デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
3款 日米関係委員会
■綱文

第35巻 p.196-208(DK350042k) ページ画像

昭和6年6月12日(1931年)

是日、当委員会主催ハーバート・エス・ヒューストン歓迎会、丸ノ内東京会館ニ催サル。栄一欠席ス。次イデ十九日、ヒューストンヲ飛鳥山邸ニ招キ、当委員会小数委員ト共ニ懇談会ヲ開ク。


■資料

ヒューストン博士歓迎書類(DK350042k-0001)
第35巻 p.196-197 ページ画像

ヒューストン博士歓迎書類          (渋沢子爵家所蔵)

拝啓、陳者紐育日本協会会員トシテ日米親善関係増進ノ為多年尽瘁シ来レル親日米人「ハーバート・エス・ヒユーストン」博士(Herbert S. Houston)夫妻ハ、今般本邦事情視察旁々観光ノ目的ヲ以テ、六月十一日横浜着ノ秩父丸ニテ来朝ノ上約一ケ月間本邦滞在ノ予定に有之候処、御承知ノ通リ同博士ハ雑誌The World's Work, Our. World, 及 The Foreign Affairs関係者トシテ、米国言論界ニ於テ重キヲ為シ居リ、又実業方面ニ於テハ、十年前発起人ノ一人トシテ万国商業会議所ノ組織ニ尽力シ、其レ以来米国側委員トシテOwen D. Young, Thomas W. Lamont, Silas Strawn等ト共ニ国際通商発展ノ為努力シ来レルモノナルカ、同博士ノ如キ人物ニ本邦視察上ノ便宜ヲ供与スルコト望マシキ儀ナリト存セラルルニ付、御差支無之キ限リ便宜供与方御高配相煩度、此段御依頼旁々得貴意候 敬具
 追テ同博士夫妻歓迎ノ世話ニ当リ居ル日米関係委員会幹事ヨリ本件ニ関シ何等願出ノ節ハ、同幹事ノ希望ニ副ハルル様御配慮相煩度候
  昭和六年六月二日
                  外務省情報部長
                      白鳥敏夫
   東京商工会議所会頭
    男爵 郷誠之助殿

    「ハーバート・ヱス・ヒユーストン」博士ニ就テ
一八六六年米国「イリノイ」州ニ生ル、「シカゴ」及「ボストン」大
 - 第35巻 p.197 -ページ画像 
学ニ学ヒ、一九一七年「サウスダコタ」大学ヨリ博士号ヲ贈ラル、大学卒業後操觚界ニ入リ「シカゴトリビューン」其他ノ新聞雑誌ニ関係シ記者トシテ身ヲ起セルカ、其ノ後雑誌The World's Work及Our Worldノ発行者トナル、現在ハ右雑誌発行者ノ地位ヨリ退キ居ルモ米国言論界一方ノ重鎮トシテ一般ニ認メラル
一九二四年「コスモス」新聞組合ヲ、又一九二八年「コスモス」放送会社ヲ創立シ、現ニ其ノ社長タリ
氏ハ夙ニ国際問題ニ深キ興味ヲ有シ、大戦中ハ米国政府ノ情報部員タリ、又熱心ナル国際平和主義ノ唱道者ニシテ、其ノ方面ニ於テ「ウイルソン」「タフト」前大統領及現「フーアブー」大統領トモ接近シ、平和運動ニ関シ大統領等ニ種々献策スル所アリ、其ノ業績ヲ一般ニ認メラル
国際問題ニ関スル氏ノ活動ノ重ナルモノヲ挙クレハ次ノ如シ
 前検事総長「ウイツカーシヤム」ト共ニStudent's International Unionヲ創立ス。
 米国ニ於テ最モ権威アル外交雑誌Foreign Affairsヲ機関誌トスル外交問題研究団体Council on Foreign Relations(此種団体トシテ最有力ノモノ)ノ創立者ノ一人トシテ、国際智識ノ普及ニ努力ス。
 故「タフト」大審院長ヲ会長トセルLeague to Enforce Peaceノ実行委員トシテ、米国ヲ国際聯盟ニ加入セシムル為全国的運動ヲ起セリ。
 一九二〇年米国商業会議所ヨリ選ハレ、他ノ四名ノ一流実業家ト共ニ米国側委員トシテ巴里ニ派遺セラレ、今日ノ万国商業会議所ノ創立ニ尽力シ、其ノ後続イテ米国側委員トシテ国際商業発展ノ為努力ス。
氏ハ最モ誠意アル親日家ニシテ、紐育「ジャパン・ソサヱティ」ノ幹部トシテ多年日米親善ノ為努力シ居リ、有ラユル機会ヲ捉ヘテ両国ノ理解増進ノ為尽瘁シ居レリ、一九二四年排日移民法カ議会ニ提出セラレシ際ノ如キハ、同法ヲ以テ米国ノ不名誉トシ其ノ阻止ノ為目覚シキ活動ヲ為セリ
氏ハ日本名士ノ間ニ知己ヲ多ク有ス


ヒューストン博士歓迎書類(DK350042k-0002)
第35巻 p.197-198 ページ画像

ヒューストン博士歓迎書類         (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然ハ予て米国言論界並に実業界に於て重きを為し、特に紐育日本協会理事として日米親善増進の為多年尽瘁せられたるハーバート・ヱス・ヒユーストン博士には令夫人同伴来邦被成候に付、歓迎の意を表する為来十二日(金)午後七時三十分東京会館に於て招宴相催候間、御多用中乍恐縮御光臨の栄を得度、此段御案内申上候 敬具
  昭和六年六月五日
             日米関係委員会
              常務委員 子爵渋沢栄一
              同      藤山雷太
 - 第35巻 p.198 -ページ画像 
    子爵 渋沢栄一殿
    同   令夫人
  追て御服装は燕尾服又は羽織袴に願上候
  乍御手数御都合別紙葉書にて御示被下度候


渋沢栄一電報控 ハーバート・エス・ヒューストン宛 (昭和六年)六月八日(DK350042k-0003)
第35巻 p.198 ページ画像

渋沢栄一電報控  ハーバート・エス・ヒューストン宛 (昭和六年)六月八日
                     (渋沢子爵家所蔵)
 秩父丸
  ハーバート・エス・ヒユーストン
                 六月八日 渋沢
貴台並令夫人の御来訪を衷心より歓迎す。御上陸早々拝光の機を得度鶴首す。日米関係委員会員一同と共に心からの御挨拶を申上ぐ。


(ハーバート・エス・ヒユーストン)電報 渋沢栄一宛一九三一年六月九日(DK350042k-0004)
第35巻 p.198 ページ画像

(ハーバート・エス・ヒユーストン)電報  渋沢栄一宛一九三一年六月九日
                     (渋沢子爵家所蔵)
  Choshimusen, Chichibumaru
Viscount Shibusawa Takinokawa Tokyo   June 9, 1931
Warmest greetings gladly accept all invitaions arigato radio subject radio binds warld《(o)》 together  Houston
                    (別筆)
                    六月九日(火)
          (別筆)
          六月九日午後四時半入手、直ちに御披露申上げたり


ヒューストン博士歓迎書類(DK350042k-0005)
第35巻 p.198-199 ページ画像

ヒューストン博士歓迎書類         (渋沢子爵家所蔵)
 昭和六年六月十二日(金)午後七時三十分於東京会館
 ヒューストン氏及令夫人歓迎晩餐会出席者名薄
              主催者 日米関係委員会
                 来賓
            (太丸ハ朱書)
              ○   ヒユーストン氏
              ○   同令夫人
                 陪賓
              ○男爵 幣原喜重郎氏
              ○   白鳥敏夫氏
              ○   同令夫人
              ○   鶴見憲氏
              ○ウヰリアム・テイ・ターナー氏
              ○アール・ビー・トイスラー氏
              ○   同令夫人
              ○ジエー・アール・ゲアリー氏
              ○   同令夫人
              ○子爵 石井菊次郎氏
              ○   同令夫人
              ○   新井尭爾氏
              ○   高久甚之助氏
 - 第35巻 p.199 -ページ画像 
              ○   大谷登氏
              ○   柏木秀茂氏
              ○公爵 徳川家達氏
              ○   永田秀次郎氏
              ○   尾崎行雄氏
              ○   同令嬢
              ○伯爵 後藤一蔵氏
              ○   田昌氏
              ○   井川忠雄氏
              ○   同令夫人
              ○   土方久徴氏
                 主人側
              ○   一宮令夫人
              ○   新渡戸稲造氏
              ○   同令夫人
              ○男爵 団琢磨氏
              ○   頭本元貞氏
              ○   内田嘉吉氏
              ○   串田万蔵氏
              ○   山田三良氏
              ○   藤山雷太氏
              ○   同令嬢
              ○   服部文四郎氏
              ○   小畑久五郎氏
              ○   高木八尺氏
              ○   佐治祐吉氏


ヒューストン博士歓迎書類 【ヒユーストン博士並令夫人歓迎辞 日米関係委員会常務委員 藤山雷太】(DK350042k-0006)
第35巻 p.199-201 ページ画像

ヒューストン博士歓迎書類         (渋沢子爵家所蔵)
    ヒユーストン博士並令夫人歓迎辞
          日米関係委員会常務委員 藤山雷太
ヒユーストン博士並令夫人
閣下、紳士淑女、及
日米関係委員会委員諸君――
 紐育在住の日本人間で父母の如く仰がれてゐるハーバート・エス・ヒユーストン博士並令夫人を、今夕、我日米関係委員会が御招待申す事の出来ましたのは此上もない喜びであります。
 本夕は渋沢子爵が親しくヒユーストン博士並令夫人を御歓迎申上ぐる筈でありましたが、御高齢の為夜分の外出を医者にとめられましたので、御欠席になりました事は、私共一同遺憾に堪へぬ次第であります。渋沢子爵は我日本の国宝でありまして、太平洋の彼方からもグランド・オールド・メン・オブ・ジヤパンとして仰ぎ慕はれてゐられるのであります。従つて私が渋沢子爵に代つてヒューストン博士御夫妻歓迎の辞を申述べるといふ事は、僭越の至りであると恐縮に存ずるの
 - 第35巻 p.200 -ページ画像 
であります。
 扨、ヒユーストン博士は最も新しい世界の先駆者として、「世界の大勢」及「我等の世界」と称する言論機関を有し、ラヂオ通信社の社長であり、教育映画の研究者であり、青年の指導者であるのでありまして、米国言論界並に実業界に勢力ある紳士でいられます。特に平和促進同盟の執行委員としては、元の大統領タフト氏を助けて当時八面六臂の働をせられ、尚ほ引続き活動せられつゝあるのは世間周知の事実であります。
 これ丈でも大体窺はれますやうに、ヒユーストン博士は国際人であつて、人類の幸福の為に貴重なる時と金とをデヴオートする所の偉大なる人類の恩人であります。
 ヒユーストン博士は殊に日米親善の為には古くから全幅の努力を致されて来たのであります。紐育の日本協会の理事として御尽力下された事は申すに及ばず、米国へ渡つた程の日本の名士は孰れも懇な御交誼に浴してをります。徳川公爵を初め歴代の日本大使、此処に見えられてゐる石井子爵、又故珍田伯爵、現外務大臣幣原男爵御夫妻など、皆孰れもヒユーストン博士夫妻の親しい友人であります。
 日本は小さい国であり、米国は大きい国であります。日本は古い国であり、米国は新しい国であります。日本は帝国であり、亜米利加は共和国であります。米国は富裕な国、日本は貧乏な国であります。
 日本は決してマルコ・ポーロの考えへたやうな黄金の国でもなければ秦の始皇の求めましたやうな不老不死の霊薬を生ずる楽園でもありませぬ。けれども日本に桜の花があるやうに、日本には又武士道があります。――義を見てせざるは勇なき也、弱きを扶け強きを挫くといふ正義人道の魂があります。此精神的方面に於て大和魂と亜米利加魂とが全然一致するのであります。日米両国が以上述べました様に物質的及外形的に非常な相違あるにも拘らず、過去七十有余年間世界に比類の無い親善融和の国交を継続し来つたのは、此精神的一致に基くものであると私は断言して憚らないのであります。而して此二大国民が太平洋を中に挟んで、世界の平和と人類の幸福とを増進する為に努力しつゝある事は、両国の識者の等しく認める所でありまして、我日米関係委員会が米国の米日関係委員会と相提携して永年の間所謂国民外交を実行しつゝあるのは、取も直さず其一つの現れであります。
 ヒユーストン博士が国際平和に努力せらるゝのは、実に正義人道の観念に立脚してゐるのでありまして、博士は常に「米国の外交方針は宜しく、全国家本位を以てすべく、政党党派の如何によるべきにあらず」("American foreign policy should be national and not partisan")と明言し、且つ之を実行して居られるのであります。博士には、ウヰルソン大統領が民主党の総裁であるから反対するとか、或はタフト大統領・フーヴア大統領が共和党の総裁であるから賛成するといふ様な偏頗心は無いのであります。これ博士が民主党政府の下にも共和党政府の下にも一様に、米国の国際聯盟参加の運動を熱心に唱道せられ、また千九百廿四年の排日移民法案の通過阻止に非常なる努力を致され、通過後も其廃止の為に寝食を忘れて奔走せられつゝある所
 - 第35巻 p.201 -ページ画像 
以であります。
 今回斯の如き正義の士、平和の使が我国を訪れられたのは願うても無き我国の幸福であります。我々は博士の聡明克く眼光紙背に徹して我美点並に欠点を洞見せらるゝを疑ひませぬ。百聞一見に如かずといふ諺がありますが、親善は先づ知る事を先にせねばなりませぬ。故に博士の視察たるや、将来の日米親善に貢献する所甚大なるべきを信ずるのであります。
 而して我々日本人就中我日米関係委員会委員は、博士の御視察の便宜の為には喜んで出来得る限りの労力を惜みませぬ。どうぞヒユーストン博士は此点をよく御含み下さつて、些も御遠慮なく申出でいたゞき度いのであります。
 斯くして、我国を知られたならば、我長は之を採られ、又我短は胸襟を開いて戒められ、以て此旅行の御目的を達せられますやうに婆心乍ら御願申すのであります。
 爰に皆様と共に盃を挙げてヒユーストン博士並令夫人の御健康を祝し上げ度いと存じます。


ヒューストン放送講演筆記(DK350042k-0007)
第35巻 p.201 ページ画像

ヒューストン放送講演筆記       (渋沢子爵家所蔵)
           (COPY)
    RADIO BINDS THE WORLD TOGETHER
  The goodwill ship "Chichibu Maru," bearing Their Imperial Highnesses, the Prince and Princess Takamatsu, home to Japan from their trip around the world, on last Tuesday morning was a thousand miles out to sea. A misty fog enveloped ship and ocean. Surely there was no visible means of communication with the outside world. And then, there came through the dark and rainy air this personal message from Viscount Shibusawa:
   "Offer warmest welcome to yourself and Mrs. Houston and look forward with keen expectation to the pleasure of shaking hands at first opportunity on Japanese soil. All members of the Japanese American Relations Committee request me to extend hearty greetings."
  Here, in truth, was an invisible hand of welcome, extended through the rain and fog far out to sea.......
  ○右ハ昭和六年六月十三日、日本放送協会愛宕山東京中央放送局ヨリ、ヒユーストンガ放送シタル演説ノ起頭ナリ。"Tuesdey"ハ六月九日ナリ。


ヒューストン博士歓迎書類(DK350042k-0008)
第35巻 p.201-202 ページ画像

ヒューストン博士歓迎書類         (渋沢子爵家所蔵)
拝啓益御清適奉賀候、然ば今般ハーバート・エス・ヒユーストン氏の来邦を機とし、日米関係委員会の小数委員各位と共に同氏を中心として、日米問題に付自由の御談話致度と存候間、御多忙中御迷惑の儀とは存上候得共、何卒来十九日(金)午前九時三十分飛鳥山拙宅へ御来臨被成下候はゞ難有仕合に奉存候、此段御案内申上度如此御座候 敬具
  昭和六年六月十二日
                      渋沢栄一
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  尚ほ当日は左記諸氏に御出席相願置候(イロハ順)
   新渡戸稲造氏 男爵団琢磨氏 頭本元貞氏 内田嘉吉氏 串田万蔵氏 藤山雷太氏 男爵森村市左衛門氏
  乍御手数御都合別紙葉書にて御示被下度候
  ○当時阪谷芳郎病気ノタメ長期ニ亘リ欠席ス。


日米関係委員会集会ニ関スル控(DK350042k-0009)
第35巻 p.202 ページ画像

日米関係委員会集会ニ関スル控     (日米関係委員会所蔵)
 昭和六年六月十九日(金)午前九時三十分、於飛鳥山邸
 日米問題に関する懇談会
         (太丸ハ朱書)
         ○ハーバート・エス・ヒユーストン氏
                ○新渡戸稲造氏
              欠男爵団琢磨氏
                ○頭本元貞氏
                ○内田嘉吉氏
                欠串田万蔵氏
                欠藤山雷太氏
              欠男爵森村市左衛門氏
              ○子爵渋沢栄一氏
                ○小畑久五郎氏
                ○佐治祐吉氏


総長ト外国人トノ談話筆記集 【日米問題に関する懇談会】(DK350042k-0010)
第35巻 p.202-208 ページ画像

総長ト外国人トノ談話筆記集        (渋沢子爵家所蔵)
    日米問題に関する懇談会
            昭和六年六月十九日(金)於飛鳥山邸
 米国言論界の名士ヒユーストン博士(Dr. Herbert S. Houston)の来遊を機とし、小円卓談話会が催された。
       出席者       ヒユーストン博士
                 新渡戸稲造博士
                 頭本元貞氏
                 内田嘉吉氏
                 青淵先生
 早朝は五月雨の今にも降りさうな空模様であつたが、後にはカラリと晴れて庭の新緑が美しく輝いて恍惚とするばかりであつた。
 午前九時十分内田・頭本の両氏先づ見えられ、廿分新渡戸博士が見えられ、丁度約束の九時半にヒユーストン博士が小畑久五郎氏同乗で見えられ、青淵文庫へ入られた。
 それから廿分計りして青淵先生は羽織袴山高帽にステツキをついて文庫へ出られ、握手が済んで読書室の北側の小卓を囲んで着席せられた。因にヒユーストン博士は去る十二日日本上陸の翌日一度王子へ挨拶に見えられたのであつた。
 - 第35巻 p.203 -ページ画像 
青淵先生「私は老衰且つ所労の為甚だ御無沙汰致して居ります。本日は再び御足労頂き誠に恐縮に存じます。」
ヒユーストン博士「本日また再び親しく御目にかゝること得まして、非常に有難く存じます。」
  小畑氏先生に紹介状を手渡しする。
先生「ヒユーストンさんが御出かけなすつたに就て、かういふ人であるといふ丁寧な紹介状がだんだん参りました。ウッヅさん、ワナメーカ商会のアツペルさん、それにカーネギーさんの未亡人からも参つてをります。」
ヒ博士「子爵には亜米利加でお目にかゝつてをりまするし、紹介の必要も無かつたのですけれども、友人が心配をして呉れたのでありませう。」
先生「日本へお着きになつて間もないことですから、十分御研究と迄はいかないでせうが、一体の様子は御承知下すつたらうと思ひます私は言葉は通ぜんでも、自身でお供して御案内したいと思ふが、所謂年のせいで思ふに任せず、すつかり御無沙汰してお訪ねも致しませんやうな訳で、最も敬愛する御友達に対して礼儀を欠いた事を甚だ残念に存じます。」
ヒ博士「有難う存じます。今回は小畑さん、此処に御出の方々其他の人々から心を籠めて御歓待を蒙りまして、古い友人とも遇ひましたし、新しい友人も出来まして、日本の事情に就ては誠に都合よく観察する事が出来ました。帰国の上は何か具体的な方法で、両国親善増進の実を挙げ度いと思うてをります。」
先生「御接待の行届かぬにも係らず、さうまで心から仰しやつて下さるのは、私のみならず、此処に集つた人々は勿論、日本に於ける日米関係の事を深く心配して居る向が孰れも難有く思ふに相違御座いません。」
ヒ博士「従来方々旅行致しましたが、日本で受けましたやうな心からの御歓待は始めてで御座います。家内も同様に申して衷心から感謝して居ります。」
先生「今はもう体もよく利かず精神も弱つてをりますが、一応何故に私が亜米利加に対して斯かる感情を有つに至つたかに付て、手短かにお話し申し度いと思ひます。老人の愚痴で却つて恥かしい位に存じますけれども、申上げねば筋が通らぬと思ひますから敢て申上げる次第で、衷情御諒察願ひます。」
ヒ博士「子爵の御口から親しく承ることの出来るのは、何よりの幸福です。」
先生「私は東京を去る事二十里ばかり経つた土地の農民の子として生れました。鋤や鍬を取つて田畑を耕すのが私の家の業体であつたのです。其時分には支那の学問をするのが日本の風習でして、立派な学問とては無いけれども、ともかく農民としての学問を私の親がさせて呉れました。斯く少年の頃から支那学問をしたので、外国に対する感情も当時の支那学者から植付けられました。丁度亜片問題から支那の道光の乱が起つて支那の本国も危い――といふやうな事態
 - 第35巻 p.204 -ページ画像 
が生じてをりましたので、どうもよその国は他の国を掠めるもの、当時支那学者は欧米人を外夷外夷と云うて嫌つたのです。殊に亜片問題に就ては支那の方も悪いであらう、悪いであらうが禁令に背いたからと云つて林則徐が英吉利の荷物を取つて焼いたのを、つまりは口実にして土地を占領した、然らば人の国をとるのを仕事としてゐるものである。――これは実に容易ならぬものであるといふ感じが、学者とか有志とか云はれた人々の間に起つて、私は当時の斯る人々から排外思想を吹込まれたのです。さうなると考へれば考へる程外国が恐かつたのです。」
先生「これは少青年の時分に聞いたものですから、外国排すべしと云ふ感触から、その外国に頭の上らぬやうな幕府が悪い――当時は幕府が日本の政治をとつてゐましたので、政治の中心たる幕府がこんなことでは困ると考へました。此軟弱極る幕府を倒して根本から政治を改めねばならぬと考へて、同志を集めて所謂暴挙の準備にかかつたのです。所が同志の一人がこんな馬鹿な事をしてはならぬ、要するに意地を徹すだけで、其目的を達する所以でない、一死報国と云うて見たところで、国の為にならねば何にもならぬ。名もなき流賊として死すへきでないと切に反対した為、遂に中止することになりました。暴挙を中止して見ますと其儘故郷に居ることは危険であるところから、遂に家を出て京都に行き、滞在中予て懇意にして居た人の心配で一橋家の家臣となりました。斯く変遷する間も外国に対しては略同様の観念を有つて居りました。外国恐るべし、外夷排すべしといふ感触を始終有つて居りました。然しながら此頃では全然排斥と云ふよりは、疑惑と尊敬とが混淆して居つたと云ふのが適当かと思ふ状態であつたのです。と云ふのは医術とか兵器とかの科学の方面では、欧米には学ぶ所が多いと考へるに至つたのであります。所が千八百六十七年仏蘭西の博覧会に一橋公の弟君が赴かれるといふので、私もお供をして参る事になりました。そこで学問的といふでは無いが、大いに啓発されたのです。先是仏蘭西へ行く船中で亜米利加の事に就て同僚の田辺の口から種々聞かされました。殊に最初の公使タウンゼンド・ハリスの事柄を強い感じを以て聞きました。ハリスの通訳ヒユースケンが殺された時に、ハリスの心配で無事に治める事が出来ましたことゝ、其他条約締結に付てのハリスの心配――英吉利の支那に対する関係とは全く異つてゐるといふ事を田辺が説いたので、大いに啓発せられる所がありました。それからだんだんよく訊くと、ヒユースケンが殺された時には諸外国の公使達は旗を巻いて江戸を引揚げようとしましたが、ハリスは之を止めて「新しい国と交通を開かうというには、えて有り勝ちな事である」と云つて猶江戸に留まり、好意を以て交渉を致して呉れたといふ事が判りました。従来、外国は自己の為には如何なる勝手な振舞をもするもの、それが蛮夷の風習であると信じてゐたものが、タウンゼンド・ハリスの行動を知れば知るだけ、趣を異にすることが分りました。
 仏蘭西より帰つてから、よく亜米利加のことを見たり聞いたりする
 - 第35巻 p.205 -ページ画像 
に従つて自分の誤解が明かになり、私の最初の外国嫌が此処に全く一変したのです。学ばぬ為に物の判らなかつたのは恥かしいけれども、実際に此処で目が醒めたのです。お目にはかゝらんけれども、亜米利加のタウンゼンド・ハリスの行動が私の心を覚醒して呉れたのです。――ヒユースケンの殺されたに就て、外国の公使達は江戸を立退かうとしたのに、ハリス丈は、それはよくない事だと云つて反対した。それではもし暴徒が押寄せて来たらどうするかとなじると、いや、その時はたゞ死あるのみだ、新しく一国と交通を開くのにこんな事に騒ぎ立てるといふのはよろしくないと云つて、頑として引揚に同意せず、為に事なくして終つたのです。爾来五十年ハリスに対する敬慕の念愈深いものがあります為、先年シカゴのウルフさん、又当時大使をされてゐたバンクロフトさん(これは不幸にも日本で逝去せられたが)等と話し合つて、ハリスを記念する為、碑を立てました。これは誇張でもない、御世辞でも無い、――真実私の感ずる所を赤裸々に申上げたのです。
 かういふ次第で、私はお国の言葉には通ぜんでも、お国のお友達に久しく親交をつゞけてをる方々が多いのです。尤ももう今では大分死なれました――長生をしてゐる私が悪いのかも知れませんけれども――ゲーリさんも死ぬ、ライマン・ゲーヂさんも死ぬ、大抵古い時分からの友達は皆死にましたがね、……
 随分古いことを申上げて御迷惑恐縮ですが、タウンゼンド・ハリスの行動を知り、身を捨てゝこそ誠の事が得られるものだといふ信念奪ふべからざるを見て、亜米利加の立派な人々の真骨髄を知つた為米国を尊敬することになり、延て日米親善に微力を尽して今日に及んだのであります。かく申上げると些細な行がかりの感情の様ですけれども、私はハリスの話を聞いて感じたのみでなく、詳しく調べて見ると、なほ条約改正に就ても下関砲撃事件に就ても、亜米利加が立派な態度に出たことを知り尊敬するに至つたのであります」
ヒ博士「お話によりまして、日米親善関係には歴史的根拠があるといふ事を承知致しました。それに就ても我亜米利加の伝統的外交方針は、依然としてハリス時代の親善尊重を以て一貫してをるのであります。移民法は全く遺憾ですが、之は米国の国策から一寸横道へ入つたもので、丁度私が日本へ着いた日は雨天でしたが、いつも雨ではないと同様で、将来必ずや伝統的親善に戻るものであるといふ事を堅く信じてをります。」
先生「誠に明瞭な御理解を以て御話下されて難有く存じます。
 貴方などは決して正しいとお認めにはなりますまいが、只今の有様だと何となく心苦しく感じますので、日本人として亜米利加の方に意見がましいことを申上げる様になります。かく申すと、何かねだるやうに聞えて面白くありませんし、甚だ心苦しい次第です。況んや、今の御話から、移民法に対して直ぐに之をどうどうと申すつもりではありません。
 移民問題に付て考へて見ますと、加州の日本移民にもよくないものがあつて、亜米利加の人々があんな日本人をと考へるのも無理では
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ないと思ひます。又片方ではさう仕向けられるから意地になると云ふ事になると云ふ傾もないとは申せません。かうした行違がかうじて不幸にしてアンナ法律が出来たのですけれども、お互に冷静に考へればさうむづかしい事ではない筈です。丁度貴方と私とが、かうして心静かに話し合つて居るやうな気持にさへなれば、さうむづかしい事柄ではない筈です。私共はようく此間の事情を理解してをりますから、決して苛立つてはをりません。けれども相当のお方が見えると、つい愚痴らしく、希望がましく申上げねばならなくなります。どうぞ私の衷情をお察し下すつて頂き度いのです。」
ヒ博士「私は子爵と同様に感じてをるものです。移民法が米国の伝統的政策から外れてゐる事を遺憾とするのは、むしろ日本人よりも痛切なものがあります。それは間違をしたのは我国であるからです。之は必ず改正する日がある事を確信します。」
先生「我々に同情をもつて下さる事は此上もなく嬉しう存じます。前に、我移民の行動や考方の悪かつた事がある、他所の国へ行つて礼儀を欠き勝手な事を云ふといふ風がありました。然しそれを以て直ちに日本の国はかうであると思うて下すつては困ると云ふことを、嘗て渡米した際御国の人々達とも面会してよく事情を詳しく知らせたいと骨折りましたけれども、十分目的を達することが出来ませんでした。と云ふのは或種類の人は日本人排斥を職業としてゐる。さういふ人と論争をするやうになつても困るから徹底するに至らずしてやめました。心ある日本人は――かうして此処で四人がお話し致してをります通り――決してあの移民法がある為に、国交にどういふやうな事は無いと思ひますし、又私がかうして居る以上は決して左様な事はさせませんから、其点はどうぞ御安心下さい。」
ヒ博士「その御心持はよく判りました。素より亜米利加の有識者は皆あの法律は間違であるといふ事は深く感じてをります。
 これは亜米利加の問題である。これは亜米利加が自発的に正すといふ事でなければならぬ。その正すのに妨げがあつてはならぬ。
 此問題に就ては隠忍して静かな態度をお取り下されば、我々は自由な行動をとる事が出来るのであります。」
先生「御心入御尤に存じます。短い御言葉ですけれども、此処に集つてゐる四人はよく理解致してをります。」
ヒ博士「此問題が如何なるかに就て、私自身の観察を申上げて置きませう。
 丁度来年亜米利加に大統領選挙が行はれます。故に此処暫くが誠に困つた時期で、日本の為に好意を以て計るものの余程慎重を要する所であります。共和党及民主党は共に非常なる注意を払つてをりまして、日本の移民問題を持出す事を非常に嫌つてをりますので、此期間は此問題を伏せて置かねばなりません。
 次の大統領選挙には共和党はフーヴアを立て、民主党ではフランクリン・ルーズヴエルトを立てませう。ルーズヴエルトはウイルスン大統領時代に海軍次官をした人で、只今紐育州の知事を致してをりますが、知事の選挙では未曾有の大多数を以て選出された人です。
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 此ルーズヴエルトも亦国際問題の熱心な研究者でして、亜米利加は国際聯盟に入らねばならぬといふ見解を有する人であります。然し当選するのはフーヴアでありませう。フーヴアは人気があり、公平で、理想を有する人でありますから。
 けれどもどちらが勝つにしましても、此移民問題の解決を見ようといふのはその後でなければならぬと思ひます。」
先生「誠に御親切に政治上の働に就て御示し下されて、大いに会得したやうに思ひます。あせつて事態を困難に陥れてはなりますまい。けれども、どうぞして此事情は亜米利加の識者に御了解をさせて貰ひ度い。又御話の時期に就ては、どうぞ十分に我識者は理解してをるものと御承知願ひ度い。」
新渡戸博士「然し私はあせる方だよ。」(一同笑ふ。)
先生「そのルーヴベルトさんは大統領であつたルーズヴエルトさんとはどういふ御関係の人ですか。」
ヒ博士「左様――従兄弟――再従兄弟に当りませうか――私は今のテクサス州を墨其西哥から取つた、ヒユーストン将軍の末裔です。……」(笑)
ヒ博士「選挙中は此問題を出す事はよろしくないと考へますが……新渡戸博士はどうお考えですか。」
新渡戸博士「出さぬ方がよろしいでせう……党派の問題にしたから米国は国際聯盟に入らない様になつた。」
ヒ博士「先日日米協会の午餐会に外務大臣の幣原男爵や次官の永井さんから、何かいゝ考はないか、具体案があつたら出して貰ひたいといふ話がありましたので、英国の政府が紐育に作つている英国報道図書館(The British Library of Information)の話をしました。此図書館には英吉利に関するあらゆる図書を備へ、且つ一般の質問に応じてゐるのですがお互の了解の為には此上ない役に立つてをります。之に倣つて日本を知らせる機関を設けたらばと云ふ案を話して置きました。又東京商工会議所の晩餐会でも団男爵は私の話を新聞で見たといふことで君の案は善い考だ、然し日本では政府の手でやらず民間の手でやつたらよからうと思ふと云つて居られました。此図書館では、英吉利に就て知りたい事は何でも其処へ尋ねれば、すつかり調べて呉れます。商売人が尋ねても同様に親切に教へて呉れます。これは誠に公明正大な、野心のないものである。これを日本でも米国に作つたらどうかと考へたのであります。
 何故かういふ考を起したかと云へば、嘗て軍縮会議の折、シカゴ・デーリ・ニューズの暗号係をしてゐた男が、日本の内田外相より幣原大使への秘密電信をどうして知つたか、すつかり知つて、これを新聞に公表したのです。内容は何等問題となる性質のものではない――『今回の軍縮会議に就ては日本の立場を亜米利加の国民に知らせねばならぬ、同時に亜米利加の輿論を日本に有利に導くやう勉めよ。』といふこれ丈のものである。而もこれを暗号電信によつて命令したといふので、えらい疑惑を生じて非常な害を醸した事があるのです。
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 かういふ事実に鑑みて、此各方面から好感を寄せられてゐる公明正大な機関を起される事をお奨め致したのです。勿論、日米文化協会(the Culture Centre)といふものも、コロムビア大学に設けられたやうですが。」
先生「それは私も知つて居ます。――多少関係致しました。」
ヒ博士「それに関聯してでも、もつと立派な常置の機関を……」
先生「然し、人は余程選択せねばならぬが――つまり字引の生きたものといふ訳だね。」
内田嘉吉氏「ライブラリーはいくらもあるが――」
新渡戸博士「先達コロムビア大学のバツトラ総長から手紙が来ましてね、これから毎年日本講座を開く、その第一回の講師として来て呉れないかと云つて来ました、まだ返事は出しませんが――今度は詳しく返事を書いてやるつもりです――行かないと云ふ事を。」
 (註。博士は移民法の改正せられざる限り渡米せずと宣言せられ居れり。)
ヒ博士「小畑さん、私の演説が載りますから、明日のジヤパン・アドヴアタイザを御読なすつて、訳して子爵にお目にかけて下さい。」
小畑氏「承知しました。」
 もう正午に近かつた。正午は汎太平洋倶楽部のヒューストン博士歓迎午餐会があるので、一同暇を告げられた。


ヒューストン博士歓迎書類(DK350042k-0011)
第35巻 p.208 ページ画像

ヒューストン博士歓迎書類         (渋沢子爵家所蔵)
 昭和六年六月十九日(金曜日)午後四時、於木挽町歌舞伎座
 ヒューストン氏夫妻招待観劇会
            (太丸・太字ハ朱書)

        ○ハーバート・エス・ヒユーストン氏(ヌ23)
               ○同令夫人(ヌ21)
                井上秀子氏
井上氏俄ニ差支欠席ノ為同氏令嬢ニテ菅円吉氏夫人同支那子氏参会サレタリ○代菅支那子氏(ヌ19)
               ○堀越善重郎氏令夫人(ヌ18)
               ○柏木秀茂氏(ヌ24)
               ○頭本元貞氏(ヌ25)
               ○鶴見憲氏(ヌ26)
               欠主人
               欠主夫人
               ○渋沢敬三(ヌ22)
               ○同登喜子(ヌ20)
               ○小畑久五郎(ヌ27)
        以上〆十二人内出席十人欠席二人
一、用意 松竹直営食堂ニ洋食申付済同所小田辺徳弥氏ト引合済
一、氏名下の番号記号ハ歌舞伎座一階一等席ノ場所