デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
8款 日米協会
■綱文

第35巻 p.559-560(DK350103k) ページ画像

大正6年10月2日(1917年)

是日、当協会ハアメリカ合衆国ニ特派セラルベキ帝国政府財政経済委員長目賀田種太郎及ビ其一行ヲ、丸ノ内東京銀行倶楽部ニ招待シテ送別晩餐会ヲ開ク。栄一出席シテ送別ノ辞ヲ述ブ。


■資料

(日米協会)邦文記録 第壱号(DK350103k-0001)
第35巻 p.560 ページ画像

(日米協会)邦文記録 第壱号 (社団法人日米協会所蔵)
第拾六 目賀田男爵一行渡米送別会
 1、時日 大正六年十月二日
 2、場所 銀行倶楽部
 3、出席数 総数九拾二名
    内訳○略ス
 4、送別会の状況
前夜大暴風雨は暴威を擅にして東京市を荒し、無数の人家は潰滅し樹木は薙き倒され人蓄《(畜)》の殺傷多く、市内中被害の殊に甚しき本所区地方の避難者は飢餓に泣きつゝあるの悲惨状態にして、官民は寝食を忘れ互に一致協力して之が救済に狂奔し、陛下は親しく侍従を派して被害民を慰問する等の悲惨にある矢先なれば、今晩の宴会成績を気遣はしめつゝありしが、幸我誠意ある、且つ熱心なる会員は上情の理由あるに不拘、午後六時半頃より陸続として倶楽部に来集し、一集団は倶楽部レセプシヨン・ルームに、或一部人士はホール、他の一部団はサルーン等に会集し、口々に昨一日晩に於ける被害見舞をなし、続て惨状目撃談或は被害実験談等ありて、倶楽部内の空気は靉々として全然此等惨事目撃或は経験の憂き目は夢程もなし、暫時にして定刻の鐘報と共に来会者一同食堂に入り晩餐を共にし、宴終るや会長金子子爵は徐ろに立ちて自分が此晩の会の司会者なる事を告げ、左記の順に従ふて盛なる送別の式を行へり
 (一)日本天皇陛下万歳 米国代理大使ポスト・ホイラー発声
 (二)米国大統領万歳 会長金子堅太郎氏発声
      演説(演説の諸原稿は新聞綴にあり)
金子会長、外務大臣子爵本野一郎氏、米国代理大使ポスト・ホイラー渋沢男爵、添田寿一氏等の送別演説あり。最後に目賀田男爵は一行を代表せる答辞をなし終るや、時既に午后九時三十分。
金子司会者は閉会を宣し来会者は再ひレセプシヨン・ルームに入り、互に交歓を交へ全く散会せるは午后十時半。
   ○当日ノ新聞記事ニ栄一ノ演説ヲ掲載セルモノナシ。


中外商業新報 第一一三一四号大正六年一〇月三日 ○目賀田男一行送別 二日夜日米協会主催(DK350103k-0002)
第35巻 p.560 ページ画像

中外商業新報 第一一三一四号大正六年一〇月三日
    ○目賀田男一行送別
      二日夜日米協会主催
日米協会の経済財政特派使節目賀田男一行送別会は、十月二日午後七時より銀行倶楽部階上大広間にて開催、デザートコースに入り金子会長の送辞あり、次に本野外相は今回の委員特派により現内閣も少くも一の善事を為せりと評され得可き乎と言ひて拍手を浴ぶ、其後を承てホイラー代理大使軽妙なる辞句にて送辞を述べ、続いて渋沢男・添田博士の送辞あり、之に対し目賀田男の答辞あり、午後十時過散会せり出席者は来賓目賀田男以下一行、本野外務・松室司法両相、其他会員としては渋沢・三井・大倉・阪谷の各男外百余名にて盛会なりき
   ○本資料第三十三巻所収「日米関係委員会」大正六年十月四日ノ条参照。