デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
8款 聖路加国際病院
■綱文

第36巻 p.165-172(DK360063k) ページ画像

大正3年7月1日(1914年)

是ヨリ先、聖路加病院長ルドルフ・ビー・トイスラー、同院ヲ拡張シテ聖路加国際病院トナサントノ計画アリ、栄一之ヲ援助シ来リシガ、是日大隈重信、首相官邸ニ国際病院設立計画評議会ヲ催シ、栄一出席シテ賛成演説ヲナス。次イデ評議員会副会長並ニ会計監督ニ推薦セラル。


■資料

中外商業新報 第一〇一二六号大正三年七月二日 ○国際病院設立 評議員の決定(DK360063k-0001)
第36巻 p.165 ページ画像

中外商業新報  第一〇一二六号大正三年七月二日
    ○国際病院設立
      評議員の決定
一日午後二時より大隈伯は、永田町首相官邸に実業家数十名を招き、聖路加病院を拡張し国際病院となすべき協議を為したるが、出席者一同賛成の意を表し同一日の出席者を評議員とし、大隈伯を会長に推薦し、我東京市内に同病院敷地(五千坪)を選定し、成るべく御即位式迄に建設せしむべく尽力すること等を議了したるが、尚近々評議員会を開き、渋沢・後藤・阪谷の三男を副会長に推薦し、全国各地の有志をも勧誘する筈なりと云ふ、猶出席の重なる諸氏左の如し
 渋沢栄一男・三井八郎右衛門男・阪谷東京市長・近藤廉平男・早川千吉郎・大谷嘉兵衛・根津嘉一郎・佐竹作太郎・服部金太郎・住友吉左衛門男・鴻池善右衛門男・井上友一・尾崎行雄・高田慎蔵・森村市左衛門・中野武営、外数十名


竜門雑誌 第三一四号・第六五―六六頁大正三年七月 ○国際病院設立計画(DK360063k-0002)
第36巻 p.165-166 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第六五―六六頁大正三年七月
○国際病院設立計画 東京築地なる聖路加病院を拡張して国際病院となすの計画は、既に数年前より病院長トイスラー氏に依りて発案せられ、当時の市長たりし尾崎行雄氏、逓相たりし後藤新平男等の賛成を得て、ト氏は母国なる北米合衆国官民に之を謀りたる結果、ウヰルソン夫人の熱心なる賛助を得て、遂に二十五万円の醵金を得、既に米国より設立委員まで派遣されたるに、日本側に於ては其後何等進捗せざりしを大隈伯は遺憾とし、個人の資格を以て七月一日午後二時より該計画の賛成者、並に帝都実業家の重なる人々を首相官邸に招待し、之が助成に関する評議をなしたるが、大隈伯先づ起つて
 国際病院設立の計画は、国交上並に観光者の慰安に欠くべからざる計画たるのみならず、且つ聖路加病院は今日まで来遊外人は勿論、日本人の為めに尽せし所大なるものあれば、我等日本人たるものは此計画に対し、相当の助力を与ふること当然の義務なるべし、故に今日来会を求めたるは該計画助成の為め、玆に会せる諸君の賛成を得て評議員会を組織し、以て該病院の拡張に依て我国に来遊する観光団の慰安を計り、併せて我医学の進歩を世界に紹介せんとす
 - 第36巻 p.166 -ページ画像 
と述べ、阪谷市長も亦該計画は東京市の為めにも望む所にして、聖路加病院は内務省第一回の表彰に加はりし程功労多大なりし病院なりと讚し、次で同病院長トイスラー氏は起つて感謝の辞を述べ、且つ曾て此計画に対し尾崎前市長・後藤前逓相の熱心なる賛成を得たりしことは、今日の結果を齎らしたりとて其経過と希望を説き、新渡戸稲造氏之を通訳し、且つ御大礼の如き外人来遊の多かるべき時期以前に設立を望む旨を附言し、更に青淵先生は来会者一同を代表して賛成の旨を答へ、且つ過般支那漫遊中天津にて罹病し、不便を感じたる実験に照して該計画の機宜に適せるを痛切に感ずるものなりと賛同し、大隈伯を評議員会長に推すことを発議して成立し、次で当日の来会者全部と其他の欠席者を評議員とする件を議し、一同記念の撮影を終り茶菓の饗応ありて散会せるは午後四時なりき、因に委員会副会長には青淵先生・後藤・阪谷の三男を推し、更に常務委員若干名を選挙する筈なりと、尚ほ該委員会は敷地、若くは之に相当する醵金を以て助成するに一決したりと、当日来会の重なる人々は青淵先生・後藤・阪谷・近藤の各男、並に尾崎法相・一木文相・豊川良平・早川千吉郎・大橋新太郎・下岡次官・井上局長、其他有力者二十数名なりし


慈善 第六編第一号・第九六―九七頁大正三年七月 国際病院設立計画(DK360063k-0003)
第36巻 p.166-167 ページ画像

慈善  第六編第一号・第九六―九七頁大正三年七月
○国際病院設立計画 四年ほど前に一時話頭に上りたる国際病院設立の議が今回愈事実となり、築地聖路加病院を拡張して夫れに充つべく計画されたり、元来国際病院なるものは欧米は勿論、コロンボ、マニラ等にも設けられゐるに、独り東洋の文明国たる日本に之れを見るを得ざるは洵に遺憾とする処なり。在留外人や観光団に対し之れに適する病院として治療するのみならず、博くは我が国の有する著名の国手仲介者となり、更に優秀なる我医術を洽く海外に向つて紹介せんとする、これその目的である、而して之れに充てらるべき聖路加病院は十四年前の創立に係るものにて、国籍の如何に論なく施療に実費診療に多大の貢献を為し、曾て内務省の慈善事業表彰の際には最初に選賞せられたるの一なり、右の主唱者たる大隈首相は七月一日午後二時より名士・実業家二十八名を永田町の官邸に招き、大日本国際病院設立評議員会なるものを開き、伯は先づ立つて同病院の国交に及ぼす関係より、一は観光団を誘致することを得、一は聖路加病院長トイスラー氏の功労に報ゆることを得る旨の長広舌を振ひ、次に阪谷市長の演説、トイラー病院長の説明等あり、終りに渋沢男は一同を代表して賛成の意を述べ、更らに発議して同会の目的が病院の発展を助成すると共に敷地の世話を為すことを決議せり、而して、渋沢・阪谷・後藤各男に正・副会長に推すべく内意を得、出席者たる尾崎法相、一木文相、近藤廉平、新渡戸稲造、阪井徳太郎、井上友一、中野武営、豊川良平、園田孝吉、ドクトル・トイスラー、中川望、服部金太郎、高田慎蔵、早川千吉郎、大橋新太郎、根津嘉一郎、増田増蔵、茂木惣兵衛、佐竹作太郎、志立鉄次郎、竜居頼三、井上準之助、後藤新平、福原有信、青山胤通、久保徳太郎諸氏、孰れも評議員たるを快諾したり。尚この趣旨が発表されるや米国大統領ウヰルソン氏を初め、英国外相グレー
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米大使ジー・ダブリユー・ガスリー、英大使カンニングハム・グリーン、紐育の日本人会々長エル・ルツセル諸氏等と大いに援助すべきことを誓ひ、特にウヰルソン夫人は各州に対つて運動し、已に二十五万円の約束済みをなしたりと云ふ。故に建物に関する費用は全部米国よりの醵金に成り、評議員会に於ては其の敷地として五千坪、約二十万円の世話を為す筈なりと云ふ。


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一四頁 昭和六年一二月刊(DK360063k-0004)
第36巻 p.167 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿)昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第一四頁昭和六年一二月刊
    大正年代
年 月
三 七 ―聖路加国際病院評議員副会長、会計監督―大、八、―〃評議員長、委員長―昭和六、一一。


聖路加国際病院事務員談話筆記(DK360063k-0005)
第36巻 p.167 ページ画像

聖路加国際病院事務員談話筆記      (財団法人竜門社所蔵)
          昭和六年六月、於丸ノ内仲二十八号館内渋沢事務所聴取、聖路加国際病院事務員談(電話)
当方ハ両度○大正一二年九月及同一四年一月の火災で書類全部を焼失しましたので、子爵の当院役員御就任の詳しい事は一切判りません。判つてゐるのは次の通りです。
一、本院評議員副会長、及会計監督 大正三年七月就任
一、本院評議員長、委員長就任 大正八年


(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記 大正三年(DK360063k-0006)
第36巻 p.167 ページ画像

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正三年
                   (阪谷子爵家所蔵)
○七月一日
 永田町大隈首相邸国際病院ノ賛助会


青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年七月九日(DK360063k-0007)
第36巻 p.167-168 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編  昭和三年七月九日
                    (渋沢子爵家所蔵)
    聖路加国際病院
                  副院長 久保徳太郎氏談
渋沢子爵が聖路加病院に御関係になつたのは、大正元年からであります。当時院長トイスラー氏は聖路加病院を改めて、聖路加国際病院とし、病院拡張を計画して居りました。之に対して東京市長尾崎行雄さん、逓信大臣の後藤新平子爵方が賛成下されて、北米合衆国に帰つて朝野の人々に謀つた結果、ウヰイルソン夫人の熱心な賛助を得て廿五万円の醵金を得、既に合衆国から設立委員まで派遣されたのに、日本側に在つては其後何等の進捗を見なかつたのであります。大隈侯は之れを遺憾な事であるとし、大正三年七月一日当時総理大臣の地位に居られたのでありますが、単に個人の資格を以て該計画の賛成者、並に帝都実業家の重立つた人々を首相官邸に招いて、助成に関する評議をなされました(竜門雑誌第三一四号六・五頁参照)。当日の出席者は渋沢子爵初め、阪谷東京市長、院長トイスラー、後藤新平子爵、尾崎法相、文相一木喜徳郎、早川千吉郎、大橋新太郎等の諸氏二十数名であ
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りました。
当日大隈侯を評議員会長に、渋沢子爵、後藤子爵、阪谷男爵を同副会長に選挙しました。
同年十一月九日大隈侯は、国際病院設立委員長の資格を以て、渋沢子爵以下の委員並に賛助員一同を、永田町の官邸に招待し午餐会に引続いて、設立協議会を開き同病院創立に関する事業の経過報告、並に其他の打合せを行はれました。尚ほ畏くも右の趣 天聴に達し、特に御内帑金五万円御下賜の御沙汰がありました。同月十七日引続いて設立協議会を開催致しました。(竜門雑誌第三一九号・四八頁参照)
  ○右参照ハ後掲。
此時、渋沢子爵の御尽力に依つて、民間より十万円の寄附金を得ました。
大正十二年の大震火災と十四年一月の火災との二度の災厄に依つて、病院は全く灰燼に帰しました。依つて目下清水組の手で復興建築を行つて居りますが、其費用は工費三百五十万円、其他の設備等を加へると五百万円に昇ります。而も此費用全体が合衆国の方から出るのであります。
只今院長トイスラーさんは寄附金募集の為め、帰国して居られます。幸にして渋沢子爵は病院の評議員会長をして居られるし、合衆国に於ける子爵の名は非常に好印象を与へて、Viscount Shibusawaと言へば銀行家としては勿論、社会事業家として広く知られて居る次第で、トイスラーさんが寄附金を募集されるに就て、力強いバックを成すものであります。加之ならず子爵はトイスラーさんの帰国の際『国際病院の存在に依つて、恩恵を蒙つて居るのは主として日本人である。それだのに其復興費全部を合衆国に求める事は誠に相済まぬ。貴下が合衆国に於て寄附金を集めるにしても「日本では何の尽力もしない」と云ふ感を合衆国の人々に与へては具合が悪いだらう。依つて其一助として合衆国から輸入する病院の建築材料に対して、関税を免除して貰ふか、それが出来ないならばそれを補ふべき方法を講じるから、其点は安心して帰国なさい』と申されました。トイスラーさんは三百五十万ドルの寄附金額を得る積りで帰国されました。渋沢子爵は此約束履行の為め、自身で出来ない時は阪谷男爵に依頼されて、大蔵省其他の当局に奔走下されて居ます。併し関税制度は之を曲げる事が出来ず、免税は望まれない様子でありますが、其代償的手段が講ぜられるとの事であります。先日大蔵省関税課長から病院の復興材料として輸入される品目の問合がありまして、報告しましたら、もつと詳細なる報告書を寄こせとの事でありますから、目下、専門技師が調査中であります。
渋沢子爵は大隈侯薨去後、評議員会長に就任されて種々御指導下されて居ます。私等が常に感じて居る事は、子爵は単に職責を竭されるのみでない、誠に親切であります。トイスラーさんは大変子爵を信頼し且つ慕つて細かい事まで子爵の御助言を伺ひに出られます。尚ほ子爵御自身病院の式、其他看護婦養成学校の卒業式に御臨席下されて談話や講演をなされます。

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聖路加国際病院一覧 同病院編 第一二―一六頁(大正一四年)刊(DK360063k-0008)
第36巻 p.169-170 ページ画像

聖路加国際病院一覧 同病院編 第一二―一六頁(大正一四年)刊
    ○聖路加国際病院概要
△ 聖路加国際病院も其創立当時を原ぬれば、僅かに十数人の患者を収容するに過ぎざる、渺たる一小舎に外ならぬのでした。
△ 顧みれば二十四年の昔、明治三十五年の交、当院関係者が事業の刷新を企てんと欲し、病室の寝具、内外科具備の旧式器械等一切、之を売却し辛くも四十有余円を獲るに止まりて、新たに完全なる病院設備を整へんか、到底做し克はざるや推想するに難からざりし。如此、資金の欠乏は万事休矣の悲境に陥り、一時渾ての企画は中止するの已を得ざるに至りました。故に更に月島に小診療所を仮設し、外来患者の施療を主として、而も通訳看護を兼務する一助手の僅かに其担任医師を輔けて、心ならずも日を送るに過ぎませんのでした。斯くして月島診療所を継続する中、再び古巣の築地に小病院を開始する運命に逢着されましたのが、終に今日の要素を城く事と成つたのです。当時医学界の潮流は独逸万能主義に化せられ、淊々たる其学派の真只中へ、吾米国医学を移殖せんと努むるが如きは、至難中至難の事業でありました。然るに東京帝国大学医科大学の有力なる教授にして、特に此の企に賛同される人々の中、故青山博士・岡田博士・佐藤博士・木下博士・三浦博士其他諸教授の格別なる好意と援助により、若き吾病院も追々世人の認むる所となり、日本に於ける米国医学を代表する病院として遍く知らるる様になりました。特に忘れる事の出来ないのは、東京帝国大学名誉教授スクリツバ氏が、明治三十五年(一九〇二)より同三十八年(一九〇五)即ち氏の長逝せられし前三ケ年間、本病院の幹部として尽力せられた事であります。
△ 当病院は元来、寄附による基本金を有せざるを以て、財政状態は総て自給自足の途を取つて居るのです。仮令ば病床の三分の一は之を有料患者に宛て、残る三分の二は之を施療患者及半施療患者とに振り当て、而して入院料・手術料・薬価等の収入を以て病院の維持経常費を補ふ事にしてあります。勿論、職員中の米国人は医師・事務員・看護婦の別なく其俸給は直接、米国聖公会の手に属します。大震災以前比年の支出は概ね二十三万円(米国人俸給を除く)にして、内約三千六百円の補助は常に同会より亨けて居りました。
△ 聖路加病院は其特徴として多数の専任幹部を置く方針をとりました。夙に其の創立当時より病院勤務医は定額の俸給を受け、小数の例外を除いては終日病院に勤務し、其の診療による収入は悉く病院経済に加へられました。さればこそ、大正十二年(一九二三)大震災に遭うまでの二十年になんなんとする長年月、経済的に独立する事が出来たのであります。
△ 聖路加病院は患者としては米国人のみならず、あらゆる外国人を診療しますけれども、一度も外国に対して病院経済の年額補助を請うた事がありません。本院の発達は実に病院自己の収入と、日米有志者の随時寄附金のみによりて遂げられたのです。大正十四年の一月の火災以後には五十万円余を費して、現今の病院建物及び設備を完成しま
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した。元来此の専任勤務制度は甚だ緊要なるもので、病院設備の拡張医療技術の発達共力診療の実現の基礎をなすものであります。最初病院の敷地は築地明石町三十七番地のミツシヨン所有地の一角に、僅か四百坪計りの面積を占めて居たのですが、明治三十八年(一九〇五)増築の要ありとして、隣接地六百坪を同ミツシヨンより譲り受けました。
△ 大正元年(一九一二)故大隈侯や桂公を始め、現代の後藤氏・渋沢子、其他朝野名士多数の援助に仍り、従来の聖路加病院を更に聖路加国際病院として、即ち国際の二字を附加し其実質に於て弥よ意義を明らかにする計画を樹てました。一体国際病院の意義は内外何れの国民を問はず四海一列、普く病患者を診療し、慰藉を与ふるを以て其目的とするものなれば、畏れ多くも両陛下は特に此趣旨を嘉みせられ其建設費の内へ五万円の御内帑金を御下賜あらせらる。斯くして朝野の縉紳富豪風を望んで本事業の由来に賛同し、寄附踵を接して忽ち十万円の増加を見るに至りました。同時に当病院最高評議員会なるもの組織せらるゝと、更に一方米本国に於て新築資金、敷地買収費等の大募集運動起り、其反響の偉大なる米各州を席捲し、至る所大小の差あるも之に応募せざるもの無きに至りました。
○下略



〔参考〕日本社会事業名鑑 中央慈善協会編 第二輯・第一三七頁大正九年五月刊(DK360063k-0009)
第36巻 p.170 ページ画像

日本社会事業名鑑 中央慈善協会編  第二輯・第一三七頁大正九年五月刊
 ○関東方面 東京府之部 施療救療並妊産婦保護事業(イ)施薬救療之部
    聖路加国際病院  東京市京橋区明石町三七院長 アール・ビー・トイスラー
 事業 施療
 組織 日本聖公会宣教師団附属、一般病院事業の純益に依りて維持経営し、職員として院長以下医員二十名、調剤員三名、産婆五名、看護婦五十名、事務員七名を置く。
 沿革 明治三十二年六月、日本聖公会宣教師団之を設立す。初め民家を借受けて小規模にて外来患者の施療に従事せしが、僅少の資金にては十分なる救済事業をなすこと能はざるを以て、其後普通の病院を開業し其収益に依りて施療を継続し来れり。尚本院の事業に対して曩に御下賜金五万円を辱ふせり。
 現況 大正七年度中の施療人員入院一九一名、外来二、七九七名
○下略



〔参考〕(ルドルフ・ビー・トイスラー) 書翰 小畑久五郎宛一九二七年二月五日(DK360063k-0010)
第36巻 p.170-172 ページ画像

(ルドルフ・ビー・トイスラー) 書翰  小畑久五郎宛一九二七年二月五日
                     (渋沢子爵家所蔵)
      ST. LUKE'S INTERNATIONAL HOSPITAL
              TOKYO
OFFICE OF THE DIRECTOR
                 February 5th, 1927
Mr. K. Obata
  1, 7 Chome, Minamicho
  Aoyama, Tokyo Shi Gai
 - 第36巻 p.171 -ページ画像 
Dear Mr. Obata :
  I am sorry I missed you yesterday, as of course I am very anxious to secure action regarding our plans for St. Barnabas and would have given you immediate answer, had I been here. Taking up your questions in rotation :
  1- St. Luke's International Hospital is a part of the work of the Episcopal Mission in this country, and one of its recognized institutions. The funds for the Hospital are secured not only from members of the Episcopal Church in the United States, but from many friends of the institution itself, who are interested in its welfare. A Council of businessmen, with General Wickersham as its present Chairman, was organized several years ago in New York City, and through this group of gentlemen a portion of the funds for the Hospital has been secured.
  2- The name "International" was added to St. Luke's Hospital some ten years ago. This addition was decided upon following a generous gift from the Imperial Household Department, and the cooperation which was then started between an Advisory Council here in Tokyo and the Advisory Council in New York. The special significance of using the word "international" is due to the service of the Hospital which is open to all, irrespective of creed or race. Here in the capitol of Japan, practically every nation is represented, and because of the special type of work in the Hospital and its wide service to international groups, this addition to the name was considered suitable. My recollection is that the decision was reached after conferences with Viscount Shibusawa, Baron Sakatani, Viscount Goto, and other prominent members of our Advisory Council in Japan.
  3- The donation from the Emperor and Empress of Japan amounted to fifty thousand yen, and was given in 1912. Shortly thereafter about fifty-seven thousand yen was subscribed through the influence of our Japanese Advisory Council, under the leadership of Viscount Shibusawa.
  4- The name of our council is "The Japanese Advisory Council of St. Luke's International Hospital." This Council was established at the request of Count Okuma, when he was Premier of Japan. Prince Katsura, during the last three years of his life, was actively interested in the welfare of St. Luke's Hospital, and it was largely due to his influence that Count Okuma became interested. It was also at the request of Prince Katsura that Count Okuma, when Premier, arranged for the formation of the Council, and I think largely through
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the joint influence of these two statesmen the interest of Viscount Shibusawa was enlisted. Viscount Shibusawa was made Treasurer of the fund to be raised complementary to the gift from the Throne, during the Premiership of Count Okuma, at a special meeting held in the Premier's official residence, when our Advisory Council was formally established. I have already sent you a list of the active members of this Council. Their interest in the welfare of the Hospital has been repeatedly demonstrated in the past, and I regret that since the earthquake we have not had at least annual meetings of the Council, that they may be better informed regarding the progress of the Hospital work. One formal meeting has been held since the earthquake.
  ………………
                   Sincerely yours,
                   (Signed) R. B. Teusler