デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第33巻 p.618-621(DK330080k) ページ画像

大正10年9月10日(1921年)

是日当委員会ハ、アメリカ合衆国ハワイ大審院裁
 - 第33巻 p.619 -ページ画像 
判長コーク夫妻、スタンフォード大学教授ペーソン・ジェー・トリート夫妻、ニューヨーク日本協会幹事ウォーデン夫妻ヲ帝国ホテルニ招キテ晩餐会ヲ開ク。栄一出席シテ当委員会ヲ代表シテ歓迎ノ辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正一〇年(DK330080k-0001)
第33巻 p.619 ページ画像

集会日時通知表 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
十日○九月 土 午後六時 日米関係委員会催コーク氏、トリート氏、ウオーデン氏招待会(帝国ホテル)


竜門雑誌 第四〇一号・第五二頁大正一〇年一〇月 ○コーク、トリート、ウオーデン三氏招待歓迎会(DK330080k-0002)
第33巻 p.619 ページ画像

竜門雑誌 第四〇一号・第五二頁大正一〇年一〇月
○コーク、トリート、ウオーデン三氏招待歓迎会 青淵先生の常務委員たる日米関係委員会にては九月十日午後六時より帝国ホテルに於て今般来朝せる布哇大審院裁判長コーク氏夫妻、「スタンフオード」大学教授トリート氏夫妻、並に紐育日本協会幹事ウオーデン氏夫妻を招待して歓迎晩餐会を催せり、当日は陪賓として外務省より埴原正直氏夫妻、伊集院男爵・松平恒雄氏夫妻・田中都吉・芳沢謙吉の諸氏出席し主人側には青淵先生を始め金子子爵・瓜生男爵夫妻・阪谷男爵・目賀田男爵夫妻・森村男・堀越善重郎氏夫妻・添田寿一氏夫妻其他十九名の諸氏出席し、席上青淵先生の歓迎辞、コーク、トリート、ウオーデン三氏の答辞あり、最後に金子子爵の乾杯辞ありて、散会したるは午後十時過なりしと云ふ。


AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA. pp.314-315. Nov., 1937.(DK330080k-0003)
第33巻 p.619-620 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕一八五三―一九二一年 日米外交史 トリート著村上堅固[村川堅固]訳補 序文・第四―五頁大正一一年四月刊(DK330080k-0004)
第33巻 p.620-621 ページ画像

一八五三―一九二一年 日米外交史 トリート著村上堅固[村川堅固]訳補 序文・第四―五頁大正一一年四月刊
    訳者序
○上略 客秋教授○トリートは第三回の視察旅行を極東に試み、其序に我国にも暫らく滞在し、我国大学生に向つて日米関係史を説かるゝことになつた。時恰も華府会議開催前に際し、我学生の米国に対する注意も可なり緊張せる時機であつたので、予は教授の講演が必らず多大の興味を以て迎へらるべきを期待した。果せるかな、教授の立てる講堂は、満場立錐の地なき盛況を呈し、其公平なる論断は非常の喝采を博したのである。予は其講演が若き聴衆の脳裡に残した好印象を通じて、日米親善上に貢献する所尠からざるべきを疑はない。
 教授が此講演を為すに就いて費された労力は多大であつた。それは限られたる時間内に、日米関係の歴史全般に亘り、簡単に之を述ぶるといふことと、日本学生の容易に理解し得べき平易なる言語と文章とを選び用ふることゝに苦心し、幾度も草稿を改め、之が為めに前後六ケ月間を費したといふことで分る。然るに教授が我国に来着するや、時事問題に対する若き聴衆の興味は、教授の予定を翻さしめた。予定
 - 第33巻 p.621 -ページ画像 
によれば十二回の講義を三分して、其一宛を三大学の各に於いて試み以て日米外交関係の首尾を完うする積であつたのが、何れの大学でも其最近の部を聴かんことを希望したからである。教授は其希望に従ひ三大学共に日露戦役以後の関係を説いたのである。然し日露戦役以後は日米両国民間の輿論の変調と共に、それまでの長い間の親善関係に暗影を生じた時期であつて、戦役以後を説いて、其以前を説かないのは、教授に於て遺憾尠からざることであつたらうし、講莚に列した吾吾も、同様の感を禁じ得なかつたが、それは時間の関係上已むを得ないのであつた。
○中略
  大正十一年三月二十三日
       南総海岸に於て太平洋の煙波を望みつゝ
                     村川堅固識