デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
3款 日印協会
■綱文

第36巻 p.46-52(DK360021k) ページ画像

大正11年11月14日(1922年)

是日、当協会総会飛鳥山邸ニ催サル。栄一、当協会会頭ニ推サレ就任ノ辞ヲ述ブ。


■資料

(増田明六)日誌 大正一一年(DK360021k-0001)
第36巻 p.46 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一一年      (増田正純氏所蔵)
十一月十四日 火 晴
寒冷著るしきを覚ゆ
定刻出勤
午後二時飛鳥山邸ニ於て日印協会の総会開催せらる、小生も会員の一人なるを以て出席する所なりしが、白石君其準備並ニ世話方として出席したるを以て、恰も事務多忙なるを以て遂に欠席したり ○中略
日印協会ハ子爵其会頭就任せられたので、其披露を兼ね総会開催せられた次第なり

 - 第36巻 p.47 -ページ画像 

集会日時通知表 大正一一年(DK360021k-0002)
第36巻 p.47 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
拾月十日 火 午前十一時 日印協会高楠・副島・神田男来約(兜町)
   ○副島ノ次掲談話ニハ、右ハ十月十日ナル由ノ証言アリ。


副島八十六談話筆記(DK360021k-0003)
第36巻 p.47 ページ画像

副島八十六談話筆記          (財団法人 竜門社所蔵)
                昭和十年九月十三日於麹町区内幸町日印協会 佐治祐吉筆記
    会頭就任内諾に就て
 大正十一年大隈さんが亡れて後任の会頭と云ふ事となつた。所で僕は渋沢さんと思つたが、理事の一人に或他の名門を目指してその交渉をした者があつたが、其れは成功せず、結局渋沢さんに云ふ事となつた。僕は高楠、神田の両理事と共に兜町の事務所へ出て、会頭となつて頂きたいと云ふことを願つた。
 其時に仰しやられた渋沢さんの御言葉が面白い。『私は今迄通り副会頭で結構です。会頭に新大隈侯を推すがよいと思ひます。』
 そこで私は云つたのです、『日印協会は微力ながら世襲の会頭は戴きません。のみならず日印協会が貴方を会頭と戴く所以のものは、推戴する会頭にあらずして実に自然に生れた会頭であるからである、貴方は日印貿易の開拓者であられる、即ち自然の運命にて生れ出でたる会頭である、貴方にとつて本会の会頭たるは其権利でもあり、又義務でもある、之を御辞退になる事は出来ませぬ。但し貴方がそれ程に思召すならば、新侯爵を副会頭として御指導なり、貴方の亡き後に立派に会頭として働らかれるやう御仕込を願ひます。』と
 さうすると、須臾考へて居られたが、直ぐ、『承知致しました』と云はれた。
 新侯爵に対つては『渋沢さんが会頭となられた以上、なほ貴方より渋沢会頭に向て宜敷御鞭撻御指導を願ふと云ふ事を仰しやい』と申して、新侯爵は之を快く承諾せられた。
 これはよく世間に類似の事があるが、実に美談だと思ふ。


印度甲谷陀日本商品館 館報 第一号・第三―八頁 昭和二年一二月 会頭就任の辞(大正十一年十一月本会総会席上に於て) 日印協会会頭子爵渋沢栄一(DK360021k-0004)
第36巻 p.47-51 ページ画像

印度甲谷陀日本商品館 館報 第一号・第三―八頁 昭和二年一二月
    会頭就任の辞
      (大正十一年十一月本会総会席上に於て)
            日印協会会頭 子爵 渋沢栄一
 私が此度本会の会頭に就任致す都合に相成りましたのは頗る名誉の至り有難く感じますけれども、実は御覧の通り老衰致しまして、何分其職に堪へぬと思うて毎々の御交渉を平に御免を蒙ることを申上げました。けれども行掛りの事情仮令暫くでも其職に就けと云ふ幹部諸君の懇切なる御相談でございまして、玆に枉げて老躯を此任に当るのでございます。私は本会創立以後幹部の一人に加はり居りましたけれども、貿易事業には甚だ実験が乏しい故に兎角不勤勝でございました。況んや数年前から実業界も去りました為に尚更以て等閑に打過ぎましたのが玆――に改めて斯る重職に立ちましたのは誠に有難いやうな、頗る恐懼に堪へませぬけれども、今既に御引受け致した以上はさう云
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ふ泣言許り申上げても本会の不祥に相成る訳でありますから、仮令老いたりと雖も飽迄も老躯を叱咜して、職を尽したいと考へて居りますから、どうぞ満場の諸君からも尚相変りませず御懇切な御補助を御願申上げます。本会の事務上何等貢献致したことはございませぬけれども、抑々其初め印度と貿易の関係の生ずるに就ては、私と雖も多少の微力を致さぬとは申さぬのでございます。それは此の日印協会の創立よりは更に十数年以前であつたと思ひます。年寄は過去の事より外申上げられませぬ。未来の乏しい身体故に過去を以て未来の御方々に多少の参考を供へるのが、其過去を空しくせず、或は未来を裨益する所があるならば、仮令過去たりとも御軽蔑のないやうに願ひたいのでございます。
 今副島君から、印度及南洋貿易の趨勢は大戦後の影響を受けて現在は少し衰へた姿があるけれども、盛況の時には三億円の数字を数ふる程に進んだと云ふことは、実に御同様昔を知つた御方々は、真に今昔の感に堪へぬと思ふのでございます。
 私抔は印度と云ふ国は知らずして、天竺と云ふ国があると云ふことを少年の頃に知つたものでありますが、去り乍ら貿易に就て何等考がなかつた為に、印度に対する商売をどうして宜いかと云ふ知識はなかつたのでございます。独り私ばかりでなく、或は他の諸君にも余り其頃には印度貿易と云ふものに深い考慮は持たれなかつたやうでございます。回想しますと三十四・五年以前でございませう、紡績事業が日本に追々進歩して参るに就て是非印度の模様を調べなければならぬと云ふ事が我々紡績関係の人々の企図する所となりまして、当時大隈侯爵が外務大臣に御任じ為すつて居る頃であるから、明治二十年か二十一年と覚えます。蓋し紡績事業を私共の企てたのは明治十三年頃で引続いて二十年頃には段々各所に紡績工場が起りまして、今日の如き盛大ではないけれども、先づ駸々と進みつゝあつたが、此紡績業が頗る其大勢を詳かにせぬ、悪く申せば独りよがり独学的であつた。斯の如き有様は自然嗟跌を免れぬのであるから、宜しく紡績を世界的にすると云ふ言葉は穏当でないけれども、少くとも英吉利はどうであるか、印度はどうであるか、又原棉は何れから供給するが宜いか、製品は何処へ売つたら宜いかと云ふことを広く研究せぬと、紡績事業の将来が覚束ないと思ふ。依て先づ第一に支那及び印度を研究するが宜からうと云ふので、今は東洋紡績会社となりましたが三軒家に工場を有つて居る大阪紡績会社が頻に其事を主張致しまして、遂に印度の調査に着手したのでございます。それが二十一年頃であつたと思ひます。但し其前に支那に於ける棉花生産の模様を調査しましたが、例の南通州辺では多少出来ますれども、我が需要に足る程の品物はないと云ふので宜しく印度を調査するが宜からうと云ふことになり、且つ独り棉花の調査許りでなく、印度に於ては紡績事業が最も盛んであるから、其実況を研究して見るが宜からうと云ふのが即ち其調査員を派出した理由であつた。併し唯吾々共許りでは中々其向々への交渉も付かず、着手の順序も十分でありませんから、当時の外務大臣たりし大隈侯爵にお話致しまして佐野常樹氏が派遣された。之に紡績会社の者が数名同行
 - 第36巻 p.49 -ページ画像 
しまして其調査に従事しましたが是は多分二十一年と思ひます。之が日本より印度に商取引を開くの端緒になつたものと私は記憶します。其取調の顛末を今玆に喋々申上げる必要はございませぬが、孟買なるターター商会と云ふものが印度の紡績事業を盛んに経営して居ること又棉花の取扱の行届いて居ること抔には感服した。而して佐野氏は更に進んで爪哇に参つて砂糖の精練方法をも丁寧に研究されました。是等の調査を齎し帰つて、紡績に棉花に若くは製糖に心を用ゐて居る人人に種々綿密なる報告があつたのでございます。蓋し佐野君のみならず他の当業会社からも相当な人々が参りましたから、是等の人の実見も勿論大に助ける所があつて、玆に紡績事業及び印度棉花の取引が追追進歩を為したのでございます。数年を隔てゝ孟買からして今も存在して居るアール・デ・ターターと云ふ人が参りました。多分それが二十五年と記憶します。而も此王子の拙宅へ来られて、私は特に紡績及び金融・運輸等に関係の方々を十数名であつたか或は二十数名であつたか御集りを請うて、宴会と共に懇談を致して取引の方法を講究しました。詰り棉花を買はうと云ふのが第一の目的であつた。而して此ターター氏も大に日本に対する貿易の希望を持たれて居つた。即ち独り棉花の輸入が此人の本務であつたか否かは能く記憶しませぬけれども追々に他の商品の取引が始まつて参りました、越えて其翌年ターター商会の首脳たる人でゼー・エヌ・ターターと云ふ人、今は故人になられて其令息が事業を経営されて居ると思ひます。此ゼー・エン・ターター氏の参られたのは多分二十六年であつた。玆に始めて印度に対する棉花の輸入と共に航路を開いて運輸方法を講究せねばならぬと云ふ必要が生じたのであります。何れ事物の進歩と云ふものは一が二になり二が四になり、種々の方面に就て必要が増して来ると云ふことは玆に私が喋々を要しますまでもないが、印度貿易の進歩具合と同じ様に綿糸の製造法を知る為めに行くと棉花に及ぼし、棉花取引が成立すると更に航路の必要が生ずる。斯の如くに順を追うて色々な事物の必要を生じて遂に日本と印度航路に就いて何とか方法を講じて成立したいと云ふことになつた。然るに其頃の印度航路は第一に英国のピー・オー会社、それから墺地利の商会と伊太利の商会とがあつて、此三つの当業者で申合せて居られましたから、日本に対しても支那に対しても詰り東洋の海運は殆ど其専売となりて、貨物の運賃も定価を立てゝ俗に申す厭ならば止せと云ふやうな宛行扶持を頂載する有様であつた。之では日本の紡績の原料たる棉花を安く買つても運搬に其余分を取られて仕舞ふ。之はどうしても航路を開かなければならぬと云ふので、遂に一航路を立てることになつた。今日の席には日本郵船会社の社長もお出になりますれども、其時分の郵船会社ではまだ中々孟買に対して直様新航路を開くと迄には行かなかつたのです、又此席に浅野総一郎君もお出になりますが、浅野君は其時に大分勇気を出して自己の独力で此航路を開かうとまで云はれたが、私が航路開通の主動者であつた為めに日本の紡績業聯合会と相談をして遂に日本郵船会社に御相談をして、印度の方はゼー・エヌ・ターター氏、日本の方は郵船会社で合同的に一航路が成立しました。それが即ち其頃起つた日本印度間新
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航路開通の歴史でございます。所が此孟買航路が成立すると意外なる兢争が起つて来た。即ちピー・オー会社が激怒して平たく申せば怪しからぬ者かな、不都合にも微力を以て大会社たる吾々の髯を引く、好し激烈の競争を以て一潰にせむものと、終に紡績糸一梱孟買より上海迄の運賃が其時迄十七留比であつたのを俄然一留比半に迄引下げた。其間に種々なる波瀾曲折があつたが、今悉く申上げる程詳細の記憶は持ちませぬ。殊に甚だしいのはピー・オー会社の重役の一人ジヨセフと云ふ人が特に日本に参りまして、頻に新航路の関係者に向つて或は慰撫的に又は威嚇的な口上で抗議を試みられた。私も数回此人と会見して毎回其憎体なる抗議に対して毅然と挨拶をしたことまで記憶して居ります。左様な競争的経営をするよりは寧ろピー・オー会社に相談して相当の協定を為すのが相互の間に損をしないで済むと云ふて頻に新航路を止めさせると云ふ調停もありましたが、既に成立つた新航路であつて、殊に印度からしてターター氏の経営に対しても左様な相談は不都合である、又ターター氏も他方面からして英吉利人に対して多少忌み嫌はるゝ所がありましたから、其調停には取合ひませぬ。此間に於ける両方の競争の激しかつたことは今日其当時を思返すと中々に苦心惨澹の有様であつたのでございます。幸に此孟買航路は其頃よりして我政府に於ても其事業の中止に帰するやうなことがあつては甚だ宜しくないと了解されて、遂に此航路に対して相当の保護法が立ちました。それは先方をして大に萎縮せしむる所となつたものと見えまして、玆にピー・オー会社と郵船会社との間に協議が開始されて、終に一の協定が出来て競争は全く歇みて程宜い所の海運が出来るやうになつたのは創立後二年目であつたか三年目であつたと思ひます。前に述べたゼー・エヌ・ターター氏との組合は初年の経営は勿論二年目も尚不利益であつたけれども、其不利益の儘で全体を日本郵船会社が引受けて、独力自営としたる後、前に言ふたピー・オー会社との協定も出来たと記憶します。此棉花のことなり航路のことなり敢て取立てて演説する程の事ではございませぬけれども、其事柄が自ら日印間の貿易を進歩させた上に与つて力があつたのでございますから、紡績業者の関係のみでなく、航路を開いたと云ふことも、又其航路に激烈な競争があつたのも、蓋し印度貿易発展の基礎を造つたと申上げられるだらうと思ふのでございます。是等一・二の事件を当時私は其当局に居りましたから聊か微力を致しましたので、今日不肖をも顧みず斯る栄誉ある位置に立ちましたのは心苦しくは感じますけれども、昔日を回想しますと多少の関係を有つて居りますので、今日はさう云ふ様な必要もないから私の此老躯が何の御役に立つ場合はないと信じますけれども、数月であるか或は数年であるか暫く此位置に居つて成丈会務の繁盛を図る様に致したいと思ふのでございます。
 終りに臨みて一言を添へますのは、前年欧羅巴の大戦乱の為に一般の貿易が俄に進んだが、其戦争終熄と共に反対の影響を受けるのは数の免れぬ所であつて、今日御臨場の諸君は其辺のことは御熟知であるから、定めて色々御考慮あられるだらうと思ひます。併し斯る場合に唯困ると云ふ卑屈心が決して吾々に満足を与へるものではないと思ひ
 - 第36巻 p.51 -ページ画像 
ます。妄断は頗る宜しくないが卑屈も亦決して善事とは云はれぬ。斯る場合には成るだけ胆を脹り思を凝して十分に智慧と勉強とに依つて此風波を漕抜ける事が御同様の努めだと思ひます。世界的となつて其の一国たる我帝国が、殊に只今申上げる様な歴史を有つて居る日印の貿易は尚大に進む事を希望せねばならぬ。又それをするのが当業者の任務と申して宜からうと思ひます。私も諸君の驥尾で仮令老いたりと雖も努力致す考でございます。昔を回想致して斯く申上げるのは所謂昔の杵柄を誇る様な嫌ひはありますけれども、玆に此職に就きましたに就て既往を回顧した昔夢談を致して就職の辞と致した次第でございます。 (拍手喝采)
   ○右英訳文ハJOURNAL OF THE INDO-JAPANESE ASSOCIATION No. 34. Aug., 1923.ニ掲ゲラレタリ。



〔参考〕日印協会会報 第三五号・第一―二頁 大正一四年一二月 震災後の日印協会(DK360021k-0005)
第36巻 p.51-52 ページ画像

日印協会会報 第三五号・第一―二頁 大正一四年一二月
    震災後の日印協会
 暦日匆忙流れて已まず、今玆大正十四年の歳華将に旬日に尽きんとして感慨転た繁きに勝えざらんとす。此時に当りて吾人は再び会報誌上に諸君と相見ゆるを得て衷心の欣快に堪えず、玆に久闊を舒すると共に今後益々多事なるべき時局に処して、吾人は更に一層の奮励努力を以て諸賢の期待に負かざらむことを期す。
 回顧すれば夢一場の感あるも、一昨年の大震災に際し我が協会の蒙りし損害打撃は蓋し痛烈至極のものなりき。築地明石町の旧事務所は元より多年苦心して蒐集せる諸調査資料・図書・標本等の凡てを挙げて烏有に帰し、吾人は廃滅の焦土に立ちて顧望悵然たるを禁ずる能はざりき。然し斯くてあるべきに非れば、余燼尚已まず瓦礫狼藉たる中を東奔西走して応急策を講じ、不取敢仮事務所を設けて丸の内仲二号館に寄寓し、所縁の幇助を仰ぎつゝ只管協会の復興に腐心奮闘せり。
 会頭の就任 是より先き大正十一年春一月会頭大隈老侯薨去せられて以来霎時欠員の儘に打過ぎたるも、同年十一月の総会に於て副会頭渋沢子爵を会頭に、評議員大隈侯爵を副会頭に推戴することに決定し夫々快諾就任せられ、爾来会務に精励尽力せられつゝあり。
 会報の中断 大正十二年八月三十日に英文会報第三十四号を発行し翌九月一日発送の最中に於て彼の大震災に遭遇し、僅に其一部分を配布し得たるのみにて、大部分を一炬に附したるは大に遺憾とする処なり。猶当時引続き邦文会報を発行すべく其の原稿を印刷所に交付し置きしもの、不思議にも劫火の裡にありて其の一部は焼失を免れたるも遂に刊行の機を失ひ以て今日に至れり。
 在留印度人の慰問 大震災に際し、当時京浜間に在住せし印度人にして此災厄に遭遇し、天涯万里の異郷に於て流離昏迷せる人々の不幸に対し同情の念禁ずる能はず、中には阪神方面に避難せるものもありしが、其の存否を確め慰問に是れ努めたり。適々朝野の有力者に依て組織されたる大震災善後会に懇請して印人の為に宿泊所仮設資金下附の運動を起し、渋沢会頭等の斡旋に依りて願意聴き届けられ、曩に金一万円を附与せられたり。
 - 第36巻 p.52 -ページ画像 
 仮事務所の移転 大正十三年四月、高楠理事の厚意に依りて京橋区築地三丁目武蔵野女子学院内に仮事務所を移し、会務の回復を図ると共に漸次備品什器を整頓購入の運びとなり、目今稍事務所の観を呈するに至れり。
 タゴール翁の講演 印度の詩聖ラビンドラナース・タゴール翁再び我国に来遊の意あるを聞き、本会は有志会員の援助の下に翁を招聘すべく議を決し、昨年五月会員佐野甚之助氏上海に赴き、六月上旬愈々翁を我国に迎へ来り、本会主催の下に丸の内日本工業倶楽部に於て其の講演会を開くを得たり。来聴せしもの一千余名、満堂立錐の余地無く、渋沢会頭の元気溌溂たる歓迎紹介の辞に亜ぎ、翁は満場の喝采を浴びて楚々たる痩躯を壇上に運び、銀鈴の如き美声を以て約一時間半に亘る演説を為し、尽く聴衆を魅了して荒廃せる震災後の人心に一脈の涼味と雅懐とを与へたり。
 会務拡張方針の樹立 昨年十月に至り、渋沢会頭の懇嘱に依りて多数の実業界、学界の有力者が新に理事に就任せられ、在来の理事諸君と共に相協戮して本会の為に尽瘁せらるゝことゝなり、同十一月の理事会に於て愈々会務拡張事項を決定し、本協会将来の大方針を確立するに至れり。
 財団法人組織の前提 創立以来既に二十余年の長き歴史と一千余名の会員を有する本協会は、根本の基礎を確立すると共に、大に事業上の活躍を期するには先づ実力の充備を必要とす。此の目的の為に今春二月、会頭より堀啓次郎氏、児玉謙次氏、三宅川百太郎氏、白仁武氏安川雄之助氏の五理事を特別委員に推挙し、大隈副会頭及び副島常務理事之に参加し、前後数回に亘り事業拡張の実行案を査定し、更に七月理事会の議に諮りて其の承認を得、爾来各方面の諒解を求め、幸に有力者援助の下に著々進捗し、漸次好調に具体化して既に幾多の厚意的申出に接し、協会基金を増大しつゝある現状なり。



〔参考〕集会日時通知表 大正一一年(DK360021k-0006)
第36巻 p.52 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
三月三十日 木 午後一時、二時 神田男及副島八十六氏来約(兜町)
   ○中略。
六月廿二日 木 午後三時    神田男爵、副島八十六両氏来約(兜町)