デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
13款 社団法人国際聯盟協会
■綱文

第36巻 p.498-509(DK360189k) ページ画像

大正12年10月20日(1923年)

是日、当協会主催トルコ国駐箚特命全権大使内田定槌及ビ当協会理事吉井幸蔵招待茶話会、丸ノ内中央亭ニ開カル。栄一出席ス。


■資料

国際聯盟協会書類(一) 【(謄写版) 拝啓、陳者来る十月廿日(土)午后正二時より…】(DK360189k-0001)
第36巻 p.498 ページ画像

国際聯盟協会書類(一)         (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓、陳者来る十月廿日(土)午后正二時より丸の内八重洲町中央亭に於て、本協会第三十九回理事会を開催し、右了つて同二時半より、駐君府内田大使並濠洲御旅行中の吉井理事歓迎茶話会を開催致候間、御繁用中誠に恐縮に存じ候へ共、御繰合御来臨の栄を得度、此段御案内申上候 敬具
                 国際聯盟協会々長
  十月十五日○大正一二年      子爵 渋沢栄一
    子爵 渋沢栄一殿
 追て御都合乍御手数御一報御煩度候
 - 第36巻 p.499 -ページ画像 


集会日時通知表 大正一二年(DK360189k-0002)
第36巻 p.499 ページ画像

集会日時通知表 大正一二年 (渋沢子爵家所蔵)
十月二十日 土 午後二時 国際聯盟協会理事会○流会トナル
        午後二時半 同会催、内田・吉田両氏歓迎茶話会(八重洲町中央亭)


(国際聯盟協会)会務報告 第一四輯 自大正一二年九月二七日至同年一〇月二五日(DK360189k-0003)
第36巻 p.499 ページ画像

(国際聯盟協会)会務報告 第一四輯 自大正一二年九月二七日至同年一〇月二五日
                   (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
    五、吉井理事、内田大使招待会
 十月廿日、午后二時半より丸の内中央亭に於て、吉井理事・内田定槌大使招待会を開催せり、徳川総裁・渋沢会長・阪谷副会長・江口監事、林・下村・岡・宮岡・山田・頭本各理事の外、坂本釤之助・富谷鉎太郎・藤沢利喜太郎・沢柳政太郎・松井大使・中村純九郎・寺島伯福岡子・谷森真男・福井菊三郎・関屋貞三郎、其の他総数八十二氏の出席ありたり。
 徳川総裁司会者となり、内田大使・吉井理事より夫々土濠両国々情に関する講話ありたる後、黒沢礼吉・坂本釤之助両氏より、此度の震災に対する中華民国官民の同情と救護に就き、来会者の注意を喚起し小村俊三郎氏より王希典氏の行方不明事件、並に其の日支両国々交に及ぼすべき影響に関し詳細説明ありたる後、堀内主事より、震災後本協会の海外諸団体に向つて試みたる図書蒐集運動の経過を説明し、盛会裏に閉会す。


国際知識 第三巻第一一号・第八二―九一頁 大正一二年一一月 本協会招待会記事 【土耳古滞在中の所感 内田定槌氏】(DK360189k-0004)
第36巻 p.499-507 ページ画像

国際知識 第三巻第一一号・第八二―九一頁 大正一二年一一月


図表を画像で表示本協会招待会記事

     本協会招待会記事  本協会は最近、土耳古駐箚全権大使内田定槌氏が、君府より帰朝せられ、又本協会理事貴族院議員吉井幸蔵伯が、濠洲視察より帰京せられたるを機とし、恒例により十月廿日午後二時、両氏歓迎招待会を丸ノ内八重洲町中央亭に催した。震災後忽忙中に拘らず出席者約百名、頗る盛会を極めた。席上、内田氏より左の如き興味ある講演あり、午後八時終了せり。  (附記) 吉井伯爵の講演要領は、紙面の都合上、二十八頁に載せました。 



    土耳古滞在中の所感
                    内田定槌氏
欧洲大戦後一九二〇年、大正九年八月に聯合国と土耳古間の平和条約が調印せられ、之れには日本が主要聯合国の一員として加入したのですが、私は其条約の実施方に付いて土耳古に出張を命ぜられ、一九二一年四月に土耳古の首府「コンスタンチノープル」に着き、本年七月まで彼の地に滞在して居りました。付ては私が同地滞在中に見聞したことを、玆にかい摘んでさつと御話し致しますから、暫くの間御静聴を煩します。
 - 第36巻 p.500 -ページ画像 
      欧洲戦争までの土耳古
土耳古帝国は、曾つて亜細亜・亜弗利加及欧羅巴の三大陸に跨り広大なる版図を有し、其近隣諸国に対し非常な勢力を揮つたものであつたが、流石の大帝国も十七世紀の末頃から衰運に傾き、次第に其版図を失ひ、近年に至りては一九一一年に伊土戦争に敗北して、亜弗利加の「トリポリ」を略取せられ、一九一二年にはバルカン戦争の結果、欧洲に於ける領土は大半敵国に割取せられ、僅かに東部「スレース」と君府及其附近を残すことになつたけれども、一九一四年欧洲戦争に加入する迄は、世界の通商上及戦略上、頗る枢要なる「ダーダネルス」及「ボスポラス」海峡の持主として、欧洲列国の間に自ら重要視せられて居た。
 土耳古の国民は土耳古人種計りでない、希臘人種・「アルメニア」人種・猶太人種、其他数多の異民族が雑居して、而かも此等の諸民族は皆な夫れ夫れ宗教を異にして居る、例へば希臘人は殆んど皆な正教を信じ、猶太人は猶太教、「アルメニア」人は「アルメニア」教(基督教の一派)を信奉し、各宗の教主又は管長の如き者は其信徒に対し、偉大なる勢力を持つて居る。
 然るに土耳古人は回教信者《マホメツト》にして、其祖先は中央亜細亜より起り、八・九世紀の頃から西部に移住して、初めは小亜細亜の一部を侵略し其後段々と勢力を増して遂に「ボスポラス」海峡を越えて欧洲に侵入し、数多の民族宗教を異にする人民の居住した地方を征服して、強大なる帝国を建設するに至つたが、其配下に属する諸民族を御するには専ら武力を用ひて之れを圧服し、其行政機関も次第に腐敗したので、各異民族の不平不満を来し、彼等は機会さへあれば土耳古の覊絆を脱せんと企てる様になつたのであるが、欧洲列強国は、土耳古帝国の武力衰微に乗じて、其国内に居住する基督教徒の保護を口実として、内政に干渉し、或は術策を用ひ、或は戦争により其領土の分割を行ひ、各派の基督教徒は此等の諸強国と結托して其独立を計つたから、土耳古は前に御話し申した通り、漸次に其版図を縮小された。
 土耳古皇帝「アブダル・ハミツド」二世は、内政を改良し外国の内治干渉を防ぐため、一八七六年に憲法を発布し、旧来の君主独裁政体を立憲君主政体に改めた、けれども其後間もなく露土戦争が起つて、折角発布された憲法も其実行は中止された、中止後は旧来の通り国政紊乱して、種々の弊害が再発したに因つて、一九〇八年所謂青年土耳古党なるものが革命を起し、再び憲法を実施することになつた。
 此憲法は欧洲諸国の制度に傚ひ制定されたもので、立法部たる国会は元老院と衆議院に分れ、土耳古臣民たる者は人種宗教の異同を問はず、皆な一様に参政権を与へられ、議員の選挙権及被選挙権を得たのみならず、如何なる官職にも就くことが出来得る様になつたので、此迄土耳古民族と犬猿の関係であつた、異民族・異宗教の人々は非常に満足した、けれども此は一時の状態であつて、其後間もなく憲法の運用上に困難が起つた、と云ふのは土国臣民に属する者の中には、天性鋭敏して狡獪る猶太人種が多いのみならず、猶太人の上手を行く希臘人種と其又た上手を行く「アルメニア」人種が、数百万人居るので
 - 第36巻 p.501 -ページ画像 
篤実にして武士気質なる土耳古民族は、商工業界に於て此等の異民族と競争の出来ぬのは勿論であるが、政界に於ても憲法の規定通り、土耳古民族が他の異民族と同等の位置に立ち、之と競争する場合には立法部に於ても行政部に於ても、枢要の位置は皆な異民族の為めに占められ、土耳古民族は曾つて其征服した異民族から支配される傾向があるので、憲法を復活した青年土耳古党員より出た統一進歩党では「土耳古は土耳古人の土耳古なり」と云ふ題目を唱へ異民族を排斥し、憲法と矛盾する政策を執り、再び異民族との軋轢を醸すことになつた、如此内地の政界混沌たる有様に陥つた時に当り、一九一一年には伊太利との戦争起り、翌年には巴爾幹戦争起り、一九一四年には欧洲大戦に参加し敗北に敗北を重ね、終に一九二〇年八月亡国的の「セーヴル」条約に調印することになつた。
      欧洲戦争後の土耳古
 土耳古が欧洲大戦に参加したのは、当時の陸軍大臣「エンベルパツシヤ」の独断でやつた様に世間に伝へられて居るけれども、事実はそうでない、土耳古は多年来欧洲列強、特に露国の圧迫を、受けたのだが、英国は露国勢力の南下を防ぐため露土衝突の場合には多く土国を援けて居た、けれども日露戦争後は英国も土耳古を援けなくなり、仏国は多年土耳古に其文化を扶植したにも拘らず、露国と同盟関係を結んで以来、露土間の係争に付ては土国援助を差控ゆる様になつた、此の時に当り独逸皇帝「ウイルヘルム」二世は、世界政策の為め土耳古と親善の必要を感じ、盛に土耳古の人心を収纜することを努めた。其結果土耳古人中には、独逸と結托して国家の衰運を回復すべしと考ふる者が出来て「エンベルパツシヤ」は其一人である、此一派の人々は欧洲大戦勃発に際し独逸の必勝を期し、多年の仇敵たる露国を破り国運を挽回するは此時なりと信じ「エンベル」の取計により、独逸側に立ち之に参加した次第である。
 然るに此等親独派の予想は全く外れて戦争は永続し、独逸側の勝算覚束なくなり、土耳古も亦戦争に疲労して困窮した折柄、米国大統領「ウイルソン」氏の講和基礎条件十四ケ条が発表されたので、土耳古は如此条件で講話が出来得るものと心得、一九一八年の十月三十日多島海に於ける「レムノス」島の「ムードロス」港に全権代表者を派遣し、英国艦隊司令官と会商して休戦条約を締結した。此条約により其軍艦及軍用船は悉く聯合軍に引渡し、陸軍用の兵器弾薬も亦皆な差押へられた。
 土耳古人は此休戦条約により、戦争は最早一段落を告げたと思の外休戦条約調印後間もなく聯合国は、海陸軍を首府「コンスタンチノープル」に進めて事実上之を占領したのみならず、之に引続き他の地方にも進軍し、翌一九一九年五月には希臘軍が小亜細亜通商の門戸たる「スミルナ」港に上陸して之を占領したので、人心非常に沸騰し、当時土国政府より軍隊検閲の使命を帯び東部小亜細亜に出張した陸軍少将「ムスタフア・ケマル・パツシヤ」は此形勢を見て頗る憤慨し、国民と共に国土の擁護と国権の回復を計る為め同志を糾合し、同年七月「エルゼルーム」に於て、又た同年九月には「シヴアス」に於て会議
 - 第36巻 p.502 -ページ画像 
を催ふし、所謂国民規約なるものを議定し、翌一九二〇年一月には君府に在る帝国議会衆議院の賛成を得て、之を天下に発表した、其の要領は次の如きものであつた。
 第一条 土国の領土中、住民の多数が亜拉比人にして、一九一八年十月三十日休戦協約締結の当時、敵軍の占領せる地方は住民の自由意志により、其所属を決せしむべし。
  土国の領土中、土耳古人の回教徒が住民の多数を占むる地方は、総て一体になし、決して分割すべからず。
 第二条 カールス、アルダハン及バツームの三県に関しては、其住民は解放後既に投票により母国に帰属する意志を表明せるも、必要の場合には更に一般人民投票を行はしむることあるべし。
 第三条 西スレースは住民の自由意志に基き、其所属を決定すべきものとす。
 第四条 首府「コンスタンチノープル」及マルモラ海は、絶対に安全なるを要す。此主義に基き帝国政府が世界の通商及交通の為め海峡の自由通航に関し関係諸国と協定する規約は、総て之を承認すべし。
 第五条 小数民族の権利は、協商諸国が其敵国と結びたる協約により、他国に於ける小数民族に附与せられたるものと同一の基礎により之を確認すべし。
  吾人は近隣諸国に於ける小数回教徒が、其権利に関し同一の保障を受くることを確認す。
 第六条 吾人は国民的及経済的発展と行政の改良を期する為め、絶対の独立と自由は国民の生存に必要なる条件と認む、故に吾人は国民の発展を妨害すべき一切の法律的及財政的服従に反対す。
  国債整理の条件は此主義に背くべからず。
「ムスタフア・ケマル」将軍は其目的を達する為め、同志と共に義兵の募集に着手したところが、忽にして数千人集つたから、一九一九年の末より一九二〇年の始めにかけ「シリシヤ」を占領して居る仏国軍を攻撃して之を苦しめ、尚其他諸方面に行つて活動したけれど、兵器弾薬の不足には頗る困難したと云ふことである。
 聯合国は対土平和条約案を作製し、一九二〇年八月土耳古政府の代表者をして、巴里郊外の「セーブル」に於て之に調印させた、此条約は土耳古の海軍を廃止し、陸軍を制限し、其領土は戦前の約四分の三を削減し、残余の大部分に対しては、更らに別約を以て英・仏・伊三国の勢力範囲を設け、又た「ダルダネルス」及び「ボスポラス」の海峡に沿ひ、広大なる海峡地帯を設け、其行政は聯合国の管理に附し、聯合国の治外法権を存置するは固より、聯合国で種々な委員を設置して其内政を監督することになつたので「ムスタフア・ケマル」の同志は勿論、一般国民も亦之に反対し、皇帝は其批准を見合した。
 「ムスタフア・ケマル」将軍の国民的運動は次第に旺盛となり、君府に於ても亦之に同情する者頗る増加したので、英・仏・伊三国政府は一九二〇年三月、改めて君府の軍事占領を宣言した、又之と同時に英軍を主力とする聯合軍は、「ケマル」将軍に同情し聯合国に反対す
 - 第36巻 p.503 -ページ画像 
る国会議員・新聞記者、又其他の政治家約百五十名を逮捕して地中海の「マルタ」島に流した、土耳古皇帝は、之と同時に衆議院を解散したのみならず、四月には「ムスタフア・ケマル・パツシヤ」及其同志を反逆人と認め、軍法会議に附し、欠席裁判を以て死刑の宣告を与へ且つ回教法皇として此等の人々に対し破門の処分を行つた、政府は聯合軍の援助により、国民的運動鎮圧の為め、討伐軍を小亜細亜に派遣したれども、其軍隊は皆な軍器弾薬を携へた儘、国民的運動に参加した、聯合軍の逮捕を免れた衆議院議員等は、皆な小亜細亜に逃れ「ムスタフア・ケマル・パツシヤ」の傘下に集つたので、「ケマル」は之を機会として、其根拠地と定めた「アンゴラ」に国民議会を開いて政府を組織し、尚君府に居る数多の陸軍将校を招いて、有力なる軍隊を編成した。
 希軍は同年七月「スミルナ」から奥地に侵入して其占領を始めたが一九二一年一月「インウヌ」に於いて「ケマル」軍に撃退された、聯合国は一九二〇年八月、希臘首相「ヴエニゼロス」失脚して「コンスタンチン」王復位以来、英国の外希臘に対して冷淡となつたけれども近東の平和が出来なければ欧洲全土の不安を去ることが出来ない。
 「セーヴル」条約修正の為め、英・仏・伊三国政府の取計で一九二一年二月、希土両国の代表者を倫敦に招き協議を試みたけれども、聯合側の提議には双方とも不同意を唱へ物別れとなつた、「アンゴラ」政府は、同年三月労農露国政府と新たに条約を締結して、露国から軍器弾薬及金銭の供給を得たので、其軍隊は益す有力となり、同年四月「インウヌ」に於て再び希軍を破つた、希軍は同年七月から九月に亘り「コンスタンチン」王親征の下に、大挙して更らに攻勢を執つたけれども、「サカリヤ」河の戦争で痛く「ケマル」軍に撃退された、其後は両軍睨合の姿となつたが、英・仏・伊三国政府は再び希土の調停を試みる積りで、昨年三月巴里会議を催ふし、講和条件の大体を協定し平和予備会議の開催を希土両国に勧告した処が、「アンゴラ」政府では予備会議の開催に先だち、希軍の小亜細亜撤退を要求したけれども聯合側で之を承諾しなかつたから其調停運動は不成功に終つた、そこで「アンゴラ」政府は希軍を小亜細亜から撤退させるには、兵力を用ゆる外はないものと決心し、九月になつて希軍に対し、大攻勢を執つた処が希軍は忽にして崩潰し、総司令官は其幕僚と共に捕虜となり、各部隊とも軍器弾薬其他の軍用品糧食等を棄て全線に亘り退却し、其生き残つた者は或は本国に逃げ帰り、僅か数回《(マヽ)》の間に希軍は一兵を残さず小亜細亜から撤退した次第であるが、当時土軍の兵力は約二十万人に達し、且つ希軍が棄て去つた無数の大砲・小銃・弾薬・車輛・飛行機其他の軍用材料糧食を捕獲したので、破竹の勢力に乗して、希軍の占領して居る欧洲側の東部「スレース」をも回復する為め、海峡を渡らうと企てた、英国政府は土軍と君府及海峡地方に在る聯合軍、特に英軍との衝突を来すことを憂へ、英国外相「カーズン」卿は俄かに巴里に出掛け、仏国外相「ポアンカレー」氏及伊国政府の当局者とも相談の上、聯合国は平和会議開催前一定の期日内にアンゴラ政府の希望通り「マリツア」河を境とし、「アドリアノーブル」を含む東部「ス
 - 第36巻 p.504 -ページ画像 
レース」を希国から受取り、之を土国に引渡すことを条件として、希土の休戦を「アンゴラ」政府に申入れた、「アンゴラ」政府は之を承諾して、十月上旬参謀総長「イスメツト・パツシヤ」を「マルモラ」海の沿岸に在る「ムダニヤ」に派遣し、君府を占領して居る英・仏・伊三国軍隊の司令官、及希軍の代表者と会見して、十月十一日休戦協約を締結した、此協約により土国は君府及其附近に聯合軍の駐在を認め其駐在地に沿ひて中立地帯を設け、平和会議の開催迄及平和会議の開催中、土軍は之に進入せぬことになつたので、土軍と聯合軍と直接に衝突する恐はなくなつた。
 然るに休戦協約調印後間もなく「アンゴラ」政府は、東部「スレース」受取の為め「レフエト・パツシヤ」将軍を派遣したが、同将軍が途中君府に滞在して居る間に「アンゴラ」の国民議会では、十一月一日政教分離を行ひ、皇位を廃し、国家の主権は立法・行政・司法とも悉く国民の代表機関たる国民議会に集中し、従来皇帝の兼ねた回教法皇の位は存置すれども、法皇は「ヲスマン」家(従来の皇室)系統の男子中、知徳兼備の者を国民議会で選挙して其位を充てしむることに決定した、そこで「アンゴラ」政府設置以来有名無実となつて居た君府に於ける土耳古皇帝の政府は、同月四日に辞表を提出した儘で全く消滅した、其消滅と同時に君府の市会では「アンゴラ」政府の権力に従ふことを決議したから、「レフエト・パツシヤ」将軍は「アンゴラ」政府を代表して、市の行政と警察を引受け、直ちに警視総監及憲兵司令官等を更迭して、聯合国の干渉を拒絶した、此迄君府に於ける英・仏・伊三聯合国の外交代表者は、高級委員として毎週一回定期会合して、君府の行政を指揮監督し、警察も亦此三国の占領軍隊で指揮監督して居つたが、「アンゴラ」政府の代表者は「ムダニヤ」休戦協約により、聯合軍の君府駐在を認むるも、其占領軍としての権利を否認し、行政と警察に関し一切其指揮監督を受けることを拒絶した、君府の住民は土国官憲と聯合国官憲との間に衝突起り、君府は其戦場となることを恐れ、同地より逃れ出でた者、九月から十一月下旬迄の間に約十七万人に及び、其内希国人種十一万人に上つたと云ふことである、其後三国高級委員は君府の行政に干渉することを止め、聯合側の軍憲は屡次土国側の代表者と会見して協議の結果、君府に於ける聯合国人及露国人に対しては、聯合国の警察で保護と取締を行ひ、其他の人民は皆な土耳古の警察に於て保護と取締を行ふことに決定し、双方の衝突を避くることになつた、又其位を廃止された元の土耳古皇帝「メーヘツド」六世は、回教法皇《カリフ》として尚依然として宮城に留つて居たが、其護衛兵は「アンゴラ」政府の管轄に属することになつたから、恰も宮城に幽閉せられたと同様の境遇に陥つた、「アンゴラ」の国民議会では之を国賊と見做し、裁判に附して処分すべしと論ずる者が現はれたから、同皇帝は其身辺に危害の迫りたることを覚り、英国の占領軍司令官に書面を以て、君府を退去したいから、便宜を与へて呉れることを依頼した、それは十一月十六日であつたが、同司令官は十七日早朝窃かに皇帝を宮城から連れ出して、軍艦に乗せ直ちに「マルタ」島へ送つた、「アンゴラ」の国民議会では前皇帝の法皇《カリフ》が君府から逃亡した
 - 第36巻 p.505 -ページ画像 
のは法皇の位を棄てたものと認め、翌十八日元の皇太子「アブダル・メヂツト」を選挙して、法皇の位を継がした。
 「ムダニヤ」休戦協約調印後、英・仏・伊三国政府は協議の結果、瑞西国「ローザンヌ」に於て平和会議を開くことに決定し、「アンゴラ」政府始め其他関係諸国政府に対し、十月二十七日附を以て招請状を出した、同会議は案外に長引き、中途で一時休会となつたけれども再び継続することになり、其決定した平和条約と之に関聯する其他の諸条約及宣言案が、本年七月二十四日に調印せられ、国民議会は八月二十三日に之を批准した。此の条約の一項には、土耳古側に於て平和条約批准後六週間を期し、君府及其附近並に海峡地方に於ける聯合国軍隊は、皆な撤退することを規定してあるから、八月二十三日から既に六週間を経過した今日では、最早英・仏・伊の三国聯合軍は、海陸共に撤退を終つた筈である。
 今回の媾和会議開催に先ち聯合国側では、土耳古は独逸側の同盟国であるから、平和会議に於ては戦敗国として取扱ひ、「セーヴル」条約の修正を行ふ考であつた国もあつた様だが、土耳古側では、希土戦争は欧洲大戦の続きで、土耳古は聯合国の一員たる希臘に勝つたから聯合国に対しても戦勝国の位置を占むるものと考へ、「セーヴル」条約の存在を認めず、次の平和会議では新たる条約を締結する積りであつたから、平和条件に関する双方の考に甚しき相違があつたけれども土耳古は前述の通り、ムダニヤ休戦協約の当時、約二十万の兵力を擁し、若し其主張が貫徹せぬ場合には聯合国に対し、更らに交戦を辞しない気勢を示したが、聯合側は内外の形勢に鑑み、此上戦争を欲しない状態であつたから、「ローザンヌ」の平和会議では、結局土耳古側の主張は殆んど全部認容され「ムスタフア・ケマル・パツシヤ」が国民運動開始の時決定した国民規約は、玆に始めて其目的を達することになつた。
 土耳古は「ローザンヌ」平和会議の結果として、多年来其発展を妨げた治外法権を全廃し、外国人の内治干渉を断絶した、其領土は非土耳古民族が、住民の多数を占めて居るアラビア、シリア、パレスタイン、メソポタミヤの如き地方を棄てたので、欧洲大戦前の約四分一に減少したけれども、其残存する小亜細亜及東「スレース」地方は、土耳古民族の郷里として完全なる独立主権は回復した、又た人民交換協約によつて、土耳古の領内に於ける希臘人種の居住民は、希臘の領内に移住させ、希臘の領内に居住する土耳古民族の人々は、土耳古領内に移住させることになつて、多年来同一に雑居して互に軋轢して、近東の平和を害した一原因が除かれた次第である。
 されば此平和会議で生れた新土耳古国は、国内の統治も容易になつた訳であるが、其人口は約千万に達し、内地には天然の富源が多いから、今後少くとも二・三十年間平和継続し、官民が協同一致して産業に従事することになれば、国力を回復し其衰運を挽回することが出来ると思はれる。
      列強と土耳古
 英仏両国は土耳古と古い関係があり、特に仏国は多年来、土耳古の
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公債及諸事業に投資して居る金額が最も多い、又君府及内地に数多の学校を設立して、其文化を扶植して居る。従つて苟も多少の教育ある者は、皆な仏語に通ずる有様である、英国は多少土国に投資して居るけれども、仏国には及ばない、伊太利は在留民の数は少なくないけれども、土国に於ける投資は極めて僅少である、米国人は未だ土国の公債、又は営利事業に投資して居ないけれども、君府及び内地に数多の学校を設立して、地方の青年子弟を教育し、又た近東救済会(Near East Relief)なるものを組織して、人種国籍の如何に拘らず総て戦乱の災害を蒙り困難して居る者の救援に従事して居る、私が一九二一年の春、始めて君府に着任した当時、近隣諸国から同地に避難して居る者が頗る多く、其内「ウランゲル」将軍部下の軍人と、其家族丈けでも十数万に上り、其他労農政府の虐政に苦み露国から逃れて来た者無数にして、内地の土耳古人も亦戦乱を避けて君府に逃れ来る者数万人に上り、其他小亜細亜・巴爾幹半島・高加索地方にも亦、戦乱の為め頗る多数の困難民を生したのであるが、米国の近東救済会では近東の各地方に支部を設け、極力其救済に従事して居つた、又た昨年九月希軍の敗北と同時に、小亜細亜から逃げ出した希臘人は、十数万の多数に上つたが、これも亦近東救済会に救助された。同会が本年七月迄に既に費した金額、七千万弗以上に上つて居ると云ふことである、此の故に近東地方の住民は皆な深く米国人の好意を感謝して居るが、米国人は此救済事業は全く人道のためにする努力であつて、米国がこの好人気に乗じて何等か利益を得んと企つものでは決して無いと称して居る。
      日本と土耳古
 日本と土耳古の間には、此迄何等の条約も締結されて居なかつたし従つて外交使節の交換も無かつたのであるが、今から約三十年前に土耳古の使臣が、我が紀州沖で遭難した時、我国はこれを救助して本国に送り還したことがあつて、以来土耳古人の対日本感情は、非常に良好であつた。其の後日露戦争では、日本が土耳古の伝統的仇敵であつた露国を膺懲したので、土耳古は日本に対して深く信頼する様になつた。欧洲大戦では日土両国は、反対の側に互に立つて之に参加したけれども、土耳古人は日本に対し格別の敵意を持たなかつたと云ふことである。
土耳古人が日本に対して好感を有する一例を御話すれば、昨年十一月「アンゴラ」政府の代表者が君府の行政を引受けた時、土耳古人は祝賀の為め示威行列を催ふしたが、其日の夕景に或る日本人が自動車で市内を通行中、其行列に出遇ふた所が希臘人と間違へられて、忽ち群集に取巻かれ暴行を受けんとしたのであるが、日本人と解るや彼等は非常に後悔して失礼を謝し、態々其人々を護衛して家まで送り届けて呉れたのである。其の翌日も尚祝賀会は続けられたから、私自身自動車で、市中を見物して歩いたが、到る処日本万歳!日本万歳をあびせかけられた、私の着任当時は日英同盟の存続して居る時であつた為に、土耳古人中には日本は英国の手先となつて土耳古を虐めるのではないかといふ疑念を持つ者もあつたが、機会ある毎に其誤解を説明したの
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と、華府会議で日英同盟が廃棄されたので、其の疑念は全く霽れて、私が今度帰朝前に「アンゴラ」に行つた時は、政府の賓客として歓待され、又た土耳古の学者社会では、新土耳古国は今後大いに産業を興し、国力の発展を計らねばならぬが、之を実行するには日本が最近五十年間に長足の進歩を為した、其経路を研究調査して参考に供すべしと唱ふる者があつて、既に其研究に着手して居る次第である。
 尚終りに臨み一言申述べて置きたいことは、此迄欧米諸国のみならず本邦に於ても、土耳古人は、基督教徒たる故を以て無暗に「アルメニア」人や希臘人を虐殺する暴虐非道の国民の様に聞えて居るが、私が君府滞在中に出遇つた諸方面の土耳古人から判断すれば、其多くは性質温良恭謙譲で支那唐宗時代の君子も斯くあらんかと思はれ、英国流の所謂紳士たる特質を備へて居つて、如此人格の人々が猥りに虐殺など行ふとは何としても思われないが、良く聞いて見ると虐殺を行ふのは土耳古人許りでない、此迄「アルメニヤ」人も希臘人も屡々土耳古民族に対して、甚しい虐殺を行ふた、特に数年来の希土戦争中には希臘軍が一地方を占領する度毎に、土耳古人の住家を焼払い、住民は老若男女の区別なく之を殺害し、嬰児の如きは手足を握つて之を引き裂くことも珍らしくない、又た時としては全村の住民を寺院に押込み寺院と共に之を焼き殺した例も少なくない、土耳古人は、「アルメニヤ」人や希臘人に対し、平素機会さゑあれば復讐する念慮を持つてゐるのだが、彼等は土耳古国籍を有し其住民であるにも拘らず、外国人に煽動され或は之と結托して反乱を企て、其独立又は分離を計るので其計画陰謀の露見する毎に、土耳古官民の憤怒を招き虐殺をやらるるので、此等の異人種が基督教徒である故に、虐殺されるのではない、併し彼等は外国に於ける基督教徒の同情を求める為め、恰も彼自身には何等過失がないけれども、基督教徒たるが故に回教徒たる土耳古人に虐殺されたかの様に、毎度国外に吹聴すると云ふことである。


国際知識 第三巻第一一号・第二八頁大正一二年一一月 吉井伯爵濠洲視察談 本協会招待会に於ける○中略(DK360189k-0005)
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国際知識 第三巻第一一号・第二八頁大正一二年一一月
    吉井伯爵濠洲視察談
                  本協会招待会に於ける○中略
 本年七月、貴族院に濠洲視察の議がありましたが、私は当時英国の新嘉坡軍港の建設の問題が喧伝されて居るのを聞き、その原因の一が必ずや濠洲にあるものと思ひ、濠洲視察を思ひ立つたのであります。故に濠洲にある間は努めて政府当路の官憲や新聞記者と会見を遂げて其の実情を明にしたいと思つた。
      白濠主義
 斯の先年来、唱道されて居る白濠主義は、飽くまで白人の文明を保ち、習慣を持続させ様と言ふので、有色人種の移入を許すときは、彼等は無限に入り来り、其結果白人の文明の壊滅せんことを恐れるのである。先に聯邦首相ヒユーズ君が世界大戦争に参加したのも、此の白濠主義を維持することが其の目的の一であると言つた。然し乍ら白濠主義に対する反対論もある、即ちロードグレーは、濠洲に最も必要な
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ものは移民である、移民に依つて広大な地域の開発をしなければならないと論じた。又ホーン氏はクイーンスランドは到底白人の居住に堪えぬ所であるから、契約移民を入れて開拓をすべしと言ひ、パーレイ氏は選抜移民を入れて、其移民には全然濠洲人と同一の生活を営ましむべしと論じて居る。又彼のノースクリツフ卿の如きも移民に対して余り過大の要求をなすは不可である、と言つたことがある。
 右の如くであるから、白濠主義も昔の如く強い主張であるか否かは問題であつて、労働者以外の者は日本人の移民を歓迎して居る。
 濠洲は労資の関係の喧しい所であつて、労働者の勢力が大である。ヒユーズ氏の如きも労働者に対す為に、ナシヨナリスト・パーテイーを樹立するに至つたが、今の首相も同党の出身である。併しナシヨナリスト党だけでは労働党に対抗し切れない為に、別にカンツリー党と言ふのがあつて、この両者が聯合して居る。而して中流階級は次の総選挙には是非共労働者に勝ち度いと、今から準備をして居る有様であるから、白濠主義も果して夫れ程強固な主張であるか否かを疑ふのである。
 私の考を以つてすれば、日本人の濠洲移民は、方法に依れば解決をつけ得られる者と思ふ。成程現在では有色人種の移民は甚だ困難であつて、其の入国の試験は語学の試験であるが、これが甚だ厄介であつて、何国の国語を試験するかは一に試験官の考へ一つにある、故に日本人に希臘語の試験をする等のことにて、濠洲に入らんとせば世界の国語を全て知らねば不可能と言ふことになる。又滞在の期間も届け出でゝ許可を得ねばならず、例へ日本の大会社から派遣されて居る堂々たる紳士と雖も、一定の期間丈け許可され、夫れ以後になれば又届出でゝ滞在を延期する許可を得なければならない。
 斯の如く現在では頗る面倒な手続を必要とし、事実上移民は不可能であるが、これも方法に依つては解決が出来る自信を得て、私は帰つて来た。即ち通商から始めて段々に了解し合ふ事が必要である。その積りで私は滞在中はガヴアナーや、或は従来排日的論調を持つて居つた新聞記者と再三会見し、互に意見の交換を行つたが、話をして見ればよく了解する。私共はシドニイーではサー・オーウエン・コツクス氏主催の招待会があり、メルボーンでは聯邦政府のリセプシヨンがあつた。又聯邦議会も傍聴した。木曜島に於ても各方面の名士と会合して、談話を交換して互に胸襟を開いて了解することが出来た。
 私は滞在僅に三週間であつたが、其の間に経験したことより推して見るも、此際各方面の名士が濠洲を訪問し、互に隔意なく意見を交換して、各自に理解を増すことは、移民問題其の他の解決に資すること大なるものがあると信ずる。



〔参考〕時事新報 第一四四五九号大正一二年一〇月一八日 支那人行不明となる(DK360189k-0006)
第36巻 p.508-509 ページ画像

時事新報 第一四四五九号大正一二年一〇月一八日
    支那人行不明となる
府下大島三丁目僑日共済会長王希典(二八)、九月十日亀戸方面にて軍隊に捕らへられ、後亀戸警察署に送られたるも、如何なる理由か同月二十日小松川税務署《(十二)》に駐屯中の輸送軍隊引渡《(に脱カ)》し其後、行不明となる
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尚警視庁の某氏は、十二日早朝軍隊に引渡し軍隊にても危険人物に有らざるに由り釈放せしが、其の後行不明となつたと語りし
○下略
   ○王ハ中国人労働者ノ指導ニ任ジタリ。