デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.7

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
3節 国際団体及ビ親善事業
22款 日本国際児童親善会
■綱文

第38巻 p.47-74(DK380005k) ページ画像

昭和2年3月3日(1927年)

是日、当会主催「親善人形歓迎会」日本青年館ニ開カル。栄一会長トシテ出席ス。人形ハアメリカ合衆国代表女児ヨリ日本代表女児二手渡サレ、栄一謝辞ヲ述ブ。


■資料

中外商業新報 第一四七二六号昭和二年二月二〇日 アメリカへは日本の雛人形 諒闇明けてお礼に 三月三日の歓迎会プログラム(DK380005k-0001)
第38巻 p.47 ページ画像

中外商業新報 第一四七二六号昭和二年二月二〇日
    アメリカへは日本の雛人形
      諒闇明けてお礼に
        三月三日の歓迎会プログラム
アメリカから贈られたお人形の歓迎会は、今回設立された日本国際児童親善会主催文部省の肝煎りで、いよいよ来る三月三日、日本青年館で開催さるゝことになつたが、同会は恰も諒闇中のことゝて
 お祭り 騒ぎを差控へて厳粛に執り行はれる。その次第は先づ、当日午後二時までに岡田文相・幣原外相・米国大使マクベー氏・渋沢子爵を始め日米関係有力者、並に東京・横浜両市の児童代表約二千名が着席すると共に、正面の雛壇前に、日米の代表児童が出て代表人形の授受を行ひ、これを雛壇に飾つた後、高野博士作歌の「人形を迎へる歌」を出席児童全部が合唱し、終つて
 来賓の 演説があつて閉会することになつて居るが、同日までに人形の配当を受くべき、大阪・神戸・名古屋・千葉各市でも同日盛大なる歓迎会を催す筈である、なほこれ等人形の分配方法は文部省としては、大体において代表人形だけは照宮さまに献上し、その他の約一万二千個は本省直轄学校附属小学校・幼稚園・学習院附属小学校・幼稚園・府県庁所在地の
 小学校 幼稚園及び多数外人の居住する土地の小学校幼稚園、その他府県知事の適当と認むる土地の小学校及び幼稚園に配分し、これに関する小学児童及び園児の感想絵画等を人形の親元たるアメリカに送るつもりであると、またこの贈られた人形の御礼として、文部省では諒闇明けを待つて日本の雛人形をアメリカの児童に送りたいと言つて居る、なほ来る廿四日には東京・大阪両市において人形を贈られた趣旨につき
 ラヂオ 放送をなすことになつて居るが、東京では関屋文部省普通学務局長、大阪では中川府知事が放送するはずである、更に東京側では女子高等師範学校附属小学校児童がラヂオ放送当日、人形を迎へる唄を合唱することになつて居る


国際親善人形ニ関スル往復書翰及書類(DK380005k-0002)
第38巻 p.47-48 ページ画像

国際親善人形ニ関スル往復書翰及書類(渋沢子爵家所蔵)
 - 第38巻 p.48 -ページ画像 
(印刷物)
謹啓、春寒料峭の折柄愈々御清穆の段奉賀候、陳者今回日米親善の目的を以て米国世界児童親善会より、我が国児童へ多数の人形寄贈有之候に就ては、左記の通人形歓迎会相催し度候に付、御家族御同伴の上御賁臨被成下度、此段御案内申上候 敬具
  昭和二年二月二十三日     文部省内
                   日本国際児童親善会
    渋沢栄一殿
    記
一日時  三月三日(木)午後二時より同三時まで
一会場  明治神宮外苑日本青年館
 追て座席の都合有之、御出席の有無折返し御返事賜り度、万一御返事なき節は御出席の際、御迷惑あるやも計り難きに付、予め御諒承願上候、尚当日御賁臨の節は、本状を受付係に御示し被下度申添候


中外商業新報 第一四七三五号 昭和二年三月一日 米国生れのお人形 マヽさんを得て(DK380005k-0003)
第38巻 p.48-49 ページ画像

中外商業新報 第一四七三五号 昭和二年三月一日
    米国生れのお人形
      マヽさんを得て
 歓迎会
  式次第
   三日青年館で
既報の通りお人形歓迎会は、いよいよお節句の三月三日午後二時から日本青年館で開かれるが、当日は学習院御在学中の竹田宮・北白川宮朝香宮の各若姫宮や、徳恵姫を始め東京市内各小学校女生徒、幼稚園児童等約千名が集まる、舞台には日本流の雛段を二つ設け、一つには日本の人形、他の一つには米国の人形をそれぞれ飾ることになつてゐる。先づ司会者松浦文部次官の開会の挨拶に式は始まり、両国々歌の合唱があつて関屋普通学務局長の報告、次いで舞台に両側から米国児童代表のアメリカンスクール生徒四十八名と、日本児童代表お茶の水女高師附属小学生四十八名が登壇
      ○
米国駐在領事のお嬢さんベツテイ・ベランタイン(七ツ)さんの手から可愛いゝ御人形だ(全州代表四十八個)学習院小学校一年生の徳川家達公令孫ゆき子さんに渡され、ゆき子さんの手で日本の雛段側に飾られる、同時に一同声を揃へて「海のあちらの友だちの……」の歓迎歌を合唱する、次に米国大使マツクベー氏の挨拶があり、これに対し渋沢子爵のお礼のことばがあつて、同三時に閉会する予定である
 東京市は
  きのふ配布
   二百九十三個
市教育局では例のドル・メッセージ展がすんだので、廿八日午後市内の各小学校・幼稚園にもれなく、一校一園一個づつ「この人形は友情の人形と申し、お友達同志のお使ひで御座います……」とのあちらからのメツセージを添へて、松屋・松坂屋に陳列してあつた分二百九十
 - 第38巻 p.49 -ページ画像 
三個を左の如く配布した
 △市立小学二百一△同幼稚園十五△私立小学校廿二△幼椎園五十五各校では今一日、生徒園児を集めてお人形を前に校長さんから国際親善のお話がある筈
 ミス・アメリカ
  一行の歓迎会
   局長が横浜に出迎へ
ミス・アメリカを始め代表人形は、十日鳥羽丸で横浜に着く予定であるが、十一・二日頃文部省から関屋普通学務局長以下多数出迎へに行き、横浜の南吉田小学校で横浜市内各小学校の生徒が集まつて盛大な歓迎会を催すはずで、この分は一応残らず照宮様へお目にかけるとのことである。


竜門雑誌 第四六三号・第七五頁昭和二年四月 青淵先生動静大要(DK380005k-0004)
第38巻 p.49 ページ画像

竜門雑誌 第四六三号・第七五頁昭和二年四月
    青淵先生動静大要
      三月中
三日 米国人形歓迎会(日本青年会)


(増田明六)日誌 昭和二年(DK380005k-0005)
第38巻 p.49-50 ページ画像

(増田明六)日誌 昭和二年 (増田正純氏所蔵)
三月三日 節句 木 晴              出勤
○上略
正午、青山青年会館に至る、本日挙行の米国寄送人形歓迎式に委員として斡旋する為めなり
人形歓迎式次第如左
  昭和二年三月三日午後二時 明治神宮外苑日本青年館
                  日本国際児童親善会
         司会者   文部次官 松浦鎮次郎
一 開会
二 国歌合唱
  イ 国歌(君か代)
  ロ 米国々歌(The Star-Spangled Banner)
三 経過報告      文部省普通学務局長 関屋竜吉
四 米国児童の挨拶      ベテー バランタイン嬢
五 唱歌(Doll Song)         壇上 米国児童
    (ピアノ伴奏)
六 人形の御迎へ
七 日本児童の挨拶            徳川順子嬢
八 唱歌(人形を迎へる歌)      壇上 日本児童
    (ピアノ伴奏)
九 人形の着座 (奏楽合唱 人形を迎へる歌 全児童)
一〇 来賓の御挨拶 米国大使チャールスマックベー閣下
                  子爵渋沢栄一閣下
一一 閉会
    奏楽           陸軍戸山学校軍楽隊
 - 第38巻 p.50 -ページ画像 
来会者は米国関係団体の会員及外務・文部両省の関係者、在京浜米国人の重なる者及京浜小学校・幼稚園生徒(千余名)及前記生徒以外の者の家族なり、此来会者にはみやげとして「親善のお使」と題する、可愛い人形の米国発送の趣旨及経過を記述したる小冊子、記念絵葉書人形を迎へる歌、歓迎会次第書を一袋に収めたるものを配布したり
○下略


中外商業新報 第一四七三八号昭和二年三月四日 お人形さん可愛らしいまごつき きのふの歓迎会で渋沢子感激の答礼(DK380005k-0006)
第38巻 p.50 ページ画像

中外商業新報 第一四七三八号昭和二年三月四日
    お人形さん可愛らしいまごつき
      きのふの歓迎会で渋沢子感激の答礼
日本国際児童親善会の主催で、桃の御節句の三日午後二時から日本青年館で催されたお人形の
 歓迎会 は、夕刊既報の通り市内の幼稚園の生徒や、各小学校の代表女生徒約千五百名、これにアメリカンスクールの可愛いゝ学生約二百名、父兄なども交つて立錐の余地もない、文部省の御役人も総出で紅いバラをつけて何かとあつせんにあたつた、御人形の受け渡しはアメリカンスクールの生徒が四十八名が米国四十八州を代表して、人形一個づつ抱き、日本側の代表の学習院・御茶ノ水附属小学校女生徒同じく四十八名がきれいに飾つた
 雛段を 前にして行つた小さいベテー・バランタインさんの御挨拶に、徳川ゆき子さんの御礼の言葉なども立派に明せきに出来た、渡し損こねてまごまごしてゐる小さなアメリカンスクールの生徒がまたとなく可愛ゆくて愛嬌をそへた、皆んな受けとるとこれを一方の御雛段に飾つた、米国大使マクベー氏は「私はサンタクロースではないが……」とことばを切つてやさしい挨拶をした、この日渋沢子は
  大乗気 で出席したが、おしまひの答礼の中で次のやうに述べた「私はことしの御節句位ゐ娯しい愉快な御雛祭はしたことはありません、といふのは私が男であつたので御雛祭といふ記憶は極く小さい折の時のことしか残つてゐないのです、而もこの八十年振りの御雛祭りは米国のお人形を迎へて更に意義の深いものでした、思ひ出せば米国との関係は、私の少年時からの問題です、それ以来「竹馬の時につきたる一ふしは杖となるまで忘れざりけり」の
  古歌 の通り私の頭から一日もその親善に就ては忘れたことがありませんでした、それが今日平和の使として、斯くも沢山のお人形を迎へることになつたかと思ふと、うれしさがこみあげて来ます……」
とよろこびに涙さへもこぼしてゐた


中外商業新報 第一四七三八号昭和二年三月四日 平和の使 アメリカ人形歓迎のよろこび 日米をむすぶ純真な愛をたゝへて 可愛い歌声ものどかにひゞく……(DK380005k-0007)
第38巻 p.50-51 ページ画像

中外商業新報 第一四七三八号昭和二年三月四日
 平和の使
    アメリカ人形歓迎のよろこび
      日米をむすぶ純真な愛をたゝへて
      可愛い歌声ものどかにひゞく……
        宮様方も御列席
米国から山ほど送つて来たお人形さんの歓迎会は、上巳の節句の午後
 - 第38巻 p.51 -ページ画像 
二時から日本青年館で市内の可愛らしい幼稚園や小学校女生徒等や千五百名、それにアメリカンスクール、普連土女学校などの女生徒約百名、その他二千に近い人たちがあつまつて盛んに、学習院初等科の竹田・朝香・北白川各宮・姫宮、徳恵姫など七宮殿下台臨あり、舞台には赤い毛氈をかけた二つの雛段が設けられ、一つには御内裏様や五人囃、さては桃の花など立派にかざられ、一方には遠来の
 青い眼 をしたお人形四十八州の代表が美々しくかざられてある、会は戸山学校軍楽隊の演奏に合せて、君ケ代と米国々歌の合唱で始められ、関屋普通学務局長の挨拶がすむと米国領事のお嬢さんベテイ・バランタインさんと、徳川順子さん(徳川家達公の愛孫)とが挨拶をかはし、お人形をお内裏様のそばにかざり付けた、この間アメリカンスクールの児童がドル・ソング、日本の子供達が「うみのあちらのともだちの……」の歓迎歌を合唱した、これがすむと更に
 一同は 元気な声を出して歓迎歌を皆で合唱する、おしまひに米国大使チヤールス・マツクベー氏の挨拶に対し、渋沢子爵のニコニコ顔が現れてお礼の辞を述べられる、かくて三時過ぎ解散した
  代表人形四十九は
    照宮さまへ献上
      十日に鳥羽丸で横浜着
アメリカ全四十八州から特に平和の使者として、お人形を一個づゝその他全アメリカ代表としてのミス・アメリカといふお人形さん、即ち四十九個のお人形さんが十日横浜入港の鳥羽丸に搭載されて日本へ来る、この日埠頭へは池田知事・有吉市長等出迎へ、ミス・アメリカは有吉市長のお嬢さんが抱いて南吉田小学校に到り、こゝで日米紳士会合して盛大な歓迎会を開き、直ちに東京へ持つて来て照宮様へ全部四十九個を献上する事となつた
  婦人会館雛祭
    貧しい子供の集
芝愛宕下の婦人会館で、三日午後一時から雛祭を催し、区内新網町方面の貧しい家庭の子供達を招待して、名流婦人から贈られた玩具や絵本等を、集まつた少女達にわけて楽しく一日を過ごさせた


国民新聞 第一二六二五号 昭和二年三月四日 【……きのふ青い眼のお…】(DK380005k-0008)
第38巻 p.51 ページ画像

国民新聞 第一二六二五号昭和二年三月四日
 △……きのふ青い眼のお人形さんの歓迎会で、可愛い徳川順子さんと米国領事の令嬢ブランタインさんとの流ちやうな挨拶は、百の議論より日米親善のために涙ぐましい感激を与へたが
 △……その後で米大使が『私は痩せてゐてサンタクロースには似てもつかぬが、お人形を日本のお嬢さんに贈つたことだけはサンタクロースになります』と云ふと、丸々肥つた渋沢子が『それでは私が、サンタクロースになりませう』と云つたので、アメリカ側の人たちはドツと笑ひくづれて大拍手。○下略


万朝報 第一二一五〇号 昭和二年三月四日 話の種(DK380005k-0009)
第38巻 p.51-52 ページ画像

万朝報 第一二一五〇号 昭和二年三月四日
    話の種
 - 第38巻 p.52 -ページ画像 
きのふアメリカ人形歓迎会で、三つ児の魂百まで通ると云ふ古諺を引用して日米間の親交を力説し、自分は八十歳になつて初めて雛祭の嬉しさを知つた、自分はお爺さんで肥つてサンタクローズに似てゐるから、自分をサンタクローズとして日本の子供さんにお頒ちすると、壮者を凌ぐやうな元気で味のある話しをした渋沢子爵
◇……花のやうな少女連からヤンヤと喝采を拍手したが、通訳がこれを英訳すると並ゐる花のやうな米国の少女連、八十歳と開いて互に顔見合せて『オー、エイテイ、イヤーズ、オルド』とびつくり、日本の老人と云へば大抵くの字なりに腰が曲つた、梅干とばかり思つてゐるヤンキーガールが驚くのも尤も千万
◇……渋沢老子爵は天保十一年の二月生れの八十八歳と聞かされた一米婦人、八十八歳、八十八歳を七・八遍大声で繰返し、老子爵の元気な様子に目をぱちくりぱちくり


家庭週報 第八七九号・第四頁昭和二年三月一一日 可愛い日米親善家の集ひ(DK380005k-0010)
第38巻 p.52-53 ページ画像

家庭週報 第八七九号・第四頁昭和二年三月一一日
    可愛い日米親善家の集ひ
      ◇お人形の歓迎会
 三月三日のお雛祭りの日は、日本の女の子にとつては、ほんとうに楽しい楽しい日でありますが、今年はいつもよりかもつと楽しい嬉しい事がありました。
 それは、海の向ふのお隣りの国、アメリカのお嬢さん達から、日本の子供に沢山のお人形を贈られた事であります。
 アメリカのお嬢さん達は、ありつたけの親切と真心とをこめて、このお人形を贈つて下すつたと云ふ事は、そのお人形の一つ一つを手にとつて見ればすぐに解る事です。それぞれのお人形は、アメリカ嬢の友情に満ちたお手紙をきつと持つてをり、またそれぞれによく似合ふ着物のとり替へ迄も持たされてをります。
 こんなに沢山のお人形に、これほど一杯の心をこめて日本に贈るまでの、アメリカ嬢のお骨折はどんなだつたでせう。これを受取る日本の子供達はアメリカ嬢の親切を心から嬉しく戴くために、三月三日に日本青年会館で、お人形さんの歓迎会を開き、こゝでアメリカのお嬢さんの代表ベテー・バランタイン嬢から、日本の子供の代表徳川順子嬢に、このお人形が渡されたのでありました。
 この日は、日米両国の子供がお部屋にあふれる程集り、又両国の親善にお尽し下さる色々な方々が御出席になつて、まことに旺な会でありました。
 次にその会の様子を書いて、会に出る事の出来なかつたお子さん方にお知らせ致しませう。御自分でよめないお子さんは、お母様やお姉様方に読んで聞かせてお貰ひ下さい。
 午後二時に会は始りました。貴賓席には、北白川・竹田・朝香・李徳恵の各若宮殿下も御列席になり、各大臣方や、渋沢子爵・小村欣一侯等もいらつしやり、米国側からは、チヤールス・マツクベー大使、バランタイン氏等が出席してをられます。
 壇上の正面には日米両国旗が交叉され、その下には金屏風に取囲ま
 - 第38巻 p.53 -ページ画像 
れて二つの御ひな壇がしつらはれてゐます。一方のお雛壇には、日本のお雛様が正式に飾られてをり、一方のおひな壇は赤毛氈が敷かれてゐるきりでありました。
 はじめに、日本の国歌、その次に米国々歌が唱はれ、次に文部省の関屋普通学務局長から、お人形に就て大体次のやうなお話をなさいました。
  ○関屋ノ話略ス。
      ◇歌劇に観るやうな壇上
 このお話が終りますと、米国側のベテー・バランタイン嬢を先頭に米国児童四十九名、日本側の徳川順子嬢を先頭に日本児童四十九名がステーヂに登り、先づベテー・バランタイン嬢の可愛いゝお口から「愛する日本のお友達方に申上げます」といふ人形を贈る御挨拶があり、続いて四十九人の米国児童が「お人形の歌」を合唱しました。それからベテー・バランタイン嬢から徳川順子嬢はお人形をだつこして、
 「アメリカの皆様からかはいゝお人形を沢山戴きましてありがたうございます。これからは大事なお友達として仲善くかはいがり、いつ迄も皆様のお親切を大切に致しませう。
 日本の子供みんなに代つてお礼を申上げます」とお礼の言葉を、瞭りとした大きな声で申されました。そこで四十九人の日本児童が「人形を迎へる歌」を唱ひ、次々に米国児童四十九人から、日本児童四十九人の手にそれぞれお人形が渡されました。このときお部屋の中は拍手の音で一杯になりました。
 玆で軍楽隊の奏楽が始められ、その奏楽中に四十九のお人形が赤毛氈を敷かれた片方のお雛壇に美しく飾られたのです。
 次に、お客様方の御挨拶として、チヤールス・マックベー大使と、渋沢栄一子爵の御挨拶がありました。
 チヤールス・マツクベー大使の御話は次のやうです。
  ○マクベー大使ノ話略ス。
      ◇小さい日米親善家
 それから渋沢子爵がお立ちになつて○中略
 と云ふ様なお話(渋沢子爵のお話は別ペーヂにあります)をなさいました。
 お二人のお話が終りますと、戸山学校の軍楽隊の人達が愉快なメロデーの楽隊を始め、アメリカのお嬢さん方のお顔もニコニコ、日本の娘の顔もニコニコで、何とも云へぬ楽しい愉快な空気になりました。
 このやうにして、お人形さんの歓迎会は温い友情の交歓によつて平和に閉ぢられました。
 私どもは、アメリカの日本に対する親愛の気持を永く忘れず、またこゝろの中によく養つて、いつまでも仲善く親しいお友達になつて参りたいと思ひます。


家庭週報 第八七九号昭和二年三月一一日 私がサンタクロースとなつて と渋沢子爵の御挨拶(DK380005k-0011)
第38巻 p.53-54 ページ画像

家庭週報 第八七九号昭和二年三月一一日
    私がサンタクロースとなつて
      と渋沢子爵の御挨拶
 - 第38巻 p.54 -ページ画像 
 アメリカ、及び日本の紳士淑女諸子、並びにお子供さん方に申上げます。
 とかく私がお話し申上げると、昔語りをするやうになりますが、私が生れて八十八年たつて、今日始めて雛祭りの嬉しいことを知りました。男子でありましたから、子供の折には雛祭りを面白いとは思ひませんでした。もつとも七つ八つの頃には面白くもありましたが、その後はあばれつ子でありましたから、煩いと思つてをりました。今日ほど雛祭りを嬉しいと思つたことはございません。
 このアメリカから雛を贈つて下さいましたことは、皆様もよく御了解あつて、お受取りになつたことゝ思ひます。また只今、大使閣下の興味あるお言葉で、その御真意もよくお分りになつたことゝ思ひます今日、この会は東京で美しくなされましたが、この会の意義・喜びはたゞに東京のみでなく、全国に普められ、国際間の友愛親善に力をいたさるゝことゝ思ひますが、これはこの会をお取り扱ひ下さる国際聯盟児童親善部が、充分にお力を尽し下さるゝことゝ存じます。
 日本の諺に、三つ子の魂百までも、といふ言葉があります。子供の感じに残りましたことは、年とるまで継続されるものであります「……竹馬の一節は杖つくまでも忘れざりけり」といふ歌がございますがこれは子供の心が成長して後も失はれる事はないといふことを教へた言葉であります。私が我が身に触れて申上げたいのは、三つ子の魂百までも、と申す諺、竹馬の一ふしは杖つく迄も忘れざりけり、といふ歌は、真実であると申すことでございます。
 私がアメリカについて聞き知りましたのは、只今より七十五年前十四歳の時でありました。その頃からして、アメリカについて聞いてをりましたが、当時はサンタクロースについて考へるよりほか、何も考へなかつたやうな年頃でありました。併しアメリカに関しては、多少心配致すところもありました。昔の子供時代の竹馬の一と節が杖つく迄も忘れられなくなりましたやうなわけで、今日に至つたのであります。同時にアメリカに於ても同じ心配を持つ方があつて、日本とアメリカのために計るには、先づ、子供同志を仲よくさせねばならぬ。といふわけでお雛様を贈つて下さつたことゝ思ひます。
 只今、米国大使閣下は、御自分が外見から申してもサンタークロースの任ではないと仰いましたが、それならば私が、サンタークロースのお役をお引受けいたしまして、日本のお子さん方に、お贈りものをさし上げたいと思ひます。私は所謂、人生の末路に近き齢となりまして、雛祭りの嬉しい事をはじめて知りました。私は今日のこのお催しが、国交の親しみの上に響く事あると思ひますと、また一入喜ばしさを感じるのであります。(略記文責記者)


渋沢栄一電報 控 シドニー・エル・ギューリック宛 昭和二年三月四日(DK380005k-0012)
第38巻 p.54-55 ページ画像

渋沢栄一電報 控 シドニー・エル・ギューリック宛 昭和二年三月四日
                      (渋沢子爵家所蔵)
     親善人形歓迎会ニ関スル電報
  紐育市第四街二八九               渋沢
   ギユーリツク博士殿
 - 第38巻 p.55 -ページ画像 
先月二十五日ヨリ二十七日迄、東京・大阪ノ各大デパートメントストアニ於テ、親善人形展覧会開催、当地ノミニテ三十万ノ観覧者アリ盛況ヲ極ム、小生モ親シク参観セリ、又昨三日ノ雛祭ノ日ニ日本国際児童親善会ハ、東京・大阪ニ於テ盛大ナル(米国人形)歓迎会ヲ挙行シタ、東京ハ京浜ノ日本小学校及幼稚園ノ代表女生徒約千二百名ト、両地ノ米国女児童約百名、在留米国人及小生等同会関係者総計二千名会合、両国児童間ニ人形ノ授受式アリタル後、米国大使ハ米国児童及人形ノ親、又小生ハ日本児童ノ親トナリシ意味ヲ以テ挨拶ヲ為シタリ、此歓迎式ノ光景ハ其夕日本全国ニ放送又ハ電報ニ依リテ通知サレ、深甚ノ感動ヲ与ヘタリ、八十八才ノ小生児童ト共ニ式ニ列シ感慨無量、計画者タル貴兄並関係者各位ニ対シ謹ンテ感謝ノ意ヲ表ス、委細書面
  昭和二年三月四日


渋沢栄一書翰 控 シドニー・エル・ギューリック宛 昭和二年三月一六日(DK380005k-0013)
第38巻 p.55-56 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 シドニー・エル・ギューリック宛 昭和二年三月一六日
                      (渋沢子爵家所蔵)
(写)
                (栄一鉛筆)
                昭和二年三月十五日一覧
 紐育市世界児童親善会
  シドニー・エル・ギユーリツク博士殿
拝啓、時下益御清適奉賀候、然ば去四日相発候電報は、米国人形が我国の児童並其父兄に依りて、如何に大なる好感を以て迎へられしかを物語る去三日の雛祭当日に於ける歓迎式の実況を御知らせして、貴兄御尽力の成功を祝し、同時に小生の悦を表示したるものなる事を御諒解被下候事と存候、乍重複該電文を左に記載致候
  ○電文前掲ニ付略ス
親善人形御寄送の御計画に関しては、昨年来松浦次官並小生宛貴翰に依りて委曲拝承致、小生等は貴会役員各位の御尽力と貴邦児童各位の御厚情とを、如何にして我国民に知らしめんかと、爾来外務・文部両省の当局者並民間有志者と屡々会合協議致候上、日本国際児童親善会を組織し、先つ同会監督の下に去二月廿五日より三日間東京にては、三越・白木屋・松坂屋・松屋・高島屋の五デパートメントストーアに於て展覧会(大阪にても同様展覧会を催し候)を催し、人形と其携帯品・旅行免状・書状等を陳列して一般公衆に観覧せしめ、別に絵葉書を作りて観覧者に交付致候、小生も同廿七日右陳列場の内、二ケ処を巡覧致候処、孰れも陳列の方法宜しきを得、毎日各店弐万数千の観覧者をして、可愛らしき貴邦児童の心持を十分に了得せしむるを得たりと、満足致候次第に御座候
右の人形は展覧会の終了と共に文部省に依りて、三月三日の雛祭に間に合ふ様、各地小学校・幼稚園に配布せられ候間、之を迎へたる各地に於ては同日一斉に必す暖かき歓迎会が行はれし筈に候、更に来十八日は人形一行の団長たるミス・アメリカ及各州の代表的人形、横浜に到着の筈に付、当日は文部省関屋普通学務局長、京浜に於ける代表児童弐千名と共に波止場に出てゝ、児童の歓迎歌合唱の下に一行を迎へ引続き横浜に於て盛大なる歓迎式を挙行する予定にて目下準備中に候
 - 第38巻 p.56 -ページ画像 
右歓迎式相済候上は一と先文部省に全部を集合して、早速各地小学校及幼稚園に配布する事に致居候が、新聞紙の記事に依りて之が配布を承知致居候全国各地小学校・幼稚園より自校への配布を希望し来り、中にも朝鮮地方より同様の申越も有之候等は、真に全国より歓迎せられ居る事を明かにする次第に候
右様の状況にて、今度の御企が確かに日米親善の増進に大なる裨益を与へたるは申迄も無き事に候が、同時に予て貴方より之が答礼を望まさる旨御申越に候得共、可愛ゆき貴邦児童に我が児童のやさしき心持を礼状以外に、何等かの方法を以て表示致度と考慮致居候
先は貴下の御成功を祝し、日本児童一同に代はり深く感謝の意を表し候 敬具
  昭和二年三月十四日
                      渋沢栄一
   ○右英文書翰ハ同月十六日付ニテ発送セラレタリ。


(シドニー・エル・ギューリック)書翰 渋沢栄一宛一九二七年四月四日(DK380005k-0014)
第38巻 p.56-58 ページ画像

(シドニー・エル・ギューリック)書翰 渋沢栄一宛一九二七年四月四日
                      (渋沢子爵家所蔵)
           COMMITTEE ON WORLD FRIENDSHIP AMONG CHILDREN INSTITUTED BY THE COMMISSION ON INTERNATIONAL JUSTICE AND GOODWILL OF THE FEDERAL COUNCIL OF THE CHURCHES OF CHRIST IN AMERICA
                  April 4, 1927
Viscount Shibusawa,
  1 Nichome Yeirakucho Kojimachiku,
  Tokyo, Japan
My dear Viscount Shibusawa:
  Your letter of March 16, reporting your cable message telling of the reception for the dolls on March 3, came to my desk on Saturday. I have already acknowledged the cable message but again wish to thank you for your thoughtfulness in sending it and now for the letter which confirms it in detail.
  We much appreciated also added items of information which your letter brings.
  Many letters are now coming from different parts of Japan, both from Japanese and Americans, reporting receptions. They show how wide-spread and real welcomes have been.
  This great enterprise has succeeded because of the splendid cooperation of so many workers and your help in this matter has been more important than can easily be described. But for your personal interest at the very start I doubt if this enterprise would have gotten under way. We are therefore deeply indebted to you. Your letter to Mr. Wickersham of March 11 has also arrived. He is now at Geneva attending sessions of the League of Nations Committee for the Codification of International
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Law.
  I am sure he will read your letter with deepest interest and will, no doubt, in due time write you himself in acknowledgment of this letter.
  In the mean time let me say again that our doll project was in no sense a substitute for efforts to secure a change in the immigration law, so far as its exclusion section bears upon the Japanese. We feel that the goodwill created both in America and Japan will prove to be a valuable help when the time comes to bring this matter once more before Congress. Indeed, this doll project has been part of our program for creating those conditions which will lead to a final revision of the law.
  Again thanking you for your great help, I am, with best wishes for the long continuance of your health and strength,
             Cordially yours,
            (signed) Sidney L. Gulick
                  Secretary
(右訳文)
                  (栄一鉛筆)
                  五月六日閲了
 東京市              (四月廿三日入手)
  渋沢子爵閣下
          紐育、一九二七年四月四日
               シドニー・エル・ギユーリツク
拝啓、益御清適奉賀候、然ば三月三日御開催の人形歓迎会に関する貴電を、更に確認せる三月十六日附尊翰、去土曜日正に入手拝誦致候、貴電に対しては已に御挨拶致置候へども、閣下の御心遣と今回の御懇書とに対し、重ねて厚く御礼申上度候
電報以外の件も尊書を以て附加へ御通知に与り候義も、亦深く拝謝致候次第に御座候
人形歓迎会の件に関し、日本各地に於ける日米人双方より多数の書翰を接手致居候、之れによりて此の歓迎会が真に実意の籠れるものにして、且範囲の広汎なりし事を推察致候
此大事業の成功したるは、多数の人々の優れたる援助の賜物に有之候又本件に対する閣下の御援助の如何に重要なりしかは、筆紙に尽す能はず候、若し抑の初に於て閣下の御援助なかりせば、本事業を創始し得せしかを疑ひ候、故に小生等は閣下に負ふ処多大なるもの有之候、ウヰツカーシヤム氏宛の三月十一日附尊書も亦到着致候、同氏はジユネーヴに罷在、目下開催中の国際聯盟国際法立案委員会に列席致居候同氏が深厚なる興味と熱心を以て貴書を拝読致、遅滞なく自身御挨拶申上候事申すまでもなき義と存候
我々の試みたる人形計画は、排日条項を包含する移民法の改正に関する努力に代へんとするものには決して無之候義を重ねて申上候、乍去此親善人形によりて日米両国間に醸成せられたる親交は、此排日移民問題が再び議会に提出せらるゝ際には、必ず有効なる援助と相成可申
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候、此人形計画は実は最後に該法の改正を見るに至らしむべき気運を招徠せんとする計画の一部に過ぎず候
閣下の大なる御援助に対し重ねて御礼申上げ、猶ほ不相変永く御健康の程を奉祈候 敬具


Japan Advertiser Friday March 4, 1927 Official Welcome To Dolls : Ambassador, Like Santa Claus, Gives Dolls To All Good Girls(DK380005k-0015)
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Japan Advertiser Friday March '4, 1927
      Official Welcome To Dolls
 Ambassador, Like Santa Claus, Gives Dolls To All Good Girls

  A grand welcome was given yesterday to the American dolls which were sent to Japanese school girls by American school girls to participate in the Doll Festival on the third day of March as bearers of goodwill and friendship. The ceremony was one of the most interesting events of recent years and was attended by more than 1,000 girls and several hundred adults.The girls were representatives of students of all primary schools in Tokyo.
  The welcome celebration was opened at 2 o'clock in the hall of the Young Men's Association Building in Aoyama. As it was the day of the Doll Festival, the platform was beautifully decorated with two large doll stands,one for a set of Japanese dolls in ancient court attire and the other for the American dolls.
  The ceremony was presided over by Mr. Chinjiro Matsuura, Vice-Minister of Education, who delivered an opening address expressiong his appreciation for the American undertaking. He emphasized the significance of the doll messengers of friendship,stating that they will never fail to make a deep impression on the hearts of Japanese children.
       American Ambassador Speaks
  In the presentation of the American dolls, Mr. Charles MacVeagh, American Ambassador, told the story of Santa Claus to the Japanese children, stating that "in the same spirit in which Santa Claus always brings joy, and happiness, and love into the homes of our people on Christmas Day, I went to bring to you girls here, on this happy occasion of your Doll Festival, a message from the little girls across the Pacific―a message of real and abiding friendship, and of earnest and heartfelt wishes for your joy and happiness."
  He concluded his speech by saying : "When you see and touch these dolls, you will find in every part of them evidences of the loving thought and sympathy with which they were made and dressed, and I am sure you will accept and treasure them in the same spirit in which they are offered : and I am equally sure
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 that today will go down in the annals of history as one which has greatly helped to forge the chain of complete understanding and friendship between America and Japan, which, by the Grace of God, shall never be broken."
         Sing National Songs
  Following the opening address by Mr. Matsuura the national anthems of Japan and America, "Kimigayo" and "The Star-Spangled Banner," were played by the Toyama military band. Mr.T. Sekiya, director of the Bureau of General Education, made a report on the arrival of the American dolls and the plan for their distribution.
  About 40 American school children, each with a doll in her arms, and about an equal number of Japanese school children then came out from the entrances on each side of the platform. The groups lined up facing each other for the ceremony of handing the dolls over to the Japanese children by the American children. Miss Betty Ballantine, representing the American children, addressed the other group with a message of goodwill and friendship. Little Miss Tokugawa, granddaughter of Prince Tokugawa, President of the House of Peers, similarly was the leading delegate representing the girlhood of Japan.
  After the dolls were given to the Japanese girls, the American children sang a song, "Welcome to American Dolls," which was composed by Dr. T. Takano and translated into English. In response the group of Japanese girls sang the same song in the original.
         Shibusawa Enjoys Event
  Following this part of the program, Ambassador Charles MacVeagh addressed the children. This speech was responded to by Viscount Shibusawa, who was one of the most enthusiastic promoters of the event. In illustrating his talk, he quoted a Japanese proverb which corresponds to the English saying, "The child is father to the man."
  He emphasized that the goodwill and friendship thus cultivated in the hearts of children is lasting. He said he felt an unutterable joy in the Boys' Festival on the fifth of May, when he was a little boy. As he grew up, howerer, he enjoyed the event less and less. "It is a revelation," he concluded, "that I now find myself sharing with children the joy of the Doll Festival at the age of 88 years."
  The dolls which are coming to Japan from America total 9,681, of which 5,577 have already arrived and been distributed. The total number is expected to increase, but the authorities are not yet certain on this point. Exhibitions of the
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 American dolls were held for three days beginning February 25 in Tokyo and Osaka, More than 300,000 school children and grown-ups visited the Tokyo exhibition.
          Motion Picture Taken
  The schools in various sections of the country which received the dolls held welcome celebrations. Yokohama and Kanagama Prefecture are planning to hold a big welcome celebration on March 9 for "Miss America" and the 48 dolls which represent the American states. All the scenes of events in connection with the American dolls are to be taken in motion pictures and will be sent to the United States for exhibition. "Miss America" will be shown to Princess Shigeko Teru, the daughter of the Emperor and Empress and then will be preserved in the Tokyo Museum of the Ministry of Education.
  Many prominent persons attended the welcome celebration. Among them were Prince Takeda, Prince and Princess Asaka, princess Kitashirakawa and her two daughters, Prince Ritoku, Mr. Okada, Minister of Education, Baron K. Shidehara, Minister of Foreign Affairs, Mr. K. Debuchi, Vice-Minister of Foreign Affairs, Marquis Komura, Mayor Ariyoshi of Yokohama, Baron Y. Sakatani, Dr. J. Soyeda, both members of the House of Peers, Mr. C. Ballantine, American Consul, Mr. and Mrs. Charles Burnett, the Rev. H.B. Benninghoff, Mr. Gilbert Bowles, and Mr. A. K. Reischauer.


竜門雑誌 第四六二号・第一―一三頁 昭和二年三月 米国より人形を贈られて ―日米関係委員会の大要― 青淵先生(DK380005k-0016)
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竜門雑誌 第四六二号・第一―一三頁 昭和二年三月
    米国より人形を贈られて
      ―日米関係委員会の大要―
                      青淵先生
      一
 私の一身と深い関係にある竜門雑誌に、日米間の諸問題に就て喋々述べることは、国交と云ふ公のことであるだけに、家庭や一身のことと異り、公事を私事に引つけるやうな感じがしないでもないが、私が此の問題に対し努力して居るのは、誰から命ぜられたのでもなく、依頼せられたのでもなく、真に日本の国民の一員として、国家に尽さねばならぬと、自分で深く決意した為めであるから、敢て不可でもあるまいと思ひ、此処に日米両国の関係から、今回の人形を贈られた由来なり、それに付ての感想なりを述べて見やうと思ひます。
 私は若い時分に斯様に考へました。日本は徒らに外国と交つてはならぬ。若しそれが為め巧利一方の外夷に侵され、我が純朴の気風を濫されるならば、東洋に於ける君子国の将来は如何になるか。当路の人人は徒らに外敵を恐れ、たゞ其の命に是従ふと云ふやうな有様である兎もすると攘夷の勅命に背く嫌がある。如斯は実に国を乱すの基を為すものである。と若かつた関係もあつて、大いに憤慨したものであつ
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た。これは単に私ばかりでなく、大体斯様な考を持つて居つたのであります。そして斯うした議論が漸次沸騰して来まして、私も二十四歳の冬毎々話したやうに、遂にそれが為め家を出るやうになつたのであります。
 米国との関係はコンモンドル・ペリーが軍艦六隻を率ゐて、浦賀に来航したのが抑最初で、これが幕府を非難する声を高めたのであります。恰度私の十四歳の時であります。其後タウンセンド・ハリスが総領事として渡来し、国書を齎し、このハリスの手で両国の条約が成立しました。それは安政三年から五年頃であつたと記憶して居ります。
 斯様に私が知つて以来の外国関係は、米国との交渉が最初であり、又強く響いたので、米国のことが早くから私の脳裡に這入つて、忘れることが出来ないのであります。それからの経過は種々変化し、つゞいてお話することは難しいが、私は其の後攘夷と云ふても単純な攘夷ではいかぬと、学問上からでなく、実際的の事情からさとるやうになり、次で身柄も一ツ橋の家来となり、更に幕臣となり、間もなく民部公子に随行して仏国へ赴くやうになりました。其処で実地外国の土地を踏み、一般の有様を親しく見聞したから、以前の無暴な考が誤つて居たと云ふことが判つたのであります。
 而して日本が外国と交るに就ては、充分に国を開いて道理正しく交際しなければならぬ。又日本は外国の進んだ科学上のことを大いに学ぶ必要があると考へたのである。処が米国との関係は最初から非常に都合よく、例へば馬関事件の際にも第一番に償金を返し、特別条約の改正にも先へ立つて同意してくれた。又国家として重要な関税の税目のことに付てもハリスが一々指摘して、之は斯様したがよい之は斯様した方が得であると、非常に心配して種々親切に尽してくれたので、米国との国交は実に順調に進んで行つたのみならず。経済的には、米国から鉄や棉が輸入され、我国からは生糸や茶が輸出されると云ふ風で、時日の経過すると共に親密の度が加はつて行つたのであります。且つ米国の太平洋岸の地方は土地が肥沃であるのに農民が少なかつたから、日本の農業労働者が移民として直接加州へ赴き、またハワイから転航する者などもありましたが、何れも評判よく労働して居りました。賃銀が安いのによく働くから、資本家から調法がられたのでありました。斯様に国交上も経済上も、また移民の関係も頗る都合よく進んで居りましたから、自分達は心から喜んで居た訳であります。
      二
 然るに日露媾和条約成立の頃から、面白からぬ成行を呈するやうになつて来ました。日露の媾和談判は米国のポーツマウスで開かれました。米国大統領ルーズベルト氏は非常に尽力しましたが、初めから日本の為めに心配し「日本は兵力は強いが、国が小さく経済力が充分でないから、戦争の結果はよくあるまい」と考へ、又「此まで日本は戦争では連戦したが長びかせると如何なるか判らぬ」と云ふ考慮から、仲裁役となつてくれたのである。然るに媾和条約が愈々成立して見ると、全然償金が取れなかつたことを、一部の国民が不満として大分不穏に見えた為め、小村寿太郎侯が帰朝した時の如き、東京へ夜に入つ
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てひそかに帰つたり、其の歓迎会も出来ない程でありましたが、これは取も直さず其の仲介の労を執つた米国、此を代表する大統領の仕方を面白く思はず、ルーズベルト氏の面目を潰すことになつた。それのみでなく加州の日本移民は当初頗る従順であつたけれども、露国と戦つて勝つてからは俄かに威張り散らす様になりました。前にも述べた通り、日本の移民は勤勉であり、従順であるにも拘らず、賃銀が廉い処から歓迎せられたのであるが、斯う威張るやうになつては日本人を嫌ふやうになり、遂に学童問題とか、其他面倒な問題が漸く起つて来ました。
 当時の外務大臣小村侯爵は此の傾向を非常に憂慮して、種々交渉の結果例の紳士協約が成立しました。此は明治四十年であつたかと思ひます。其際小村侯爵から次の様な話を聞きました。此時は益田孝氏も一緒だつたと記憶して居ります。
 『移民問題は兎に角紳士協約で一時的のつなぎはつけたが、永久に安心しては居られぬ。何とか考へねばならぬと思ふが、米国は輿論の国であるから、直接国民に強い感じを与へるのが最も適当と思ふそれには商業会議所辺りで心配して欲しい』
 当時私は商業会議所の会頭を辞し、中野武営氏が代つて居つたが、私が明治十一年から殆ど三十年も会頭の職にあつたのと、中野会頭とも懇意であつたから、小村侯から話があつたことゝ思ひます。そこで此小村侯の話に就て色々と相談し、先づ日本の六大都市たる東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋の商業会議所が聯合して、米国太平洋沿岸の八会議所、即ちサンフランシスコ・ロスアンゼルス、オークランド、サンチエゴ、タコマ、ポートランド、シャトル、スポーケンの人々招待することになり、明治四十一年に『観光の意味で来て下さい』と云つてやつた。勿論それには私の名前は出さず、六会議所としてであつたが、歓迎するに当つては、私がそれ等の中心となり、主人役となつて努めました。そうして私の宅へも招待したり、各地(右主催会議所々在地)へも行つてもらひ、相当情味ある歓迎を為し懇親を尽したのでありました。従つて米国側でも之に対し、特に招待返しをすると云ひ、米国政府としても力を入れたやうであつたから、明治四十二年に渡米実業団を組織し、一行中には婦人も交り、私は会議所の関係はなかつたけれども、団長に推薦され、八月十九日横浜を発し、桑港《(シヤトル)》を振出しに五十六ケ所を巡回し、到る処で歓迎されました。そしてワシントンでは国務卿ノツクス氏に面会し、又大統領タフト氏にはミネアポリスで会見しまして、十一月三十日桑港へ引上げ、翌十二月一日乗船、同月十七日、日本へ帰つたのでありました。
      三
 斯様にして、移民問題に対し懇談を重ねたにも拘らず、私達の希望は達せられず、それから五年目の大正二年、遂に加州に於て排日的な「土地法」の制定となりました。之は地方の制度ではあるが、其の成行を見聞するに、どうも日本にとり面白からぬものであるから、中野会頭などゝ相談した上、対米同志会を組織し、添田寿一氏及神谷忠雄氏を特に米国に派遣しました。此の時昨年逝いた牛島謹爾氏などが大
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いに心配したのであつて、地方の実況をたゞし、種々に力を致したが充分の効を奏せず、単に原案より年限の延長其他二・三の緩和があつたのみで成立しました。従つて米国に於ける「土地法」反対の人々は日本に対して心苦しいと云つて居たが、また吾々としても移民に向つては、決して自分の国は強いと云ふやうな態度をとらず、米国に親しむ念を強くすることに努力されたいと告げて居たけれども、思ふにまかせなかつた。とは云へ斯かる問題は一時的のものではないから、何か常置的の団体を組織し、日米両国の心を一つにする人々が、平素から懇親を厚うし、お互に誤りを正して進むことにしなけれは成功しないであらう、などゝ考へるやうになつて来ました。すると其の翌々年の大正四年にパナマ開通の記念大博覧会が、桑港で開かれることになりました。そして予め欧洲へも、日本へも出品のことを云つて来たのであるが、大正三年欧洲大戦が勃発した為め、欧洲からの出品が予定に達せず、英国からも仏国からも非常に少なかつた。然るに日本は欧洲戦乱の影響が薄い上、右のやうに欧洲からの出品の少ないのを補ふと云ふ意味からも、多数の出品を必要とするとして、当時大隈内閣であり、農商務大臣は大浦子であつたが、私はさうした政府側の人々とも協力し、政府からも民間からも相当立派なものを沢山出品するやうにと努力した。其の結果桑港博覧会に対する日本の出品は非常に多く日本の力が博覧会の面目を立てしめたとも云ふ程で、米国からも大変喜ばれました。其の時私は此の博覧会観光の案内を受けたから、日米の国交上にも行つた方がよいであらう、殊に明治四十二年の関係や、大正二年人を派遣した事情もあり、渡米して各方面の人々と会見する必要もあると思つたので早速赴いたが、此の時、桑港商業会議所会頭のアレキサンダー氏の心配で、日米関係委員会なるものが出来て居つて、最も公平な考へで、日米間の親善を進め、新聞雑誌などで一方に偏したことを喋々すれば、之が反駁文を発表し、且つ両国の政府をも鞭撻しようと云ふ仕組になつて居りました。そこで私は此のアレキサンダー氏や博覧会長のモーア氏などゝ懇談した末、桑港に於ける如き常設約な委員会を東京にも組織して、日米間の謬伝を正すことに尽力しょうと打合はせ、更に紐育へも行き各方面の人士に会見して、それから日本へ帰ると直ちに、日米関係委員会を組織しました。此会は会長を置かず委員制度としたので、私も常務委員として爾来種々斡旋して居るのであります。
 日米関係委員会の成立した事情は右の通りであつて、これは決して公のものでなく、全然私設のものであります。委員は実業家・学者等廿九名で、自ら進んで日米両国の間を親善ならしめようと念慮する有力者ばかりであるから、米国側にあつては、其の力を認めて居り、又形式上では力がない如く見えるか知らぬが、事実に於て力があるので何か事が起ると、日米関係委員会へ相談して来るのであります。彼の大正九年加州で「土地法」を一層苛酷にした排日法案を「レフレンダム」に附すると云ふので、心ある人々は非常に憂へたことがありますが、此時も日米関係委員会では、之を機会に日米の有力者が相寄つて協議会を開く必要があるとして、先づアレキサンダー、リンチ、モー
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ア等太平洋岸地方の諸氏を招請した所、同年三月、九人であつたが有力な人々が来られたから、加州の其の法案をどのやうな方法で緩和し阻止するかに就て色々懇談し、又日米間の親善増進に就て協議の結果両国政府が各高等委員を任命し、高等委員の打合せで移民問題とか、其他両国の国交に資する処あらうと云ふことを話合つた。案は金子堅太郎子の主張であつたが、之には米国側の人々も同意しました。
 更に四月末ヴアンダリツプ氏を主脳とした、シヤーマン、ライマンゲージ、イーストマン、キングスレー、タフト等の有志者諸氏十五人ばかりが招待に応じて参り、日本からは金子・阪谷・添田の諸氏や、私など出席し、桑港方面の人々と同じやうに、移民問題を何とかしたいと云ふ協議を中心に、十日ばかり会談したので意志は疎通したけれども、加州に於ける一般投票は私達の考へて居たやうには行かず、八十万の内、賛成が六十万、反対が二十万と云ふ、投票数で成立してしまつたのであります。
 即ち協議会の方は、意志の疎通が出来て目的を達したが、排日法案の一般投票は、私達の心配も在米日本人の運動も効無く通過した結果いよいよ日本移民に不利なことになつた訳である。
 翌大正十年十一月、華盛頓に軍備縮少に関する会議が開かるゝこととなり、我国からは加藤友三郎子・徳川家達公・埴原正直氏が全権となつて行くことになつて居つたが、若し地方問題でも出るやうなら、移民問題の高等委員の制度でも設けられるであらう、とそれを目的に同年九月出発渡米しました。老人の私が誰に頼まれたと云ふでなく、又観光でもなく、それかと云つて他に特別の用事があるのでもないのに、斯く幾度も渡米したのは、移民問題の解決に尽すのが日本人たるの義務であると思つたからで、米国に在つては十一月初めから屡々全権たる加藤友三郎子と会見して意見を陳述し、加藤全権はよく傾聴して呉れられ、種々相談せられたりしました。然し遂に移民問題は議題とならなかつたので、次で加州へ引返し桑港に四・五日滞在し、関係委員の人々と懇談して帰国したこともあつたが、総て私達の希望は達せられず、今日の処総ての運動は徒労に終つた形になつて居ります。
      四
 斯様に日米関係委員会の努力して来た事柄は、公ではなかつたけれども、内容は日米の国交に関係して居るので、米国の関係委員会の人人が来遊すれば、外務省は茶話会を開いて招待すると云ふ風でありました。で両国の委員は常に誰に頼まれたと云ふではなく、自発的に国交の親善に就て心配し、同様の行動を採つて来たのであります。然るに米国の移民関係は一層悪化し、一昨々年遂に米国議会に於て新移民法が議せられ、まさか通過すまいと思つて居た所が、多少議論はあつたが、結局上下両院を通過してしまつたのであります。それに就ては埴原大使の使用した、グレーヴ、コンセクエンセスと云ふ文字が、米国を威嚇するものであるとの感を米人に持たせた為め、反動的に通過せしめたなどゝ云はれて居るし、或は日本政府のやり方も上手でなかつたかも知れないが、要するに米国の政治界の行走りから、此所に至つたことゝ思ひます。
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 此排日移民法の制定は、日本に対し非常な打撃を与へましたので、大に憤慨した人もありました。金子堅太郎子の如きは、米国の仕打が余りに冷酷だとしたのであります。私も如何に国内法であるからとは云へ、其の方法も何とか仕方があつたであらうに、あゝした通過を見たのは、意外であり遺憾であるとして、同年冬、米国の実業家・学者宗教家等二百数十名へ、日本関係委員会を代表して私の名で次の手紙を出したのであります。

  拝啓、本年も余日尠く相成申候、回顧すれば今年は日米両国の国交関係上悲しむべき事件の発生したる年として、吾等お互に遺憾の情禁じ難きもの有之候、此事件は両国の親善増進に尽力せる人々に対し悲しき打撃を加へたるものに候
 不幸なる排日条項を含む移民法の通過によりて生ぜる今日の事態は実に重大なる形勢といふべく、周到なる注意を以て臨むべきは勿論に候
 本書相認め候目的は、此問題に就て論述を試みんとするものにはあらずして、一・二の問題に対して御一考を煩はさんとするに有之候
 重大なる時期を通じて今日まで友誼と正義との為に尽力せられたる貴下の勇気あり且つ寛宏なる態度に対し先づ感謝の意を奉表候、米国に於ける多数の思想及行動の指導者が正義と国際間の諒解増進の為に敢然努力せられたる敬すべき態度は、吾等の感銘措く能はざる処に候、若し如此御努力なかりせば吾等の意気は沮喪したりしならんも、却て慰藉と激励との根源となりしは全く之れあるが為めと存候、加之此は光明を告ぐる曙光にして、今日両国の国交の円滑を阻害せる難関をも終には突破し得べしとの念を深ふするものに有之候日米両国間の平和と親善とに対する努力は結局勝利を博するに至るべしとの吾等の信念は、決して動かざるのみならず却而強められたるを感じ申候、それと同時に両国の親善の為めには我等日本人側のものが、特に充分なる注意を以て臨むべき状勢に在る事を夢忘るべからずと存候、吾等は移民問題は未だ解決せられず、且つ之が正当に解決せられざる限り真に解決せられたりと称すべからずとの意見を保持するものに有之候得共、米国に於ける官辺の意見にては此問題は已に終結せるものと目され居候、故に此際吾が国民の感情を緩和せんとの目的を以て何等か運動を開始せんとするは、貴国民の間に猜疑と誤解とを生ぜしめ、且つ貴国民は此れを目して其内政に干渉せんとするものなりと解する虞有之候、吾国としても此問題のみならず其他の事件の為に腰を低ふして米国に哀願する如きは国家の体面上不可能に候、現行の法規を改正するが為めには、仮令如何なる行為を必要とするにしても、先づ米国及米国民より運動を起されざるべからずと存候
 米国に於ける吾等の友人諸君は正義及平等の伝統的主義並に我国に対する友誼の為に、此問題解決の目的を以て既に運動に著手せられ居る由を聞き、我等は喜びに堪へざる次第に候得共、此際吾等は貴国に於ける諸君の自発的行動及忍耐に依頼せんとするが故に、小生の代表する委員各自は当分の間右に関する運動を差控ゆる事と致候
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間、左様御含置被下度候
 吾委員会に於て斯の如き受動的態度を執るに至れるは、日米間の友誼増進に対する吾等の熱心の薄らぎたるが為にはあらず、寧ろ従来に優る努力をなすベき決心に御座候、貴我両国の親善のみならず、広く世界の進歩と幸福との為に尽力するは我等の義務なりと存候
 と温和に丁寧に、少しも不足がましくなく書いたのであつたが、之に対して約二割ばかりも返事が来た。そして何れも
 『誠に尤も千万な御言葉であつて、政治方面の人情を忘れたやり方を遺憾とし、真にお気の毒に堪へないと思つて居る』
 と云つて呉れては居るけれども、今日になつても何等の好い解決方法が見当らず、其後会見する米国の人々からも『今に何とか成るであらう、此まゝでは置かれぬから』と云はれて居ります。現に今日来訪したサム・グレースウエル氏も、既に金子堅太郎子や鶴見祐輔氏とも会見し、色々議論したと云ふて居たが『排日法を緩和する方法は、今の大統領では難かしいかも知れぬが暫く我慢なさい』と云ふて居りました。私は今まで日米問題に就ては、人を見て法を説くと云ふ様なことをしないで、何人にも同様の意見を同じ調子で述べて居ります。
      五
 日米の関係、又日本の米国に於ける移民問題の経過は右の通りであるが、昨日(三月三日)の米国人形歓迎会は、此の問題に関聯した一つの事柄であつて、日米間の融和運動の一つであります。桑港の米日関係委員会が大正四年に組織せられたことは前にも申しましたが、大正十年に紐育に宗教家・実業家・教育家等によりて関係委員会が成立しました。其の会長はウヰカシヤムと云ふ有力な法律家で且宗教家であり、従来余り懇意のない人でありますが、理事のギユリツク博士は組合教会の主要な人物でありまして、嘗て永く日本に来て居つた関係から、此の人と私とは以前から懇親であります。同博士は早くから日米問題に就て心配し、紐育委員会の成立に当つても大いに努力せられたのであります。昨日歓迎会をした人形も、此ギユリツク博士の心配で、ウヰカシヤム氏などと共々に尽力したのであります。
 ギユリツク博士は『日米の親善は気永くやらねばならぬ。それには未来の国民たる子供がお互に相知り相親むことが必要であるから、之に資する為めに米国から人形を贈りませう。そして日本の雛の節句の当日三月三日までに到著するようにしよう。左様すれば相当効果を納めることが出来るであらう。そして紐育米日関係委員会で此の事を実行するといふやうな角立つたものでなく、単に吾々発起者が企画して各学校へ檄を発し、人形を集めて送りたいと思ふがどうであらうか』と云ふ意味の手紙を最初私の処へ寄して相談して来ました。そこで私は『それは結構なことではあるが、返礼もしなければならぬからどうかと思ふ。何分米国と日本とでは富の程度に非常な差があるので、贈物に相当したお礼は出来ない。彼の震災の折の見舞に対してもお礼が出来ないで居る。それは異常時のことだからよいやうなものゝ、平和な折の贈物に対してお礼が為し得られないのも変なものである。御厚意は誠に有難いが、此点を考へるとどうかと思ふ』と二度も三度も云
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つてやつたが、『決して返礼の心配には及ばない、有難いとお思ひならば、礼状だけ頂けば結構である。是非雛祭りに間に合ふやうに送るからそちらで分配の世話をしてくれるやうに、返礼の心配は平に無用にして頂きたい』と云つて来た。ただし関税を無税にすること、学校へ配布することは夫々政府当局者の方へ申して来たのであつて、相談の方は日米関係委員会と云はず私の処へ云つて来たのであつた。其後どうなつたか詳しく知らなかつたが、愈々此程来た訳で未だ全部は到著しないけれども恰度三月三日に授受の式を行つたらよからうと、日本青年館で歓迎会を催し米国の厚意に一つの謝意を表したのである。
 そして前に述べた関税の免除のことは、ギユリツク氏から松平大使へ申出で、外務省を通じて大蔵省と折衝した上で無税となり、各学校への配布は文部省で世話することになりました。又『此事は公な仕事ではないが、国民的な国交融和の一つの事柄であるから、渋沢に主になつて欲しい』と、政府側からも云ふので、色々の関係もあり、最初に相談を受けた続き柄からも、此処に世話人の一人として心配したのであります。且つ臨時に、日本国際児童親善会なるものを組織して、関係者が打寄つて実際の世話に当り、外務省は人形を受け、文部省が配ると云ふ取扱をすることになつた。
 斯くて歓迎会の模様は私の喋々を必要としないが、児童が千三百人大人が千人ばかり集つて好都合に運び、今日も文部省へ行つた処、大そう喜んでこれから人形を各地へ送り出す準備にかゝると云ふことであつた。其処で今度は返礼に就ての相談をするため、其の原案を考へで居る様子でありました。
      六
 会の席上で私は非常に愉快に思つたので、心に感じたことをそのまま述べました。即ち雛祭りを忘れるではないが、男の子としては記憶しない。殊に十歳以上に成れば女のすることとは全然別になる。処が昨日は本当に子供に返つたやうに嬉しかつたので、あゝした話が出たのであります。真に米国の行為は親切・公平で、華美でなく実際的であります。其上人形の数を沢山送られたから、各地方へ配布出来るのは、之等の人々のよく行届いた心配からであります。而も人形の贈主が子供であつて、送る手続に注意が行届き、旅行免状を持つとか、手紙を持つとか、著替や、玩具まで持つて来たのは実に用意周到であります。子供はそれ等を目に見、心に感じて、早くから日米親善を念とするに至るであらう。就中当日は米国大使も出席されて、サンタクロースの例を引いた面白い話を、子供に判るやうにせられ、非常に興味を覚えました。実際子供の時の深い感触は忘れ難いもので『三つ子の魂百まで』と云ふ諺もあり、之を文雅にして、『竹馬の幼心の一節は杖つくまでも忘れざりけり』と云ふのは、小出粲と云ふ人の和歌であるが、私の一身上からもそれは間違なく証拠立てられる。其の一例として十四歳の時ペルリが浦賀に来航して、米国との間に最初の交渉があつて以来、両国の国交のことを忘れる時がなかつたと云ふ意味を述べたのであります。当時外夷と云はれた米国、其他に対する日本国民の敵愾心は非常に強かつたので、其心持を取入れた色々の俗謡が流行
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しましたが、其の内『大津江』で謳つたものや『ちよんがれ節』で謳つたもの一・二など、私は今でも記憶して居ります。それは私が智恵があるとか、特別に記憶がよいのではなく、幼い時の心に深く感じたからであつて、右の諺や歌は架空の形容ではないのであります。
 要するに、今日の処、米国の移民問題の改善を図ることは困難なる事情にあるから、将来之が改革を為すべく画策せねばなるまいと思ふが、此点に早くも気付いたギユリツク博士など、大いに将来に目標を置いて努力して居るので、其の結果人形を贈られるやうになつた。此催は私が企てたのでないから遠慮した方がよいかと思つたのに、是非顔を出せと云ふので、政府の人々と共にお世話をしたが、幸に事なく此処に先づ一段落はつきました。たゞ何とかして返礼をせねばなるまいと思ふけれど、未だ具体的の案はないのであります。兎に角人形を贈られた顛末は以上の通りで、日本と米国との関係の内の一事項であると申してよいと思ふのであります。(三月四日談話)


竜門雑誌 第四六二号・第六一―六六頁 昭和二年三月 親善人形歓迎会 礫川生(DK380005k-0017)
第38巻 p.68-72 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

New York Times March 14, 1927. GIFTS OF FRIENDSHIP.(DK380005k-0018)
第38巻 p.72-74 ページ画像

New York Times   March 14, 1927.
         GIFTS OF FRIENDSHIP.
  In the family of nations gifts that pass between its members have an impersonal character, but they take on a symbolism that often invests them with an ambassadorial rank. Such are the gifts of dolls which the children of America dressed and outfitted and sent to the children of Japan― 12,000 dolls in all―too few, unhappily, to furnish one for every school. That they were not received as mere playthings is indicated by the welcome that was accorded them in Tokyo and Osaka, where several hundred thousand Japanese men, women and children looked upon these little images clad in Occidental costumes. They were accorded both royal and diplomatic honors, for princes of the imperial blood joined in the welcome, and the American Ambassador, in making the presentation, expressed the hope that "this day" would "be long remembered in the history of our relations in that it has made our historic concatenation more solid and concrete."
  Impalpable are the forces which this flinging of another chain across the Pacific strengthens. Among those to speak for Japanese besides the Minister《(sic)》 of Education, who presided at the ceremonial meeting of welcome, was Baron SHIBUSAWA, 88 years of age, who was but a youth when the first catena from America was carried to Japan by Commodore PERRY in his negotiation of the first United States treaty with that then isolated people. This aged financier and statesman, who used to be called "the Pierpont Morgan of Japan" and who in his young Samurai manhood helped voluntarily to guard the person of our first Minister to Japan, TOWNSEND HARRIS, spoke
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with deep emotion of this new mission of goodwill. He, too, in his great age sees promise in this symbolic fostering of an understanding and friendship between the children of the two countries.
  Archaeologically, dolls were but effigies used in magic to drive away the evil spirits or evoke and invite the good. They were the most portentous of objects in their own imputed powers to work good or ill. But as time has gone on they have lost all that sorcery and are but the dumb recipients of affection―associates of childhood, innocent of any evil and incapable to bear aught save what children themselves may carry throughout the earth.
  The Japanese, with all their sentiment and artistic re-finement as shown in this and other ceremonies, show a self-reliance and practical enterprise in the midst of disaster and affliction, as is illstrated by their conduct following the earthquake which occurred but a few days after the doll festival.They turned to meet that emergency with American energy and quiet effectiveness. They were quick to send a fund to Florida at the time of the recent disaster ― 86,300 yen, over $40,000, from almost as many contributors―but they have announced their ability to care for their own. It is to be hoped,however, that our American Red Cross will insist upon helping if they are undergoing too great a drain upon their own relief resources in providing for the sufferers.
(右訳文)
          (別筆)
          本文ハ松平大使ヨリ外務大臣宛、更ニ外務次官ヨリ文部省普通学務局長関屋ヘ廻送サレタル、電報ノ翻訳文ナリ
    親善のこもつた贈物    昭和二年三月十四日発行の「紐育タイムス紙」記事の訳文
 国民と国民との間に取りかはされる贈物は、時に個人個々の間には交渉なき性質を有する事がある。しかし又しばしば大使級にまで任命されて、もてはやされるやうな現象を呈する事もある。
 今回米国児童より日本の児童へ贈つた人形は、実にこの第二の意味の性質を有するもので、彼等の着物や衣裳は皆米国児童の手になつたものである。総計一万二千と云ふ個数であるが、これは日本全国の学校に配当するには聊不足の憾がある。
 彼等人形は日本にあつては単なる玩具としての取扱を受けて居ない東京や大阪では彼等の為に歓迎会を催して、数十万の老若男女がこの泰西風の装をこらした、人形達を見物したやうな次第である。
 又彼等は日本皇室の深き恵と、外交上の栄誉とを一時に担つたかの感がある。何故ならば彼等の東京に於ける歓迎会には、畏くも皇女殿下がお成りになり、又米国の大使はその席で次のやうな演説をしたからである。
 - 第38巻 p.74 -ページ画像 
 「この日は日米両国間の歴史的関係の上に、永久に銘記さるべき日である、しかもこれを以て、両国間の歴史的鏈結は愈堅固たるべきである。」と、
 かくの如く新しい一本の鎖が、太平洋を横断して両国の間にかけられると云ふ事は、実に太平洋をして強固安全ならしむる一大勢力で、吾等には計り知るべからざるものがある。
 その他演説者中には歓迎会の司会者たる文部大臣《(マヽ)》の外に渋沢子爵がある。現今正に八十八歳の高齢であるが、その子爵の青年時代に始めて日米間の交渉が始つたのである。即ちペリー提督が合衆国から日本へ初めて派遣されて、鎖国の民と談判を開始した時である。この老実業家にして政治家たる子爵はしばしば日本のピアポント・モルガンと呼ばれるが、彼の若き武士時代には吾国初頭の駐日大使たるタウンセンド・ハリスを自ら進んで助け護つた。子爵は今度も亦この新しき親善の使命について深き感動を以て話された。しかも子爵はかゝる老齢を以て、しかも尚且つ両国児童間の親善・理解が、将来に於て象徴的に養育さるゝ事を期して居る。
 考古学的に云へば、人形と云ふものは魔術的に悪霊を駆逐し、善霊を招致する単なる表象に過ぎなかつた、即ち吉凶の判断を下し得る能力を伴ふ物体中、最も魔力に富むものとして取扱はれて居た。けれども時代が過ぎるに従つて彼等は、その魔力を失ひ全く無邪気にして地上に於ける児童の友たる以外に、何等も為し能はざる程単に児童の無声の友として愛情を一身に集むる者となつた。
 日本人は、今回の歓迎会に示したやうな心情と芸術的洗練とを以て独自にして実行的な企を催して居る。それは雛祭から遠からざる日の地震に対して取つた行動が説明して居る如く、日本人は一災害に当つても尚且つかゝる企を実行して居る。又彼等はこの不慮の災難に処するに米国的精力と、沈着なる効果とを以てした。そして最近起つたフロリダの災害には、多くの日本人から八万六千三百円(四万弗以上)の寄贈をして来た、日本人はこの間に於ても彼等自身の災害に対する注意を決して怠つて居ない。
 吾人はこゝに於て若し日本が彼等罹災民救恤の資金に、大なる涸渇を感して居るならば、吾が米国の赤十字は大いにこれを援助すべきではないかと思ふ。

  ○右文中ノ栄一ガハリスノ護衛ヲナセリトノ説ハ蓋シ益田孝ノ話ト混同セルモノナルべシ。「自叙益田孝翁伝」ニヨレバ、益田孝ハ若年ノ折アメリカ公使館タリシ麻布善福寺ニ宿寺詰トナリテ勤務セシコトアリ。ハリス在任中ノコトナリ
  ○フロリダ颶風ニ対スル日本ノ寄贈金ノ件ハ本資料第四十巻所収「フロリダ大風災義捐金募集」ノ条参照。