デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
4節 国際記念事業
2款 タウンゼンド・ハリス記念碑建設
■綱文

第38巻 p.343-351(DK380039k) ページ画像

昭和2年9月30日(1927年)

是日栄一、ハリス記念碑除幕式参列ノタメ東京ヲ発シ、修善寺ニ一泊ス。


■資料

集会日時通知表 昭和二年(DK380039k-0001)
第38巻 p.343 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
九月三十日 金 午前九時半 伊豆玉泉寺へ御出向(東京発)沼津著
        午後〇時四〇 修善寺新井屋旅館ニ御一泊


竜門雑誌 第四六九号・第五一―六一頁 昭和二年一〇月 伊豆の旅(上) 穂積歌子(DK380039k-0002)
第38巻 p.343-350 ページ画像

竜門雑誌 第四六九号・第五一―六一頁 昭和二年一〇月
    伊豆の旅(上)
                      穂積歌子
 渋沢の父上が老後皇国へ御奉公の一つとして、日米親善の事に常に御心を尽されることは、今更申すまでも無いが、二・三年来伊豆の下田柿崎の玉泉寺に初めて亜米利加の領事館旗をかゝげたタウンセンドハリス氏の遺跡へ、記念碑建設の事業に御配慮遊ばし居られた。これは一昨々年頃、前米国大使バンクロフト氏から相談を受けられ、元来大人は其遺跡が堙滅しかけて居るのを憂ひて居られたので、喜んで御引受になつたのである。
 一昨年の夏の始頃であつたか、その前年の暮からの重い喘息と気管支カタルの御病気が、まだ御全快とまでは参らぬ頃、御見舞に飛鳥山邸に歌子が参つて居つた時、丁度招かれた清水釘吉氏が参られ、建碑の相談及び実地の場所検分の御依頼が有つたのである。其後大人は健康御恢復なされ、御企ても其緒についたのであらうが、その秋から翌年の春にかけては自分の方にいろいろの取込事が有つて、其後の様子も聞かずに居たところ、昨年の夏米国大使バンクロフト氏の突然の訃音を承り、大使を御悼み申すと共に、建碑の事も気遣はれた。然るに今年一月頃、故主人の墓碑建設に付ての用事で深川の清水組の石工場に行つたら、大きな御影石の石碑に欧文の彫刻が出来上つて居るものがあり、これが伊豆の玉泉寺に建てらるべき記念碑で、裏面の碑文は渋沢子爵が目下御考案中であると聞いた。
 故穂積の在世中には、大人は御文章を御作りになると、必ず穂積に
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示して御相談なされた。穂積は随分斟酌なしに評を申上る事も有つたが、穂積ならば大人の云はふと思し召される所を存じ上げて居る故に其評が適切であると見え、御採用になる事が多い様で有つた。今度なども、穂積が居たならと思召すであらうと考へられて、涙が催ほされた。今年七月二十八日親戚の会合の時、彼の碑文は漸く推敲を終り、略決定したと仰せられ、草稿を阪谷君等に示された、御文章が出来上つてよかつたと思ふにつけ、此酷暑の折に千字以上のものを御揮毫遊すは容易な事ではないと御気遣ひ申上げた。
 越えて八月五日御機嫌伺ひに参つた時、ハリス氏の碑文は伊香保へ御転地の上で御書きになるのですかと伺ふたら、ナニもう一両日前に書いたよと仰せられたのでまづ驚き、幾日位御かゝりになりましたかと再び伺へば、半日位はかゝつたと雑作なげにお答へになる。さぞマア御疲れ遊ばした事でせうと御同情申上ると、大分足が痛くなつたがもう癒つたよとの仰せ、大人は一体暑さには御強い方とは申しながら暑い時は葉書一枚かくのも憶劫に思はれ、よんどころなく手紙の一本もしたためると大汗になる自分に引くらべて、米寿の御高齢にさても大した御精力よと、今更乍ら感じ入つた。折々に伺ふ処によると、建碑の費用には、前米国大使バンクロフト氏の甥なるピアス氏とニューヨーク《(シカゴ)》のウルフ氏といふ方の寄附金とが宛てられ、玉泉寺本堂大修繕の費用は日米協会の支出と、有志の方々の寄附金とが用ひられたとのことである。
 建碑除幕式はいよいよ十月一日に定まつた。御自身はもとより誰しも此式に大人の御参列を切望せぬ者は無いが、下田行は天城山を自動車で越えねばならぬ故、一昨々年暮から一昨年春にかけてのあの御病気後始めての大旅行である故、親戚の人々も顧問医の方々も大に気遣ひ申上げた。建碑の用向で増田明六さんは二回も下田へ往復され、道の様子もほゞ分つたが、猶敬三さんの配慮で借自動車では御身体に障る事も有らうから、自家の常用自動車で無ければならぬとて、御自分の車に大人の運転手近藤を同乗させ、先日下田に往復して試みた上、危険は万々ないといふ途中の保険は付いた。さて当日の天気であるがそれは何とも予定不可能の事であるけれども、丁度暑からず寒からずの好季節であり、其日とてまさか大雨大風などいふ事もあるまいとの事で、いよいよ大人下田行は決定になつたのである。九月二十八日の親戚会合の席で、ふとした話から、阪谷君が姉さんもお供して行つたらどうですと申出された、外に婦人の参列は無い様子、ことに大人から云へば娘ではあるが、老婦人のくせに出過ぎた事といふ遠慮が無いではないが、此建碑に就ては当初から自然に種々な関係が有つた事故殊の外興味を以て居るのであるし、奥伊豆の旅行などわざわざ出かける折もあるまい、此度御供が願へれば仕合せな事と思ひ、大人に伺ふと、よいともよいとも同行しようと仰せ下さる、それで歌子も随行ときまつたのである。
 二十九日の終日の雨天に、明三十日から両三日間はどうぞどうぞ御天気であれかしと、一日空模様ばかり気にして居た。三十日は朝から晴模様で段々上天気になる様子、好都合を喜びながら東京駅に赴く。程
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なく大人も御着きになつた。大人は御身体は六十歳前の者より強壮でいらせられるが、御足もとだけは御達者で無いのである。いつも何事でも大人にかなふ事は一つも無いが、歩きつこならばきつと勝つて見せますといふて笑ふことである。それ故常の乗車口では無く外の入口から御這入りになると、荷物運搬車の上に椅子が置いてあり大人はそれに御かけになる、歌子にも其上に乗れと勧められたがまだ少しの見得心はあるので、断つて傍に附いて歩いて行き、エレベーターでホームに昇つた。
 随行は敬三君・林国手・竜門社の岡田さん・藤井看護婦・歌子、及び歌子の女中一人とで、九月三十日午前九時三十分発の特急列車に乗込んだ、増田・小畑の両氏は前日に先発されたよしである。
 東京駅の入口で御木本氏に出会ふた。大阪へ行き両三日して帰郷するとのこと、例の穂積の遺物のステツキを袋に入れて自身携帯して居られたが、後に大人の車室に来られ、此通りいつも穂積さんと同行して居ります、先頃の洋行中も此杖の力でころぶことを免かれたのですそして所々で御木本に頭を下るはいやであるが、其杖には御辞儀せぬ訳にいかぬといふて、やつぱり私に御じぎをして呉れた人が大勢ありました、などと例の調子の大きな声で車室内を賑はされた。国府津からの車窓外の景色はさすがにめづらしく思はれた。半ば色づいた田の面にうらゝかな秋の明るい日かげが照り渡り、早川の川筋も夏よりも目にたつ。見はるかす海原は春の様に霞んで居る。先年中毎夏静浦に行つた頃は、箱根山中の景色も見あきして、後にはこれでやつとトンネルを四つ過ぎたとか、六つ通つたとかを数へるだけになつて、興味がなくなつたのであつたが、久しぶりで見ればなつかしい。近年でも宇和島行、京坂行で度々往復したのであるが、此辺は大抵夜行であつた。其中大正九年の春の末、宇和島からの帰りの時、此山中の谷川の崖に山吹が咲き乱れて居り、車窓からあかずながめた其美しさは、今に目にのこつて居る。此度はまた山の錦の下染めも出来ずところどころの下かげに蔦や櫨の葉が赤くちらちら見えるのみで、野菊もまだ盛りにならぬから谷川の秋を彩る景物が至つてとぼしい。もとの佐野今の駿河駅辺からの富士山の眺望は絶景といふてもよい程であるが、今日は惜しいこと富士は雲につつまれて居つた。
 食堂車へ御供して談笑の中に昼食がすみ、暫くすると思ふたより早く沼津に着いたのは零時三十分であつた。
 此駅の前には今日早朝に出発した飛鳥山邸の自動車と、荒山・近藤の両運転手、綱町邸の車と足立運転手が御待ちして居り、大人始め一行各々直ぐに自動車上の人となつた。敬三君、林・岡田の両氏は軽い車で先に立ち、大人の御車には歌子と藤井看護婦と女中のゑんが陪乗して沼津の町を静浦の方へ走る。大人には此辺をよく御存じないと仰せらるゝ故、あの辺が千本松原、これが狩野川、御幸橋、橋詰の鈴木といふ家の蒲焼はことの外おいしう御座いますなど御話申上げた。自分には八・九年ぶりの駿河湾の海岸の景色は誠になつかしい。葉山辺に比して松は大きく緑の色が美しく、そして岩の質が良い故磯も小島も立派である。あれが牛臥、これが桃郷の御用邸、此家は保養館とて
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先年中までは長年の間毎夏ごとに、穂積と共に宅の子女たち、希一君敬三君等と共に参つて滞留して居た宿で、主婦の石川今尾老女は八十六歳になりますが未だ元気で、此館の経営主任を致して居ります、歌子は帰途には一寸立寄つて見度存じますなど御話申上る中、久々で見た瓜島もあとになつた。馬込から布島辺までは道路取拡げの工事中でことの外道がわるい、静浦から江の浦かけて此頃鰯の大漁が有つたと見え、どこもかしこも鰯の煮干しがひろげてあり、其中に通路だけがあけてある。先年の春静浦に滞在中にも斯様な大漁があつて、鷲津山の山寄りの畑にまで鰯が干してあつたのを見て
   魚干さぬくまとてもなし野に畑に
      おきあまりぬる海の幸かな
などいふた時の事を思ひだした。夏季に此有様で浜一ぱいに鰯がひろげられたら、潮浴の客には非常な迷惑であるが、夏中は此様な大漁はまづ無いといふはよくしたものである。伊豆石を切り出したあとが洋画に見る古城の廃墟の様な潮崩れのトンネルを幾つも過ぎ、眼下に見ゆる淡島に別れて三津といふ所の高地を越えると伊豆の田方郡の原野である、車は畑中田中の道をまつしぐらに走りに走るので、一両度通行したことのある自分にもあすこが、長岡温泉・江川の反射炉、かしこが韮山・蛭が小島の辺などたしかに指して御話申上ることは出来なんだ。沼津から一時間半たらずで修善寺の新井旅館に着いた。明治二十年の夏重遠・律之助等が五歳と四歳の時、元箱根に避暑して居つて同所から当地に来たことがあるが、箱根で三島からの道も俥は危険であるといふ駕籠屋の言葉を信じ過ぎ、通し駕籠で一日がかり、夜に入つてやつと着いたことが有る、今思ふてもばかばかしい次第である。
 新井旅館は庭中皆池といふよりも、池の上に家が建てゝあるといふが適切である。先日の休暇続きの時石黒夫妻が子供たちを連れて、この家に一泊した、子女たちには此池の中に居る鯉に殊の外興が深かつたと見え同所からの絵葉書で池には三尺以上の変り鯉が居ります、お祖母さんもぜひ一度御覧に御出なされなど申越したが、存外早速に来て見る機会を得たのは嬉しい。末子の光三などは御祖母さん新井へ御泊りなら、雪とか菊とかの何番の室になさいましなど、自身の宿泊して気に入つた室が最上のものと思ふて態々電話をかけてよこした、ところが此お祖母さんは物覚えが悪く部屋の符号を失念してしまふた、取調べて貰ふて見にゆく程の熱心もなく、其室を見落したは光三に対して済まぬ気がする。後に問合せて見れば多分荒山・近藤等の室に宛られたものゝ中でもあらうかと思はれる。目下はこの新井にも滞在客が至つて少なく閑静である。大人一行の為に数多くの室が用意してあつた。大人は例の御足もとの都合で階下の室が好からうとて、一旦御着席になつては見たが、一方は壁で仕切つた八畳に六畳位の室では何分大人には不似合で納りかねて且つ不便である、御入浴の時の外階段昇降の必要は無いのであるからと楼上に移つて頂いた、この室は広く且つ相応立派で、床には横山大観の大幅が掛けてあり、同家でも大人の居室にとて準備して置いたものと見える。今日の日程はこれで終つたのであり、臨時の来訪者とても無い故、大人には珍らしい閑散なこ
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とで、御心も御くつろぎ遊した様である。階上の椽側から池の鯉に麩をやつて御いでの有様は、絵に写しておいて子孫にも見せ度いと思ふた。然し只ぼんやりと時を空費遊すことは出来ぬ御性質とて、下田の村松春水といふ人から贈られた下田案内といふ小冊子を御精読になり鉛筆で書入れなど遊して居らるゝ。自分は林先生とゑんを同道、宿の男の案内で見物に出かける。
 当地は自分が四十年前に来た時とは此較にもならず、十年前に来た時よりも戸数が増加して大層発展したのであらうが、桂川を中に挟んで両岸に旅館が建つて居る大体の景色は、昔と同様で変りが目に立たぬ。前からで有るが御寺も虎蹊橋も町中に有る故幽邃な趣などは少しもない。廬山の下の渓谷に似て居るとて此名がつけられたと云ふが、此雅致のない橋では五柳先生等の三人も嘸苦笑することであらう。川中の岩上から涌出する独鈷の湯はめづらしいものではあるが、前々から共同浴場になつてゐて、屋根も板囲いも穢苦しく、却て風致を損ふのは惜しいことである。
 修善寺の境内は地形上鎌倉時代の昔とてもさのみ広くは無かつた事と思はれる。範頼や頼家が幽閉の時分、其家来たちや警護の武士なども嘸窮屈な所に居つたので有う。但し鎌倉の幕府の遺跡とてあの様に狭いのであるから、あの時代のものは何もかも実に小規模であつたのであらう。頼家の墓の辺へは益々旅館の建物が接近して来て、其かみを偲ぶべくあまりにごみごみして居る。こゝへあとから二十歳あまりの二人の若い男が来た。いづれも宿の貸浴衣を着て居るから服装で其身分を推察することは出来ぬが、多分商家向きの人々であらう。一人が頼家つて何だいと云ふと、今一人が大将軍と書いて有るから将軍だらうと答へた。マアあの年頃で頼家が何であるかをも知らぬとは低能か非常識かと一寸は思ふた。然し考へて見ると国語の外に外国語、欧米の地理・歴史を始め夫々専門の諸科学等、現代の若い人は知らねばならぬことがあまり多くある為、小学や中学で学んだ事を忘れてしまふ者も有るのである。若い人に楠正成を知らぬ者があると聞いてあまり情ないことゝ慨歎したことが有つたが、其人々とて必しも乱臣賊子といふ訳では無からう。忠臣義士の事蹟を熟知しながら悪業をなす者は古今来許多である。一方自分等などは外国の地名人名が何分にも記憶が出来ぬ、又新しい事は聞いて感心した事柄でも直ぐに忘れてしまふ。外国の英雄・豪傑・学者・画家・音楽家等、誰も知つて居るべき有名な人の名を開いて、夫は何ですかといふたら、よい年をしてあんまり物知らずと若い人は笑ふであらう。誰しも自分がよく知つて居る事を知らぬ人があると直ちに莫迦か低能の様に思ふものであるが、左様とのみは云はれぬ、これは互ひによく考へて見ねはならぬ事であらう。然し日本人としては日本歴史の大筋だけは誰でも知つて居て貰ひたく思ふ。
 範頼の墓は今でも少しは人家に遠く静かな所である。範頼最後の有様は史実よりも、馬琴の朝比奈巡島記に有る小説の方が哀れが深く、ほんとに有つた事の様に思はれてならぬ。
 明治二十年に此地に来た時は、浅羽旅館に滞在して居つた。前に云
 - 第38巻 p.348 -ページ画像 
ふた様に交通の便が悪い代りに鮎が沢山で且廉価なことは、今では想像も出来ぬ程であつた。塩焼・天ぷら・煮付と毎日の鮎責めで、しまいには魚田が出たら、律之助が昧噌鮎なんぞいやと云ふたので皆が笑ふたことが有つた。一日此桂川の支流で鵜飼をさせて見に行つた。渓流の鵜飼は舟では無い。二羽の鵜の縄を鵜使ひが片手に持つて、流れを逆のぼつて歩きながら、魚を取らせるのである。女子供は岸伝ひに見てあるいたが、主人はヅボンの裾を膝までまくり上げて共に谷川に降り立つて見てあるかれた。二羽の鵜が魚を取るのゝ早いこと、遣ふ人が籠の中に吐かせる手もとが忙しい程であつて、二時間ばかりの中に中位な竹籠三つ四つにあまる程取れた。鵜どもを陸へ上げて後鵜飼が、どうぞ鮎を二・三疋づつ鳥に頂かせて下さいといふ、サアサア何十尾でも慰労の為に食べさせて下さいといふと、イエイエ沢山食べさせてはよく無いのでありますとて、中位のを三つ宛投げてやると、鵜はがつがつと大きく啄を開き一度に文字通り鵜呑みにして仕舞ふた。只これ丈けの食を得るために、前日から腹を干して置かれ、各々百疋以上の魚を呑んだり吐いたりしたのは随分気の毒なことである。此所のは篝火の光に鵜縄をさばく石和川などの幽寂な趣はないが、鵜飼は罪の深いなりわひであるといふのは成程と分つた。其沢山な鮎を皆旅宿へ持ち帰つても仕方が無いとて、過半は鵜飼の男と休息した茶屋に分けてやつた。此土地の者でも若い人はそれ程鮎が多かつたといふことは知らぬであらう。十年程前に静浦から二・三泊かけに来た時は菊屋であつたが、宿の都合上最上の室に泊らせられた。楼上から緑陰越しに桂川の渓流を見をおろして、籐椅子によつて居た時の涼味は又格別であつた。
 今日はなかなか暑いので宿に帰つたら襯衣がしめる程汗になつて居た、当館には雪の湯とか菖蒲の湯とかいろいろな名湯が有るといふ。
そして今は滞在客が少ない故どの湯でも好み次第である。菖蒲の湯は頼政の室のあやめの前が、其幽居禅長寺からしばしば浴みに来たものであるといふ、源三位がひきぞわづらつた時とは違つて、こゝに浴みした頃は六日はとくに過ぎた菖蒲で有つたらうけれど、左様な美人の聯想があつては気恥しいからとて外の浴室に行つた。実の所は新設の浴室が広く明るく気持がよいと聞いて、其方にしたのである。此浴室へは地下道を抜けて行くのであつて、新あやめ湯と名付られて居る。天然の岩石を其ままぬりこめて泉水の様に湯ぶねを作り、湯ぶねの中に深浅があり大石もある、子供たちには興のあるべき構造である、庭には幾筋もの滝が落ちて居るから、夏は涼しいことであらうが、今は少し肌寒いから硝子戸をしめて貰ふた。此湯は滾々と涌き出して居て濁り気が無く快い。久々で温泉に浴し、しかも心ゆくまで長湯をして陶然とでもいひたい心持になる。
   清らなる湯にひたり居れば我身さへ
      とけてゆけたを流れ出てんとす
などと、少し新しがつては見たが、温泉にとけると云ふのは玉をあざむくにぎ肌でなくてはいけぬといふて、若い人が笑ふかも知れぬ。
 夕食の時には大人・歌子・敬三さん・林先生・岡田さんの五人一卓
 - 第38巻 p.349 -ページ画像 
を囲んで、四方山の話がはづんだ。敬三さんは昨年の夏から碁を始められ、縦であるか横であるかは知らぬが、なかなかお好きである。先刻も階下の室で近藤を相手に打つてであつたが、食事が済むと碁盤を取りよせ、岡田さんを敵手にして御前仕合をはじめられた。大人は前方は中々御強く、深川邸の時分には村瀬秀甫・水谷縫次・石井千次など、其頃の名人上手の人々を招いて、折々囲碁の会が催ほされた。うちうちでは尾高の幸五郎叔父さんを除いては、御敵手になる者は無いので御自身は余り御打ちにならぬが、人の勝負を御覧になるが御好きで、そして助言をなさるのが大御好きであつた。或時書生中の誰々で有つたか、同じ笊碁ながら段違ひで甲は乙に井目置いて打つて居つたが、夫でも甲の方の形勢が悪くなつたのを御覧なされ、おろさうとする石を、チヨイト御見せ、といふて御留めになつて、其所は続かねばならぬとか、さう来たらそこは切るがよいとか盛んに助言を遊ばし、終に甲に勝を得させられた。乙はしよげた顔付で、これでは丸で殿様に井目置かせて打つたのですもの、負けるのが当然ですと云ふたので傍で見て居た人々も共に吹出して笑ふたことが有つた。今夜も折々少しづつ助言遊ばすので、そんなことも思ひ出した。敬三さんが伯母さんと一石と云はるゝ。私はこれでも其昔、今の喜多夫人、当時の林文子に定石を習ふたのである。然し、碁にかけては低能と見えて、一向に其甲斐が無く、笊碁の方が却て面白い、などと負惜しみを云ふて、主人の相手をしてよくめくら仕合ひをしたことである。主人は歌子の碁は終始守る一方で少しも戦はず、山をかけて見てもちつともかゝらぬから、至つて面白く無いと云はれたが、外に相手が無い故に毎夜二三石づつは打つたのである。自分ながらこんなに保守一方で少しも発展が出来ず、大石が殺されることは無いかはり、どの石も萎縮して終に負けてしまふ、碁も己の性質によく似るもの、成程これでは面白くも何とも無いと思ふたのである。然し敬三さんとは一石打つて見たいが、何しろ二・三十年盤に向ふたことが無いのであるから一寸手が出せぬ。其中林先生は先刻買ふて来られた木地の丸盆に大人の揮毫を願はれたら、直ぐに詩を御書き遊ばした、歌子にもぜひと云はれるので外の一枚に
   桂川せき入れし水の池とのに
      心を洗ふこの旅ねかな
と書いたが、歌は月並、文字はかな釘で、至つて御恥かしい、当館の主婦がどうぞ渋沢子爵の御書が頂きたいと申す。直ぐに御気は向かぬ御様子であつたが、斯様な旅館のならひで、宿泊の名士には、必ず筆跡を頂いて居るのに、渋沢子爵の御宿をしながら御書を願はぬことがあるかと、あとで必ず主人が叱るであらうと思ひ、主婦に同情して、一枚書いて御遣しになりませんかと申上ると、それでは書かうと仰せらるゝ。すると次の間に揃へて有つた筆硯絖毛氈等がすぐはこぼれる雑作も無く大字の横額を一枚御揮毫遊した。主婦は喜ぶまいことか主人が帰宅致したら、嘸々褒めらるゝことでありませうと繰返し御礼を申上げた。其の中夜も更けたのではや御寝になるが宜しからうとて、皆銘々の室に退いた。歌子も隣りの自分の部屋にかへり直ぐ床に就い
 - 第38巻 p.350 -ページ画像 
た。常に寝付きのわるい上に寝所が変ると猶眠り兼る例の癖に引かへ庭の遣水のかすかな音を夜の女神のさゝやきかと聞いて居る中に、いつしか夢路に入つた。


(渋沢敬三) 電報 増田明六宛昭和二年九月三〇日(DK380039k-0003)
第38巻 p.350 ページ画像

(渋沢敬三) 電報 増田明六宛昭和二年九月三〇日 (渋沢子爵家所蔵)
 (別筆)
  二、拾、一入手

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 カキサキ        (2・9・30  アワキユー       静岡下田局消印)   リヨカン」      [img 図]〓  マスダメイロク 



アスセウゴ キチチヤクノヨテイシシヤクオゲ ンキアンシンアレケイ三
  (昭和二年九月三十日午後六時三十分伊豆修善寺局発信。)
  ○増田明六ハ渋沢同族会社理事。大正九年先任者八十島親徳歿後、渋沢事務所ノ主任者トナル。昭和四年七月二日歿ス。



〔参考〕竜門雑誌 第四六九号・第六一―六二頁昭和二年一〇月 伊豆縦断句抄 青淵先生に随行 青南生(DK380039k-0004)
第38巻 p.350-351 ページ画像

竜門雑誌 第四六九号・第六一―六二頁昭和二年一〇月
    伊豆縦断句抄
      青淵先生に随行
                      青南生
        ○
 「霽れてあれ」と祈つた甲斐があつて、連日の雨に濡れた雑草の上には朝の陽がきらめきながらさして居る。―(九月三十日早朝)―
        ○
 青淵先生日和、と一人微笑を禁じ得られず、午前九時と云ふに東京駅へ馳せつける。もう穂積の大奥様は見えて居た。やがて時刻が進んでプラツトホームへ出で、大急ぎで列車の方へ行つて居ると「青君青君」と呼ぶ声がする、敬三様だ「今青淵先生はエレベーターに乗られた」とのこと、程なく押車の上に、先生の温顔が近づき、特別急行車に乗られる、そこへ林国手の顔も見え、いよいよ一行が揃ふ。また事務所の人々其他見送りの方々もあり、何れも其の日の霽れと同じやうに晴やかな顔付である。青淵先生が窓に寄られると、新聞社の写真班がマグネシウムをポンポンとやる。――九時半列車は動き出した。
        ○
      汽車中所見
   藁屋根の草揃ひ居り秋晴るゝ
   一望の田面区分《たづら》す曼珠沙華
   切通し秋草の繁りしたしけれ
   窓に近く箱根のもすそ秋広し
   峰はかげり麓は陽ざす秋日かな
 零時四十分沼津着、直ちに東京より差廻しの自動車にて修善寺へ向ふ。景色がよいからとて、静浦から江の浦の海岸を経、韮山を左手に眺めながら馳駆する、爽快云はん方なし。やがて下田街道から右折す
 - 第38巻 p.351 -ページ画像 
れは桂川の水声が耳に近づく。
      静浦に入る
   町行くに潮の香ぞする秋日和
      江の浦
   干魚の並ぶ白さや秋の蝿
   道に向き髪すく女あり秋晴るゝ
      途上
   秋晴や韮山あたり長煙
      修善寺に到る
   水音も温泉の地なり秋の昼暑し
        ○
 修善寺着温泉宿新井に入る、すぐ湯に浸り、池の大鯉に戯る。夜に入り青淵先生のお室にていろいろのお話を聞き、又碁を囲む。
   岩湯槽《ゆぶね》の滑かさ秋の斜陽かな
   頭より高く流るゝ秋の水
   大鯉の群れ濁らする秋の水
      三十日夜
   大人《たいにん》のお話を聞きに借着かな
   碁の石にふと秋の冷へ触れにけり
○下略
  ○青南生ハ岡田純夫ノ筆名、大正十三年ヨリ昭和七年マデ「竜門雑誌」ノ編集ヲ担当ス。