デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
3款 日印協会
■綱文

第36巻 p.37-42(DK360018k) ページ画像

大正7年4月21日(1918年)

是日、当協会主催インド実業家アール・ディー・タタ歓迎茶話会大隈重信邸ニ開カル。栄一出席シテ歓迎ノ辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正七年(DK360018k-0001)
第36巻 p.37 ページ画像

集会日時通知表 大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
四月廿一日 日 午後二時 大隈侯ヨリ御招待(早稲田同侯邸)
             (タタ氏夫妻歓迎)
四月廿二日 月 午後四時 タタ氏御招待(飛鳥山邸)
   ○中略。
六月十四日 金 午後二時 タター氏来約(兜町)
   ○四月二十二日飛鳥山邸招待ニ就イテハ、本章第五節所収「其他ノ外国人接待」同日ノ条参照。
 - 第36巻 p.38 -ページ画像 

日印協会会報 第二三号 大正七年九月 会務記事 大隈会頭のタタ氏招待会(DK360018k-0002)
第36巻 p.38-39 ページ画像

日印協会会報 第二三号 大正七年九月
  会務記事
    ○大隈会頭のタタ氏招待会
 本会会頭大隈侯爵は、四月二十一日午後二時より予て来朝中の印度孟買富豪アール・ディー・タタ氏並に同夫人、令嬢、令息を主賓とし本会評議員及び印度に関係ある朝野の名士を早稲田の自邸に招待し茶話会を開催せられたり。
 さて当日は定刻以前より主賓並に陪賓続々参邸し、特に装飾を凝らされたる客室に招ぜられ、主人役大隈侯爵・侯爵夫人・令嗣信常氏一一出でゝ来賓に応接せられ、神田副会頭・同夫人・令嬢・本会各理事接待の中に主客一同歓談沸くが如く、軈て午後三時半に至り庭園に於て先づ記念の撮影を為し、終つて大広間に移り席定まるや大隈侯爵は起つて大様左の如き挨拶を述べられたり。
 本日は印度の珍客タタ氏及び令夫人・令嬢、令息を歓迎するに当つて聊か御挨拶の言葉を述べたいと思ふ。今を去る二十八年前日本と印度との間には僅に支那人・英人等の手に依て商売が行はれて居つたのみで、日印両国人間の貿易関係は殆ど無かつたのである。然るに其の当時我国に於て発達の端緒を開いた紡績業は内地に棉花がない為に非常に窮乏に陥つた。渋沢男爵は、夙に紡績業の開発に尽力せられて居つたが、斯の如く紡績原料が乏しくして本邦紡績業の将来に障害を与へることを憂ひ、当時紡績業の盛大なる印度に適任者を派遣して実地の状況を調査研究せしむるの必要なることを熱心に説かれた。時恰も余は外務の局にあつたので男爵の御相談を受け、印度に視察員を派遣することに決した。之と同時に印度に領事館設置の必要を認めて発議を為した。次でタタ氏の先代ゼー・エン・タタ氏が来朝せられ、其後此のアール・デイ・タタ氏も亦来朝せられたが、爾来氏は前後を通じて十一回日印の間を往復せられ、日印貿易の発展に顕著なる貢献をせられた。両タタ氏に依て端を開かれた印度の棉花は爾来続々として日本に輸入せられ、遂に今日の我紡績業の盛況を致して居る。其後領事館も開かれ、正金銀行や郵船会社の支店も置かれることになつて、日印の貿易関係は益々密接になり今日に於ては米国・支那に次で数億の貿易を見るに至つた。而して印度貿易の将来は人口其他の関係から見て米国よりも盛大になるであらう。余は玆に於てタタ氏の日印貿易に直接間接に与へられたる尽力を感謝するのである。
  今や世界は大戦乱の中にあるが、タタ氏は火と鉄との使命を帯ぶるにあらずして、商業の使命を以て来朝せられたのである。商業は実に平和を意味す。商業の発達は世界に平和を齎らすのである。今や東洋は波静かにして平和を楽んで居る。此時に当つてタタ氏が斯の如き使命を以て来朝せられたることは、衷心歓喜に堪へないのである』云々。
副会頭神田男爵は右会頭談話の要旨を英訳しタタ氏に伝へ、次でタタ氏起つて左の謝辞を述べらる。
 - 第36巻 p.39 -ページ画像 
『只今侯爵閣下より、日印貿易の発達に我々が与つて力ありしかの如き過分の讚辞に接し慚愧に堪へず、寧ろ大隈・渋沢両閣下こそ日印貿易の端緒を作られたのである。回顧すれば二十八年前貴国より三名の視察員を印度に派遣せられたが、当時三十二俵の棉花を試に日本に送つた。其翌年余は親しく日本に渡来し、余が送りたる棉花が如何に使用されつゝあるやを見聞し、同時に当業者に対し注意を与へた。当年僅かに三十二俵の綿花が今日に於ては一年二百万俵に近い数に上つて居ることは、誠に感慨に堪へない次第である。
  余は玆に二の腹案を有して居るが、此機会に際し之を申述べることとする。第一は、余自身も既に十数回日本に渡来して居るが、尚日本の事情は十分解さない程であるから、一般の印度人は日本に於て如何なる生産品があるか其知識に極めて乏しいのである。
 故に余は此際印度商業の中心地たる孟買に日本商品陳列館の設立を希望するのである。この事業は日印協会などが率先して事に当られんことを切望するのである。
  第二には、印度人と交際し日印貿易の指導者となるべき手腕並に識見の卓越したる総領事を孟買に駐在せしめられんことである。其の日印貿易発展の上に及ぼす効果の尠からざることは、余の確く信ずる所である』云々。
次に渋沢男爵は
 『日印貿易発展の顛末は只今大隈侯爵より承りたるが、今を去る二十八年前に初めて来朝せられたるタタ氏が玆に夫妻打揃ふて来朝致され、侯爵邸に相会することは余の衷心欣喜に堪ざる所である。只今承る通り、最初僅に三十二俵輸入された棉花が今日は二百万俵に近き多数に上つて居るといふことは、誠に今昔の感に堪へないのである。回顧すれば明治二十六年セー・エン・タタ《(ジエー・エン・タタ)》氏が来朝せられ、日印航路の開航を主張せられたが、余は氏の注意と覚悟とに感じ其の事に関し斡旋する所あり、次で日本郵船会社の孟買航路の開通を見るに至り、玆に日印貿易は発展の歩を進めたのである。
  タタ氏は棉を以て日印貿易発展の上に多大の貢献を為されたが、氏は又近来年々六十万噸を製出する大鉄工場の経営者として名を馳せて居られる。聞く所によれば鉱石も石炭も工場の附近に沢山出るといふことである。幸ひ此席には白仁製鉄所長官も御在になるが、三十年前に柔き綿を以てタタ氏から学んだ我々は今や堅い鉄を以て学ばねばならぬことゝ思ふ』云々。
右終つて茶菓の饗応に移り、主客十分に歓を尽して散会したるは午後五時なりき。当日の出席者は左の如し
      主人
 侯爵 大隈重信    侯爵夫人    大隈信常
      主賓
 アール・デイー・タタ  夫人  令嬢  令息
      陪賓
 安部幸兵衛(横浜)○外九十八名氏名略
 - 第36巻 p.40 -ページ画像 

東京日日新聞 第一四九一〇号 大正七年四月二二日 平和の使命を帯びて来た印度豪商タタ氏の招待会 =きのふ、大隈侯邸に於て(DK360018k-0003)
第36巻 p.40 ページ画像

東京日日新聞 第一四九一〇号 大正七年四月二二日
  ◇平和の使命を帯びて来た
    印度豪商タタ氏の招待会
      =きのふ、大隈侯邸に於て
        ◇◇実業家や名士のうち寛ろいだ会合
大隈侯は昨日午後二時印度の豪商アール・デイー・タタ氏夫妻および令息・令嬢を主賓として波多野宮相、渋沢・中島・神田各男爵、早川池田・井上・村井・浅野・山下・藤山・神田・小池の各実業家、若槻箕浦・下岡の諸氏、白仁製鉄所長官其他の
  ◇名士数十名を早稲田の邸に招待して◇
茶話会を催した、主賓等は紅紫とりどりに咲き乱れたる温室の花卉に愛で入り打ち興ずること暫時、軈て侯夫妻・主賓一同を中心として記念の撮影ありたる後、庭に面したる大広間に居並んで食卓開かる、先づ隈侯が起つて日印貿易発達の歴史を語りタタ氏の功績を述べ「欧洲は今戦乱の巷であるが東洋は
  ◇波静に平和である、平和は商業を意味◇
し、而してタタ氏は平和の使命を帯びて来朝されたものである」と結び、之に対しタタ氏は「自分は前後十一回も日本に来たが、日本の事情は未だよく解さない程で、日本の商業事情を広く印度に知らしむる為めには、此際孟買に日本商品陳列館の如きものを設け、一方には印度在留の
  ◇日本人を導く為め相当の機関を設置◇
されんことを望む」と酬い、渋沢男は「廿八年前印度から我国に輸入した綿は僅に卅二俵であつたが、今日では二百万俵に上つてゐる、之は航路の発展に負ふ所が尠くないが、タタ氏の尽力が最大因を為してゐる」と氏の功績を謝した、午後四時散会


中外商業新報 第一一五一五号 大正七年四月二二日 一年卅二俵の棉花 之が日印貿易の濫觴とタタ氏感慨無量也(DK360018k-0004)
第36巻 p.40-41 ページ画像

中外商業新報 第一一五一五号 大正七年四月二二日
    ○一年卅二俵の棉花
      之が日印貿易の濫觴
      とタタ氏感慨無量也
    ◇早稲田歓会
日印協会主催印度紳商タタ氏歓迎茶話会が、二十一日午後二時から早稲田の大隈侯邸で開催された、タタ氏は夫人・令嬢・令息を同伴して応接間で暫時侯爵夫妻・渋沢男等と
 ◇歓談の 後、副島八十六氏の案内で温室に咲き揃へる花を愛で興じ、軈て芝生に下り立つて参会者一同と写真を撮る、此時大書院の障子が一時にさつと開かれると、其処には畳に花筵が敷き詰められて遽造りの洋風大食堂となつて居る、一同靴の儘着席、食事了る頃大隈侯立つて「今を去る二十余年前、恰も私が外交の局に当つてゐた頃始めて印度から
 ◇棉花を 輸入し」と対印度貿易進歩の跡を述べ、タタ氏先考及びタタ氏の功績を称へ、タタ氏之に答へて「二十八年前始めて一年卅二俵の棉花を日本に輸入したのが、今は二百万俵も輸出するやうになつ
 - 第36巻 p.41 -ページ画像 
た」と同じく日印貿易の発達を語り「将来はボンベイに日本製品の陳列館を建て度い」と希望を述べ、最後に渋沢男身を起し「昔は柔らかい綿を仲介に交際したが、今は硬い鉄をも仲介として
 ◇交を結 ぶやうになつた、今後も益々鉄のやうに固く一致協同して行かう」とお世辞面白く述べ立て之にて演説を了り、一同別室にて歓談の後四時過散会した、出席者は中島男・浅野総一郎氏・早川千吉郎氏・新渡戸博士等百余名であつた


竜門雑誌 第三六〇号・第七五―七六頁 大正七年五月 ○タタ氏歓迎茶話会(DK360018k-0005)
第36巻 p.41 ページ画像

竜門雑誌 第三六〇号・第七五―七六頁 大正七年五月
○タタ氏歓迎茶話会 印度紳商タタ氏歓迎茶話会は四月廿一日午後二時より日印協会主催の下に早稲田の大隈侯爵邸に於て開催されたり。タタ氏は夫人・令息・令嬢同伴にて来会し、応接間にて暫時大隈侯夫妻、青淵先生等と共に歓談の後、今を盛りと咲き勾ふ温室の花卉を愛で合ひ、軈て芝生に下り立ちて参会者一同と共に記念の撮影あり、終つて大広間に於て茶話会を催したるが、席上、大隈侯は日印協会を代表して対印度貿易進展の跡を述べ、タタ氏の先考及びタタ氏の功績を称へ、タタ氏亦之に答へて日印貿易の発達を語り、「日印貿易をして今日あるに至らしめたるは、大隈侯及び青淵先生の力なるに、微力の余は今過大の讚辞に接し、却つて恥入る次第なり」とて、今後更に日印貿易の発達を促す為め、印度商業の中心地たる孟買に日本の商品陳列館を設け、尚ほ領事以外に有力なる商務官を駐箚せしめられたしとの希望を述べ、最後に青淵先生は極めて親交なる歓迎辞を述べられ、「廿八年前タタ氏が始めて印度棉を日本に輸出されし時は、僅か卅二俵に過ぎざりしが、今は印棉の総輸入実に二百万俵を算し、年一年偉大の発達を為しつゝあり。而して二十八年前に来朝されたるタタ氏が齢を重ねられたる様子もなく、夫人及び令息令嬢と共に来朝されたるは、旧友の一人として、心より歓喜に堪へざる所なり。而してタタ氏は今や印度に於て製鉄所を経営し、年産額六十万噸を算し、今度び来朝されたるは其方面の用向らしきも、昔は柔かなる棉を仲介として交際をなしたるが、今は硬き鉄をも仲介として交を結ぶに至れり、されば今後は益々鉄の如く固く、一致協力して事に当らん」と結ばれ、之にて演説を了り、一同別室に於て、歓談の後、四時過ぎ散会したりと云ふ。因に来賓の主なる諸氏は波多野宮相・白仁長官・神田男爵・箕浦・若槻氏を始め、浅野・村井・加藤・早川氏等、日印協会関係の多数実業家なりき。



〔参考〕JOURNAL OF THE INDO-JAPANESE ASSOCIATION No. 22 April 【Mr. R. D. Tata, a member of…】(DK360018k-0006)
第36巻 p.41-42 ページ画像

JOURNAL OF THE INDO-JAPANESE
ASSOCIATION No. 22 April, 1918
        Mr. R. D. Tata
  Mr. R. D. Tata, a member of the famous Tata House of Bombay, and an actual director of several enterprises of the Tata Firm, arrived in March last at Yokohama to visit his wife who is staying there to recuperate her health.
  We are especially glad to meet him at such a good time,
 - 第36巻 p.42 -ページ画像 
when the cherry-blossoms are abloom.
  Mr. Tata first visited Japan in 1895, and met Marquis Okuma, Baron Shibusawa and other influential men, when they conferred about Indo-Japanese commerce. Since then,the gradual development of the import of the Indian cotton, the recent sudden expansion of trade between the two countries, and the opening of the N. Y. K.'s Bombay route are all the offsprings of Mr. Tata's advice made at that time, both to the authorities and to the businessmen and of his incessant endeavours to promote them.
............
  Mr. Tata is expected to stay in Japan about a month, and will probably return home with his wife and children who have been staying in Yokohama since last fall. We are pleased to hear that Sir R. N. Tata, his kinsman, now in England, is recovering from ill health. He was in Japan last year.