デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
8款 日米協会
■綱文

第35巻 p.565-567(DK350105k) ページ画像

大正7年2月12日(1918年)

是日、当協会会長金子堅太郎ノ斡旋ニヨリ、アメリカ合衆国大使ローランド・エス・モリス府下野方村願正寺ノ第一回遣米使節正使新見豊前守正興ノ墓ニ詣ズ。栄一及ビ阪谷芳郎、当協会名誉副会長トシテ参列ス。


■資料

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正七年(DK350105k-0001)
第35巻 p.565 ページ画像

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正七年
                    (阪谷子爵家所蔵)
○七年二月十二日、府下下高田願正寺新見豊前守ノ墓ニ米国大使モリス氏等参礼ス、此日晴天、米国大統領リンコルン氏誕生記念日ニ当ル


万延元年第一遣米使節日記 日米協会編 第三八六―三九五頁大正七年五月刊(DK350105k-0002)
第35巻 p.565-566 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

中外商業新報 第一一四一七号大正七年二月一三日 ○香しき花環を新見伊勢守の墓前に モーリス米国大使一行古き想出を記念せし願正寺の朝(DK350105k-0003)
第35巻 p.566-567 ページ画像

中外商業新報 第一一四一七号大正七年二月一三日
  ○香しき花環を新見伊勢守の墓前に
    モーリス米国大使一行古き
      想出を記念せし願正寺の朝
我が国第一回の遣米使節として万延元年正月廿二日(新暦二月十二日)遠く彼地に到り滞在約三ケ月能く其通商条約調印の
◇大任を終へ 彼我親睦の魁をなせし時の外国奉行新見伊勢守正興の墳墓は、明治四十四年迄牛込原町に在りしを、市区改正に依り市外野方村字上高田願正寺々内に改葬せられたるものなるが、恰も十二日は故米国大統領リンコーン卿の誕生記念日なるより、旁思ひ合せて米国大使モーリス氏の館員一同を随へ親しく之が展墓の礼を捧げき、之より先き同寺山門頭には
◇日米大国旗 を交叉し庭の隅々に至るまで一塵を止めざる迄に清掃し、墓域一帯五色の幔幕を張りて香華の供養山海の珍羞を典し、又村民一同は勿論豊島師範学校職員生徒全部及び同村桃園小学校生徒等約千五百名、門前の通路左右に堵列して大使の一行を迎へたり、午前十一時仏前に式を開くや、新見伊勢守の遺族なる日光町在住当主正靖氏同母堂栄子、当主の姉俊子、同妹糸子の諸子先づ
◇大使を案内 して墓前に導き来会者の本野外相、金子堅太郎、渋沢阪谷両男、坂井徳太郎、添田寿一博士等之が後に居並ぶを俟ち、井上東京府知事は起て英文のモ大使歓迎文を朗読し、終つて大使に対し遺族を紹介すれば大使は「正興院殿釈閑水遊翁大居士之霊」とある石碑に向ひ恭しく一礼し、白百合・野菊などの香床しき高さ三尺にも余る花輪を捧げつ、大使に靄然の温情あれば遺族にも亦
 - 第35巻 p.567 -ページ画像 
◇無量の感慨 あり、代つて金子子は日米協会を代表して一場の霊前挨拶をなす、斯て愈々読経に移れば文学博士南条文雄師は浅草別院広岡輪番以下数僧を具して阿弥陀経を誦し、焼香一順玆に全く法会を終る、一同休憩所に入れば、遺族及び維新史料編纂会より提出せる記念物の展覧あり、就中伊勢守が筆になる航米日録八部、当時着用せる狩衣の一部を以て表装せる
◇酒井右京亮 の送別の辞、同行者の一人なる日高敬太郎氏の日記、米国にて撮影せし記念写真、万延元年五月十七日白堊館の東室にて時の米大統領と接見するの絵画等人の眼を惹きぬ、尚此日令孫正種氏が墓前に奉れる「埋れにし君のいさほも開け行く御代の光に逢ふぞ嬉しき」と記せる和歌一首は、金子氏の手を経て大使に贈られつ、軈て大使は同寺を去らんとするや、門頭に記念の松の手植をなし、永く此挙の意味あらん事を祈念したり
   ○前掲「万延元年第一遣米使節日記」所収「新見家系譜」ニ「正興 新見伊勢守 房次郎 豊前守」トアリ。