デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
8款 日米協会
■綱文

第35巻 p.603-610(DK350124k) ページ画像

大正13年8月7日(1924年)

是ヨリ先七月二十二日、当協会会長金子堅太郎アメリカ合衆国千九百二十四年移民法ノ制定ニヨリ感ズル所アリテ辞任ヲ表明ス。仍ツテ是日、栄一書ヲ金子ニ送リ慰留セシモ容レズ。


■資料

渋沢栄一書翰 控 金子堅太郎宛大正一三年八月七日(DK350124k-0001)
第35巻 p.603 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 金子堅太郎宛大正一三年八月七日 (渋沢子爵家所蔵)
  (太字ハ朱書)
  大正十三年八月七日付金子子爵宛総長親書写
爾来駈違久敷御起居不相伺候得共益御清適之御事と奉賀候、過日銀行集会所ニ於て成瀬正恭氏と会見之際承及候処によれは、老閣か日米協会会長御辞任と申事にて、成瀬氏始本会幹部之日米諸有志ハ頗る驚愕之様子にて何とか穏便之調停策無之哉と小生まてにも内話有之候、依而其際一書拝呈いたし御再考相願度と存居候処、尚又昨夜集会所に於て串田氏より同様之内談有之、恰も団君も対話中に付三人会談致候も目下老閣之御辞任ハ寧ろ事に害あるも効果は無之哉と協議仕候、就てハ行掛り之御事情万々拝察仕候へとも、此処吾々同志従来御提携申上候微衷御諒恕相成、是迄之如く日米協会会長御継続被下候様切ニ懇望仕候、右一書可得貴意匆々如此御坐候 敬具
  大正十三年八月七日
                      渋沢栄一
    金子子爵閣下
           侍史
 尚々日米関係委員会に於ても過般来類似之物議相生候も、種々熟議之末、今般之問題に付てハ其発端及経過を詳細ニ取調、米国側同志ニ一書を以て特ニ報告するハ必要なるも、今日米国議会に於て移民法通過之理由を以て本会廃止致候ハ穏当ニ無之と申事に相成候、乍序爾来之情況申上添候也


(金子堅太郎)書翰 渋沢栄一宛(大正一三年)八月九日(DK350124k-0002)
第35巻 p.603-604 ページ画像

(金子堅太郎)書翰 渋沢栄一宛(大正一三年)八月九日
                    (渋沢子爵家所蔵)
 (太字ハ朱書)
 大正十三年八月九日付金子堅太郎子来状
貴書拝読、今般小生か日米協会々長辞任之義ニ付縷々御懇示被下御厚情奉深謝候、然るニ今般辞任申出候義ハ其効果之有無ニ而も無之、又移民法之通過ニ而も無之、全く留任するも其見込無之、御承知之通り小生は桑港学童問題以来今日に至ることを予測し、日米両国之政府当局者ニ対し誠心誠意を以て警告し、速ニ其予防及ひ解決方法を確定せ
 - 第35巻 p.604 -ページ画像 
よと熱心勧告せしも、其都度一時之気安めを申述へ、又先年排日土地法設定之際は将来必らす移民排斥法も提出成立すへしと注意せしも、只々馬耳東風ニ聞流し、無策無為ニ打過き終ニ今日之窮境ニ陥り、国威を毀損したる事涕泣痛歎之至ニ不堪候、殊ニ先日紐育ニ於て我等之尤も信頼せしタフト、ゲイレー、ラモント、ウイカシヤム等数十名より日米協会々長に送りたる決議書ニ左之一項あり
 「我等ハ米国政府ガ外交事件ニ付昨今決定シタルモノニ対シ批難セサルヘシ、是レ明カニ政府ノ為シ得ル権理ナリ」
此決定は排日移民法ニ対する弁明書ニ有之、又会議ニ列席したる米人之内数名は、此一項は頗る不穏当ニ而、之を東京ニ送れは日本人之感触を悪からしむるニ付刪去すへしと主唱せしも終ニ成立せす、依而其人々は署名を拒絶せし由小生之手元迄内々其人達より通知有之、ゲイレー等之如きは我等之同志と信頼し、日米間之難問題に付而ハ内外提携して解決し親善之実を挙けんと期待せしも、此決議ニ而彼等之胸中も計り知る事を得へく、此の如き内外之形勢ニ鑑みれは小生之短才微力を以て今後難関を救済する事ハ到底望み難く、日本帝国は将来第二等之貧弱国と軽視せられ《(衍)》るゝ事を思へは、維新之鴻業を築き上けられたる元勲・先輩ニ対し面目次第も無之、只々涙に沈み長大息する而已本邦将来之外交政策を革新する英雄ある乎、御高見如何、小生ハ日米協会而已ならす凡ての問題に付慨歎する而已、衷情御憐察被下度候
                            匆々
                           堅太郎
  八月九日
    渋沢老閣
        研北
東京市日本橋区兜町二番地渋沢事務所 子爵渋沢栄一殿 必親展 (栄一墨書) 過日発送せし書状之回答 書留 (栄一墨書) 十二日一読 (別筆朱書) 大正十三年八月十一日受
〆 相州葉山村 金子堅太郎


(日米協会)邦文記録 第参号(DK350124k-0003)
第35巻 p.604-606 ページ画像

(日米協会)邦文記録 第参号 (社団法人日米協会所蔵)
大正十三年度
    第十二 第三十六回執行委員会
一、時日 大正十三年七月二十二日午後零時三十分
二、場所 帝国ホテル
三、司会者 金子会長
四、出席委員 日置副会長○中略成瀬委員○正恭○右二人ノ外十四名氏名略ス
五、会見選挙○略ス
六、協議事項
  会長ノ辞任声明○中略ノ件ニシテ人関係ニ付記録ヲ省略ス
 - 第35巻 p.605 -ページ画像 
○中略
    第十四 特別委員協議会
八月七日正午帝国ホテルニ於テ、日置副会長、伯爵樺山愛輔氏、成瀬正恭氏、浅野良三氏、ビー・ダブリユ・フライシヤー氏、イー・ダブリユ・フレザー氏、ゼー・アール・ゲアリー氏参集、会長辞任問題ニ付協議会ヲ開ケリ
○中略
    第十六 第三十七回執行委員会
一、時日 大正十三年九月二十五日午後零時三十分
二、場所 帝国ホテル
三、司会者 日置副会長
四、出席委員 徳川名誉副会長○以下十名氏名略ス
五、協議事項
   フレザー会計ヨリ七月二十二日開会ノ第三十六回執行委員会ノ決議ニヨリ任命セラレタル特別委員日置副会長、小野英二郎氏イー・ダブリユ・フレザー氏、ゼー・アール・ゲアリー氏、ビー・ダブリユ・フライシヤー氏、伯爵樺山愛輔氏八月七日帝国ホテルニ会合、協議ノ結果ニ関シ左ノ通リ報告アリタリ
   金子子爵ノ辞職問題考査ノ為メ日米協会執行委員会ニ依リテ任命セラレタル特別委員ハ、八月七日帝国ホテルニ会合、左記諸項ヲ推薦スルコトニ決定シタリ
   (一)○略ス、役員選挙ノ再開ノ件ナリ
   (二)○略ス、会則ノ改正ナリ
   (三)金子子爵ニ宛テ、同子爵ガ日米親交ノ為及特ニ本会創立以来最モ成功セル会長トシテ尽シタル光輝アル努力ニ対シ、会見一同ノ謝意ヲ適切ナル文辞ヲ以テ出来得ル限リ詳細ニ認メタル謝状ヲ作成スルコト
   (四)若シ右ニシテ執行委員会ノ承認ヲ経決行セラルベクンバ、一二名ノ特別委員ヲ任命シ金子子爵ヲ訪問ノ上事情ヲ説明シ、同子爵ニ現任期中会長ノ職ニ留マランコトヲ請ハシムルコト全会一致右提議全部ヲ承認ス
   次テ左ノ通リ決議アリタリ
   (一)○略ス
   (二)○略ス
   (三)前記謝状起草ノ件ヲ日置副会長及フレザー氏ニ一任スルコト
   (四)右謝状ヲ金子子爵ニ贈呈スル為日置副会長、フレザー氏、福井氏○菊三郎及ゲアリー氏ヲ代表者トスルコト
   (五)○略ス
○中略
   ○右特別委員金子子爵訪問ノ記事ヲ欠ク。大正十三年十月二十九日ニ催サレタル当協会第七回年会ニ於テ、金子ハ名誉会長ニ選挙セラレ上記ノ感謝状案ヲ朗読可決セリ。故ニ是ヨリ先十月十六日ニ開カレタル第三十八回執行委員会ニ於テ人事関係ヲ協議シタリトノミ見ユルニヨリ、当日ニ於テ其辞任ヲ内諾シ、年会ニ於テ正式ニ承認シタルガ如シ。右感謝状ハ十二月四日之ヲ送レリ。
 - 第35巻 p.606 -ページ画像 
    第三十一 金子子爵ノ会長辞職理由書ニ関スル件
前会長金子子爵ヨリ会長辞職ノ理由書ヲ執行委員会宛提出アリシヲ以テ、二月七日樺山副会長ヨリ各執行委員ニ宛テ其写ヲ送レリ、是ヨリ先同子爵ノ希望ニヨリヘンリー・タフト氏外同子爵ノ米国友人十数氏ニモ同様其写ヲ送レリ。


(エルマー・エー・スペリ)書翰 渋沢栄一宛一九二四年一一月七日(DK350124k-0004)
第35巻 p.606-607 ページ画像

(エルマー・エー・スペリ)書翰 渋沢栄一宛一九二四年一一月七日
                    (渋沢子爵家所蔵)
          SPERRY
     THE SPERRY GYROSCOPE COMPANY
      MANHATTAN BRIDGE PLAZA
       BROOKLYN, NEW YORK
               November 7, 1924
Viscount E. Shibusawa
  Tokyo, Japan
My dear Viscount Shibusawa :
  I thought you might be interested in seeing a copy of a letter which I have just written Viscount Kaneko. I am hoping that the report that he has taken the steps referred to is wrong, but if true, I trust you will use your good offices to get him to reconsider and assume his old position, and help us in all sympathy. People of large vision of both countries have so much before them that I cannot help but feel that any break in the ranks on either side is serious when help is needed so much.
  Hoping that this finds you enjoying the best of health, I beg to remain,
              Sincerely yours,
             (Signed) Elmer A. Sperry
(右訳文)
         (別筆)
         申上済
         子爵御全快の上金子子に御出状なされて回答を得次第スペーリー氏に回答を発することゝ申聞ケラル
            十二月十日御一覧
             回答を要す、日米関係丈ハ止マレリ
 東京市 (十二月一日入手)
  子爵渋沢栄一閣下
              紐育、一九二四年十一月七日
                エルマー・エー・スペーリー
拝啓、愈御清栄奉大賀候、然ハ別紙金子子爵宛の書状写御参考までに玆許同封御送附申上候、金子子爵が日米協会の会長を辞任せられたりとの報導の誤ならん事を希望罷在候へ共、万一之が事実ならば何卒同子爵が再考せられ復任の上従来の各方面に尽され候様御尽力相煩し度と存候、日米両国の識者の尽力は今日大いに必要なるにより、若し一人にても欠くる事あらば重大なる影響を与ふるものなる事を痛感せざ
 - 第35巻 p.607 -ページ画像 
るを得ざる次第に御座候 敬具
   ○別紙写略ス。
   ○スペリハ昭和四年我邦ニ渡来セリ。本資料本章第五節外賓接待所収「其他ノ外国人接待」同年十一月二十四日ノ条参照。


渋沢栄一書翰 控 エルマー・エー・スペリ宛(大正一四年二月二四日)(DK350124k-0005)
第35巻 p.607 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 エルマー・エー・スペリ宛(大正一四年二月二四日)
                    (渋沢子爵家所蔵)
      案
 紐育市ブルークリン
 スペリー・ジヤイロスコープ会社
  エルマー・エー・スペリー殿
                   東京
                      渋沢栄一
拝復、益御適奉賀候、然ば昨年十一月七日付の御懇書並に御同封の金子子爵宛御書面写正に落手拝読仕候
過般金子子爵が日米協会々長を辞任せられんとする際、老生は同子爵に対し其時機に非らざることを力説致候得共、同子爵は断乎として其主張を固執し終に辞任せられ候は今以て甚た遺憾とする処に御座候、加之同子爵は老生年来尽力致居候東京日米関係委員会よりも脱退被成度趣老生まで申出でられ候得共、老生より極力御熟考被下候様勧誘致漸く其意思を翻し従来通り会員たることを承諾せられ候
右申上候通りの次第にて、尊書御申越の同子爵を日米協会々長として留任せしむべき御希望は到底不可達に候へ共、去り迚日米両国々交増進に付全然断念致候次第には無之候間、尊慮之趣は機を見て老生より篤と相伝へ、仮令其会長の職にあらずとも引続き尽力ある様屹度懇談可致候
小生義旧冬来病気加療罷在候為め御返事遷引に相成恐縮之至に候、何卒御海容被下度候 早々敬具
   ○右英文書翰ハ大正十四年二月二十四日付ニテ発送セラレタリ



〔参考〕諸必要書類(一) 【(栄一鉛筆) 五月廿六日一覧 日米協会実行委員御中 (写)】(DK350124k-0006)
第35巻 p.607-609 ページ画像

諸必要書類(一)            (渋沢子爵家所蔵)
                    (栄一鉛筆)
                    五月廿六日一覧
    日米協会実行委員御中 (写)
                      金子堅太郎
先般日米協会々長を辞するに当り、之れを容れ尚ほ名誉会長の一人に御選び下された事は私に取り大なる光栄でありまして、玆に謹で御厚意を拝謝致す次第であります、本協会の設立以来大過なく今日まで職責を尽し得ました事は、本協会員御一同の御援助の然らしむる処であります、此愉快なる地位を去りまする事は私の大なる苦痛とする処でありまして、左にその理由を陳述致す次第であります
今より約五十年前私がボストン及ハーヴアード両大学に学びました時以来、米国の友人諸氏に負ふ処は極めて大でありまして、私が日米両国間の親善の維持及増進の為めに殆ど全生涯を捧げましたのは当然の事であります、加州の議会に於て排日法が通過致しました時、私は此
 - 第35巻 p.608 -ページ画像 
好ましからざる問題の拡大するを阻止し、尚ほ将来問題の発生せざるべき手段を講ぜられん事を両政府及両国へ建議致したのであります、そして私は両国政府に対して満足なる解決を齎らすべき「聯合高等委員」の任命せられん事を提議致したのでありますが、両政府は余り此案を顧みなかつたのであります、当時米国の官民は、排日運動は加州に於る労働同盟の煽動による一の経済問題である、米国民の大部分は此運動に反対して居るのだと申しましたが、私は異る意見を抱いて居りまして、此は決して経済問題ではない、人種問題であると思つて居たのであります、私の此意見は最近議会に於る討議によつて明瞭に証明せられたのであります
尚ほ米国に於ては排日問題は純然たる国内問題なれば、国際問題として取扱ふ事能はずと為せる由であります、乍併法律は州のものにしても国のものにしても日本国民に対する人種的差別のもので、日本の国威に影響を及ぼすものであります、日本にとつては此問題は国際問題となるのであります、尚ほ米国政府では此れと類似の問題を外国に対しては国際問題として取扱つた事があるのであります、一八八二年西班牙に於て海外の黒人の玖瑪に上陸するを禁止する法律を通過せる時フレリンハイセン国務長官は此は「米国市民に対して人種的差別」を為すものなりとの理由により抗議を提出したのであります、一九〇二年にはルーメニアに於る猶太人が差別的待遇を受け、彼等は土地の所有を禁止せられ普通の労働者として耕作する事すら禁止せられた為めに、ヘイ国務長官は更に強硬なる抗議を提出し、右は「人間が伝統的に有するパンの獲得権を禁止する」ものなりと称したのであります、次で一九一一年には、米国政府は米露条約を廃棄するに当り「人種又は宗教を理由として、国の内外を問はず米国市民の権利を蹂躪するは根本義に於て不可なり」と主張したのであります、吾等は此等米国の先例に倣ひ在米日本人の人種的差別待遇に対し、抗議を提出するものであります
在外米国人が人種的差別に遭遇する時は、米国政府は抗議を提出し其権利を主張するも、在米日本人が差別的待遇を受くる時彼等は、そは国内問題なれば日本政府の干渉する権利なしと云ふは、余の諒解する能はさる処であります
排日運動の太平洋沿岸に発生せる以来、我々は解決の好時機を待てと謂ひ聞かされたのでありますが、我々の忍耐は裏切られ予期は失望に終つたのであります、而もその時人種的差別及排日条項を含んだ移民法が議会に提出されたとの報道を手にしたのであります、のみならず吾等の一驚を喫した事は、三月十五日のジヤパン・アドヴアタイザーに労働長官デヴイス氏が正式の意見書を発表し「同排斥法は永久住居者又は帰化権なき各人種の移民に適要するものなり」と云つて居る事であります、而して該法案は新聞紙・基督教界・国務長官及大統領の抗議ありしに不拘圧倒的多数を以て通過し、昨年七月一日より実施せらるゝ事となつたのであります
次に吾等の諒解し得ざる事は若し米国政府又は議会に於て日本労働者の排斥を希望するならば、何故彼等は我政府と交渉を為さゞるか、若
 - 第35巻 p.609 -ページ画像 
し彼等にして此くするに於ては吾政府は米国の希望を達せんが為めに能ふ限り尽力した事でありませう、何となれば我政府及国民は米国に労働者を送る事を必ずしも固守せざるが為であります、それは一八八二年支那人排斥法の実施後、支那人の去りたる後を満たさんが為め米国の招きに応じて入国したものであるからであります
尚ほ吾等は米国が帰化権なき外国人の入国を出来る丈け禁止する必要と権利とを有する事を諒解して居るものであります、我等が要求する所は只我国威の尊重せられん事であります、国際親善は社交的及個人的交際以外の基礎を有するものであります、即ち平等なる待遇と相互に敬意を表明するといふ深い強い処に根底を有するものであります、如此私は四十年以上に亘り日米両国々交親善増進の為めに微力を尽したのでありますれば、移民法が惨めにも此くの如き大多数を以て通過致したるを聞きました時私の前途の望は打砕かれたかの如き感に打たれたのであります、「そは惨めにも万事を打切り」しものにて、人種差別法の存在する限り癒す事能はざる傷痍であります、人は希望に生きるものであります、私が日本及第二の故郷たる米国の為に微力を尽さんとの希望が打破られた今日、日米協会々長の椅子に晏如たる事は不可能なのであります、私が深き悲みの情を以て辞任致せる心情を御諒承願ひ度いのであります
将来日米協会の力によりまして、より良好なる前途の光に接しまする様深く祈る次第であります(以上)
   ○右ハ大正十四年カ。


〔参考〕斯文 第一三編第一二号・第四―五頁昭和六年一二月 日米親善と渋沢子爵 金子堅太郎(DK350124k-0007)
第35巻 p.609-610 ページ画像

斯文 第一三編第一二号・第四―五頁昭和六年一二月
    日米親善と渋沢子爵
                      金子堅太郎
○上略
その後、アメリカが移民法で日本人を排斥した時も、自分と提携してアメリカの主要人物を銀行倶楽部に御招きして、アジア人だからとて排斥するのは七十年前ペルリが来て開国を迫つた事と大に矛盾してゐる。のみならず自分の方の都合ばかり考へて、日本の国威を如何にするかといふので、種々折衝を重ね円満なる解決法を求めたのである。
然るにアメリカはその抗議あるにも拘はらず、遂に帰化不能外国人の名によりて新移民法案を通過したのである。これ実に日米協約を無視したる専断の行為であつて、国際道徳上許すべからざるものであるから、自分はもはや之までなりと断念して即時に日米協会の会長を辞したのである。当時子爵は日米聯合会委員《(マヽ)》であつたので、自分に極力留任方を勧告せられたが、自分はどうしても辞意を翻す訳にはいかなかつた。そこで子爵は已むを得ず、その後は一身に背負つて日米親善に尽力して居られた。
今日俄かに薨去せられ、後継者として果して誰が居るであらうか。日本国家の為めに大いなる損失であると共に、自分は憂慮に堪へないのである。昨今アメリカもこの差別待遇の非を悟つて来たやうであるから、早晩この悪法も撤廃せられることであらう。自分はその実行の
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一日も速かならんことを衷心より希望してゐるのである。たゞ、生前にその運びに至らなかつたことは、子爵の為めに最も悲むべき点であり、又日米両国の為めに惜みても余りあることである。今後、自分は子爵の志を継いで、その貫徹に努め、以て在天の霊を慰めたいと思つてゐる。



〔参考〕AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA. p.14. Nov., 1937.(DK350124k-0008)
第35巻 p.610 ページ画像

AN INTERPRETATION OF THE LIFE OF VISCOUNT SHIBUSAWA, by KYUGORO OBATA P.XIV. NOV., 1937
          INTRODUCTION
  ......Four years later the Immigration Law was introduced in Congress. This being a national question unlike the problems of California, it created a great sensation in Japan. Despite strong opposition, the law was passed. This law stirred the minds of leaders of Japan to a high pitch of resentment and indignation, because it clearly demonstrated a discriminatory attitude of America toward Japan. We the members of the America-Japan Society and of the Japanese American Relations Committee, were deeply disappointed. I could not stand the disgrace and resigned the Presidency of the America-Japan Society, issuing a public statement as to my attitude toward the American action. But the Viscount, deeply hurt though he was, begged me not to withdraw my name from the membership of the two organizations. In deference to his courteous entreaty I consented only to retain my membership, but since then I have ceased to attend the meetings. For sixty long years I have endeavored to promote better understanding and good will between our two countries, but the reward I received was "a stone for bread and a scorpion for a fish." My patience was exhausted, and even now I cannot look upon America as I used to in the days of President Theodore Roosevelt, who was a great champion of fair play and the square deal.
  ............
         (Signed) Count Kentaro Kaneko.
   ○Four years laterハ一九二四年ヲ指ス。
   ○右文ト同旨ノ談話筆記左ノ誌上ニアリ。
    「竜門雑誌」(第五四二号・第二四―二五頁、昭和八年一一月)