デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
13款 社団法人国際聯盟協会
■綱文

第37巻 p.285-290(DK370073k) ページ画像

昭和5年4月18日(1930年)

是月十七日開カレタル当協会第八十八回理事会ノ決議ニヨリ、是日栄一、当協会会長トシテ、イギリス国ロンドンニ催サレタル軍備縮小会議ノ協定成立ヲ賀シテ、日本全権ニ謝電ヲ発ス。


■資料

国際聯盟協会書類(四) 【昭和五、四、八、国際聯盟協会ヨリ電話之覚】(DK370073k-0001)
第37巻 p.285 ページ画像

国際聯盟協会書類(四) (渋沢子爵家所蔵)
昭和五、四、八、国際聯盟協会ヨリ電話之覚
(一)四月十七日(木曜日)正午 於東京銀行倶楽部
 同会理事会、引続安達峰一郎大使歓迎会
  右ハ阪谷会長代理ノ御都合ニ従ヒ取キメ、更ニ理事会ノ主タル議案タル昭和四年度決算報告書ノ説明乞フ為メ、深井監事並ニ安達大使ノ御差操出席セラルヽ趣ニツキ、右ノ通リ進行致シタク御報告ヲ兼ネ御内諾ヲ仰ギ、若シ御健康御恢復ノ場合、御出席相叶候ヤ伺上候
(二)五月十七日(土曜日)前十時頃(場所未定)総会
  右モ亦阪谷会長代理ノ御都合ニ従ヒ内定致置候ヘ共、一応前段ト同趣意ヲ以テ伺上候、総会議案中役員任期満了ニテ改選可致方々ノ氏名ハ如左ニ候
   渋沢会長、阪谷副会長
   理事 林毅陸・穂積男爵・宮岡恒次郎・岡実・近衛公爵・田川大吉郎・山田三良・山川端夫・粕谷義三・松永直吉
         以上十二氏
   外ニ故添田寿一氏ノ補欠選挙ノ件
   ○右ハ渋沢事務所用箋ニ認メアリ。
   ○栄一、右ノ理事会・総会共ニ出席セズ。


国際聯盟協会書類(四) 【第八十八回理事会議事録】(DK370073k-0002)
第37巻 p.285-286 ページ画像

国際聯盟協会書類(四)         (渋沢子爵家所蔵)
    第八十八回理事会議事録
                    昭和五年四月十七日
                    於 銀行倶楽部
御出席
 阪谷副会長 林・二荒・松永・宮岡・岡・坂本・田川・田村・山田各理事・深井会計監督、江口監事、奥山主事、鹿野・奈良
協議事項
一、昭和四年度決算報告
 深井会計監督説明 承認。
一、第十回通常総会、第六回評議員会、第六回支部長会議開催の件、可決。
一、第十回通常総会に提出すべき決議案
 (イ)倫敦会議終結に際しての宣言案
 (ロ)日米両国間に調停及仲裁々判条約締結に関する決議案
 - 第37巻 p.286 -ページ画像 
 (ハ)常設国際司法裁判所応訴義務受諾に関する決議案
 以上三案は一括して特別委員に審議を附託することゝし、其の員数及指名を阪谷副会長に一任することに決定。
 依つて副会長は林・岡・田川・山田四理事を指名したり。
一、名誉会長推薦の件
 阪谷副会長より子爵石井菊次郎氏を来るべき総会に於て、名誉会長に推薦しては如何との提案あり、之に対して理事会は満場一致を以て賛意を表したり。


国際メール 第五八号・第九丁昭和五年五月一〇日 協会日誌(四月)(DK370073k-0003)
第37巻 p.286 ページ画像

国際メール 第五八号・第九丁昭和五年五月一〇日
(謄写版)
    ◎協会日誌(四月)
 十七日 協会理事会は全会一致の決議に基き、渋沢会長の名に於て我が全権団宛左の如く打電した。
○下略
   ○電文次掲ニ同ジ。


(国際聯盟協会)理事会 自昭和三年四月(DK370073k-0004)
第37巻 p.286 ページ画像

(国際聯盟協会)理事会 自昭和三年四月
                 (社団法人日本国際協会所蔵)
              (COPY)
                       April, 18-30
Japanese Relegation
  London
協定の成立に依り、国際の空気一層改善せられたるを悦び、玆に理事会の決議に基き、全権並に随員各位の多大の御苦心と御努力を謝す
                           渋沢



〔参考〕国際知識 第一〇巻第六号・第一―四頁昭和五年六月 倫敦会議を顧みて(DK370073k-0005)
第37巻 p.286-288 ページ画像

国際知識 第一〇巻第六号・第一―四頁昭和五年六月
    倫敦会議を顧みて
 第五十八帝国議会に於て、倫敦会議に関する論議盛なりし際、現閣僚の一人が野党の友人に対し、軍縮会議の質問もよいが、今より五年後の事を考へて置く必要ありと言ふたそうであるが、是は彼等の質問戦を緩和せんとの計略と言ふよりも、寧ろ五年後の天下が朝野両党地を代へて、軍縮の交渉が現在野党の手に依りて行はるゝ様になるかも知れぬ。其時に至り振出した空手形に依りて自縄自縛とならぬ様、政治家相身互の思遣りと見るが至当であらう。
 げに議会に於ける軍縮会議の論争は、予算や法律案ソツチのけと云ふ有様で、正味三週間足らずの特別議会の殆んど総てが之に費され、予算其自体の精査及法律案の討議に向けられた時間が、其何十分の一であらうか。吾人は此質問振を非とするものでない。寧ろ議会に於ては一般に此緊張気分が漲ることを望ましいと思ふのである。
 さて倫敦会議は遠くから見ると、会議の全体中其三分の二位は、非常に錯節があつた様であるが、現地に在りて日夕其事務に従事した人の実談に依ると、各国全権否少くとも日英米三国全権の関する限に於
 - 第37巻 p.287 -ページ画像 
ては、此会議が必ず成功するとの予感があつたそうである。而して之が根拠としては、此会議は一九二七年のジユネーヴ軍縮会議の失敗の後をうけたることゝ、英国労働党の政策や、フーヴア米国大統領の意気込等等を分子として、出来上つた気分であると言ふのである。
 後から予言者振るは禁物であつて、毫頭そんな考はないが、然し吾人も亦会議が招請された当初から、倫敦会議はジユネーヴ会議の轍をふまざるべきを言明した一人である。兎に角会議が円満裡に終結したことだけは、慶事と言はざるを得ぬ。吾人は此機会に於て故きを温ねて、倫敦会議の結果に及んで見たいと思ふ。
 一八九九年露西亜皇帝ニコラス二世が、第一回の平和会議を海牙に招請した当時は、招請者の心裡は如何にあらうとも、世間は鬼が念仏を唱へ出した位にしか、感ぜなかつたのであるが、然し集れば文珠の智慧とやら、陸戦の法規慣例に関する規則を作り上げた。固より平和会議など言ひ条、戦争をすると言ふ建前の下に、如何なるものを交戦者と言ふとか、戦闘とは如何なるものであるとか、敵国の領土に於ける軍の権力とか云ふことを規定したものであつて、所謂平和とは余程縁の遠いものではあるが、然し従来戦争と言ふ場合には手段を選ばず何でも勝手と言ふ考を改めさせたことだけにても、非常な進歩と言はざるを得ぬ。第二回の平和会議は一九〇七年、同じく海牙で開かれたが、此会議では戦争に関する種々の条約が出来たと共に、国際紛争の平和的処理に関する条約が締結せられ、従来の夫よりも種々改善せられた。第二回平和会議が記名諸国に対し、最終議定書に附属する仲裁司法裁判所設立に関する条約案を採用し、且判事の選任及裁判所の構成に付、合意ありたる上は直に之を実施せんことを慫慂せる如き注意に値する。尚此議定書に依れば一九〇七年、後約八ケ年を経て更に第三回の平和会議が開かるゝ筈であり、其暁には平和促進の為に、更に進歩したる条約も或は出来るのであつて、気運は漸次其方に向ひつゝあつたのであるが、何等の悪戯ぞ、サラエヴオの一撃は遂に世界を大乱の裡に投ずるに至つた。而して此大戦の間は条約も規則もあらばこそ、勝たんが為には殆んどあらゆる手段を用ひて戦ふたのであるが、遂に独逸が聯合国に対して和を請ふに至り、一九一九年六月二十八日平和条約がヴエルサイユに於て調印された。
 国際聯盟規約は実に此条約の第一編を成すものであつて、其前文に於て、締約国は戦争に訴へざるの義務を受諾しと云ふて居る。予定の如くんば第三回の平和会議は、一九一五年頃開かるゝのであるが、よし開かれたりとするも、右聯盟規約の如きものが表はれ出たであらうとは想像出来ぬ。何となれば聯盟の観念はふるくから存在したりとは云へ、右規約は未曾有の世界大戦と云ふ経験に依り具体化したのであるから、此出来事なかりせば、此驚異的産物もまだ表はれざるべしと云ふを、正しとするからである。
 規約の第八条に聯盟国は平和維持の為には其軍備を、国の安全及国際義務を協同動作を以てする強制に支障なき最低限度迄、縮少するの必要あることを承認すと規定するが故に、国際聯盟に於ては政治家や専門家を集めて軍縮混成委員会を設け、此事業の遂行に努めたのであ
 - 第37巻 p.288 -ページ画像 
るが困難なるだけに其進みも捗々しくなかつた処、米国大統領ハーデイング氏に依り、海軍軍縮会議が華盛頓に招請せられ、日英米仏伊の間に主力艦及航空母艦に関する限り縮少条約が成立した。実に一九二二年で第三回の平和会議が開かるべく予想された一九一五年を距る七年目であるのも奇遇である。しかのみならず名こそ平和会議と言はね内容よりすれば是亦従来の平和会議に比し、優るとも劣ることなきものであるが、何が米国大統領をして此大事業を企つる因を為さしめたかと言ふに、大戦中に膨脹した海軍軍備を共同に清算するが目的たるや勿論であるが、仮令米国が現実聯盟の一員たらずとは言へ、講和会議に於て自国の全権が提唱の下に出来た規約中に、軍備の縮少が規定されて居ることが、何としても彼を刺戟したるものたるや疑はない。
 之に次での表はれは、一九二四年九月第五回聯盟総会に於けるジユネーヴ議定書と称する国際紛争平和的処理に関する議定書の成立で、右は仲裁裁判、安全保障、軍備縮少の三者を組織的に結合したものであつたが、英国の批准を得ざるが故に発効するに至らなかつた。玆に於て一体の空気は大分悲観の感があつたが、一九二五年十月に右議定書の精神を汲んだロカルノ協定が出来た。本協定は英仏独伊白間の相互保障及仲裁裁判条約、独逸と仏白チエコ波蘭との間の仲裁裁判条約及仏と波蘭チエコとの間の諸条約より成り、上記七ケ国の最終議定書に於て右諸国は国際聯盟の軍縮事業に誠実に協力し、且つ一般的約定に於て之が実現を図るべきことを約し、尚右諸条約は関係国の批准の外、独逸の聯盟加入を以て実施の条件とした。ロカルノ協定は、同年十二月一日倫敦に於て関係七ケ国の正式調印を了し、翌年の九月には独逸も聯盟に加入したので、爾来一般的安全保障を確保する要素となつた。
 華府会議に於て、決定せられなかつた補助艦に関する縮少を議するが為めに、米国大統領クーリツヂ氏に依りて、ジユネーヴ軍縮会議が招請せられたのであるが、仏伊の不参加に依りて日英米の三国会議と変じ、保有量や備砲に関し英米の意見一致せざるため、会議の決裂に了つたことは世人の記憶に新なる所である。不戦条約を出発点とした倫敦会議が、此趣旨で議事を進行し得ざりしのみならず、仏伊を逸したる外、出来た条約の前文中に危険の防止、負担の軽減、華府会議事業の継続及軍備の一般的制限、及縮少の進歩的実現を掲ぐるに止り、不戦条約に言及し得なかつたのは遺憾の至りで、華府会議の結果が人目を欹たしたるに比し、参加国の数に於ても縮少の量に於ても、劣る所あるは落寞の観はあるが、然しジユネーヴ会議に於て破壊せられたる協調を回復し、華府会議の事業を継続したる上に、軍備の一般的制限及縮少の進歩的実現の為、国際聯盟の大事業に貢献するは、正に平和事業に一進展を劃するものであつて、之を一八九九年第一回平和会議以来、三十年間の動きに徴するに平和思想は確固不抜の進歩を為しつゝあるを立証す。吾人は玆に倫敦会議の副産物を掲げず、唯人類福祉の根底たる平和雰囲気の醸生を録して、其将来を祝福せんとす。
                   (五・五・一五、奥山)

 - 第37巻 p.289 -ページ画像 


〔参考〕東京朝日新聞 第一五七九三号昭和五年四月二三日 本条約有効期間後は何等の拘束力を受けず 若槻全権中外に声明(DK370073k-0006)
第37巻 p.289 ページ画像

東京朝日新聞 第一五七九三号昭和五年四月二三日
    本条約有効期間後は何等の拘束力を受けず
      若槻全権中外に声明
若槻帝国全権は海軍条約署名に際し左の声明をなした
 日本が今回の会議において戦争の永久絶滅を基調とせる不戦条約の崇高なる精神に則り、海軍軍備の縮限に関する協定の締結により、各国間に和平友好の関係を確立するのもつとも緊要なるを思ひ、全力を尽して今回会議の成功に努めたることをここに述ぶるは余のきん幸とする所なり、然れども軍備制限に関する協定の締結に当りては国防の安全を十分に考量せざるべからざるや論をまたず、帝国政府の方針は常に国土を防衛し、極東における一般平和維持の責務を遂行するに足るべき最小限度の海軍力を保持するを主眼とせるものにして、日本海軍は如何なる意味においても他国民に懸念を与ふるが如きものに非ざることは、会議内外において余の既にしばしば述べたる所なり、かくの如き帝国の態度は将来といへども何等異ることなかるべく、従て若し今回の条約にして将来久しきにわたる事態を律せんとするものなるにおいては、日本国民はその国防に関し不安の念を抱くこと無きを保し難きも、現協定は一九三六年までの間関係各国を拘束するに止まり以後各国の保有すべき海軍力に至りては次回会議において改めて考慮せらるべき趣旨なるに鑑み、日本はこの種条約の締結が必然国民の安全感を強固ならしむべしとの確信に基き、かつ熱烈なる平和促進の希望と交譲妥協の精神よりしてきん然本条約に承認を与へたる次第なり、今回協定せられたる我兵力量、特に八インチ巡洋艦の保有量および「オプシヨン」の権利行使の場合における保有総トン数は、本条約有効期間後何等制限を受くるものに非ずして、本条約の規定は次回会議における我国の立場を何等拘束すべきものにあらざること、関係各国間に明瞭なる諒解ありたるは帝国政府の重要視する所なり、余は今一言加ふる所あらんとす、今や未曾有の大事業成就せられ、その結果人類史上始めて一切の重要なる軍艦が制限の下に置かるることとなりたるなり、即ち華府にてまかれたるものがロンドンにおいて収獲せらるるに至りたるものなり、本条約が平和と人類進歩との途上における不滅の歴史的記念塔たるべきは疑ひを容れざるところなり、本条約は実に参加各国により発揮せられたる率直友好なる協力の精神を体現するものにして、これにより有害なる競争とさい疑とを絶滅することとなるべし、余は本条約が国際の協調親善を増進し、よつてもつて今後軍備縮小の偉業を促進すべき良好なるふん囲気を各国間に醸成すべきものなることを確信するものなり



〔参考〕東京朝日新聞 第一五七九三号昭和五年四月二三日 世界平和を期望して五国全権条約に調印 我全権は国産のペンで署名 ロンドン軍縮会議終る(DK370073k-0007)
第37巻 p.289-290 ページ画像

東京朝日新聞 第一五七九三号昭和五年四月二三日
    世界平和を期望して五国全権条約に調印
      我全権は国産のペンで署名
        ロンドン軍縮会議終る
 - 第37巻 p.290 -ページ画像 
〔ロンドン本社支局二十二日発〕晴の調印式を行ふロンドン会議の最終総会は二十二日午前十時半からセント・ジエイムス宮で開かれた、この日朝から霧やゝ深く開会式当日を思ひださせるものがあつた、天気は前日までの寒冷に比し次第によくなり陽の光を仰ぐやうになつた開会冒頭議長マグドナルド首相は方式案については一応国際聯盟に報告し、軍縮準備委員会について特に注意を促がすことにしたい、又本条約により一九三五年に会議を開くことゝなつた結果、ワシントン条約による一九三一年の会議は自然開かないことゝなる旨および本条約の名前は「一九三〇年ロンドン海軍条約」と称する旨を宣言し、引続き会議の経過について演説し、日・米・仏・伊の努力を感謝した演説は全部朗読演説であつたが力強いものであつた、次にスチムソン氏の演説あり、オーストレリイア代表フエントン氏、カナダ代表のロルストン氏等の後にフランス代表ブリアン氏が立つて覚書に言及し、軍縮は政治問題の解決と併行せざるべからざることを説きフランスの立場に変化なきことを明かにしたが、方式案については「数年来の英仏の見解が妥協点に達したことは会議の重要なる功績だ」となし、なお今後の商議において「ヨーロツパの二国も友誼的に協定に達することを確信する」と述べた、次いでイタリー全権シリアニ氏は協定が完全に成立したことを喜び「仏伊両国も協定に加はるに至つたことはイタリーのもつとも希望した所である」と説き、海軍休日の延長されたことを歓迎し「イタリーは出来るだけ低い所で軍縮を実現したい」とて立場を明かにし、次いで我若槻全権の演説があり、ニユージーランド・南阿代表の演説をもつて総会は終り、十二時四十分から調印を始め、調印さるべき条約文と銀色のアン女皇のインキつぼとが馬てい型の中央の机の上に置かれ、スチムソン全権を筆頭として、アメリカ全権、次でブリアン全権以下フランス全権マクドナルド全権以下イギリス全権自治領代表インド代表、シリアニ全権以下イタリー全権、最後に若槻・財部・松平・永井の順で日本が調印を済ませたが、日本全権は本国々産品のまき絵のペン軸をもつてこの歴史的文書にそれぞれ署名した、終つてブリアン氏は議長マクドナルド氏の努力を謝し、これに対しマクドナルド氏が謝辞を述べ、イタリー大使は英国のハンケー氏に感謝し、ハンケー氏これに答へ、和気あいあいの中に目出度一時二十分式を終つた。