デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
4款 第四回米国行
■綱文

第33巻 p.166-200(DK330009k) ページ画像

大正10年9月21日(1921年)

是日以後、栄一今回ノ渡米ニ就キ各種送別会催サル。即チ是日帰一協会主催、二十二日国際聯盟協会主催、二十七日郷里血洗島ニ於ケル渡米平安祈願祭、三十日交詢社主催、十月二日竜門社主催、並ニ同族会主催、三日東京商業会議所主催、四日早稲田大学定時維持委員会主催、及ビ埼玉県人会主催、五日陸軍大臣山梨半造主催、六日東京銀行倶楽部主催、八日日米協会主催、九日日華実業協会主催、十日日米関係委員会主催、十一日日本倶楽部主催、及ビ内閣総理大臣原敬主催、十二日修養団主催等送別ノ午餐会・晩餐会開催セラレ、栄一ソレゾレ出席シテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第四〇一号・第四九―五〇頁 大正一〇年一〇月 ○青淵先生渡米出発(DK330009k-0001)
第33巻 p.166-167 ページ画像

竜門雑誌 第四〇一号・第四九―五〇頁 大正一〇年一〇月
    ○青淵先生渡米出発
○上略
 尚今般青淵先生渡米に付、各方面に於て送別会の計画ありたるも、何分にも多忙なりし為め謝絶せられ、特に関係深き分のみ之を受けられたるが、其主なるもの左の如し。
      九月廿一日
 午後五時半 帰一協会主催送別会 如水会館
      九月廿二日
 午後六時  国際聯盟協会主催送別会 銀行クラブ
      九月三十日
 - 第33巻 p.167 -ページ画像 
 正午    交詢社主催送別会 交詢社
      十月二日
 午前十時  竜門社主催送別会 帝国ホテル
 午後六時  渋沢家同族会送別会 渋沢事務所
      十月三日
 正午    東京商業会議所主催送別会 東京商業会議所
      十月四日
 正午    早稲田大学定時維持委員会主催送別会 富士見軒
 午後六時  埼玉県人会主催送別会 上野精養軒
      十月五日
 午後六時  陸軍大臣主催送別会 陸軍大臣官邸
      十月六日
 午後六時  同盟銀行主催送別会 銀行クラブ
      十月八日
 正午    日米協会主催送別会 銀行クラブ
      十月九日
 正午    日華実業協会主催送別会 帝国ホテル
      十月十日
 正午    協調会主催送別会 帝国ホテル
 午後六時  実業家合同送別会 銀行クラブ
      十月十一日
 正午    日本クラブ主催送別会 日本クラブ
 午後六時  総理大臣主催送別会 総理大臣官邸
      十月十二日
 午後三時  修養団主催送別会 工業クラブ
 附記、先生一行中の頭本元貞氏は途中布哇に開会の世界新聞記者大会に出席の筈なりし為め、十月二日午前九時十五分東京駅発列車にて先発、桑港に於て先生一行に加はる筈なりと云ふ。


竜門雑誌 第四〇一号・第五〇頁 大正一〇年一〇月 ○青淵先生の帰郷(DK330009k-0002)
第33巻 p.167-168 ページ画像

竜門雑誌 第四〇一号・第五〇頁 大正一〇年一〇月
○青淵先生の帰郷 青淵先生には九月廿七日朝自働車にて郷里血洗島に出向はれ、同地にて一泊の上、翌廿八日正午頃帰京せられたるが、右に関する記事は当日の東京日々新聞に記載しあれば、今これを左に転載する事とせり。
 因に記事中「昔語りの会合を催す」云々とあるは、八基村青年団血洗島支部主催の敬老会を指すものにして、同会に於ける先生の演説は別項記載の如し。
    渡米前の渋沢子が故郷の村祭に
      思ひ出多き訪づれ幼友達の喜び
  渋沢子爵が平和の使者として八十二歳で四度目の渡米をする、子爵の郷里埼玉県大里郡八基村血洗島の村民は、青年団員を中心として廿七日午後二時から諏訪神社で渋沢翁
    渡米平安の祈願祭
 - 第33巻 p.168 -ページ画像 
 を挙行したが、尚同日は同神社の例祭で子爵の子供時代毎夜見に行つたといふ獅子舞・神楽や、子爵の遊び友達、村中すぐつて八十歳以上の老翁・老嫗卅一名が集まつて昔語りの会合を催すと言ふので子爵は同日午前十一時着で郷里の人となつた、自動車が田圃の中の小学校前に止まると、村会議員から教員さん、女子供まで飛出して出迎へる、中でも岩崎しか(九一)栗田かく(八五)栗田みの(八五)吉野ひさ(八四)渋沢つる(八四)の婆さん、山口徳次郎(八二)福地太十郎(八三)の爺サン等は我勝に飛出し「おめい様もまア壮健で、まだ腰も曲らねえでゐらつしやるだア、今度は米国ちゆうとこさ行かつしやるさうだが…」と喜ぶ者、泣く者、驚く者
    九十三歳の最高齢
 者橋本弥平翁は「まア立派にならつしやつた、おめえは俺アがお袋が取上げたんだ、オレを打つて、大喧嘩をした事があつたけ、覚えてゐらつしやるか」と嬉し涙である、子爵も「私より年上の者がこんなに沢山居るとは思はなかつた」と感慨深く一場の挨拶を述べ、「私も刀一本でこの村を飛出した男である、皆さんのうしろ立てを何より嬉しく思ふ」と力強く結んだ、誰も一語をも発する者がなかつたが、弥平翁と吉岡唯三郎(八一)爺さんが
    古木のやうな掌で
 拍手をした、それから村の人達は鎮守様に集合、熱誠こめた祈願祭を営んだが「何うしても身体が丈夫でなければ勤まらねえ仕事よ、廿四歳の時家を飛出し、こまつけえ身代から今の身分に出世された子爵様だ、十四歳の時殿様から御用金を言ひ付かつたが、父が信州に行つた留守で、父をさし置いて御返事は仕り兼ねるとキツパリ断つた、どうです、之が十四歳の子供の智慧ですかい」と物語りは容易に尽きなかつた


村社諏訪神社中興史 第九五丁(DK330009k-0003)
第33巻 p.168-169 ページ画像

村社諏訪神社中興史 第九五丁 (諏訪神社所蔵)
    渋沢子爵渡米に付祈願祭
大正拾年九月廿七日御本社臨時大祭執行、九月拾七日より獅子舞の予習開始、同拾八日子爵閣下大平洋会議開催に際し日米問題解決に寄与する所あらん為、来る十月十三日を以て御渡米と決したるに付、御旅中安穏を祈願し、且つ獅子舞をも御覧に入れんと諸有志出京し御招待を致しきたり
廿七日、前々日迄降り続きし雨名残なく晴れ、閣下には自動車にて午前十一時来着、直に八基信用組合新築事務所に入り、記念撮影をなし同十二時村立図書館に入らる
血洗島青年団は閣下の帰郷を期とし、八基村在住八十歳以上の高齢者を招待し敬老会を催し、館を会場とす、閣下には一場の御講演ありて後、中の家に至り休憩後、神社に参拝せられ、大字氏子一同参列して祈願祭を執行す
終つて社前にて獅子舞を御覧あり、それより吉岡幸作翁の寿碑を御覧遊ばされて、中の家に帰り、同夜は庭前にて獅子舞を御覧相成りたり此日大里郡長武田熊蔵・児玉郡長等の参拝あり、又秩父郡宝登山神社
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宮司は閣下の祈願をなし、御守札を持参して贈呈せり
閣下は翌日八基組合総会に臨席せられ一場の御講演ありて、十時半帰京の途に上れり


竜門雑誌 第四〇一号・第一八―二〇頁 大正一〇年一〇月 ○敬老会に於て 青淵先生(DK330009k-0004)
第33巻 p.169-170 ページ画像

竜門雑誌 第四〇一号・第一八―二〇頁 大正一〇年一〇月
    ○敬老会に於て
                      青淵先生
  本篇は去月二十七日青淵先生帰郷の際、八基村青年団血洗島支部主催の敬老会に於てなされたる演説の概要にして、渋沢誠一氏の憶記にかゝるものなり。(編者識)
 今回図らずも玆に郷里の高齢者諸君と一堂に会する機会を得ましたことは欣快に堪へませぬ。元来敬老と云ふことは実に結構なことで益盛になるべきで御座いますが、事実は之に反して段々と衰へ、殊に都会に在つては殆ど地を払つたと申しても差支ない状態で御座います。此の如きは時勢の然らしむる所と申しながら、慨はしい限りで御座います。然るに郷里へ帰りまして此美風の猶存するを知り、特に前途有為の青年団員諸子によつて此敬老会の企てられたるを見て、大に意を強ふした次第で御座います。
 孟子に「老吾老以及人之老、幼吾幼以及人之幼、天下可運於掌」とあります、之れは敬老の徳は治国平天下の基礎たるべきを教へるものであります、又論語に「君子務本、本立而道生、孝弟也者、其為仁之本与」、とあります、孝弟即ち年長者に対する道徳が、一般道徳の源たるを知ることが出来ます。老人である私が之を言ひますと聊か自画自讃の嫌はありますけれども、敬老の重ずべきは啻に聖賢の言を俟て知るべきではありませぬ。凡そ人の若い間は断行力に富み、元気溌溂として大に為すあるもので、此点に就て青年を重ずべきは勿論でありますけれども一面経験浅く思慮に長ぜざる欠点があります。故に永年の経験を積み思慮の円熟したる老年は、亦重ぜざるを得ざる次第であります。即ち老年は実に一郷一村の至宝であつて、大に敬し就て以て教を請ふべきであります。又老人は益自重し、修養を怠らず後進を導くことを務とせなければなりませぬ。偶々の帰郷に際し此の如き美挙があり、又之に参列することを得たるは、私にとつて誠に喜ばしいことであります、又聖代の祥事として歓喜に堪へませぬ。依て簡単ながら、一言喜びの情を述べました次第で御座います。
 次に私の今回の外遊に付て、先刻来段々と諸君から讃辞を戴きましたが、敢て当らず、只管恐縮に存じます。今回の渡米は奉公の微衷を致さん為めに思ひ立ちましたには相違御座いませぬが、何等公式の任務を帯びて居る訳ではなく、私一箇として全然非公式に旅行するのに過ぎませぬ。
 日米間の事情は今詳しく申上げる時間も御座いませぬが、米国殊に加州の排日運動は年一年と激しくなつて参ります状態で、如何にして之が融和を計るべきかは、実に長年間寸時も私の脳裡を離れぬ問題であり、且我邦朝野識者の深憂で御座います。不肖ながら此点を常に憂へ、常に考慮致して居る身柄としまして、出来る丈の機会に於て、米
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国多数の人士と交際し、広く意見の交換をなし、意志の疏通を計つて参りました。若し此迄の如き状態で推移して参りますと、両国間の事情紛糾錯雑の極、遂には干戈相見ゆるの不祥事を見ぬとは申されませぬ。今にして方途を運らすにあらずんば、後悔するとも詮なきに至るであらうと思はれてなりませぬ。
 排日の原因は元より一つではありませぬ。又其起る所も深く、理由もないではありますまいが、何を申しても等しく人類であります。四海兄弟の大理想の前には、皮膚の黄色は問題でないと信じて疑ひませぬ。私の今回参りますのも他に意味のある訳ではありませぬ。たゞ胸中一片の赤誠を吐露して、此古今を貫き中外に通ずる真理を闡明するが為めに外ならぬのであります。かくて何等かの反応を米国人中に見出すことを得ば、幸とする次第であります。序ながら一言事情を申上げた次第で御座います。


東京日日新聞 第一六一六四号 大正一〇年一〇月一日 ○行かぬ先の失敗呼はりは謹めと徳川全権 渋沢子は昔噺を引いて挨拶 交詢社の全権実業家送別会(DK330009k-0005)
第33巻 p.170 ページ画像

東京日日新聞 第一六一六四号 大正一〇年一〇月一日
  ○行かぬ先の失敗呼はりは謹めと徳川全権
    渋沢子は昔噺を引いて挨拶
      交詢社の全権実業家送別会
交詢社では、卅日華府会議の全権委員及び渡米・渡支実業団卅余名を招いて午餐会を催した、鎌田栄吉氏は「口を開けば好戦国といふが、日本程誤解されてゐる国はない、徳川三百年の泰平は之を証して余りある、斯る長年月の間
 泰平の続いた国は他に例があるまいと思ふ、徳川家正系の家達公が全権委員の一人となられた事は、実に有意義である」と述べ、犬養氏の乾杯あつて後、当の公爵は「近頃の某新聞を見ると、今度の会議は我国の失敗に終るといつてゐるが、行かぬ先から失敗呼ばはりは謹んで貰ひたい、何事も国民の後援が肝腎である、この後援によつて自分は出来る限りの努力をしたい」と
 自信に満ちた言葉でいふ、渋沢子は「公爵は発づ鬼ケ島征伐に行く桃太郎といつた処であらう、必ず沢山の御土産があらうと信ずる、私などは年寄の冷水で、舌切雀の婆の格である、それも重い方の葛籠はとらずに軽い方を取る積りだ、併し縁の下の力持ちをして、僅でも何かの土産を携へて来たい考へである」と面白い比喩で挨拶し、次で望月小太郎氏の気焔あり、集まる者三百余名、稀に見る盛会であつた


竜門雑誌 第四〇一号・第四二―四三頁 大正一〇年一〇月 ○第六十六回秋季総会兼青淵先生渡米送別会(DK330009k-0006)
第33巻 p.170-171 ページ画像

竜門雑誌 第四〇一号・第四二―四三頁 大正一〇年一〇月
    ○第六十六回秋季総会兼 青淵先生渡米送別会
 十月二日午前十時より帝国ホテルに於て、青淵先生の送別会を兼ねて本社第六十六回秋季総集会を開きたり。定刻会を開き先づ評議員会長阪谷男爵登壇して、別欄記載の如き送別の辞を述べられ、之れに対して青淵先生の謝辞を兼ねたる演説あり、次で別室に於て午餐の饗応あり、デザート・コースに入るや、佐々木勇之助君会員一同を代表して、青淵先生の一路平安を祈り、且つ同君の主唱にて青淵先生の万歳を三唱し、次いで青淵先生の発声にて竜門社の万歳を三唱して、和気
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靄々裡に散会したるは午後一時過なりき、当日の来賓及来会者諸君は即ち左の如し
   △来賓
 青淵先生
   △陪賓
 堀越善重郎君 増田明六君 小畑久五郎君
   △特別会員
 石井健吾君 ○外百八十六名氏名略ス
   △通常会員
 石田豊太郎君 ○外百十三名氏名略ス


竜門雑誌 第四〇二号第一一―二四頁 大正一〇年一一月 ○本社主催渡米送別会に於て 青淵先生(DK330009k-0007)
第33巻 p.171-180 ページ画像

竜門雑誌 第四〇二号第一一―二四頁 大正一〇年一一月
    ○本社主催渡米送別会に於て
                      青淵先生
 本篇は十月二日午前十時、帝国ホテルに於ける本社第六十六回秋季総集会兼青淵先生渡米送別会席上に於ける青淵先生の演説にして、同月二十一日、春洋丸船中に於て、先生親しく修正せられたるものなり。(編者識)
 我が竜門社の秋季総会を兼て、今度私の亜米利加行を御送別下さると云ふは、洵に有難い事と感謝致します。
 只今評議員会長として阪谷男爵から、少し不相応な送別の御言葉がありました、敢て左様な事ではございませぬが、如何にも阪谷男爵の言はれる通り、私一身が妙に亜米利加に因縁が多くて、今日又亜米利加へ旅行する様に相成つた、其事柄が丁度六十年前とは全く反対の現象を呈すると云ふ、阪谷男爵の御説は実に御尤と思ふのであります。既に男爵から御詳話がありましたから繰返す必要はございませぬが、私が国家と云ふものを観念したのは十四歳の時で、亜米利加の国が日本に其名が聞えたに依つて、初めて世界各国のある事が分つた、世界各国のある事が分ると同時に、自分の国家と云ふものは大事なものであると云ふ観念が、子供心に生じたのでございます。其頃は亜米利加人が今日日本の軍閥とか侵略主義とかを嫌ふよりも、より以上に総ての日本人が外国を嫌ふた、而して其嫌ふ人の方が優勝者であつて、又頗る過激であつた、私は遂に其過激の仲間に唆かされて、十四歳から二十四・五歳迄の間は頻に攘夷論を主張したのであります。蓋し我国が大切であると云ふのと、世界の大勢を知らぬのと、外国に取られては大変だと思ふ、所謂盲目的愛国心とで単に亜米利加ばかりではない他の国々も甚だ油断が出来ぬのである、殊に其頃私の此観念を強めた実例があつた、それは侵略の事実を一の小説的に作つた書籍で、即ち英吉利と支那との衝突を取扱つたもので、清英近世談と云ふ書名で刊行し、当時の阿片問題から生じた清英の戦争を詳しく書いたものでありました。英国の商人が印度で製造した阿片を支那に売込む、支那政府が阿片は人の身体に害があるから買つてはならぬと禁じても、中々に売買が強いから、遂に勇断なる政治家の林則徐と云ふ人が、英商の持つて来た阿片を残らず没収して焼棄した、是が戦争の起源でありま
 - 第33巻 p.172 -ページ画像 
す。其時の両国の交渉は如何であつたか細かい事は知りませぬが、遂に戦争となつて、英国が強くて支那は弱いから負けるのは当り前である、羊と狼との喰ひ合ひで、羊は喰ひ倒されたと云ふ有様である、さうして結局香港の土地を割譲して此解決を告げたのであります。其頃の私の浅い知識、狭い了簡で左様な事を聞くと、日本も其有様に陥りはしまいかと憂へたのは決して無智だとばかりは譏られぬのでございます。故に私は過激なる同志と謀りて或る不穏の事件を計画しましたが、仲間内から其非を論ずる者があつて、其事は中止して、変つた方面から徐々と微力を尽して見やうと云ふのが、遂に農民をやめて浪人となり、京都に出掛けると云ふ一転化を為した訳でございます。
 爾来、一橋の家来の時も、旧幕府の役人となつても、又は新政府の官吏となつても、勿論東洋式の道徳説は飽迄も高調しましたけれどもどうも其頃の一般の人心が物質文明を軽蔑して唯政治論にのみ傾き、利用厚生は見向きもせぬ、仁義の説を唱へる者が利害得失を論ずれば全然仁義に背くとまで固陋なる見解を持し、儒教に就て誤解を為して居る者もあつた。私は二十四歳から二十八歳まで京都に居つて、一橋の役人をして居る間に、以前の攘夷論を緩和し、敢て欧羅巴の事情が詳しく知れたのではありませぬが、勉めて之を知らんとして居つた。折柄に民部公子に随行して仏蘭西に行くことに相成つた。実地に参りますと、聴いて知るよりも見て感ずる方が甚だ強いもので、所謂百聞は一見に如かずであります。私は其後三遍ほど欧羅巴・亜米利加を旅行しましたが、五十余年以前に仏蘭西に於て、言語も通ぜずして極めて不規則に欧羅巴の物質文明の一端に接触したけれども、其感想は寧ろ其後に満足なる通訳によつて種々取調べたものよりも、効能が多いやうに思ひます。後の十分な調査よりも尚ほ益が多かつたと感ずる位であります。蓋し暗黒なる所から僅かな光明を見ると、能く事物を識別する、寧ろ全然明るくなつたよりも、物の弁別が鮮明であると云ふ道理でもありませうか。
 そこで恰も明治の政変を私の一つの動機としまして、物質の進歩に対して勤勉して見たいと思つて、自分では必死になつてやりました。それは寔に微々たるものではございますが、段々経営して居る間に再び考へて見ますと、どうも唯だ物質の進歩、知識の発展のみが人類の最上の幸福ではないと云ふ観念を十数年前から起しました、詰り自己が実業従事の間、素より利用厚生の重んずべきは知つたが、併し忠君愛国即ち君臣の義とか、父子の親とか、朋友の信とか云ふものは常に忘却せぬ積りでありましたけれども、一般の社会で兎角物質文明の度が過ぎて智育に傾き、仁義道徳が荒むやうになりはせぬかと云ふ惧れを持ちました。それが為に物質文明に力を尽される実業界に於ては時として道理を誤ることがある、利益の為には仁義も道徳も余所にすると云ふやうになる虞がある、斯る有様に進み行くと知識の進歩事物の発展する程禍乱罪悪が増して来る。先刻阪谷男爵は羊と狼との譬を引かれましたけれども、羊であると歯も弱し爪も無いから、彼等の仲間では争ひをしませぬ、若し争つた所で其争ひや至つて柔和である。併し之が犬になると牙がある、更に虎狼となると其闘争は激しくなる、
 - 第33巻 p.173 -ページ画像 
而して羊であれば狼に出遭ふと畏縮するから其禍害は甚だ少い、若し狼と虎、虎と獅子であつたならば其争は激烈で其禍も甚大である、斯う考へて見ますると、知識が進み富が増す程人類の惨禍は多くなると云ふ事になる。私は基督教信者でもなければ仏教家でもないから、神を祈ることもせぬ、阿弥陀仏をも唱へぬが、之を儒教で言ふたら天である、天が人類に対して之を放任するであらうか、又それが人類の天に対する務であらうか、左様に害毒ばかりが増す様に、物質文明を進めるといふは、詰りまだ物質文明に精神が伴はぬのではないかと云ふ感じが起つて来た。私は十数年以前から此疑を持つて居りまして、時時竜門社の会合では此事を申したのでありますが、頃日もホスデツクと云ふ米国の宗教家が来られて、私の言はんと欲する事に就て、其雄弁と博識とを以て頻に物質文明を攻撃しました、而も此帝国ホテルで同氏の御話でありまして、私は一般の通訳に依つて聴きましたから、隔靴掻痒の歎がありましたけれども、知識の進歩に伴うて精神が向上せぬ結果は意外なる惨禍を来すものである、想像し得ぬ害毒を流すものであると云ふ事を、口を極めて論じました。東洋で私が一人でさう云ふ事を言つて居るばかりでなく、西洋の識者も同じ様な説を唱へると思うて、実に同情に堪えぬのでありましたが、寧ろ彼が私に同情して呉れるやうな心地して聴いたのであります。斯様なる種々の関係から、私は前段に述べました少年時代に亜米利加に対する観念が大に誤つて居たと云ふことを、年経つ程恥ぢると共に、我が帝国と亜米利加との国交上に就て種々な行違ひがございますと、昔を思ひ出して、どうぞ之を平和に解決し、道理正しく共に進みて両国民の幸福の為に尽すやうにしたいと思ひますのは、私の微力若くは一個の志願としては余りに大な希望なれども、天に対し神に向ひ斯の如き期念を持つと云ふ事は、縦令相応はしからぬ希望であるとしても、決して不都合なる事ではないと思ふのでございます。それで従来日米の関係に就ては細大となく力を尽したいと思うて、今日まで殆ど二十年に近い歳月を経て居るのでございます。是が即ち今度亜米利加に旅行を致さうと思ひ定めた所以でございます。何だか本問題に入る前置きが大変長うございましたけれども、今日までの沿革を一応申述べたのであります。
 日米の国交は、当初コムモンドル・ペリーが来て多少脅迫的に国を開かせられました、爾来総ての公使は悉くは記憶しませぬけれども、第一にタウンセント・ハリス、其後種々な大使・公使が来られて両国の国交も都合好く、又好い具合に物産の出合がついて貿易も進んで参り、取引上から言つても、社交上から見ても寔に程好く進んで参りましたが、十数年前から不図起つて来たのが、加州に於ける多数の日本移民を加州人が排斥すると云ふ所謂排日問題であつた。蓋しカリフオルニヤ州に日本人が行つたと云ふ、其原因は日本から無理に割込んだと云ふ訳でなくて、加州人が招いて行つたのである、尤も布哇から転航した者もありましたけれども、其初めは至つて善い有様でありました。然るに十数年前から加州の白人労働者から之を嫌ふたのが主なる原因で排日と云ふ問題が現はれて来た。忘れもせぬ、小村侯爵が外務大臣の時、明治四十年に例の紳士協約と云ふものが成立したのであり
 - 第33巻 p.174 -ページ画像 
ます。それは日米条約では日本の移民が行つて勝手に土地を持つことは出来ぬのであるに就て、是からは移民を遣ると云ふ事をせぬ、其代り日本の移民を虐待せぬと云ふやうな意味の懇親上の相互的協約でありました。併し之に続いて其時の我が政治家は、亜米利加は国民多数の輿論を大切にする国であるから、政治上にも勿論努めねばならぬけれども民間から能く情意を通じて両国民の間に意見の交換が十分に出来たならば宜からうと云ふ事で、四十一年に米国太平洋沿岸の八商業会議所の人々を日本に招待する事になり、四十余人の米人が日本に参りました。其時に私も其接伴役を勤めましたのが、事実に於て日米関係に手を染めるの初めでございました。其時は故中野武営君が東京商業会議所の会頭でありましたが、私は其前の会頭であつたのと懇親の厚い関係とで、商業会議所議員の仲間に入つて、亜米利加から来るお客の接伴方になつて呉れと云ふことで、国際上必要な事と考へて之に従事し掛けたのが、今日まで尚ほ継続して居るのでございます。
 其翌年は渡米実業団と云ふものを組織して渡米致しました、是は東京始め六商業会議所から多くの人を選出し、他の方面からも人を加へて、私は会議所の議長ではなかつたけれども、相集つた人の中では年長者であるし、亜米利加人も知つて居ると云ふので、団の代表者即ち団長と云ふ名を附けられて渡米致し、前後四箇月、巡回した都市が五十六箇所と覚えて居ります。随分忙しい旅行を致しました。唯だ遊覧的の旅行ではなくて、兎に角情意を徹底せしめ、思想の交換、事物の融合と云ふ趣意に依つて米国各地を巡回して参りました。けれどもさう云ふ事をしたから、都合好く一般の人気が融和して呉れるかと思ふと、其後も色々な面倒が生じて来て、殊に加州に於ける有力なる米国政治家は、其位の事では容赦して居ない、頻に日本移民を逐斥けて返さうと云ふ悪意を以て努めました、のみならず単り加州に居る日本人を嫌ふと云ふよりは、新たの言葉で云ふ敵本主義で、政治の関係から其地方の多数が日本人を排斥するに乗じて、それを一つの道具に使つて自分の政治上の地位を取らうと云ふ野心もあつた。其事に就ては亜米利加の上院議員の人、或は州の議員、或は新聞の主筆等にて二・三の人は其名も著しく聞えて居ります。それ等の人々が首脳に立つてなかなかに反対論が強い。遂に四十二年から後に大正二年に日本人が土地を持つ事、又亜米利加に移住して居る者が亜米利加人から土地を貸借する事に就て、一つの制度を定めて日本人が農業をし悪いやうにしました。それが千九百十三年の土地法であります。此時にも私は故中野武営君と協議して、東京に日米同志会と云ふものを作つて、添田博士・神谷忠雄君の二人を米国に派遣して、其立法をどうかして幾分緩めるやうにと種々心配して見ましたが、無論満足には往かなかつた、然かるに其土地法は日本人の農業者には随分迷惑な法律と思つて居つたら後から見ると又大に抜ける途もあつて、左まで日本の農業家に取つて迷惑でない、日本の農業家に迷惑が少いと同時に、其方法を講じた人々は、あんなものではいかぬ、是は更に酷にしやうと云ふ考を強く持つて居つたのである、それが即ち昨年の国民投票となつた、此事はもしや生じはしまいかと云ふ心配を、私共は前から持つて居りまし
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た。それのみならず東部紐育方面の商工業者は、支那関係に就て、日本の政治、若くは日本人の支那の事業を経営する処置に就て、慊らぬ感情を持つて居りましたので、私は大正四年に又米国を旅行致しまして、桑港の博覧会に参列すると同時に、加州移民の事及東部商工業者と支那に於ける関係を円満ならしめたいと思うて、特に日米協力支那開発と云ふ標題を以て、頻に紐育若くはボストン、ヒラデルヒア等に於て、政治家又は実業家に談話しました、其際敢て反対説は強くはなかつたけれども、十分にそれが容れられたとは言ひ得ぬやうでございました。去りながら其頃は加州に於ける移民に就ては、寧ろ大分緩和して、博覧会の賛同などは、カリフオルニアの人、就中桑港の実業家などは日本に好感を持つて、此姿ならば大に良からうと思うて帰つたのでありました。
 然るに其後又追々と排日気分の深くなつて来たと云ふのは、大正四年はまだ欧羅巴の戦乱に亜米利加が参加せぬ前であつたが、戦争に参加の後段々亜米利加の人気をして日本に悪感を生ぜしむる様な事が多く生じた、其一・二の例は諸君もお聴きになつて居りませうが、大正四年であつたか、我邦より支那に対する二十一箇条の要求である、之に付ては支那人から頻に日本は狼である、隣国の羊を虐待すると吹聴した、そこで亜米利加人はどうも狼は怪しからぬ、欧洲の騒乱を機会として鬼の留守に洗濯をする、火事場泥棒のやうなものであると云ふ感じが強く生じたやうに見えた、故に私共の小さい声で日米協力支那開発と云ふ公平説も悪く申せば胡麻化し言葉を以て支那の事業を日本人が独占しやうと思うて居る如くに疑惑された、或はそれ程に思はぬ人も疑惑の声が高ければ、又それを信ずる人もある、中には道理正しく解釈する亜米利加人も沢山あつたけれども追々に亜米利加人の日本に対する感情が大正四年ころよりは寧ろ悪くなつたのでありました。さなきだに加州の排日党の首領は、大正二年に立てた土地法が大に修正されて所謂骨抜になつて居る為に、段々に借地が殖えて行く、日本の農業家に苦痛がない、斯の如きは折角日本人を苦しめやうと思ふた値打が見えぬから、是は大に考慮せねばならぬと云ふので遂に昨年の国民投票が起つたのである。日本人から云へば随分迷惑至極な訳であるけれども、攻撃者から見たならば、折角摘むだ穂が又出て来るから其出て来る枝を切り取ると考へたのも無理もないのであります。
 私は斯様な事が懸念に堪えませぬ為に、既に桑港の米人間に日米関係委員会と云ふものが出来て、大正四年に私が桑港に往訪して其会と打合せて、日本に帰つて東京にも同じく一会を組織して、阪谷男爵などは其会に最も有力なる一人である、金子子爵・目賀田男爵・瓜生男爵・添田博士・日本銀行の井上総裁・横浜正金銀行頭取、或は三井・岩崎両家の人々、其他米国に事業関係のある人々は多く之に加入して現に三十余人の会員で組織して、或る機会には打寄つて種々な相談を致して居ります、況や前に陳べた様な心配に対しては是非何とかせねばなるまいと云つて、種々協議の末、桑港に設立せる在米日本人会に此関係委員会から或る方法にて力添へをしたり、又は特に人を派遣して後援をしたのであります。左様な微力は添へましたが、国民投票の
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結果はどうも大勢救ふべからずで、八十万人の投票に六十万は排日側残り二十万が反対したと云ふから、吾々の丹精は全体の四分の一しかなかつたと云ふ計算でありました。斯の如き有様にて国民投票は通過して多年の借地法も絶対廃止せられた。但し亜米利加の制度では彼地で生れた日本小児は亜米利加人である、亜米利加人になつた人は少年でも土地が持てる、さりながら自分が持つた土地を自分で支配は出来ない、其親にも出来ない、裁判所の指定に依る後見人でなければならぬと云ふやうな面倒なる方法を定められた。是等の制度が愈々決定したら困つたものであると思うて、昨年の春、桑港の人士東部即ち紐育の人士、此両方面の同志者と十分に協議したならば米国民の意見が幾分か融和するであらうと思ひましたので、桑港はアレキサンダー氏一行、紐育はヴアンダーリツプ氏一行の人々と東京に於て協議会を開いて、私共は昨春は殆どそれに没頭したのであります。其苦辛惨憺も前に申す通り徒労に了りまして、其後加州の移民は如何なる景況であるかと頻に懸念して居りますが、爾来実状を見て来た人々の報告も十人十色である。甚だ困難と云ふ人もあれば、否日本人は農業に対しては十分な地位を占めて居るから左までの困難はない、縦令三箇年の借地は出来なくなつても、相対の約束で分割法を以てすれば土地は借りられると云ふ人もある、さう云ふ部分も或はあるかも知れぬ、併しそれが借地と同一ならば排日党は又八釜しく言ふであらう、詰り苦しめやうとするのを免かれむとするのであるから、困難と云ふのと困難でないと云ふのとは見方に依つて多少差があるけれども、追々に移民に困難を来すやうになりはしないかと想像される。況や土地法の定つた時はどちらも同じく生産物は高く売れると云ふ時代であつたから宜かつたが、其後亜米利加も日本も、農業の利益が大分低落して居りますからそれ等の不利益と共に種々な困難が起るであらうと思ふのでございます。それを私が救ふとか緩和するとか云ふ事の出来る訳ではありませぬけれども、日米間の面倒な問題は多くは加州の移民から起つて居りますから、どうかして之を融和したいと云ふのは、吾々同胞に対しても、又両国国交の平和を望む一要務であるから、其実状が如何になつて居るか、私は叮嚀に見て来たいと思ふて居つたのであります。又桑港には米人側の日米関係委員会と云ふものが、アレキサンダー氏を首脳として立つて居りますけれども、東部にはさう云ふものがなくて先頃ヴアンダーリツプ氏一行が渡来したのは個人の資格であつた、又大正五年の秋ジヤツジ・ゲリー氏も来遊して私は色々と日米国交の事を話しましたが、是も矢張ゲリー氏一個人であつた。然るに近頃紐育にゲリー氏もヴアンダーリツプ氏も加入して居る日米関係委員会が成立して、二箇月ばかり前にシドニー・ギユリツク氏と云ふ人から、吾吾の日米関係委員会に其報告をして参りました。其会長は私はまだ面識がありませぬが、ビツカーシヤムと云ふ人で、副会長は私の知人たるハミルトン・フオルトと云ふ人であります。此の新らしく出来た紐育日米関係委員会と日本の同会とが聯絡をつけて置いたならば、将来の東洋の開発に就て私共が常に唱へて居る事をしつかりと結着け得るであらう、一般に拡充するとまでに至らずとも、日米の同志者だけで
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も十分に了解するやうになつたら、自然と亜米利加の政治界にも相感応して行くであらう、斯く考へますと、誰か日米関係委員会の中から米国へ行つて貰つた方が宜いやうに思うたのであります。
 曩に英吉利に向つて団体旅行をしたら宜からうと云ふ事を考へましたので、本年の正月頃英吉利のエリオツト大使に話したら、大使は非常に喜んで、クローと云ふ横浜駐在の商務官をして倫敦に通知をさせて、倫敦でも其筋の人が同意して、若しさう云ふ事があるならば十分に歓迎すると云ふ申越があつて、クロー氏から其事を私に通知して参りました。是に於て吾々は遂に遣英実業団の組織を企てゝ、之を政府にもお話し、又実業界の人々にも色々勧誘しました。其企図が段々進んで、三井の団琢磨君が其一人に立つたが宜からうとお勧めするに当つて、日本銀行の総裁の井上君も、私と共に団君に勧めた末に、団君は亜米利加にも誰か行つたら宜からうと主張された。是に於て私は前に申す二個の企望の為には、已むを得ずは自分が亜米利加に行つたが宜からうと思ふて居つた際である、況や団君を勧めるには、先づ自ら犠牲になる位の考がなければならぬと思ひましたから、お前が飲めば私も飲みますと、酒家が飲酒を勧めるやうな具合で、玆に年寄の冷水を飲まねばならぬやうになつたのでございます。到頭、君が英吉利に行くならば、若し必要とあらば私は亜米利加に行かう、と云つて団君に勧めたのが段々と其話が進んで、遂に私が亜米利加へ行くべき事になつたのであります。
 其処へ今般の太平洋会議と云ふものが偶然にも現れて出たので、日米関係委員の阪谷男爵は、太平洋会議と軍備縮少問題は本会に於て常に焦慮して居るのであるから、此機会に於て本会から此会議に誰か一人遣ると云ふ事が必要ではないか、詰り従来吾々の心配して居る亜米利加と日本との関係が、太平洋会議に於て、能く行つたら総決算がつくであらうと思ふのである、万一華盛頓が小田原と改名するかも知れぬが、それは吾々の深く嫌忌する所である。故に此総決算に当りては縦令吾々公然の資格はなく、他人から云ふと余計の事と言はれるかも知れぬが、日米国交に付ては長い間心配して居るのであるから、是非誰か一人派遣すると云ふことは甚だ必要だと云ふ動議が生じたのである。而して誰かと云ふ中にも、金子子爵か又は渋沢などが適当であらうと云ふ事であつて、金子子爵は枢密院の要地にある人であるから、自由行動は出来ぬ、寧ろ渋沢の方が好からうと、玆に団氏との引合もあり、又太平洋会議視察と云ふ必要も生じて、愈々亜米利加へ行くことに確定したのであります。
 それに就ては、加州移民又は布哇移民の実状を成だけ叮嚀に研究して、又も物議の起らぬやうに善後策の立ち得る限り努めて見たいと云う事が第一の希望である。更に第二の望は昨年来られた桑港のアレキサンダー氏、紐育のヴアンダーリツプ氏に答礼もしなければならぬし況や紐育に新日米関係委員会が成立したから、是れと十分聯絡を通じて来ると云ふ事も頗る要務である。而して是等の有志諸君と会合の場合には、先刻阪谷男爵の言はれたやうに、日本人多数の意見は斯うである、米国が其昔日本に開国を勧誘せられた六十年前の趣旨と反対に
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ならぬやうに御注意下さいと云ふ事を、亜米利加の全国民に向つて、大声疾呼は出来ずとも、せめて小さい声で唱へるのは決して矯激な所為と亜米利加人が思ひはしまいと信じます。私が今度米国旅行をすると云ふ事に立至つた理由は概略右様な訳でありまして、或は既に其理由をお聴取り下すつた方もあらうと思ひますけれども、竜門社の諸君は万事腹蔵なき話の出来る方々でありますから、斯かる機会に、或は重複の事があつても、詳しく述べ置くのは、私の心遣りになりますから、諸君が聴きたいと思はぬでも、話させて頂きたいと思ふのでございます。
 そこで是から、私が米国に参つてどう云ふ事が出来るかと云ふ適切な問題になるのでありますが、どうも私は思ふに、其効果は乏しからうと懸念します。前に述べた加州の移民、布哇の移民に対して将来の善後策を考究すると云ふことは、私の知識が十分でないけれども、心を罩めて調べて参つて、良い案が立ちまして、其案が行はれるやうになつたならば、将来の禍根を絶滅することが出来ると思ひますが、決して是は容易な事業でないと思ひます。唯だ惧れるのは、縦しや完全な調査が出来て、例へば二重国籍の事も、又は教育法でも、我が政府で吾々の希望通り行つて呉れるや否や、一寸疑問であると思ひます。故に満足なる調査をするのも困難であるが、出来た調を果して履行すると云ふことに就て心構へがあるかと問はれると、確言し難しと答へざるを得ぬのであります。又米国の日米関係委員会とても左様に有力なものではない、第一の首脳者たるアレキサンダー氏と云ふ人は親切でいつも渝らぬ人である、私と同じやうに十数年前から公平な意見を以てやつて呉れて居る、併し左様な有力者が沢山あるかと問ふたら、否と答へざるを得ぬのであります。但し相当の同志者があつて関係委員会が成立して居るのでありますから、是から参つて相談を致したならば、将来移民に対する善後策に就ても、悪しかれとは思うて呉れぬに相違ないけれども、如何に満足な事が出来得るかと云ふことは、玆に明言し得る限りでないやうに思ひます。
 又紐育に出来た日米関係委員会は果してどれ程の性質のものであるか、名誉会員として参加された人々の名前を見ると、余程有力な紳士が連名して居る、ジヤツジ・ゲリーも、ヴアンダーリツプも、ヘボンも加入して居る、又ヘンリー・タフトも、モツトと云ふ基督教界の有力者も這入つて居る。是等を名誉会員として、実務を処理するのはビツカーシヤム、ハミルトン・フオルトの両氏と、其他二十名ばかりの会員がある。此会とは其実際を見た上で篤と将来を協議して参らうと思ひますが、蓋し私共の東京に於ける団体も相当の力を尽して居りますけれども、世間に聞える所は未だ微弱であつて、大勢を動かすことが出来るかどうかと思ひます。而して吾々の殊に杞憂するのは、兎に角亜米利加と英吉利と日本が賛同して、玆に軍備縮小の協議と太平洋会議とが華盛頓に開かれると云ふ事は、実に千載の一遇とは思ひますけれども、唯だ名は千載一遇であつて、果して其実行が伴ふかと云ふことに就ては、多少懸念なき能はずであります、蓋し三国の中心に立つ人物が真面目にやつて呉れるや否やと云ふことは、余り予言するこ
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とは善くございませぬけれども、私は多少疑問なき能はずと申上げねばならぬのであります。縦令各政事家が真面目ならざるも、其為に此大事を等閑視することは忠実な国民の為すまじき事と思ひますから、私は専心努力しますけれども、私の窃に懸念する事を極く内々で諸君に申上げるのであります、但し、私の帰りの土産が無かつた時の申訳と、諸君は御疑ひ下さるまいと思ふのでございます。昨晩も英吉利に旅行する実業家の集会で、私は主人側となつて相会して、旅行者の行動に就て思ひ思ひの希望を述べ、又旅行者側よりも留守居の人々に現在及将来に付て留別の辞がありまして、食卓の上に言葉の花が咲きましたが、其中の一人が旅行者に対する注意は十分に了解したが、玆に提出する一問題は支那に対し、亜米利加に対し、英吉利に対して、我邦の今日の立場が十分に安心し得ぬ。支那の排貨と云ひ、亜米利加の排日と云ひ、其種類は違ふけれども、実に心苦しく思ふ、又英吉利の日英同盟も、目今の有様は何だか頼りないやうに思はれる、是は外交の秘密であるから、此席に居る人にも明答は出来まいけれども、旅立つ人よりも留守する人に多少の考があるだらう、井上日本銀行総裁とか、末延海上保険会社の理事長抔は何等考案がありはせぬかと、大橋新太郎君の動議であつて二三の答弁もありましたが、蓋し問ふ人からは要領を得た答とは思はぬであつたらう、大橋君の此問は頗る重要であるが、其答は甚だ為し悪いのであります。第一は支那と亜米利加が何故に我邦を左様に排斥するか、此処置はどうしたら宜からうか、排日の原因、排日の沿革、未来の落着と斯様に大別して答へて貰ひたいであつたらう、旅行者が海外に於て他の質問でも受けた時、其要領が明瞭であつたら寔に良い都合であるから、時に取つての必要な問であらうと思ひますが、是に対する答は誰にも完全な事は出来ぬ。
 併し私をして若し之に答へさせれば、全体我邦の外交が常に変化多く右に行つたり左に曲つたり、高くなつたり低くなつたりするのが一番悪いのである。一以て之を貫くやうにありたい、一とは何ぞや、至誠である、忠恕である、至誠忠恕で本当にやつて行けば左様な疑惑も起らず、慊悪の情も生じはせぬ、畢竟今日あるは対手国にも善くない所があるに相違ないから、其責を唯だ日本ばかりが受けるではないけれども、然らば日本には欠点が無いかと言うたならば、否な大にあると答へねばならぬ。果して欠点があるとするならば、能く之を理解し融和して彼に対するやうにせねばならぬ、其関係の度合が長かつたら其弊害も長い、即ち長い月日が掛つて生じた病気は、之を治すにも長い月日を要する。畢竟脈絡なき不統一なる外交が其原因を為したのであらうと思ひます。而して脈絡ある外交と云ふものは、辞令とか、手際とか、術数抔で行けるものでない。然らば何を以てするか、即ち至誠である。誠を以て接すれば、千年経つても万年経つても変るものではないと思ひます。私が初めて欧羅巴に行つたときと今日とは六十年に近い歳月を経過して居ります、即ち五十六年目になります、其間に於ける自分の身の上も、日本の位地も、西洋各国の有様も、実に驚くべき変化であります。其頃はナポレオン三世が実に世界を風靡した、千八百六十七年の仏国の博覧会の如きは、欧羅巴の帝王を悉く引付け
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たと云ふ程であつたが、其ナポレオン三世は其後数年にして倒れて、其帝政は速に共和政治に変化した。仏帝ナポレオンを倒した独逸のカイゼルはどうであるか、爾後覇を鳴らし雄を鼓して、欧羅巴否な世界に跋扈したのである。併しそれも今日はどうなつたか、現に和蘭に屏息して、其居住さへ分らぬ程の有様である。一国の元首たる仏独の帝王が左様に変化して居る。又私の一身から言うても、其時には紅顔の美少年ではなかつたけれども、併し年齢は若かつた、それが斯の如く老翁になり、其思想も追々変化を来して居ります、故に世の中の変化は限りないもので、甚しきは雪が黒くなつて、炭が白くなるかと思ふ程であります。然らば何もかも左様に変化したかと云ふと、君に忠、親に孝、朋友に信といふが如き五倫五常は、千古不朽、万代不易であると云うて宜しいと思ひます。
 斯く考へ来れば国交に於ても然りで、術数を以てすれば変化する、至誠を以てすれば変化しない。時代に於る多少の変化はあつても、其中心は決して変るものではないと思ひます。私は今日微々たる一閑人であるけれども、此見地に於て至誠だけは五十年でも百年でも変らずして、亜米利加の人々にも交際する考でございます。今日来会の竜門社の諸君は常に私の愚見を珍重して下さるから、竜門雑誌の冒頭にも其要旨は記載してございます、諸君も必ず御愛読下さる事と思ひますから、斯かる機会に於て一言を列べるのであります。想ふに世の変化は能く観察すると、変るものは次第に変つて行くけれども、変らぬものは少しも変らぬ、宋の蘇東坡の赤壁賦に、変ぜざるものより見れば斯々である、又変ずるものより見れば斯様であると云ふて、其変化するものとせぬものとの差別を論じた名文がありますが、是は多く時代に就て論じてあるが、私は精神上変ずべからざるものは斯かるものであると申述べたのであります。故に私の人に対する交道は内外親疎を論ぜず、其変ぜざるものを何処までも維持する積りであります。諸君どうか左様に御承知を願ひます。


竜門雑誌 第四〇一号・第五四頁 大正一〇年一〇月 ○渋沢家同族主催送別晩餐会(DK330009k-0008)
第33巻 p.180-181 ページ画像

竜門雑誌 第四〇一号・第五四頁 大正一〇年一〇月
○渋沢家同族主催送別晩餐会 渋沢家同族諸氏には、青淵先生御送別の為め去月○十月二日渋沢事務所に於て晩餐会を催し、定刻午後六時宴を開き、デザート・コースに入るや穂積男爵より同族を代表したる送別の辞あり、之に対し青淵先生より打解けたる御挨拶あり、更に増田明六氏より随行員を代表したる謝辞ありて宴を閉ぢ、別室に於て快談の後、午後十時散会したる由なるが、当日の出席者は左の如くなりしと云ふ。
 青淵先生
 増田明六氏  小畑久五郎氏 穂坂与明氏
 穂積男爵   同令夫人   阪谷男爵
 同令夫人   渋沢篤二氏  渋沢武之助氏
 同令夫人   渋沢正雄氏  同令夫人
 明石照男氏  渋沢秀雄氏  穂積重遠氏
 渋沢敬三氏  渋沢信雄氏  渋沢智雄氏
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 尾高幸五郎氏 芝崎確次郎氏 渡辺得男氏
 白石喜太郎氏


東京商業会議所月報 第四巻第一一号 大正一〇年一一月 ○渡米団・英米訪問実業団送別会(DK330009k-0009)
第33巻 p.181 ページ画像

東京商業会議所月報 第四巻第一一号 大正一〇年一一月
    ○渡米団・英米訪問実業団送別会
大正十年十月三日正午当所に於て、今回渡米せらるゝ渋沢子爵一行並英米訪問実業団一行諸氏の為め送別会を開催したり、出席者は正賓渋沢子爵・添田博士・増田・小畑の諸氏、及英米訪問実業団大橋・串田・中島男・門野・米山・持田・石井・馬越・阪井・原の諸氏、陪賓芳沢外務省亜細亜局長・田中同通商局長・山川同条約局長・鶴見農商務省商務局長・伊藤同商事課長・岡警視総監・宇佐見東京府知事・大海原同内務部長・後藤東京市長、井上・木村日本銀行正副総裁、梶原・鈴木の横浜正金銀行正副頭取、志村日本勧業銀行総裁、土方・小野日本興業銀行正副総裁、阪谷・大倉・森村各男爵、松方・服部・橋本・加藤・伊東・有賀・福井・浅野其他の諸氏、新聞通信社員、主催側当所藤山会頭、杉原・山科両副会頭、其他議員・特別議員等総員百十五名にして、正午一同食卓に着き、「デザート・コース」に入り藤山会頭は日米親善の由来を説きて渋沢子爵の尽力を祈り、且つ英米訪問実業団福音を齎せられたき旨の挨拶辞を述べ、渋沢子爵は日米関係委員として彼我交驩の実況を叙して此送別会に対する謝辞を述べ、大橋新太郎君は視察上の所感を兼ねたる謝辞を述べ、後藤・大倉男爵より各一行に対し希望を述べて諸氏の健康を祝し、主客一同歓を尽し午後二時散会したり


東京商業会議所報 第四巻第一一号・第四九―五四頁 大正一〇年一一月 ○送別会演説速記録(DK330009k-0010)
第33巻 p.181-187 ページ画像

東京商業会議所報 第四巻第一一号・第四九―五四頁 大正一〇年一一月
    ○送別会演説速記録
 十月三日送別会に於ける藤山会頭の挨拶、後藤市長・大倉男爵の演説、及渋沢子爵・大橋新太郎君の答辞は左の如し
藤山会頭演説
閣下並に諸君
本日は日米関係委員会を代表して米国へ御渡航遊ばさるゝ渋沢子爵の御一行、並に実業視察団を組織して英米両国を訪問せらるる団氏の御一行に対し、聊か送別の微意を表するため御招待申上げましたところ御多忙中の際にかゝはらず、主賓各位を始め斯く多数の御来会を得ましたるは、当東京商業会議所の最も幸栄とする所でございます、不肖私より厚く御礼申上ぐる次第であります。
 渋沢子爵は、前にも述べたる如く専ら日米関係委員会の関係に於て即同会米国側委員の招待に依り日本側委員を代表せられ、且つは昨春来朝せる「ヴアンダーリツプ」氏一行に対する答礼応酬の趣意を兼ねて、米国へ御足労下さる次第であります。又団氏御一行の英米訪問実業団は、其名の示す如く英米両先進国を訪問して、彼我実業家の意志の疏通を図り、兼て両国諸般の経済状態、殊に戦時以来の大変遷、大改造の状態を視察して、我国今後の経済施設上の参考に供せんとする目的を以て、専ら平素各方面の実業経営の衝に当らるゝ有力知名の諸
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君が団体を組織して渡航せらるる次第であります、而して実業団交換のことは予て英国政府より勧誘せられたる関係もあり、亦我政府当局に於かれても此計画を援助せらるるのみならず、実業団の報告等に対しては出来得る限り実施せらるる方針の様でありまして、世間普通の観光団とは同一ではありません、今回渋沢子爵の御一行と米英訪問実業団の御一行とが、相前後して御出発相成る事になりましたが、其趣旨目的とせらるる所は、上述の如く完く別途でありますることは、十分御諒解を願つて置き度いと思ひます。
 熟ら内外諸般の情勢を察しまするに、世界大戦争の反動として経済界の大変動を惹起致しましたるは勿論のこと、社会上にも将又国際関係にも激変を見つつありまして、今日は実に世界を挙げて一大転換機に遭遇せるものと考へます。従つて此際世界大進展の機運に順応して其針路を誤まらざることは、我国今後の国運発展、民福増進の上に実に至重至要の事柄であります、殊に我国は戦後の経済界・事業界の不振沈滞尚ほ甚しく、之が挽回策を講ずるために、海外の状態を視察する必要がありまするのみならず、近来動もすれば種々の誤解を招き、国際関係上に於て困難の地位に陥らんとするの虞もありまするので、此の時に当つて、渋沢子爵の如き我国実業界の元老を始め、有力なる方々が多数海外を訪問せられ、意思疏通、並に諸般の視察に努めらるることは、寔に機宜の壮挙と云はねばなりません、私は不肖乍ら是等の御計画の実現につきて、聊か微力を尽しましたる関係もあり、玆に双手を挙げて諸君の御快挙を賛翼し、其行を盛んにしたいと切望する次第であります、諸君は実に吾国の代表的実業家の御揃ひでありますので、海外諸国に於ても諸君の言論に対しては最も重きを置き、充分の注意を払ふに相違なく、彼我実業家の接近親密を進め、意志の疏通を計る上に効果の多大なるは、深く信ずる所であります。つきましては我国実業界の真意を十分彼国に御伝へ下さる事は、私の玆に御願ひするまでもないことでありまするが、恰も諸君が相前後して向はんとする米国に於きましては、所謂太平洋会議が開かれ、軍備制限の問題を始め、極東問題、其他太平洋に関する重大なる問題が協議せられんとして居ります、従つて偶々話題が是等の問題に触れまするとき、我国実業界を代表せらるる諸君の御意見は、最も重要視せらるるでありませう、而て歓娯の間に交えらるる諸君の談話は、問題解決の上に間接の効果が多大であらうと考へます、依つて此所に少しく卑見を述べて、諸君の御尽力を煩したいと思ひます。
 抑々太平洋会議は、其趣旨とするところ大統領の招請状にもある如く、国内の安寧、国際の平和を図るため、軍備制限特に海軍制限の問題を協議し、且つ之に関聯して現下の国際重要問題たる太平洋及極東問題をも協議し、各国間の親善了解を進め、紛争の根源を除去しやうと云ふのでありまして、恰も吾国実業界の輿論乃至希望と共鳴一致するものであり、衷心万腔の賛意を禁ずる能はざる次第であります、殊に軍備制限の問題に関しましては、今年六月全国商業会議所聯合会に於て左の如き決議を致して居ります。
 国際聯盟成立し、今や軍備の制限列国の問題となりたるの際、常に
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正義公道と世界の平和を念とする我国は、関係ある各国と適正の協定をなし、国際間の平和を確保し、以て産業の発達に全力を傾注するを目下の急務なりと信ず。
而して右の決議は、単に政策上から発表したる如き者ではなく、我国商業会議所関係者の衷心の希望であります。否単に商業会議所関係者の希望には止まらず、実に全国実業家の希望であり、亦国民大多数の輿論であると云ふも不可なからうと信じます。従て私は各国間の公平に適正なる協定に依て、有効な軍備制限を実現するに至らんことを希望に堪えないのであります。
 由来日本国民は、平和を愛好し文化を熱望するの国民であります。
 建国以来三千年の歴史は、実に是れ日本民族の平和的発展、文化的進歩の記録でありまして、侵略的軍国主義的の事実はないのであります。唯だ近代に入りまして我国は、日清・日露の両度の戦を交へましたけれども、其原因全く自衛を目的とする防禦戦でありまして、国家の独立、国民の生存並に東洋の平和を保持するに必要止むを得なかつたのであります。恰も聯合国が武力的侵略に対して、世界の平和と文明の福祉とを擁護せんがために干戈を取つて起つたのと同一であります。平和を愛し正義人道を重んずる上におきましては、我国は決して人後に落つる者ではありません。之を以て我国を軍国主義なるかの如くに論ずるのは、誣謗でなければ、深く国情を洞察せざる誤解であります。冀くは諸君は我国が平和の国民なること、我国実業家が挙つて平和を希望しつゝあるの真意を、十分各国に表明せられんことを切望する次第であります。
 蓋し我国は邦土狭小にして資源の天恵に乏しく、人口過剰にして、而も尚年々五六十万人を増殖いたします。従つて食物欠乏いたし、生活は困難となり、不知不識の間に生存の脅威を感じて居ります。故に是等の過剰人口に職業を与へ、生活糊口の途を供給せんとするには、是非とも商工立国主義に依り、商工業の発達を図らねばなりません。然るに我国は独り食料の不足するのみならず、主要原料にも欠乏して居りますので、商工業の発達を図るにも、出来得る限り各国と和衷親善の関係を維持増進し、以て原料を仰ぎ製品を輸出することが肝要であります。日本の実業家並に国民が平和を希望し、商工業の平和的発達を専心企図いたしますのは、実に斯くの如き深き根柢に立脚して居るのであります。
 併しながら、我国の工業経営は、右述ぶるが如く原料不足と云ふ欠陥がありますので、之を米国の如き富源無尽蔵にして原料を自給して余りあるもの、並に英国の如き広大なる殖民地を擁して原料資源の豊富なる工業と比較いたしますれば、其難易到底同日の談ではありません。従て商工業の発達に依つて、過剰人口を給養する程度にも自ら限界がありまして、年々増加する人口の全部を吸収することは不可能であります。其故其一部は、人口の稀薄にして資源の比較的豊富なる地方に流出口を求めて、移住せしめなければなりません。然れども其目的は一に国内人口の過剰を調節し、生活の困難を緩和せんとする平和的のものでありまして、決して他国の安寧を脅かさうとするが如きも
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のでありません。其故西比利亜・南米等、労力の欠乏して資源の開発困難なる如き地に対しては、我国過剰人口の一部を移住いたさせまして、平和の間に相互の福利を増進せんことを希望するのであります。是等の点につきましても、諸君の御尽力に依りて、各国民の十分なる諒解と同情とを得たいと考へます。
 申上ぐる迄もなく、日本は太平洋上に国を建て、一衣帯水に依りて近く亜細亜大陸と相接し、太平洋を隔てゝ遥に南北亜米利加及濠洲と相臨んで居ります。従て太平洋の問題、特に支那・満蒙・西比利亜の問題とは、最も密接なる関係があります。併しながら吾人は敢て是等の地方に於て領土保全・門戸開放・機会均等の主義に背反せんとする者ではなく、否従来常に是等の原則を遵守しつつあることは、恐く各国識者の十分認むる所と考ます。唯だ日本は地理上接近せるのみならず、同種同文の関係もあり、彼我の事情に詳かにして、自から是等の地方に於て事業経営に成功し易き要素を具備する。其結果のみを見て忽ち日本が野心を抱蔵するが如く考ふるは、所謂疑心暗鬼を生ずるものなるべく、諸君は是等の疑惧の念を解くことにも、亦御努力下されんことを希望いたします、
 例の山東問題の如きも、亦疑心暗鬼の産物であらうと考へます。此地を還附すべきは最初より既定の事実でありまして、当局数次の声明に依りて、各国民の釈然諒解せることゝ思ひまするが、日本に何等の野心なきことは、最近提出せる所謂妥商案綱領を見ても一点疑ひのなき事柄であります。吾人は此際各国民が我国に対する疑心暗鬼を去り一層親切なる観察と善意の解釈とを下すに至らんことを希望に堪えません、幸に諸君の御尽力を冀ふ次第であります。
 之を要するに私は軍備制限可なり、特に海軍の制限もよし、或は領土保全・門戸開放・機会均等、亦大に賛成であります。其何れに対しても我国実業家は異議なきのみならず、太平洋会議に際して其実現と成功とは、衷心希望する事柄と考へます。唯だ之に関して大切なる事は、各国が夫々公平なる基礎の上に協定をなし、且つ是等の原則の適用を一局部に限らず、普遍的に適用しなければならぬと云ふことであります。而して適正公平に到達せられたる協定の精神に対して、各国民が衷心誠意より遵守し尊重することが必要であると考へます。各国民が真に人類の共存同栄の自覚に徹底し、恒久の平和と安寧とを熱愛する精神を発揮するにあらざれば、協定の効果を遺憾なからしむることも困難でありませう。是等の問題は、独り太平洋会議のみの議題ではなく、又太平洋会議のみに依りて十全の目的を達することも出来なからうと思はれます。幸に諸君の御努力に依りまして、吾々日本実業家並に日本国民が平和を愛するの真意を世界に表明し、各国民の十分なる諒解を得て、当面の問題を円満に解決し、恒久平和の理想を実現し、人類協同の福祉を増進する機運を促さんことを、切に希望に堪えない次第であります。諸君は亦我国実業界の各方面に於て其途に練達堪能の士でありまするから、海外諸国の状態を達観洞察せられ、我々に対して天来の福音を齎らせらるることであらうと、今日より御待ちする次第であります。ところで我国従来の実業界の実際は、凡て政府
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の指導と助成に依頼し、恰かも御仕着せを戴くが如く、専ら政府の規定せる種々の制度方式に則つて事業を経営して来たのであります。従て或は外国の例を直訳的に模倣したる制度もあり、我国情にしつくり合はない事柄も少くなかつたのであります。併しながら今後の我実業界は須く自治の精神に依り、自ら発達を指導し、自から其進歩の方法を講じなければならぬと考へます。現下の重要問題たる労働問題の如きも、我国には三千年来の歴史より固有の美点長所も存するのでありまするから、是等の歴史、固有の国情を無視して、直訳的に外国の制度を輸入することは大なる間違でありませう。実業団の諸君は仔細に外国の状態を視察調査せらるゝと同時に、又深く外国の事情に鑑み、採長補短、以て是等の問題を適切に解釈するの方法を攻究せられ、帰来能く我国実業界の自治的発達の為めに資せられんことを切望する次第であります。
 終に臨み、杯を挙げて諸君の御健康を祝し、併せて長途の御平安を祈りたいと思ひます。
後藤市長演説○略ス
大倉男爵演説○略ス
渋沢子爵演説
 当商業会議所の斯る御催しに付いて、私も此席に列することを得ましたのを深く有難く感ずるのであります、会頭藤山君から、今度欧米の実業視察の為めに御出でになる諸君及び亜米利加に罷出まする私の一行に対し、御叮嚀なる御言葉を以て、一方に向つては相当な御希望であるやうでありますけれども、一方に向つては頗る過当な御希望でさなきだに心配をして居る所へ、左様な重荷を背負はされるかと思ふと、唯々恐縮する外ないのであります、併ながら今更愚痴を申上げて見た所が余り効能はありませぬから、重ければ重い程奮つて負つて立たうと云ふ考を有つて居りますから、皆様御承知を願ひたいと存じます。
 元来私の今度の旅行は頗る偶然のやうな訳であつて、唯今藤山君から日米の関係を色々詳しく御述べになりまして、且つ其事に付いて渋沢は長い間非常に優れて尽力して居ると云ふ御褒美の御言葉を頂戴しましたが、別に優れても何も居りませぬけれども、そこは年を取つた甲斐に長い間関係して居るから、歳月が長ければ事柄を又幾らか深きに亘つて居ると思ひます、皆様も御聞きの通り、昨年桑港及び紐育の我々と志を同じうする亜米利加の人々が打寄つて、日米関係委員会と云ふ名で此協議会を東京に開きました。それは主として加州の事柄に付いて何か解決の道がありはしないか、それから第二には東洋の事業発展に付いて、日米の間に物議を惹起さぬやうにしたいと云ふ、大体に論ずれば其二つの点に付いて種々評議を致しまして、意志は稍了解し合つたやうでありますけれども、実は其結果は更に現はれなかつたのであります。併しそれは我々の力足らぬ為めでありませうが、或は時に丁度適応せなんだ所もあると思ふのであります、而し到頭昨年の十一月彼の排日法案も通過して、我加州に於ける移民の有様は将来頗る憂慮に堪へぬやうに思ひました、又加州及び東部の人々と、他に或
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は直接に申したならば東洋に於ける、更に直接に申すならば支那に於ける事業経営に付いて、何か衝突でも起らうとするに付いて、之を除却する手段を色々向ふの人も考へ、此方でも考へ、先づ是には完全な要領を得たと云ふ訳でありました、其間に彼の国に於ける政府の改革旁々以て新内閣の模様が如何になるかと云ふことに付いては、我々にも考へ及ばぬ所もありましたから、此春誰か行かなければならぬと云ふ話もあつたが、まだ時機相当でないと思ふ為めに躊躇致したのであります、然るに丁度先頃に至つて軍備縮小問題とか、太平洋会議とか云ふものが開かれると云ふことに至りましたので、又日米関係委員会に於ては之は千載一遇の時機であるから、既に亜米利加の有志との引合続きもあり、又一方加州及び布哇移民の状態を視察し善後策を講ずると云ふ用務もある、少なくとも是等二つの用務を誰ぞ出て行つて果して来たら宜からう、それに加へて今申す大きな問題もある、是には参加することは出来ぬでも、所謂貝殻太鼓を叩いて外から力を尽して宜しくはないか、それで仲間の中から誰か出て行かなければならぬと云ふことの協議が起つたのであります、然るに此欧米実業界の観察、若くは研究の御旅行と云ふものは全く方面が違ひまして、此欧洲大戦後に於ける所謂世界の改造、実業界固より然かり、此場合相当なる視察をするは甚だ緊急なことであらう、況んや金融の事と云ひ、船舶の事と云ひ、鉄の事と申し、又資本労働の関係、総ての方面に視察す可き事実が多い、場合に依つて我製品の直接販路を開くと云ふ道もあらう、どうしても之は実業家が一団体を組んで亜米利加を掛けて欧羅巴へ出掛けられることが、今日の急務であると云ふ説が起りまして、即ち私は其推選者の一人となつたのである、それが今申上げた日米関係委員会で誰か視察にやらうと思つて居る矢先きである、皆様が勇気を鼓して御出掛けになる、自分も日米関係委員から行けと言ふなら出掛けやう、年寄であるから先づ請ふ隗より始めよ、自分が出たならば他の御方々の勇気も多少加はりほしないかと思ふ、一つ勇を鼓して出掛けませうと申したのであります、実は其時は或る張合で言つたのでありますが、後から考へますれば、口は禍の門、余計なことを申したと多少後悔しましたけれども、今更多数の前に左様なことを申して之を覆へすことは出来ぬ、之は内所話ですからどうぞ御聞流しを願ひます右様な訳で両方の旅行者が爰に今日の御案内を受けるやうな訳になつたのであります。
 それで私の今度の旅行は、実に偶然の出来事、自から期して斯ることを出来そうと云ふ程の抱負もなければ、又夫丈けの力もなからうと思ひます、併し此同じ御送別を受けても、一方欧米御視察の方は私は誠に適当だと思ふ。決して御謙遜ならぬ方が宜い、皆様は十分にあちらの事情を御取調べ下さるやう願ひたい、之は御土産を私が持つて来られぬから、諸君に御依頼を致して、自分逃げを打つのだと思召しては違ひます、全く任務が違ひますから、そこは能く聞分けて諒解を願ひたい、そこで私は今も申します通り、先づ加州・布哇の移民に対して、将来は斯くなつたら宜からうと云ふを丈けは、十分に十分に取調べて参つて、政治家にも頼んで種々将来の方法を立つて、是が導火線
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になつて、日米の間に火を発するやうにさせない工風をしなければならぬと思ひます、何しろ今迄が海外へ出ると云ふことの少ない国柄であつて、懐ろ生活をして居つた日本であるから、他所へ行つて働くにしても工合が悪い、越後から米搗に東京へは来ましたけれども、日本から亜米利加へ米搗には出掛けなかつた、其米搗連中が今は亜米利加へ行つて頻りに騒動を起し、亜米利加人から嫌はれたりする、之れは余程考へなければならぬことで、日本には移民の方法も移民政策も少しも立つて居りませぬ、之は無いのは止むを得ぬ、今迄其必要がなかつたからでありませう、故に是等は十分に取調べなければならぬことと思ひます、又加州ばかりではない、東部の或は東洋に力を延ばそうと云ふ所の実業家の人々、若くは政治家の人々とも十分の調和をなして、日本を侵略主義である、或は軍国主義であると云ふのは誤解だ、それは間違ひだと云ふことを十分に話をしたら必ず彼等は理解するだらうと思ふからして、此点に於ても相当力を尽さなければならぬと思ひます、而して今申しまする通り、加州の東部及紐育には我々と同じやうに関係委員会として、共に計らうと迎へる者も待つて居りますから、それと評議することも決して無用の務ではなからうと思ひます、又今藤山君の仰せられたことは日本国民の声のやうである。日本国民の真の感情は斯であります、斯う云ふやうに亜米利加の多数に向つて国民の声として宣伝することは、私の枯れ声では迚も六ケしうございませうけれども、併し声は小さくても、心は十分貫徹し得たいと思ふのであります、実は今日遅刻致したのも、丁度亜米利加大使に会見したいと思つて、今朝十一時迄に参りまして段々話が色々に入組んだ為めに、又談じ又和しと云ふことで甚だ時間を過まりましたが、蓋し大使に向つて言ふ丈けは些細のことのやうでありますけれども、併し之は即ち幾分我々の感情を通はせる便宜の一つと思つて、失礼を顧みず時を過まつたのでありますが、之は唯、日本に於ける或一場の御話、あちらへ参りました以上は、如何なる方面に如何なる話が進みますか私は皆様の御厚意を深く謝し、藤山君の御言葉を謹んで拝承して、此重荷を十分に背負ひ遂げまする覚悟でありまする、甚だ不束でございますが、之を以て御礼の辞と致しまする。
大橋新太郎君演説○略ス


埼玉県人会会報 第四号・第三六―四一頁 大正一一年一二月刊 第九回県人会並に会長渋沢子爵渡米送別会、副会長山川博士帰朝歓迎会(大正十年十月四日上野精養軒)(DK330009k-0011)
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埼玉県人会会報 第四号・第三六―四一頁 大正一一年一二月刊
    ○第九回県人会並に会長渋沢子爵渡米
     送別会、副会長山川博士帰朝歓迎会
                     (大正十年十月四日上野精養軒)
 開会通知 本会は例年春期懇親会を開会せしが、本年は同期に於て渋沢子爵陞爵祝賀会を挙行せしを以て、例会を延期して秋期会を開会し、併せて子爵の渡米送別会・山川副会長帰朝歓迎会(副会長には嚮に官命に由り欧米に出張せられ昨年帰朝せられしが、当時御実母の喪中に付き歓迎会を御遠慮申し置きたり)を同時に開催することゝし、左の通知状を発せり。
     通知書
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 拝啓、秋冷之候愈々御清栄之段奉大賀候、陳者会長渋沢子爵閣下此度重大任務を帯び、来月中旬横浜出帆渡米に付右送別を兼ね、山川副会長歓迎会並に会員秋季懇親会開会致度候間、何卒御繰合御来会相成度、右得貴意候 草々敬具
 追而 諸井恒平氏は支那視察に、増田明六氏は子爵随行として渡米に付き、併せて送別の意を表し度き心算に候
  大正十年九月卅日 埼玉県人会
 一、日時 十月四日午後五時受附開始
 一、会場 上野精養軒
 一、会費 金五円
 一、協議 規則改正案に就て
 一、食堂 午後正六時半
 一、回答 十月三日迄
 当日の概況 予定の通り開会、先づ協議事項として予て本会規則改正の必要、会員中より申出でありたるを以て、常任幹事の起草せる規則の草案を配布し、黒須常任幹事座長となり草案を説明し、会員各位の腹蔵なき意見を求め置き、更に次回に於て審議確定することとす。
 食堂開始 午後六時半食堂開始
 渋谷正吉氏送別の辞
 私は幹事並に会員一同に代り、偉人たる子爵閣下の渡米送別会に当り一言送別の辞を呈します。
 始め幹事の方より、私に送別の辞を述べる様にとの話がありました際、少々躊躇しましたが、閣下が今度帝国七千万の国民を代表して日米親善其他重大問題に付き渡米せらるゝに当り、送別の辞を呈するの光栄は私一代中二度とあるまじき事でありますから、不肖乍ら御受をすることに決心致しました。
 偖て閣下が此度御渡米の上御尽力下さることは、我が国に取ては勿論、実は世界平和のために於て最も重大なる任務と信じます、近来日米間に於て兎角面白からざる関係を来せるは、我が朝野一同の憂慮する次第にて、之を円満に解決せんとするには他に敢て人無きに非ざるべきも、然し子爵の如き最も縁故深き人にあらずんば、功果を奏し難く、其点に於ては他に比較すべき者を発見しないのであります。閣下は年来亜米利加に就て絶へず心配せられ、数回渡米し尽力せられ居ることは朝野内外共に認むる所であります、従て米国人は、子爵に対しては日本の大王として敬意を表して居ることは確な事実であります、此は子爵が公明正大に若かも誠意を以て事に当らるゝ結果に外ありません、従て今回は政府代表者は十分に尽力せられませうが、然し子爵の力に待つことは、政府代表者以外大なる功を奏すべきを信じます、元より斯の如きことは子爵の個人的発意に由るべきを以て、一面から見れは子爵の御尽力は表面に立たないのであるから、宛も椽の下の力持とも見らるゝが、此の椽の下の力持が乃ち人間として容易ならざる行動と信じます、思ふに此度の会議には各国の名士と接し、又多方面の紳士とも会する場合が多く、我が国のためには再び得難き壮挙として感謝に堪へざる次第でありま
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す、我々県人は遠く地方よりも集り来り、送別の宴を開かるゝことは、列席諸君の光栄にして永く記念とすべきことゝ思ひます。
 願くは閣下に置かせられましては、御高齢の事でもあり、充分御自愛あつて、無事御帰朝の程を祈る次第で御座ひます、又山川副会長には嚮に御帰朝以来、早速歓迎会を開催致する筈でありましたが、喪中の由を承り、今日迄延引致しました、不悪御承引を願ひます、又一般会員には御多忙の処多数御出席を得まして深く感謝致す次第で御座います、云々。
堀内県知事閣下
 今夕は、県の出身者にして世界的偉人たる渋沢子爵の御渡米送別会山川博士の帰朝歓迎会、並に秋期県人会の御開催に当りまして、自分にも御通知を受けまして玆に出席致した次第で御座います、此迄御通知を受けましても、何時も差支にて出席を得ませんでしたが、今夕は図らずも閣下並に会員諸君に親しく接するの光栄を有しました、閣下此度の御渡米は非常なる重大なる任務を有せらるゝことは先刻渋谷氏の御送別の辞に由て明かであります、自分としては県に職を奉ずる以上、閣下の如き偉人が県出身者として、国家のため否世界的平和問題に就て、若かも八十有余の高齢の身を以て率先之に当らるゝと云ふことは、深く感謝する次第で御座います、同時に随行の人々は閣下の身辺に就ても、十分に御注意あらんことを切望致します、次に在京県人会々員諸君には、今後益々県下存住の人と互に連絡提携して、一面には県全体の発展に、一面には県人相互の成功に就て、一層相援助せられんことを希致します、申す迄もなく東京と埼玉は互に隣接して、東京の郊外の様な関係でありますから、一致共同の円満に行はれます以上は、其の発展は更に著しいものであらふと思ひます、今夕玆に出席を得ましたに由り、此を以て御挨拶と致します。
渋沢子爵の答辞
 今夕は思懸ない同県人相集り、私の渡米を送り下さるゝは何たる光栄でありませう、只今渋谷氏より身に余る辞を受けて誠に恐縮致します、今回の渡米に就て自分は従来あつた事を申上げ、御参考に供し、併せて御後援を仰き度いと思ひます。
 抑も日米関係は、嘉永六年アメリカに誘はれたのが始めでありまして、其は私の十四歳の時であります、度々申しますが其頃は鎖国時代にて、外国人を見れば何れも侵略主義で来て居ると思ひ、学者も有志者所謂政治家も、共に幕府攻撃の材料としたのであります、然し鎖国主義の時にアメリカが日本に対して信切であつた事は、今尚国民の記憶する処でありまして、彼の総領事ハルリスが来た頃、通訳の蘭人が何者にか殺されたが我が国でも非常に驚きました、其処で外国の公使は皆横浜に引上げ、水兵に守らしむると云ふ状態でありましたが、其時ハルリス氏は独り平然として留りて居りました、人から忠告して引揚を励めましたが応じません、其は必竟日本を侮辱するものである、若し殺しに来たからとて驚くべからずとて、其儘であつた事を確に承知して居ります、其ため英国其他の公使も如
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何ともすることが出来ませんでした、ハルリス氏は誠実公平を示して何等疑ふ所は無いのでした、其後明治になつても、彼の馬関償金七拾五万円も利子を附して返され、治外法権も最先きに撤廃されました、又明治十四年頃横浜にて生糸の取引に就ては、外人は頗る専横であつて生糸商人と衝突し、其年の八月から十一月迄四ケ月間、一時売買中止になりました、其時米国公使リンアン《(ビンガム)》氏が仲裁し、自分と共に解決致しました、皆斯の様に公使も常に、好意と公平でありましたから、貿易は年と共に進歩し、外交も政治も誠に円満好調でありました、然るに最近十年以来衝突を来したのは、彼の加州日本人問題であります、其の中心人物はヒラン、イマン及サクラメントのマクラジン等が主となり排日を唱導し、日本人は米国人と同化しないと云ひだした、日露戦争後一層感情が甚だしくなり、日本人も多少威張る傾向を生じ、米国人は益々嫉むと云ふ点から、兎角反目の情強く、此の地方的感情は明治三十九年年四月頃、小村侯爵の外務大臣時代に移民制限となり、一九一三年には土地法案となり、借地法も最も厳重なる制度となりました、然し尚米国全体を見ますれば一部分の事だと思ひ、中央政府は其様な大した事ではないからと云ふて居りましたが、更に支那問題から米国人は東部人民迄感情を害し、其最も大なるは、大正四年の二十一個条は日本は支那をも占領せんとの誤解を招きました、是れより米人は、口を開けば皆此通り云ひました、支那の排日も此が元となり、国辱日を定める程になり、加州博覧会には日本より出品し大に桑港人の喜ぶ所となりましたから、自分も渡米して大に融和せんとせしが、東部人が支那との取引に関し悪感を抱て居りました故に、日本との親善を計りて却て疑を抱かれ非難を受けたことがあります、彼のゲーリーの来りし時に日米協力を主張せるが、幾分か支那に就て日本と提携せんとの考が起りましたが、加州に於ては一九一三年の土地法を一層厳重にし、日本人を放逐せんとしました。
 昨年日米協議会を開きしが、帰朝してから見れば国民投票に由て土地法は通過しました、斯の如き状態で以上の尽力は効果がありませんでした、而して東部の方の意気は完全に融和されず、大統領が代て後にせんとしましたが、四月頃から太平洋会議の話が起り始め、日英米三国が互に一致せば世界の平和を維持し得べしと思ひ、先づ軍備縮少は必要なりとて昨年の議会に之に述べ、此儘進んで行かば国家は破滅する、物価の騰貴は元よりにて漸次衰亡すると云ふ結果に陥るのであります。
 幸太平洋会議が出来上る上は、加州のことも米国の有志と提携して解決を告げ度いと思ふて居ります、近来私も最早老年となり何の役にも立ちますまいが、仮令少しの用でも出来るなら勤めたいと思ひ同志と謀り、同行者三人を得て行くことになりました、元より軍縮問題・日米関係を適当に解決し得べきや否や判りませんが、従来尽したることを引続き遣つて見たいと思ふのであります、繰返して云ふ様ですが、何等功も無かるべきを予期して居ります、只加州並にニユーヨーク地方人と情意を通じ、誤解を取消して見度い、完全に
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行はれざるも幾分なりとも功を奏することは出来まいかと思ひました、六十年前日本は暴力を持せしが、今は米国が日本に対し暴力を用ふるとは大なる変化と云へませう、斯の如き次第で皆サンの希望に副ふや否や、只幾分なりとも功果を得るかと思ふのであります、御手厚き御送別に預りまして有難く御礼を申します。
山川副会長の答辞
 自分は一昨年北米から加奈陀を経て英国に渡り、仏・白・蘭・瑞・伊・独・瑞典等を一巡し、再び英国に戻り、印度洋を経て帰朝しました、宛も地球を一周し、其円形なることを承知した様な訳であります、其間米国其他各国の工場能率問題、乃ち時間節約に就て益々研究して居ることを認めました、工場は何でも出来ると云ひましたが、製作品は日に日に高くなり、戦争前日本は総ての物価が安かりしが、今は日本品が却て高くなり、支那にても圧倒せられ、日本品は高いと云ふことになつて居ります、北米にては造船所の如き、ヒラデルフイヤを始め其他各所悉く設備を改め、僅に一年にして完全なる船を造り得る設備とし、若かも一度に五十隻の船を造る様になりました、其は一定の形式に鉄材を造り、其を組立てるのですから従来の円みは去りて悉く直線的に造る様になりしは著しき変化であります、材料は全国各工場に精密なる寸法を知らしめ、一定の型に作らしめ、其を集めて組立てるのですから、何百隻と云ふものが立処に出来ます、而して其が悉く小型に非ずして、六七千噸の大なるものもあります、如何にも仕事が機械的にて手早く認められます、琑細のことですが、会社の事務室にて鉛筆を削るにも、小刀を用ふるもの無く、皆鋭利なる鉛筆削を使用して、時間節約と労力節約を注意すると云ふ有様であります。
 某電気会社の食堂の有様を見ましたが、皆電気仕掛で食物が運ばれ品物の値段が定つて随意に好きな物を選ぶことが出来る、ガチガチ音をさせてボーイが食器を運ぶ様な手数は、全く省かれて居るのです、此も皆労銀が高いからの結果で、当時米国にては一人の人を使用するよりは、一万円の機械を買入する方が利益だと云はれて居りました、如何に労銀が高いかが判ります、要するに今後は総ての物価は、材料も元よりですが、主として労銀問題に由て勝を制するか否かと云ふことになるだらふと思ひます、日本も労銀に就ては十分考慮しなければ、世界的競争に打負くるに至るか案じられる次第であります、我県人諸君は率先して此問題に就て講究して置き度いと思ひます、御鄭重なる今夕の会に当りまして、一言御挨拶を申上げます。
 出席者
  主賓 渋沢子爵
     山川博士
   会員
     石川小一郎○他八十四名姓名略ス
 会計報告○略ス

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陸軍大臣山梨半造主催送別晩餐会献立表(DK330009k-0012)
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陸軍大臣山梨半造主催送別晩餐会献立表
(印刷物・金縁)

図表を画像で表示陸軍大臣山梨半造主催送別晩餐会献立表

    献立 大正十年十月五日晩餐   一前菜  一鶏肉清羹鶉卵入  一鯛鰕詰注汁  一鴫赤葡萄酒蒸蔬菜  一牛繊肉蒸焼冷製生菜  一洋薊栗裏漉注汁  一焼氷菓  一雑菓果 




銀行通信録 第七二巻第四三二号・第五一四頁 大正一〇年一〇月 ○東京銀行倶楽部晩餐会(DK330009k-0013)
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銀行通信録 第七二巻第四三二号・第五一四頁 大正一〇年一〇月
    ○東京銀行倶楽部晩餐会
○上略
次で東京銀行倶楽部にては、十月六日午後六時より、同倶楽部会員にして今回欧米を訪問すべき渋沢子爵・串田万蔵・米山梅吉・原邦造及深井英五諸氏を招待し送別晩餐会を開き、食後池田委員長の送別の辞に対し、渋沢子爵・串田万蔵・深井英五氏の答辞あり、次で井上日本銀行総裁・阪谷男爵の演説ありて、午後九時半散会せり、出席者二百余名頗る盛会なりき

東京銀行倶楽部主催送別会献立表(DK330009k-0014)
第33巻 p.192-194 ページ画像

東京銀行倶楽部主催送別会献立表
(印刷物)

図表を画像で表示東京銀行倶楽部主催送別会

  大正十年十月六日(木曜日)   名誉会員 渋沢子爵殿   会 員  串田万蔵殿   同    米山梅吉殿  送別晩餐会   同    深井英五殿   同    原邦造殿            東京銀行倶楽部 


図表を画像で表示東京銀行倶楽部主催送別会献立表

   献立    前菜   濃羹   鯛洋酒蒸注汁   牛繊肉焙焼蔬菜   洋芹煮物注汁   軍鶏蒸焼生菜   氷菓   雑菓果 



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             出席名誉会員        山本直良君(十五)
              男爵 阪谷芳郎殿     広部清兵衛君(広部)
             出席会員(通知順)     山本彦吉君(第十)
             池田謙三君(第百)     成瀬正恭君(十五)
             佐藤密君(加島)      小野幸三郎君(三井)
             古荘四郎彦君(帝商)    稲延利兵衛君(客員)
             巽孝之丞君(正金)     曾我庄三郎君(六十九)
             塩川三四郎君(拓殖)    鼈官谷清平君(明商)
   来賓        伊東愛吉君(正金)     永広真之輔君(第二)
             穂積太郎君(正金)     浜岡五雄君(日本)
  子爵 渋沢栄一殿   池田成彬君(三井)     佐藤得四郎君(朝鮮)
             生田定之君(豊国)     荘田茂三郎君(日本)
     串田万蔵殿   丸山豊太郎君(三井)    佐藤正美君(客員)
             松方巌君(十五)      今井利喜三郎君(三井)
     米山梅吉殿   外山知三君(三井)     最上国蔵君(正金)
             山中勇君(東京山中)    小池国三君(小池)
     深井英五殿   田口忠蔵君(中井)     青木菊雄君(三菱)
             津山英吉君(正金)     森田最中君(拓殖)
     原邦造殿    岩田音次郎君(中井)    岩井重太郎君(客員)
             鈴木島吉君(正金)     村田次之吉君(日本信託)
             山崎良助君(三菱)     小平三郎君(小池)
             小尾悦太郎君(名古屋)   福地慶吉君(村井)
             菊本直次郎君(三井)    金子元三郎君(辛酉)
             石井健吾君(第一)     河野正次郎君(古河)
             岩佐珵蔵君(興業)     石崎健之助君(台湾)
             麻生二郎君(日本)     谷田半君(帝商)
瀬下清君(三菱)     木村清五郎君(七十七)   安田寿也君(報徳)
田中隆吉君(小池)    山田丈太郎君(八十四)   榊原元一君(日本信託)
菊池幹太郎君(三菱)   近藤重三郎君(安田)    井上準之助君(日本)
工藤金三郎君(泰昌)   高橋義夫君(東海)     大原直次郎君(日本信託)
布能平次郎君(鴻池)   柳田栄君(日此谷)     大島三橘君(藤本)
赤間周吉君(中井)    井上徳治郎君(第一)    中島惟孝君(肥後)
佐藤長之助君(尾張屋)  本庄重俊君(第百)     今清水乾三君(両羽)
臼井源吉君(住友)    水越理庸君(拓殖)     中島浜三郎君(東海)
中岡孫一郎君(興業)   井上定次郎君(鉄業)    久宗董君(台湾)
木村雄次君(朝鮮)    鴻池万蔵君(鴻池)     神田鐳蔵君(神田)
岡田光治君(三井)    安西千賀夫君(台湾)    豊田久和保君(小池)
佐々木要一君(報徳)   小倉清男君(第百)     梶原仲治君(正金)
福田秀五郎君(三井)   板倉安兵衛君(興業)    阿部弥三郎君(金原)
山根雅男君(藤本)    浅木兵市君(六十九)    金原巳三郎君(金原)
渋谷保太郎君(藤本)   池川忠次君(神田)     鈴木春君(大阪野村)
川上直之助君(勧業)   山口俊治君(東京山口)   池尾幸一君(帝商)
岡田昌吉君(高砂)    加藤新一君(明治)     浅井佐一郎君(漢城)
佐々木義彦君(台湾)   西脇健治君(西脇)     西村四郎君(中沢)
篠原弥吉男(森村)    桜田助作君(日本)     明石照男君(第一)
竹見儀助君(森村)    吉田源次郎君(東海)    今村繁三君(今村)
出島楽治君(十九)    藤本徳之進君(国民)    杉田富君(第一)
佐藤小一郎君(明商)   渡辺寧祐君(豊国)     河合鉄二君(川崎)
定塚門次郎君(日比谷)  小河原秀雄君(第三)    木下有君(三菱)
相田直吉君(百十三)   榊原亀丸君(左右田)    内山吉五郎君(第一)
木村清四郎君(日本)   青木清太郎君(正金)    浅野繁次郎君(十二)
宇野甚太郎君(第一)   松尾保三郎君(日本信託)  神山昌臣君(三菱)
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丸山英弥君(三菱)    藤田軍太君(勧業)     桑原七兵衛君(鉄業)
田中武兵衛君(田中興業) 河合真一君(高砂)     斎藤虎五郎君(横浜興信)
竹内悌三郎君(安田)   石井祐斎君(客員)     多々良常吉君(田中興業)
志立鉄次郎君(客員)   相沢正悦君(神田)     太田一平君(三十四)
斎藤太郎君(古河)    菊池長四郎君(東海)    鍋倉春彦君(十五)
対馬二郎君(村井)    川島栄三郎君(日本)    児玉謙次君(正金)
迫田七郎君(六十三)   三好丑郎君(住友)     原田虎太郎君(第三)
加藤功君(藤本)     広瀬市三郎君(第一)    門野錬八郎君(三井)
高梨博司君(川崎)    山口吉之助君(正金)    阿部秀太郎君(朝鮮)
二宮峰男君(三井)    洪純一君(日本)      豊間根繁吉君(正金)
尾上登太郎君(第一)   池田文蔵君(第四)     外山伝三郎君(長岡)
山口荘吉君(第一)    竜岡栄吉君(十五)     斎藤恂君(安田)
服部弥太郎君(拓殖)   徳丸公重君(十五)     加集亮二君(日本)
神山徳平君(浅野)    牛尾竹之助君(台湾)    長鋒郎君(第百)
日比谷長太郎君(日比谷) 堀江貞喜君(横浜興信)   久保田勝美君(大信)
山本宗太郎君(第四)   田村基君(横浜興信)    太田団野君(勧業)
中島円吉君(東京渡辺)  内村保君(藤本)      川崎友之介君(川崎)
永井清志君(村井)    若林理君(田中興信)    河合徳兵衛君(麹町)
安部清嘉君(正金)    内藤恒吉君(東京渡辺)   安田弘君(朝鮮)
野々村金五郎君(川崎)  武内金平君(正金)     緒方清君(近江)
藤平純三君(村井)    玉木泰次郎君(第一)    木村久雄君(朝鮮)
峰村千一郎君(近江)   高橋朴平君(森村)     池田貞晴君(神戸岡崎)
宮沢維石君(十九)    岡田儀一君(第二)     江藤得三君(三井)
佐々木慎思郎君(第一)  矢吹敬一君(正金)     見城重平君(三井)
西尾豊君(興業)     高山長幸君(帝商)     渡辺太郎君(横浜興信)
安藤浩君(川崎)     中島忠二郎君(客員)    


銀行通信録 第七二巻第四三二号・第四六二―四六四頁 大正一〇年一〇月 ○渋沢子爵及英米訪問実業団銀行家送別晩餐会演説(大正十年十月六日東京銀行倶楽部に於て)(DK330009k-0015)
第33巻 p.194-197 ページ画像

銀行通信録 第七二巻第四三二号・第四六二―四六四頁 大正一〇年一〇月
    ○渋沢子爵及英米訪問実業団銀行家送別晩餐会演説
                   (大正十年十月六日東京銀行倶楽部に於て)
○上略
      ○渋沢子爵の演説
会長、満場の諸君。斯かる盛大なる送別の宴に列するのは、殆ど余り類例を見ぬ位でございます。亜米利加に参りましたら、大勢寄つた宴会もあらうと思ひますから、其下稽古と思うて、皆様と斯く多数の御会見を深く喜んで御礼を申上げます。
只今座長から私の亜米利加行を送ると云ふ御言葉を頂戴しまして、頗る汗顔の至に堪へぬのでございます。今夕共に此御送別の宴に列する深井君若くは串田君・米山君・原君の如き諸君は是こそ斯かる宴を張つて御送別なさる価値がありますが、私のは所謂太平洋の海に年寄が冷水を飲みに行くと云ふ位の有様で、殊に別段用務を帯びた訳ではございませぬ。例へば軍備縮小とか太平洋問題とか云ふことに何等関係を持つて居る訳でもございませねば、又実業界はもう久しい以前に引退しました為に唯さへ疎いのが更に疎く相成つて、殆ど他人の休戚と云ふやうな有様に今は感じて居ります。斯かる身柄ゆゑに、亜米利加旅行も実に余計な事のやうでございますが、従来日米間の国交に就ては所謂国民の一員として微力を致して居りまして、殊に其初め太平洋沿岸の加州方面又は布哇に参つて居りまする我同胞に対して種々なる
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注意を与へ居りますが、年を重ぬるに従つて其紛糾が増すやうに覚えます。丁度昨年の冬の例の国民投票からして農業に脅威を受けたことなどは、余程将来に攻究してやらねばならぬかのやうに思ひます。蓋し長年経つて居ますから内地の人が左様に必配せぬで宜いと或は言ふかも知れませぬが、日米の間の紛紜は根源はどうも彼処に在るやうに思ふ。若し追々に困難が重つて参りますと、益々好ましくない事が聞えるやうになりはせぬかと憂慮するのでございます。私共左様に細かい事実は存じませぬけれども此「イニシエチーヴ・レフェレンダム」が防ぎ得なかつたならば、其善後策はどうか及ばずながら攻究して見たいと思うて居りましたのであります。一方に又亜米利加の商工業若くは政治界の人々が段々国運の進歩に伴うて、東洋に手を張つて来ることも駸々たる勢で進んで参ります。それがため或は我極東に色々な事業のことで衝突を惹起すと云ふことも免れぬのであります。其事に就ては御集りの皆様の御事情に就ても、或る場合には多少の衝突と云ふまでもございませぬでも種々な事柄を生ずるであらうと思ひます。此処に御列席の日本銀行総裁などは此事に就ては種々御心配をなされて居らるゝやうであります。お隣りに対する事業の発展に就ては、成るべく両国即ち我帝国と亜米利加とで喧嘩腰にならぬやうにしたいと思ひましても、それは其方が我儘だとか、是は此方に権利があるとか云ふやうな有様が時々に生じて参ります。前に申す意味の関係と同時に、又一方商工業の関係も彼に行過ぎる所はどうか防ぎたうもございますし、我のまだ足らぬ所は是も注意を致したいやうに思ひまして、所謂年寄の婆心、爾来種々心配致して居りますけれども、不幸にして何等効果もございませぬ。諸君もお聞及び下さる通り、此銀行倶楽部を拝借して昨年の春は両度に渡つて、或は加州若くは紐育両方面の有力なる吾々同志とも申すべき、唯々亜米利加の都合ばかりを論ずる人人でない、又吾々も日本の便宜ばかりを主張するのではなく、所謂虚心坦懐、相共に此倶楽部に於て協議会を開きまして、是等打寄つた人人では、相当な協議が調つたやうでありますけれども、蓋し職もなし権もなし、詰り空談に終つたと謂はざるを得ぬので、昨年の十一月の「レフェレンダム」は通過してしまつた、爾来の有様も敢て険悪と言はんでも、面白い事はどうもございませぬのであります。右等のことからして私共の組立つて居る日米関係委員会と云ふものがあります、此関係委員会では、相当の機会に誰か代表者が一人行つて、曩に来て呉れたお人に対する答礼もせねばならぬし、又前に申す移民の現況も能く視察して、若し果して事実困難があるならば善後の策も講じたいと云ふことは、昨年の冬頃から申合ひ来つたことでございます。諸君も御承知の通り、民主党大統領が変つて共和党に移つた、此政府の更迭から何かな模様を見る必要があると云ふので、聊か延べ居りましたが段々時日も経過して参るので、孰れ行かねばなるまいかと思つて居る中に、丁度先々月頃でございましたか、此軍備縮小の問題と太平洋会議と云ふことが御発表になつたのであります。それに対して吾々共即ち日米関係委員会が大に尽すべき抱負を持つて居る訳ではありませぬけれども、既に前に申す通り、是までの行懸りから行かねばならぬ
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と感じて居つた所に、左様な大問題が其処へ横はる以上は、殊に太平洋会議と云ふからには、申す迄もなく日米間の面倒が其処に解決さるべき運命を生じたのでございます、果して然らば長く心配致しました吾々関係委員は、仮令旗振になりとも此処に出て多少の注意を加へるのは、事を尽すの親切、又所謂国家に対する奉仕と思ひまして、玆に日米関係委員会は誰ぞ一人行くが宜からうと云ふ相談が決りまして、私が聊か仲間中で心配を余計致して居りまする旁々、自身が出るを相当と思うて、お役に立たぬと思ひながらも先づ其労を人に頼むよりは一番私が閑の躯ゆゑに、忙がしいお方は内に働いて戴いて、閑人が仮令効能がないにもせよ出たら宜からう、斯う思うたのでございます。右様の都合でありまして、私共は甚だ消極的旅行で決してえらい抱負を持つて居る訳ではございませぬ。冀くは此加州若くは布哇の移民に対して、将来斯くしたら面倒が減じ得られやう、云ふことは精々考究して参つて、或は其筋にも建議し又社会にも訴へて、出来得べきだけ方法を講じたいと思います。但し是は少し雲を掴むやうな話で、果して良法名案が其処に生ずるや否や、決して御土産として申上げる程の抱負は持つて居りませぬけれども、心に思ふ限りを尽して見たいと思ひます。又昨年二度に日本に来られたお人々に対しては、どうぞ叮嚀に答礼もし情意も能く通じて、尚ほ向後両国の親善を進めて行かうには、仮令不足の事があるにもせよ不満足は不満足として、更に如何にしたら宜からうかと云ふことを、是も真心を開いて協議いたしましたならば、多少得る所がありはせぬかと思ふのであります。而して末段に申上げた軍備制限とか太平洋会議とか云ふ事に就きましては、私共の期する所は到底微力何等為し得るとは思ひませぬけれども、さらば左様に為し得ぬことを望むかと云ふと、否、決してさうではございませぬ。此会議に完全に効果を奏させたい。是はもう諸君と共に深く希望して已まぬのでございます。私が閑散な身柄で、殊に経済界の事も甚だ疎くなつて居りますから、斯様な事を申すのは所謂遼東の豕を説くやうなものでありますけれども、併し今日の国家の力として、斯の如き軍備を是で満足だとは諸君も思召しては居らぬでございませう。否、若し此姿で進んで行きましたならば、或は国運は傾くとまで言ひたいのであります。世界共に軍備の力を張ることには相競うて進む有様であるから、我帝国ばかりが予算歳出の半分を荷ふと云うて苦情を言うては或は愚痴に聞えるかも知れませぬが、併し今日の我国の有様を考へますと、斯の如き不生産費用が段々に増して行きますれば、一体の生計の有様、職工賃銀の高さ、能率の甚だ低い所、総て物事が逆比例に相成つて居りますから、其れが一体に明かに証拠に現はれるのは海外貿易の輸出入でございます。此輸出入が、私は数字を詳しく覚えませぬが、必ず数億の輸入超過になるであらうと想像します、敢て我帝国ばかりが困難とは申しませぬけれども、さうして増した軍備はどう云ふ事をするか、力が増せば遂に其力を試したくなると云ふことは既往に徴すると何時もある例であります。軍備に頼つて平和を保つと云ふ言葉が能くありますが、軍備を進めて即ち進み進みした暁は平和ではなく、禍乱の生じたのはもう数年前の有様が歴然と証拠立てゝ
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居ると申しても宜からうと思ふのであります。軍人の話を聴きますと亜米利加が斯様にするから此方も斯うしなければならぬと言ふ、向ふは日本が斯うするから己の方も斯うせねばならぬと言ふ。俗に申すイタチゴツコで、遂に仕舞には一本参つて見やうと云ふやうなことに成行くは、小供の戯ではないが、国家の機運と云ふものはどうもさうなりさうに私共恐れるのであります、吾々日本国民全体の議論が決して左様ではないと云ふことは、明言し得られると思ひますから、少なくとも此にお集りの方々は今私が申上ぐることに多少の差はあるか知らぬが、大体に於て全く同論と思ひますので、私は国民の声が日本は平和である、軍備縮小を望むと云ふことを諸君の御代表として亜米利加に行つて大声叱呼しやうと思つて居ります。又此太平洋会議のことも何をどうして彼を斯うすると云ふことは私共の微力申上げ得ることは出来ませぬけれども、願くは前に申します通り、従来の紛糾を玆に総決算を著けて貰ひたいものと思ふのでございます。私は常に申して居ります、他に望むことを満足に達しやうと思ふならば、成べく自ら望むことを減ずるより外ないのである。言葉を換へて申しますると、どうしても国際上の徳義を重んじ、敬譲の念を厚うするのが、即ち他の紛糾を防ぐの大原因である。さうしたならば我ばかりが便利不幸に陥ると云ふ或は虞があるか知れませぬが、決してさうで無くして譲る者が必ず始終損をすると云ふことは、先づ世の中には寧ろ例がないと申上げて宜からうと思ふ、国際上の関係は唯々個人づくの俗に申すヘボ道徳に安んじて居られぬかも知れませぬが、私は反対に今日の国際間は殆ど道徳を無視して居ると申上げたい位でございます。若し果して此に相集つた御方が、真正なる道徳を思うて此面倒を解かうと考へたならば、此太平洋問題も氷の朝日に会うた如くに充分融けるに相違ないと思ふのでございます。職もなければ地位もない、唯々慰み旅行の私が斯かる大会に出て左様な事を申上げ得る場合はございますまいけれども、心に御互思ふ事は多少感通せぬとは言へぬだらうと思ひますから、私は少くも平日御懇意に願つて居る此銀行者諸君も、必ず私の希望と全く御一致であらうと思ひますので、斯る御後援を持つたことを頼りとして、或る機会があつたら其事に就て充分亜米利加人に徹底的の言論を為したいと思ふのでございます。蓋し其結果は御土産として持つて帰ることは六ケ敷うございませう。其土産は寧ろ当路の御方に譲りますが、精神だけは敢て当路の方に譲らぬ覚悟でございますから、是だけは御諒承を願ひたうございます。今夕斯かる盛宴に列したことは実に望外でございまする。尚序ながら長い間御懇命を蒙つた御同業者の皆様が斯様に段々年一年に御多数になつて、此食堂が満員を見得られますのは、私は此上もない喜ばしい事に存じます。斯く申すも少しもう年を取つた為に、社会の事に後れたと御笑がありませうが頗る喜びを以て此御送別の宴を感謝致すのでございます(拍手)


(日米協会)邦文記録 第弐号(DK330009k-0016)
第33巻 p.197-198 ページ画像

(日米協会)邦文記録 第弐号 (日米協会所蔵)
大正十年度
  第二十八、華府会議ニ関聯シテ渡米スル会員其他送別午餐会
 - 第33巻 p.198 -ページ画像 
一、時日 大正十年十月八日午後零時三十分
二、場所 東京銀行倶楽部
三、司会者 金子会長
四、出席者 百拾八名(晩午餐会綴参照)
五、正賓 公爵 徳川家達氏         子爵 渋沢栄一氏
     男爵 神田乃武氏            大橋新太郎氏
        添田寿一氏         男爵 中島久万吉氏
        串田万歳氏            阪井徳太郎氏
        門野重九郎氏           南条金雄氏
        米山梅吉氏            深井英五氏
        藤原銀次郎氏           頭本元貞氏
   海軍大佐 野村吉三郎氏           馬越幸次郎氏
        持田巽氏
  陪賓 アール・ビー・トヰスラー氏 ジョセフ・イー・シャーキー氏
     エドワード・ベル氏           小畑久五郎氏
六、演説 午餐後左ノ順序ニテ演説アリタリ、左ニ其ノ大要ヲ挙グ
  金子会長 近ク新任米国大使ヲ迎ヘ比島総督ウツド将軍ヲ歓迎シタル本会ハ、更ニ本会ヲ開キテ、華府会議ニ関聯シテ米国ニ赴カルヽ徳川公爵一行、渋沢子爵一行及英米訪問実業団諸氏ヲ送ルノ光栄ヲ有ストテ、先ヅ華府会議ノ歴史的ニ重要ナル理由ヲ挙ゲ、其成果必ラズ重大ナルモノアルベク、之ニ参列スル諸氏並ニ之ニ関聯シテ米国ニ赴カルヽ諸氏ノ労ヲ多トシ、諸氏ノ健康ヲ保持シ大成功ヲ収メテ帰来セラレンコトヲ切望ストテ、来賓一同ノ為メニ祝杯ヲ挙ゲタリ
  徳川公爵 不肖図ラズモ全権委員ノ一人ニ挙ゲラレタルガ、未ダ嘗テ実際政治運用ノ任ニ当ラズ、又外交官タリシ経歴モナク、何程ノコトヲナシ得ベキヤヲ知ラザルモ、敢テ最善ノ努力ヲ国家ノ為メニ尽サント欲ス、更ニ出先ノ者ノ成功スルヤ否ヤハ、本国ニ居ラルヽ人々ノ後援如何ニ依ルコト頗ル多ケレバ、有力ナル本会々員諸氏ノ援助ヲ吝マレザランコトヲ切望ス
  中島男爵 英米訪問実業団ヲ代表シテ敢テ一言ストテ、欧洲大戦後非常ノ変化ヲ来セル経済関係、華府会議ノ結果更ニ幾分ノ変化ヲ生スベキ経済関係ヲ、吾人ノ憂慮措ク能ハザル華府会議ヲ機トシ、各本国ニ就キ諸方面ニ亘リテ調査ヲ遂ゲ、以テ本邦実業界ノ発展ニ寄与スル処アランコトヲ欲ス
  渋沢子爵 八十三歳ノ老齢ヲ以テ第四回ノ渡米ヲ試ミルコト、老人ノ冷水ニ過ギズ、華府会議ノ重大ナルハ会長ノ指摘セラレタル処ノ如クニシテ、老人頗ル憂慮ニ堪ヘズ、唯本国ニ居リテ彼是心配スルヨリハ、会議ノ地ニ於テ実際ノ経過ヲ知リ得ル方心配ノ幾分カ尠カルベキヲ思フテノコトナリ、全権委員ヲ実体トスレバ、余ハ影ノ如キモノナリ、影ハ実体ノ動ク儘ニ動ク、素ヨリ何等期待シ得ルモノナラズ、若シ夫レ移民問題ニ至リテハ老人ノ夢寐忘ルヽ能ハザル処ニシテ、老齢或ハ米国ノ土トナルモ、其ハ素ヨリ期スル処ナリ
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中外商業新報 第一二七七七号 大正一〇年一〇月九日 日米協会別宴 全権実業団招待(DK330009k-0017)
第33巻 p.199 ページ画像

中外商業新報 第一二七七七号 大正一〇年一〇月九日
    日米協会別宴
      全権実業団招待
日米協会にては、会員にして全権委員・実業視察団員等として近日英米に向ふべき左記諸氏を、八日午後一時丸の内銀行倶楽部に招待し、午餐を共にせるが、席上金子会長の挨拶あり、徳川公・渋沢子・中島男の謝辞あり、同二時半散会せり、当日出席者左の如し
 ▽来賓 徳川公・渋沢子・中島男・神田男・添田・大橋・串田・堀越・阪井・南条・藤原・米山・門野・持田・深井・馬越諸氏
 ▽主人側 金子子、大倉・阪谷・瓜生・目賀田各男、マツキム僧正バーネット大佐・ゲヱリー氏・シヤーキー氏


中外商業新報 第一二七七八号 大正一〇年一〇月一〇日 渋沢子爵送別会(DK330009k-0018)
第33巻 p.199 ページ画像

中外商業新報 第一二七七八号 大正一〇年一〇月一〇日
    渋沢子爵送別会
実業協会は、九日正午より帝国ホテルに於て協会長渋沢子爵、及評議員添田博士・持田博士の渡米送別会を開きたるが、出席者は主賓たる右三氏の外、大倉・藤田各男爵、和田・浅野の諸氏を始め、協会関係者三十名に及び二時散会せり


中外商業新報 第一二七七九号 大正一〇年一〇月一一日 渋沢子爵送別会(DK330009k-0019)
第33巻 p.199 ページ画像

中外商業新報 第一二七七九号 大正一〇年一〇月一一日
    渋沢子爵送別会
日米関係委員会は、十日午後六時丸の内銀行倶楽部に渋沢子爵一行の送別会を開き晩餐を共にせり


中外商業新報 第一二七八〇号 大正一〇年一〇月一二日 首相邸晩餐会(DK330009k-0020)
第33巻 p.199 ページ画像

中外商業新報 第一二七八〇号 大正一〇年一〇月一二日
    首相邸晩餐会
      渋沢子等招待
原首相は、十一日午後六時より永田町首相官邸に今回日米協会○日米関係委員会の誤より渡米する渋沢子爵・添田寿一両氏を招待し、陪賓として井上準之助・梶原仲次・瓜生男爵・藤山雷太・阪谷男爵・目賀田男爵・森村男爵、並に各省大臣出席晩餐会を開催したるが、席上原首相の挨拶あり、之に対し渋沢子爵の答辞あり、同八時過散会せり
   ○栄一ノ答辞筆記ヲ欠ク。


日本倶楽部主催送別午餐会献立表(DK330009k-0021)
第33巻 p.199-200 ページ画像

日本倶楽部主催送別午餐会献立表
(印刷物)

図表を画像で表示日本倶楽部主催送別午餐会献立表

       献立   一、伊勢海老に鯖の酢の物   一、お吸物   一、鳥の軽る揚に松茸飯   一、洋うどに花野菜   一、牛のひれ蒸しやき   一、お菓子、果物、珈排        大正十年十月十一日 日本倶楽部午餐会 



 - 第33巻 p.200 -ページ画像 
来賓会員(イロハ順)      朝倉文三君       沼田政二郎君
    原邦造君        服部金太郎君      清水釘吉君
    堀越善重郎君      内藤久寛君       松村貞雄君
    大橋新太郎君      倉知鉄吉君       神谷忠雄君
    添田寿一君       棟居喜九馬君   子爵 岡部長職君
    藤原銀次郎君      杉本恵君        日下部弁二郎君
    深井英五君       島村浅夫君       相馬半治君
    西園寺八郎君      有賀長文君       吉田丹治郎君
 子爵 渋沢栄一君       山科礼蔵君       井上辰九郎君
                石原健三君       牧野元次郎君
来会会員(申込順)       永田秀次郎君      土佐孝太郎君
    野々村金五郎君     中上川次郎吉君     森弁治郎君
    内村達次郎君      藤本徳之進君      永富雄吉君
 男爵 阪谷芳郎君       中村桂二郎君      夏秋十郎君
    松木鼎三郎君      石塚英蔵君       久米金弥君
    小池国三君       植村澄三郎君      阪本一君
    中山成太郎君      山本留次君       国沢新兵衛君
    水川復太君       飯田邦彦君       白岩竜平君
    増田義一君       木村清四郎君      長岡外史君
    石川慎一君       田中猪太郎君      三浦弥五郎君
    作田高太郎君      佃一予君        岡野悌二君
    飯田藤二郎君      本郷房太郎君      村井貞之助君
    金子元三郎君      長鋒郎君        荒井賢太郎君
    山本直良君       井上角五郎君      佐々熊太郎君
    加藤正義君       南弘君         秋山襄君
    佐藤寛君        宮内二朔君       近藤賢二君
    江木翼君        窪田文三君       昌谷彰君
    山成喬六君    男爵 瓜生外吉君       有島健助君
    川瀬元九郎君      湯村元臣君       安田柾君
    山田真吉君       幡生弾治郎君      竹内直哉君
    橋本圭三郎君   男爵 森村開作君       藤瀬政次郎君
    菊池武徳君       春田茂躬君       中井三之助君
    井上孝哉君       菅原通敬君       藤島範平君
    高橋貞三郎君      相馬永胤君       小杉辰三君
    仁井田益太郎君     清野長太郎君      水野竜君
    上山満之進君      伊藤乙次郎君      佐藤鋼次郎君
    山根正次君       山口宗義君       飯田延太郎君
    峰岸繁太郎君      曄道文芸君       竹田常治君
    浅田徳則君       中条精一郎君      堀内三郎君
    神田正雄君       大橋光吉君       寺野精一君
    白石元治郎君      朝田良彦君       田中十熊君
    高木陸郎君       松木幹一郎君      大谷嘉兵衛君
    花岡敏夫君       生田定之君       斎藤力君
    藤野正年君       福島行信君       堀悌三郎君
    永橋至剛君       檀野礼助君       岡野敬次郎君
    岡崎正也君       高根義人君       高橋要治郎君
    河東田経清君      斎藤恂君     男爵 松井慶四郎君
    小川一真君       藤原俊雄君       久保田勝美君