デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
7款 大日本平和協会
■綱文

第35巻 p.530-536(DK350091k) ページ画像

大正6年5月23日(1917年)

是日、当協会、日米関係調査委員会ヲ丸ノ内中央亭ニ開ク。栄一出席シテ中国ニ対スル日米共同出資説ヲ述ブ。後、ギルバート・ボールズ夫妻送別晩餐会ニ移ル。


■資料

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正六年(DK350091k-0001)
第35巻 p.530 ページ画像

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正六年
                 (阪谷子爵家所蔵)
○五月廿三日、中央《(亭脱)》、ボールス氏帰米ニ付送別会、日米関係委員会、支那問題渋沢男演説


東京日日新聞 第一四五七八号大正六年五月二五日 ○平和協会委員会(DK350091k-0002)
第35巻 p.530-531 ページ画像

東京日日新聞 第一四五七八号大正六年五月二五日
 - 第35巻 p.531 -ページ画像 
    ○平和協会委員会
大日本平和協会にては二十三日午後四時より中央亭に於て理事会を開き、会務を議了後五時より同所に於て日米関係調査委員会を開催し、渋沢男、阪谷男、添田博士、福岡秀猪氏、宮岡恒次郎氏、江原素六氏、ボールス氏、ゲリー氏、オルトマンス博士、クレメント氏、マコーレー氏、ガーヂナー氏、バリス監督等の各委員出席、阪谷男座長席に着き、先づボールス氏は支那に於る排日的傾向の著しきを説き、右は延いて欧米人の誤解の種ともなるべきにより、何れに排日的傾向の主因ありやを探究するは今日吾人の義務なることを高調し、調査委員会設置の急務なる所以を述べ、渋沢男は日支の関係は極めて困難なる問題にして到底欧米人の予測し得ざる事情の介在せるを説き、差当り之が解決方法としては、一方門戸開放・機会均等・領土保全の精神を基礎とし日米資本家の経済的同盟により支那に大資本を投下するの必要なるを力説し、尚同六時半より同所に於てボールス氏夫妻の送別晩餐会を催し、九時過ぎ散会せり
   ○右新聞記事ハ「竜門雑誌」(第三四九号、大正六年六月)ニモ転載セラレタリ。
   ○六月二日、栄一個人トシテボールズ送別会ヲ催ス。



〔参考〕竜門雑誌 第三五〇号・第三七―三九頁大正六年七月 ○対支事業と日米提携 青淵先生(DK350091k-0003)
第35巻 p.531-533 ページ画像

竜門雑誌 第三五〇号・第三七―三九頁大正六年七月
    ○対支事業と日米提携
                          青淵先生
 本篇は六月一日発行の「日本経済新誌」に掲載せられたる青淵先生の談話なりとす(編者識)
      二個の要点
 今日は我国の上下、皆共に戦後の準備を講究し、産業の発展を図るに急なる折柄、余は諸君が又之に対し、各自に研究あることを信ずるものなり。而して余は、自ら曾て輸出業に従事したる関係より、聊か此方面の事項に関して所見を述べんと欲す。
 扨て、戦後に於て、世界の新たなる大勢は滔々潮の如く、絶東の方面にも押寄せ来り、我国に於ても、国民皆従前の如く、到底晏如たる能はざるものあり。即ち国民は一層の努力と奮闘とを以て事に当り能く其大勢に処し、以て機宜を誤つなからんことを期せざるべからず。
而して余は玆に二個の注意すべき事項を述べ、以て諸君の考慮を煩はさんとする者なり。即ち対支発展に最良の手段を尽し、大に其経営を遂げんことを期すると同時に、支那に於ける米国の利害と其衝突を避くること其一。次に各人の利己主義を放棄して、商業道徳の向上発達を図ること其二。現在我国に於ける対支貿易は頗る発達を示しつつあるも、未だ対支事業は、其発展頗る遅々として、毫も進境を見ざるなり。蓋し、対支貿易と対支事業とは二者相結合して完全に発達するにあらずんば、到底充分の効果を奏すべからざるや明らかなり。支那は四百余州の山河、天険を擁して、富源到処に横はる。其地味の肥沃にして物資の饒多なる、欧洲諸国の人々が開発を図るに先んじて、米国人は各方面より其開発に力を竭すこと、洵に至大なるものあらんと想
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はる。我国が既に獲たる地歩を維持し、将来益々発展せんとするには須らく米国と提携して、国際紛争を避くるを要す。
      日米の提携奈何
 余は之れまで度々米国に赴けるが、移民問題に関聯して何にかの用務を帯びたりき。明治四十二年には団体旅行にて行き、一昨年は又桑港に於ける巴奈馬紀念大博覧会の参観旁々旅行せり。其際視察せる加州の状況は従来より多少改良せられ居たり。日本移民に対する加州々会の態度など、余は大に気遣ひたりしかど、幸にして何事も起らず。偶々其際日米人の会合を好機として、米国人の日本研究団体創立せらるゝあり、当時余は日本にも斯る団体の設立せられんことを希望する旨述べたり。尤も斯る事項は、政府の尽力すべき事業にて、今日、日米協会の隆昌を見るは、洵に慶すべき事なり。最近米国の繁栄は、人も知る如くにして、債務国より一躍して債権国となりつゝあり。然るに、従来米国は対外発展よりは寧ろ対内事業に苦心したりしも、今日にては、対外発展の実際的必要に迫られ、紐育ナシヨナル・シチー・バンクの頭取バンダーリツプ氏の主唱に係るインターナシヨナル・コーポレーシヨンの活動は、独り南米の天地に止まらず、東亜の地域殊に支那の大陸に飛躍して放資を行はんとし、又ガストン、リクマー、ウイリヤムの諸氏も支那・露国方面に放資を行ふ商会を組織し、何れも陣容を整へ、旗鼓頗る堂々たり。余は滞米中バンダーリツプ氏其他数多の名士と会見して、日米両国相携して支那内地の開発を謀らんことを説きたりしに、人々皆満足の意を表したり。然るに余の帰朝したる後、紐育タイムス其他の新聞紙は、全然余の意見に反対の筆法を以て、記事を掲げたり。余は之れを一読して、実に不快の念に堪へざりき。然るに其後、ゲーリー氏の来朝するや、氏は余等の意見を諒として、日米提携の必要を高唱し、米国に帰りて後も亦、氏は各所に於て之れを唱道したる模様なり。夫れより漸次米国の有力なる筋に於て、日米提携説の提唱を聴くに到りぬ。
      商業道徳の向上
 人或は日本の同業者の利己主義に流れて一致団結を欠き、自他互に相排擠するの弊を指摘すと雖も、余は当業者の側に在りて、之れに対し、一応弁解をなさんとする者なり。开は総らゆる弊害は存するに相違なきが、国際商業を営む上に就て、我商工業者は、未だ五十年間の経験を有するに過ぎずして、其技倆の未熟、材能の欠如たる固より已むを得ざる所、而かも之れを捉へて直に欧米先進国の実状に比較し、以て云謂する所ある、聊か酷に失するなからずや。さればとて其弊害は事実存在するに拘はらず、何時迄も永く放置するは不可なり。当業者諸氏は、今後速に改悛する所ありて、真誠に産業の発展海外貿易の隆昌に全力を傾注せられんことを冀望するなり。本来、我国に於ける商業道徳は、維新以来進歩し居れども、猶未だ利己主義たるを免れず或は粗製濫造を為して、遂に自ら大損失を招き、自他の大損害となるが如き、畢竟目的の為手段を選ばざる弊習に因るものなり。世上の語に『商業は平和の戦争也』といふことあり。此語は甚だ妥当を欠くものにて、仮令平和の戦争と言ふと雖も、商業は決して戦争なる文字を
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以て表現せらるべき性質のものにあらず。斯る語は、全く商業道徳と相背馳せざるやの虞れなきにあらず。故に、此観念は今日に於て、宜しく放棄するを可なりと信ず。余は、我国民の支那に対する、須らく仁愛・忠恕の至誠を以て臨まずんば、甚だ不可なるべしと思惟す。蓋し商業の要諦は、他を利して己を益するにあること言を俟たず、戦後の経済界に処して、支那に対し、又米国と交る我国民は、深く此点に注意して、相警めざるべからずとす。
   ○大正六年及ビ七年ニ於ケル栄一ノ対支日米共同出資談ノ諸雑誌ニ発表サレタルモノ左ノ如シ。
     「対支那日米経済提携」      報知新聞    大正六年一月
     「支那産業之開発」        中外商業新報  大正六年五月十四日
     「日米両国の国民外交」      実業公論    大正六年五月十五日
     「対支事業と日米提携」      日本経済新誌  大正六年六月一日
                              ○〔参考〕欄採録
     「日本の満蒙貿易と日米共同宣言」 朝鮮及満洲   大正六年六月
     「将来の我貿易振興策」      世界公論    大正六年七月一日
     「対支政策に就て」        国民時報    大正六年七月
     「東大陸開発と帝国の国策」    大陸      大正六年十月
     「対外発展策の要義」       金星      大正六年十一月一日
     「日米親善と支那」        時事評論    大正六年十一月
     「日米提携論」          評論之評論   大正七年一月
     ナホ大正四年The Outlook, Dec. 22. ニモ左ノ一文ヲ掲ゲタリ。
     "Japan and America. How the war affects their mutual relations"



〔参考〕(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記 昭和三年(DK350091k-0004)
第35巻 p.533-536 ページ画像

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 昭和三年
                 (阪谷子爵家所蔵)
          (別筆)
           三年七月三日ガントレツト夫人
(タイプ)
    平和運動の今昔
      ○平和協会の創設
 我国は明治二十七八年戦争として支那と戦ひ、三十七八年戦争としてロシアと戦つたが、両者とも国運を賭しての戦争であり、他からの圧迫に依つて是非なく戦つたものである。相手は吾よりも大国であるけれども、吾国家の存立を完うする為めには戦争は止むを得ないものであつた。決して単なる領土慾に動かされてかゝる冒険を行つたものではない。然るにも不拘世界が我国民を以て好戦国民なるかに解釈せんとしたことは、前記二回の大戦を僅か十年毎に戦つて勝利を得た結果の悪るい方面の影響であらう。
 支那との戦争の解決が東洋に於て為され、しかも当時世界の列強に依つて無理な平和条件を強ゐられたが為めに、国民は臥薪嘗胆をモツトーとして雌伏隠忍の歳月を送つた。これが我国民に好戦国民の印象を与へしめた一つの源因であつたかと思はれる。
 而してロシアと戦つた後の平和解決が米国の調訂に依り且つ其の解決の場所が米国であり、世界輿論の前に於て為されたのであつたが為めに、先づ公平な解決であるとすることに国民は同意したのである。国民全体が恨を飲むと云ふやうなことはなくなつた。我国が世界的に
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列強の列に入つたのも此の時代からであると見ることが出来よう。従つて国民に於ても世界的な考を多く有つようになり、其一つの現はれとして平和運動の萌芽を見たのである。即ち大日本平和協会の発生である。
      ○平和協会の歴史
 之よりさき在留米国人の間に米人平和協会(アメリカン・コムミツテイー?)が存在し、其委員の一人なるジー・ボールス氏は江原素六氏に平和協会創設のことを慫慂したるが(年号不明)江原氏も之に同意を表し各方面の有志と図りて愈々其成立を見るに至り(年号不明)《(明治三十九年四月)》大隈重信伯を会長に推し(或は板垣退助伯)之を大日本平和協会と呼ぶことになつた。
      ○カーネギーの平和運動
 明治四十四年カーネギー平和財団がベルンに世界各国の経済学大家を招き経済会議を開くに際し、我国より阪谷芳郎男之に列席したるが其処にて将来の世界平和運動に関する国際提携の打合を行ひ、男は帰路米国を経由し、カーネギー財団に於てエライヒユー・ルート其他有力者と直接意見の交換を為し、平和財団の委任に応じて日本に於ける軍備及戦争と経済との関係並に支那に於ける国際的経済事情を研究調査することを諾し、帰国後大正元年六月日本経済調査会を組織し、同時に大日本平和協会の副会長として我国平和運動に指導を与ふることとなつた。
 平和協会の主脳者を見るに左の如き人々が役員となつて居り、会員の多くも著名の士を以てした。
○中略
      ○平和運動
 大日本平和協会は大正元年十二月十五日に「平和時報《(「平和」カ)》」なる機関誌を創刊し、平和に関する智識を国民に普及し、輿論喚起に努めることとしたが、講演会はそれより以前から引続いて行つてゐた。当時の来聴者が千名以上もあつたと云ふ処から見ると可成り盛んな活動をしてゐたものと思はる。
○中略
      ○国際的交渉
 国際的平和記念日行事を為すことが運動の一つとなされてゐたが、今日国際善意デーと呼ばるゝ毎年五月十八日の其日は当時にあつては「海牙デー」として欧米に於て記念された。大日本平和協会は一九一三年五月十八日に其記念講演会を青年会館に開いてゐる。会集八百余名、「世界の平和運動」なる小冊子が配られてゐた。
 また一八九〇年倫敦平和会議に於て承認された平和日曜を我国に於ては毎年十二月の第三日曜日を以てすることに定めたが、これは今日のゴールデン・ルール・サンデーに相当するものであると思はる。
 一九一三年ジユネーヴなる国際中央平和事務局は平和協会に対し、カーネギー財団提供の平和運動奨励資金から六百八十六円余を送附し来つた。
 加州の排日問題起るに及んで国内に及てはメービー博士の来朝を迎
 - 第35巻 p.535 -ページ画像 
へて講演会を開き、米国に対しては米国平和協会に該問題の正当なる解決を促し、両国に於ける冷静なる輿論の喚起に努めた。
      ○平和協会の発展
 協会は全国的団体にまで発展し、支部を仙台・大阪・神戸・東京・横浜・名古屋・岡山等に置くに至つた。
      ○平和運動と日米問題
 我国平和運動に不断の刺戟を与へたものは米国に於ける排日問題であつた。加州労働問題、加州土地法問題等があつて両国の無責任なる新聞紙等に幾多の軍国的主張や平和を阻害すべき悪宣伝が盛に行はれた。平和協会は常に根拠ある正しき報道を両国識者間に交換し、国民の冷静なる批判に訴ふるに忙がしかつた。この険悪な空気の中にあつて何等の無謀な突発的事件も起らなかつたのは現代の人心に比して国民が穏健であつたのかも知れないが、また平和運動に依る識者の努力が其功の一半に居るべきことを思はせる。会長大隈伯は一九一三年の「海牙デー」に際し「排日問題に就て」論じ、添田博士は十月「日米問題の将来」に就て講演してゐる如く、当時の平和運動としては日米問題に関聯する平和維持が極力追求され運動の眼目の一つとなつてゐたことを想見せしめる。
○中略
      ○平和運動の別働隊
 平和運動が先覚の士に依つて主唱せられ、それ等の人々は社会・学術各方面に於ても中枢的地位にあつたが為めに、其平和運動は単に民衆的平和運動のみに限らず別に特殊目的の建設的平和事業が別働隊として作られた。それ等機関は一般平和運動の消長に関せず永き生命を有つて日本乃至世界文化の為めに貢献しつゝある。平和協会第一回会長たりし大隈侯は別に大日本文明協会を起し、侯没後の今日に至るも意義ある各種講演会を開きつゝある。
 大隈侯に次いで会長たりし阪谷男はカーネギー平和財団の平和事業を賛翼する意味に於て、日本経済調査会を設け、東洋方面の経済事情を研究調査せしめ戦争と経済の関係を明かにせしめてゐる。協会理事ボールス氏は日語学校を興し、外人に邦語を教ゆるを以て日本国民の事情を正しく海外に伝へしむるものとし、平和協会創立時代より之を以て平和運動の質実なる事業の一たらしめ、最近に於ても種々有益なる会合を催しつゝある。同じく理事姉崎正治博士は帰一協会に依つて学術的研究よりする平和事業に当り居り、渋沢子爵は協会名誉評議員として平和協会に関与する一方其の実業団渡米以来組織せる日米委員会《(日米関係委員会)》を以て米国の同会と策応し、両国の親善平和に尽し居り、理事田川大吉郎氏は華府海軍々縮の精神的実行方面に尽す為め同志と共に軍備縮少同志会を組織してゐる。これ等は何れも平和事業に参与する人士の個人的勢力に俟つて発達し来つたものである。
      平和運動組織の変更
 「平和時報」は世界大戦中も継続発行されてゐたが、一九一八年に到つて休刊し、協会活動方針としては外来名士を招待して意見の交換を為し、協会主脳者の意見を欧文にて発表し、海外平和運動の紹介等
 - 第35巻 p.536 -ページ画像 
が行はれた。国際通信局を設けて之を平和協会・米人委員会・日米委員会《(日米関係委員会)》の三者に依つて支持し、適当なる平和運動を行はしめた。此の通信局は後に国際奉仕機関と呼ばれ、平和運動の便宜上我国に於ける各平和関係団体の為めに働くことゝなり、其聯合を「平和運動日本聯盟」と呼んだ。
      ○平和運動日本連盟
 この聯盟は左の団体の参加したものであつた。
  大日本平和協会   国際聯盟協会
  軍備縮少同志会   国際教育協会
  帰人平和協会    婦人矯風会
  基督教女子青年同盟 基督教青年会同盟
  基教徒世界聯盟
 右の各団体より委員を出し田川氏委員長の下に毎月一回以上の会合をした。一九二二年《(三)》の大震災に至るまで我国の平和運動はこの聯盟に依つて行はれ来たかの観がある。
      ○国際連盟協会と平和運動
 一九二〇年国際聯盟協会が創立せらるゝに際して其成立に寄与せる人々の多くは実際に於て同時に平和協会の主脳者であつた。其故に或は平和協会をして国際聯盟協会の事業に当らしめんとの議もありし程にて、当時別に平和協会を存せしむるに至つたのは之を存続せしめ置くことの意義あるべきを予期したるに依ると云はれてゐる。我国の聯盟協会が平和協会であることは他に何れの国の聯盟協会よりも特色のあることである。
 一九二二年《(三)》の震火災に依つて解体を余儀なくされた「平和運動日本聯盟」は構成各団体に其各自の平和運動を返し、各団体それ自身に就ては或は独自の発展を示したものが多い。而して平和運動の国内的統一聯絡を為したものとしては日本基督教聯盟があり、婦人界に於て綜合運動を遂げたものとしては東京婦人聯合会が矯風会を中心として組成された。
 此間一般平和運動に対して主動的の立場をとつたものとして国際聯盟協会がある。
○下略
   ○別筆ニ「三年七月三日ガントレツト夫人」トアルハ、阪谷男爵等ガ近クアメリカ合衆国ハワイニ於ケルパン・パシフイク婦人クラブ大会ニ出席セントスル同夫人ヲ招キテ平和運動ノ歴史ヲ語リタル日付ナリ。