デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
3款 日印協会
■綱文

第36巻 p.80-84(DK360035k) ページ画像

昭和2年3月5日(1927年)

是日、当協会総会、麹町区内山下町華族会館ニ催サル。栄一出席シテ日印貿易回顧談ヲナス。


■資料

日印協会書類 (一)(DK360035k-0001)
第36巻 p.81 ページ画像

日印協会書類 (一)          (渋沢子爵家所蔵)
謹啓、余寒の候益御清適奉賀候、陳者予て得貴意候通り日印協会総会の義一時延期致候処、愈来る三月五日(土曜日)午後二時東京市内日比谷華族会館に於て開催仕候間御来臨被成下度、此段御案内申上候
                            敬具
  昭和二年二月二十五日
                  日印協会会頭
                   子爵 渋沢栄一
   子爵 渋沢栄一殿
  追白 当日の御都合御回報願上候


日印協会書類 (一)(DK360035k-0002)
第36巻 p.81 ページ画像

日印協会書類 (一)          (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
    総会執行順序
 昭和二年三月五日午後二時開会
一、午後二時半理事の一員より議事に入る旨を宣す
一、渋沢会頭(又は大隈副会頭)議長席に就き、先ず副島理事より会務報告を為すべき旨を告ぐ
一、副島理事会務報告
一、会計報告(印刷物配布)(質問ある場合は会計監督児玉理事より答弁すること)
一、会則改正(副島理事会則改正の理由を説明すること)
一、役員増員(必要ある場合は人選を会頭に一任する案を会衆に諮ること)
        ~~~~~~~~~~~~~~~
  渋沢会頭の挨拶
  茶話会
      以上


渋沢栄一 日記 昭和二年(DK360035k-0003)
第36巻 p.81 ページ画像

渋沢栄一 日記 昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
二月二十八日 快晴 寒気少ク減ス
午前八時起床、洗面ノ後朝食ス、畢テ副島八十六氏ノ来訪ニ接シ、来月五日華族会館ニ開催スル日印協会々員総会ニ付其準備万端及報告案等ニ関シテ説明アリ、当日出席ノ事ヲ承諾ス ○下略


日印協会会報 第四〇号・第一四九―一五〇頁 昭和二年六月 会務記事 日印協会総会(DK360035k-0004)
第36巻 p.81-82 ページ画像

日印協会会報 第四〇号・第一四九―一五〇頁 昭和二年六月
  会務記事
    日印協会総会
 本会は旧臘十二月二十一日日印協会総会開催の準備をなし、会員一般に通知発送後、不幸大正天皇の御不予に際したるを以て一時之を延期し、改めて今年三月五日午後二時東京市丸の内華族会館に於て開催した。
 出席者(ABC順)
 - 第36巻 p.82 -ページ画像 
  相原定次郎○以下四十八名氏名略
 午後三時副会頭大隈侯爵座長席につき開会を宣し、副島理事より事務報告及会計報告の承認を求め、次に会則改正案を附議し、満場一致を以て可決した。最後に渋沢会頭より一場の挨拶あり、了つて茶話会に移り、歓談少時にして四時散会した。


日印協会会報 第四〇号・第一―三頁 昭和二年六月 日印貿易の回顧(昭和二年三月五日日印協会総会席上に於て) 日印協会会頭子爵渋沢栄一(DK360035k-0005)
第36巻 p.82-84 ページ画像

日印協会会報 第四〇号・第一―三頁 昭和二年六月
    日印貿易の回顧
     (昭和二年三月五日日印協会総会席上に於て)
            日印協会会頭 子爵 渋沢栄一
 甚だ遅刻致しまして相済みませぬ。私は日印協会会頭としては誠に不似合で何の動きも出来ないのに、此日印協会の事業は益々進行して参つて居ります。是は全く皆様の御力に依ることで、会頭たる私は皆様に深く御礼を申上げる次第でございます。然らば何故に斯く不似合な私が斯る会頭と云ふ位地に立つたかと申しますと、是れには相当理由がございます。私は印度のジエー・エン・タータ及アール・デー・タータの両氏とは紡績業の関係から別して親しく致して居りました。此日本の紡績業と印度との関係は相当に古く仲々沿革のございましたもので、私は最初明治二十三年頃に、どうも日本に紡績関係の糸の輸入の多いのを憂ひまして、銀行業者ではあつたが、どうか之は日本で製造が出来るものではなからうか、老人や子供が糸繰車でやつて居ると云ふことは、今日の時代に適当するものではなからうと云ふ観念から、紡績業の経営を企てましたのが、是が現今の東洋紡績の前身の一部たる大阪紡績の抑初めで、三軒屋の如きは後へに瞠若たる有様となりましたが、東洋の紡績業として、仕事に始めて手を染めたのは、私の心配しました大阪の三軒屋の紡績並に伊勢の三重紡績であります。所が、此紡績を経営して見ると、綿の輸入が必要である。其時分に日本では真岡木綿などゝ申して、少しは出来ましたけれども、紡績といふ方面に就いては誠に微々たるものである。それから支那の綿が宜しからうと云ふので是へ手を着けて見た。所がどうも支那の綿は品質が適応しない。そこで之は一歩進んで印度の綿を輸入するが宜からう、印度は唯綿ばかりでなく紡績の権威であるから、之に関係をつけ、印度の紡績事業を十分調べるが宜からうと云ふことになつて、河村利兵衛《(川村利兵衛)》と云ふ人を印度に派遣したのが明治二十一・二年頃であつたと思ひます。故大隈重信侯が外務大臣で居られました時、其事を申上げた所が、それなら序に一つ砂糖事業も調査して見たいと云ふので、併せて砂糖の調査をすることになりました。其結果、日本で砂糖の製造を盛にやるやうになり、今日は大日本製糖会社とか、台湾製糖会社とか、其他各地に製糖会社が出来て居りますが、蓋し此砂糖製造のことも、其時に調査を致したのが始めてゞあつたらうと思ひます。多分之は明治二十五年であつたと覚えて居ります。其時に印度では孟買の最も有力者であるジエー・エン・タータ、此人は大分以前に死にました。其息子のアール・デー・タータ、此人に話をして紡績研究と共に印度綿を日本に輸入することを相談しました。其時に此アール・デー・ター
 - 第36巻 p.83 -ページ画像 
タが日本へ参りました。丁度好い折柄でありますから、私は自分の宅へも来て貰ひ、実業界の人々を紹介して、いろいろ懇談を重ねました其結果、遂に綿が印度から来ることになつたのであります。所が玆に又一つの差支へが起つた。それは何かと云ふと、綿は船で持つて来なければならぬ。所が其船に困つた。当時の東洋航路はどうかと云ふとピー・オーと云ふ英吉利の会社、それから伊太利の会社、もう一つ墺地利の会社、何でも三つばかりが航海権を持つて居つた。殊にピー・オーは最も盛んな会社でありまして、其航路に付ては全権を持つて居りました。印度から来る綿の運賃は一噸であつたか百斤であつたか、兎に角或る分量が何でも十七留比であつたと覚えて居る。余り割合が高いと云ふので、負かさうとしたが、仲々負けない。拠なく、さう云ふ有様で輸入をして居りましたが、何としても堪えられぬ。そこで今御話し致しましたジエー・エン・タータと云ふ人が日本へ来て、是非航路を立てたい、自分が半分出すから日本でも相談して仲間が出来たら両方共同して一つ印度航路を開きたい、蓋し印度丈けでやるとピーオー会社に一も二もなく叩き付けられてしまふ、日本が中へ這入つて呉れゝば少しも心配はない。斯う云ふことであつたから、私は郵船会社の社長であつた森岡昌純さんに話をした。其時分の人々は今は皆居りませぬ。近藤廉平、加藤正義、浅田正文などと云ふやうな人々にも話をして、遂に話が纏まつて、郵船会社とジエー・エン・タータとの間に孟買航路を開きました。其時に此航路に対して紡績業者は是非相当の約束をして呉れなければ困ると云ふので、一年の積高をたしか五万俵と覚えて居りますが、それ丈けは必ず積むと云ふ契約をして此航路が出来た。然るに其新航路に対してはピー・オー会社の競争と云ふものは実に烈しい。十七留比のものを一留比半迄負けると云ふ競争迄やりました。然し段々競争が烈しいに連れて、是非之は維持したいからと云ふので、政府から相当の新航路補助を貰うやうになりました。其補助があつたについて、ピー・オー会社もさう云ふものと競争するのは不利益だと考へたと見えて、遂に競争を止めて、航海上の協定方法を取ることになりました。玆で始めて正当なる割合に値段を引直して、孟買航路は敵を受けることなしに之を続けて参りました。さうして此航路はアール・デー・タータと郵船会社との共同経営でありましたが、三年ばかり経つて其事は廃し、郵船会社の単独の航路に帰しました。而して今日は同業者があつても相争ふやうな事はなくなつた様であるけれども、併し三十年前にはさう云ふ有様であつた。こんな関係から漸次各方面に懇意が重なりまして、引続き親しみを通じて居りましたが、今申すジエー・エン・タータも死に、又昨年アール・データータも死にまして、もう今日は其様な親しみを持つた人は私にはなくなりましたけれども、右様なことで孟買に対する関係が多かつたから、それに因んで此会に関係して宜からう、是非やれと云ふ訳で関係者各位の御勧めを受けました。私は何等此事業に関係もなく又十数年来実業界のことを御免を蒙つて居る、斯様な老人でもありますから、何だかおかしいやうでありますが、前申したタータとの懇親、印度貿易との関係から、大隈侯爵の驥尾に付いて、当協会の副会頭となりま
 - 第36巻 p.84 -ページ画像 
した。そして侯爵薨去の後順繰りに私が主裁者の位地に立つたと云ふ訳であります。全く或る関係から、斯る位地を有つて居りますので、一向御役に立たないので恐縮でございますが、それにも拘はらず当協会の事業は漸次発展して参りまして、唯今理事の御言葉に依つても、近頃甲谷陀に対して商品館の組織も出来まするし、種々な点に於て進歩を致すやうになり、貿易の額も昔とは比較にならぬ程盛大になつて参つたのは、誠に御同慶の至りでございます。私自身の関係はさう云ふ行掛りであると云ふことを、或る機会に申述べたいと思ひ居りましたが、丁度今日は会員多数の御方の御寄りでございますから、渋沢が今日此位地に居るのは斯う云ふ関係からであると云ふことを申上げたので、決して古いことを自慢らしく、喋々申す所存でもありませぬ、私が此位地を汚すことは誠に有名無実のやうですけれども、多少の理由はある、其縁故は斯う云ふことであつたと云ふことを一言御参考に申上げたのでございます。



〔参考〕集会日時通知表 昭和二年(DK360035k-0006)
第36巻 p.84 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年         (渋沢子爵家所蔵)
二月廿八日 月           副島八十六氏来約(王子)
   ○中略。
三月卅一日 木 午前十一時三〇分 副島八十六(来約)アスカ山