デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
4款 第四回米国行
■綱文

第33巻 p.302-318(DK330014k) ページ画像

大正11年1月10日(1922年)

是日栄一、サン・フランシスコヲ発シテ帰国ノ途ニ上ル。十六日ハワイニ寄港シ、十九日出帆、三十日横浜ニ上陸シ、直ニ帰京ス。


■資料

竜門雑誌 第四〇七号・第四四―四六頁 大正一一年四月 ○渡米日誌 青淵先生(DK330014k-0001)
第33巻 p.303-304 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第四四―四六頁大正一一年四月
    ○渡米日誌
                       青淵先生
○上略
 一月十日(火) 正午アレキサンダー、リンチ、ヘール、セスノン、矢田総領事及牛島の諸氏を始め、多数の日米の知友に送られて米船ヴエンチラス号に乗込み、午後二時出帆ホノルルニ向ふ。
 一月十一日(水) 船中
 一月十二日(木) 船中
 一月十三日(金) 船中
 一月十四日(土) 船中
 一月十五日(日) 船中
 一月十六日(月) 朝九時ホノルルに入港す、頭本氏を始め知事代理矢田公使、アサートン、原田・奥村・毛利其他多数の出迎を受け、モアナ・ホテルに投宿す、小憩の後、知事フアーリントン氏を政庁に訪問して、子爵よりの来意を陳ふ、知事は子爵の労を謝し、正午ヂリンハム氏浪の花別荘にて午餐の饗応を受け、子爵及矢田氏の答辞あり、午後ヌアヌ基督教青年会に到り、邦人青年男女に向つて子爵及添田氏より訓話あり、同五時矢田公使同夫人を訪問し、同七時カントリー・クラブに於ける知事フアーリントン氏主催の晩餐会に臨み、主人の挨拶に対し、子爵より謝辞を述べらる。
 布哇の記事は頭本氏より詳細に報告せらるゝを以てそれに譲り、大要のみを略記す。
 一月十七日(火) 朝原田氏来談、午前九時アサートン氏の先導にてパアインアップル及砂糖耕地並に其製造所及之等に従事せる邦人労働者の生活状態を巡視し、オアフ砂糖会社支配人トムソン氏の役宅にてテンニー氏以下糖業界の有力者と共に午餐の饗を受け、食後日本労働者に関し種々の意見を交換せり、夜はモアナ・ホテルに於ける矢田公使主催の晩餐会に臨み、フアーリントン知事、ヂーン大学総長、コーク高等法院長其他諸氏の卓上演説あり、子爵及添田・頭本両氏よりも答辞あり、終て矢田・原田・毛利等諸氏と会し在留同胞の将来就中曩に騒擾ありしストライキ前後策に就き深更まで凝議する所ありたり。
 一月十八日(水) 午前八時半より布哇大学ミルス学院を参観す、ミルス学院に於ては子爵より多数の学生に向つて訓話あり、午前十時ヌアヌ基督教青年会館に於て布哇労働者組合代表者と会し、日本労働者の実況談を聴取す、正午同所にて諸人種会同午餐会あり、日本・支那朝鮮及ヒリツピン人等の演説あり、子爵及添田氏よりも希望を述べ、午後二時婦人青年会館に赴き、日本婦人に対し子爵及添田氏より訓話をなし、同四時より「ミツシヨン・メモリアル・ホール」に於ける邦字新聞雑誌社聯合主催の大演説会に臨み、多数来会せる邦人に向つて子爵及添田氏の講演あり、同六時よりパシヒイツク・クラブに於けるアサートン氏の晩餐会に臨み、知事、フリアー、アレン、ヂーン氏以下多数有力者と共に二重国籍、日本語新聞、教育方針並経費支弁法、写真結婚、無線電信料低減、労資協調等に関し意見を交換し深更に及
 - 第33巻 p.304 -ページ画像 
べり、尚子爵は居残りてアサートン氏と対日本人労働者協調策に付き懇談せられたり。
 一月十九日(木) 午前九時半、正金・住友・浅野各銀行及東洋汽船の各支店長と会談、続て日本人商業会議所会頭・同副会頭・同書記長と会見の後、ヌアヌ青年会々長・同主事の来訪を受け、午前十一時知事、副官同伴来訪す、前日の往訪に答ふる為めなり、正午ローヤル中学校一覧、今朝コレヤ丸にて寄港したる徳川公爵一行と合し、コンマーシヤル・クラブに於けるパン・パシフイツク協会主催の午餐会に臨みフアーリントン氏司会の下に、徳川公・子爵・頭本氏・神田男・矢田氏・添田氏等の卓上演説あり、夫より子爵には特に浅野昼夜銀行を一覧せらる、午後二時矢田公使の徳川公並子爵の為に催されたるレセプシヨンに臨み、多数の人々に別を告げ、午後五時コレヤ丸に乗込みたり、矢田公使、アサートン氏等日米友人多数の見送りを受け、同六時故国に向て出帆す。
 一月二十日(金)  船中
 一月二十一日(土) 船中
 一月二十二日(日) 船中
 一月二十三日(月) 船中○日附消滅スル故誤記ナラン
 一月二十四日(火) 船中
 一月二十五日(水) 船中
 一月二十六日(木) 船中
 一月二十七日(金) 船中
 一月二十八日(土) 船中
 一月二十九日(日) 船中
 一月三十日(月)  横浜に帰着
        以上


渋沢栄一 日記 大正一一年(DK330014k-0002)
第33巻 p.304-305 ページ画像

渋沢栄一日記 大正一一年 (渋沢子爵家所蔵)
一月十八日 半晴 暖
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、此日ハ当地ニ開店セル本邦大商店ノ支店主任者来リテ営業ノ景況ヲ説明セラル、又商業会議所役員等来話ス、依テ余ノ来訪セル理由ヲ告ケ各自ノ努力ヲ奨励ス、当地大学ニ留学セル女学生二名来リテ留学ノ意見ヲ告ケラル、午前○以下記事ヲ欠ク
一月十九日 半晴 暖
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、今日当地ヲ発シテコレヤ丸ニ便乗帰朝ノ筈ナレハ、朝来原田助氏・奥村多喜衛氏来リ、朝飧ヲ共ニシテ各自ノ関係事務ニ付、将来ノ事ヲ談ス、原田氏ニハ帰京後日米関係委員会ノ決案ニヨリ更ニ同氏ノ尽力ニ待ツヘキ事ヲ約シ、奥村氏ハ従来ノ経営ヲ専心継続スヘキ事ヲ訓示ス、其他告別ノ為メ来訪者頗ル多シ、布哇知事モ亦自ラ来リ告別ス、午前十一時一学校ニ抵リ生徒ノ運動ヲ一覧ス、更ニ一倶楽部ニテ開催ノ汎パシヒツク協会ニ出席シ、徳川公爵カ華府ヨリ帰路臨席セラルルニ会シ、共ニ一場ノ演説ヲ為ス、但午飧ノ食卓ニ於テナリ、畢テ矢田氏ノ接見会ニ出席シ、来会者数百名ニ握手ス、午後五時頃コレヤ丸ニ抵リ船室ヲ定ム、本船ニ来リテ送
 - 第33巻 p.305 -ページ画像 
別スル者頗ル多シ、午後六時出帆ス
夜ニ入リテ船中旅行ノ人トナル、航行頗ル平静ナリ
一月二十日 曇 暖
午前七時半起床、洗面シテ衣服ヲ整ヘ、甲板上ヲ散歩ス、風波静穏ナラサルモ、船体ハ動揺少キニヨリテ、船室外ニ於テ行動スルヲ得ル
桑港以来日記ノ編成ヲ怠リタルニヨリ、今日ヨリ補修ニ務ム、又各種ノ関係書類ヲ整理シテ帰京後報告書ノ作成ニ便スル為メ、之レカ調査ニ着手ス、朝飧畢テ夜飧ニ至ルマテ本船動揺少キ時、一行共ニ勉強スヘキ事ヲ訓示ス
夜飧後本船ノ船員等開催ノ相撲アリ、甲板上歓声喧シ、十一時就寝
一月二十一日 晴 軽暖
午前七時起床、入浴シテ衣服ヲ整ヘ、甲板上ヲ一巡シテ船室ニ於テ茶ヲ喫ス、後朝飧ヲ食ス、後書類ヲ調査シ、添田博士ヨリ提出セル華府日記及加州移民善後策ノ原案ヲ一覧ス、又旅行中各種ノ関係書類ヲ整理ス、午飧後モ之ヲ継続ス、蓋シ帰京後報告書作製ノ準備トシテ、一行各其分担ニ応シテ整理ニ勉ムルナリ、夜飧後甲板上ニ舞踏会アリ、一覧ノ際東京阪谷男ヨリ電報到着シテ、小日向徳川公爵ニ関スル凶聞アリ、依テ同船ノ徳川公ニ内話セント欲セシモ、既ニ就寝後トテ明朝ヲ口約シテ尚其電文ヲ反覆熟読ス、夜十一時過読書中ニ就寝ス
一月二十二日 晴 軽暖
午前七時半起床、入浴シテ後茶ヲ喫シ、昨夜徳川公爵ト口約セシ東京阪谷男ヨリ来報ノ電信ニ付種々ノ談話ヲ為ス、公爵ハ昨日朝ヨリ本船事務長ヨリ内聞セシトノ事ナリキ、畢テ朝飧ヲ為ス、食後日記ヲ編成ス、此日日曜ナルニヨリ、船室ニ於テ小崎牧師ノ説教アリ、午飧後小崎氏等ト維新当時ノ事ヲ談話ス
   ○一月三日ヨリ一月十七日マデ、及ビ一月二十三日以後ノ栄一日記ヲ欠ク。


渋沢栄一電報 フランク・エー・ヴァンダーリップ宛一九二二年一月一〇日(DK330014k-0003)
第33巻 p.305 ページ画像

渋沢栄一電報 フランク・エー・ヴァンダーリップ宛一九二二年一月一〇日
         (フランク・エー・ヴァンダーリップ氏所蔵)
            (COPY)
        WESTERN UNION TELEGRAM
        FROM SAN FRANCISCO CALIF
               January 10, 1922.
Frank A Vanderlip,
  Hotel Plaza, New York, N. Y.
TODAY AS WE ARE ABOUT TO START FOR HOME CONCLUDING OUR JOURNEY THROUGH YOUR COUNTRY WE THANK YOU MOST HEARTILY FOR THE UTMOST CORDIALITY WHEREWITH YOU RECEIVED US DURING OUR STAY IN YOUR CITY AND WISH YOU BEST OF HEALTH
                 SHIBUSAWA


(フランク・エー・ヴァンダーリップ)電報控 渋沢栄一宛一九二二年一月一二日(DK330014k-0004)
第33巻 p.305-306 ページ画像

(フランク・エー・ヴァンダーリップ)電報控 渋沢栄一宛一九二二年一月一二日
         (フランク・エー・ヴァンダーリップ氏所蔵)
 - 第33巻 p.306 -ページ画像 
            (COPY)
         WESTERN UNION WIRELESS
                  January 12, 1922.
Viscount Shibusawa,
  Steamer Ventura off San Francisco.
  Thank you sincerely for your cordial telegram. I am filled with great regret that I was in Europe when you arrived and that matters so shaped themselves that I could do so little in entertaining you. My memory of your limitless hospitality is keen. I hope your trip home will in every way be pleasant and I know it must be filled with satisfaction because of the good work you are constantly doing. Affectionate regards from Mrs. Vanderlip and myself,
                 Frank A. Vanderlip


渋沢栄一書翰 フランク・エー・ヴァンダーリップ宛一九二二年一月一〇日(DK330014k-0005)
第33巻 p.306 ページ画像

渋沢栄一書翰 フランク・エー・ヴァンダーリップ宛一九二二年一月一〇日
         (フランク・エー・ヴァンダーリップ氏所蔵)
             (COPY)
                San Francisco, California.
                   January 10, 1922.
Mr. Frank A. Vanderlip,
  Scarborough-on-Hudson, New York.
Dear Mr. Vanderlip :-
  On the eve of departure from your shores, let me tender to you my heartfelt appreciation of all the kindness and courtesy you favored me and my party with when we visited your city.
  It has, indeed, been my great good fortune to have been able to conclude my fourth visit to your great country under circumstances so auspicious in the interest of peace and good understanding between our nations. Let me hope that the new era of mutual confidence inaugurated by this historic Conference will be productive of untold benefits to all mankind.
  Limiting ourselves to the object we have been striving for and being stimulated by the golden opportunity afforded by the improved popular sentiment on both sides of the Pacific, I feel more than ever the necessity of our further efforts for the betterment of the American-Japanese relations.
  With best regards to you and Mrs. Vanderlip, I remain,
             Very truly yours,
                  E. Shibusawa.
   ○右ト同文ノ書翰、同日附ヲ以テ、ピツツバーグノハワード・ハインズ及ビコネテイカツト州サウス・マンチエスターノチヤールズ・チェニーニ宛テ発信サレアリ。右ニ対スルチェニーノ返翰ヲ次ニ掲グ。
 - 第33巻 p.307 -ページ画像 

(チャールズ・チェニー)書翰控 渋沢栄一宛一九二二年一月二三日(DK330014k-0006)
第33巻 p.307 ページ画像

(チャールズ・チェニー)書翰控 渋沢栄一宛一九二二年一月二三日
                (チャールズ・チェニー氏所蔵)
              (COPY)
                    Janurary 23, 1922.
Baron E. Shibusawa,
  Tokyo, Japan.
Dear Baron Shibusawa:
  I have your two letters of January 10, mailed from San Francisco just before sailing.
  I feel that your Mission to our country has been of very material value, coming, as it did, just at the time of the Washington conference. It was also very fortunate that the visit of the Japanese Industrial Commission came at the same moment. All three of these parties have had the same aim in view, looking toward the establishment of friendship and stability as the basis of our international relationships, both in political and trade matters.
  I am sure that each one has been able to assist in the accomplishment sought by the others, and that altogether the results have been very helpful and promise to yield splendid fruit in the future. I have a strong hope that some of the best results of these visits will grow out of the return home to Japan of those who have been here, with a new understanding of the purposes and sympathies of America, so that you will each be able to carry to your frineds, and through them, to your Nation, a more lively understanding of those things which are at the bottom of our thoughts and our activities. Nothing creates so sound a foundation for co-operation and friendliness as a clear understanding each of the other.
  I believe that there is nobody in Japan who has done more than you have to build up an era of understanding and friendship between our two Nations. Americans, as well as Japanese, owe you a lasting debt of gratitude, and best of all, you yourself are entitled to great satisfaction in reviewing what you have accomplished.
  I wish to assure you that it has been a great pleasure to welcome you here and that you carry back with you our confidence and our respect.
           Yours very sincerely,
             (Signed) Charles Cheney.


時事新報 第一三八三六号大正一一年一月二三日 渋沢子歓迎会(ホノルル国際社廿日発)(DK330014k-0007)
第33巻 p.307-308 ページ画像

時事新報 第一三八三六号大正一一年一月二三日
    渋沢子歓迎会(ホノルル国際社廿日発)
 - 第33巻 p.308 -ページ画像 
矢田総領事は渋沢子一行の為めに歓迎宴を開き、添田寿一博士・頭本元貞氏、其他布哇在留知名の人士之に列せり、渋沢子は述べて曰く、今回の華盛頓会議は異常の成功を収めたるが、加州及び布哇の移民問題は未解決の儘にて、之には全然触るゝ所なかりき、余は是等の問題が日米相互の諒解に依つて之を解決し、疑問の余地を残さゞらんことを望むと、添田博士は述べて曰く、軍費の節約は各国に於て莫大の利益たり、余は米国上院が四国協約に批准せんことを期待すと、一行は徳川公と共に明日コリア丸にて日本に向ふ


時事新報 第一三八四〇号大正一一年一月二七日 公子歓迎 布哇に於て(DK330014k-0008)
第33巻 p.308 ページ画像

時事新報 第一三八四〇号大正一一年一月二七日
    公子歓迎
      布哇に於て
一月二十五日ホノルル発着電に依れば、同地に於て一月十九日汎太平洋同盟会主催の下に、徳川公及渋沢子の為め午餐開催、県知事主人として歓迎の辞を述べ、之に対し徳川公は華府会議が東洋並に世界平和の樹立に偉大なる貢献を為したることを述べ、渋沢子は家屋は基礎のみに依つては完成せられず、華府会議は平和の基礎を定めたるが、愈世界の平和を確保するは、今後関係各国の実行的誠意に負はざるべからずと述べたり、尚ほ同日午後我総領事主催の下に、官邸に於て公爵及子爵の為めアツト・ホームを催したるが、来会者日米人約八百名頗る盛会なりしといふ


東京朝日新聞 第一二八〇二号大正一一年一月二七日 コレア丸無電 二十五日鈴木特派員発 帰航中の徳川全権 渋沢さんも大元気で 襯衣一枚になつて船中揮毫(DK330014k-0009)
第33巻 p.308 ページ画像

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時事新報 第一三八四一号大正一一年一月二八日 渋沢子元気 コレア丸より(コレア丸二十五日発無線電信)(DK330014k-0010)
第33巻 p.308-309 ページ画像

時事新報 第一三八四一号大正一一年一月二八日
    渋沢子元気
      コレア丸より
(コレア丸二十五日発無線電信)渋沢子爵及び一行は、ホノルルよりコレア丸に便乗したるが、一同元気旺盛なり、子爵は一等船客に対して一場の講演を為
 - 第33巻 p.309 -ページ画像 
したり、海上浪なく平穏なり


中外商業新報 第一二八八八号大正一一年一月二八日 徳川全権・渋沢子 横浜入港は明後日 珍しく平穏な航海を続けつつありとコレヤ丸から無電(DK330014k-0011)
第33巻 p.309 ページ画像

中外商業新報 第一二八八八号大正一一年一月二八日
    徳川全権・渋沢子
      横浜入港は明後日
        珍しく平穏な航海を続けつつありとコレヤ丸から無電
二十七日横浜電話=横浜へ向け今や太平洋上を航海中の東洋汽船のコレヤ丸から二十七日午後横浜へ到着した無線電信に依ると、同船は桑港出帆以来珍らしい平穏な航海を続けて居るが、三十日午前八時横浜港外着の予定であると、因に同船には華盛頓会議に出席したる我が全権大使徳川家達公以下随行六名、布哇から乗船した渋沢栄一子以下随行五名、夫に朝鮮銀行庶務課長松田義雄氏・逓信省佐伯美津留氏・牧師小崎弘道氏・同夫人きよ子・一宮正金銀行取締役夫人みさを子及び令嬢・川島辰之助氏夫人とし子・坂部しづ子・英国大使館武宮ビコツト氏、其他一等八十九名・二等三十名・三等三百五十六名が乗船して居る由である


中外商業新報 第一二八八九号大正一一年一月二九日 徳川公も渋沢子も大元気 波は稍々高い(DK330014k-0012)
第33巻 p.309 ページ画像

中外商業新報 第一二八八九号大正一一年一月二九日
    徳川公も渋沢子も大元気
      波は稍々高い
廿八日コレア丸無線電信=華盛頓会議の帰途に在る徳川全権の一行、並に渋沢子爵・添田博士・頭本元貞氏等の一行を乗せたコレア丸は、三十日午前八時横浜入港の予定であるが、皆元気である、徳川全権は渡米の船上に於ける時と同じく、誰彼の差別なくデツキ・ゴルフ、デツキ・ビリヤードを挑んで、其妙技を現し、又屡々謡曲会を催して自慢の喉を聴かせてゐる、公爵が鳥打帽姿を甲板に現さぬ時は、甲板は聊か淋し味を感じるが、此時公は大抵船室で新聞の整理をしたり、新刊の雑誌を耽読してゐるのである、渋沢子爵は八十三歳の老齢ながら元気益々旺で、深夜まで読書し、朝は船客の大半が未だ寝てゐる間に起きて、在米中に調査した材料整理に余念もない、桑港出発以来穏やかであつた海も、廿六日には浪高く、船中は屡々激浪に洗はれたが、船客の元気に変りはない


東京朝日新聞 第一二八〇五号大正一一年一月三〇日 コレア丸無電 鈴木特派員 お祭騒ぎの出辺へは時代遅れ もう帰つたつもりで心残りの全権 けふ愈横浜へ(DK330014k-0013)
第33巻 p.309-310 ページ画像

東京朝日新聞 第一二八〇五号大正一一年一月三〇日
               コレア丸無電 鈴木特派員
    お祭騒ぎの出辺へは時代遅れ
      もう帰つたつもりで心残りの全権
        けふ愈横浜へ
コレア丸は横浜を距る二百五十浬の昨日より稍荒模様の海を驀然に無事航海を続けて居る、卅日朝十時には横浜岸壁に着く予定
 艦内ではお定り の「さよなら」晩餐会は昨夜(廿八日夜)事済みとなつた、徳川公・渋沢子一行初め、一同もう帰つたつもりで居る、『将軍』は此の船から下りると又もとの籠の中へ這入り込むので、心
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残りか大風の中で
 少年等を対手に 慄えながらゴルフをやつて居る、渋沢老は殆ど間断ない揮毫の依頼を、お祖父さんが孫等に対する調子で気の毒な程書き続ける、其のせいではないが、老人の真面目な努力振りは船中の尊敬を集めてゐる、横浜着の時お祭り騒ぎの出迎へは他船客の迷惑でもあり、又時代遅れであると皆の意見が一致して居る


中外商業新報 第一二八九〇号大正一一年一月三〇日 横浜入港は今朝九時 太平洋上の舞踏 徳川全権・渋沢子の一行何れも元気旺んに航海(DK330014k-0014)
第33巻 p.310 ページ画像

中外商業新報 第一二八九〇号大正一一年一月三〇日
  横浜入港は今朝九時
    太平洋上の舞踏
      徳川全権・渋沢子の一行何れも元気旺んに航海
廿八日コレア丸無線電信=波高く船の動揺なほ止まざれ共、徳川全権並に渋沢子爵の一行は何れも元気旺にして、公爵・子爵共に同船者の為記念の揮毫に忙殺されてゐる、二十八日夜船長は一等船客全部に晩餐を供した時、徳川全権は同乗者を代表して答辞を述べ、夕食後一同仮装ダンスに打ち興じ、太平洋上の夜の耽くるを忘れた船は、十四節半位の速度にて進行し、卅日午前九時前横浜入港の予定である、尚渋沢子爵は午前十一時上陸、一時四十四分横浜発の列車にて二時卅分東京駅着である


竜門雑誌 第四〇五号・第五四―五六頁大正一一年二月 ○青淵先生帰朝(DK330014k-0015)
第33巻 p.310-311 ページ画像

竜門雑誌 第四〇五号・第五四―五六頁大正一一年二月
    ○青淵先生帰朝
 昨秋十月十三日、一意、日米親善の為に、四たび米国に渡航せられたる青淵先生は、一月三十日午前十時五十分、益御機嫌好く、同行の添田寿一・頭本元貞両氏、並に随員増田明六・小畑久五郎・穂坂与明氏等と共に無事横浜埠頭に安着せられたり。是より先、先生一行の乗船コレア丸には、華府会議より帰朝の全権も同船せられつゝありしが午前八時、夜来の薄雪全く晴れて、朝風寒き港外遥かに、その雄姿現はるゝや、出迎の内田外相を初め井上神奈川県知事、京浜の官公吏・実業家、並に新聞記者団の一行は、ランチを仕立てゝ矢を射る如く本船に赴き、午前十時、検疫終了と共に先を争つて上船し、日米両国旗並に菊花を鏤めたる大食堂に於て、井上知事の歓迎辞、徳川公及び青淵先生の謝辞あり、一同三鞭酒を挙げて其万歳を三唱したるが、折から朝来高かりし風浪も次第に鎮まりて、日光麗かに甲板を照らす頃、船は辷るが如く港内に入り来りて埠頭に停船するや、先程より鶴首しつゝありし数千の人々は、口々に万歳を絶叫して止まず、軈て先生は一行諸氏と共に下船の上、快よく此等出迎の諸氏と握手を交して其誼に酬ゐられしが、次で出迎の穂積男爵其他の同族並に親近者諸氏と共に、同市本町の第一銀行支店に赴かれ、諸氏と共に卓を囲んで午餐を喫せられたる後、午後一時四十四分横浜駅発の汽車に乗られ、午後二時卅五分東京駅に安着、玆にても亦同族親近者諸氏を始め、山本農相其他朝野数百名の盛大なる出迎を受けられ、夫より自働車にて添田・頭本両氏、並に増田・小畑・穂坂の随員諸氏と共に兜町事務所に立寄
 - 第33巻 p.311 -ページ画像 
られ、同族親近者諸氏と共に祝杯を挙げられ、穂積男爵の先生並に一行に対する歓迎辞、青淵先生の愉快なる土産談ありて、午後四時半、一同歓喜の裡に、無事、曖依村荘に帰還せられたるは、会員諸君と共に慶賀の至りに堪えざる所なるが、然かも先生の健康は益旺盛にして二万三千余哩の大旅行を遂げられ乍ら、何等疲労の態なく、発航当時よりも体量を増加せられ、容貌も一層若やぎて見られしは、吾人の愈欣幸に堪えざる所なり。
 因に当日先生の帰朝記事、コレア丸船中にて、同船へ出迎へたる新聞記者団に対する談話の大要は、都下各新聞に掲載せられたるが、左は一月卅一日の中外商業新報、及東京朝日新聞に掲載せられたるものなり。
○下略


東京朝日新聞 第一二八〇六号大正一一年一月三一日 今日帰つた 徳川公・渋沢子(DK330014k-0016)
第33巻 p.311-312 ページ画像

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中外商業新報 第一二八九一号大正一一年一月三一日 徳川さん一向に言はず 渋沢翁は元気で目方が二十貫余になつて帰る 埠頭には出迎の人が二三千人(DK330014k-0017)
第33巻 p.312-313 ページ画像

中外商業新報 第一二八九一号大正一一年一月三一日
    徳川さん一向に言はず
      渋沢翁は元気で目方が二十貫余になつて帰る
        埠頭には出迎の人が二三千人
卅日横浜電話=全権徳川さんは大はしやぎ、八十三翁渋沢子は大元気でそれぞれの随員と共に卅日横浜着のコレア丸で
 四ケ月振りで真実のお国の人となつた、が徳川さんは船の中ではしやいでゐた程に、そんなに多く躍動の言葉を弄さなかつた、一にも二にも「加藤全権との約束があるから話せない話せない」と逃げ、出迎へた記者団を一番に落胆させた事だ、渋沢翁が「此の私は
 驥尾に付して千里を走るの諺を実行したのですよ、云ひ換へれば年寄の冷水を飲みに、態々米国下りをやつた様なものですな」と言ふは、年寄の様だが、ダブルのカラーに黒のピタリと体につくモーニングと云ふハイカラ姿で皆んなを驚かす、お付きの医者で保坂博士と云ふが
 翁を讚へて云ふに「十九貫いくらで出発して、百十日目に帰つた今日、子爵のお目方は二十貫の余にもなつてます、朝は六時半に起て夜は十一時半頃迄も毎日の奮闘振りは大したものでした」と、――それも之も記者が船へ迎へて眼にし耳にした
 事だが丁度検疫がすんで、船が六号岸壁へ着く間に、閣員を代表して出迎へた内田外相や、それから井上県知事・浅野総一郎氏なんぞ同船の食堂に設らへた歓迎卓を囲んで、徳川さんと渋沢翁の三鞭酒を捧げた
 壁岸には二三千人の出迎へがあつたらうか、黒山のやうにたかつて、下船する二人の姿を見るや、万歳、万歳と云ふた
    歩廊の群集を堰いて
      首相以下御挨拶
        余興は巡査に押し戻された高橋首相の太い躯
薄雪に明けた三十日の朝は、カラリと晴れて、吹く風も寒い、此日華府会議へ行つた全権の十六代将軍徳川家達公が
 帰京した、午前十一時二十分頃対米国民同志会や民労会の一団が駅前に現れると、警官がグルリと取囲いて揉合つた、其頃から警官の数が刻々に殖へて来る、電車の到着、ホームには親分面をした国粋会の連中や、壮士らしい民労会の連中が其処此処にヒソヒソ話をして居る
 其中を憲兵・警官・私服刑事がぶらついて居る、それでも軈てホームを溢れる程の人立となつたが、所謂名士らしい顔が見えない、只貴族院議員の連中と話して居る清浦子と、大迫大将の顔位が眼についた、十二時が過ぎて七分、其処へ入つた電車を目がけて一同雪崩れる
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やうに押寄せると、徳川全権は黒のオーバーに
 山高帽と云ふ扮装、それでも笑ひを見せた顔を現して、何が何だか分らない人波の渦に巻かれつゝ階段を降りる、と見る間に全権は内田外相や少数の人々と警官に護られて、出口とは反対な第三ホームの方へ上つて仕舞ふ、其後を追ふて行く群衆はガード下で固めた警官に喰止められる、第三ホームへ上ると
 首相を始めとして床次・山梨・野田・山本・中橋・元田などの閣僚が居て「ヤアどうも御苦労様」と握手やら御辞儀が交される、やがて貴賓の乗降口を急いで全権と四五人が階段を降ると、駅員は早くも柵を閉める、名士を交へた五六十人の一団が其閉め切らない間にと押出す、警官と
 駅員が押し返す、其騒ぎの中に高橋首相も着ぶくれた外套姿を警官に突戻されて真赤になつてゐる、誰かゞ「未だ大臣の方が」と云つたので、やつと首相始め床次・野田・中橋の各大臣が出て行つたなどは滑稽であつた、それで全権はホテル入口に隣つた貨物取扱ひの口から自動車でブーブー
    渋沢翁の為めに
      東京駅人で塡まる
        徳川さんの出迎と打て変つて暫くは握手攻で大騒ぎ
横浜の第一銀行で一服した渋沢翁は、午後二時三十分着の汽車で東京駅に着いた、前の徳川さんの
 出迎とは打つて変つて、もう倍にも三倍にも上る人出で、あの広広としたホームが人の身動きを止めた位、車扉を押して出て来た渋沢翁の姿を見た人達は、大臣と云はず、実業家と云はず、女優森律子と云はず、女子大学生の総代と云はず、皆んなが
 一斉に万歳を唱へ、握手を求めやうとして、自ら混雑の大波が打たれる、花環を捧げやうとした人も大分あつたが、いつかな其側へは寄れぬので、翁の自動車へ持つて廻つたりする、一と連りそのどよめきが続いて、翁は
 漸くの事高橋駅長の先導で、人波をかき分けかき分け逆に入口の方へ出てホツと自動車上の人となり、夜来の小雪散点する大路を遠く王子の本邸へと走つた


東京日日新聞 第一六二八六号大正一一年一月三一日 華府より帰つて 不言不語……の徳川全権 渋沢子は……「老人の冷水」と(DK330014k-0018)
第33巻 p.313-315 ページ画像

東京日日新聞 第一六二八六号大正一一年一月三一日
    華府より帰つて
      不言不語……の徳川全権
      渋沢子は……「老人の冷水」と
華府会議全権委員徳川家達公は、瀬古書記官を随へ、神田乃武男並に渋沢栄一子・添田寿一博士・頭本元貞諸氏其他と共に、卅日朝横浜着港のコレア丸にて午前十時帰朝、直に上陸、徳川全権一行は午前十一時三分桜木町発(臨電)同十一時五十七分東京駅着、又渋沢子一行は午後一時四十四分横浜発(汽車)同二時卅五分東京駅着帰京した、徳川全権及渋沢子の談は左の如くである
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   ○…徳川全権○談略ス
   ○…渋沢子爵
     不満もあるが我が国情では
私唯今驥尾に附して故国へ帰つたのである、……玆に故国に帰るの日、何かよい土産もなく、誠にお恥しい次第である、今度の旅行は誠に余計な、謂はゞお節介な事で、人様から見たら老人の冷水と云はれるであらう、併し自分としても之と云つて自慢にする様な事は一つもない、併しながら私は永い間日米間の関係に就いて種々心配を重ねて居たので、微力ながら出来るだけの事はしたいといふ考へで、同志の方々と日米関係委員会を起し、一昨年も加州や紐育の人人と会合して、種々の両国間の関係に就て協議した程であつたが、元より之が完全だと云ふ訳ではなし、心窃かに何かの機会を待つて居つた、折柄昨年の春桑港の同志の米人から此問題に就て研究したいからと渡米を促して来たが、家事上の都合や其他の関係から其意を得なかつたが、夏になり紐育から日米関係委員会が米国人間に成立したから、是非一度来てはどうかと招きを受け、且先年来たヴアンダーリツプ氏等も、将来両国間の実業関係に就て打合せたいから来てはどうかとのお招きがあり、折柄丁度華盛頓会議が開かれる好機会に遭遇したので、玆に愈々老人の冷水が
 一杯飲みたくなつた訳であつた、さうすると我々同志の関係委員会でも、よい機会であるから単独で行くより誰れか適当な人を二三名同行してはどうかとの議が起つて、協議の結果添田博士・頭本元貞氏等が行くことになつた、玆に七名の小さな団体が成立した、そこで此旅行の動機たるや、渋沢永年の希望の一部を果し、之を日米関係委員会が補助して呉れたといふのに過ぎない、我々の希望は日本国民として誰も一様に有つ所の、華盛頓会議を好都合に果させたいといふ当然のもので、全権や政府の方々の御邪魔にならぬ限り会議を幾分なりとも補足したいと思ふ、即ち同志と協議した結果、添田君を華盛頓へ、私が紐育へと夫々受持を別々に定め、まあ名許りに奔走した様な次第である、斯う云ふことも別に誰からも御依頼を受けても、亦政府の方々と打合をした訳でもなかつた、所が十一月十二日会議開会の前日に、添田君と私とは誠に都合好く我全権の方々に御目にかゝる機会が出来たので、我々の意見を忌憚なく述べ且成るべく短時間に仕事を終らせたいと御願ひした所、全権の方々も殆んど同感だとのことであつた、今日会議の経過を繰返へして見る時、其所に種々の紆余曲折があつた様だが、兎に角我国の
 希望が大体に於て収めるものは収め得て居る様な訳だ、私は是に就て兎角の批評は述べたくないが、軍備縮小の結果は必ずや好結果を齎らすことと断言したい、四国協商に就ては出発の時は露程も予想して居なかつたが、日英同盟がどうなるか、何だか変つた話で現はれはすまいかとは思つて居たが、四国協商となつて現はれるとは思はなかつたのみならず、四国協商の成立に依つて兎角不評判だつた国際聯盟の趣意を徹底せしめ得たかの感があり、太平洋問題を定むる根底として至極適切なものだと思ふ、太平洋問題やルート案
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や支那の提案等に就て、私は批評がましいことは述べますまい、斯く通観すれば多少不満足の点も無いでも無い、我国の今日の地位から見て之以上を望むことは不可能であらう、只私の誠に遺憾であるのは、日米移民問題が其儘に残されたことである、加州や布哇の移民問題に就て一言も議場に上らなかつたことである、日米関係の動もすれば疎隔を来したり、誤解を生じようとするのは、全く此移民問題に基因するのである、私は今度帰国と同時に日米関係委員会に諮つて
 此懸案の解決に努め度いと思ふ、私は華盛頓からの帰途、南はサンチエゴ、ロス・アンゼルス、ブレスト、レミングストン等から北はシヤトル、ポートランドに亘つて、実地に就て在留邦人と米国人との別々の意見を聞いて見たが、此問題は一日も忽にすべきものではなく、太平洋問題案よりもズツト先に解決せねばならぬものであると思つた、又布哇十一万の在留同胞に就て、今日は未だ夫れ程深く懸念もないやうであるが、資本家たる米国人と、労働者たる我出稼人との間に起きんとして居る労資不調和の風は、漸く強く吹き初めて居る、軈ては加州と同じやうな排日騒ぎになるべく、今の内に何んとか解決せねばなるまい、夫れが為私は特に一便船を先きに布哇に上陸し、三日間各地の日米人に会つて意見を交換して見たが参考となる所は少なくなかつたから、是れも亦同志と共に充分の解決を図りたいと覚悟して居る、之を要するに私は其結果の如何を問はず、私のしようと思つた事だけはやつて来た積もりである云々

AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA. p.225. Nov., 1937(DK330014k-0019)
第33巻 p.315-316 ページ画像

AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA P. 225 Nov., 1937.
         CHPTER X
    INTERNATIONAL ACTIVITIES
  ………………
  The final task in the voluntary goodwill mission of the Viscount on his way back home was to visit Honolulu where he had many influential friends both American and Japanese. The special concern of the Viscount's visit to Hawaii at this time was to soothe the ruffled feelings of the capitalists who were sorely tried by the persistent strikes of the Japanese employees in the sugar cane plantations. The strikes were well planned. They were widespread, and doggedly persistent, so much so that some of the employers came to harbor a strong suspicion that the Japanese Government might have been operating behind the scene. Those strikes took place in January1920, and were finally settled in June. But their evil effect upon the employers continued for a long time. The Viscount wanted to quench the fire of smouldering discontent in the hearts of the employers, assuring them that he would strongly advise the Japanese leaders not to repeat such unfortunate social and racial discord in the
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future. In the midst of luncheons, banquets, and teas put up in his honor, the Viscount accomplished this particular mission.



〔参考〕竜門雑誌 第四八〇号・第一五―一七頁昭和三年九月 華府会議と渋沢子爵 添田寿一(DK330014k-0020)
第33巻 p.316-317 ページ画像

竜門雑誌 第四八〇号・第一五―一七頁昭和三年九月
    華府会議と渋沢子爵
                      添田寿一
○上略
      七
 一月十日日米の有力なる人々に見送られ、ヴヱンチユラ号にて桑港出帆あり。十六日ホノルル着、知事初め日米有力者の出迎あり。デリンガム氏の午餐会後知事を訪問せられ、日人青年会に於ては青年男女の心得方につき演説あり。夜はフアーリングトン知事の晩餐会に臨まれ、日米親交に就き演説あり。十七日にパアインアツプル工場・精糖所等見物の後、トムプソン氏の午餐会に臨まれ、意見の交換あり、夜は矢田総領事の晩餐会に於て演説せられた。
 一月十八日大学校・ミルス学校を見物の後、青年会に赴かれ、労働代表に面会せられ、青年会の午餐会並に婦人会、ミツシヨン記念堂にて演説せられ、夜はアサートン氏の晩餐会に臨まれ、左記要目に就き意見の交換あり。
  一、二重国籍問題の解決
  二、日本語新聞の改善
  三、学校教育の改善
  四、写真結婚の廃止
  五、日米間電信料の低減
  六、同盟罷業再燃の防止
  七、農作従業者の減少防止
  八、同化の促進
      以下省略
 一月十九日知事・在留銀行業者の来訪を受けられ、中学校見物の後汎太平洋会の午餐会に臨席、浅野銀行を経て総領事館のレセプシヨンに臨まれ、午後四時日米有力者の見送を受けながらホノルルを出帆。
 一月二十日支那裁兵決議案可決の旨の報あり。
 一月二十一日徳川慶久公薨去の報あり、一同痛惜。
 一月二十四日同乗同胞に対し演説せらる。
 一月三十日朝横浜入港、第一銀行支店に小憩の上、盛大なる出迎を受け帰京あり、兜町事務所に於て一同挙杯安着を祝す。
 二月一日第五回華府軍縮本会議にて海軍比例・山東引継、以下要件議事進行の報あり。
 二月四日子爵より首相に一切の経過報告の後、将来官民の採るべき手段方策に就ても進言せられた。其内容は徳義上記する事は出来ないけれども、若し子爵当時の意見が採用実行されて居つたならば、日米関係、其他が其後の実際とは大に趣を異にして居つたであらうと云ふ一事だけは附記して置きたい。大袈裟に軍縮会議と云ひながら、其実績の上より見て日・英・米戦闘艦比例の協定、支那の宿望達成、日英
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同盟の埋葬会議なりしとも評し得らるゝ華府会議も、愈々二月六日ハーヂング大統領の開会の辞を以て終了し、一段落を告げたのである。
      八
 縦しや其実績は開催国の標榜若くは世人の期待ほどにはなかりしにもせよ、兎に角今世紀に於ける最大事件の一として特筆大書せらるべき華府会議に関する子爵の苦心努力の効果如何は、上来略記せる所に依て読者の判断せらるゝに一任するの他はない。併し子爵の奮闘振を実地目撃せる者として、又日本国民の一人としては、衷心より感謝せざるを得ないのである。(完)



〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第一〇七頁昭和三年一〇月 国民外交家としての青淵先生 小畑久五郎(DK330014k-0021)
第33巻 p.317 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第一〇七頁昭和三年一〇月
    国民外交家としての青淵先生
                      小畑久五郎
○上略
 一九二一年、華府会議の際、先生は八十二歳の高齢にも拘らず、渡米せられたのであるが、之れ又日米両国に於ける親善増進の外他に何等の企図を抱かれたのでは無かつた。先生の希望は能ふべくんば此会議に日米問題を提出して、同問題に徹底的解決を与へんとせられるにあつた。日本の全権に会見を求めて、此議を提唱せられたが、今回の会議は独り日米両国間の会議ではなく、世界列強の其れであるから、同会議に於て日米問題を協議する訳けには行かぬといふ理由の下に、先生の提案は問題にせられなかつた。然し先生は太平洋沿岸諸州、特に加州の各地を訪問せられて、日米の有力者諸氏と会見し、其間に意志の疏通、感情の融和を図られた。帰途ハワイ島に寄航せられ、三四日間同地に滞在、此処にも日米の有力者諸氏と会見して意見を交換し、大に親交を厚ふせられた。
○下略


〔参考〕AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA. pp.344-345. Nov., 1937(DK330014k-0022)
第33巻 p.317-318 ページ画像

AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA PP. 344-345. Nov., 1937.
         CHAPTER XV
     ILLNESS, DEATH, AND FUNERAL
  ………………
  This delicate picture painted by Mr. Hideo Shibusawa revives the memory of the frequent experiences the author encountered during the three months visit to America as interpreter and English secretary of the Viscount at the time of the Washington Conference for disarmament. The Viscount wore neither moustache nor beard. He kept his face cleanly shaved. This meant his frequent visits to barber shops. His interpreter always accompanied the Visccunt like his shadow. After the shaving, or the hair cut, the Viscount was always taken to the manicurist, invariably a young woman, who was as a rule agreeable and sociable almost to the point of coquettish
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ness.
  She would say to him: "What a beautiful hand?" This attracted the author's attention to the fingernails of the Viscount. In them he found the strength and beauty which characterized the entire physical constitution of the Viscount. The strength consisted of his well-proportioned large fingernails of smooth, thick and concave shape, and the beauty of their pink colour and rich new moons which we Japanese call kaiziume (shell nail).………


〔参考〕AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA. p.363. Nov., 1937(DK330014k-0023)
第33巻 p.318 ページ画像

AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA P. 363. Nov., 1937.
          CHAPTER XVI
       THE MEMORIAL STATUTE
  ………………
  During his tour in America in the winter of 1921-22, his toilet paraphernalia consisted only of a tooth-brush and an oldfashioned Japanese comb carried in a folded black paper called tato.