デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第34巻 p.457-464(DK340049k) ページ画像

大正14年2月2日(1925年)

是日、当委員会及ビ京浜実業家有志主催アメリカ合衆国特命全権大使エドガー・エー・バンクロフ
 - 第34巻 p.458 -ページ画像 
ト及ビアメリカ合衆国駐箚特命全権大使松平恒雄送迎午餐会、丸ノ内日本工業倶楽部ニ開カル。栄一出席シテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

日米関係委員会往復書類 (一)(DK340049k-0001)
第34巻 p.458 ページ画像

日米関係委員会往復書類 (一) (渋沢子爵家所蔵)
(写)
拝啓益御清適奉賀候、然は来二月二日正午東京銀行倶楽部に於て米国大使エドガー・エー・バンクロフト氏歓迎、並駐米大使松平恒堆氏送別の為め午餐会相催候間御繰合御出席被成下度、此段御案内申上候
敬具
  大正十四年一月十七日    日米関係委員会
                 常務委員 渋沢栄一
                 同    藤山雷太
    委員各位
  御諾否別紙端書を以て御回示願上候


日米関係委員会往復書類 (一)(DK340049k-0002)
第34巻 p.458 ページ画像

日米関係委員会往復書類 (一) (渋沢子爵家所蔵)
(写)
拝啓時下益御清適奉賀候、然ば来二月二日正午東京銀行倶楽部に於て松平駐米大使、並米国駐日大使の為に送迎午餐会開催の旨御通知申上置候処、其後右両氏に親交ある実業家諸君に於ても同様の企有之、其実業家の多くは本会の会員に有之候為め、協議の上本会と合同開催の事に致、又会場は都合に依り日本工業倶楽部と変更致候間、右御承引被下、当月御繰合はせ御出席被下度、此段改めて御案内申上候 敬具
  大正十四年一月廿四日    日米関係委員会
                 常務委員 渋沢栄一
                 同 藤山雷太
    委員各位


渋沢栄一 日記 大正一四年(DK340049k-0003)
第34巻 p.458 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一四年 (渋沢子爵家所蔵)
二月二日 晴 厳寒
○上略 正午工業倶楽部ニ抵リ、米国大使バンクロフト氏ノ歓迎会及松平駐米大使ノ送別ノ宴ヲ開ク、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、米大使・松平大使トモニ懇切ナル答詞ヲ述フ、此日来会スル者五十余名、日米関係委員ノ外倶楽部幹部ノ実業家約三十名来会シ、賓主歓ヲ尽シ二時過散会ス○下略


(増田明六)日誌 大正一四年(DK340049k-0004)
第34巻 p.458-459 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一四年 (増田正純氏所蔵)
二月二日 月 晴
正午日本工業倶楽部ニ於て松平駐米大使及駐日米国大使バンクロフト氏の送迎会あり、主人側ハ日米関係委員会及実業家有志にして、来会者客と主人と合ハセ五十四名なり、同部三階貴賓室を待合室とし中食堂を午餐会場ニ充つ、午餐終了後渋沢子爵は日米関係委員会を代表して両大使の為めに迎送の辞を述べ、東洋の格言に己の欲せさる処を人
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に施す勿れ、又西洋の語ニ己の最も善と信する事ハ人に為さしめよとあり、各消極と積極との相違あるも帰する処同一なり、今両大使を迎送するニ際し此言葉を贐と為すと語られ、団琢磨氏は英語ニて均しく迎送の辞を述べられしが、低声にして聞取れさりしハ遺憾なりし、次でバンクロフト大使並松平大使交々起つて答辞を述へられたるが、孰れも国際間の問題ハ単ニ外交官の力のミにてハ解決し難し、須らく国民の力、輿論の力に得さるべからす、本日の会合者ハ孰れも多方面の代表者なれは、後援者として両国親善の為に尽されたしとの意味を述へられたり
○下略


日米関係委員会集会ニ関スル控(DK340049k-0005)
第34巻 p.459-460 ページ画像

日米関係委員会集会ニ関スル控 (日米関係委員会所蔵)
大正十四年二月二日 日本工業倶楽部
 駐米大使松平恒雄氏送別並駐日大使バンクロフト氏歓迎午餐会
    欠幣 原外務大臣
    (太丸ハ朱書)
    ○松平駐米大使       欠市来乙彦
    ○出淵外務次官       ○井上準之助
    欠中村政務次官       ○一宮鈴太郎
    ○バンクロフト駐日大使   ○服部金太郎
    ○ケツフリー氏        原富太郎
    ○バンクロフト氏     在外原田助
    ○ノーウエツブ氏      ○新渡戸稲造
                  ○堀越善重郎
               欠男爵 大倉喜八郎
                  ○大谷嘉兵衛
                  ○小野英二郎
               欠子爵 金子堅太郎
                  ○梶原仲治
                  ○団琢磨
                  欠高田釜吉
                  ○添田寿一
                  ○頭本元貞
               欠男爵 瓜生外吉
                  ○内田嘉吉
                  ○串田万蔵
                  ○山田三良
                  ○山科礼蔵
               欠男爵 古河虎之助
             ○常務委員 藤山雷太
                  ○江口定条
                  ○姉崎正治
                  ○浅野総一郎
               ○男爵 阪谷芳郎
               欠男爵 目賀田種太郎
 - 第34巻 p.460 -ページ画像 
           ○常務委員子爵 渋沢栄一
                  ○白仁武
               ○男爵 森村開作
             幹事
                  ○服部文四郎
                  ○増田明六
                  ○小畑久五郎


日米関係委員会集会記事摘要(DK340049k-0006)
第34巻 p.460-461 ページ画像

日米関係委員会集会記事摘要 (渋沢子爵家所蔵)
 大正十四年二月二日正午、於日本工業倶楽部、駐米大使松平恒堆氏送別並駐日大使バンクロフト(エツドガー・エー)氏歓迎午餐会
  出席者
  (賓客)松平駐米大使・出淵外務次官
      バンクロフト駐日大使・ケツフリー参事官・ノーウエブ一等書記官・バンクロフト博士(大使の令弟)
  (委員)渋沢子爵・井上準之助氏・一宮鈴太郎氏・服部金太郎氏新渡戸稲造氏・堀越善重郎氏・大谷嘉兵衛氏・小野英二郎氏・梶原仲治氏・団琢磨氏・添田寿一氏・頭本元貞氏内田嘉吉氏・串田万蔵氏・山田三良氏・山科礼蔵氏・藤山雷太氏・江口定条氏・姉崎正治氏・浅野総一郎氏・阪谷男爵・白仁武氏・森村男爵
  (幹事)服部氏・増田氏・小畑氏
当日の会合は日米関係委員会と京浜実業家との聯合によりて開催せられたるものなれば、委員の外二十四名の実業家出席せられたり、其人名左の如し
  (京浜実業家)伊東米治郎氏・内藤久寛氏・山下亀三郎氏・土方久徴氏・大橋新太郎氏・原邦造氏・結城豊太郎氏成瀬正恭氏・野中清氏・門野重九郎氏・児玉謙次氏・岩原謙三氏・池田成彬氏・佐々木勇之助氏・木村久寿弥太氏・矢野恒太氏・福沢桃介氏・有賀長文氏・福井菊三郎氏・藤原銀次郎氏・中島久万吉氏・小池国三氏・岡崎国臣氏・神戸挙一氏
渋沢子爵 主人側を代表して一場の演説をせらる。先つ日米両国の国交が日露戦争頃まで最も円満に継続し来りしも、其後加州問題を中心として種々なる難問起り、之を解決するには到底外交官の手腕にのみ待つべきものにあらずとの考より国民外交を開始すべきなりとの説朝野の有力者間に行はれたり、爰に於てか一千九百八年太平洋沿岸六大商業会議所代表者の日本訪問となり、翌年即ち一千九百九年八商業会議所代表より成る渡米実業団を組織して米大陸の主なる都市を歴訪するに至りて幾分か両国民の親善を増進せしも、又々加州に排日の気勢高まりたり、一千九百十三年の加州外人土地法なるもの之なり、一千九百十五年に桑港商業会議所会頭アレキサンダー氏等と相計り両国間に常置的委員を設けて日米親善を計るべしとの議起りしが、之れ即ち今日の日米関係委員会を見るに至りし所以な
 - 第34巻 p.461 -ページ画像 
り、其後又排日問題加州に起りしが、愈々悪化して終に今日の排斥移民法を見るに至りしは、両国の為めに甚た憂へざるを得ぬ次第なり、然るに今や両国の間に大使を交換して大に国交上の親善を計らるゝは慶賀の至りに堪へざるなり、吾等は決して政府当局に圧迫を加ふるとか、其外交方針に容啄しやうとかいふにあらず、目的とする所は両国の伝統的親善を増進せんとするにあるのみなり、日本と米国とは外形上種々なる点に於て相違があるけれども、精神的道徳的方面に於て著しく共通の点あれば互に諒解を得る時は必ず善良の友となることを得べく、米国の道徳を司る基督教は「人にせられんと欲するところ人にも其の如くせよ」といふて積極的である、而してバンクロフト大使は此方面を代表せらる、東洋の道徳訓は「己れの欲せざる所を人に施す勿れ」といふのであつて、松平大使は此種の道徳的《(方面脱カ)》を代表せらる、即ち消極的である、此積極と消極とが調和を得て爰に立派なる道徳を見、国交を成立せしむことが出来ると思ふと述べらる
 米国大使の歓迎会は之れより以前に開催致すべき希望であつたが、自分病気の為め遷延せしは甚た遺憾なり、又大震災の際ウツヅ大使を援助して多大の効果を挙げしめたケツフアリー参事官は近々帰国の途に昇らるゝ由に付、此機会に於てケツフアリー氏に謝意を表し且つ安全に御帰国あらんことを祈ると述べらる、要するに日米関係委員会は当局の事業を妨げんとするものには決して之れなく、之を後援せんとするにあるものなることを承知せられ度き旨力説せらる
バンクロフト大使 日本に着後「日本の老偉人」に面会して一見旧知の如き感を抱きし事は自分の光栄とする所なり、但し渋沢子爵が病気にかゝられし為め爾来懇談の機会を得ざりしは遺憾なりと述べられ、尚ほ松平大使に言及してバンクロフト大使は、兼ねてより松平大使を知り同大使に敬服し居る一人なれば、同大使が駐米大使として赴任せらるゝ事を喜び、且つ今日日米間に横はる難問を解くべき手腕家は同大使なれば、今日松平大使を送ることを光栄とすとの意を以て結ばる
松平大使 今日の盛宴に招待されしことを光栄とすと述べられ、大使は何処までも日米関係委員会の如き又は京浜間の実業家の如き有力なる人々の後援を待つ事を力説せらる、同大使は先づ任地に臨んだる上徐ろに経綸を施すべしとの意見を述べらる
団氏 実業家側を代表して両大使の事業に同情を表し且つ機会ある毎に喜んで後援の労を惜まざる旨述べらる
   午後二時半閉会


(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 大正一四年(DK340049k-0007)
第34巻 p.461 ページ画像

(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 大正一四年
                     (阪谷子爵家所蔵)
 一四、二、二 工業クラフニテ日米関係委員及実業家午餐、米大使バンクロフト歓迎、駐英大使松平送別《(米)》、外ニ代理大使コエツフエリー並新渡戸博士送別渋沢子・団・米大使及松平演説ス

 - 第34巻 p.462 -ページ画像 

東京日日新聞 第一七三八四号大正一四年二月三日 【二日、日本工業倶楽部…】(DK340049k-0008)
第34巻 p.462 ページ画像

東京日日新聞 第一七三八四号大正一四年二月三日
二日、日本工業倶楽部で催された日米両大使の送迎会席上における渋沢子の挨拶は△まづ松平駐米大使に対しては「東洋の言葉におのれの欲せざる所を他に施すこと勿れ」を餞け△バンクロフト氏に対しては「西洋の諺に己れの善なりと信ずることは他人に進めよ」との一節を贈つた△この東西両道徳観は二にして一だが、日米間の行きがゝりを相当に意味あらしめるものでなくばならない△右に対しバンクロフト氏は「兼て日本を慕つてゐたが、実際に接触してみると予想以上の感銘深きを覚える△日米両国は伝統的に好関係を維持しつゝあり、将来共この友好関係を切に助長したいといのつてゐる」△との意味で答辞があつたが、財界有力者ばかりのあつまりだけに頗る有意義な会合で△希はくは東西軌を同じうする道徳観の上に親善の基礎を置きたいものである○下略



〔参考〕(ジェームズ・エッチ・フランクリン)書翰 渋沢栄一宛一九二五年四月二一日(DK340049k-0009)
第34巻 p.462-463 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕渋沢栄一書翰 控 ジエームス・エツチ・フランクリン宛大正一四年六月二四日(DK340049k-0010)
第34巻 p.463-464 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 ジェームス・エッチ・フランクリン宛大正一四年六月二四日
                     (渋沢子爵家所蔵)
      案
 紐育市第五街二七六
  ジエームス・エツチ・フランクリン様
    大正十四年六月二十四日      東京
                      渋沢栄一
拝啓四月二十一日付の貴書難有拝見仕候、然ば四月廿一日米国基督教聯合会主催の松平大使歓迎晩餐会を御司会相成、愉快にして有益なる一夕を過され候趣拝承欣快の至に御座候、其際フインレイ博士は故タウンセンド・ハリス氏の創立せる紐育大学総長たりし縁故に因み歓迎
 - 第34巻 p.464 -ページ画像 
の辞を述べ、且つ故人に関する老生執筆の漢詩及和歌を額の儘持参せられ来会諸彦に供覧し、御会合に一段の光彩を添えられ候由詳細御通知の段拝承仕り候
両国々交ともすれば暗雲低迷の感有之候折柄、ハリス氏ならばと別して懐旧の感を深く致候次第にして、啻に老人の繰言には御座可無と存候、同氏に関する談話は時にとりて実に適切の義と存候
排斥移民法改正は日を追ふて一層困難なる様被存候得共、該問題を此儘に抛擲致候時は両国の感情は弥増し疎隔するのみと日夜憂慮罷在候何卒此上とも御尽力被下度懇願仕り候
終りに貴下の御健康を奉祝候 敬具
   ○右英文書翰ハ同日付ニテ発送セラレタリ。



〔参考〕(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 大正一四年(DK340049k-0011)
第34巻 p.464 ページ画像

(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 大正一四年
                     (阪谷子爵家所蔵)
十四、七、二八 米国大使バンクロフト軽井沢ニテ死去ス