デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
3款 第三回米国行
■綱文

第33巻 p.5-18(DK330001k) ページ画像

大正4年10月14日(1915年)

是ヨリ先栄一、アメリカ合衆国サン・フランシスコニ於テ開催中ノパナマ太平洋万国大博覧会観覧ヲ兼ネテ、米国行ヲ決意ス。是日、日米関係調査委員会主催送別会、十六日東京商業会議所主催送別会、竜門社秋季総集会兼送別会、二十日東京銀行家有志主催送別会、内閣総理大臣大隈重信主催送別茶話会、帰一協会主催送別晩餐会催サル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK330001k-0001)
第33巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
七月十日 晴
○上略午前十一時外務省ニ抵リテ加藤外相ニ面会シ、米国行ノ事ヲ依頼アリ○下略
   ○中略。
八月一日 晴
○上略午後六時中野武営氏ヲ訪問シテ、米国行ノ事ニ付種々ノ談話ヲ為ス○下略
   ○中略。
九月十五日 曇
○上略午飧後大蔵省ニ抵リ、菅原次官ニ面会シテ、米国行ニ付、財政上ノ意見等ノ協議ヲ為ス○中略更ニ外務省ニ抵リ、松井次官ト米国行ニ付種々ノ打合ヲ為ス○下略


渋沢栄一書翰 明石照男宛(大正四年)七月二七日(DK330001k-0002)
第33巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一書翰 明石照男宛(大正四年)七月二七日(明石照男氏所蔵)
○上略米国行之事ハ、東京商業会議所ニ於て切ニ慫慂せられ、外務省よりも勧告有之候間、今以拒絶と申義ニハ無之候も、愚考ニハさまて之効無之歟と躊躇仕候義ニ候
○中略
  七月廿七日
                         栄一
    照男殿
    愛子との
       貴答
○下略
 - 第33巻 p.6 -ページ画像 

竜門雑誌 第三二九号・第八〇―八一頁 大正四年一〇月 ○青淵先生渡米の使命(DK330001k-0003)
第33巻 p.6 ページ画像

竜門雑誌 第三二九号・第八〇―八一頁 大正四年一〇月
○青淵先生渡米の使命 青淵先生には、愈々本月二十三日を以て渡米の途に上らるゝ次第は別項記載の如くなるが、之れに就て青淵先生が九州よりの帰途、大阪に於て大阪毎日新聞記者の訪問に対し語れる渡米談の要領なりとして、十月十日の同紙上に掲載せるもの、即ち左の如し
 日米国交親善に関し、近時米国宗教家の努力に依り、有力なる運動の加州労働界に行はれつゝあるは最も注目に値す、日米国交が時に円滑を欠くは、労働問題常に之が動機たるの状況なるが、仮りに日本移民の排斥は最早之を翻すべからずとするも、尚他に完全なる帰化法を得せしむるの方法の存在するを知らざるべからず、是等の問題を解決せんが為め、マシウス、ギユーリツク両氏は目下加州遊説中にして、来る十一月同地方に改善されたる労働大会を開き、之を機会に余の参加を促し来りしより、余は桑港博見物を兼ねて出席し約四十日間滞在、日米国交の改善に犬馬の労を執らんとす、予報に依れば労働協会設立の議ある趣なれば、此の際日本側にも同様の労働協会を創立し、今後は両協会力を戮せて紛争の解決に任じ、従来の苦き経験を避くることに努めなば好都合なるべし、余は差支ヘなき限り、来る二十三日横浜を出発し、十二月十八日桑港発にて、一月五日頃帰国の予定なり


竜門雑誌 第三二九号・第八一頁 大正四年一〇月 ○青淵先生の談片(DK330001k-0004)
第33巻 p.6 ページ画像

竜門雑誌 第三二九号・第八一頁 大正四年一〇月
○青淵先生の談片 青淵先生が、大阪に於て大阪朝日新聞記者の訪問に対し語れる財界時事談の要領なりとて、同紙十月十一日の紙上に掲載せるもの、左の如し
 余は本月末米国へ渡航し、十二月十八日桑港発地洋丸にて、帰朝の予定なるが、表面は博覧会の用務並に漫遊に過ぎず、と申し置くべし○下略


渋沢栄一 日記 大正四年(DK330001k-0005)
第33巻 p.6-7 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年           (渋沢子爵家所蔵)
十月十四日 曇
○上略 正午帝国ホテルニ於テ、平和協会開催ノ送別会ニ出席ス、阪谷男金子子等ノ演説アリ、余モ一場ノ答辞ヲ述ブ○下略
十月十五日
○上略 大蔵省ニ菅原次官ヲ訪ヘ、旅行ニ付財政経済ニ関スル政府ノ主義方針ヲ問フ○下略
十月十六日 曇
○上略 正午商業会議所ニ抵リ送別会ニ出席ス、中野氏代表ノ送別演説アリ、余之ニ答ヘテ、二時辞去シ、帝国ホテルニ抵リ○中略 五時竜門社総会ニ於ル送別会アリ、阪谷氏代表ノ演説ニ対シ、一場ノ答辞ヲ述フ、夜十時散会帰宿ス
十月十七日 雨
○上略 高木兼寛・堀井宗一二氏来リ健康診断ヲ受ク、蓋シ米国旅行ノ途ニ上ル為ナリ○中略 午後五時半帝国ホテルニ抵リ、中日実業会社ヨリノ
 - 第33巻 p.7 -ページ画像 
送別宴ニ出席ス、夜九時過散会帰宅ス○下略
十月十八日 雨
○上略 十時尾崎法相ヲ訪ヒ、久闊ノ情ヲ通シ、且近日旅行ノ告別ヲ為ス
○中略 正午日本橋倶楽部ニテ埼玉県人会アリ、余ノ旅行送別ノ為ナリ、食卓上一場ノ演説ヲ為ス○下略
十月十九日 晴
○上略 今般ノ米国行ニ付、其趣旨ヲ口述シテ、矢野由次郎氏ニ筆記セシム○下略
十月二十日 曇
○上略 正午常盤屋ニ抵リ、銀行者有志ノ送別会アリ、食事中一場ノ演説ヲ為ス○中略三時半永田町大隈総理官舎ニ送別茶話会アリ、其席上大隈伯送別ノ辞ニ答ヘテ一場ノ意見ヲ述フ○中略六時上野精養軒ニ抵リ、帰一協会ノ送別会ニ出席シ、一場ノ留別辞ヲ為ス、畢テ帰宅○下略
   ○中略。
十月廿二日
○上略明日発送《(途カ)》ノ筈ナレハ、送別ノ為メ来訪スル者頗ル多シ、午前九時加藤高明氏ヲ訪ヘ、渡米ニ付テ其意見ヲ徴ス、十一時外務省ニ抵リ、松井次官ニ面会シテ要務ヲ談ス○中略八時帰宅シテ旅装ヲ整理シ、且留守中ノ要務ヲ家人ニ指示ス


竜門雑誌 第三三〇号・第八〇―八一頁 大正四年一一月 ○両協会の青淵先生送別会(DK330001k-0006)
第33巻 p.7 ページ画像

竜門雑誌 第三三〇号・第八〇―八一頁 大正四年一一月
○両協会の青淵先生送別会 大日本平和協会及在日米人平和協会より成る日米関係調査委員会主催の青淵先生渡米送別会は、十月十四日正午帝国ホテルに於て開かれたり。金子子爵開会の辞を述べ青淵先生の答辞ありたる後、日米関係調査委員会に於ける日本側の意見は青淵先生より米国側に伝へて貰ふことを依頼して、午後三時散会したる由。
   ○本資料第三十五巻所収「大日本平和協会」大正四年十月十四日ノ条参照。


竜門雑誌 第三三〇号・第八〇頁 大正四年一一月 ○東商の青淵先生送別会(DK330001k-0007)
第33巻 p.7-8 ページ画像

竜門雑誌 第三三〇号・第八〇頁 大正四年一一月
○東商の青淵先生送別会 東京商業会議所に於ては、十月十六日正午同所に於て、青淵先生を正賓として同じく先生と共に渡米する東京実業組合聯合会々長星野錫氏を陪賓として、送別午餐会を開きたり、会頭中野武営氏起ちて「桑港博覧会の開会を好機とし、日米国交の親善を増進するが為め、国民の代表者として青淵先生の渡米を煩すに至りし顛末を述べ、斯の大使命を齎らして渡米の途に上る先生の健康を祈る云々」と述べ、之れに対し青淵先生は、概要左の如き謝辞を述べたる由。
 自分は今は年齢の上に於て風前の灯とも云ふべき立場にあり、風前の灯たる自分としては敢て此行の労苦を厭ふものにあらず、寧ろ老先き短き身を以て己が好む所に捧げ、其事が国家の為に幾分か裨益するありとせば、自分自身として欣喜となす、中野君の述べられたる如く、自分の此行は国民を代表してにあらず、只一個の渋沢として聊か己の信ずる所の或るものに向つて、老後の楽みを行らんと欲するに外ならず、今や仏国は日本に対して戦時公債の募集引受けに
 - 第33巻 p.8 -ページ画像 
就き交渉中なるが、仏国の此努力は要するに日本を金と力のあるものと思ひ込みての上ならんが、自分としては素より金と力もなかり鳧で、又金と力を以て米国に渡航し、聊か也とも彼我国民の意思の疏通せんとする次第に非ずして、要は真心を以て親しく彼地の国民に接し、己れの赤心を披瀝せんと欲するのみ、此行諸君の期待するが如き効果を齎らし得べしとは今は御請けする訳に行かず、云々
次いで星野錫氏の謝辞あり、午後二時半散会せりとなり。


東京商業会議所月報 第八巻第一〇号 大正四年一〇月 渋沢男爵渡米送別会(DK330001k-0008)
第33巻 p.8 ページ画像

東京商業会議所月報 第八巻第一〇号 大正四年一〇月
    △渋沢男爵渡米送別会
男爵渋沢栄一君不日渡米せらるゝにつき、本会議所は十月十六日正午同男爵を本会議所に招待し、送別会を開会したり、当日招に応じ同男爵及同航渡米せらるべき当所特別議員星野錫君来場、本会議所より中野会頭を始め議員・特別議員三十九名臨席し、定刻に及び主客午餐を共にし、饗了るに及び中野会頭の送別の辞、渋沢男爵並星野特別議員の答詞ありたる後ち、懇談時を移し、午後三時散会せられたり


竜門雑誌 第三二九号・第七七―八〇頁 大正四年一〇月 ○竜門社秋季総集会(DK330001k-0009)
第33巻 p.8-11 ページ画像

竜門雑誌 第三二九号・第七七―八〇頁 大正四年一〇月
    ○竜門社秋季総集会
竜門社に於ては、例年多くは十一月初旬頃青淵先生別邸曖依村荘に於て秋季総集会を開催する例なりしが、本年青淵先生には、本月二十三日を以て日米親善を図るの意味に於て、又々老躯を提げて渡米の途に上らるゝことに相成りしより、俄に会期を繰上げ、十月十六日午後五時より、帝国ホテルに於て、先生祖道の宴を兼ねて、秋季総集会を開きたり。
当夜の来会者は実に四百有余名に上り、非常の盛会にて、軈てデザートコースに入るや、幹事八十島親徳氏開会の辞を述べ、評議員会々長阪谷男爵会員を代表して慇懃に送別の辞を述べ(本誌十一月号掲載)之れに対し青淵先生の答辞(本誌十一月号掲載)ありて宴を撤し、別室に移りて歓談に時の移るを覚えず、軈て一同散会したるは十時前なりき、当日来会者は左の如し。
      △来賓及来会者氏名
一正賓
 青淵先生
 同令夫人
一陪賓(いろは順)
 渋沢武之助君
 星野錫君
 堀越善重郎君
 横山徳次郎君
 野口弘毅君
 増田明六君
一来賓
 大倉喜八郎君
 - 第33巻 p.9 -ページ画像 
一特別会員
 石井健吾君   石川範三君   石川道正君
 石川卯一郎君  伊藤新策君   伊藤登喜造君
 伊藤半次郎君  一森筧清君   池本純吉君
 岩崎寅作君   今井又次郎君  井上公二君
 池田嘉吉君   犬丸鉄太郎君  萩原源太郎君
 服部金太郎君  早速鎮蔵君   原田貞之助君
 林武平君    原胤昭君    西野恵之助君
 西村直君    西田敬止君   西谷常太郎君
 二宮行雄君   穂積陳重君   堀井宗一君
 堀井卯之助君  堀田金四郎君  堀江伝三郎君
 本間竜二君   土岐僙君    鳥羽幸太郎君
 土肥脩策君   豊田春雄君   沼崎彦太郎君
 沼間敏朗君   大川平三郎君  大野富雄君
 大沢正道君   大沢省三君   大原春次郎君
 大友幸助君   尾高幸五郎君  尾高次郎君
 大橋新太郎君  尾川友輔君   織田雄次君
 渡辺嘉一君   鹿島精一君   河田大三九君
 川上賢三君   川田鉄弥君   川村徳行君
 神田鐳蔵君   加藤為二郎君  加賀覚次郎君
 神谷十松君   神谷義雄君   柏原与次郎君
 金谷藤次郎君  柿沼谷蔵君   吉田節太郎君
 横田清兵衛君  吉野浜吉君   田中栄八郎君
 田中太郎君   田中徳義君   田村秀光君
 田中楳吉君   田中元三郎君  田辺淳吉君
 竹田政智君   多賀義三郎君  高松豊吉君
 高松録太郎君  高橋金四郎君  高橋波太郎君
 曾和嘉一郎君  坪谷善四郎君  塘茂太郎君
 角田真平君   成瀬仁蔵君   中井三之助君
 永井岩吉君   長滝武司君   仲田正雄君
 仲田慶三郎君  村井義寛君   村上豊作君
 村木善太郎君  内田徳郎君   内海三貞君
 内山吉五郎君  上原豊吉君   上野金太郎君
 浦田治平君   植村澄三郎君  野口半之助君
 野崎広太君   日下義雄君   久万俊泰君
 栗田金太郎君  倉沢粂田君   八十島親徳君
 八十島樹次郎君 山中善平君   山下亀三郎君
 山口荘吉君   山崎繁次郎君  山内政良君
 山本徳尚君   山本久三郎君  山中譲三君
 安田久之助君  矢木久太郎君  矢野由次郎君
 松平隼太郎君  松本常三郎君  前川益次君
 前田青莎君   馬越幸次郎君  福田祐二君
 古田良三君   古田錞次郎君  藤田英次郎君
 藤村義苗君   古田中正彦君  小林武次郎君
 - 第33巻 p.10 -ページ画像 
 小橋宗之助君  小池国三君   古仁所豊君
 小西安兵衛君  江藤厚作君   手塚猛昌君
 寺田洪一君   阿部吾市君   麻生正蔵君
 安達憲忠君   粟津清亮君   男爵阪谷芳郎君
 佐々木勇之助君 佐々木慎思郎君 佐々木保三郎君
 佐々木清麿君  坂倉清四郎君  斎藤精一君
 佐藤正美君   桜田助作君   笹沢仙左衛門君
 佐藤一雄君   斎藤峰三郎君  木下英太郎君
 木村清四郎君  湯浅徳次郎君  三好海三郎君
 渋沢元治君   渋沢市郎君   渋沢治太郎君
 芝崎確次郎君  白石甚兵衛君  白岩竜平君
 清水釘吉君   清水一雄君   白石重太郎君
 清水揚之助君  渋沢義一君   平岡利三郎君
 肥田英一君   弘岡幸作君   広瀬市三郎君
 平沢道次君   平田初熊君   桃井可雄君
 諸井恒平君   諸井時三郎君  諸井四郎君
 諸井六郎君   森岡平右衛門君 本山七郎兵衛君
 関屋祐之介君  鈴木紋次郎君  鈴木金平君
 鈴木清蔵君   鈴木善助君
通常会員
 石井与四郎君  石田豊太郎君  石田友三郎君
 石川政次郎君  井出轍夫君   井田善之助君
 伊藤英夫君   伊藤美太郎君  猪飼正雄君
 家城広助君   伊沢鉦太郎君  板野吉太郎君
 磯野孝太郎君  伊東勝三郎君  長谷井千代松君
 橋爪新八郎君  林広太郎君   伴五百彦君
 長谷川粂蔵君  蓮沼門三君   早川素彦君
 堀家照躬君   友田政五郎君  友野茂三郎君
 東郷一気君   富永直三郎君  苫米地義三君
 大沢〓君    大竹栄君    太田資順君
 大島勝太郎君  小熊又雄君   落合太一郎君
 御崎教一君   奥川義太郎君  尾崎秀雄君
 尾上登太郎君  小田島時之助君 小倉槌之助君
 河崎覚太郎君  川口一君    川西庸也君
 金沢求也君   金井滋直君   片岡隆起君
 鹿沼良三君   神谷善太郎君  上倉勘太郎君
 唐崎泰助君   兼子保蔵君   金沢弘君
 金子四郎君   神谷岩次郎君  金古重次郎君
 吉岡鉱太郎君  吉岡仁助君   吉岡慎一郎君
 田淵団蔵君   田中一造君   田島昌次君
 武沢与四郎君  竹島憲君    俵田勝彦君
 武笠政右衛門君 武沢顕次郎君  田子与作君
 高橋静次郎君  高橋俊太郎君  高橋森蔵君
 高田利吉君   田宮鉉三郎君  武島章二君
 - 第33巻 p.11 -ページ画像 
 武田仁恕君   竹島安太郎君  塚本孝二郎君
 堤真一郎君   辻友親君    中北庸四郎君
 中村習之君   中山輔次郎君  中西善次郎君
 永田常十郎君  滑川庄次郎君  長井喜平君
 長島郷英君   内藤種太郎君  永田市左衛門君
 中島徳太郎君  村田五郎君   武者錬三君
 浦井吉三郎君  梅沢鐘三郎君  生方裕之君
 梅田直蔵君   上田彦次郎君  上野政雄君
 宇賀神万助君  野村揚君    久保幾次郎君
 熊沢秀太郎君  久保田録太郎君 桑山与三男君
 山田仙三君   山口虎之助君  山村米次郎君
 山崎一君    山田直次郎君  山田昌吉君
 松園忠雄君   松村繁太郎君  松村修一郎君
 町田乙彦君   松本幾次郎君  松崎伊三郎君
 福本寛君    福田盛作君   福島三郎四郎君
 藤浦富太郎君  藤木男梢君   古田元清君
 小林清三君   小森豊参君   小島順三郎君
 小島鍵三郎君  小山平造君   古作勝之助君
 近藤良顕君   河野間瀬治君  阿部久三郎君
 綾部喜作君   粟生寿一郎君  荒井円作君
 桜井武夫君   斎藤亀之丞君  斎藤又吉君
 阪本鉄之輔君  佐野金太郎君  酒井正吉君
 沢隆君     佐藤金三君   木之本又市郎君
 木村益之助君  木村弘蔵君   木村金太郎君
 北脇友吉君   木村亀作君   木下憲君
 木村弥七君   三上初太郎君  南塚正一君
 三森礼一君   柴田房吉君   芝崎猪根吉君
 新庄正男君   白石喜太郎君  東海林吉次君
 篠塚宗吉君   渋沢秀雄君   渋沢長康君
 平塚貞治君   森由次郎君   両角潤君
 森江有三君   森島新蔵君   関口児玉之輔君
 鈴木富次郎君  鈴木勝君    鈴木豊吉君
 鈴木源次君   鈴木政寿君   鈴木旭君
 椙山貞一君
本会に対し金品を寄贈せられたる各位の芳名を録して厚意を謹謝す
 一金参拾円       石川政治郎
 一金拾円        野崎広太
 一金拾円        平田初熊
 一ビール百廿五リーター 大日本麦酒会社


竜門雑誌 第三三〇号・第二二―二八頁 大正四年一一月 ○青淵先生送別会に於て 青淵先生(DK330001k-0010)
第33巻 p.11-16 ページ画像

竜門雑誌 第三三〇号・第二二―二八頁 大正四年一一月
    ○青淵先生送別会に於て
                      青淵先生
  本篇は十月十六日午後六時より帝国ホテルに於て開会せる竜門社
 - 第33巻 p.12 -ページ画像 
秋季総集会兼青淵先生送別会に於ける青淵先生の演説なりとす
                         (編者識)
竜門社の総会を兼ねまして、私及び星野君、其他今度亜米利加へ旅行する一同を御送別下さる此盛会でございます。銘々から御礼を申上るやうに致しては余り長くなりますから――併し総ては代表しませぬ、星野君からも勢ひ御答辞があるだらうと思ひますが、先づ私が幾分か年が余計でありますから、第一に玆に答辞を述べることに致します。
唯今阪谷男爵から、私の旅行に就て、殊に既往にまで言及されて、今度の海外旅行は四度目である、最早七十六歳の高齢、成るべく健康に注意せよ、又一回々々に日本の国の進むと同時に、微々ながら私の身分も高まつて来て、今度の旅行に就ては、大に国家に裨補する所があるであらうと期待する、此お言葉に対しては寧ろ過賞であると、如何に内輪でも、謙遜の辞を申さねばならぬやうに思ふ御演説がありました、併し斯様な極く内々の親しい会合で、もうそれらに対して、可とか否とかと云ふことの論断は止めまして、丁度今四度目の旅行であると云ふことをお申述になりましたが、私も古い記憶を玆に喚起しまして、既往三度の旅行が斯う云ふ有様であつたと云ふことを、短く玆に述べて見やうと思ひます。
抑々の初めの旅行は、未だ大抵の方の生れない前であつた、多くは其後に生れた方々と申して宜い、中にはさうでない方もありませう、大倉さんの如きは其一人であります(笑)丁度私が算へ年二十八、明治維新の前年である、それが初ての旅行で、而も旧幕から命ぜられたのであります、元来私は其数年前まで攘夷論者であつたから、仏蘭西に行くと云ふ場合に始めて仏蘭西の文法書を買つて船に乗つたと云ふやうな次第である、殊に其頃の私の身分は、殆んど小使よりは稍々宜しいけれども、立派な役人とは申されぬ、民部公子に就ては御傅役の山高といふ人がある、外国奉行は向山隼人正、其組頭には此間死んだ田辺蓮舟などゝ云ふ人があり、又水戸から御附の人が七人ほどあつて、其他に一人綱吉と云ふ、髪を結つたり着物を縫つたりする人があつたが、私はそれの上役である(笑)故に大抵荷物を担いだり、併し或る場合には筆算を取扱ふから会計役にもなる、唯悲しい哉始めて仏蘭西の文典を買つた位であるから、通訳といふことは、帰る頃には多少出来るやうに相成つたが、其初めは殆んど出来なかつた、丁度慶応三年一月の十一日と覚えます、横浜を出帆して、其翌年十一月三日に横浜に帰着した、其発するや兎に角将軍の親弟、民部公子の出立でありますから、実に其行を壮にされたが、政変の為に帰つた時には、夜遅く皆コソコソと横浜に上陸すると云ふやうな有様でありました、一年半以上の歳月を費して、何の学ぶ所もなく帰りました、其間の艱難辛苦到底今お話し尽すことは出来ませぬ、故に其当初の旅行と云ふものは身体に、或は精神に、余程の労苦をして帰りましてございます、況んや国家が左様な急変に際しましたから、行末いかになるかと云ふことも分らぬ、今日の欧羅巴の大乱は、いかにも其過大なることは申すまでもございませぬが、私の当時身の切なる有様は、中々今日の戦乱どころの話ではない、所謂喪家の狗となつて日本へ帰つて来たと云ふや
 - 第33巻 p.13 -ページ画像 
うな有様である、之が先づ初度の旅行の経過であります、併し其間に言語も解らず、事情も通ぜず、学び方も寔に変則極つて居りますけれども、第一に気着いたのは、役人と普通の実業家との関係が、日本のそれとマルで違つて居ることには、少し注目すると一驚を喫せざるを得なかつた、那破翁から附けられたコロネル・ウイレツトと云ふ人は中々主我的の人で、仏蘭西は固より官権の高い所、殊にコロネルの職である、始終民部公子のお世話に就て、殆んど吾々に対しては奴隷扱をする位であつたが、銀行者のフロリ・ヘラルトと云ふ人があつて、是は普通の商売人であるが、此人に対するといつも一目どころではない、二目も三目も置いて応待をする、日本などには到底斯う云ふ有様はない、何故であるか、或は借金でもあるのか知らぬ位に思ふた(笑)是は第一に自分が深く感じた点であります、それから段々気を着けて見ると云ふと、日本の官尊民卑の有様とは大に趣を異にして居ることに思ひ当つて、アヽ斯くありたいものだと深く感じた、それから更に他の国、即ち白耳義・瑞西・伊太利・英吉利等を廻つて見ると、やはり仏蘭西と其状態が相似て居る、否更に進んで居る有様を見て、是は欧羅巴の風習は日本とは違ふ、若し彼が文明であつて、我が野蛮であるならば、文明の国は官尊民卑でなくして、野蛮の国が官尊民卑であると云ふことは、是は智者を俟たずして理解出来るのであります、それから続いて私が深く感じたのは、政府から公債を出す、会社から社債を出す、而して会社と云ふ合資の方法に依つて事業を進めて行くと云ふ点であります、例へば横浜に来る飛脚船会社、或は仏蘭西に於ける鉄道会社、其他工業の会社、商業の会社と云ふものが、総てのものに社債はありませぬが、鉄道会社の如きは、其時分頻々と社債を発行した、成程財政と云ふことに就ては、斯う云ふ趣向が宜からうと云ふことは深く感じました、仏蘭西の文法は解りませんでしたけれども、どうか日本にも斯う云ふ方法を移し得られぬものであらうかと云ふ観念は、其綱吉と申す髪結兼仕立屋の上役たる私にさへ生じたのであります、第二に参つたのが明治三十五年、此時にはもう自身の身分も進み、極く安楽なる旅行でありました、而も此間故人になられた市原氏や、此席に居る八十島氏なども参られて、追々と所謂旦那旅行でありました為に、海外の有様を――、便宜は甚だ便宜であつたけれども、併し若し比較して論ずるならば、真相を知ると云ふ点に就ては、寧ろ前の困難なる旅行の時の方が、却て事情を能く知悉し得られたかと思ふ位であります、続いて第三回の旅行は、欧羅巴には参りませぬ、即ち四十二年の渡米実業団、誤て団長といふ名を持つて参りましたから此旅行は又二十八の時に欧羅巴に参つたのとは、丁度二十八と七十と幾年違ふと云ふほど、それほど、違つた、実にいかに何方が望んでもあのやうな旅行は滅多になさることは出来ない、王公貴人でも或は為し能はぬと思ふ位、今度私が亜米利加に参りまして、多少の優遇は受けるかも知れませぬけれども、当時に較べたら、甚だ待遇も小であらう、又旅行も甚だ軽微であらうと思はざるを得ぬのでございます、此四十二年の亜米利加旅行と云ふものは、実に亜米到加人の日本人に対する待遇が、能くも斯くまで注意致して呉れたと思ふ位であります、
 - 第33巻 p.14 -ページ画像 
四十二年の旅行は八月十九日に日本を発して、十二月十七日に横浜に着しました、丁度四箇月の歳月を費しました、其前の旅行は五月十五日に発して、十月三十日に神戸に着しました、是も五箇月余、殆んど六箇月に近い旅行であります、此三回目の旅行は、今申上げまする通り、亜米利加をお祭騒ぎで乗廻したと云ふので、御馳走と演説とを交互に、御馳走を頂戴しては演説をし、演説をしては御馳走を戴く、代る代る五十幾駅間を食ひ倒し、お祭騒ぎをして帰つたと云ふ訳であります、それがどれ程日米間の親善を助けたかと云ふことは、私にも分らず、誰にも分らぬが、併しさらば一切効能が無かつたかと云へば、然りとは云ヘぬであらうと思ひます、亜米利加人が左様に、シヤトルから東部其他各地を経て、桑港まで汽車を以て一貫して案内をして呉れ、其各種の人が、中にはシヤトルを発して、途中交代した人もありますけれども、桑港に至るまで終始一貫して世話をして呉れた人が十数人ありました、其設備、其接待、実に至れり尽せりであります、先づ斯う云ふやうな変つた旅行を二・三回致したのであります。
此度の旅行はどう云ふ訳であるかと申しますと、是は最終の旅行でございませうが、寔に無意味な旅行である、斯の如く竜門社も段々人員も増し勢力も殖え、遂に総会に相集る者四百人・五百人に及ぶと云ふやうに相成つたのは、洵に喜ばしいことであつて、些細の私の旅行に斯く多数のお集りで、其行を壮にして下さることに対して、もう内々のことでありますから、私は決して御遠慮は申さぬ、仮令無意味な旅行、何等の功を奏せぬにした所が、兎に角竜門社と私とは離るべからざる因縁と申して宜しい、諸君が私の行を壮として下され、又私の身体を労つて下さることは、至極御尤の事と思ひますから、私は決して恐入もしなければ、御遠慮もしない、衷心より喜んで諸君の御厚意を受けるのであります、元来私の此度の旅行に就ては、何れの方面に向つても、私は斯様な趣意を以てお答致さうと思ひます、既に此程此ホテルで平和協会多数の御催して、私を送つて下さる会がございました又今日は東京商業会議所の諸君が御催しで、送別会を開かれましてございます、近日又帰一協会が会を開いて下さると云ふことであり、其他彼此と御送別を受くるだらうと思ひますが、既に私は今日も申上げました、中野商業会議所会頭は、渋沢の此度の旅行は、年も取つて居り、船も好きではない、甚だ迷惑であらうが、然るにも拘らず玆に意を決して起つと云ふことは、定めて当人の意思もあるのであらうが、其起りは当商業会議所が、時局に対して段々評議した結果、日米の親善を益々進めて行くには、我商工業者を代表すべき人に亜米利加に行つて貰ふと云ふことが、爾来の関係上、大に裨益する所があるのであらう、それには代表的位地として、渋沢が一番宜からうと思ふから、老人と思ひもし、旅行を辛いと考へもしたけれども、之を以て今の希望を抛つ訳には行かなかつた為に、無理と知りつゝ望んだ訳であるが蓋し同人の決心も寧ろそれから起つたであらう、此希望は独り東京商業会議所ばかりではなからうと思ふ、政治に関係する人も又関係せざる人も、苟も日米の関係を思ふ者は、押しなべてさう云ふ観念を持つであらう、故に此行や必ず得る所があるであらうと云ふ趣意の送別の
 - 第33巻 p.15 -ページ画像 
辞がありましたが、私は之に答へて、今中野君が左様に仰しやるけれども、私は其言葉に就て、意を決したのではございませぬ、斯う申すと中野君に対して、好意を無にするやうに聴えるか知らぬが、自身が国民の一人として、国家の為に果して効能ありと思ふなら、私自身で其意を決します、さう云ふお言葉は如何にも承つて、或は然らんと云ふ感は私の心に起つたか知らぬが、それに負ふ所は私はないと思ひます、故に今度の私の旅行は、官たり民たり何れからも使命は聊かも帯びぬ、唯私が国民の一人として、亜米利加に参つて、日本人の多数は斯う思ふて居る、少くも私自身は斯様に考へて居りますと云ふことを述べるのが、多少の効能ありと予想したに過ぎませぬ、此趣意を以て旅行の本旨と致します、と云ふことを答へて、商業会議所の諸君に御礼を申しましたが、併し自ら思ふ所では、其念慮は唯単に私自身だけがそれを必要とする訳ではありませぬ、丁度阪谷男爵の今言はれる通り、欧羅巴は彼の如き戦乱である、此結果いかに相成るか、東洋に於ては充分なる力を備へ、将来に望を属するのは、我帝国より外にはないと云ふても宜からう、亜米利加は御承知の通り、今日は欧洲の戦乱中にも拘らず、寧ろ其為に国運隆々たる有様である、此両国が若し誤つて、従来の行懸り上遂に禍乱を起すと云ふやうなことになつたならば、遂に世界を挙げて戦乱の巷に陥るであらう、斯く考へて見ますれば、世界の平和は、せめては東洋に於ては帝国、西洋にあつては亜米利加に依つて維持さるゝと思はなければならぬ、然るに此両国の間に若しも一歩を過たば、必ずしも平和にのみ終らぬと云ふ一の云為があると云ふことは、諸君も皆御承知の通りである、而して此事は彼の国情として、速に之を解決することは出来ない、政府も充分に力を尽すであらう、国民も或る部分は種々なる方法を以て、宗教家は其宗教の見地より、人道を以て論じて居り、色々な方面で努力して居りますけれども、全く之を完全に理解することは出来ぬ、若し之が更に行違うて、一方にのみ進んで行くやうになつたならば、将来いかゞ相成りませう、斯く懸念しますると、此場合両国の親善を保つ為に最も努力しなければならぬと云ふことは、是は全国民皆思はなければならぬ、私もやはり国民の一人として、深く憂ふるのである、果して有効であるか無いかは分りませぬけれども、私の此旅行が、幾分なりとも更に生ぜんとする禍害を除き、又従来の紛糾を緩和するに力ありと信ずるならば、国民として黙する訳には行かない、斯く申すと甚だ嗚呼がましい申分であるが、幾らか其望ありと信ずるならば、自ら奮て其任に当るのが即ち帝国臣民の気象である(拍手)、斯く覚悟した訳であります、故に今度の旅行は果して有効であるか無効であるか、敢て其効果如何は顧みませぬ、唯我大務を尽すと云ふまでのことである(拍手)殊に我一身を論ずると、丁度彼の埋骨豈限墳墓、人間到処有青山と云ふのは、独り壮年の時に必要のことではありませぬ、寧ろ年を取つてからが必要である、老爺になつたから、炬燵の上に死なうと考へるならば、若い時にも、やはり畳の上でなくては死ねなくなるのであります、私などは何時死んでも構はぬ、『いざさらば雪見に転ぶ所まで』と云ふを趣意として旅行をするのでありますから、併し斯様申したから
 - 第33巻 p.16 -ページ画像 
と云ふて、決して船中で死んで、諸君に再びお目に懸らぬと云ふことを諷する訳ではない、必ず此度の旅行は斯様であつた、前回の旅行は斯様であつたが、此度は斯様に変化しましたと云ふことを、軈て帰つて御報告が出来るだらうと思ひます、私の此旅行の骨折をお察し下されたならば、諸君は我本業に、又は其会社の事業に、若くは一家の事業に、充分御奮励下さることは、容易いことであらうとお察し申しますから、どうぞ充分御勉強あらんことを希望致します(拍手)多数のお方々には、尽く御送別が出来兼ますから、此場合にお暇乞を致して軈て戻つて来るまで、どうぞ皆様が御健康で、且つ御勤勉あることを希望致します(拍手)


竜門雑誌 第三三〇号・第八〇号 大正四年一一月 銀行家の青淵先生送別会(DK330001k-0011)
第33巻 p.16 ページ画像

竜門雑誌 第三三〇号・第八〇頁 大正四年一一月
○銀行家の青淵先生送別会 青淵先生の渡米を送る為め、東京の銀行家諸氏は二十日○十月正午先生及随行者の一人たる第一銀行副支配人野口弘毅氏を、浜町常盤に招待して送別午餐会を催せり。当日の世話役たる早川千吉郎氏の送別辞、青淵先生の答辞ありて、一同先生の健康を祈りて午後二時半散会せる由、当日の出席者は左の如し。
 三島日銀総裁・同水町副総裁・同木村理事・志村勧銀総裁・小野興銀副総裁・井上正金頭取・松尾同支店長・柳生台銀頭取・佐々木勇之助(第一)早川千吉郎・池田成彬・菊木直次郎(三井)串田万蔵青木菊雄(三菱)安田善三郎(安田)成瀬正恭・佐藤五十巌(十五)加納友之助(住友)池田謙三(第百)


竜門雑誌 第三三〇号・第七九―八〇頁 大正四年一一月 ○大隈首相の送別茶話会(DK330001k-0012)
第33巻 p.16-17 ページ画像

竜門雑誌 第三三〇号・第七九―八〇頁 大正四年一一月
○大隈首相の送別茶話会 大隈首相は青淵先生の渡米せ送る為め、十月二十日午後三時半より永田町首相官邸に青淵先生を招待して茶話会を催したる由なるが、当日主人側の出席者は左の如なりしと。
 大隈首相、武富・加藤・石井・河野の各大臣、高橋長官・菅原大蔵次官・上山農商務次官・市来主計局長・松本主税局長・神野理財局長・道家農務局長・岡商工局長・大隈文部副参兼首相秘書官、山崎前田両秘書官
軈て大隈首相は、送別の辞を兼ねて大要左の如き卓上演説を為したりと。
 今回渋沢男が渡米の為め出発せらるゝに付き、実は一席晩餐会を開きて送別の微意を尽さんとせしも、多忙なる御都合に依り玆に茶話会を催すことゝせり、然るに斯く多数の御来会を辱うせるは、余の深く感謝する所なり、抑も日米の国交結ばれて以来玆に六十年に及で、其間両国相互の友誼・親善・同情の関係は日々に発達し来れり特に最近に至りては、経済関係益々繁多となりし結果、両国の関係を一層密接に導くに至れり、即ち米国は現に我国の重要輸出品に属する生糸・羽二重、其他各種の商品を我国より購買輸入しつゝありて、我国に取りては最も重要欠く可からざる得意先なり、輓近日本に於ても各種工業の発達せる結果、米国より棉花を輸入せる額著しく増加し、米棉は今や日本の工業界に必須欠く可からざる原料品と
 - 第33巻 p.17 -ページ画像 
なれり、惟ふに今後日本工業の益々発達するに従ひ、米国より仰ぐ所の各種原料品の輸入は意外の巨額に達するならんと信ず、而して此際我実業界に於て多大の経験を有せらるゝ渋沢男が、米国へ渡航を思立たれたる事は、頗る喜ぶべきことにして、男の渡米に依り、日米間の経済的関係を一層濃厚且つ有利に導く上に於て、裨益貢献する所尠少ならざるべしと信ず、殊に男は経済的関係以外にも朝野各方面の紳士と広く接触せらるべしと信ずるを以て、日本の国交上にも亦多大の利益と効果を齎らさるべきを信ずるものなり、依て玆に一同と共に男の健康を祝するものなり、云々
大隈首相の送辞に対し、青淵先生は概要左の如き一場の謝辞を述べられたり
 余が渡米の為め出発するに臨み、自分より先づ閣下並に諸君に対し一々御暇乞をなすべき筈の所、行李忽々の際、其余暇なきに苦しみたりしが、幸にも不肖の為め本日此盛大なる集会を催され、御蔭にて多数の有力なる諸君に面接するの機会を得、種々御高説を拝聴すると同時に、御暇乞の辞を陳ぶるの便宜を得たるは感謝に堪へず、自分の渡米の上は種々の事物を観察し、多数の人物とも会見すべきを以て、何れ帰朝の暁には自分が見聞し得たる結果を齎らして諸君に披瀝し、聊か御参考に資する所あるべきを期す、云々
右終りて主客歓談に時を移し、午後五時半散会したる由なるが、当日の陪賓は左の如し
 安田善次郎・安田善三郎・三村君平・団琢磨・中野武営・大倉喜八郎・早川千吉郎・高田慎蔵・加藤正義・近藤廉平男・池田謙三・豊川良平・佐々木勇之助・水町袈裟六・志村源太郎・三島弥太郎子・三井八郎次郎男・古河虎之助・服部金太郎・日比谷平左衛門・和田豊治・末延道成・大橋新太郎・村井吉兵衛・福原有信・福井菊三郎・柿沼谷蔵・小野金六・菊池長四郎・朝吹英二・原六郎・星野錫・堀越善重郎(以上東京)大谷嘉兵衛・小野光景・若尾幾造・茂木惣兵衛・木村利右衛門・左右田喜一郎・増田増蔵・中村房次郎(以上横浜)


竜門雑誌 第三三〇号・第八一頁 大正四年一一月 ○帰一協会の青淵先生送別会(DK330001k-0013)
第33巻 p.17 ページ画像

竜門雑誌 第三三〇号・第八一頁 大正四年一一月
○帰一協会の青淵先生送別会 帰一協会にては、十月二十日午後五時半より、青淵先生渡米行を壮にする為め、築地精養軒に於て送別晩餐会を催せり、当夜の出席者は左の如し。
 秋月左都夫・加藤正義・男爵菊地大麓・男爵阪谷芳郎・佐藤鉄太郎・荘田平五郎・杉山重義・高木壬太郎・綱島佳吉・男爵中島久万吉・成瀬仁蔵・馬場恒吾・原田助・増田義一・宮岡恒次郎・森村開作・筧克彦・片山国嘉・男爵近藤廉平・姉崎正治・浮田和民・大橋新太郎・鎌田栄吉・五代竜作・下村宏・塩沢昌貞・田中穂積・団琢磨・頭本元貞・中島力造・服部金太郎・早川千吉郎・フイシヤー・水野錬太郎・山内繁雄・斎藤七五郎・海老名弾正・大岡育造・ハリス



〔参考〕報知新聞 第一三七〇六号 大正四年五月一日 渋沢男と桑博(DK330001k-0014)
第33巻 p.17-18 ページ画像

報知新聞 第一三七〇六号 大正四年五月一日
    ○渋沢男と桑博
 - 第33巻 p.18 -ページ画像 
渋沢男は、這次桑港大博覧会を機会として渡米さるべしとは、既報せし処なるが、之につき男爵の談によれば、同僚殊に中野東商会頭等より頻りに渡米の慫慂を受け、折角考慮中にあるも、予の渡米に対して両国親善の上に些少とも貢献するところあらんか、老齢の故を以て必しも辞退するものに非ず、戦場に屍を曝すは武士の志す処の如く、任に赴いて馬革に屍を包むは、予の本望とする処なれば也、渡米慫慂者の意志は、此機会に相当の人物を送りて、両国の感情を融和し親交を温めんとするにあるものゝ如く、所謂国民的外交の実を挙ぐる上に於て適切の企なりと思惟す、云々



〔参考〕中外商業新報 第一〇五〇一号 大正四年七月一四日 ○渋沢男の渡米 尚ほ決定せず(DK330001k-0015)
第33巻 p.18 ページ画像

中外商業新報 第一〇五〇一号 大正四年七月一四日
    ○渋沢男の渡米
      尚ほ決定せず
桑港博覧会の開会中を好機とし、日本実業家の代表的人物を派遣し、親しく彼地官民と会見し、彼我双方意思の諒解を図るべしとの内議、官民一部の間に唱道せられ、其代表的人物として渋沢男を煩はすべしとなし、中野武営氏等より数度に亘り男の決意を切に促がす所あり、加藤外相亦男の出遊を勧告しつゝあれど、渋沢男は公私とも種々の事情あり、尚ほ意中を決定するに至らずと云へり



〔参考〕中外商業新報 第一〇五六四号 大正四年九月一五日 ○渋沢男の渡米 和田豊治氏同行(DK330001k-0016)
第33巻 p.18 ページ画像

中外商業新報 第一〇五六四号 大正四年九月一五日
    ○渋沢男の渡米
      和田豊治氏同行
渋沢男爵は、中野東京商業会議所会頭よりの懇請に従ひ、愈々十月廿三日横浜出帆の春洋丸にて渡米の途に就く事となれり、男の渡米は桑港博の視察を兼ね、日米間の親和増進を図るが目的にして、富士瓦斯紡績の専務和田豊治氏同行する筈也、又大橋新太郎氏も渡米すべく勧誘を受け居れど、同氏は宝田石油会社の関係上、目下困難の事情あるものゝ如く、或は同行し兼ぬべし、因みに渋沢男は今回第一銀行の支店を開始したる広島・熊本の両地に披露の為め西行すべく、其帰京の途次、岩本栄之助氏の百万円寄附によりて成れる大阪公会堂の定礎式に臨席し、一旦帰京の上、更に十月中旬京城に於て開催せらるべき銀行家大会に出席し、然る後渡米すべき順序なるが、男の米国より帰朝すべき時期は本年末か或は明年初頭に入るやも計り難しと也