デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
■綱文

第32巻 p.415-423(DK320016k) ページ画像

明治42年12月19日(1909年)

是日、日本貿易協会主催渡米実業団帰朝歓迎会、同協会ニ開カレ、副会頭池田謙三ノ歓迎ノ辞ニ対シ栄一謝辞ヲ述ブ。同ジク是日東京商業会議所主催同所選出渡米実業団員帰朝歓迎会、日本橋倶楽部ニ催サル。次イデ二十日東京銀行集会所等主催京浜間在住渡米実業団員等歓迎会、二十一日鰻会主催歓迎会、二十四日米友協会主催歓迎会、二十五日正午基督教青年会主催歓迎会、同夜経済学協会主催歓迎会、明治四十三年一月四日温知会主催歓迎会、二十二日東京高等商業学校同窓会主催歓迎会催サル。


■資料

竜門雑誌 第二六〇号・第四一―四六頁明治四三年一月 ○青淵先生歓迎会彙報(DK320016k-0001)
第32巻 p.415-421 ページ画像

竜門雑誌  第二六〇号・第四一―四六頁明治四三年一月
    ○青淵先生歓迎会彙報
△日本貿易協会の歓迎会(十九日) 日本貿易協会にては、十二月十九日午後三時より青淵先生並に渡米団一行を招待して歓迎会を開かれた
 - 第32巻 p.416 -ページ画像 
り、来会々員百余名にして、池田副会頭は懇切なる歓迎の辞を述べ、且つ来賓の万歳を唱え、青淵先生は来賓総代として大要左の如き謝辞を述べ、午後四時散会せりといふ
 渡米団一行に対する米国官民の歓迎は未曾有の盛事にして、その懇篤親切なる到底筆紙の尽す所に非ず、斯の如き款待を受けたるは是れ決して団員の力に非ずして、全く国民全体の力なり、一歩を進めて言へば日米の事業関係の然らしむる所にして、事業関係といへば貿易の中心は即ち当日本貿易協会なり、故に先づ吾等の感謝すべきは当日本貿易協会なるに、然るに却て諸君より斯る歓迎を受くるは予等の感謝に堪へざる所なり、旅行談の詳細は他日に譲り、玆には只諸君と密切の関係ある事を一言すべし、今回の旅行は五十三市に亘りしが、何処にても談、貿易関係に及べば、必ず日本は米国に売る事にのみ力め、米国より買ふことの、甚だ少なきを難せざるはなし、依て予は紐育に於て渋沢栄一一己の私宴を開き、米国官民の有力者を招待して予の所見を述べたり、貿易統計表によれば米国に対する輸出一億余万円に対し、同国よりの輸入は八千万円に過ぎざれば、一見貿易は不平均なるに似たり、然れども其物品を調査するに米国の買ふ所のものは多くは日本の粗成品にして、之れに加工し以て自国民の用に供するものにて、米国の利する所甚だ多し、これ日本より言へば米国より買ふて貰ふに非ずして、寧ろ売つて貰ふとも云ふべく、然るに米国民が貿易の不平均を云々するは一応尤もなれども、同時に其利甚だ尠からざることを自覚せざる可らず、徒に既往の事を難ぜんよりは、将来の貿易に付て相互に胸襟を披きて、日米国交の親善を図ると同時に貿易の発展を計らざる可らずと述べたるに、大いに悟る所ありしものゝ如し、諸君に於ては予が紐育に於ける演説を只一場の座興とせらるゝことなく、今後益々日本貿易の発展を謀るに努力せられんことを希望せざるを得ず
△東京商業会議所の歓迎会(十九日) 東京商業会議所主催と為り、十九日午後四時日本橋倶楽部に青淵先生令夫人一行を招待して歓迎会を開きたり、種々の余興ありし後、午後六時開宴半にして歓迎委員馬越恭平君の挨拶あり、之れに対し青淵先生の謝辞あり、主客歓を尽して散会したるは午後九時頃なりしといふ、青淵先生謝辞の大要左の如し
 我等渡米団一行は彼の地に於て到る処に非常なる歓迎を受け、米国民上下の誠意と其厚情に対しては、殆んど何等感謝の辞なきに拘らず、何となく物足らぬ心地せらるゝは、其見るもの聞ものが悉く日常眼に触れ耳に入るものと異れる点なりき、然るに今玆に目に慣れ耳に慣れたる盛宴に招かれ、久し振りにて諸君と相会し相歓語するを得るは真に愉快に耐へず、我等は久しく彼の地にありて一興行をなし来れり、悪く申せば猿芝居を興行したるものなり、即ち興行主は今夕此席に珍らしく和服姿にて居らるゝ水野総領事にして、余は差詰め座頭の格なり、さて一行が彼の地へ上陸以来常に起臥せしは汽車中にして、事実僅かに方六尺に満たざる事とて、時として不便窮屈を感ずる事ありしも、而も一行をして殆んど六十日間特別列車を専用せしめし如きは、交通頻繁なる彼地に於ては実に異常の優遇
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と言はざる可からず、加之彼国民が到処に於て我等一行に対し、誠心誠意を以て歓迎せし事は、克く言辞の尽す処にあらず、されば我等も亦之に対するに誠心誠意を以てせざる可からずと信じ、先般会議所に於て開陳せしが如く、唯だ忠君愛国の至情を以て終始一貫し多少其効果ありしと信ず、然して一行が彼土に些かなりとも日米親交の種子を蒔き来れりとするも、今後之を培養し之をして結実せしむるは一に諸君の力に俟たざるを得ず、尚ほ一行が今回の巡遊に依つて得たる視察及感想談は多々あるも、こは又他日時を得て開陳する事とし、今夕は諸君の言に甘へ胸襟を披いて歓話せんと欲す
△銀行家の歓迎会(廿日) 東京銀行集会所・東京手形交換所・東京興信所・東京銀行倶楽部の四団体発起と為り、廿日午後六時より銀行倶楽部楼上に、青淵先生を始め京浜渡米団員並に水野総領事を招待して歓迎会を開きたり、開宴に先だち委員長豊川良平氏は懇切なる歓迎の辞を述べ、且つ感想談を求むること切なり、乃ち先生は起ちて概要左の如く述べられたり
 久方振にて此演壇に立ち、而も亳も通訳を煩すなく自由に所見を開陳し得るは、誠に愉快とすると共に、御懇情切に感謝する所也、而して彼地到る処非常の歓待を受けたるは、畢竟自力に依て得たるにあらずして、全く国家の余光の然らしむる所と信ず、排日地方たる加州に於てすら同情頗る厚く、固より排日思想は労働協会の一部に於ては旺盛なるが如きも、現にウオルシ氏の如きは余が本邦人に於ても多少欠点あるべきを述べたるに対し、極力之を反駁したるを見ても、有識者間には決して斯かる問題に加担するなきを証するを得べし、而して彼の国民の勇敢且つ善に移るの念頗る強きと所謂「ホルクアー」の観念強きは、実に彼地今日の発展を得たるの所以なるべし
と語り、且つ路程の所感を述べ、更に銀行制度に関する興味ある土産談を為せり
 一日市俄古に於て有力銀行六七行主催に係る歓待の折り、予は本邦に於ける銀行制度の沿革を語り、当初多頭政治の状態たりし我が銀行業も、十五年日本銀行の設立せらるゝに及では全く統一主義となり、而して年の経過すると共に一同金融機関の統一組織の下にあるは、大体に於て可なりと信するの念一層強きを加ふ、然るに方今米国に於ては此事実が一大問題と為りつゝありと聞く、之れに対する米人の所見如何と問ひ試みたるに、中央組織は政治的趣味の加味せらるゝ懸念ある為め非なりとの答を得たり、而して後ち紐育に至るや、セリグマン教授は松方君を介して、自説の論拠に供せんが為め予の中央銀行設立説を確め来れり、依て之に対し米国にして若し永く現状の儘にして中央銀行の設立せられざるに於ては、他日再び卅九年に於けるが如き恐慌を繰返すの悲況に陥る事あらんと云へり、省みれば七年前ルーズベルト氏に依て我国は軍事と美術に付て頗る称讚を得たれど、商工業に至ては遂に氏の称辞を受くる事能はざりしが、今回計らずも我が銀行業のみは彼が称讚の辞を得たり、是れ実に銀行倶楽部・集会所の余光の然らしめたる所と、深く感謝の意
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を表する也
尚ほ神田男爵・中野武営君・日比谷平左衛門君等の感想談ありて、午後十時散会せりといふ
△鰻会の歓迎会(廿一日) 鰻会にては廿一日午後五時より日本銀行社宅に於て青淵先生の歓迎会を兼ねて第六回官民懇話会を開きたり、当夜の出席者は左の如し
 桂首相兼蔵相・小村外相・平田内相・大浦農相・後藤逓相、仲小路逓信・若槻大蔵・押川農商務各次官、青淵先生・日比谷平左衛門・水野総領事(以上来賓)
 松尾臣善・高橋是清・添田寿一・益田孝・荘田平五郎・大倉喜八郎・朝吹英二・豊川良平・早川千吉郎・浅野総一郎・近藤廉平・団琢磨・佐々木勇之助・木村清四郎・山川勇木・池田謙三・浜口吉右衛門・波多野承五郎・三村君平・武藤山治・和田豊治・佐々木慎思郎・原富太郎・野沢源次郎・伊藤長次郎(以上主人側)
先づ松尾男総代として歓迎の辞を述べ、青淵先生が長途の大旅行を果し能く其の目的を達して無事帰朝したるを祝するや、青淵先生は起つて、滞米中各所を巡歴し、到る処に於て非常の歓迎を受け、朝野知名の士と会見したる経過顛末、並に同国の商工業に就て感想談を述べ、次に日比谷平左衛門君の見聞談、桂首相の謝辞あり、之に対する青淵先生の謝辞に次で水野総領事の演説あり、午後十時頃散会せりといふ
△米友協会歓迎会(廿四日) 米友協会にては、二十四日午後六時より日本橋倶楽部に於て青淵先生一行を招待して歓迎の宴を張れり、主客約五十名、宴将さに終らんとする頃、会頭金子男の祝辞並に挨拶あり青淵先生は徐に起ちて先づ当夜の懇切なる招待を謝し、次で大要左の如き演説を為したり
 今回の旅行に就ては、日本人と米人とを問はず、皆其結果の空しく無用に終らざらんことを望まざるものなし、余は米国の事情に最も精通せる当協会の如きものに対しては、仮令今晩の御招待なくとも自ら進んで些か所感を披瀝し、以て諸君の高教を仰がんほどに考へ居たるなり、只会頭の所謂、岩倉大使に擬せられたる余等は、果して斯くの如き重任を負担し得るや否や、是れ窃に危まんと欲するも能はざる所なり、然かも翻て考ふれば此重任は広く実業家全体の担ふ可きもの、願くは相提携して今回の旅行の空しく無効に帰し終らざらんことを、却説今回の行は到る処至大の歓迎を受け、現に知事の接待委員となれる処さへ之なきに非ず、然も之は日本全体の名誉が余等に報ひ来りたるもの、豈に単り余等一行の私す可きものならんや、之を要するに米人は我五十年の進歩を見て太く之に感じたるものと見る可く、然かも之か為めに将来は共に相競ふて商工界に奮闘せんとするの意志の自ら仄見えざるに非ず、之に対しては宜しく将来の我商工業の方針を討究するの必要ある可し、尚ほ終りに一行がブルツクリンにタウゼンド・ハリス、ニユーポートにペリーの墓を展したるは、些か当協会に対するお土産と云ふ可きか云々
次で中野武営君其他の演説あり、散会したるは午後十時過なりといふ
△基督教青年会(廿五日) 基督教青年会にては廿五日正午築地メトロ
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ポールに於て青淵先生の歓迎会を開きたり、午餐後主客の鄭重なる挨拶ありて、直に散会せりといふ
△経済学協会歓迎会(廿五日) 経済学協会にては廿五日夜青淵先生を招待して歓迎旁々例会を開きたり、先生は先づ渡米団一行が「能く自我を没して統一を保ちし事と、其待遇の極めて懇篤なりし事を、一々例証を挙げて説明し、扨て
 米人は国自慢も激しけれ共、同時に日本の商工業の前途に対して非常に恐怖心を抱き、飽迄競争せんとするの決心を示し居れり、或点までは日本を買被り居るかの観なきに非るも、一歩を過ぐれば東洋の将来は総て日本の専有に帰す可しと確心し居れり
とて、米人が先生に向て日本が米国より買ふ事の少くして売る事の多きを語たるに対し、先生が米人は国産を海外に売出す手段に於て、遥に独逸人に劣る旨を答弁し置きしも、彼の無尽蔵の天産物を抱いて東洋に雄飛せんとしつゝある以上は、決して油断ある可からず、米国が今日の雄勢は固より天産物に富むが為なれ共
 一面に於ては米人の奮発力に帰せざる可からず、何となれば彼等は学理よりも先づ実利を先として、法令あれ共之に束縛されず、苟も利益ありと認むれば直ちに着手するの一特色を有す、之を日本が学理にのみ走りて事実の反するに注意せず、万事を法律つくめに解釈せんとするに比すれば雲泥の相違あり、日本の現状は決して商工業を発達せしむる所以にあらず
とて彼我企業の相違を指摘し、帰朝早々之に対する方策は容易に画策し得ずと雖も、日本は此際大に啓発するなくんば、米人の蹂躙に甘ぜざるを得ざるに至る可しと語り、又た排日熱はカルホルニヤ労働協会の存する限り到底々止せざるべきも、日本政府が余りに正直に移民禁止を断行せしため、加州の開発に一頓挫を来しつゝありとの新事実を添加し、更に内地の道路・旅館等が外人を招致するに恥かしく、是等の改善をも試みざれば、都市としても国家としても経済上に非常の損失あり」との意見をも追加せり、散会したるは午後九時過なりといふ
△温知会の歓迎会(一月四日) 曾て青淵先生との関係最も深かりし諸会社の代表者諸氏を以て組織せられたる温知会にては、青淵先生が無事米国より帰朝せられたるを祝する為、本月四日午後五時より帝国ホテルに於て歓迎会を開きたり、当日の来会者は左の如し
 佐久間精一   岡部真吾   諸井恒平
 佐々木慎思郎  梅浦精一   高松豊吉
 久米良作    犬丸鉄太郎  田中元三郎
 植村澄三郎   田中栄八郎  脇田勇
 近藤陸三郎   小林武次郎  郷隆三郎
午後七時晩餐を開始し、其将に終らんとする頃、梅浦氏は起つて、会員一同を代表して左の如く歓迎の辞を述べたり
 閣下並に諸君
 今夕は渋沢男爵閣下が渡米実業団を率ひ、其団長として昨年八月日本を発せられ、海陸壱万参千余哩の長途旅行中亳も故障なく、而も其重大なる任務を果され、芽出度帰朝せられたるは、本会々員一同
 - 第32巻 p.420 -ページ画像 
の喜悦何物か之に過ぎん、特に本会々員の喜悦は天下多衆より切実なるを覚ゆるものあり、抑も昨年本会の組織せらるゝに当り其命名を男爵閣下に乞ひたることありて、我々会員各自は多年其薫陶誘掖を辱ふし、常に閣下を尊崇敬慕すること恰も親子に於けるが如く、申さば閣下は本会の名付ケ親と一般なり、故に閣下が昨年長途の旅行中日夜其身辺如何に顧慮するの情、天下多衆よりも一層切実なりしに、今や閣下が無事健全に、両も其風貌昨年出発せられたる当時よりも尚壮健なるを見るに於ては、我々会員の喜悦蓋し天下多衆より切実なりと云はざるを得ざるなり
 故に我々会員は聊か其衷情を表する為、玆に歓迎の小宴を開き、尊臨を乞ひたるに、時下寒気劇烈なるをも厭はせられず、又極めて多忙なるにも拘らせられず、今夕光臨を辱うしたるは、本会の最も光栄とする処にして、会員一同を代表して深く感謝せざるを得ず
 さて男爵閣下が最初「シヤートル」に上陸せられ、終りに於て桑港にて乗船せらるゝ迄、米国大陸を縦横跋渉せられ、五十有余の都市は到る処相競うて其特長たる事物を視察に供せられたるは勿論、歓待優遇殆と至らさることなく、而も尚其足らざるを恐ると云ふの有様なりき、真に男爵閣下が或る宴に於て恰も今回の行は竜宮に遊びたるの想ひありと述べられたるは、真に然かありしならんと想察せらる、男爵閣下は如此優遇歓待の中に彼我の交情を疏通せられ、日米の親睦をして益々深厚ならしめ、以て我政治上に又国際上に多大の利益を与へられたるは別問題として、我商工業将来の発展に資する処決して鮮少にあらざるは信じて疑はざる処なり、男爵閣下は各地到る処其特長たるを、商工業は勿論其他各般の事物に就き細大漏らす処なく視察せられ、而して其採集せられたるものは悉く之を玉手箱中に納めて帰朝せられたるに付、今より我商工業各方面に向て随時適処に之を分配せらるべきは亦信じて疑はざるなり
 諸君御承知の如く、我商工業は近時不景気の極端に達し、殊に昨年男爵閣下が日本を出発せられたる以来、都鄙共に其声一層甚だしきものありき、然るに此不景気は新年を迎ふると共に漸く順調に向はんとするの兆あり、之を病者に譬ふるに熱度四十度より漸次降下して是れより将に平熱に復せんとするものゝ如し、其病源は一二にして足らざるべきも、今熟ら其病状を察するに、蓋し主治医たる者其施術を誤りたること、却て之が病源を為したるやの憾なきを得ず、今や主治医たる当局は其病源の如何に想到して適当の投薬を為さんとするものゝ如し、此時に当り我国経済界の名医たる男爵閣下が、米国より携帯せられるたる嶄新なる神薬を配剤せらるゝあらば、其回復の近きにあるべきは信じて疑はざるなり
 乍去病者の回復に向はんとするや食餌を欲すること殊に急なり、而して其欲するに任して、薬餌の配剤多量に失する時は或は亦害なきを保せざるなり、宜かるかな男爵閣下は帰朝以来各方面の歓迎会に於て、其玉手箱中より適度に其分量を計りチビリチビリと配剤せしめたりと聞く
 冀くは閣下は今夕我々会員に向つて適応なる神薬の配剤あらんこと
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を、終に臨んで重ねて閣下の光臨を謝し併せて閣下の健康を祝す
と述べたるに対し、青淵先生には先づ歓迎の厚意を謝せられ、続いて大要左の如き感想を述べられたり
 「トラスト」組織なるものは、必ずしも専売独占的の利益を壟断せんとするに非ず、余りに分業に走るの極は、製造費節減に欠くる所あるを以て「トラスト」に依り云はゞ分業的統一を遂げ以て製造費を節減し得るの意味なきに非ず、此辺は特に注目すべき所にして、今後米国の製産品が東洋の市場に輸贏を争ふの日は、東洋の主人たる我国は最も之に当らざる可らざるに、今日我国の凡の事業は個々細々に分立して、其結果自ら蝸牛角上の争に陥るが如き有様にして到底米国品の東洋来襲に当る可も非ず、是に於てか米国の「トラスト」組織が経済上に及ぼすべき効果の甚だ多大なるを認めざるを得ず、随て其之を我国に採用するの利害得失は大に講究せんと欲するなり、又米国各工場に於ける職工の待遇の冷酷なる、我国のそれと殆んど正反対なるの感あり、即ち職工なるものは其労働により賃銀を得るものにして、雇主が其労働の程度に応ずべき賃銀の仕払を為す限りは、其他の待遇如何を問ふの必要なしとするものゝ如し、彼我の差霄壌も啻ならず、是亦其利害に関しては大に研究を費さゝる可からざるなり、之を要するに此の二者は共に研究を要すべき問題と認むるに付、本会会員に於ては充分注意あらむことを望む


渋沢栄一 日記 明治四三年(DK320016k-0002)
第32巻 p.421 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年   (渋沢子爵家所蔵)
一月二十二日 曇 寒
○上略 午後三時高等商業学校ニ抵リ学生一同ノ企望ニ応シテ米国旅行中ノ感想ヲ講演ス○中略 五時ヨリ上野精養軒ニ於テ晩餐会ヲ開カル、同窓会員多ク来集ス、食堂ニ於テ一場ノ演説ヲ為ス、夜十時散宴帰宿ス
  ○明治四十二年十二月十九日、同二十日、同二十一日、同二十四日、同二十五日、明治四十三年一月四日ノ日記ヲ欠ク。


東京高等商業学校同窓会会誌 第六八号明治四三年二月 渋沢・神田両男爵帰朝歓迎会記事(DK320016k-0003)
第32巻 p.421 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第六八号明治四三年二月
    ○渋沢・神田両男爵帰朝歓迎会記事
一月二十二日(土曜)午後六時より、上野精養軒に於て渋沢・神田両男爵帰朝歓迎会の開催ありしが、当日は正賓なる右の両男爵並に母校職員及同窓会員等七十余名の出席者ありて、頗る盛会なりき、先づ当日の出席者氏名を挙ぐれば左の如し
○中略
右にて発起人側の挨拶は終りを告げたれば、渋沢男満場拍手の間に立ちて、大要左の如く述べられたり。
○下略


竜門雑誌 第二六二号・第一六―一七頁明治四三年三月 ○日米の貿易の関係 青淵先生(DK320016k-0004)
第32巻 p.421-422 ページ画像

竜門雑誌  第二六二号・第一六―一七頁明治四三年三月
    ○日米の貿易の関係
                      青淵先生
  本篇は昨年十二月十九日、日本貿易協会歓迎会席上に於ける青淵
 - 第32巻 p.422 -ページ画像 
先生の演説筆記なり
今日は当日本貿易協会より、亜米利加旅行者一同を招待せられたるを一同と共に厚く御礼を申し上げます、今回大平洋沿岸各商業会議所の招待に依り、東西一万哩余の旅程、五十余箇処の都市を経て来ましたから、旅としては誠に大なる旅で、是れが為めに受けたる饗筵なり、見聞なりに至りては、少なくありませぬ、其感想は余の浅き記憶のみを以てしても尚ほ、数日を費しても語り尽すことが出来ませぬ、これ必竟米国の日本に対する厚情に依ることゝ存じます、中に最も其力の多かりしは事業上の関係です、実業家として打揃つて参つたのですから事業を根本として居ますが、貿易に就ては本会が中心となつて、発展の策を講じて居らるゝから、先づ第一に本会に厚く御礼申上ます、今回一行が受けたる厚遇は、本会の諸君が、平素熱誠に貿易事務に御奮励せらるゝ反照です、殊に其始めシヤートルより、帰途桑港まで鉄道の列車を同一のものを以て遇せられし如きは、少しく自尊の様なれども、再び為し得難き旅行なりと信じてゐます、日本と米国とは一葦帯水の国で、向後交際益々頻繁を加ふるに至るは必然である、故に私等のみならず、こゝに集まり居らるゝ御一同の責任は、日一日重きを加ふるに至ります、私等一行が到処米国人より耳にしたる処は、日本商人は一体に自分勝手で、自国の品物を売ることのみに汲々として、米国人の商品を少しも買つて呉れぬと云ふ小言でありましたが、私は其都度説明を与えて惑を解くに勉め、殊に紐育にては渋沢栄一一個人の資格を以て、同市及び其附近の名士を一堂に招ぎ、米国人に向つてかういふ事を申しました、諸君、私の申したことが善いか、御参考迄に玆に申述べて見ませう、米国人は動もすれば日本貿易に対する不平を唱へ、日本人との取引は不利益だ、日本人は売ることにのみ勉め、買ふことに骨を折ら無いと申されまするが、千九百八年に於ける日本の輸出入総額は、九億円にして、内米国との貿易額は二億一千万円であります、此の内日本より米国へ輸出するものは一億三千万円、米国より日本に輸入する高は八千万円にして両者の間に五千万円の差はある、併し日本の輸出品は多く半成品にして、之に加工し精製して売る米国の利益は莫大なるものである、此意味に於て日本は米国に物品を買つて貰うと云ふよりは、寧ろ売て上げて居ると云ふも過言にあらざる様です、これに反して米国より日本への輸入品にあつては、日本は米国の外に、英国・独逸、其の他諸国の非常に奮励せる買主なるに拘らず、比較的売込に冷淡なる米国の製品を、尚且八千万円購求するの一事を以て、日本が米国に対する好意を知る事が出来ませうと述べたることがありました、当協会罷出でゝ諸君の前で斯様な事を申上ぐるは所謂お釈迦様揃ひの真中で説法する様なもので恐れ入りますが、私の説明は極めて平凡なるも、多少は先方に了解を与へた処あると確信します、これ唯一片の議論に止まりまするが、願くは諸君に於て、此の上ともに飽く迄誠実にして、顧客を大切に御心懸けなされまして、貿易事業に努力せられむことを切に望みます、御鄭重なる御饗応に預り喜びのあまり失礼いたしました、終に臨んで、諸君の御健康を祝します。

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竜門雑誌 第二六二号・第二三―二四頁明治四三年三月 ○今後の商業家 青淵先生(DK320016k-0005)
第32巻 p.423 ページ画像

竜門雑誌  第二六二号・第二三―二四頁明治四三年三月
    ○今後の商業家
                      青淵先生
 本篇は東京高等商業学校の歓迎会席上に於て、青淵先生が渡米所感の一端を述べて謝辞に代へたるものなり
満場の諸君、私は先刻学校の講堂に於て申した事を、再び爰で繰り返へすので御座いますが、其れは外でもありません、昨年の六月二十一日は、実に涙を含んでの会見でございました。然るに今夕は夫れに引きかへ笑顔を以て皆さんに御目に掛ることを得まして、御互に誠に悦ばしい次第に存じます。私が昨年米国に向つて出発致した頃までは、学校は此のさき如何成り行くものにや、或は門前雀羅を張るに至りはせぬかなどと、第一に学校の存在が疑はれて実に掛念に堪へませんでした。然るに今日では、校長にも実に良校長を得まして、全く本に復するを得ましたのは、返す返すも悦ばしい次第で御座います。
然るに学校の問題として、今回私が彼の地で感じました点を、一二申上げて見ますれば、今日の商業家は、第一に語学が頗る必要だと信じます。此の点は現に私が彼の地の言葉に通じませんが為めに、自ら大に不便と苦痛とを感じましたから、今回痛切に言葉の必要なる事を感じた次第で御座います。第二には学問負けをしない事であります。亜米利加の人は、己が学んだ学問は能く自分の腹の中に咀嚼し且つ同化して、之を日常万般の上に活用して居る事が、明かに認めらるゝのでありますが、翻つて我が国の有様を観ますれば、我が国の学者は己が学問を能く咀嚼し同化する事が出来ない為めか、如何にも学問が身体に別にクツツイて居るかの如くに感じられ、従つて学問の活用はおろか、却て己が学問が己れの邪魔に成り、謂はゞ己が学問に力負けをする様な傾きがありはせぬかと思はれます。以上の二点に就ては、学校の職員諸賢に御一顧を煩はしたいと思ひます。次に同窓会員諸賢に向て申上げて見たいと思ひますのは、近年学校の卒業生も、毎年二百数十名に達するとの事なれば、会員は年々、殖えるばかりで有りませうが、世には人数の増加が、却つて四分五裂を醸す基と成る様な事が往往御座います様ですから、既に皆さんで御計画が有つて居れば、私が申上る必要も御座いませんが、此の際適当の方法を講ぜられ、会の基礎を愈々鞏固ならしめ、且つ大に会の発展を期せらるゝ様の御計画を切に希望致します。