デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
13款 社団法人国際聯盟協会
■綱文

第36巻 p.368-391(DK360155k) ページ画像

大正9年4月23日(1920年)

是日、当協会発起人会、築地精養軒ニ開カル。栄一出席シテ座長トナリ、挨拶ヲ述ブ。次イデ会則ヲ決定シ、推サレテ会長トナリ、役員ヲ指名ス。


■資料

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正八年(DK360155k-0001)
第36巻 p.368 ページ画像

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正八年
                     (阪谷子爵家所蔵)
○八年七月四日、巴里在留日本人会合、国際聯盟協会ヲ日本ニ設立ノ計画ニ付相談ス、内十五名賛成ス、依テ委員五名ヲ挙ケ、其実行方法ヲ話ス、右委員ハ姉崎正路《(姉崎正治)》、秋月左都夫、岡実、林毅陸、伊達源一郎ナリ、添田寿一当時座長ナリ
  右七月十日付渋沢男宛姉崎来状ニ見ユ(八年八月二十七日一覧ス)


渋沢栄一 日記 大正九年(DK360155k-0002)
第36巻 p.368 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正九年 (渋沢子爵家所蔵)
二月四日 曇 寒
午前○中略
海老名弾正氏来リテ、欧米旅行ノ概況ヲ報告シ、国際聯盟ニ関スル英仏ノ近状ヲ詳話ス○下略


集会日時通知表 大正九年(DK360155k-0003)
第36巻 p.368 ページ画像

集会日時通知表 大正九年 (渋沢子爵家所蔵)
四月十二日 月 午後四時 松田条約局長来約(飛鳥山邸)
   ○当協会創立当時外務省ノ松田道一ガ飛鳥山邸ヲ訪問セル記録ハ右四月十二日ノ他ニナシ。


竜門雑誌 第三八四号・第六〇頁大正九年五月 ○国際聯盟協会設立(DK360155k-0004)
第36巻 p.368-369 ページ画像

竜門雑誌 第三八四号・第六〇頁大正九年五月
○国際聯盟協会設立 過般来、設立計画中なりし国際聯盟協会は、四月二十三日夜築地精養軒に於て発起人会を開き、青淵先生座長席に就きて会則案及び役員選定を協議可決して、玆に其成立を告げたる由なるが、本会の目的は
 (一)国際聯盟に関する研究及調査
 (二)講演会の開催及印刷物の刊行
 (三)本会と目的を同じうする内外諸団体との連絡
 (四)国際聯盟会議に代表者を派遣
 (五)其他理事会に於て適当と認むる事業
等にして、当夜選定せられたる主なる役員は、会長青淵先生、副会長阪谷男爵・添田寿一、理事井上準之助・穂積重遠・岡実・高橋作衛・秋月左都夫・姉崎正治・宮岡恒次郎・林毅陸・田川大吉郎・松田道一其他の諸氏にして協議終了後晩餐会を開き、青淵先生の挨拶、発起人一同を代表せる伊集院彦吉氏の乾盃辞等あつて和気靄々裡に散会した
 - 第36巻 p.369 -ページ画像 
る由。


社会と救済 第四巻第二号・第八六頁大正九年六月一五日 国際聯盟協会成立(DK360155k-0005)
第36巻 p.369 ページ画像

社会と救済 第四巻第二号・第八六頁大正九年六月一五日
    ○国際聯盟協会成立
 国際聯盟の成立と共に、欧洲各国にては民間有志に依りて聯盟協会を組織し、国際関係に多大の威力を発揮し居れり。我国にても之を単に政府当局のみに一任せず、民間各方面の有志を網羅し、国民的なる聯盟協会を組織するの緊切なるを、過般来識者間に唱導せられ居りしが、遂に去月二十三日午後五時より当市築地精養軒に於て、民間有力者・官吏・実業家・新聞記者等の有志合同して発起人会を開き、渋沢男爵を座長となし、会則其他諸般の事項を議決して、愈々国際聯盟協会の成立を告げ、九時半散会せり。尚ほ同日会長に渋沢男爵、副会長に阪谷芳郎男・添田寿一博士の二氏を推し、理事に井上準之助氏以下十一名、其他評議員四十六名を選定せり。
 因に本協会の目的及事業は左の如し。
 一、本会は国際聯盟の精神達成を以て其の目的とす。
   ○以下前掲ト同ジ、略ス。


国際聯盟 第一巻第一号・国際聯盟協会々報第一―一〇頁大正九年一一月 国際聯盟協会々報(一)協会成立事情(DK360155k-0006)
第36巻 p.369-374 ページ画像

国際聯盟 第一巻第一号・国際聯盟協会々報第一―一〇頁大正九年一一月
 ○国際聯盟協会々報
    (一)協会成立事情
 大正八年「ヴェルサイユ」に於ける講和会議の結果、国際聯盟規約成立し○大正九年一月一〇日欧米諸国の有志間に、多年唱導せられたる聯盟組織の理想、玆に初めて実現せらるゝことになりたる上、英・伊・仏・白等の諸国に於ては、何れも民間有志の設立に係る国際聯盟協会を有し聯盟の目的及精神の普及達成に努むることゝなりたるに付きては、当時巴里滞在中の本邦人中、本邦にも同様、国際聯盟協会を設立するの急務なるを認め、有志相会し、右組織に関し協議を遂げ、不取敢其成立を議定し、追て本邦に於ける同種の会合と合同して正式に統一的組織を設くべきことを相談せり。他方本邦に於ても、前記世界大勢の推移に鑑み、日本平和協会《(大日本平和協会カ)》、国際法学会関係者を初め其他有志間に斯る協会成立を希望し、夫々企画する処ありたり。
 然るに、右在欧本邦有志の企画せる統一的組織を設くるの件、未だ完成を告げざるに先ち、大正八年十二月、各国々際聯盟協会聯合会第三回総会、白国「ブラッセル」に於て開催せらるゝ事となり、其際、支那国際聯盟協会より山東問題を同総会に提議し、各国の輿論に訴へて同問題に関する巴里講和会議の決定を翻へさしめ、以て同問題に対する、支那側の主張貫徹を計らんとして、種々画策せることを聞知せり。依て当時在欧本邦人にして、前記の通り、聯盟協会設立に関係せるものは、本邦よりも同総会に、代表者を出席せしむるの急務なるを認め、前記各有志間に於て設立したる協会の名を以て、同総会に参加を求め、遂に秋月左都夫・前田正名・小野塚喜平次・山田三良・堀内謙介・末広厳太郎の六氏を委員として、右総会に出席せしむる事となりたり。而して右山東問題は、本邦代表者の尽力と、且は斯る特殊政
 - 第36巻 p.370 -ページ画像 
治問題を同総会の議題たらしむる時は、結局会議をして争議の府たらしめ、折角成らんとせる聯合会の基礎を動揺せしむる虞ありとする意見勝を占め、遂に同総会に上程せられざりしも、上述の通り欧洲諸国を始め、隣邦支那に於ても、厳然たる聯盟協会を有し、夫々活動を営み居るに当り、独り本邦に於て有力なる代表的聯盟協会を有せざることは、聯盟自身の目的及精神の達成上、頗る遺憾とする所なるのみならず、五大国の一たる体面上黙過すべからざる次第なれば、前述の通り、在欧本邦有志の間に於て計画したる、有力なる統一的組織を速かに成立せざるべからずとし、大正九年三月四日、立作太郎・山川端夫・松田道一・伊達源一郎・杉村陽太郎・沢田節蔵の六氏、下相談の結果前記巴里協議会に参加せし人にして、当時在京中のものを網羅して、更に協議を遂ぐる事とし、同月十日、築地精養軒に第二回相談会を開き、添田寿一・姉崎正治・立作太郎・山川端夫・林毅陸・松田道一・伊達源一郎・杉村陽太郎・沢田節蔵の九氏出席協議の結果、本協会をして権威ある国民的のものたらしめんが為には、社会各方面の士を網羅するの必要あるに付き、本邦に於ける国際的団体、即ち平和協会《(大日本脱カ)》・帰一協会・国際法学会・国際日本協会等の代表者をも加へて、更に第三回相談会を開催することゝせり。依つて同月二十二日、寺尾亨・添田寿一・宮岡恒次郎・田川大吉郎・姉崎正治・立作太郎・山川端夫・松田道一・野村淳治・伊達源一郎・沢田節蔵・友枝高彦(阪谷芳郎・海老名弾正・高楠順次郎・高橋作衛・美濃部達吉・岡実・林毅陸・穂積重遠・杉村陽太郎の諸氏は何れも同会議の趣旨には賛成し居られたるも、当日は差支ありて欠席)十二氏出席、色々議論を上下したるが兎に角此際本邦に有力なる国際聯盟協会を設立せざるべからずとの意見纏りたるに付き、吉井幸蔵・寺尾亨・添田寿一・宮岡恒次郎・井上準之助・姉崎正治・田川大吉郎・山川端夫・松田道一の九氏を特別委員に挙げ、会則案の制定、最初の役員として推挙すべき人名の予選、其他同会設立に関し必要なる事項準備方を依頼することとせり、右特別委員は三月三十日及四月五日両回会合し、会則案の起草及発起人として依頼すべき各方面の有志選定、其他諸般の準備を整へ四月二十三日築地精養軒に於て日本国際聯盟協会発起人会を催すことゝなれり。
   ○大日本平和協会ニ就イテハ本資料第三十五巻所収第七款、帰一協会ニ就イテハ本部第六章「学術及ビ其他ノ文化事業」ノ条ヲ参照。
   ○国際法学会ハ明治三十年ノ設立ニシテ、国際法及ビ外交理論ノ研究ヲ目的トス。事務所ハ東京帝国大学法学部研究室ニ在リ。
   ○国際日本協会ノ内容明ナラズ。
    (二)発起人会
 時日  大正九年四月二十三日 場所 築地精養軒
      出席者 (イロハ順)
 伊集院彦吉  石川安次郎 井上準之助 二宮治重
 仁井田益太郎 穂積重遠  本田増次郎 友枝高彦
 岡実     岡野敬次郎 太田正孝  大庭景秋
 大谷嘉兵衛  亀井陸郎  吉井幸蔵  吉坂俊三
 田中館愛橘  田村新吉  高橋作衛  高木壬太郎
 伊達源一郎  添田寿一  長尾半平  上田碩三
 - 第36巻 p.371 -ページ画像 
 野村淳治   窪田文三  山本信博  山科礼蔵
 簗田𨥆次郎  松田道一  増田義一  福岡秀猪
 小村俊三郎  小山完吾  近藤廉平  寺島誠一郎
 姉崎正治   秋元俊吉  沢田節蔵  木下友三郎
 南弘     光永星郎  水町袈裟六 宮部敬治
 宮岡恒次郎  志田鉀太郎 渋沢栄一  信夫淳平
 元田作之進  杉村陽太郎
     座長渋沢子爵の挨拶
 只今私に座長を御引受け致す様にとの御話で御座いましたが、元来私は国際聯盟に付て、深い研究を遂けた訳でもなく、又之に関して詳しいことも存じませぬので、御引受け致すに大に躊躇する次第で御座います。
 尤も私としても、全然此の方面の考を持たなかつたのではなく、戦乱以来、武力以外に何か学問的又は精神的に人類の進歩に貢献する方法は無いものであろうか、との希望を朧げ乍らも抱いて居りました。我国から講和使節が巴里へ出発せられました頃は、私は恰も病中でありましたが、添田君・姉崎君などと模索的に此の会議の結界、何物かを得ることはなきかと考へて居りました。我国からは牧野子初め、立派な方々が大勢御出掛けになりましたが、是は主として物質上のことで、或る部分は精神的のこともありますけれども、若し戦後精神的の点に於ても、何等かの進歩を見ることが無い様であるならば、寧ろ文明の進歩は、人類の幸福の為に禍することゝなるのではあるまいか、文明の利器を用ひて相殺戮することのみを専らする様では、神が人を作つた目的に反する訳ではあるまいか、と古い考かも知れませぬが、そう云ふ考を抱いて居りました。それで姉崎君が出掛けられる時、同君へも自分の説の外に広く此の方面に関する他人の説を聴いて参られる様に、との希望を述べて置きましたが、それは唯希望に止まるのみでありました。
 巴里講和会議の結果は、添田君の申されました通り、吾人の予期よりも足並が遅い様に思はれますが、是は到底致し方の無い事でありませう。又他の総ての国が国際聯盟に関して、充分なる研究を遂げつゝある際、其の安全なる成立を望む為、我国に於ても場合に依つては一つの組織を作り、之から外国に人を出し又は調査をすると云ふ様なことの必要なことは、大体考へて居りました。然し私は其筋のことに付学問もなく研究も遂げて居ない門外漢であるので、今申上げた様なことを充分研究せられて居る方々の間に、こんな企の成立あれかしと願ふのみでありました。それで近頃この国際聯盟協会の成立の経過を承つて、喜んで本日出て参つた次第でございます。自分で大変必要だと申し乍ら、今迄一向研究も尽力もしないのは、言行不一致との御叱りが在るかも分りませぬが、自分の智識が足らず歯に合はぬと考へましたので、智者・学者の方々の御高配を俟つの外は無いと考へて居た次第で御座います。
 今日参上致しまして、こゝに座長の席を汚しますことは、甚だ名誉と存じますが、一方又迷惑とも存ぜられます。然し当初から私の抱い
 - 第36巻 p.372 -ページ画像 
て居りました希望は、諸君の驥尾に附してやりたい、否更にそれよりも強いものがあるのでありますから、御推挙に従ひ、年長者として座長の席を汚します。議事の進行は諸君に於て然るべく御願致します。
      添田博士の開会辞
 只今より国際聯盟協会発起人会を開きます。御承知の如く、今度の巴里講和会議の結果として、成立致しました国際聯盟は、国際平和の完成と国際協力の促進とを、目的として居るのでありますが、未だ完全なるものとは申し難く、現に某大国の如きは未だ之に対して、明かに加盟の手続を履むで居ないのであります。さればと言つて、聯盟の目的及精神を没却することは出来ないのでありまして、否斯くあればこそ、却つて現在の不完全なる聯盟の組織を改善し、其の目的の達成に努めなければならぬ次第で御座います。
 我国は由来、正義と平和とを念として今日に到りました。従て右の如き聯盟の精神は、即ち日本従来の国是と相合致するものと言ふべく殊に我国の聯盟規約の調印国として、加之五大国の一員として、聯盟の内に在つて重要なる地位を占むる点より言ふも、之が精神の達成は我国の一大責務であると考へられます。而して此事は啻に政府当局のみに一任すべきものではなく、全国民の努力に依つて為されねばならぬのであります。
 されば既に昨年講和会議開催中、巴里に集まりました本邦有志者の間に、我国に於ても国際聯盟協会を設立するの議が成立し、我国も他諸国同様、聯盟協会を有することになりましたが、其後内地に於ても各種の団体に於て、夫々同様の協会を設立するの企が、段々試みられるに至りました、そこで之等各種の計画を打て一丸とし、真に日本を代表するに足る、完全なる国際聯盟協会を組織するの議が、先般来起りまして、各方面の有志の方々と数回の相談会を開き、皆様方発起人たることを承諾下さつた方の御集りを願つて、本夕此会合を開くに至つた次第で御座います。
 これで我国も、五大国の一たるに恥ぢざるの実を備へ、世界平和に貢献するに於て、他国の班に入ることを得るかと考へられます。どうぞ其の御含みで、本夕は諸君の腹蔵なき御意見を伺ひ、本協会の組織完成を見るに至らんことを、希望して止まぬ次第で御座います。
      会則の審議決定
 次で会則案の審議に移り討論の結果多少の修正増補を加へ、左の通り決定す。
       国際聯盟協会会則
        第一章 名称及位置
第一条 本会ハ国際聯盟協会ト称ス
第二条 本会ハ事務所ヲ東京ニ置ク
       第二章 目的及事業
第三条 本会ハ国際聯盟ノ精神達成ヲ以テ其ノ目的トス
第四条 本会ハ其ノ目的ヲ達スル為、左ノ事業ヲ行フ
  一 国際聯盟ニ関スル研究及調査
  二 講演会ノ開催及印刷物ノ刊行
 - 第36巻 p.373 -ページ画像 
  三 本会ト目的ヲ同シクスル内外諸団体トノ連絡
  四 国際聯合会議ニ代表者ノ派遣
  五 其他理事会ニ於テ適当ト認ムル事業
        第三章 会員及客員
第五条 本会ノ趣旨ニ賛同スル日本人ニシテ、会員二名以上ノ紹介アリタルモノヲ会員トス
 外国人ハ理事会ノ決議ニ依リ、之ヲ客員トナスコトヲ得
        第四章 役員
第六条 本会ニ会長一名、副会長二名、理事十二名、並幹事及評議員若干名ヲ置ク
第七条 会長・副会長・理事及評議員ハ、通常総会ニ於テ会員中ヨリ之ヲ互選シ任期ヲ一年トス、但シ再選スルコトヲ得
 幹事ハ理事会之ヲ選任ス
第八条 会長ハ総会・理事会及評議員会ヲ招集シ、之カ議長トナル副会長ハ会長事故アルトキ之ヲ代理ス
第九条 会長・副会長及理事ハ理事会ヲ組織シ会務ヲ処理ス、但シ重要会務ニ付テハ評議員会ノ議決ヲ経ルコトヲ要ス
 理事会ノ議事ハ出席者ノ過半数ヲ以テ之ヲ決ス
第十条 評議員ハ評議員会ヲ組織ス
 理事会ニ於テ必要ト認ムルトキ、又ハ評議員五分ノ一以上ノ請求アルトキハ評議員会ヲ開ク
 評議員会ノ議事ハ出席者ノ過半数ヲ以テ之ヲ決ス
        第五章 総裁及名誉総裁
第十一条 本会ハ総会ノ決議ニ依リ総裁及名誉総裁ヲ置クコトアルヘシ
        第六章 総会
第十二条 本会ハ毎年一回通常総会ヲ開ク
 通常総会ニ於テハ会務ニ関スル理事会ノ報告、予算ノ決定、役員ノ選挙、其ノ他必要ノ事項ヲ決議ス
第十三条 理事会ニ於テ必要ト認ムルトキ、又ハ会員十分ノ一以上ノ請求アルトキハ臨時総会ヲ開ク
第十四条 総会ノ議事ハ出席会員ノ過半数ヲ以テ之ヲ決ス
        第七章 会計
第十五条 本会ノ経費ハ会費及寄附金ヲ以テ之ヲ支弁ス
第十六条 本会ノ会費ハ年額金三円トス、但シ一時金五十円以上ヲ納付スルモノハ会費ヲ要セス
        第八章 会則ノ変更
第十七条 本会則ハ総会ニ於ケル出席会員三分ノ二以上ノ同意アルニ非サレハ、之ヲ変更スルコトヲ得ス
         附則
本会第一回ノ役員ハ、大正九年四月二十三日ノ発起人会ニ於テ之ヲ定ム
      役員の選定
 右に関しては、全会一致を以て渋沢子を会長に推挙し、会長以下の
 - 第36巻 p.374 -ページ画像 
役員は同子の推選に一任することゝす。子は再三辞退せられたるも、全員の懇望拒み難く、遂に之を承諾せられ、力の有らん限り本会の為に尽すことを誓はれ、副会長及び理事として、左記諸氏を指名せられたり。
 副会長 阪谷芳郎   副会長 添田寿一
 理事  井上準之助 林毅陸  穂積重遠
     岡実    吉井幸蔵 田川大吉郎
     高橋作衛  山川端夫 松田道一
     秋月左都夫 姉崎正治 宮岡恒次郎


国際聯盟 第一巻第一号・第二―七頁大正九年一一月 国際聯盟に対する感想 会長子爵渋沢栄一(DK360155k-0007)
第36巻 p.374-377 ページ画像

国際聯盟 第一巻第一号・第二―七頁大正九年一一月
    国際聯盟に対する感想
                  会長 子爵渋沢栄一
      一
 国際聯盟の雑誌に意見を陳べるについては、自ら既往の感想を繰返さゞるを得ぬ。私は海外のことには余り精通してゐないから、普通の常識を以て事物の判断をするのであるが、実は大正三年の七月であつた、内外の各新聞紙に於て、欧洲の事情の逼迫したことが報道せられ之を見たる我も人も如何なることになるかと語り合つたのであつたが私は其際大した戦争にはなるまい、総じて欧洲人は知識が発達して居るのみならず、戦乱の惨禍は誰しも能く承知のことであるから、国際の紛議も自ら其の極に達せずして已むであらう。とかやうに考慮してゐたのであるが、多くの友人中には露西亜と独逸、英国と独逸等の近状を察知し其関係を思索して、遂には大きな戦争になるかも知れぬ、といふ懸念を抱かれた向もあつた。
      二
 私の斯かる考を抱いたのも全然理由が無いのではない。其の二年前米国のスタンフオード大学総長ジォルダン氏が来朝せられた時、氏は熱心な平和論者で、私も度々氏と談話を交へ、頻りに平和に関して意見を交換し、当時仏・独両国間に紛争せる、モロツコ問題の成行を尋ねたるに、氏は的確に戦争にはならぬといふ断定を下された。其の時ジォルダン氏の説は、私が大正三年の塞耳比亜の事件が、さしたる大騒動にはなるまいと思惟したと同様の理由に加へて、更に経済的観察をも取り交ぜて居つた。其れはジォルダン氏の言によれば、独逸のカイザーがモルガン氏に向つて、軍費借入の相談をせられた時、モルガン氏は、斯かる平地に風波を起すやうな目的の為めには、米国にては誰も求めに応ずるものはあるまいと答へられた由を、モルガン氏より直接聞けりとの事であつて、私もさうありたいと思つた事故、これを真実として承つた次第である。
 それは兎も角も、私の臆断は全然事実と相異して、寧ろ余りに世の中の観察に暗かつたことを恥しく思ふたのである。然し孔子の言葉に人の過は各々其の党に於てす、過を見て斯に仁を知ると云ふこともあるから、私は左程慚愧するにも及ばぬと思ふが、自分の欧洲の大勢に暗き為に、観察の行き届かなかつたことは恥づる外ない。
 - 第36巻 p.375 -ページ画像 
      三
 戦争の最中に、我々友人間の時々の会合に起つた問題は、この戦争の終結は何うなるであらうかと云ふて、互に戦後の世界の成り行きを論議して見たことである。蓋し、道理といふものは、世人誰も尊重し如何なる権勢も富力も、神聖なる道理の前には服従する、所謂正義は最後の勝利者であると云ふことは皆人の言つてゐる所であるが、其反対に、孫子の語と記憶するが、人多ければ天に勝つ、と云ふことがある。是は世俗に云ふ無理が通れば道理が引込むと云ふ言と同意義で、結局は正義が勝つにしても、一時は或は不義が勢力を占むることがあるから、此度の欧洲戦乱も、或は其の目的を達するかも知れないと云ふ説もあつたが、私は大体に於て、天定つて而して後人に勝つは当然のことで、正義が最後の勝利者であると云ふ真理は、疑ふ可きものであるまい。早いか晩いかは知れぬが、此の戦争は終に独逸の敗北に帰着するであらうと云ふのであつた。
      四
 而して此戦争終熄の後に就ての意見を交へた際にも、多数の説は聯合軍・同盟軍何れが勝利者になるにしても、双方疲弊悃憊して、已むを得ず干戈を収むるのであるから、やはり強力を以て、一方を圧服するまでにして、武装的平和となるに相異ないと云ふことであつたが、私はこの衆説には同意せずして、諸君の御説の通りならば世界の知識は少しも進まぬのである。正義も人道も強力には圧迫せらるるものであると云ふならば、禽獣と異る所はない。所謂弱の肉は強の食で、獅子や虎と同類であるけれども、人は獣類とは異つて、互に相愛し、相敬して社会生活が出来ぬものだから、此大戦乱が熄んでも猶ほ、武装平和ならでは出来ぬと云ふならば、人類の進歩はないことになる。私は世界人知の向上を右様に断念せない、誰か真正の平和を唱へる人傑が出現するであらうと、自己の希望を述べたが、私の説に賛成するものは極めて少数であつた。
 以上のことは、唯当時の茶話会の雑談にすぎないが、私も世界の人民の一人として、直接間接、一身に関係する世界の変動に関して意見を述べるのは、自己の権利であると共に、又義務であると思ふて、機会ある毎に、かゝる問題に就て討議したのである。而して私の予想は戦争の勃発には全然失敗して、平和問題に就ては、やゝその望を達したやうに思ふて喜悦した。
 一昨年の十一月、休戦の条約が締結せらるゝ前に、米国の大統領は十四ケ条の講和基礎条件を発表した。その中に、真の平和を確保せんとする提唱が現はれ、その後講和の会議が進捗して、遂に其条約が調印される時は、国際聯盟規約が劈頭に締盟せられることになつた。私が夢物語りと思ふてゐたことが、弥々事実となつたのである。
      五
 其講和会議には我帝国代表を初め、各方面の人々が政府の命を帯びて多勢仏国に行かれたのであるが、私も親友間協議して、適当の人を撰択して彼地に派遣し、欧米各国一般人民の輿論、学者の論説其他社会の風潮を親察して、其の実状を報告する為、添田寿一・姉崎正治の
 - 第36巻 p.376 -ページ画像 
両博士に協議し、両博士は欧洲に出張せられたのである。蓋し、其際に於ける私の意志は、将来真正の世界平和を予期するには、向後国際の道徳を向上せねばならぬ、而して国際道徳の向上は、個人の徳義心に基因するから、両博士に依頼して、其点に就て内外の学説を講究して貰ひたいのであつた、両博士の欧洲旅行は、其の時日を異にしたが其の見聞の要点は大同小異であつて、欧洲各国民の国際聯盟に対する熱心は非常なもので、各国に聯盟協会が組織され、朝野の人士協心戮力、将来の平和の確立に努力してゐる事情を詳知したのである。只私が不思議の感に堪へぬのは、ウィルソン氏の如き名誉ある一国の大統領が、其の中心に立つて尽力し、其の調印を了した講和条約を、本家本元の北米合衆国が批准せぬことで、如何に其間に政界の掛引があるにしても、米国の為に惜しまざるを得ないのである。然し私は政界の事は精しく知らぬから、此点は多く論じないが、要するに真理は終に徹底するものであるから、国際聯盟の精神は、一層世界に普及せられ且つ充分活動することゝ思ふのである。
      六
 私は明治の初めから政治上のことには一切関与せぬ決心にて、専ら身を実業の発達に委ねたのである。凡そ国運の隆昌は、法律・軍事も必要であるが、其富を進めるには商工業を盛にする外に道はないと思ひ、此方面に於て終身国家に竭す覚悟で努力して来たのであるが、金融・運輸の諸興業、又は鉱山・農業等各方面に就て、之れを五十年の昔に比較すれば、全然面目を更めたと云ふても過言ではないと思ふ。去りながら、追々老衰する身を以て、限りなく発達す可き実業界に、何時迄も没頭してゐることも、あまり理想なき行為と思惟し、大正五年、七十七歳を期限として全く実業界を去り向後微躯を精神的方面に貢献せんと期念してゐるのである。但し実業界にある時とても、全然政治に無関心であつたのではなく、唯努めて其の方面に関係することを避けたに過ぎなかつたのである。之れはあまり好比喩ではないかも知れぬが、俳優となつて舞台に立たなくとも、観劇家として充分なる待遇法で好い技芸を要求するならば、自然と名優も輩出すると云ふわけのものである。現在の世界をして残忍殺伐なる悪政を匡正し、善良穏和の風俗たらしめるには、是非とも国際道徳を重んずる政治家と、完全なる政治組織を要求する次第である。それ故に、今後は専ら精神的方面に微力を尽して、一般思想界の改善に努力する積りで居るのである。
      七
 以上陳述した商工業によつて、一国の富を進めると云ふことも、一歩を誤れば、自己の富さへ増せば満足であると云ふ傾向になるのは、実業界一般の通弊であつて、商業道徳の興らざる、恰も政治家が自国さへ富強なれば、他の国をば圧迫虐待しても差支へないと思惟すると同患と云ふべきものである。
 又近来機械工業発達の結果、労働と資本との調和を欠き、動もすれば階級的争議を惹起するの恐があり、一方又貧富の懸隔甚だしく、勢ひ反目を来たして貧者は富者を怨み、富者も貧者を厭ふと云ふ有様で
 - 第36巻 p.377 -ページ画像 
ある。斯の如ければ国家社会の安寧幸福は望み得られぬ訳である。畢竟富者もその富を作る為には、幾多の貧者を生ぜしめてゐるのであるから、己れの地位を理解して、相助けると云ふことを自覚せねばならぬことゝ思ふのである。
      八
 要するに上述した国際道徳も、商業道徳も、又は貧富の調和も、労資協調も、悉く国際聯盟に大関係を有するのである。幸に我国にも朝野の識者が相依つて、現に国際聯盟協会を組織せられ、徳川公爵其の総裁に就任せられ、私などは実に其の任でないと知りつゝ多数諸君の勧誘によつて、止むを得ず会長を御受けした次第であるが、此上は、微力の続く限り勤勉努力する決心である。
 以上は頗る漫筆的断片であつて、文章をなして居らぬが、只平生の所懐を告白して、記者の需に応じたのである。


竜門雑誌 第四三七号・第二―六頁大正一四年二月 国際的平和と其他二問題 青淵先生(DK360155k-0008)
第36巻 p.377-380 ページ画像

竜門雑誌 第四三七号・第二―六頁大正一四年二月
    国際的平和と其他二問題
                      青淵先生
      一、国際聯盟に関して
○上略私が国際聯盟協会の会長となつたことに付て話して見たいのである。私は元来平和を好むものであつて、人類の知識が進み、社会の文化が発達して来れば、平和思想は一国内に止らず国際的となるのが自然で遂には道理に基いて何事をも行ひ、所謂経済と道徳との合一、政治と道徳との合一が完成して、黄金世界を出現せしめるに到るものと信じて居るものである。
 私の青年時代の思想は、相当過激なものであつたから、腕力も強くなければならないと撃剣なども学び、言論のみの力では足らずとして実行力を養つたものである。然し私の云ふ力は「言に訥にして行ひに敏なり」との意味で、直接行動ではないのである。時々に世の中が如何に乱れることがあつたにしても、人類に平和を好む本能があると云ふことは否定することは出来ないかと、私は六十年の昔から考へて居たのであつて、これは決して空想ではない、あの有難い有難いと思つて居れば阿弥陀様が助けて下さる、と云ふやうなことこそ空想であつて、その様なこととは全然異る真実なるものである。勿論国に依つて国体や習慣や制度の相違で、進展の程度にも自ら等差があることを免れないが、人智が進むに伴れて国民は平和を希望し、お互ひによい生活をしやうと望むに到るものである。即ち自己のみを先にすると、結局は人を虐げることになると云ふ点に自覚を為し、孟子の「苟くも義を後にして利を先に為せば奪はずんば饜かず」と云ふ言葉の意味を解し、道理と仁義とを重んずるに到るべきものと思ふのである。
 斯くの如き成行は、過去の歴史に顧みても瞭かな処である。昔は宗教的標榜をして戦争を始め、真実は領土拡張を目的とすることなども頻りに行はれた、其例は西洋のみでなく東洋にも少くなかつた。然るに近世に移るにつれて、漸次人類は進歩し知識が広くなり、戦争を少くしやうとする観念が盛になつた。私の古くからの知人である彼の、
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スタンホード大学のジヨルダン総長の如きは、最も強く此観念を持つて居る人である。曾て氏が来朝せられた時大いに話し合ひ、私の東洋流の平和思想と、氏の西洋流の宗教的な平和思想とが相共鳴したことがあつた。
 当時、モロツコのことで独逸と仏国との間に紛議があつたが、戦費の必要から独逸が米国のモルガンに金融のことを依頼した処、モルガンは侵略的な戦争に要する金は貸さぬと云つたことを例として、総長は戦争は起らぬであらうと予言して居たが、果して此言は的中した。其後私も戦争の減少して行くことを信じ、世界大戦争の如きも其初めは果して起るかどうか疑問とし、止むなく勃発しても永く続きはしないであらうと観測して居た。従つてあの年の八月一日に房州へ行く汽船の中や向ふへ着いてからも「この戦争は早く終熄する」と云つて大変に観測を誤つたことがある。このことはよく色々な会合の席上で、失敗の話題として居るのであるが、愈欧洲大戦は世界中の大動乱となり、其結果各国は戦争の惨害を感じた様であつたから、結局は或る方法で共同的に或る国の侵略的な欲望を抑制するやうなことになりはしないかと思つた。然しまさか国際聯盟の如きものが成立するとは思はなかつたのである。処が大正七年の十一月に休戦条約が締結せられると同時に、米国のウヰルソン氏は国際聯盟を高調したのであつた。私はこれある哉と思ひ、たとへ此聯盟に大なる威力がなくとも、戦争の勃発に当面して之を後らせるだけでも効果がある、若し方法さへ適当に採られるならば、国際紛争の調停機関とならぬとも限らぬと思ふたのである。そして私は世界の戦争が少くなり、知らぬ他国人同志も道理に基いて真正に権利義務を重んじて行くと云ふ意味から、国際聯盟に賛成するのは人類の義務であると考へて喜んで居た。
 然るに自身態々渡欧して国際聯盟を高調したウヰルソン大統領が、米国に帰ると非常に評判を悪くしたのみならず、国際聯盟は成立したが米国では之に正式の参加をせず、今以て参加しない。けれど米国とて主旨には賛成して居る訳で、参加しないのはたゞ党派関係からである。その後国際聯盟は其効果を疑はれながらも、実際には労働問題・社会問題其他に付て引続き会議を開いて着々成績を挙げ、各国の歩調を段々と統一しつゝあるのである。
 大正十年《(八)》であつたか、この国際聯盟に協賛する協会が先づ英国で起り、日本でも同様聯盟援助の協会を起すことになつたのであつた。私はその時分、老人でもあり世界の形勢にも通じて居ないので、自ら之に加はらうと云ふやうな考へは持つて居なかつた。処が牧野伸顕子爵が私を訪ねられて、その参加と会長引受のことを頻りに勧められた。そして「有志が相談して国際的なこの協会を起すことになつた、これは政府が命ずると云ふやうな性質のものでない、官民一致協力して働くものである、従つて会長には世界の事情も判り、相当の年輩の人で協会の維持に尽さるゝ方が必要である、其処で相談の結果、貴方にお願ひし度いと云ふことになつたから御承諾を願ひます」と云はれた。私は「或る点には御相談に加はるが、国際的なことは余り判らず、新聞を読んで知る程度であるから、平に御免を蒙る」と答へて私の思入
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れでは断つた積りで居た。処が其後いよいよ築地の精養軒で、此問願に対する有志の協議会が開かれるから出てくれと、添田寿一さんが云つて来たので、折角の勧めでもあり出た処が、私に座長になれと云はれるので座長になつたらば、今度は会長は座長にお願すると云ふ議が出て、それに決つてしまつたから、遂に私は之を引受けることになつたのである。そして私は次の如く自問自答した。「国際的なことをよく知らないから断るべきであるとも云へるが、知らないから大いに勉強して知る様にならねばならぬ故、引受けることは自分の為めであると云へる、殊に日本は東洋に偏在する一島国であるからとて、国際的のことを知らぬではすまされぬ、未来の国運発展上にも世界的な知識を充分吸収して置かねばならない、白人が幅をきかす、アングロサクソンが威張ると云ふのも、知識が汎く道理を極めて居るからである。明治維新の当時薩長が幅をきかせたと云ふが、実力があつたからである。将来日本がどうなるか、又東洋がどうなるか判らぬが、兎に角、日本は国は小さいながら、今日の地位に進んで来た以上、為すべき手順は行つて置かねばならぬ、鎖国的では駄目である。チエツコ・スロバキアさへ国として国際的にやつて居る、勿論聯盟の力を絶対とすることは出来まいが、聯盟の力で戦争の起ることを予め静めることだけでも出来るならば、是非必要なものであるから、空論に走らぬやうに道理を弁別して誤らしめぬことを心掛けて進むべきであらう」と考て此処に会長を引受けたのである。
 而して何事にも必要な費用を集めることを、第一に重要事として考へて富豪連中から寄附を募つて居る訳である。また私はこの国際聯盟の主旨を広めることに努力し、微力ながら相当の心配をして来たので今年で五年目になるが、僭越ながら尚ほ会長の椅子にある。そして先づ知識階級の了解を得ることが必要であると考へ、種々其方法を講じ又来るべき知識階級たる学生に対し、大に宣伝を試み、今では各大学其他に支部が設けられ、其数二十近くとなつて居る、右様の関係で、私は帝大・早大・明大其他の支部発会式には必ず会長として参加し、演説を為したのである。
 偖て新渡戸博士は国際聯盟の事務に鞅掌し、之に就ては非常に詳しい方であるから、色々とその内容に就て聞かせてもらつたが、実に之を完全に働かせて行けば、人類の平和を期することは云ふまでもなく白・黄・黒の人類の差別なく、幸福を与へ得る処の力を持つて居るものである。新渡戸博士は協会に対し、非常の厚意を持つて下されて、国際聯盟の情報は、絶対秘密のものでない限り、出来るだけ詳細に、また急速に協会の方へ通知する旨を述べられ、尚ほ日本としての希望を協会側から知らせて欲しいと云つて居られた。
 斯くして国際聯盟協会は国際聯盟其物と連絡をとつて、将来の発展を計つて行きたい。そして世界の平和に対して貢献しつゝ、諸種の刺戟をも与へて行く考へである。尚ほ未参加の米国も近く聯盟に参加するであらうとのことであるが、同国でも民間に於ては既に国際聯盟協会も成立して居り、相当な人は悉く聯盟を認めて居るのである。私の親友であるヴアンダーリツプ氏の如き、大正九年来朝の折にも「結局
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国際聯盟は、世界的に成り立つもので米国も近く参加するであらう」と云ふ意味のことを私に話したことがある程で、心ある人は其参加を認めて居るのである。
   ○イギリス国国際聯盟後援会ノ成立発表ハ大正八年十月十三日ギルドホールニテ行ハレタリ。(「時事新報」大正八年一〇月一七日)


青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年八月十五日国際聯盟協会 添田寿一氏談】(DK360155k-0009)
第36巻 p.380-381 ページ画像

青淵先生関係事業調 雨夜譚会編 昭和三年八月十五日
                    (渋沢子爵家所蔵)
    国際聯盟協会
                      添田寿一氏談
欧洲大戦に依つて人類が蒙つた惨害は、大戦に加入国たると不加入国たるの別なく、有形無形多大なものでありました。終熄と共に巴里に開かれる平和会議に、私は新聞記者の片書を以て望むことに致したのであります。当時私は最早報知新聞社の社長は罷めて居つたのでありますが、此片書は何かに付けて最も便利である事を知つて居つたからであります。私は大正八年二月十二日日本を出発、同年十月十二日に帰国したのであります。出発に際して、私は渋沢子爵に御目に掛りました。此時子爵から、平和会議に臨む序に、人類が此大戦の惨害に幾何丈け懲りたか、之れに依つて人類は果して反省して居るか、人心は善化したか、それとも悪化したのであるか、此等の腹案を以て渡航して貰い度いとの事を承りました。
そこで先方へ行つて見ると、成程懲りたには懲りた、即ち学者のユートピア也とした国際聯盟が、実現したのであるから人類反省の実は明かである、人々は相会して人類協力に俟つて、文化事業の促進を努めやうと迄協議しました、衛生設備をより完全にし度い、労働問題を明るい方面に導き度い、婦人問題を協議しやう、阿片問題を解決せねばならない、曰く何々と。
然しこんな事は、容易すくは行くものでなかつた、ウイルソンが国際聯盟を提唱した所以は、彼が学者なればこそであつた、高遠な理想を抱く人格の人であつたればこそである。さればこそ彼の提唱には、尠からぬ反対があつた、不用の論をなす者もあり、不可能也とする者もあつたのであります。斯る次第で此高遠なる理想的提案は、実際的懸案と結び付けねば成立の見込、誠に心細かつたのであります。即ち対独平和条約と接合させました、之れにはウイルソンの下に在るランシング等の反対がありました。けれども切り離しては成立たぬ、そこで反対を押除けて成立させた訳であります。故に全然善化したとは勿論いかない、況んや戦争後には所謂、成金が出来てゐる一方、戦場に斃れ或ひは傷いた兵士の家庭に在つては、肉親に別れた者もあり、又大切な一家の支柱たるべき者に死なれた家族も少くない、成金が平静を失したるものであると同時に、死傷者を出した家庭は一層困惑して居るものである、即ち社会的に有形・無形の変化は一通りではなかつたされば戦後の人心は返つて悪化したものではなからうか、殊に変動の最たるものは先づ露国でせう、事実上の専制的帝政を亡ぼして、ソビエツト共和国が出来ました、次に軍国主義的独逸に代つて、経済的帝
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国主義たる米国が擡頭しました。
国際聯盟は斯く怪しいものとして成立した、殊に其主張者であり、経済的に絶大な力を有する米国が、圏外に在る事が一層聯盟をして力弱いものとしたのであります。然し米国は輿論の国である、尚ほ大戦後は欧洲諸国に於てもデモクラシーの気分が旺盛となりまして、列強は単に国家間に国際聯盟を作つたのみで足れりとせず、国民の間にも斯る機関を作り、米国とも之れに依つて結び附け様と云ふ事になり、玆に国際聯盟協会が成立する事となつたのであります。私は巴里に於て西園寺公の意見を聞きました。そして日本にも此協会の必要なる事を感じたのであります。故に私が日本に於て国際聯盟協会を設立しやうとの考へは巴里に在る時、卵を形造つて居りました、即ち胎内に宿つて居つたと言へるでありませう。巴里に於ては秋月左都夫氏・姉崎正治博士も協会の事をお聞きになりました。私は巴里に於て種々考へまして阪谷芳郎男等がやつて居られる平和協会○大日本平和協会と協力して、此機関に依つてやらうかとも考へました。けれども列国に新しく新設されるものが日本にのみないのは一等国たるの体面にも関係すると思いまして、別に協会を創立する計画を以て、大正八年十二月帰国するや力を致しました。然し日本に於て斯る事業に尽力する人は稀であります。若しやり掛けて失敗したら、国際上の体面問題である。何故なら国際聯盟の開かれる時は、協会に於ても開会して各国代表を派遣するのであります。そこで其人選に腐心して総裁・会長は有為にして而も政党的色彩がない人を求め、徳川家達公を総裁に、渋沢子爵を会長に御願致した次第であります。此時渋沢子爵は老体為す無きの故を以て頻りに御辞退になりましたので、私は牧野伸顕子爵・西園寺公に此旨話しましたら、何れも御心配になり、牧野子爵は王子邸に子爵を訪問されて引受けを頼まれました。尚ほ会長以下の任命に就ては、子爵の御裁量に委ねました。
然し、会の設立維持は仲々困難で、会の基礎が定まるには容易ではなかつたのであります、其費用も子爵の御尽力により、賛助員○中略の援助、並に政府からの補助により、世間並に現在やつてゐる有様であります。


集会日時通知表 大正八年(DK360155k-0010)
第36巻 p.381-382 ページ画像

集会日時通知表 大正八年 (渋沢子爵家所蔵)
一月廿六日 日 午前十一時 添田寿一氏来約(兜町)
   ○前掲添田博士ノ談話中、同博士欧洲出発前ニ於ケル面会ト云ヘルハ、右一月二十六日ナラン。
   ○中略。
十二月廿八日 日 午後一時 牧野伸顕男ト御会見ノ約(鍋島侯邸)
   ○牧野伸顕トノ会見ハ、右「集会日時通知表」中ニハ右十二月二十八日ノ他ニ見当ラズ。添田寿一ノ談話中ニハ、飛鳥山邸(即王子邸)ニ訪問セリトアレドモ、或ハ鍋島直大邸(渋谷、松濤)ニ於ケル会見ノ誤リカ。
   ○当協会大正十一年十一月以前ノ書類ハ水害ニヨリテ失ハレタリ。
   ○当協会事務所ハ初メ東京商業会議所内ニ置キ、其事務ハ外務省内ニテ執リシガ、大正十年四月下旬ニハ内山下町一ノ一日本産業協会ビルデング内ニ初メテ名実共ニ備ハレルモノヲ設ケ、大正十二年九月ノ震災ニヨリ一時外
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務省内ニ仮事務所ヲ置キ、大正十二年十月八日同所ヨリ芝公園内協調会館ニ移転シ、昭和二年十二月五日麹町通八重洲町一丁目一番地ニ移転、昭和四年四月十五日丸ノ内二丁目十二番地ト改称セラル。俗ニ仲通三菱十三号館ト称ス。
   ○昭和八年五月十二日ニ開カレタル当協会第十三回通常総会ニ於テ、定款一部改正ヲ決議シ、当協会ヲ日本国際協会ト称スルコトトナレリ。(日本国際協会事務員談)



〔参考〕国際聯盟 第一巻第一号・第九―一二頁大正九年一一月 国際聯盟協会の必要なる理由 副会長 法学博士 添田寿一(DK360155k-0011)
第36巻 p.382-384 ページ画像

国際聯盟 第一巻第一号・第九―一二頁大正九年一一月
    国際聯盟協会の必要なる理由
             副会長 法学博士 添田寿一
 今回の欧洲大戦は四年有半の久しきに亘り、其直接の戦費のみにても四千億円を超へ、死傷数千万人を算し、交戦国と中立国とを問はず各国々民が其惨害に懲り、其再燃防止の必要を感じたる結果、今までは一片の空論夢想を以て目せられたる国際聯盟も、不充分ながら実際問題となるに至れり。然るに悲い哉、斯る大戦乱も徹底的に人類を反省せしむるに至らずして、自我的ナシヨナリズムの気勢、殊に各国の利益争奪は戦前に比して一層熾烈ならむとす。辛じて独国の軍国的征服政策より免れ得たる世界は、今後過激派の為め赤化し去らるゝにあらずむば、侵略的資本主義、経済的帝国主義の悩す所とならむも知れず。而して此等の脅威危険より脱却せむことは、各国独力の能くすべき所にあらずして、列国の共同力を以てするの他あるべからず。之が為めに新なる集団を組織せむよりは、既に成立せる国際聯盟を利用するの便且つ速なるに如かざるなり。是れ国際聯盟を過信するの非なると同時に、聯盟の前途が危殆なればなるだけ其必要を加ふる所以なりとす。
      国際聯盟の効果未だし
 ウィルソン大統領の高遠なる理想と熱烈なる提唱とに基き、曲りなりにも成立を見たる国際聯盟の現状に就ては、世上或は其予期に反するの甚しきに驚く者あらむ。然れども斯くの如き大事業の完成には、藉すに幾多の歳月を以てせざるべからず。況や昨年の巴里会議に於て遺憾なく暴露せられたる錯綜紛糾の極に達せる列国の利害は、理想の実現をして至難ならしめたるに於てをや。例へば
一、一方に於て民族自決を唱へながら、他方に於て日本の提議せる国民平等案を否決せるが如く、矛盾撞着に陥りたること。
二、仏国が最後まで極力主張せるに拘らず、国際聯盟に軍事的制裁を具備せしむるの提議が否認せられたる結果、聯盟規約違反者に対する制裁力の薄弱となれること。
三、由来巴爾幹半島が欧洲戦乱の導火線となり来れる以上、苟も将来に向つて戦乱の過根を艾除せむと欲せば、寧ろ巴爾幹の地域を縮小すべきに、却つて波蘭を初めバルチツク諸洲、ユーゴー並にチエッコ・スロヴァキヤ以下幾多の新国を建設し、戦乱の種子栽培地域を拡大せること。
四、西欧の善後策に没頭せるの極、露国の始末を閑却し、対露政策に関する列国の不統一は却つて其赤化を助長するに至り、殊に他日独
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国東漸の余地を貽せること
の如きは之を証して余ありと謂つべし、殊に彼の青島問題に関する支那側の運動が如何に巧妙猛烈なりしにもせよ、又如何に米国内に於ける政党的掛引が重きを有し、将来政事上経済上米国の飛躍に対して聯盟規約が一大障碍物たるにもせよ、米国が今に至るまで国際聯盟を批准せざるが如きは何人も意外とする所たるのみならず、之れが為めに神聖なる国際聯盟の権威を失墜せる幾許なるを知らず。其結果伊国のフユーメ占守を発端として、独国の講和条約履行躊躇となり、延いて仏国のルール地方出兵より英仏の乖離を醸し、聯盟国間の不一致は露独に乗すべき機会を与へ、両国の接近は遂に一時にもせよ波蘭をして危殆に瀕せしめたるに非ずや。波蘭の援助、就中ウランゲル将軍支持に関し英仏其所見を異にし、甚しきは対レーニン政府態度に就きて米仏と英伊との間一致を欠き、過激主義の宣伝に絶好の機会を与へたるのみならず、英・仏・独・伊・白の労働団体の過激派に加担するあり戦前に比し、平和文明に対する脅威は一層其勢力を加へ来れり。縦し今後各国の協同によりてボルセヴイズムの蔓延を防止し得るものと仮定するも、列国にして経済的帝国主義を断念せざる限り、世界の平和は何時攪乱せられむも知るべからず。
      独り政府にのみ委すべからず
 斯く観察し来るときは、国際聯盟の完成は平和文明を念とする者の当に努むべき所たるや明瞭なり。而して之が完成を期する以上、列国政府の努力に俟つ所多きは勿論なりと雖も、各国々民が聯盟の必要を認め、政府当局を刺戟するまでに熱中するにあらずむば、決して完全に目的を貫徹し難からむとす。要するに国際聯盟を国民化し、之をして一部の政事家、殊に陰険なる野心家の為めに左右せらるゝの虞なからしむるにあらざれば、世界の将来は転た寒心に堪へざるものあり。是れ英国を始め強大国に於て国際聯盟協会の設立を見るに至れる所以なり。
      我国に於ては特に必要也
 上来陳述せる所は大体に於て国際聯盟協会を必要とする理由なるが日本に取りては他邦に比し更に其必要の大なるものあり。目下日本は世界一般に誤解邪推排斥の的となり、甚しきは侵略的軍国主義の権化第二の独逸を以て目せらるゝに至れり。幸に我国際聯盟協会が全国民の賛成する所となり、我国民が国際聯盟の尊重擁護に熱心なるを証明するを得ば、此謬見を一掃する上に於て思ひ半に過ぐるものあらむ。況や五大国の一たる至重至大の責任を果さむと欲する以上、国民の世界的智識を養成し之をして変転窮りなき宇内の形勢に通暁せしむるの他あるべからず。此の目的達成の為めにも国際聯盟協会の必要なる多言を要せず。全世界を挙げて民本主義の支配する所となれる今日、国民を後援とし国民的基礎の上に立つにあらざれば、向上せる我国位を保ち国際会議に於ける帝国の発言をして権威を有せしむることの望み難き以上は聯盟協会の必要なるは決して他邦の比にあらざるなり。苟くも国家の利益を保全すると同時に世界の平和を維持し人類の幸福に貢献せむと欲せば、階級の差、党派の別なく、全国民に向ひ自ら進ん
 - 第36巻 p.384 -ページ画像 
で国際聯盟協会に及ぶ限りの援助を与へむことを切望せざるを得ず。
   ○当協会ノ機関誌「国際聯盟」ハ第二巻第一号(大正十一年一月一日)ヨリ月刊トナリ、第二巻第九号(大正十一年九月一日)マデ発刊セラレ、翌月号ヨリ其誌名ヲ「国際知識」ト改題シテ「国際聯盟」ノ号数ヲ追ヒ継続発刊セリ。



〔参考〕国際知識 第一二巻第二号・第一一頁昭和七年二月 渋沢前会長の追憶 本協会副会長法学博士 山川端夫(DK360155k-0012)
第36巻 p.384 ページ画像

国際知識 第一二巻第二号・第一一頁昭和七年二月
    渋沢前会長の追憶
                本協会副会長法学博士 山川端夫
○上略
      (四)
 国際聯盟がパリの平和会議で愈々出来るといふことを聞かれたとき故人は非常に喜ばれた。その後我国にも聯盟協会を作らうといふ議の起つたとき、誰れに会長になつて貰ふかといふことで甚だ困難した。故子爵は、添田博士の言はれたところによれば、西園寺公・牧野子爵あたりからも勧説があつたにも拘らず、会長に就任することは固辞し居られたとのことである。故人は国際のことは余り判らず、新聞を読んで知る程度であるから、平に御免を蒙るといつて居られた。ところが愈々本会の発起人会が大正九年四月二十三日、築地精養軒で開かれたとき、故子爵も元々国際聯盟を翼賛しようといふ考へのところへ、添田博士等からも勧めがあり、之に出席して見ると、座長に推され、座長になると今度は会長に御願するといふ議が出で、それに満場一致で決まつたから、そのまゝ会長を御引受けになつたやうな次第であつた。その時の気持ちを故子爵は左の如く述懐せられてゐる。○下略



〔参考〕国際知識 第一二巻第二号・第二八―三二頁昭和七年二月 国際平和の権化 本協会理事法学博士 林毅陸(DK360155k-0013)
第36巻 p.384-385 ページ画像

国際知識 第一二巻第二号・第二八―三二頁昭和七年二月
    国際平和の権化
                本協会理事法学博士 林毅陸
 渋沢翁に接して第一に受くる印象は、春風駘蕩の感じであつた。翁の全人格は平和其ものとも云へる。翁は多くの尊き事業に関係して、それぞれ多大の貢献をせられた其中に於ても、平和の為に尽瘁することを以て、特殊の大使命として居られたのは、最も自然の事の様に見ゆる。翁は大なる愛国者であつた。同時に人道を愛し平和を愛すること亦甚だ切なるものがあつた。吾々は翁の事業に対してと言はんよりも、先づ其の人格に対して、無限の尊敬を払はざるを得ない。
 翁は産業界の平和のため、労資協調を力説せられた。翁は社会上の平和のため、各種の社会改良及救済の事業に努力せられた。然し最も重きを置かれたのは、国際の平和であつたと思ふ。先づ日米関係に於て、又日支関係に於て、又一般国際関係に於て、翁は平和の為に絶えず心を用ひ、総ての平和運動の中心となり、機会ある毎に、問題ある毎に、如何なる労苦をも厭はず、一身を挺して国民外交の衝に当り、外客来れば之を迎へて親善を説き、国際紛争起れば声を揚げて平和を説き、隣邦に災害生ずれば涙を振つて人道を説く。そし老齢も病苦も総て之を忘れ、全精力を平和人道に傾け尽さんとせられた。翁は実に
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国際平和の権化とも云ふべく、其の偉大なる人格は、正に国宝的存在であつたのである。而して其の平和は勿論、低級的パシフイストの不見識なる平和ではなく、正義の平和であつた。夫の不公正にして侮辱的なる米国移民法に対し、終始強く反対せられた如きは、即ち其の一例である。温和篤実なる翁の口より出づる抗議は、米国人の反省を促すに於て特に有効であつた様に思ふ。翁は元来其の血液中に旺盛なる武士的精神を蔵し、報国の念常に鬱勃たるものがあつたのである。又翁は平素道徳と経済との調和を主張し、其の独特の論語論は世間に有名であつたが、同様に其の平和論は経済を離れず、我経済の発達を助くるの点に重きを置いて居た。翁は決して平和の空論を以て足れりとしたのではない。是れ亦特に記憶すべき点である。
 言ふ迄もなく、翁は国際聯盟の大なる同情者であり、我が国際聯盟協会の生みの親、並に育ての親であつた。聯盟精神の普及に対する翁の献身的努力は、実に感激に堪へないものがあつた。国際聯盟は尚発達の初期に在りて、其の前途頗る多難であり、国際平和の確立亦望洋の嘆なきを得ない今日、渋沢翁を失ひたるは、実に痛恨の至りと謂はねばならぬ。


〔参考〕国際知識 第一二巻第二号・第二八―三二頁昭和七年二月 故渋沢子爵と我国に於ける国際平和運動 国際聯盟協会理事 宮岡恒次郎(DK360155k-0014)
第36巻 p.385-387 ページ画像

    故渋沢子爵と我国に於ける国際平和運動
              国際聯盟協会理事 宮岡恒次郎
 故子爵渋沢青淵翁が、一九一九年、即大正八年六月二十八日調印のヴエルサイユ条約に依り、国際聯盟の組織せらるべきことを認識せらるるや、我国に於ても此国際平和確保の機関を支持する為め、帝国政府の背後に有力なる国際聯盟協会を建設し、以て大に国論を喚起するの必要を説かれ、政府及民間識者の協力を得て本会を創立せられたることは、今更喋々の必要なしと雖も、今日平和運動と云へば直に国際聯盟を思起し、国際聯盟即平和保持、非戦即国際聯盟と云ふが如く、殆ど二者同一物にして二にあらざるが如く、一般に考へらるる時勢と為りたるに就ては、国際政治の上に国際聯盟未だ現はれず、我国に於て国際聯盟協会の設立抔何人も想像せざりし以前に於て、老子爵と平和運動とは如何なる関係ありしや、我国に於ける国際平和運動の過去を辿りて、子爵の功績と達見とを追想するは、本会として極めて自然の行事なりと思はる。是れ即私が玆に渋沢子爵と我国に於ける国際平和運動と題して、国際聯盟協会設立以前の経緯を可成、簡単に述べんと欲する所以なり。
 大日本平和協会が東京に設立せられたるは、明治三十九年四月、即世界戦争の勃発に先んずること満八年前なりし、又京都に於て東洋平和協会の設立せられたるは明治四十一年即西暦一九〇八年と記憶す。又日本在留米国人の平和団体たりし「アメリカン・ピース・ソサイエチー・ヲブ・ジヤパン」が東京横浜在住合衆国人に依り創立せられたるは、明治四十四年一月即ち今より二十一年前なり。
 大日本平和協会の創立者は、安政六年若は万延元年、亜米利加公使館が伊豆柿崎より江戸に移り、麻布仙台坂下善福寺に設けられたる時幕府の陸軍士官として公使「タウンセンド・ハリス」護衛隊の司令を
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勤め、維新後教育家としては麻布中学創立者又政界に在りては、第一期以来の衆議院議員として令名を轟かし、社会運動家としては少年禁酒運動に努力せし江原素六氏なり。大日本平和協会の会長は、始め江原氏なりと記憶すれども、幾干もなくして同会は伯爵大隈重信を会長に推挙したり。其当時理事とし尽力したる者は、故服部綾雄、故林包明、ギルバート・ボールス、鎌田栄吉、故中野武営、故寺尾亨、子爵福岡秀猪・大橋新太郎・故大越成徳等の諸氏なり。会計のことは当時東京電灯会社々長たりし、故佐竹作太郎氏之を担任し、其死後は大橋新太郎氏専ら其事に当り、又幹事は加藤勝弥・向軍治外二氏なりし。而して同会は「平和」と題する月刊雑誌を発行し、神田美土代町耶蘇青年会館・一橋外高等商業学校講堂等に於て講演会を開き、平和主義及戦争に依らずして国際紛争を解決する論を盛んに鼓吹したり。
 明治四十四年七月十一日よりカーネギー国際平和財団、経済及歴史部の会議を瑞西国ベルンに於て開くことゝなり、同会議に出席せんことを当時、同財団理事長たりし前米国国務長官エリユー・ルート氏より阪谷男爵に求め、男爵は其招待に応じて行かるることと為りたるに依り、大日本平和協会は同年六月六日、早稲田大隈邸に於て阪谷男爵の為めに送別会を開きたり。是れ同男爵及渋沢翁が表面に立つて国際平和運動に参加せられたる始めての公知事実と記憶す。其当時日本に於ける国際平和運動に努力したる米国人の名を忘る可からず。曰くギルバート・ボールス、曰く故神学博士クレー・マコーレー、故同ジーエチ・ペテー、神学博士エス・エチ・ウエインライト、故勲三等ゼーアール・ケネデー等なり。而して明治四十四年夏には同会の陣容大いに改まり、会長は伯爵大隈重信、副会長は江原素六・阪谷芳郎の二氏又新理事としては島田三郎・新渡戸稲造・早川千吉郎・高田早苗・箕浦勝人・尾崎行雄・添田寿一等の諸氏、新に選ばれて就任したるが、若し然らざりしとするも、少くも理事に擬せられて会より交渉を受けたるものなり。青淵翁が同会名誉評議員に推されて公然同会と関係あることを発表するに至りたるは、蓋し故大隈侯爵と阪谷男爵の功なり此頃同会々員数僅かに二百五十名を出でざりし事実を顧みるに於て、青淵翁と我国平和運動との関係浅からざりしことを思はずんばならず
 京都に於ても明治四十一年十一月十一日、東洋平和協会なるものを組織し、当時京都市長たりし西郷菊次郎会長と為り、重なる肝煎としては今現に米国紐育に於て東洋諸国、就中日本と米国との了解に尽し居る神学博士シドニー・ギユーリツク、当時同志社々長たりし原田助京都帝国大学教授末広重雄及四条教会牧師牧野虎次等の諸氏あり。
 又朝鮮に於ても隆熙四年、即明治四十三年六月十日韓国平和協会を起し、会員約四百三十五名を算したり。
 大日本平和協会事業の一端として特筆すべきことは、同会が雑誌平和の刊行を廃罷したる後「ゼ・ジヤパン・ピース・ムーヴメント」と称する今の「グリーニングス・フロム・ジヤパン」の如き、英文雑誌を出版したること、及世界各国就中、米国に於ける平和団体等より来る通信の相手と為す為め、専心其事に当る幹事を置き、神田区表猿楽町拾番地に耶蘇青年会が建築したるビルデイング内二室を借り、川上
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勇と云ふ篤志家を依頼して、インターナシヨナル・サービス・ビユーロー即国際奉仕機関と名けて、事務所を置きたること是なり。此事たるや一定の費額を月々要するが故に、子爵に依頼して毎月渋沢事務所より若干円の交付を受けたり。其後国際聯盟協会の設立あるに及び、大日本平和協会の維持困難に陥り、当面の執務者たる川上氏も余り其通信事業に勉励して病に罹り、恢復の見込なきに至りたるが故に、其事務は国際聯盟協会に移し、大日本平和協会としては、大正十四年五月一日を以て一先解散することと為れり。
 渋沢子爵は論語と算盤と云ふことを常に標語として、商買其他殖利事業の道徳化を説かれたる人なり。即ち正義道徳に反したる行動を為さば、殖利事業に於て成功せずとの信条を抱かれたり。故に国と国との関係亦然り。共存共栄の途に依るに非ずんば、国家として成功し得ずと固く信じ、率先して国際平和運動に志し万国親善を説かれたり。蓋し故人の性格当然の帰着なりと云はざる可らず。



〔参考〕国際知識 第一二巻第二号・第三九―四一頁昭和七年二月 協会創設当時の回顧と故渋沢翁 本協会理事法学博士 松田道一(DK360155k-0015)
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国際知識 第一二巻第二号・第三九―四一頁昭和七年二月
    協会創設当時の回顧と故渋沢翁
               本協会理事法学博士 松田道一
 現行の国際聯盟規約は、一九一九年の巴里平和会議の重要なる議題の一となり、遂に対独平和条約の一部として其の第一編に組み入れられ、爾来対墺洪勃の各平和条約の劈頭に掲げられることとなつた。是れは世人夙に熟知の通りなのである。此の聯盟規約なるものは必ずしも忽焉として、平和会議の際一議題として持出されたるものではなくて、此の大戦を如何に終結すべきや、将又戦後の世界平和維持を如何にして確保すべきや等、国際政治家の一大関心事の流れが集りて、玆に聯盟規約といふものに結晶して来たのであつて、実は戦争の継続中殊に其の末期に於ては、此の規約の考究が各国の政治家、殊に広く且高尚なる意味に於ての経世家の念頭を支配して居たのである。然り而して我国に於ては当時、我が渋沢翁の念頭を切りに支配して居りたることは、私が翁より懇々と親しく御話を承りたる所により、確と観取したのであつた。私は其の偉大なる精神に感激したのであり、且又其の刹那の感じは私の胸に大なる響を与へ、折に触れ事に応じて思ひ出され、今に於ても生々として翁の雄姿が、私の眼の前に厳然として現はれて居られる様に思はれるのである。実に渋沢翁は此の前古未曾有の大戦乱の勃発以来、何とかして一片の「武力」以外に、学問的に且又精神的に、人類の進歩に貢献するの方法は無いものかといふことに付き、色々と肝胆を砕いて居られた様である。此のことは大正九年四月二十三日、築地精養軒に於ける本協会創立発起人会の節、座長席より親しく例の謙譲なる態度を以て、諄々として説かれて居るのである。
 私は大戦後、外務本省より出でて巴里に在勤し、又同時に国際聯盟の事務にも携はることとなり、其の関係から巴里の銀行家で日本の親しき友人である所の「アルベール・カーン」氏の眤懇の友である「ベルグソン」翁に親炙する機会を得たのであるが、同翁は此の世界大戦後に、世の中が再び昔の暗黒時代に立戻りはせぬかといふことに付き
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深憂を抱いて居られたことを親しく話され、聯盟の事業の一としての知的協力の企も、実は同翁の尽力与つて大なることを観取したのであつた。此の「ベルグソン」翁の御話は、恰度前に渋沢翁から私が得て居た所の感想に、彷彿たるものがあつたのに驚いたのである。渋沢翁は前に述べたる所の本協会発起人会に於て更に語を進めて、こういふことを述べられたのである。即ち「若し戦後精神的の点に於ても、何等かの進歩を見ることが無い様であるならば、文明の進歩は人類の幸福の為に禍することとなるのではあるまいか、文明の利器を用ひて相殺戮することのみを専らする様では、神が人を作つた目的に反する訳ではあるまいかと、古い考へかも知れませぬが、かう云ふ考を抱いて居りました」と述べられて居る。其の為めに巴里平和会議には、此の方面の用意の為めに姉崎正治博士に旨を含められ、又故添田寿一博士にも御相談があつたことを私は承つて居る。殊に姉崎君が巴里へ出発の頃は、翁は御病気で臥床中であつたのを、病床で話されたと云ふことを親しく承つて居る。つまり翁の意中を量るに国際政治上の取引は巴里会議場裡の樽爼折衝で行はれるが、其れ以上の世界の永遠の生命の為めには、更に一段と高所に立ちて、之が措置を講ずるを必要とするといふことに在つたものと考へられるのである。是れは誠に尊いことであると私は考へて居るのである。私は此の心を以て神明と霊犀相通ずるものとも言ひたいし、又天地の大気と相合するものとも言ひたい。私の語は足りないかも知れないが、所謂日月と其の光を争ふの心事である。理想なき国家は固からず、理想なき世界は殆しと云ふべく経政家の能は技巧に終つてはならない。翁の如きは参天地之化開盛衰之運の人と言ふべきである。燦然たる文明を有せし羅馬が廃墟に埋もれ、数世紀を経て漸く其の発掘より近代文明が生れ出でたるの歴史は戦慄すべき史実なのである。
 私は玆に、本協会創立当時の細い行きさつを述べ様とは思つて居ないが、其の節渋沢翁に協会の会長御引受の内願の為め、伊達源一郎君と王子の御宅に上り、御辞退なさるのを無理に御願して、其の快諾を得た時は一同胸をなでおろしたのであつた。蓋し聯盟の思想など言ふことは、当時に在つては一般に甚だ認識不足であつた。翁に非ずんば他に其の人なきことは、前述の次第で読者の御推断あるべき通りである。一言にして之を蔽へば、我が協会は渋沢翁在て創立を完うしたのであつた。又翁の信条として一旦お引受になつた以上、他に大小の事務万端蝟集の身を以て、実によく尽されることは世人の想像以上なのである。従つて私は協会の事業の為めに、翁が健康を害される様なことがあつてはならぬと、内々念じて居たのである。
 今回協会に於て、故渋沢子爵の追悼号発刊の挙があり、子爵に関することどもを夫れ夫れより寄稿致す様にと、編輯部よりのお達しを蒙り、玆に謹んで協会創設当時の翁の心事を憶ひ、且禿筆を呵して翁の至公至徳の一面を、長へに忍ぶのよすがと致したい微意の一端を披瀝したのであります。



〔参考〕竜門雑誌 第五五四号・第六―九頁昭和九年一一月 青淵先生と国際聯盟 機縁となつた小野塚博士の論文 明石照男氏談(DK360155k-0016)
第36巻 p.388-391 ページ画像

竜門雑誌 第五五四号・第六―九頁昭和九年一一月
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    青淵先生と国際聯盟
      ――機縁となつた小野塚博士の論文――
                    明石照男氏談
 この秋北海道へ十七年振りに旅行しましたが、いろいろの変遷を目撃しました。この前は大正六年佐々木前頭取に随行して渡道したのでありますが、その時は同地に一支店を増設せんとする用務を帯びられて居たのであります。そしてその結果開設された室蘭支店がやがて時勢の変遷に伴れて、今日に於ては既に他に譲渡されたのを回顧して、世運の推移定めなきに転た感慨を禁じ得ざるものがありました。
 扨て今お話しやうと思つて居ります青淵先生と国際聯盟との関係に就いても亦恰度略同じ年月の間に同じ変遷を辿つたのでありまして、殊に青淵先生の御命日は平和記念日――対独休戦条約成立の日即ち大正七年十一月十一日――と一致して居ります関係上、一層その感を深うする訳であります。
      *
 想ひ起しますと、休戦条約の成立に先立つこと二箇月余、大正七年九月一日発行の国家学会雑誌(東京帝国大学法科大学内国家学会発行)第三十二巻第九号に小野塚喜平次博士の『戦後ノ国際聯盟ニ就テ』と題する、四十八頁に亘る大論文が掲載せられてありましたのを読みまして、これは単に当面の国際問題に関する一大指針たるのみならず、又以て人類永遠の平和に寄与するに足る文献であると思ひましたので青淵先生にお目にかけました処が、先生には非常に感銘せられまして国際聯盟と云ふものに深い興味を持たれるやうになりました。
 今日でこそ国際聯盟と云へば、何人も知らないものはないと云つても宜い程でありますが、何分にもその当時には、未だ世間一般に少しも知られて居ませぬでしたから、この論文の中にも『国際聯盟』の意義及訳語の当否に就いて、詳しい註解が添へられてあると云ふやうな有様であります、又別の註に於て大正七年七月十五日発行の『外交時報』に、立博士の『国際聯盟』と題する論文が掲載せられてある、と云ふことが附け加へてありますが、兎に角此等が国際聯盟と云ふものの、世間に紹介せられた嚆矢であつたらうと思ひます。
 青淵先生はその小野塚博士の論文を読まれて、是れは大変面白いと仰せられましたが、併し問題は専ら国際関係の改善を目的とするものでありまして、これが実現は主として政治の範疇に属する所でありますので、先生御自身としては、進んでその実行運動に這入られるお考はなかつたのであります。
 さうして居る間に、同年十一月十一日に休戦条約が成立しまして、翌八年春からヴェルサイユに於て講和会議が開かれ、その八年六月二十八日に愈々平和条約の調印が成立したのでありますが、同条約の第一編に規定せられてあります国際聯盟規約は、申す迄もなくウヰルソンの努力に依つて成立した、曠古の国際軌範でありまして、玆に国際聯盟と云ふ平和的機構が建設せられたのであります。
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 併しながらこの国際聯盟をして有終の美を済さしめる為めには、単
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に加盟各国の政府をしてこれが運営に膺らしめるだけでは、未だ必ずしも万全を期する所以ではないと云ふので、加盟各国に於ては大戦前より既にその萌芽のあつたものを、変形又は具体化して国際聯盟協会が設立せられ、官民一致協力して、国際聯盟の精神を発揚するやうになつたのでありまして、我国でも加盟諸国と呼応して大正九年四月十五日《(二十三日)》に、国際聯盟協会が設立せられたのであります。
 青淵先生は年来個人間に道徳あるが如く国際問題の解決も亦、今少し道義的観念を以てせねばならいと云ふ信念を抱いて居られ、嘗ては竜門社の会合でこのことに論及されたこともありました。それであるから国際聯盟協会の設立に就いては多大の興味を持たれ、且つ出来得る限り国際聯盟の発達を助成し、以て世界平和の確保に寄与したいと云ふ、熱心な御希望に燃えて居られたのであります。従つて衆望一致先生を同協会の会長に推戴したのに対し、先生は直にこれを快諾せられたのであります。
 そんな次第でありますから、先生は単に会長として納まつて居られるのでなく、自ら陣頭に立つてその任務に励精せられ、同協会の会合には已むを得ざる支障なき限り、出席せられたのは勿論のこと、名実共に協会の中心人物となつて、屡々講演なども試みられ、所謂聯盟精神の普及に努められたことは、正に民間外交史上に、特筆するに足る所であると申しても宜しいと思ひます。かくして同協会が一万三千名と云ふ多数の会員を擁し然もその会員中には殆ど朝野第一流の人々を網羅したのみならず、同協会が創立以来逐年枝翼を張つて、大学を始めその他の諸学校に支部を設くるもの続出し、更に小学校の教科資料中にも国際聯盟と云ふことが採用せられ、大正十四年の春、私の子供が中学校の入学試験を受けました際、国際聯盟と云ふ問題を課せられるまでに、所謂児童走卒の間にも普及した次第であります。
      *
 その後時勢は急転直下し、昭和六年九月十八日に所謂満洲事件が勃発したのが動機となつて、我国は同八年の三月二十七日、遂に国際聯盟に対して、脱退の通告を発したのでありますが、それに伴つて我国民の聯盟に対する人気は遽に衰へて来まして、国際聯盟協会も日本国際協会と改名せられ、同協会自身殆どその面目を異にするやうになりましたことは、特に青淵先生御在世中の御尽力を回想し、匆惶として全く感慨無量と申すより外はないのであります。
 曩頃飛鳥山邸の土蔵の整理が行はれました折、偶ま右の小野塚博士の論文が掲載されて居る国家学会雑誌が発見せられましたさうで、見ると表紙に明石と云ふ認印が捺されて居ると云ふので私に返されたのであります。私の保存して居る同誌の第三十二巻の綴込には、第九号だけが脱冊になつて居りましたが、是れこそ青淵先生の国際聯盟に関係せらるゝ機縁の一つになつた為めであると、予て諦めて居たのであります。然るに今この迷子が偶帰り来つたので、非常に懐かしく再び手にした次第であります。
 そこで更めて同誌を繙きますと、読み去り読み来るに従つて曩の記憶がまざまざと甦つて来たのであります。文体は荘重なる漢文々語体
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で、口語体が常態となつた今日から見ますと、隔世の感なきを得ないものがありますし、又その内容を構成して居る事実も甚だしく変つて居るのでありますが。然もその四十八頁に亘る大論文は、実に人類の高遠なる理想の一端を表現せられた不朽の文献と評しても過褒ではなく、青淵先生が当時これを読まれて感銘せられたのも宜なる哉と思つたのであります。(昭和九年十一月十一日)