述べられたり、斯くて一行は米国に来りて英領に入り、同盟国より款待を受けたるは特に記念すべきことなりとす、夫より再度、馬蹄滝を前面より賞し、電車に乗して更に亜米利加瀑布を前面より展望して、加奈太領を岸に沿ふて徐々として下る、漫々たる河水が迫らず急かす流れ行くかと思ふと、急ち急流奔湍と変し、怒濤号動し、白波丈余に上騰して、飛沫数十丈の岸を潤す、豪壮言ふべからず、夫れより又渦巻の場所に到り、大小幾百の渦巻奇観を呈するを見、進んでブロツク将軍の紀念塔の処より下流の橋《ローワーブリツヂ》(長八百二十五呎)を渡りて米国に帰着し、右岸を溯りて景勝を賞しつゝナイヤガラ市に到り、ナイヤガラ水力電気会社を参観す、地下弐百呎迄ヱレベーターに依りて卸され、玆に装置せられたる吸水の巨大なる鉄管に付きて説明を受け、夫れより地上に出でゝ諸設備を参看し、了りて用意せられたる自働車にて途中製菓会社に立寄り、一覧の上元の停車場に来り、特別汽車に搭してバツフアロー市に帰着し、直にホテルに帰る
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晩餐畢り、午後九時当市勧業博覧会の開場式に臨む、総裁マツクドーガル氏の演説に次きて、青淵先生は一行を代表して左の意味の演説を為せり。
 吾々一行当市に到着したるに際し、恰も博覧会の開設せらるゝあり併し未だ開会せられざるにも不拘、特に一行を招致して参観を許されたるの厚意は実に深謝する処なり。
 吾々の旅行は、実業団体にして、公式の官命を帯びたるものにあらず、故に吾々は産業発展の為に設けられたる博覧会を参観するは、特に喜悦する処なり。
 日米両国の親善は半世紀以上継続するものなり、回顧すれば五十年前コンマンドル・ペリーが始めて日本に来り、吾人の永夢を醒覚せられしが、当時の大統領は当市のヒルモーア氏なり、昨日も今日も同氏の旧住宅前を往復して、今昔の情に堪へざりしなり、蓋し日本の今日の有様に進みたるは同大統領の賜なりと思考す、若し同氏無かりせば日本は如何の状態に在りしかと、思ふて玆に到れば、日本が此地に負ふ処頗る大なる事を覚ゆるなり云々
次ぎに市長アダム氏の演説あり、終りて茶菓の饗を受け、午後十二時汽車に戻る。
十月七日 木曜日 (晴)
午前四時二十分バツフアロー市を発車して、六時三十分ロチエスター市に到着す、朝食の後午前九時下車し、歓迎自動車に迎へられて各自随意の方向に馳す、青淵先生は先づ児童の教育を視察すべく二・三の小学校を見、当市立技芸学校・市立図書館を見て、ロチヱスター・ホテルにて於て一行と共に商業会議所より午餐の饗を受け、再度自動車に乗じて一同エーストマン写真機製造所を一見す、畢りてセネガ公園始め、ジヨンス、ブラウンス、ゼネシー、バーレー、ハイランドの四公園を巡回して、五時半汽車に戻り直に服装を改め、七時よりセネカホテルに於て商業会議所の催に係る晩餐会に出席す、会頭マイナー氏国会議員スミス氏の演説に次きて、青淵先生は一行を代表して演説を為し、尚製紙業者ジヨンス氏、神田男爵、同行の米国側委員ムーア氏の演説ありて、午後十二時散会、急ぎ列車に帰着す。
十月八日 金曜日 (晴)
午前四時ロチエスター市を発車して、同七時十五分イサカ市に到着、朝餐を車中に済まし、九時半出迎の自動車に一行分乗してコーネル大学に向ふ、此市は人口一万五千、内五千の男女は大学学生なり、左れば民情も敦朴にして一行の巡行途中街衢の両側は老若男女の歓迎人にて充され、且処々日章旗さへ掲げて一行に対する誠意を示されたり。大学に向ふ途中、一の製塩会社を参観したるが、地下三百呎乃至千呎の塩層に水を注入して溶解したる塩水を喞筒に依りて吸上し、之を製塩するの装置なりし、次きに銃砲製造・時計製造会社を参看して、十一時大学に着し、先づ農科の講堂にて総長代理として分科大学長デーン・チヤーレス・エッチ・ハル氏歓迎の辞を述べ、青淵先生は一行を代表して歓迎に対する謝辞を述べ、且大学総長の不在は名誉なる旅行の為めなる由を賀し、更に語を継きて、実業の根原は学問に在り、米
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国の凡ての方面の発達は全く学問の行届ける結果なりとす、当大学の堅固なる発達は其位置する地勢より推考し得べく、又善良なる卒業生を輩出して米国を益する事は、当大学の整頓せる設備より推察することを得べし云々。
夫より農工理化等の各教室を見て、女子部寄宿舎セージ・カレージの食堂に於て午餐の饗を受く、此大学最初の総長たりしアンドリー・テリー・ホワイト氏起ちて、現総長は一年間の約束にて、米国各大学総長会議の議長となりて旅行中なればとて、其代理として歓迎の辞を述べ、予の日本人を始めて知りしは二十年前なりし、日本の矢田部博士は当大学の出身なり、日本人は正義を重する国民なり、最近の二大戦争に於いて日本人は真に人道の為めに戦ひたるなり、予は日本人を愛し日本国を尊敬するものなり、日本の学生を歓迎するものなり。
予は信ず、世界に水程大切にして結構なるものは無し、玆に水杯を挙げて日本皇帝陛下の万歳を祈り、併せて平和の使節たる一行諸君の健康を祝す。
青淵先生は一行を代表して答辞を述へ、一行が当大学に出でゝ各分科大学の参観を許され、其設備の完備したる、建物の宏壮なる、土地の奇麗なる状態を親敷観るに及んで、若し入学年齢の制限無きものなれば、予も又二・三年の入学を許されたしと思ふ程なり、予等一行シヤトル上陸以来到る処款待を受けたれど、当校に於ても不尠利益を受け且つ愉快なる歓迎を受けたるは頗る深謝する処なり、日本の大学は文明の未だ幼稚なると、国民の力未だ薄弱なる為め、凡べて政治上の力を藉れり、反言すれば、日本の大学は政府の大学なり、注入的教育なり、命令的教育なり、然るに今此の校の有様を見るに、学生は自習的なり、我国の夫れと正反対なり、予は学問には縁の薄きものなれど、教育の自習的ならざるべからざるを知る、斯る当大学の状態を見て、ソゾロに日本教育を顧みるに到れり、是れ当市の与へられたる紀念なりとす、終に臨んで大統領閣下の健康を祝し、併せて米国民の健康、当大学の隆昌に対し、祝杯を上ぐ云々。
右畢りて再度自動車に依りて校内其他の地を参観して、午後五時一と先列車に戻り、服装を改め午後七時イサカ・ホテルに集合す、来会者主客約二百人、内過半は教育家なりし、司会者の演説に次きて青淵先生は一行を代表して答辞を述べ、玆に終日当市の款待を蒙り、大学・中学・各種製造会社を参観して、各種の有益なる智識を得たる上、尚今夕玆に盛宴を張りて饗応せられたるは頗る感謝する処なり、一行渡来の理由は米国太平洋沿岸聯合商業会議所の招待に依りたるものにて九月一日シヤトル上陸以来、各地を巡回して学問の進歩と物質的進歩の偉大なるに驚嘆したり、爾来路を進め歩を進めて当地迄来りて、又一層の感情を諸君より受けたるを悦ばずんばあらず、一行の使命は実業を発達するに在りて、何等政治上の意味を有せざるなり、吾々の渡米は日本の上下一致挙て賛成したる処にして、蓋し日本国民が当国に対する真情を表はしたるものなり、本日は朝来諸君の厚情に依りて高等学校・大学等を参観したるが、午後諸工場を見物し得さる程大学に於て時間を費したり、蓋し工場の小なるにあらずして、大学の是迄見
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たるより大なりしが為めなり、頭上に英語にて友を選へと書されたる額を見る、吾々の当国に来りし意味は此数語にて尽されたり云々、次ぎに二・三の博士演説ありて十時半解散、直に列車に帰着し、十一時ヲーバーン市を経てシラキユース市に向て発車す。


竜門雑誌 第二六九号・第二二―二八頁明治四三年一〇月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六君(DK320009k-0008)
第32巻 p.180-184 ページ画像

竜門雑誌 第二六九号・第二二―二八頁明治四三年一〇月
    ○青淵先生米国紀行(続)
                随行員 増田明六君
十月九日 土曜日 (曇)
午前一時三十分オーバーン市に到着、同二時発車し、三時十五分シラキユース市に到着、車内にて朝食を済まし、八時半下車、停車場に於てレセプシヨンあり、歓迎委員中の一外人、先づ青淵先生に対して日本語にて団長渋沢男爵と呼び、長途の旅行を犒ふ、一同不審の思にて日本語にて挨拶すれば、即ち流暢なる日本語にて応対す、氏はベルベツキ大佐と称し、彼の日本文明の補助者たる有名なるベルベツキ博士の一子にして、十八歳の時迄日本に在住したりと云ふ。
一行は仍例出迎自動車に分乗して、各方面の観察に運ばれたるが、青淵先生は、此市より十六哩を隔てたるバルドウインスビル村に到り、紐育州の計画に成る運河の築造を見る、此運河はバツフアロー市と紐育市に開鑿せらるゝ者にて、中間に存在する湖水・河水の用ひらるべき者は凡て利用し、長さ四百五十哩にして、バツフアローよりシラキユース市まで百五十哩、シラキユース市よりオーバーン市まで百五十哩、オーバーン市より紐育市まではハドソン河を利用し、此長百五十哩にして総費用一億一百万円なりと云ふ、此運河の目的は重に穀物の輸送にありて、鉄道運賃を低下せんとするにあるも、俄に急を要する雑貨等は鉄道に依る外無かるべしと、案内委員の一人は語れり、帰路は電車に乗じて、一週間前迄開会せられたりと云ふ紐育州立勧業博覧会の跡を一覧し、十二時半オノンダガ・ゴルフ・カントリー倶楽部に於て午餐の饗を受け、午後二時シラキユース大学に到りて、総長デイ氏の案内にて体育館を一覧す、数百人が兵式体操を為し得る如き広大なる室、遊泳練習の温水池なども見、又漕艇術練習室を見る、此室には二艘の模造ボートが長方形の水槽内にバネ仕掛に結び付けられ、水を機械の作用にて順又は逆に勢克く流し、恰も河流にて漕艇するが如き練習を室内に於て為す仕組なり、日本の学校にても此設備あらば生徒は大に仕合せならんと思はれたり、此隣地に一の大なるスタヂウムあり、楕円形を為せる大芝生の周囲にコンクリトにて観覧席を十二段築き上げ、二万人の見物人を優に収容する事を得ると云ふ、宏壮なる競技館なり、恰も此日当大学の選手とロチエスター大学の選手とフートボール競技あり、双方の応援隊此観覧席に在りて、一人の指揮者の号令に依りて声援歌を合唱す、其声の壮大なる体度の厳粛なる、サスガ文明国の学生なりと大に感服したり、三時オノンダガ製塩会社に到り、天日製食塩製造の様を一見し、更に曹達・アンモニア等を製造するソルヴヱー・プロセス会社の外部を一周して、ヤツツ・ホテルに帰り、服装替の上、同ホテルに於て開かれたる晩餐会に列し、青淵先生
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一行を代表して演説を為し、夜半帰宿せられたり。
十月十日 日曜日 (晴)
午前中は順序なし、但市内各教会は開放して一行を歓迎すべければ、各自自由に礼拝せられん事を希望する旨、米国側委員より通報ありしも、青淵先生は来訪者等の為め在宿せられたり。
午後一時半出迎自動車に乗り、青淵先生始め一行不残列を為してマンリユース町に向ふ、途中紐育セントラル・ハドソン・リバー鉄道会社のヤードを過ぎ、車上より作業場を一覧して、午後二時私立陸軍士官学校に到着す、此学校は前日一行の驚きたる校長ベルベツキ大佐の経営するものにて、私立にてはあれど、ウエスト・ポイント兵学校と同様、卒業生は陸軍少尉に任ぜらるゝ特権を有せり、現在生徒二百名、東京江副廉造氏の令息江副氏在学せり、校庭の一隅に日本式の庭園あり、茶室などの設けありて、校長の趣味甚だ床しく感ぜられたり、二時半校長に依りて催されたるレセプシヨンを終り、夫れより導かれて講堂内に到り、階上の食堂に於て饗応を受く、饗に先ちベルベツキ校長起ちて挨拶を為し、次ぎにイサカ大学講師グリツフイス博士起ちて
 一八五〇年デラウヱア河に於て軍艦サスカンナ号の進水式行はれたり、当時予が父は石炭商なりしが、六歳の予を連れて式に列したるを今尚記憶せり、此軍艦こそペリー提督が引率して日本に到りし船なり、其後予は井伊掃部頭の送られたる使節に接したり、又横井小楠氏の送られたる書生も見たるが、ポーツマス条約の際、其衝に当られたる二人は其時の書生なりしと云ふ、其後予は松平春岳公に聘傭せられて越前に赴きたり、日本に於ける西洋流の学校の始めは予の建たるものなり。
 当時日本に於て商人の状態は、実に気の毒の位置にあり、反之武士は非常なる特権を有したりしが、渋沢と云ふ一青年が、国家の興廃は実業の盛衰に基くものなりとの卓識を抱き、政府に建白書を奉ると共に、権職を捨てゝ野に下り、賤まれたる商人の中間入を為したり、日本の今日あるは同氏の力与て大なりと云ふべし。
 予は日本人を克く解するものと自信す、日露戦争の始めに当て、校長ベルベツキ氏と共に必ず日本人の勝利を獲べき事を談じたり、日本の将来に付て言はば、日本は他国に征服せらるゝものにあらず、米国も亦然り、日本の打勝たんと欲するものは露国にあらず、米国にあらずして、隣国支那の文明を開拓せんとするに在りとす、故に支那に向て宣教師を送り同国の開拓を図る米国と、日本とは全く同一方針に在るものなり、華盛頓政府は賢明なる人士を以て組織せらるゝに就き、必ず此方針を以て為すなるべし、此度日本より米国に駐在せらるゝ内田大使は有名なる支那通なれば、尚更以て日米両国間に都合良かるべきを信ず、云々。
と述べ次きに青淵先生起ち一行を代表して、歓待に対し謝辞を述べ
 古き米国の二友人と昔物語を為さんと欲す、吾々一行の友人よりも古き米国の二友人と一堂に会し、昔を語るは予の頗る欣慰する処なり。
 グリツフイス博士は日本の維新前後の歴史に精通せる人士なり、外
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国人の著はしたる日本に関する書物は多大なるべけれど、同氏の著の如く日本の真想を書きたるもの他にあらざるべし。
 同氏の予に対する溢美の褒辞は、予の克く当る処にあらざれど、官を退きて民間に下り実業の隆盛を図りたるは同氏の説の如し。
 玆に一言を挟み度きは、井伊大老の行動なり、大老は日本の国家に対しては、開国主義を執りて多大の貢献を為したる偉人に相違なきも、其為政の方針余りに秘密に過ぎたるを以て、知らず知らず愛国の志士をして鎖国主義を取るの止を得ざるに至らしめたり、当時日本に向ひ通商を求むる外国の中には、米国の如き誠心誠意未開の日本を文明に導かんとしたる国もあれば、又通商条約を強請して、其実侵掠主義を逞ふせんと欲したるものあり、然るに井伊大老は一方に於ては何れの国に対しても秘密の間に条約を締結し、一方に於ては憂国の志士に対し乱りに圧迫を加へたるを以て、益々志士の疑惑を深からしめ、遂に水戸浪士の為めに殪るゝに到りたるなり。則ち彼の鎖国主義は、不道理を以て条約を訂結せんとしたる外国に対する方針にして、米国の如き人道を重んずる国に対する主義にあらざるなり、之が実例を挙ぐれば彼の伊藤公爵・井上侯爵の如き、当時に於ては鎖国党なり、予も亦同主義なり、其後同公侯は英国に赴き帰朝したるや、開国主義を執れり、予も亦同様なり――云々。
 爾来日米両国の親善は密着しつゝあるも、猶将来益々之が増進を期せざるべからず云々。
と演べられ、饗応終りて校内の礼拝堂に於て学生の礼拝式に参列し、畢て別室に於て学生の軍楽を聞き、且日露戦争の活動写真を見たり、此写真は本校学生が日露両軍に分擬して雪中に勇ましく戦闘する様を写したるものにて、白馬に乗りて日本軍を指揮するものは校長ベルベツキ大佐其人なり、午後六時玆を辞してホテルに帰着し、晩餐の後列車に帰着せられたり。
十月十一日 月曜日 (晴)
午前一時シラキユース市を発し、四時卅分、スケネクタデー市に到着す、此市のゼネラル・エレクトリツク電気会社は、電気の機械器具一式を製造する大会社にして、米国第一と称せらる、九時十五分列車は同社構内に進入して其の停車場に停車、同社長コツフイン氏を始め同地有志者の出迎を受け、直に同社員の案内にて一行十名宛間隔を取りて、工場の作業を順次参観を始む、青淵先生は社長コツフイン氏と共に、特に自動車に依りて重なる工場を参観せられたり。
 ゼ・ゼネラル電気会社は千八百七十八年設立のエヂソン・ゼネラル電気会社と、千八百八十年設立のトムソン・ハウストン電気会社を千八百九十三年に於て合併したる者にて、現在四個の大工場より組織せらる、スケネクタデー(紐育州)ライン(マサッチューセツツ州)ピツツフイルド(同上)ハリソン(ニュー・ジヤシー州)の四地に在るもの是れなり、是等の構内総面積弐千弐百六十六町歩、工場建坪七千万平方呎、従業者弐万三千三百人なり、而してスケネクタデー工場は其最大なるものにて、八百四十四町歩の地積と、三百八十万平方呎の建坪と、八十三の建物と、従業者一万人とを有す、
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此会社は日本と浅からぬ関係を有し、東京芝浦製作所は此会社の代弁店なり、又日本の留学生にして此会社に来りて学ぶもの多く、現に本社員工学士渋沢元治君も、幾年かを此会社に費やされたるものなり。
斯くて一行は甲の工場を通抜的に通観して乙の工場に到り、丙の工場を過き丁の工場を観来り観去れは、足棒の如くなれども、また数工場を観たるに過ぎざる内正午に達し、会社の料理店に催されたる午餐会に列す、青淵先生は自動車にて各重なる工場丈を参観して已に玆に在り、午餐会終りて青淵先生以下一同、午後二時自動車に分乗してモホウーク倶楽部に遊び、又ユニオン・カレージに至り、フートボールの競技を参観して一旦列車に帰着し、夕刻服装替の上、午後六時特別電車にてモホウク・ゴルフ倶楽部に案内せられたり、一行の電車将に同倶楽部に近かんとすれは、煙火一発中空に舞ひ、二発・三発、純粋の日本煙火中空に花を咲かせ、星を飛ばす、主人ヱレクトリツク電気会社の厚き款待推して知るべきなり、七時半食堂開始せらる、宴将に終るや社長コツフイン氏起ちて
 予は演説の準備なし、準備などして之をなすは、親密の間柄なる日本人に対して、冷淡に過ぎればなり、予の日本を敬愛する所のものは、先きに日本人が露国に対し戦争を為すまでも人道を重んじたればなり、予は日本人の勇気と美術を愛す、此日本美術の米国人に愛せらるゝに至りしは、予の友人なるボストン市のモールス氏が万金を惜まずして之を集め、米国に紹介したるに依るものなり、日本人の愛情に厚きは、予の会したる日本人にして、ペリー提督の功績を感謝せざるもの無きにて明かなりとす、今や日本は、日に月に進歩し、米国とは交情も益々親密なり、諸君は今回三箇月の有益なる旅行を米国に於て為さんとす、出来得る丈の観察を為し、研究を遂げ母国の進歩を計られん事を希望す、蓋し実業に於ては米国は日本の親たる事を得べきかなれども、美術に関しては米国は日本の子供たるべし、実業の無き生命は罪悪なり、美術の心なきものは野蛮なり云々。
と演説し、青淵先生は次きて一行を代表して、朝来ゼネラル電気会社の懇切なる歓迎と本夕の盛宴とを深謝し、且左の意味の演説を為す。
 予は会社の名に依て当市を知つた位にて、会社の宏大なる事は、米国に於ては勿論世界に於ても最大なるものなる事は、予て承知せる処なりしが、本日其実際を見るに及んで、聞きしに勝るものなる事を感じたり。
 凡そ物事は始めに聞きて後実際を見るときは、多くの場合驚かざるものなるが、当会社は嘗て聞きしに勝りて宏大なり、隆盛なり、完美なり、巧妙なり、豈に独り工場の斯の如く盛大精緻なるのみならす、会社の方針が博愛的なり、幼稚なる日本人の多くは此会社の懇切なる収容を受け、鄭寧なる教育を授けられ日本に帰朝し、之を実地に応用して日本文明事業を助け居るは蓋し当会社の恩恵なり。
 既に其名を聞き、其恩恵に接し、兼て知り居れる会社に出てゝ懇切なる打融けたる懇談に接し、而して吾国を愛せらるゝ精神を披攊せ
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られたる当会社々長コツフイン氏の寛宏なる度量を、深く謝せずんばあらず。
 吾々一行は、ペリー提督が開きたる日本を尚一層発達せしめんが為めに、米国の各地に亘りて旅行し、日本人の心情を、米国人に知られ、又米国の情態を親敷見聞して、米日両国々交の親善と貿易の増振を計らんとするものなり。
 吾々一行は到る処に於て鄭重なる歓迎を受け、当地に於ては更に深く吾々の心情を酌まれたるを深謝するものなり。
 当会社の事業の、世界に於ける文明を助くるものなる事は、勿論なるが、予は此文明の事業は国を扶くると同時に人の生命を永からしむるものなる事を悟れり。
 吾々一行が日本を去りて以来二箇月を経さるに、已に其十四箇所の都市を経過したるは文明の利器に依りたればなり、若此利器莫かりせば、此旅行は数多の年月を要する哉知るべからず、之に依りて推考するときは、全体の旅行を三箇月間に終る事を得れは、夫れ丈生命を長くしたるものなりとす。
 ペリー提督は、日本に対し過去の利益を与へたる恩人なれども、現在に於て利益を与ふるものは当会社なりと思考す、日本の美術に関し溢美の賞詞を蒙りたるも、米国は日本より大に勝れるものなる事を信ず、今夕の宴会の装飾は青葉に蔦紅葉、又卓上には黄菊に白菊を混ぜたるは、実に日本的装飾なるが、此装飾は会社関係の婦人の設計なりと聞く、此美術的の設備が已に美術思想の優秀なる事を証して余りあり云々。
夫れより尚神田男爵及モールス氏の演説あり、畢りて余興に移り、会社員の音楽・唱歌・舞踏・絵画の早描等の催あり、中に日本人二名黒人に扮して交り居り、巧に唱歌舞踏を為したれば、誰れしも日本人たる事を知るもの無かりしが、中途に二人が日本語にて語り出したるにて分明となれり、最後に余興係員一同二十三名舞台に出てゝ君が代を三唱したるが、如何にも稽古に苦心したりと見へ、一行が合唱したりとて、迚も彼の如く立派に揃ふ事は能はざるべしと思はれたる程なりし、是にて余興も終り、十一時再度特別電車に乗じて、スケネクタデ停車場に廻されたる特別列車に到り、車中に搭じ午前一時紐育市に向て発車す。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一七六―一八五頁明治四三年一〇月刊(DK320009k-0009)
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渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一七六―一八五頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
    第十三節 セントポール市
九月二十一日 (火) 晴
 払暁セントポール着。午前八時四十分、出迎の自働車に分乗して、市内の各工場・製造所等を巡覧す。其重なるものはウェスト法律書印刷会社・ゴッチヤン製靴会社・ハム麦酒醸造会社等にして、麦酒会社前にては、消防の演習を一覧す。午後零時半オゥヂトリアムに於て午餐の饗応あり。席上弁士の中ゼームス・ヒル氏は、大要別記の如き歓迎演説を為す。又其午餐の食卓上に、此地の特産の野米・
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野鶏の上ぼれるも珍とすべし。午後は各製造所、及卸問屋等を見物し、コモ公園を過ぎて、特別車に帰り、列車内にて晩食を為す。
 此日恰も当ミネソタ州知事ジョンソン氏の訃を聞く。氏は啻に知事として盛名ありしのみならず、米国民主党政治家中の錚々たるものなり。過日来屡々病気危篤の報に接し居りしが、今朝三時半を以て終に不帰の客と成りしは、悼みても余りありと云ふべし。即ち団長よりは、早速未亡人へ弔電を発し、又ミネソタ州庁を訪問して、厚く弔詞を述ぶ。尚当日市中静粛にして、晩餐会の中止されたるも、亦之れが為めとす。
      ゼームス・ヒル氏の演説
  此セントポール市に日本の顕著なる実業家諸君を歓迎するを得たるは、自分等の最も愉快とする所なり。唯本日は、我等州民の悲嘆に堪へざる日なるを遺憾となす。
  我等は今、州知事ジョンソン氏の柩を送るの悲運に遭へり。ジョンソン氏は尚ほ春秋に富み、今後造詣する所未だ図るべからざるものありしに、今朝訃音に接す、哀悼曷ぞ勝へむ。殊に氏は此州出身の人にして、此州の知事となりし最初の人たるに於てをや。我等ミネソタ州民としての悲嘆、斯く切なるものあるは、蓋し止むを得ざる所なり。
  元来我州は聯邦に入りてより、比較的に日浅く、現に予は五十年前、当地の未開の状態を親しく知れるもの、従つて其発達の極めて迅速なりし事蹟を知れり。
  之れは本日の賓客諸君の故郷たる日本に比するときは、其差極めて大なるものあり。日本は建国二千六百余年と称す。其中歴史あつてより二千年、初めの六百余年は伝説の雲に閉され居たり。
  我等がセントポールに於て、過去半世紀間に為したる所は、以て大いに世に誇ると雖も、而も日本が二十六世紀間に養成したる所のもの、蓋し物質的以上のものありて存するを見る。其東洋的の文明、其教育、其愛国心の敬慕すべきあるのみならず。一の帝室の下に四千八百万の同胞が、二万平方哩の地に住し、内に怨言を聞かず、外に醜声を洩さゞるものは、実に故なくんばあらず。之れを西洋歴史に比するに、吾人はシャーレマンの一統を論ずるに際して、非常なる偉績を感ずれども、日本がシャーレマンの生前千五百年、已に堂々たる帝国を建てたるを想はゞ、吾人豈嘆賞せざる可けんや。
  然りと雖も、吾人も亦我若年国に於て、進歩の速かなることに付て、諸君に誇り得べしと信ず。余が始めて此セントポールに来りし時には、住民僅に四千人、今現に諸君と会食せる此演劇場の在る所は、当時一の要塞にして銃砲を備へ付け、以て土人の襲撃に備へたる程なりし。然るに四十年後の今日に於て、此地は当市の中心となり、繁栄の区となれり。若し吾人にして、諸君の如き遠来の賓客に示すべきものなしとせば、是れ吾人が若き故のみ、吾人が為すなきの故にあらず。縦しや吾人は諸君に誇るべきの歴史を有せず、諸君に示すべきの古蹟を有せずと雖も、吾人の歓迎は
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極めて熱誠にして、啻にセントポール市民のみならず、我ミネソタ州民は、一斉に諸君の繁栄と幸福を祈らざる者なし。
  米国人の或る者は、日本は最近の戦争に於て、欧洲の大国を打破し、一時に名声を博したるに付き、驚嘆の情を禁ずる能はざれども、予を以て之れを見れば、之れ当然の事にして、今更これに驚き、之れを怪しむは愚者のことなりとす。二十六世紀の古き帝国として一糸乱れざる日本が、近く国を開き、国運の駸々たるものあるに、一面に於ては、五百年前に存在したる、欧洲の所謂「大国」なるものは、今如何なる状態にあるやを見よ。何れも衰頽し或は既に亡び、或は半ば亡びんとする状態に在るにあらずや。今日の所謂欧洲の「大国」なるものは、何れも最近五百年来に勃興したるものにして、其今後の運命は予測すべからずと雖も、日本が此世界に在つて、二十六世紀間隆運を維持したるは実に奇蹟と言はざるべからず。玆に予は諸君と共に杯を挙げて、衷心より日本帝国の繁栄と、来賓諸君の健康を祝せんとす。
 聞く所によれば、ヒル氏が斯る場合に演説を為したるは、蓋し稀なることなりと云ふ。
    第十四節 セントポール市概況○後掲ニツキ略ス
    第十五節 マヂソン及ミルヲーキー市
九月二十二日 (水) 晴
 午前七時半マヂソン停車場に着。同九時歓迎委員来り、四台の特別電車に分乗し、市街を経てウヰスコンシン大学に向ふ。まづ歴史参考館前階に集り、大学総長フォン・ハイス氏の歓迎辞を受く。中に左の語あり。
  『日米両国の親善は、教育家殊に大学に依りて唱導さるゝこと最も多し。我大学も其点に於て多少貢献せる処あるを信ず。現に米国に於て、大学内に国際倶楽部を興せしは、我が校を以て嚆矢とす。明年の万国平和会議には、是非当大学校よりも代表者を派せん心算なり。』云々
 次に神田男一行を代表して答辞を述ぶ。又同大学在学の日本学生総代として、富本茂氏歓迎辞を述ぶ。渋沢男は答辞をかねて奨励の辞を為し、夫れより機械科・法科・化学科等を巡覧し、更に農科大学を訪ひ、種牛の優等なるものを示さる。
 婦人の部 婦人歓迎委員により、女子部校舎を参観の後、校長フォン・ハイス夫人宅にて、茶菓の饗応を享けたり。
 午前十一時半再び列車に乗じ、当州知事ダビッドソン氏同乗し、直にミルヲーキー市に向つて発す。
 午後二時ミルヲーキー停車場に着、一同は自働車に分乗して、先づピスタア・エンド・フォーゲル製革会社、及有名なるパプスト麦酒会社を見物し、後湖岸を過ぎて、ホテル・ピスタアに入る。
 午後七時より同ホテル内に盛大なる晩餐会あり。席上知事ダビッドソン氏・市長ローズ氏、及我満洲軍に従ひ観戦将校たりし、マク・アーサー将軍等の歓迎辞あり、渋沢・神田両男答辞を述ぶ。
 婦人の部 夕刻ヤング夫人方に招かれ、晩餐を饗せらる。
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九月二十三日 (木) 晴
 午前八時半一同は自働車に分乗し、西ミルヲーキーに鉄道会社工場を見物し、同十時半よりは、アリス・チャーマー会社に到り、瓦斯機械の各工場を見物の後、十二時半より同社倶楽部に於て午餐を饗せらる。
 午後は各自希望の会社・工場に案内され、午後五時頃一同ホテルに帰る。今夕当市のアウヂトリアムに於て、今期の開演式挙行の由にて、一同之れが案内を受く。当夜は米国著名の声楽家マダム・スカーマン・ヘイネック夫人の独唱あり、団長は贈るに花束を以てす。会後直に列車に投ず。
 婦人の部 午後一時よりベテヂット夫人方に招かれ、午餐の饗応あり。後美術館及び婦人倶楽部を訪ひ、夕景帰館。夜は男子連と共に音楽会に出席す。
    第十六節 (上) マヂソン市の概況○後掲ニツキ略ス
         (下) ミルオーキー市の概況○後掲ニツキ略ス


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一九一―二四七頁明治四三年一〇月刊(DK320009k-0010)
第32巻 p.187-197 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一九一―二四七頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第一節 シカゴ市
九月二十四日 (金) 晴
 午前八時四十五分シカゴ市ラサール街停車場に着。当市の歓迎委員と接見し、同九時更に特別仕立の汽車にて、家畜市場ストツク・ヤードに赴き、世界第一と称せらるゝ屠獣場、及缶詰製造所を巡覧の後「サッドル・エンド・サアロワン」倶楽部に於て、午餐の饗応を受く。而も屠獣場の惨況、尚眼底に存せるが故に、折角の美肉にも常の如く舌を鳴らす者稀なり。午後一時十五分特別列車にてインデアナ州、ゲリー製鉄所を参観す。午後六時シカゴ市に帰り、直にコングレス・ホテルに入る。
 同夜八時より、一同歓迎委員の案内を受け、スツードベーカア劇場を見る。
九月二十五日 (土) 晴
 午前九時、一同は自働車に分乗して、「ワシントン・ブルバード」ガーフヰルト公園・ダグラス公園等を経て、ハーゾーンの「ウェスターン」電気会社・アイスクン街エヂソン電気会社等を参観し、午後一時湖畔の「サウス・ショーア」田園倶楽部に着。「シカゴ・ミルヲーキー・ヒユーゼットサウント」鉄道会社の招待にて、午餐を供せらる。会社は今回大阪商船会社との連絡関係を生ぜしが故、特に一行を歓待せしものなり。席上会社副社長ハイランド氏、及商業会議所会頭スキンナー氏の熱心なる歓迎辞に次ぎ、渋沢男の答辞演説あり。午後四時より一部の人々は、シカゴ大学に立寄り、同総長ジユドソン博士・同夫人等と接見す。
 婦人の部 昼間は二・三のデパートメント・ストーアを見物し、同マアシヤー・フィルドにて、茶菓を饗せられ、正午は松原領事夫人より、大学倶楽部にて饗応を受く。
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九月二十六日 (日) 晴
 午前十一時アウヂトリアム会堂に於て、ガンソーラス博士の説教を聴く。博士は耶蘇教が東洋より得たるものなる題の下に、特に一行の為めに所見を述べたり。午後二時よりは、一同松原領事の官邸の茶話会に臨み、後ちジャクソン公園など見物して帰る。尚団員の一部は、夜六時より当市青年会館を参観し、大学倶楽部に於て晩餐の饗応を受く。出席者は団長以下神田男・巌谷・西村・西池・石橋・原林・熊谷の諸氏なり。
九月二十七日 (月) 晴
 午前九時半一同は自働車に分乗し、美術館及びシカゴ市区改正設計案等を参観す。同計画は二億余弗を費す案にして、未だ実行に至ざるものなり。此日渋沢男は、市区改正の設計案一見の後、シカゴ銀行者の会同に列して、銀行事業に付談話を交換す。午後は各自随意に工場・学校・病院・慈善事業・商店・銀行・其他の建築等を参観し、夜はホテル内ゴールドルームにて、商業会議所主催にかゝる、盛大なる晩餐会に列す、席上会頭スキンナー氏の挨拶、次でイリノイス大学総長ゼームス博士・シカゴ大学教授ウィゾモア博士(慶応義塾に教鞭を執りし事ある人)等の趣味ある演説あり。渋沢・神田両男、及松方氏答辞を述ぶ。食堂の装飾華美を極め、氷細工の人形を担ぎ廻るなど、盛況稀に見る所なりとす、宴後一同列車に帰る。
 婦人の部 午前は市の慈善事業なる、養育院・少年裁判所、等を参観し、師範学校にて歓迎を受け、午餐を食堂内に饗せらる、夜はホテル別席に於て、歓迎委員夫人側の招待を受く。
 松方・紫藤二氏は取調の為め数日間当市に残留し、紐育市にて再び一行と会する事と成る。
 欧洲より御帰朝の途に在らせらるゝ、久邇宮王妃両殿下に御機嫌伺の為め拝謁願度旨、かねて電報を以て申請せしに、両殿下には喜んで御引見相成旨御返電を賜はる。
    第二節 シカゴ市の概況○後掲ニツキ略ス
    第三節 サウス・ベンド市
九月二十八日 (火) 曇
 午前六時半サウスベント停車場に着、同八時四十五分、出迎の自働車に分乗し、スツードベエカー車輛会社を参観し、後ち市中を巡覧して、市外なる「ノートル・ダム」大学を訪ふ。同校は基督旧教派の教育機関にして、小学・中学・大学、及女子大学等各部を兼ね備ふ。同校食堂に於て、午餐を饗せられ、午後二時四十分、市内の青年会館に向ひ、公衆の接見会に臨む。該館はスツードベエカー氏創業五十年の紀念として、市に寄附したる者なりと云ふ。
 午後五時一先づ列車に帰り、更に午後六時、再び出迎の自働車に分乗し、オリバア・ホテルの晩餐会に臨む。十一時特別列車に帰り、同四十五分グランド・ラピッドに向つて発す。
 当夜の招待会の席上、当市商業協会員某氏の演説中、特許及商標に関する、日本人の商業道徳に付て、稍攻撃的言辞を弄したるに、接伴員グリーン領事即刻遮つて之を弁駁し、弁士をして鋒を収め、誤
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を正さしめたるは、頗る機宜に適したるものとして、一行之を多とし、又嘆賞せり
    第四節 サウス・ベンド市の概況○後掲ニツキ略ス
    第五節 グランド・ラピット市
九月二十九日 (水) 曇
 午前六時、グランド・ラピット停車場に着、同八時半歓迎委員の出迎を受け、一同自働車にて商業会議所に到り、同会議所内大広間にて歓迎を受く。会頭ヘバアノート氏、及市長エリス氏の歓迎の辞あり。それより直に夕刊新聞社に至り、社内の各設備を観る。階上に新聞売子の為めに設けられたる講堂あり。千二百余人を集め得ると云ふ。
 次で市内を巡覧し、有名なる家具製造会社の工場を参観し、又転じて製作品陳列場を見る。途中一行中の自働車、馬車と衝突し、根津渡瀬の両氏同乗せしが、差したる怪我も無かりしは幸なりし。
 之より途中ペニンシュラー倶楽部に少憩し、更にケントゴルフ田園倶楽部に到る、此処に駐日米国大使オブライアン氏居合せ、水野総領事の紹介に依り、団長以下一同接見を為す。午餐は此倶楽部に於て饗せられしが、席上先づ、オブライアン氏 天皇陛下の万歳を唱へ、渋沢男大統領の健康を祝し、中野氏亦促がされて答辞を述べ、高石氏之を通訳す。午餐後は再び自働車にて電気掃除器其他の工場及公園等を巡覧し、午後五時列車に帰る。午後七時よりホテル・パントラインドに正式晩餐会あり。上院議員スミス氏司会にて、大使オブライアン氏又演説を為せり。其要に曰く、
  『欧洲より帰り、東京に向ふ途上、此席に於て日本の名誉ある人人を、我が郷里の都市に迎ふるの愉快と光栄とを謝す。尚ほ予は大統領の信任を得て、再び日本へ帰任することを喜ぶものなり。諸君は米国漫遊のみにても大儀なるべきに、殊に農工商の事を研究さるゝは、中々の御苦労なるべし。余は二年間日本に在りて、予の一身及米国政府に対する日本の同情と友誼を認む。予は日本を敬し、且つ愛す。日米両国の地理的関係を考ふれば、商業的友誼なかるべからず。今の世は猜疑・怪訝の時代に非ず、大いに信じ、大いに和すべき時なり。吾人を以て更に日米の親交を増進せしめよ』云々
 薬学博士高峰譲吉氏は、デトロイト歓迎委員として、紐育より来りて一行を迎へ、今夕の宴にも列席す。夜半一同列車に帰り、デトロイトに向つて発す。
 婦人の部 午後孤児院を参観して、後女子文学倶楽部の接見会に臨み、午後七時半レンミュー夫人宅にて晩餐を饗せらる。
    第六節 グランド・ラピツト市の概況○後掲ニツキ略ス
    第七節 デトロイト市
九月三十日 (木) 晴
 午前八時デトロイトに着。午前十時数十台の自働車出迎に来る。一同之に分乗し、カヂラック・ホテルに向ふ。此際十数名の騎馬巡査列をなして、一行を先導し、ホテルに入りしは、今日迄、未だ例無
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き所とす。次でストーブ会社を参観し、水道公園に至り、其大ポンプを見、それよりデトロイト河を渡りて、ベレ・アイランド公園なる、デトロイト端艇倶楽部に入る。
 午後十二時半頃より、同倶楽部の大広間にて午餐会あり。高峰博士の発見薬タカヂヤスターゼ、アドリナリン、其他を製造せる、パーク・デビス製薬会社の饗応なり。高峰博士社長に代りて、歓迎の辞を述べ、渋沢男之れに答ふ。食後午後三時、パーク・デビス会社に至り、会社専用の消防隊実習を見物し、それより薬品製造所を巡覧するに、其規模の大なる、実に驚嘆の外なし。(同会社には有名なる病菌研究所あり)四時過、更にパッカード自働車製造会社を訪ふ。蓋し当市には自働車製造所数ケ所あれども、該社は其泰斗たる者なりと云ふ。午後五時半頃一同ホテルに帰り、午後八時歓迎委員の案内によりて、テンプル座を見物す。
十月一日 (金) 曇
 午前十時一同自働車にて、市内公園等を巡覧し、バロース計算器製造所に至り、該器製造の状況、並に計算器運用の技巧を験す、此際町田氏試みに珠算を以て競算せしに、僅かに九十二秒の差を以て敗れたり。午前十一時半同所を辞し、十二時デトロイト倶楽部の午餐会に列す。夫れより各自数隊に分れて、各工場・会社・病院等を参観せしが、団長以下婦人連二十余名は、フリーヤ氏の私邸に至り、同氏が多年苦心して蒐集せし、日本古美術の逸品を観覧す。
 フリーヤ氏は曩きに世界漫遊の途に上り、現に清国北京にありと聞き、乃ち氏の肖像に対し、杯を挙げて遥かに其健康を祝し、又た在北京の同氏に電報を以て敬意を表す。
 夜七時半カヂラック・ホテル内に、商業会議所主催の正式晩餐会あり。席上会頭サンマー氏歓迎の辞を述べ、渋沢男・神田男・水野総領事等之に対し答辞を陳べ其他市長以下二・三氏の歓迎演説あり。最後に当市出身の米国下院議員、デンビイ氏の外交に関する演説あり、其大要下の如し。氏は共和党員にして、外交委員の一人なりと云ふ。
  『従来日本より我国に来たれるもの多かりしも、斯る大団体の来訪せるは実に未曾有の事とす。日本は果して、将来東洋に覇たるの野心ありや否やは知らざれど、日本は東西両洋の間に、文明の連鎖たるべきは疑なし。日本人の愛国心に富めるは、已に二大戦争によつて証明せらる。浅薄なる米人は、日米の開戦を論ずれども、云ふは易くして行ふは難し。而かも日米両国人とも、戦争には頗る強烈なり。故に一旦事あれば、実に、世界の最惨事なるべし。然れども、両国共斯る大事を敢てする程に愚昧ならず。若し夫れ商業上の敵たるが故に戦ふべくんば、米国は、英とも、独とも、仏とも戦はざるを得ず。米国現政府の持続する限りは、然ること決して無し。仮令商業上の競争は為すも、开は必ず平和的の争ならざる可らず。一時世を騒せし移民問題の如きも、日本はその大切なる労働者を、多く米国に出して、米人と争ふを好まず。已に公平なる解決を下せし以上、此問題は、最早論ずる余地なか
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らん、諸君が此の市を去るに当つて、敢て記憶を乞ふは、工場の大なるに非ず、其市民の熱心を以て、日本の友たる点にあり。』云々。
 宴後一同列車に帰る。
 婦人の部 正午、市の倶楽部に於て、フリーヤ氏の婦、スジロツス夫人の饗応を受く。後オブライアン氏の好意にて撮影をなす。
    第八節 デトロイト市の概況○後掲ニツキ略ス
    第九節 クリーブランド市
十月二日 (土) 晴
 午前九時クリーブランド商業会議所員の歓迎を受け、各自働車に分乗しホテル・ホルレンデンに入り、正午同ホテル内の略式午餐会に列す。席上商業会議所会頭ブラッシ氏・市長ジョンソン氏等の歓迎辞あり、前大統領ガーフヰルド氏の令息にして、ルーズベルト内閣の一員たりし、ガーフヰルド氏も亦列席せり。
 昼餐後一同は、自働車に分乗し、先づ市内の重立ちたる街路を見物し、後ち石油王ロックフェラー氏の庭園を参観し、二時半頃婦人連と合し、共に公園其他を巡覧す。当市は元来非常に樹木多く、市人呼んで森林市と云ふ。ウヰツド公園の入口には、ケース理科学校あり。広大なる石造家屋にて、米国中第一の専門学校と称せらる。夫れよりゴルデン公園を過ぎ、更に三百五十英加ありと云ふ大墓地に到る。此時渋沢男は前国務卿故ヘイ氏の墓に詣で花環を捧ぐ。蓋し日露戦役中、同氏の日本に対して表したる友情に酬ゐしなり。ガーフヰルド将軍の霊廟亦此処に在り。夫れより前知事ヘリック氏の私邸に招かれ、懇切なる茶菓の饗応を受け。六時頃同家を辞して田園倶楽部の略式晩餐会に臨む。会後舞踊数番あり。主客歓を尽して、散会深更に及ぶ。
 今朝十時より中野・土居・南・巌谷・伊藤の諸氏は、当市より三十哩を隔てたる、エリー湖畔のスタル・エンド・ハリソン園芸会社を訪ひ、広大なる花圃・菜園等を巡覧す。
十月三日 (日) 晴
 午前十時半事務所にて総会を開く。中野委員長より久邇宮殿下奉伺に就て相談あり、団長の指名を求むる事と成る。即ち中野・土居・西村・大谷・伊藤・神田、及加藤氏等六名の外に、水野総領事及夫人・松原領事及ローマン氏同行の事と決す。(詳細別記)次で中野委員長より、常議員を設け、各会議所会頭・副会頭を以て之に充つるにつき提案あり、可決承認す。次で会計の報告を為し、尚旅行中費用の外、主人側に対して具体的に謝意を表する件に付き、概略の予算に付て協議あり。宿題として次会に討議する事とす。尚ほ松村氏より、太平洋沿岸の実業団が、日本に着せし当日を期して、紀念会を開かんと云ふ動議出で、即ち満場一致を以て十月十二日紐育着当日、ホテルに於て同行米国人ローマン氏以下を招ぎ、午饗を共にして三鞭酒を挙ぐる事に決す。
 久邇宮同妃両殿下参伺の一隊は、午後十時より列車に乗込み、同夜深更当地を発す。
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十月四日 (月) 晴
 午前九時出迎の自働車に分乗し、亜米利加鋼鉄及鋼線会社・工業学校等を参観し、午後は各自の希望により工場・学校・慈善事業等を視察研究す、此間婦人連は、特に幼稚園・小学校等を参観せり。
 午後一時より商業会議所に青年会主催の午餐会あり。団長・渡瀬・南・石橋・巌谷・田村・西池・川崎の諸氏出席す。又原・堀越・田辺の諸氏は、当市建築業者の招待を受けて、同じく商業会議所内の午餐会に臨む。午後七時半より、商業会議所内に盛大なる晩餐会あり。例の石油王ロックフェラー氏も出席せしが、氏が此種の宴席に出づるは二十年来無きことなりと云ふ。宴後列車に入る例の如し。
   附記 久邇宮・同妃両殿下に拝謁の事
 紐育に於て挙行されたる、ハドソン・フルトン祝典に参列遊ばされたる、久邇宮邦彦王及同妃両殿下には、十月三日午後紐育御出発、御帰朝の途に就かせらるゝ筈なれば、此際一行は両殿下に拝謁し、敬意を表せんことを熱心に希望せるも、本来主人側なる米国委員の予定プログラムに依りて行動するものなれば、如何に両殿下に拝謁の為めとは云へ、此予定を変更すること困難なり。然るに恰も一行は、十月三日よりクリーブランド市に入り、翌四日は尚ほ引続き滞在するの予定なるを以て、四日午前、両殿下がナイヤガラ瀑布附近に、数時間御滞在あるを幸ひ、有志の輩は特に同地に出向し、敬意を表することゝなしたり。
 元来団員一同洩れなく拝謁せん事は、勿論希望に堪へざる所なれども、かくてはクリーブランド主人側の好意に戻るの嫌あるを以て、十月三日総会の決議に依り、一行中の数名のみ、両殿下の御機嫌伺の為めにナイヤガラに向ひ、団長初め団員の大部分はクリーブランド市民の好意を空うせざらんが為めに、同地に留まる事となれり。而してナイヤガラに赴きたる者は、紐育総領事水野幸吉・シカゴ領事松原一雄の両氏の外、団長の指名により、団員中、中野武営・神田乃武男・土居通夫・西村治兵衛・大谷嘉兵衛・伊藤守松・加藤辰弥の諸氏、並に水野総領事夫人、及び太平洋聯合商業会議所を代表せるローマン氏を合せて、総計十一名とす。
 此一行は、十月三日の夜普通列車に附着したる特別列車に搭じて、クリーブランドを発し、翌早朝ナイヤガラ着、同瀑布加奈多側の旅館「クリフトン・ハウス」に於て、両殿下を御待受けしたる処、間もなく御着あり、水野総領事の執奏にて一々両殿下に拝謁御機嫌を奉伺し、殿下より懇篤なる令詞を賜はりたり。尚ほ殿下には一行の為めに特に三鞭酒の盃を挙げて、使命の成功、及び旅程の平安を祈られ、一同感佩して退出せり。
 尚ほ其節殿下には、ローマン氏が一行の為めに、非常なる尽力を為せる旨を聞し召され、御感斜めならず、金剛石入カフス釦一組を贈与せられ、水野総領事には、銀製御紋章付巻煙草入を御下賜ありたり。
 同一行は、同日正午客車に搭じて、午後五時クリーブランドに帰着す。
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    第十節 クリーブランド市概況○後掲ニツキ略ス
    第十一節 ダンカーク及バファロー市
十月五日 (火) 晴
 今暁より紐育州に入り、午前七時、ダンカーク停車場に着。八時半一同下車、三井物産会社紐育支店岩下氏の出迎を受け、同氏の案内にて、直ちに汽缶車製造会社に向ふ。同会社は米国にても有数の大会社にして、規模宏大、事業頗る盛なり、夫れより同地の葡萄園を巡覧す。加州産の如く多量ならず、又品質稍劣るが如くなれども、其産出額決して侮るべからず、当市は人口一万八千有余の小都会に過ぎざれども、公園・病院・倶楽部等整然として完備せるを見る、
 午後一時過列車に帰り、直にバファローに向ふ。同三時、同所に着す。直ちに歓迎委員の出迎あり、自動車にて各専門の工場・会社を訪ふ。其重なる者は印刷事業・エレベーター製造所・金庫製造所・各種機械工場等にして、午後六時頃、一同イロクイン・ホテルに入る。渋沢男以下数名は、当地着後直に市長を訪ひ、謝辞を述ぶ。今夕は例の如く大宴会の催しを見ず、三々五々に分れて、各自の専門に因みある当市の有力家に招待さる。シヤトル以来同行せしローゼンバーカー氏の郷里とて、殊に接待の事情に適切なるを覚ゆ。
 今日は接伴者委員長ローマン氏の誕生日なるを以て、一行より祝辞を述べ、婦人側よりは特に左の祝辞を添へて生花一束を贈与せり。
(原文英語)
 太平洋聯合商業会議所会頭ゼー・デー・ローマン殿
 拝啓、此小春日和の暖く、空麗はしき朝、異郷に菊の薫りを賞しつつ、実業団の婦人は、貴下の誕辰に際し、親厚なる祝意を表し候、尚ほ我等は此機会に、貴下が、今回の旅行中、絶へず我等婦人に対し特に注意を与へられたることに対して、厚く感謝の意を表し候
                          不一
  十月五日           男爵夫人 渋沢かね子
                 男爵夫人 神田熊千代子
                      水野みね子
                      堀越しな子
                      多木うの子
                      高梨たか子
十月六日 (水) 晴
 午前九時十五分、一同出迎の自働車に分乗し、商業会議所に向ひ、同所にて接見会あり。之れより各自希望により、工場・会社等を巡覧し、十二時帰館す。零時三十分、商業会議所の主催なるホテル内の午餐会に臨む。会頭マクドーカル氏及市長アダム氏の歓迎の辞あり。次に渋沢男は、之れに対し叮重なる答辞演説を為す。午餐会終るや直に停車場に赴き、一時三十分列車にて、ナイヤガラ瀑布に向ふ。二時半ナイヤガラに着、直に自働車に分乗し、山羊島に至り、先づアメリカ側の瀑布を見、夫れよりグファル島を廻り、蹄鉄の瀑を見る。更に一巡して米加間の大橋を渡り、英領加奈陀に入つて、ヴヰクトリヤ公園・テーブルロック水力電気発電所を一巡し、帰途
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テーブルロックの近傍なる一旗亭に立寄る。加奈陀政府より特に派遣せられたるプレストン氏は、此処に一行を待受け、同氏の歓迎の辞、及渋沢団長の答辞あり、互に三鞭の杯を挙げて、日英両皇帝陛下の万歳を唱へ、後直に特別電車に乗組み、絶景を賞しつゝ下流に向ひ、ローヱル橋を渡りて、再び米国領に入り、二時間計にしてナイヤガラ市に帰る。此処にて水力電気の発電所を見物し、其宏大なるには、嘆賞を禁ぜざる者あり。斯くて七時乗車、バファローに向ふ。七時四十分バファロー市に帰着、直にホテルに入り、各自夕食をなし、又自働車に迎へられて、恰も当夜我一行の来市を機とし、開会の式を挙んとする工芸共進会場に向ふ。途中の雑踏言はん方なく、満市又イルミネーシヨンを以て飾らる。(会場は市の中央に在りて、元軍隊の営舎なりしが、昨年来空家となり居れる由)一同定めの席に着くや、会長ロバートソン氏開会の辞を述べ、フヱヤタ総裁歓迎の辞を朗読す。終つて渋沢男立つて卓上のボタンを押せば、場内一斉に点火し、壮観極無し、是を開会の式となす。夫れより来集一同の拍手に迎へられて、渋沢男祝辞を述ぶ。式後一同は別室に茶菓の饗応を受け陳列品を巡覧して、後直に列車に帰る。
    第十二節 バファロー市概況○後掲ニツキ略ス
    第十三節 ロチェスター市
十月七日 (木) 晴
 午前六時三十分ロチェスターに着、同九時出迎の自働車に分乗し、小中学校及イーストマン写真器械会社・婦人靴製造所・銅版石版会社・花卉栽培園等を巡覧し、午後一時ロチェスター・ホテルに於ける略式午餐会に臨む。午後は又市内公園其他を巡覧し、五時半特別列車に帰る。同七時よりゼネカ・ホテルに晩餐会あり、同席上去る明治十三年、故グラント将軍に随従して日本に来たりしことあるマクハム氏あり。渋沢男之を聞き、太く懐旧の念にとられ、其意を演説中に洩らせり。次に下院議員にして、外交部委員長たるパーキンス氏は、日米外交に付て演説を為し、
  「日米両国の間には、商業上の競争は在るべきも、政治上に於ける競争の必要を見ず。日米の戦争を予想し予言するものは、恰も世界の終りの近づけるを予言するものと同様なり。若し日米間の衝突ありとぜば、そは世界の終る時なり」
 と論破し大喝采を博せり。次に神田男其他の演説あり。又当夜の献立書は、嘉永年間ペリー提督の結びし最初の日米条約の条文(日米文ともに華府書庫所蔵)を縮写し、尚ほ当時の米使上港の図(ペリー・ベルモント家所蔵)を複写しありたるは、頗る一行の感動を惹けり。会後列車に帰ること例の如し。
    第十四節 ロチェスター市概況○後掲ニツキ略ス
    第十五節 イサカ市
十月八日 (金) 晴
 午前七時半イサカに着、八時四十五分コーネル大学教授連、及市内有力者の歓迎を受け、出迎の自働車にて直にコーネル大学に向ふ。
 同十時同校農科大学に着、特別講堂に於て、総長代理農科学長ハル
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氏の歓迎の辞あり。渋沢団長之れに答へ、終つて一同は農科大学校舎内の農具・牛乳・乾酪・牛酪等の製造所を参観し、夫れより各自希望に随ひ、文科・法科・機械科其他各科を巡覧す。同科植物栽培としては、バファロー、ロチェスター等の、各地方一帯の林檎樹を主とせる由にて、目下の重要なる研究事項は、林檎樹害虫駆除法に在りと。又農科大学より発行する通信教授の校外生は、無慮十四万人に及ぶと云ふ。以て此農科大学が、如何に重要視され居るかを知るに足らん。
 此間神田男は別に大学構内バーンス・ホールに至り、階上の講堂に於て、我が日本の実業教育並に教育方針に就き演説し、次で教育勅語を朗読す。午後一時「セージ・カレージ」と称する、女学生寄宿舎の大食堂に導かれ、此処にて午餐を饗せらる。時に総長は、目下ボストン市に開会中なる大学総長会議に出張不在なるを以て、当大学第一期の総長として二十余年間勤務し、後ち露西亜・独逸等駐在の大使として令名ありし、博士ホワイト氏座長となり、歓迎の辞を述ぶ。尚ほ席上にコルキン氏在り。氏は曾て当大学に英文科教授として就任されしことあり、詩人としても令名ある人にして、白髪白髯、殆んど歩行さへ自由ならざる老体なるも、進んで此席に列せしは、特に一行の感動せし処とす。
 午後二時半頃同所を辞し、歓迎委員の先導にて、バーヂックスの新設州道を通りて、湖岸を過ぎ、三時頃水塩製造所に至る。同所は地底二百呎以上二千呎を掘り下げ、塩層に達すれば水を流下して塩分を溶かし、喞筒を以て吸上ぐ仕掛となれり。同所を発して十数丁、暦時計製造所及風琴製造所を一覧し、次にイサカ中学校に立寄る。校長の先導にて大講堂のプラットホームに着席、男女学生千余名は歓迎の歌を合唱し、神田男は数分間の演説を為し、又勅語英訳を同校に贈る。次に校長の希望に依りて、渋沢男も簡単なる演説を為し頭本氏之れを通訳す。
 夫れより鉄鎖製造所・小銃製造所等を訪ひ、五時半頃一先列車に帰る。此市商業会議所主催の晩餐会は、六時四十五分よりイサカ・ホテルに催さる。市長ランドルス・ホートン氏司会し、イサカ法科教授として有名なるウッドラック氏の演説あり。今夜の宴席には「友を択べ」との渋沢男の訓戒を、英文にて認め額に掲げ、又特に「ヘール・ジャパン」と題する新作の唱歌を日本語にて作り、主人側婦人之れを謡ふ。蓋し此地の大学には本邦人の在学せしもの尠からず特に多年本邦米国大使館日本語訳官たるミラー氏の郷里とて、大に我に好意を表せり。十一時頃一同列車に送られ、直にシラキュースに向ふ。
 婦人の部 午後四時トレンマン夫人の接見会に臨み、七時より同夫人宅の晩餐に招かる。
○中略
    第十六節 シラキュース市
十月九日 (土) 晴
 午前三時十五分シラキュースに着、同八時三十分停車場にて歓迎式
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あり。市長フォーブス氏・商業会議所会頭ミーチェン氏の歓迎の辞あり、同九時三十分一同自働車に分乗し、左の各製造所・工場等の見物に赴く。
  シラキュース電灯発電所、ナイヤガラ水力電気シラキュース配電所、バーヂ運河、スミス・プレミヤー・タイプライター製造会社、警察本部、中央高等学校、シラキュース低能児教育所、シラキュース医学校、各種病院、ブラオン・ギーヤ製造会社、モナーク・タイプライター製造会社等
 午後零時三十分オノンデージゴールなる田園倶楽部に於て、午餐の饗応を受け、食後はジェームスビルを過ぎて、シラキュース大学に至り、ジムネジューム(体操場)に於ける歓迎式に臨み、それより各教室運動場等を見物し、後シラキュース対ロチェスターのフートボール試合を見物す。夜はエーツ・ホテル内に晩餐会あり。長く日本に滞在したる宣教師フルベッキ氏の子息フルベッキ中佐司会し、次に判事アンドリュース氏、天皇陛下の万歳を唱へ、団長之れに答へて、大統領の健康を祝し、次にシラキュース大学総長デイ氏は日米の国交に就て頗る同情ある演説を為し、神田男之に答へ、次に当地有名の弁護士スチルヱル氏・中野氏・水野総領事等、代る代る立て一場の演説を為す。
 婦人の部 正午出迎の自働車に乗り田園倶楽部に向ひ、同処にて午餐の後、午後二時ジェームスビルを過ぎてシラキュース大学に至りシラキュース対ロチェスターのフートボール競技を見、それよりオノンデーガコース精塩会社、ソルベー・プロセッス会社を訪ひ、午後四時半バンネット公園遊覧、午後六時半ミセス・バッサード方の晩餐会に招かる。
十月十日 (日) 晴
 休日の事とて午前は無事、唯市内の各教会は、一行を歓迎し居れば各自希望に依り、随意参拝ありたしとの事なり。午後一時出迎の自働車にて、一同マンリウスに向ふ。午後二時三十分マンリウス学校(兵式教育の中学程度学校にして、フルベッキ中佐の管理に係る)に於て、フルベッキ中佐夫妻の接見会あり、後寿司・羊羹等の饗応あり、主人中佐の心入れも偲ばれて嬉しかりき。席上グリフヰス氏(「ミカド帝国」の著者)の演説、団長の答辞あり。我が鎖国は必ずしも故なきにあらざる事、及び日本は外人の必ずしも侵略主義にあらざることを悟るや、翕然として交を西洋諸国に結ぶに至りし事を述べ、大に感動を与へたり。夜に入り列車に帰り、スケネクタディに向つて発す。
    第十七節 シラキュース市概況○後掲ニツキ略ス
    第十八節 スケネクタディ市
十月十一日 (月) 晴
 午前四時スケネクタディに着、同時列車を「ゼネラル」電気会社の構内に入る。玆に同会社の主なるものと接見し、それより十数名の案内者と共に、一同各工場を見物す。当会社は我が三井物産会社と年来特約あるが故に、先に紐育へ先発せる岩原氏、及び同所三井物
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産支店瀬古副支配人は、特に此処まで出張して一行を迎ふ。午後一時同会社の料理館(レストーラント・ビルディング)に一同参集、先づ紀念の撮影の後、午餐を饗せられる。席上器械及び工科主任にして副社長なるライス氏の歓迎の辞あり。午後二時半より、一同自働車にて、モホーク倶楽部を経てユニオン大学に至り、図書館及フートボール競技を見る。一応特別列車に帰り、夜は七時より特別電車にてモホーク・ゴルフ倶楽部に導かれ、晩餐会に臨む。席上ゼネラル電気会社社長コツフィン氏の歓迎の辞に次て、モールス氏(明治初年より日本に雇傭されし博物学者)の演説、渋沢・神田両男の答辞あり。後音楽・唱歌・活人画等の余興ありて、頗る盛会なりき。宴後直に紐育に向つて発す。因に此地の歓待は、総て同会社の主催に係り、特に特別列車を構内に引き入れ、日本国旗を其屋上に揚げ工場を隈なく視察せしむるなど、頗る懇切丁重を極む。今回の旅行中、一会社の招待によりて、態々一市を訪問したるは、此のスケネクタディ市あるのみ。
 婦人の部 福井・岩下の二夫人紐育より出迎はる、午前十時、出迎の自働車に乗り、モホーク倶楽部に向ふ。途中市内及公園を巡覧し午餐はミセス・パアソンス氏の私邸にて饗せらる。夜はモホーク倶楽部にて晩餐会を終り、後ゴルフ倶楽部に男子と合し余興を見る。


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五三八―五四〇頁明治四三年一〇月刊(DK320009k-0011)
第32巻 p.197-198 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五三八―五四〇頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 報告
    第二章 電信雑輯
九月二十九日旅行中特別列車よりゼームス・ゼー・ヒル氏に宛てたる祝電
  「予等日本実業団は、貴下の管理せらるゝ大鉄道の賓客として旅行し得るを非常なる幸福とす、本日偶々貴下の誕辰に当り、一行は満腔の祝意を表し、鶴寿千秋を祈る。」
九月二十九日
             日本実業団長 男爵 渋沢栄一
   聖ポール、ゼームス・ゼー・ヒル殿
九月二十一日ミネソタ州知事ジヨンソン氏薨去に際し、未亡人に宛てたる弔電報
  「個人として貴女とは未だ面識の栄を得ざれど、故ジヨンソン氏が抜群の治蹟を挙げられたる州の市民より、非常の厚遇を以て歓迎されつゝある日本実業団は、氏の薨去を聞き、米国の為め又人道の為めに、哀悼に堪へず、深厚なる同情の意を表す。」
九月二十一日
             聖ポールにて 男爵 渋沢栄一
   ミネソタ州ロチヱスター市にて
    ジヨンソン夫人殿
十月四日クリーブランド滞在中、当時日本に於て開会中なりし日本全国聯合商業会議所総会の名を以て、太平洋沿岸聯合商業会議所会頭ローマン氏に宛てたる電報
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  「日本全国聯合商業会議所総会は、我実業団が貴国に於て受けつつある熱誠なる歓迎に対し、米国民諸君に感謝す」
尚ほ我団に宛て
  「全国商業会議所聯合会は、謹んで各位の労を謝し、且つ成功と健康を祈る」
との来電ありたり。
十月八日イサカ市滞在中、当時大学総長会議に参列の為め、ボストンへ出張中なる、コロネル大学総長ヤコブ・シュオルマン博士よりの来電
  「閣下及団員諸君に対し、衷心より敬意を表す、予は親しく諸君を歓迎し能はざるを悲むこと切なり。我大学は閣下等の訪問を長く記憶すべく、此訪問が常に良友且つ隣人たる日米両国民相互の友誼、及尊敬を弥深うせんことを祈る」
○下略


東京経済雑誌 第六〇巻第一五一〇号・第六四一―六四二頁明治四二年一〇月二日 ○渡米実業団消息(DK320009k-0012)
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東京経済雑誌 第六〇巻第一五一〇号・第六四一―六四二頁明治四二年一〇月二日
    ○渡米実業団消息
ミネアポリスに於て大統領タフト氏に謁見したる我渡米実業団の一行は、九月二十一日同地出発、セント・ポール市に乗込み、オーデトリユームに於て盛大なる午餐会あり、席上市長ローラー氏及大北鉄道会社長ゼームス・ヒル氏の歓迎演説あり、渋沢団長の答辞、神田男の演説あり、二十二日朝マデソンに着し、同地の大学に於て歓迎を受け、同日午後ミルヲーキーに入り、ノイスター・ホテルにて盛大なる晩餐会あり、翌二十三日諸処の工場及学校を参観し、同夜は特に我一行の到着を待てる同地の新築公会堂の開場式に臨み、二十四日朝シカゴに入り、同市商業協会員の盛大なる出迎を受け、世界一のユニオン・ストツク・ヤーヅ会社及鑵詰製造所を巡覧し、午後汽車にてインデイアナ州グレイ製鋼所を参観し、同夜再びシカゴに帰り、爾来二十八日まで同市に留り、諸処を視察し調査を為したるが、一行は日を逐ふて米国文明の進歩に驚嘆しつゝ、元気旺盛に歓待を受けつゝあり、殊に二十八日コングレスアンナツクス・ホテルに於ける同地商業会議所主催の大晩餐会は最も盛大を極めたり、席上会頭スキンナー氏の挨拶に次で、イリノイス大学総長ゼームス博士は、嘗て日本大学生を教へたる経験を述べ、進んで米国人は日本の子弟は東洋のヤンキーと呼び、独逸人は東洋の独逸と謂ひ、仏人は東洋の仏蘭西と称し、英人は東洋の英国人となりと称するも決して然らず、日本は飽くまでも東洋の日本帝国なり、日本は決して欧化し米化する必要なし、寧ろ我等米国人こそ此の日本の趣意を採て、西洋の日本と呼ばれん事を期すべし、日本の成功は米国の成功なり、日本の失策は米国の失策なり、共に相提携して努むべしと論じ、其他諸氏の真率熱心なる演説交換あり、盛会夜半を過ぎんとす、米国に於ける第二の大都会に於て此種の好情歓迎を受くるは、一行の頗る満足する所にして、予定未だ半に達せざるも、既に使命の一般を全うせるを信ずとは、本国に対する電報なり、斯くて一行は同深夜直に汽車に投じ、サウスベンドに赴けり
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東京経済雑誌 第六〇巻第一五一一号・第六八八頁明治四二年一〇月九日 ○渡米実業団の消息(DK320009k-0013)
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東京経済雑誌 第六〇巻第一五一一号・第六八八頁明治四二年一〇月九日
    ○渡米実業団の消息
我渡米実業団は九月二十八日深夜汽車にてシカゴを発し、サウスベンドに赴き、夫より二十九日クランドラピツトに入り、駐日大使オブライエン氏に邂逅し、盛なる午餐会あり、同夜直にデトロイトに向ひ、此に留ること三日にして、十月三日クリーブラントに入り、此処にて代表者六名は、欧米巡遊中の久邇宮殿下に拝謁の為めバツフアローに赴き、一旦クリーブランドに引返したる後、更にバツフアローに乗込み七日まで同地に滞在せり、クリーブランドに在る時、会議所以外の団員に不平ある旨聯合通信社は電報したるが、水野総領事の電報によれば随員中には多少不平を洩せる者あるが如し



〔参考〕実業之日本 第一二巻第二三号・第三一―三二頁明治四二年一一月一日 渡米団一行中に如斯愛嬌ある失策と手柄とあり 特別通信員社友加藤辰弥(DK320009k-0014)
第32巻 p.199 ページ画像

実業之日本 第一二巻第二三号・第三一―三二頁明治四二年一一月一日
    渡米団一行中に如斯愛嬌ある失策と手柄とあり
             特別通信員 社友 加藤辰弥
  渋沢男演説に酒落を交ゆ
九月二十二日ミルウオーキー市に於て商業会議所晩餐会席上、渋沢男は演説終りて後、一同に向ひて曰く『吾等一行は今朝停車場へ着するや否や、自動車にて各種の工場へ案内せられ方々見物せしが、何れを「見る」も其規模の「大きい」には実に感服の外なし』とてミルウオーキーを酒落れたが、頭本元貞氏は又極めて巧みに之を通訳し、英語にて此洒落を米国人に告げ、非常に喝采を博したり。
  米人渋沢男の如才なきに驚く
同晩餐会の開かるゝ前、日本より一通の電報飛来せりとて同日の夕刊に現はれた。即目下ウイスコンシン州大学のベースボール・チームが我慶応義塾の野球軍と戦ひて、二に対する三で敗れたりとの報道であつた。此時一行は宛かもウイスコンシン州に居つたので、皆不思議に思つた。処が同夜の晩餐会で渋沢男が当意即妙に之を利用して、米人に一本参られたのは大喝采であつた。演説に曰く、
『……諸君御承知の通り、只今当州大学野球団の青年諸君は、三千里の波濤を蹴破つて遠く日本に渡来し、勇ましく技を闘はして居る、斯く遊戯をする者までも日本に来遊せらるるとは実に愉快に堪へない。然るに実業家諸君にして未だどしどし御来遊なきは、実に遺憾とする所である。どうぞ御奮発を願ひたい……』
といつたので大喝采であつた。殊に列席者は皆ウ軍が我慶軍に負けたことを知つて居たが、渋沢男の演説中、一言も此事に言及されなかつたのは、男が思慮あり又徳性の高きに由るとて、一同賞賛したとの事である。
○下略



〔参考〕実業之日本 第一二巻第二四号・第四三頁明治四二年一一月一五日 渡米団一行中の失策は趣味益々津々たり 特別通信員社友加藤辰弥(DK320009k-0015)
第32巻 p.199-200 ページ画像

実業之日本 第一二巻第二四号・第四三頁明治四二年一一月一五日
    渡米団一行中の失策は趣味益々津々たり
             特別通信員 社友 加藤辰弥
 - 第32巻 p.200 -ページ画像 
○上略
  水野夫人渋沢男の演説に泣く
是は失策話にあらず、渋沢男の演説は、到る処日米両国人の感情に深き印象を留めて居る様である。声は少し濁音を帯びて居るが、円転滑脱、肺腑を衝て出るといふ有様で、有髯男子をも奮起せしめる力がある。此頃某市の歓迎会席上に於て、男は例の調子で滔々と答辞演説を試みられた。処が側に居つた紐育総領事水野幸吉氏夫人は感極つて双眼に暗涙を浮べた。聞けば同夫人が演説に泣かされたのは、抑も今回が初度ださうな。



〔参考〕実業之日本 第一二巻第二五号・第二七頁明治四二年一二月一日 失策も如斯なれば却て愛嬌あり 特別通信員社友加藤辰弥(DK320009k-0016)
第32巻 p.200 ページ画像

実業之日本 第一二巻第二五号・第二七頁明治四二年一二月一日
    失策も如斯なれば却て愛嬌あり
             特別通信員 社友 加藤辰弥
  『勘太郎が食ひたい』
米国にカンタロープとて、瓜の一種で球形の非常に味のよい果実がある。渋沢男も夫人も是が大の好物で、先づ第一に此果実を命ぜられるといふ程である。多木氏も是が非常に好き、能く名を聞て忘れて居たが、或人から『君、勘太郎を覚えて居給へ』と言はれ、成程さうだと漸く覚えて、或日独りで食堂に現はれ、給仕を呼で忽ち『勘太郎、勘太郎』と絶叫した。給仕はどうも能く分らぬので、先生耐え切れず、ペンを出して紙上に絵を描て見せると、給仕は漸く合点、軈がて持参りし物を見ると、一の大なるドンブリ鉢、是れではないと頭を掉つて居る中、英語の出来る団員がはいつて来て問題は漸く終結した。



〔参考〕実業之日本 第一二巻第二六号明治四二年一二月一五日 米国一の富豪ロツクフエラー氏と会見す 渡米団特別通信員加藤辰弥(DK320009k-0017)
第32巻 p.200-201 ページ画像

実業之日本 第一二巻第二六号明治四二年一二月一五日
    米国一の富豪ロツクフエラー氏と会見す
             渡米団特別通信員 加藤辰弥
  『二十五年宴会に出ない先生』
ロツクフエラー氏に訓話を聴くのは、准不可能の事だといふ人もあつたので、尚更会つて見たいといふ気になつて、どうかよい機会もがなと思ふて居つた。
すると我々実業団の一行は、オハヨー洲のクリーヴランド市に到着して、同地商業会議所の案内で晩餐会を受ける事となつた。同市はロツクフエラー氏の故郷である。併しロツクフエラーといふ人は、曾て晩餐会などに出席した事のない、極めて不思議な人だ。過去二十五年間に於て多数の宴会に出席したのは唯一度、即同氏の親友且郷友たるマツキンレー大統領の暗殺後、其紀念祭が同市の会堂で行はれた際に珍らしく顔を出した。是が唯の一度だ。今度も無論出るものかといふ噂であつた。然るに此日は前触れがあつた、しかも『古今無双の珍客がある』といふ前触であつたので、一同には一寸気が付かなんだ、誰だらうと噂し合つて、午後七時ホテルに差し廻されたる自働車で会場に往て見ると、接待委員の一人は余に向て、今日の御馳走は余程感謝して貰はねばならぬ、即是迄どこの宴会にも出席しなかつたロックフエラー氏が、今夜出席を快諾されましたといふ話であつた。
 - 第32巻 p.201 -ページ画像 
  『ロ氏、渋沢男と隣席す』
それは何よりの御馳走と、喜んで接待室へ通ると、其所謂大珍客は既に来会して接待委員の中に交はり、皺くちやの梅干顔で我等一行を迎へ、渋沢男は無論、誰れ彼れの区別なく、握手に談笑に頗る多忙であつた。
此米国第一の富豪、石油大王ロツクフエラー氏は渋沢男と食卓を共にし、水野総領事の通訳で双方共に愉快に談話された。一同ロ氏の演説があるだらうと予期して居つたが、演説は遂に出なかつた。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第六〇九―六一二頁明治四三年一〇月刊(DK320009k-0018)
第32巻 p.201-202 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第六〇九―六一二頁明治四三年一〇月刊
 ○第三編 第九章 雑件
    第三節 一行に対する加奈多側の態度
在晩香坡矢田領事が、十月七日附を以て、小村外務大臣に報告したる所に依れば、一行がナイヤガラ瀑布観覧に赴きたる際、加奈多側に至りしに、加奈多政府は、前に日本駐在貿易事務官たりしプレストン氏を接伴委員として一行を款待し、一行は此待遇に満足し、プレストン氏の歓迎の席にて、渋沢団長より加奈多政府の好意を謝し、尚ほ日加両国の友交的関係の鞏回なることを、加奈多政府に伝達されんことをプレストン氏に依頼し、且つ又此友交的関係が今後益々増進すると共に、加奈多の驚くべき発展が、永久に継続せんことを希望する旨を述べたる趣きなるが、元来我実業家一行が、米国渡来に付いては加奈多地方の新聞紙は、最初多少の忌味を述べたる外(米国を訪問して加奈多を訪問せざるに付き)其後頗る冷淡無頓着にして、米国新聞に於ては、日々一行の行動を通信批評するに拘はらず、加奈多側の新聞紙は何等の報道をも記載することなし。右は一は事日米両国民に関係するが故なりと雖も、又一は加奈多の有力者及び新聞紙が、日加貿易の将来に就き大なる興味を有せざると、尚一は加奈多人は、一般に保守的にして、米国民の如く派手好き、狂熱的ならざるとに帰因するものにして、敢て日本との友情に関し冷淡なるにはあらず。云々
尚ほ在オッタワ中村総領事より、小村外務大臣に宛てたる報告に依れば、プレストン氏は同領事に内談して、成るべく実業団を加奈多へ同伴せしめ、モントリール市に之れを招待する計画なりしも、実業団の都合に依つて、実行覚束なき模様なりし為めに、せめてはナイヤガラ瀑布観覧の際に於てなりとも、相当の好意を表し、便宜を計らんとの考にて、同氏より商務省へ協議を遂げたるに、同省に於ても大いに賛成を表したる由なり。
其後紐育滞在中、一行の中、南・原両博士、渡瀬・田村の四氏は十月十九日オッタワに着し、二日間滞在、同地方を巡遊してボストンに帰り、一行に投じたる詳細は別項に掲ぐる如し。然るに在オッタワ中村領事の報告に依れば、右一行の加奈多領内旅行中は、加奈多政府より特別常用列車を供給せられ、又プレストン氏は、終始右の四氏に随伴して製造所・工場・学校等の参観の便宜を計り、尚ほオッタワ滞在中総理大臣ローリエ卿は、一行が同市到着の日を以て、午餐会を催して歓迎の意を表し、同夜中村領事の晩餐会あり、翌二十日の夜は農商務
 - 第32巻 p.202 -ページ画像 
大臣フイッシャー氏、又晩餐会を催して歓迎の意を表し、異常の好遇を為したり。
元来右四氏は、個人の資格を以て加奈多を訪問したるは、勿論なるに拘はらず、加奈多政府が斯の如き好意を表し、特別の注意と特別の便宜と待遇とを与へたるは、要するに我団の一行に属するの故たるに外ならず。プレストン氏が其間に立つて、終始周旋する所ありたる好意は、特に記録に価するものなり。云々



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一八一―一八二頁明治四三年一〇月刊(DK320009k-0019)
第32巻 p.202 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一八一―一八二頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
    第十四節 セントポール市概況
ミネソタ州の首府にして、州庁・州会議事堂・税関、其他重なる官庁は此市に在り。ミネアポリスと相並んで俚言「孖市《シインシチー》」と号す。海抜七百乃至八百呎の所にあり、各市の鉄道は此地に集中す。
工業産物の価格(千九百年)三千八百五十万弗。
人口は、千九百五年に十九万七千〇二十三人なりしが、同六年には二十万を超へ、合衆国の都市中にて、第二十位に在れども、若しミネアポリス市と通算する時は、人口五十万の大都会となり、米国に於て第七位を占むるに至る。
ミスシッピー河は此地を以て汽船航行の終点となし、此地の上流に至つては、舟運の便大に減ずれども、為めに生ずる河水の落差は、之を転じて水力電気の発生に利用せられ、大いに市の繁栄を助く。
大北鉄道・北太平洋鉄道、共に此州を基点とし、有名なる鉄道王ゼームス・ヒル氏は此地を根拠とす。
此地の工業の重なるものは、薬品・絹・綿布・製靴・製革等なり。日本より輸入する主要品は、茶・花筵・雑貨等にして、日本への輸出品は小麦粉を最とす。千九百八年に於ける外国輸入品中、茶は三百十六万封度、其価額五十六万八千弗、花筵は五百二十一万平方ヤード、其価額四十六万八千弗、陶磁器は十万弗にして、右の半数は日本の産出なりと見て大過なし。但だ茶・花筵等の如き外国品と雖も、一応当地に輸入し置き、更に必要に応じて、他地方に散布すること、運賃其他の関係上便利なるを以て、当地を以て其貯蔵地と成すもの少からず。此地にて製造さるゝ麦粉の、本邦に輸出されるものは、主としてシヤトルを経由す。
本邦人の在留するもの三十名。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一八五―一九〇頁明治四三年一〇月刊(DK320009k-0020)
第32巻 p.202-204 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一八五―一九〇頁明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
    第十六節 (上) マヂソン市の概況
ウィスコンシン州の首府にして、州庁の所在地たり、海抜九百七十四呎の地に在る小都会なれども、三個の湖水の間に介在し風光の明媚なると、大学の隆盛とを以て名あり。
本邦人の在住せる者、大学在学生数名、製糖会社の職工六七名、其他を合せて総計二十名に過ぎず。
 - 第32巻 p.203 -ページ画像 
此市は千八百二十八年始めて白人の定住せし所にして、其州の首府となりたるは、同三十六年なり。
寺院の数三十。
州庁は千八百七十年の落成に係るも、千九百四年に大損害を受けたるを以て、目下新築中、其工費約六百万弗。
中小学校に就学せる学生五千人。
公園の総数十一にして、其面積二百三十二エーカー。
下水は殺菌式なり。
一年の雨量三十二インチ、平均温度華氏四十五度。
人口は千八百八十年に於て一万三百二十五人、千九百五年には二万五千人となり、千九百九年には二万八千人に達せり。
此市の郵便局長は、リンコルンの大統領たりし時任命されたる儘、今日まで引続き現職に在るを以て有名なり。
ウィスコンシン大学は、其農科に於て世界に名あり、千八百五十年の創立に係り、当時教授五名、学生僅に十五名なりしが、千九百四年には、教授の数二百二十八名、学生三千百五十名となり、同九年に至つては、教授・助教授三百六十五名、学生四千五百二十名となれり。大学所属の地面は六百二十二エーカーにして、州立歴史図書館は、此構内にある大学の図書館を利用す、千九百年の完成に係り、費用六十五万弗、貯蔵書籍三十七万五千部、小冊子十九万四千冊。文科大学・理科大学・工科大学・法科大学・農科大学・医科大学等あり。大学の経費は州会の決議を経たる租税に因りて維持せられ、州内の男女青年を教育するを本来の目的とすれども、尚ほ此以外の者の来るを拒まず。入学の資格に関しては、階級国籍に就いて何等の制限を設けず。宗教及党派的の観念は、全然容れざるを以て、此大学の特長とすと云ふ。
      (下)ミルヲーキー市の概況
ミルヲーキー市は、ウィスコンシン州第一の大都会にして、海抜五百八十呎、千九百五年に於ける人口の数三十一万二千九百五十人、千九百九年に於ては既に三十八万人に達せり。人口の大部分は独逸人にして少くとも其三分の一を占む。故に独逸人の特種嗜好たる音楽・美術は非常に発達し、現に市内所在音楽協会の数七十五に上ぼれるを以ても、其実況を察し得べし。
ミシガン湖に瀕して交通の便良好なるを以て、商工業の発達著しく、並に農産物の集散最も大なり。此市の製粉所は規模甚だ大なるものにして、其一日の産出高九千バーレル、穀物エレベーターは、五百五十万ブッセルの容量を有す。
麦酒の醸造は世界に有名なるものにして、一年の産出額三百五十万バーレルに上り、其価格二千五百万弗に達す。其他千九百五年に於ける製産総価額一億三千八百八十八万余弗とす。
更に千九百八年に於ける穀物の入市額を見るに、八千七百万ブッセル(内大麦一千六百万ブッセル、小麦・燕麦三千三百万ブッセル、玉蜀黍三百八十万ブッセル)又穀物の積出高二千八百六十万ブッセル(内大麦・燕麦各九十万ブッセル、小麦六百万ブッセル、玉蜀黍三百万ブッセル)
 - 第32巻 p.204 -ページ画像 
千九百八年に於ける家畜の入市数は、牛九万九千頭、豚百七十万頭、羊五万頭、犢牛十万頭なり。
鉄鋼・機械業は工業中の首位を占め、工場の数四十、資本金二千八百七十万弗。其製産高一ケ年三千二百万弗なり、当地には合衆国鋼鉄会社の一部たる製鉄所あり。
当地は家畜類の集散多きを以て屠獣・缶詰・製革業等従つて盛なり。製肉所十八ケ所、其製出額一ケ年二千五百万弗に達す。製革所は十一ケ所にして、其製革高亦一年に二千五百万弗に上る。其他鉄道業・製造場四ケ所あり。(其産出額一年一千万弗)製靴所二十(其産出額一年七百万足)農具・煙草・メリヤス・電気機械等の製造亦相応に盛なり。
湖上船舶の出入数は、一ケ年各五千隻、其噸数各六百九十万噸。他より来たる貨物は、主として石炭にして、年額四百万噸に上り、此所より出す貨物は小麦(四百万ブッセル)燕麦(四百万ブッセル)大麦(三百六十万ブッセル)小麦粉(三百万バーレル)等なり。
当市貿易協会の取調によれば、千九百八年に於ける此市の卸売取引高は四億一千六百四十二万六千七百八十八弗に達し、其内此市の製作品二億九百万弗、他の市の製作品二億七千万弗。其主要なるものは皮類包装肉・穀物・ビール・家畜・衣類・反物・小麦粉・油等なり。
千九百年に於てミルヲーキー市の港湾に入りたる石炭のみにても、三百八十九万八百四噸なり。
製造場総数三千八百四十五、使用労働者総数九万一千三百四十六人、製造業に投じたる資本概算二億千九百八十一万五千九十七弗。
在留日本人僅に四五人。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一九四―二〇六頁 明治四三年一〇月刊(DK320009k-0021)
第32巻 p.204-208 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一九四―二〇六頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第二節 シカゴ市の概況
米国中紐育に次ぐ大都会にして、米国五大湖の一なるミシガン湖の西南部に在り。人口は市の統計局の調査によれば二百五十四万、衛生局の調査によれば二百十六万、学務局の調査によれば百九十二万。其取調の方法により、多少の差異あるを免れずと雖も、大体に於て二百万と見れば大過なかるべし。千八百三年頃、即ち今を距ること百年前は広漠たる湖畔の原野に、一要塞の建設されたるを始めとして、千八百三十七年には人口四千余人に増加し、始めて市制を布くに至れり。爾来引続き発達して、同七十年には人口三十万に達したるに、翌七十一年大火の為めに市の三分の一を灰燼し、多大の損害を加へたれども、爾後新に煉瓦及石造の家屋築造され、市区の改正を行ひ、数年ならずして従前の繁栄を回復するのみならず、市の体面に於て一大進歩を為したり。一面に於て、此市は之より西に当る地方、即ち米国中部の農産物、殊に穀物及家畜類の大集散地としての発達に伴ひ、一面に於ては、湖上の航運業の発達、及び陸上鉄道の四通八達と相俟つて、市の商工業的利便を促し、遂に千八百八十八年に至つては、人口五十万、同九十年には百九万、千九百年には百六十九万に達し、市制施行以来
 - 第32巻 p.205 -ページ画像 
僅に三十年を経過したる今日に於て、人口二百万の大都会として、或る意味に於ては殆んど紐育を凌駕するの発達を遂げたり。
此市の人種は極めて複雑し、約四分の一は独逸人若くは其子孫にして其他は英国人八分の一(二十五万人、愛蘭人をも合む)瑞典・諾威人十五万人、波蘭人十三万人、白耳義人九万人、露西亜人九万人、何れも欧洲大陸の移民若くは子孫多く、之を純英人の子孫たる、新英蘭諸州地方《ニユーイングランド》に比すれば、事情の大に異るものあり、而して本邦人の数は現に四百人内外なり。
市は南北二十六哩、東西平均九哩ありて、総面積は、百九十平方哩なり。之を南・北及西部の三区に大別す。ミシガン湖に近くシカゴ河に依つて囲まれたる一区域は、商業の中心区として、最も繁華なる地方なり。
米国の大鉄道は、殆ど何れも其中心点をシカゴに有し、現に三十六大鉄道会社の線路(七万五千哩)は、各地方より集まりて、六個の大停車場に分着す。一昼夜の列車の発着数、総計二千一百。内旅客列車千四百五十(但近距離の列車をも加算す)貨物列車は六百五十、湖上汽船の出入数、各五千六百隻、其噸数六百七十万噸、恰もミルヲーキー市と伯仲の間にあり。
主要なる貨物は、輸入に於て鉄鉱三百五十万噸、石炭百五十万噸、小麦百四十万ブッセルを主とし、玉蜀黍二千百万ブッセル、小麦五百万ブッセル、燕麦四百万ブッセルを、主たる輸出貨物と為す。
当市に於ける卸売取引高は、正確なる統計の徴すべきものなしと雖も新聞社の取調によれば、一年の総額十七億弗に達し、其主なるものは呉服反物にして二億二千万弗、農産物一億八千万弗、鉄道及電気機械製造一億八千万弗、食料品一億五千万弗、木材七千万弗等なり。
千九百年に於けるシカゴ貿易協会報告年表によれば、同年に於ける主要商品出入数量左の如し。

 品名       入           出
 玉蜀黍 一億二千五百万ブツセル  九千五百七十万ブツセル
 燕麦  九千三百九十万ブツセル  六千八百九十万ブツセル
 小麦  二千四百九十万ブツセル  二千四百三十万ブツセル
 大麦   千八百三十万ブツセル    六百二十万ブツセル
 豚   七百七十万頭       百七十万頭
 羊   四百二十万頭       百十四万頭
 牛   三百五十万頭       百四十五万頭
 精肉  二億七百万斤       七億五千三万斤
 バター 二億六千万斤       二億五千万斤
 豚脂  七千万斤         三億九千三百万斤
 羊毛  五千三百八十万斤     六千三百九十万斤
 生皮  一億二千万斤       一億六千六百万斤
 木材  二十四億八千万呎     九億七千七百万呎
 麦粉  九百四十三万バーレル   九百二十三万バーレル

此市に在る家畜市場、即ち有名なる「ストック・ヤード」は、世界第一と称せらる。千九百七年に受入れたる牛・羊・豚・犢牛・馬の価額
 - 第32巻 p.206 -ページ画像 
総計三億千九百万弗、同八年には三億六千五百万弗に達せり。此家畜市場の内に大屠獣場あり、構内に数個の会社あり。肉卸売・冷蔵・缶詰・包装等をなせり。千九百八年に於ける一年間の屠殺数は、牛百六十八万頭、犢牛三十九万頭、豚六百七十万頭、羊三百十三万頭に達せり。製肉会社の内大なるものはスイフト商会(資本金六千万弗)アーモア商会(資本金一千五百万弗)の二会社にして、何れも肉卸売、豚脂・バター・石鹸・肥料・膠等の製造に従事せり。
穀物エレベーターの総数十三、其容量二千五百五十万ブッセル。
工業製造品高は、一年総額約十六億弗に達すと称するも、此数字は多少疑問の余地あり。兎に角其内最も大なるものは、前に述べたる肉類包装缶詰業、之に次ぐものは、製鉄・器械製造業にして、銑鉄・レール・鋼鉄板、其他の鉄及鋼の製造品を合せて、其額二億弗、機械類の製造額六千万弗に達す。
製鉄業の大なるものは、シカゴ古市に在り。イリノイス州鋼鉄会社と称すれども、例の合衆国鋼鉄トラスト会社の配下に属するを以て、其事業の状況及収支計算等を窺ふ能はず。
シカゴの南方にプルマンと称する一市あり。此地はプルマン車輛会社の起したる村落にして、該会社は資本金一億弗。而して米国は勿論、世界各地に渉りて鉄道用寝台車、並に客車・貨車、及電車等の供給を為し、其勢力の偉大なる実に驚く可く、米国々内の鉄道に使用する寝台車の供給は、殆と同会社の専有に属せり。
其他各電気機械・石鹸・楽器・皮類等の製造、及靴・ペンキ・羅紗・漆・酒類・煙草・膠・肥料・乾酪・煉瓦・樽・活字・印刷機械・薬品衣服類・帽子等の製造亦頗る発達し居れり。
また一面に於ける小売業を見るに、シカゴには、模範的デパートメント・ストーアあり、其中にも「マーシャルフィルド」商会最も有名にして、規模の大なると設備の整頓せる点に於て、米国第一と称すれども、局外者より公平に言へば、費府のワナメーカーと相匹敵するものなるべし。尚此他に八個のデパートメント・ストーアあり、何れも国内に於て大なるものゝ中に数へらる。
又郵便に因りて註文を受くるを専業とするもの(メール・オーダー・ビヂネス)は、此市に於て著しく発達をなす、シェールスオェブカ商会は資本金四千万弗、モントゴメリー・ワード商会は資本金一千万弗なり。
銀行業に就ては、シカゴは紐育に次いで米国中第二位にあり。国立銀行十六、私立銀行四十、合計五十六にして、其資本総計五千八百四十万弗、預金の総計七億四千万弗(銀行間貸借預金をも含む)手形交換高は、一ケ年百二十億弗なり。而して資本金二百万弗以上の銀行左の如し。

   銀行名                資本金    預金
ファースト・ナショナル           八百万弗 一億六百万弗
コンチネンタル・ナショナル         七百万弗 一億五百万弗
コンマーシャル・ナショナル         五百万弗 六千七百万弗
コン・エッキスチェンヂ・ナショナル     三百万弗 五千九百万弗
 - 第32巻 p.207 -ページ画像 
イリノイ・トラスト             五百万弗 八千四百万弗
マーチャンツ・ローン            二百万弗 五千四百万弗
レパブリック・ナショナル          二百万弗 二千二百万弗
セントラル・トラスト            二百万弗 千六百万弗
ファースト・トラスト・エンド・セエヴイング 二百万弗 四千万弗

シカゴ市には商業会議所(Chamber of Commerce)と称するものなし。普通商業会議所の為すべき事務は、商業協会(Association of Commerce)之れに当る。該協会は、千九百五年の創立に係り、其目的は普通の商業会議所と異ならず。現在は会員約三千、役員二十名、職員十六名、委員四百八名、以て各部の調査及協議に当る。此他に貿易協会あり、千八百四十八年の創立に係り、現在会員一千七百名を有す。但し此貿易協会は、一般的商業に関すると云ふよりも、農産物殊に穀類に関する事務を処理す。又同会所内に穀物の取引行はるゝを以て、穀物取引所の事務を掌り、其取引高千九百七年には、一億六千五十八万弗に達す。シカゴ株式取引所の取引高は、意外にも余り大ならず。即ち僅に六百万弗に過ぎずと云ふ。
千八百九十三年は、コロンブス亜米利加発見後、満四百年に相当するを以て、紀念の為めシカゴに大博覧会を開設したるは、尚ほ人の記憶に新たなる所にして、其会場は現にジャクソン公園となり居れり。当時日本より出品したる鳳凰殿の模型は現に該公園内に存し、遊覧人の注意を惹きつゝあり。
シカゴには此ジャクソン公園の外五大公園あり、之れを連絡する広道(ブールバール)あり、大小公園面積総計三千百六十五エーカー、広道の長さ総計六十三哩、蓋し公園制度は此市の誇りとする所なり。
シカゴ大学は千八百九十二年の開設に係り、主として石油王ロックフェラー氏の寄附金に因つて成立す、現在学生六千名(内本邦人の学生八名)市立中学の数十九、小学校の数二百八十、図書館の大なるもの三、小なるもの十余箇所、美術学校は美術博覧会と併置せらる。
千八百九十二年に五千八百万弗を費して、排水運河三十五哩を改鑿しミシガン湖の水をミスシッピー河に放流せしむるの工事を完全してより、従来ミシガン湖に流入せしシカゴ河と、他の河川とを連絡し得て玆に上水の完成を見たり。
所謂「湖湾連絡に関する問題」とは、即ちミシガン湖と、メキシコ湾とを連絡して、汽船を通ずるに足る迄に、水路を改鑿せんとする目的を以て、此排水運河を拡張し、又延長してミスシッピー河、及其支流を開鑿せんとするにあり。之れに因り生ずる落差に対し、数ケ所に閘門を設け、以て十四呎の水深を保たしむ。若し此計画にして完成せばメキシコ湾に入り来る、世界各国より直通の汽船は、ミスシッピー河を遡つて、シカゴに寄港し、更に五大湖の何れの地方にも到るを得べし。
此大計画の完成すべきや否やは、尚ほ将来に解決さるべき疑問なりと雖も、千九百八年の冬、イリノイス州会に於ては、排水運河現在の終点より六十一哩改修の為め、工費二千万弗の支出を可決せり。尚漸次沿流各州の賛同を得て、中央政府をも動かすに至るべく、聯邦の工費
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補助を得るに至らば、此大計画も、終に完成するの日、遠きに非ざるべし。
市内交通機関の中、高架鉄道は四会社に分属し、其延長百八十二哩、地平電車は五会社に分属し、其延長九百三十三哩、地下鉄道は未だ紐育・費府若くはボストンに及ばず、現に開通せるものは、貨物の運搬に使用せらるゝものにして、未だ旅客を吸収するを得ず、其延長は五十六哩なり。
日刊新聞十、夕刊新聞四、独逸語新聞二あり。
シカゴは、開港場にあらざるを以て、直接の外国貿易額は意外に僅少なり。税関の統計によれば、千九百八年度の輸入額は三千六百万弗、輸出額僅に四百九十万弗、其内日本との貿易輸入額、二百七万弗ありしのみ。蓋し此輸入品は主として製茶にして、其数量約七百万封度、此価額百三十万弗、絹物之に次いで十七万弗、花莚十万弗、陶器九万弗、紙及紙製品四万弗。
シカゴの工業製作品の日本に輸出さるゝものは、固より少からざれども、此地にては輸出の手続を為さず、陸運を以て、西部の港湾若くは紐育に至り、此所にて、税関手続を為して始めて輸出貿易品となるが故に、正確なる数字を識る能はず。只主として本邦へ輸出さるゝ商品は、缶詰類・石鹸・電気機械なりと云ふを以て満足するの外なし。
本邦人の在留するもの約四百名。其営める商店は茶商三、絹物商一、雑貨商九、旅宿一、其他は家内労働等を為す者なりと推測すべし。多少小中学校に通学する者あれども、大学の在学者は、総計十名に過ぎず。
   附 ゲリー市
一行が特に其招待に依りて、半日を費せるゲリー市は、シカゴの東南二十三哩の地に在り。
元と湖畔の広漠たる沼地にして、雑草の茂るに任せたる処、千九百六年より合衆国鋼鉄トラストは、此所に一大製鋼所を新設せんが為め、九千エーカーの地所を購入し、之れに七千万弗を投じて各種の工場を建築し、此地を社長元判事ゲリー氏の名に因んでゲリー市と名く。
建築工事は最早大部分を竣工したるを以て、千九百八年末より、銑鉄及レールの製造に従事し、目下益其工程を進め居れり。
此製鉄製鋼所の規模は、頗る宏大なるものにして、全部完成の暁には其産出額四百万噸に達すべく、真に米国第一の名に相当すべし。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二〇七―二一〇頁 明治四三年一〇月刊(DK320009k-0022)
第32巻 p.208-209 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二〇七―二一〇頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第四節 サウス・ベンド市の概況
旅客用鉄道線九、内幹線二、即ち「グランド・トランク・システム」及「湖辺・ミシガン・セントラル」にして、附近各州の鉄道「ミシガン・セントラル」其他四線あり。日々列車の出入六十二。
電気鉄道三線あり、之を利用して此市に出入する人員約三十万人。
郵便の到着すること、一日に三十五回、同発三十六回。
此市は海抜七百二十二呎に在り、市の面積十哩余。公園の面積九十五
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エーカー余。市の道路(改築未済の分を含む)四十九哩余。市債四十四万七千弗。課税の為めにする財産評価額二千四百万弗にして、百弗に対する課税率一年に二弗八十六仙なり。
上水は七十一ケ所の掘抜井戸を源泉とし、大鉄管(六吋乃至十二吋)の延長八十五哩、圧力は七十五封度にして給水料(単位百ガロン宛)左の如し。
 八万ガロン迄十二仙の割合 十六万ガロン迄十仙の割合 十六万ガロン以上八仙の割合
下水鉄管の延長は六十哩に達す。
人口は 千八百八十年一万三千二百八十人、千八百九十年二万一千八百十九人、千九百年三万五千九百九十九人、同九年五万五千人。
出産数 千九百三年六百九十九人、同八年千五百七十八人。
死亡数 千九百三年七百九人、同八年七百十六人。
郵便局の収入 千九百五年六月三十日に至る一年間、十万七千百十弗余。
       千九百六年六月三十日に至る一年間、十八万二百三十二弗余。
銀行及びトラストコンパニーの資本積立金の総計(千九百九年七月一日現在)千百一万八千七百八十三弗余。
其他建物会社五個の資本金 二百八十万弗。
日刊新聞   三。
電力の価   一キロワツト一時間一仙半乃至十仙、一年一馬力二十四弗乃至四十五弗、平均一年一馬力三十弗。
電灯     一キロワツト五仙乃至十二仙。 瓦斯 一メートル一弗。
石炭     塊炭一噸二弗五十仙。粉炭一噸一弗五十仙乃至二弗。
電話料、住宅向十九弗乃至二十弗、事務所用二十弗乃至三十弗。
此市に於ける労働者は、各方面より入込むを以て、あらゆる人種を包含す。其最も多数なるものは、第一米国人、第二独逸人、第三波蘭人第四匈牙人、第五スカンヂナビア人、第六白耳義人にして、労働者の四分の三は家庭を有す。是等労働者の賃銀は、熟練したる者に対し一時間二十仙乃至三十五仙の割、其他の雑役に対しては、一時間十五仙乃至十七仙半。
市役所に於て、労働者に払ふ賃銀は一日(十時間)一弗七十五仙。
労働者の住する家屋は、普通五室乃至七室ありて、其家賃一ケ月平均僅かに七弗五十仙乃至十弗五十仙。
郊外には、有名なる加特力教の「ノートルダム」大学あり、教師の数七十五名。其他専門学校 二校、商業学校 一校、小学校 十六校(其数員二百十一名)あり。
其他寺院・基督教青年会・図書館・博物館・公園等相当の設備あり。此市の製造工場の数は、百三十八にして、殆んど総ての工業を含む。就中鋤・鍬・玩具・牧草刈取器械、シヤツ・ミシン機械の箱、時計・肌着・人造石・紙箱・厨房用竈等、其主たるものとすなり。
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〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二一三―二一五頁 明治四三年一〇月刊(DK320009k-0023)
第32巻 p.210 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二一三―二一五頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第六節 グランド・ラピット市の概況
白人が此地方に来住し、土人たる亜米利加印度人を駆逐し、此処に殖民の基礎を立てたるは、千八百二十七年にして、村会の組織をなしたるは、同三十八年、市制を布きたるは、同五十年なり。
人口は、千八百五十年に於て、僅に二千六百八十六人なりしもの、千九百九年には、十二万人に達せり。市の面積十七平方哩。
不動産の評価(課税向)五千八百余万弗。個人的の財産評価二千六百余万弗。総計課税財産八千四百余万弗。
市街の大道路延長百八十四哩、尚ほ改良を要すべき、道路延長百三十三哩、道路の総延長二百九十七哩。
下水管の延長百七十二哩、水道の大鉄管百九十六哩、一日の排水力二千八百ガロンに達し、千九百九年の用水量平均一日千五百二十五万三千ガロンなり。而して一百万ガロンの費用は六弗十五仙なりとす。
市内電車の延長六十二哩、電話の数一万五千、図書館の蔵書数九万五千、公園の面積二百エーカー、其評価額四十一万弗、日刊新聞三、週刊新聞十二、月刊雑誌十、ホテル十九、劇場五。
当市には合衆国の信号所及無線電信局あり。
瓦斯鉄管の延長百八十哩、電線の長さ四百哩、電灯の数三十五万灯、電気に依る馬力五万。
此市に市制を実施するが為め、市民一人に対する一年の負担金額は、十九弗二十五仙なり、之を同等の面積人口を有する他の四十八の市に比するに、一人に付き三十二仙低廉なり。(即ち他の四十八市は、一人十九弗五十七仙に当る。)
此市はシカゴより汽車便にて四時間五十分、デトロイトより四時間程に在り。通過する鉄道は五線にして、日々着する旅客専用の列車四十四、日々発する分も亦た四十三、日々着する荷物列車は五十、発するもの亦五十。
近郊と此地を連絡する電気鉄道二、鉄道停車場五。
小学校四十三、其建物の価格は百二十一万弗。私立学校四十、実業学校四、小学校に於ける生徒総数二万四千人。
病院・貧民収容所・感化院等二十一、寺院百五十一。
其他基督教青年会及基督教青年婦人会あり。
工場の総数は五百二十一にして、使用せる労働者二万人、此市は家具の製造に有名なるを以て、工場の多数は、家具製造若くは之れに聯関するものにして、冷蔵函・絨氈・掃除器械・自働車・縄取紙・ストーブ・釜・印刷・彫刻・靴・帽子等の製造顕著なり。一年の産出額四千三百万弗、一年に払ふ職工の賃銀一千百十万弗。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二一九―二二一頁 明治四三年一〇月刊(DK320009k-0024)
第32巻 p.210-211 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二一九―二二一頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第八節 デトロイト市の概況
 - 第32巻 p.211 -ページ画像 
デトロイトは、ミシガン州の主要なる都市にして、海抜五百八十呎の所に在り。千九百五年に於ける人口は三十一万七千五百十一人にして市街の整頓、及市外に樹木の富めるを以て国内に有名なり。雑穀・羊毛・豚・銅の集散地にして、工業に於ては鉄材・製銅・暖炉・塩其他各方面に渉つて、頗る繁栄を極む。今其起原を探ぬるに、千六百七十年仏蘭西人の創設せし町にして、千七百六十年に至つて、英人の手に帰し、千七百八十三年合衆国の領土として認められしも、実際は尚英人の占領する所となり、爾来幾多の変遷を経て、千八百二十四年に至り、一千五百人の人口を以て、始めて市制を布きたり。千八百五十年の人口二万一千余、同八十年には十三万四千に達し、同九十年には二万五千《(ママ)》を数ふるに至れり。
此市は大湖水の間に介在せるを以て、各種産物の此地を通過するもの甚だ多く、一例を挙ぐれば湖水の航業に従事する汽船にして、此市を通過するもの、一年三万乃至三万五千隻の多きに達し、其運搬する貨物は、六千乃至七千万噸に達す。而も冬期は結氷するを以て、実際に於て航運の便に利用さるべきは、僅に七ケ月乃至八ケ月に過ぎざるなり。此期間には郵便船あつて、特に往復汽船間の郵便の集配を為す。此市の製造業の中主要なるものは、車輛・車輪・鉄・鋼鉄類・自働車・計算器・暖炉・製薬・菓子・毛皮・塩・煙草等にして、千九百年に於ける統計は、一億万の巨額を示せり。
此地方は数万若くは数十万年前には、一体の鹹湖にして、年と共に其水分蒸発したる後に、塩分のみ蓄積したる上へ、再び土壌を重ねて、今日の土地となりたるものなれば、地面を掘ること二百呎にして(所によれば数千呎)大なる塩層区に掘当るを常とす。之を採掘する工業は、此地方に於て最も盛なり。尚ほ曹達・石灰石等を、地下より採掘するの工業亦少からず。
バロース計算器械会社は、当市名物の一にして、現に米国に於いて産する計算器械中の九割は、此会社の製造する所なり。千八百八十二年に起りて、今日は一ケ年(千九百八年)一万四千百四十六個の計算器械を、製造販売し得る迄に発達したるものにして、目下米国の実業界に於て、必要欠くべからざるものゝ一に数へられる。資本五百五十万弗、売捌人三百人、支店九十三個所、使用人三千人を有す。
一行の訪問したるミシガン煖炉製造会社は、又デトロイト市工業の主要なるものにして、一年に産出するストーブの数は十万を超へ、使用職工千五百人、其支払賃銀年額八十万乃至九十万弗、シカゴ博覧会に此会社が陳列したる巨大なる広告用煖炉は、幅二十呎・高二十五呎・長三十呎・重量十五噸を有するものにして、クルツプの大砲と並んで異彩を放ちたりき。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二二七―二二八頁 明治四三年一〇月刊(DK320009k-0025)
第32巻 p.211-212 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二二七―二二八頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第十節 クリーブランド市概況
クリーブランド市はオハヨー州最大の都市にして、イリー湖の南岸に位し、クヤホガ河の河口に在り。千七百九十六年の建設に係り、モセ
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ス・クリーブランド大将の名を採つて命名するに至れり。此市の人口は、千九百年に於ては三十八万二千人に過ぎざりしも、今や五十余万人に達せり。市街頗る整頓し樹木多きが故に、特に森林市の称あり。此市の発達は種々なる方面に依ると雖も、就中製鉄事業による処頗る多く、加ふるに紐育及シカゴの中間に介在するを以て、交通の便は水陸共に完備し、殊に十五哩の間を開鑿されたるイリー湖と、クヤホガ河の港湾を利用し毎年此港湾に出入する船舶は、七千四百隻に及び、一千百万噸に達す。
大湖地方は有名なる鉄鉱の産地にして、僅々百哩以内の、イリー湖の南岸に最も多く、其産出額の六分は、クリーブランドに集中し、出入する船舶の八割は、総て鉄鉱の運搬用に属せり。
鉄鉱製鉄の盛んなるのみならず、器械類の製造亦盛んにして、十二万五千種の異様なる器械を製作せりと云ふ。電灯用カーボン及電池・瓦斯ライン、ストーブ・自動車鋼鉄線・釘・鉄柵等の製造盛んなり。其他ペンキ、ワニスの製造の如きも亦有名なり。殊に鋼鉄材によりて製作されたる汽船は、最も多数なりと云ふ。其他此地は婦人用衣類の製産地として紐育に次げる有名の地なり。
ウエスタン・レザーブ大学の所在地にして、師範学校一、高等学校八公立小学校九十余を有し、教育費の為めに支出さるゝもの、年々三百万弗に達す。
公園の設備亦完全にして、市内九大公園を有し、其総面積一千七百エーカーに達すと云ふ。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二三二―二三六頁 明治四三年一〇月刊(DK320009k-0026)
第32巻 p.212-213 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二三二―二三六頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第十二節 バファロー市概況
バファロー市は紐育州中第二の都会にして、千九百五年の調査によれば、人口三十七万六千五百余人なり。此市はイリー湖の東端に位し、ナイヤガラ瀑布の上流二十哩の処に在り。位置頗る能く、交通便なるが故に、商工業も従つて盛なり。殊に千八百二十五年イリー運河の開通せられてより、非常なる速度を以て発達せりと云ふ。市の面積は四十五平方哩にして、最近の人口四十二万人に達すと云ふ。バファローとは水牛と称する意にして、市街の形水牛に似たるにより、此名を冠するに至れり。されば、羊及馬の市場として、又名あり、製粉業に於ては、世界の第二位たりと称す。製造所及住宅向の上水供給は最も多量に、最も廉価なりと云ふ。此市に入る鉄道の幹線十七条、接続線十三線に及ぶ。元来此地は多数の大湖水の間に介在せるが故に、内海的水路としても亦非常の便あり。
イリーの運河は、紐育市と此市とを直接に連結し、賃物を運搬する鋼鉄製曳船の一隻二千噸を運搬し得べきもの、実に数十隻に上る、
自働車の製造業所在地にして、特に電気自動車の製造所としては「バプコック」会社世界に知らる。
鉄及鋼鉄に付いては、米国に於て第二の大市場なり。
ナイヤガラの瀑布極めて近き処にあるを以つて、此水力を利用して、
 - 第32巻 p.213 -ページ画像 
発電するもの極めて多く、各種の工場・軌道・電灯・電力、万般の事総て之に依るの便利あり。
石炭及コークスに付いては、炭坑に近きが為に価格は又低廉なり。
   附 ナイヤガラ瀑布
米国は天然の景色に、乏しからずと雖も、其中最も壮観を極むるものをナイヤガラ瀑布となす。ナイヤガラ瀑布は、イリー湖を距る廿二哩オンタリオ湖を距ること十四哩なり。イリー、ミシガン、シュペリオル、ヒューロンの四大湖の水は、尽く集つてナイヤガラ河となり、ナイヤガラ瀑布となる。ナイヤガラ河は三百三十呎の落差を有し、三十六哩を奔流せり。最も急流なるものは、イリー湖の下流約二哩の間、その緩流せる箇処は、グランド・アイランドの付近にして、其河幅二哩半に及べり。イリー湖より十五哩を隔たる処に於て、又再び急流となる。中流に在るゴーツ島の為めに二流に岐れ、右側の流を亜米利加瀑布と称へ、幅一千呎、高さ百六十七呎、左方をカネデアン、或はホースシェー瀑布と云ふ。幅二千五百五十呎、高さ百五十八呎あり。瀑布の四分の三哩の上位に在りては、五十五呎の傾斜を為せり。此両瀑布の水量は、一秒時間に千二百万立方呎にして、一週間には一立方哩に達すと云ふ。水量の十分の九は、カネデアン瀑布を流るゝものにして、其最も探き処は百二十九呎に達す。瀑布の観覧に対しては、有らゆる設備を施し、且つ之を利用するに就ても、種々の計画怠りなし。瀑布の観覧は、加奈陀側より視るを最も好しとす。瀑布の下流両岸の間、最も広き処に在りては、千二百五十呎を有し、瀑布の下流二哩の処に在りては、八百呎を有す。
瀑布を利用せる水力電気事業は、加奈陀側・米国側共に設立せられ、米国側に在りては、十四万馬力を有し、カナダ側は八万馬力を有す。米国側に於けるナイヤガラ瀑布電力会社は、八千馬力を有し、遥かにバファロー、及百六十哩の遠距離なるシラキュース迄も之れを引用せり。加奈陀側に在りては、オンタリオ電力会社・加奈陀ナイヤガラ電力会社等有名なり。米国側の電力会社に於て、動力隧道は深さ二十九呎、幅十八呎の堅固なる岩層を鑿ちて作らる。ナイヤガラ市は米国側に在り、商工業の見るべきものなしと雖も、元来瀑布観覧者の為めに起りたるものなれば、此等観覧客の為めに頗る繁盛せり。此市の人口は、千九百五年の調査に拠れば、二万六千五百余人なり。而して一ケ年の観覧客は、実に七十万人に達すと称す。近来此水力を利用すること盛んに計画せられ、稍工業地たるの景況を呈するに至れり。瀑布の付近は悉く公園地にして、其規模頗る雄大なり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二三八頁 明治四三年一〇月刊(DK320009k-0027)
第32巻 p.213-214 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二三八頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第十四節 ロチェスター市概況
ロチェスターはニューヨーク州の一小市なり。千九百五年の調査によれば人口十八万千六百余人にしてゼニース河の両端に位す。有名なるオンタリオ湖を距ること七哩なり。而して此地の重なる産業は麦粉・麦酒・衣服類・靴類にして、一年の産額八千五百万弗に達すと云ふ。
 - 第32巻 p.214 -ページ画像 
市の東部にロチェスター大学あり、此大学は完全なる鉱物の標本を有するを以て有名なり。学生三百七十人を有す。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二四一頁 明治四三年一〇月刊(DK320009k-0028)
第32巻 p.214 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二四一頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第十五節 イサカ市
○上略
此市はニューヨーク州に在り。千九百五年の調査によれば、人口一万四千余人に過ぎざる一小市にて、此地には有名なる、コロネル大学在り。五百卅人の教師教授により、四千六百五十人の学生を有す。其他商工業は敢て記述する程無しと雖も、地塩汲揚事業・時計暦製造・オルゴール音楽器等稍見るべきものとす。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二四四―二四五頁(DK320009k-0029)
第32巻 p.214 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二四四―二四五頁
明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の一
    第十七節 シテキュース市概況
シラキュース市は、ニューヨーク州の一小都市にして、オロコンダ湖の南端に位す。千九百五年の調査によれば、人口十七万七千五百余人にして、当市の繁栄は、千六百五十四年八月十四日、オロコンダ湖辺に於て、塩泉の発見による。而して現に之等の井泉より湧出せる塩水の精製せらるゝもの、毎年三百万ブッセルに達し、千余人の労働者之れに従事せり。此塩業は当市の重要なる産業とす。其他工業は盛んにして、就中微妙なる器械の工作によりて著名なり。
タイプライター製造会社・ギヤー製造会社等は最も著名なるものにして、其他各種製造品、及器械類の産出せらるゝもの、千九百五年の調査によれば、三千百九十四万八千弗に達す。
此市の工場其他の電灯電力は、市を距ること百六十五哩の遠距離に於て、ナイヤガラ瀑布を利用せる水力発電所より、一万二千ボールトの電力を引用し、尚ほ市を距ること四哩の処に於けるシラキュース電気会社は、蒸汽力によりて、二千三百ボールトを此市に供給せり。
イリー運河は此市を貫通し、以て交通を便ならしむ。
シラキュース大学は、二十五人の教授及六人の評議員によりて、三千二百人の学生を有す。其他中央高等学校・シラキュース医学校・低能児教育所・病院等は、公共的設備中有名なるものなり。



〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二四七―二四八頁 明治四三年一〇月刊(DK320009k-0030)
第32巻 p.214-215 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第二四七―二四八頁 明治四三年一〇月刊
 ○第一編 第五章 回覧日誌 東部の上
    第十九節 スケネクタディの概況
スケネクタディは、紐育を距る約八十哩の処にして、モホーク河の右岸に在り。最初和蘭人によりて建設せられ、工業最も盛んなり。而して尚農産物の集散亦尠からず。千九百五年の調査に拠れば、此市の人口五万八千三百余なり。彼の有名なるゼネラル・エレクトリック会社は此処に在りて、職工一万五千余人を使用し、又アメリカン・ロコモチーブ会社は、八千人の職工を有し、何れも米国第一の工業会社と称
 - 第32巻 p.215 -ページ画像 
せらる。
千七百九十五年の創立に係るユニオン大学は、市の東方にあり。