デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第35巻 p.105-109(DK350022k) ページ画像

昭和3年12月7日(1928年)

是日、当委員会主催前アメリカ合衆国駐箚全権大使松平恒雄招待茶会、丸ノ内東京銀行倶楽部ニ開カレ、栄一出席ス。


■資料

日米関係委員会集会記事摘要(DK350022k-0001)
第35巻 p.105-109 ページ画像

日米関係委員会集会記事摘要        (渋沢子爵家所蔵)
 昭和三年十二月七日(金)午後三時於東京銀行倶楽部
 前米国大使松平恒雄氏招待茶会
 - 第35巻 p.106 -ページ画像 
                  出席者
               駐英大使 松平恒雄
            外務省事務次官 吉田茂
            同  通商局長 武富敏彦
                    渋沢子爵
                    藤山雷太
                    串田万蔵
                    内田嘉吉
                    白仁武
                    白石喜太郎(増田代)
                    小畑久五郎
子爵 今日はほんの小人数の集会で御座いますが、まだ全部揃ひませんので其間に余談ながら申上ます。こゝにこんな書物が御座いますが、一つはタウンセンド・ハリスの事蹟で、一つは昨年十月下田の玉泉寺で行はれたハリスの碑の除幕式の時のマクヴエー大使のされた演説と其翻訳を一緒にしたもので御座います。それから最後の一つは世界大戦の時ルーズヴエルト大統領が書いたもので、日本をよく了解して居ります。これは当時ボストンのミレツトと云ふ人から見せられ、翻訳させて読んで、ひどく興味を感じましたので、原訳ともに一冊に纏め知人に配つたものであります。何れも御職掌に直接関係はありませんが、若し御寸暇に御目を通して戴くことが出来ますればありがたう御座います。
松平 ありがたう御座います。一つよく拝見致したいと思ひます。タウンセンド・ハリスのことは実は余り知りませんでしたが、昨年シチー・カレジ・オブ・ニューヨークと云ふハリスの建設した学校でハリスの像を銅のタブレツトに造りまして、学校の玄関に嵌め込みまして、其除幕式が行はれ、私も招かれて参り、私が除幕しましたが、其時一言弁ずる関係上ハリスの事蹟を調べまして、非常に感服して居ります。此式のことは当時子爵には御報告申上げましたが、中々の盛会で、学生其他二三千人出席しました。
 こんなことから、爾来時々喋ります際によくハリスを引合に出します。斯くハリスに親しみを持つて居りますから、大に興味を以て拝見することが出来ます。
子爵 ハリスと私の因縁話は古いもので御座います。御承知かと思ひますが、私は維新前に仏蘭西に参りましたが、其時同行しました田辺太一(蓮舟)と船中で種々談し合ひました中にハリスの名が出て来ました。私は頑固な攘夷党で御座いましたので、其船中でも頻りに外国人を悪く申しました。すると田辺が「左様一概に云ふものでない。現に米国人ではあるがハリスは斯々で、真に敬服に堪へぬ」と云ひまして、詳しく説明して呉れましたので、成程左様云ふ人もあるのかと思ひました。爾来六十年に近い歳月を経て、ハリスの記念碑建設の為め聊か微力をつくしたのでありますが、ほんとにおかしい訳で御座います。最近ハリスの親戚とか云ふハーと云ふ人が尋ねて来まして、大分ありがたがつて居りました。
 - 第35巻 p.107 -ページ画像 
内田 ウエスチングハウスのハーの何かですか
小畑 弟ださうです。
其内顔が揃ふ。子爵が起つて開会の辞を述べる。
子爵 今日は甚だ不参が多いので、折角の御話を伺ふ人数の少いことを遺憾に思ひます。玆に集りましたのは日米関係委員会の名によつて組立てた会の一部分で御座いますが、何れも日米問題に付て熱心に心配して居る人々で御座います。過般御帰国になりましたに就ては爾来の御高配を感謝すると共に、吾々は斯くやつて居ると云ふことを申上げたい為めに尊来を御願致した次第で御座います。
 一体外交と云ふ事は――勿論米国のみではありませんが、――衝に当るお人だけにお願ひすべきでない。国民全体が出来る限り、外交――と申しては穏当でありませんが、外国の事情に通じ、当局の御経営に資せねばなりません。此様な思入れから日米関係委員会を組織して及ばずながら尽力致して居る次第であります。蓋し事の起りは多分紳士協約の出来る頃、当時の外務大臣であつた小村侯から頻りに勧められた為めと思ひますが、私共も必要を認めて今日に到つたのであります。
 日露戦争の後日本で何となく米国の親切が未だ足らぬと云ふ感じを起しました。そこへ移民関係が頻りに起つて参り、其結果所謂紳士協約が出来たのであります。当時の外務省は国民外交を勧め、国民相互の情意徹底を希望しましたので、一種の方法によつて其成立を見ました。此国民外交熱を強めたのは明治四十年四十一年頃で、其為め太平洋沿岸各地商業会議所の人々を招待致しました。それから此等の商業会議所から招かれて日本の六大商業会議所の連中が渡米しました。かくして少し宛交渉を始めました。そして大正四年と同十年に私は更に渡米しました。大正九年日米協議会を催しまして桑港からアレキサンダーを団長とする一団が参り、続てヴアンダーリツプを上置とする東部の有力者諸氏が来ました。両方とも吾々は大に論じましたけれども、充分な効果はなかつたようで御座います。当時吾々の主張した意見は「両国政府の決めた特殊の委員で移民問題を論じ、程合のよい所できめるがよい」と云ふのであつたが、米国が同意せぬため日本政府も聞き置くと云ふ程度に止まつたのであります。大正四年に私が渡米した時前申しましたアレキサンダーが「時々に心配するのでは効果が薄いから、常置的の機関を設けねばならぬ」と云ふ所から、桑港の商業会議所内に米日関係委員会を組織してありました。会員は三十人程で相当な人々でありました。そこでアレキサンダーから「日本もそんな物を設け互に相呼応したらどうか」と勧められましたが、大に然りと考へて組織したのが、日米関係委員会で、愈出来たのは大正五年で御座いました。其時の思入れでは、移民法があの様に持つて行かれぬようにと希望して居りましたのに、意外にもあの移民法が成立しました。折角企てたことも水泡に帰したとも申し得るかと思ひます。然し自棄するようなことはなく、何かの機会があれば之を利用し、吾々の衷情を述べ、自発的に修正せしめたいと思ふて努力致して居ります。私の会ふ米国
 - 第35巻 p.108 -ページ画像 
人は皆「日本に対して相済まぬ。然し短気を起してはいかぬ」となだめます。にも拘らず移民法が一向修正せられぬのは遺憾千万で御座います。爾来駐日大使の変る毎に頻りに話して居ります。マクヴェー大使にも喧しく申しました。「あれは悪い」とは申しますが、修正しようとは云ひませぬ。何とかして事情を徹底したなら、あの様な不都合をして置いて知らぬ顔は出来まいと思ひますが、思ふ許りでどうにもならぬと云ふのが現状で御座います。
 日米関係委員は約三十人で御座いますが、事実熱心に心配するのは十数人で、中にも阪谷、添田、井上の諸君は力を入れて居ります。然るに此等の人々が旅行又は不快の為め欠席致しましたので、甚だ小数になり、真に恐縮で御座います。甚だ取纏りませぬが、概況を申上げた次第でございます。
松平 只今渋沢子爵から詳細にお話がありまして、日米関係委員会の種々な御仕事を伺ひましてよく拝承致しました。出発前にも此委員会の少数の御会合に出席致しましたし、発つときは態々送別会を開いて戴きまして恐縮致しました。以前から委員諸君が非常な御熱心で尽力せられることを承知して居ります。殊に移民法に関する御努力に対しては深く感謝致して居ります。
 彼方へ参りましてからは、当然のことではありますが、出来る丈の尽力を致しましたが、効果のなかつたのを残念に思ひます。然し帰り匆々予て此問題に終始努力して居られる渋沢子爵始め皆様に、在米中に経験したことを御話致して置くことは、諸君に対する義務であると考へましたが、恰も渋沢子爵には御病気で居られ、私も非常に忙しかつた為め其機会を失して今日になりましたが、今日機会を御与へ下さいまして一言申上ることが出来るのは、真にありがたう御座います。
 私の赴任しました時は排日移民法施行の直後でありましたので、一般に私を憚る気味がありました。殊に上院議員は其傾向が強く、話をしましても何となく奥歯に物がはさまつたやうで、胸襟を開きませんでした。私としましても問題が極めてデリケートである為め、ウツカリ意見を発表したり、運動したりするのは却てよくないと思ひ、極めて慎重な態度をとり、なるべく問題に触れないやうにしました。然し私が唯触れずに居ると、日本人は彼の問題を忘れたのであると云ふ風にとられる恐れがありますので、適当な機会には吾々は移民法問題を決して忘れて居らぬと云ふことを発表しました。赴任後二ケ月程経て上院議員のリードに会ひました。此男はペンシルヴエニヤ州の選出議員で、例の排日法通過のときは最後まで反対しましたが、結局に到つて変説した男であります。種々話をした末、移民問題が話題に上りましたので、私があれは困るではないかと云ひますと、リードは苦笑しまして、あれはいかぬと云ひました。然し自分が悪いとは云はず、ヒユーズが間違をしたと云ふて居りました。然し若し将来此問題が議会で論ぜられる場合には撤廃に賛成すると云ふて居りました。それから今一人同じく上院議員でビンガムと云ふ男があります。此男は移民法通過後に選出せられた男であり
 - 第35巻 p.109 -ページ画像 
ますが、最近全然政府の世話にならずに呑気に東洋旅行をし、日本を徹底的に見て帰つてから一つの論文を発表しました。さして有力なものではなかつたが数種の新聞に出ましたので、私も見ましたが極めて日本に同情を有つて居りまして、排日移民法を修正して、日本をクオータに加へねばならぬと論じて居ります。
 これは人の話ではありませんが、シカゴ・トリビユーンと云ふ新聞があります。之は中々有力でありますが、元来排日的の新聞紙でした。所が最近其論説欄で三日に亘つて移民法を論じ、日本をクオータに加ふべしと堂々と論じて居ります。此等を綜合して考へますと漸次移民法修正の気分が動いて来たと見ることが出来るかと思ひます。吾々官職にあるものが此問題に付て意見を発表することは避けねばならぬと思ひます。然し前にも申しました通り、何にも云はずに居りますと、日本人は忘れたと云ふように誤解せられる恐がありますから、渋沢子爵始め諸君等の如き有力な方々が、絶えず意見を発表せられるのは極めて結構で御座います。
 甚だつまらぬことを申上げまして恐縮で御座いますが、私のあちらに在任中見聞し経験した所を申述べた次第で御座います。多少とも御参考になりますれば本懐で御座います。それでは之で失礼致します。
かくて別室に移り、紅茶を摂り款談の後、散会したのは午後四時半過であつた。