デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
14款 中華民国前革命軍総司令蒋介石招待
■綱文

第39巻 p.27-39(DK390005k) ページ画像

昭和2年10月26日(1927年)

是ヨリ先、中華民国前国民革命軍総司令蒋介石、下野来日シ、是日、飛鳥山邸ニ栄一ヲ訪フ。十一月四日栄一、蒋介石ヲ東京銀行倶楽部ニ招キテ午餐会ヲ開キ、懇談ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四七〇号・第一〇四―一〇八頁昭和二年一一月 蒋介石氏来訪(DK390005k-0001)
第39巻 p.27-30 ページ画像

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中外商業新報 第一四九七五号昭和二年一〇月二七日 蒋介石氏渋沢子を訪ふ(DK390005k-0002)
第39巻 p.30 ページ画像

中外商業新報 第一四九七五号昭和二年一〇月二七日
    蒋介石氏渋沢子を訪ふ
上京中の蒋介石氏は廿六日午前十時、張秘書を随へ飛鳥山の邸に渋沢子を訪問、先着の白岩竜平氏も加はり、子爵と卓を囲んで故孫文氏の追憶談、その他支那時局に関し種々座談的に意見を交換したが、子爵は特に支那の経済的発展が最も焦眉の急なるを説き、蒋氏はこれに対し国民革命の完成が必要なる旨を述べ、同十一時辞去した。


招客書類(二) 【昭和二年十一月四日午前十一時於銀行クラブ 蒋介石氏ト御会食会】(DK390005k-0003)
第39巻 p.30 ページ画像

招客書類(二)              (渋沢子爵家所蔵)
  昭和二年十一月四日午前十一時於銀行クラブ
   蒋介石氏ト御会食会
                   (太丸ハ朱書)
                    ○蒋介石
                    ○張群
                    ○児玉謙次
                    ○白岩竜平
                    ○油谷恭一
                    ○添田寿一
                    ○主人
                    ○岡田純夫
              以上六人出席
 一、料理 洋食、水物申付済 酒ナシ
 一、室ハ二階貴賓室、食堂次ノ控室ノ予定


支那人往復(二)(DK390005k-0004)
第39巻 p.30-35 ページ画像

支那人往復(二)            (渋沢子爵家所蔵)
    蒋介石氏招待午餐会
   蒋介石氏から今一度懇談したいと申し出たので、子爵は十一月四日正午銀行倶楽部に氏を招待せられた。蒋氏は前回会見の際に帯同した張群氏と共に出席し、尚ほ日華実業協会関係者たる児玉謙次氏・白岩竜平氏並に油谷主事、又添田寿一氏も共に出席して、次の如き要領の忌憚なき意見が交換せられた。
子爵 先日は時が充分でなくて失礼致しました。此処に出席して居られます添田寿一氏は日米問題に就て尽力され、また貴族院議員であります。
蒋氏 今日は御招きを頂きまして感謝致します。添田さんの御尊名はよく承知して居りますが、お目にかゝりますのは初めであります
添田氏 私は子爵の驥尾に附してやつて居るに過ぎません。子爵は明治維新の財政上の仕事を実際におやりになつた方でありますから蒋さんが子爵の御意見を聞かれることは、得る所が少くあるまいと存じます。
白岩氏 渋沢子爵は孫中山先生と、他人に判らぬ深い交りをして居ら
 - 第39巻 p.31 -ページ画像 
れました、故に蒋さんとはまるで親子の如くであると申してよろしい。
蒋氏 子爵が孫先生に対し、真正なる同情を寄せて居て下さいましたことはよく承知致して居りますから、親の如くにさへ感じて居ります。
子爵 私は自分自身によかれと望む前に、日本に、支那に、又世界によいようにと望んで居ります。即ち善事に努めることを人たるの義務であると信じて居る者であります。そして民国に対しては常に強い観念を持つて、其のよい方面へ進むやうにありたいと希つて居るのであります。それは私が自分の主義を孔子の教へに置き民国は日本の師匠の国であるとして居るからであります。然るに最近、所謂新らしい悪学問や悪思想が両国の間にも感染して、貴国では日貨排斥をやる、日本でも又貴国の仕事の妨害をすると云ふ風がありまして、親しくせねばならぬ両者が、事実に於てさうでないのを遺憾と致します。私の見る処に拠ると貴国では政治と経済とが全然離れて居る。速かに之を一つにする必要がありませう。日本では六十年前幕府が倒れ、王政が復古したに就て、明治四年に廃藩置県を行ひました。若しもあれが完全に行はれて居なかつたならば、其後長州・薩州・仙台などお互ひに軋轢したかも知れません。そして一国の政治と経済とを一つにしたから、国内が分裂するようなことがなかつた。貴国は天産に富み、国力もあるのに、国内分裂して政治上の統一がないと共に、経済的の統一を欠き、財政上の基礎が殆どない有様である。こう云へば事情を知らないから其様な議論をすると云はれるかも判らないが、実に中国は天恵に富み地味肥沃、又国民もよく勉強して智識があるのであるから、国内の経済を一つにして国民の福利を増進せしめるやうにせられたいものであります。そしてそれは群雄割拠では出来ません。即ち私が初め孫先生に申上げた経済発展に尽されよとの言葉は其の意味からでありました。
蒋氏 只今のお話はよく拝聴致しました。我々の国民革命は政治的の目的もありますが、経済的に国内を統一する必要があると考へる処に、其の目的の真随があるのであります。又支那の経済が発展することは単に支那の為めばかりでなく、日本否世界の為めでありますから、其の意味からも革命を遂行して、経済の確立を計ります。又日貨排斥に就て、支那の国民は教育がなく日本のことや世界的のことを知りませぬから、教育が進んで日本と支那との利害関係の深い事柄が判つて来ると無くなります。併し又一つには日本の政府が支那の軍閥を援助するから、此勢ひを強めるのでありまして国民は軍閥に対して反感を持つて居るので、それを援けることを中止せしめやうとする為めに、かゝる行動をとるのであります、そして日本の政府と同様に実業家も軍閥を援け、或る種の野心を行はうとして居るだらうと想像して、日貨排斥を行ふのであります。又日貨を排斥すれば自然軍閥を援助しなくなるであらうとも思ふからで、実際は日本が悪いのではなく北方の軍閥が
 - 第39巻 p.32 -ページ画像 
悪いからであります。故に日本政府の方針が根本的に定まり、それが明かになれば国民の誤解は解かれます。云はヾ根本的な軍閥援助を、よせばよいのであります。私は考へます。支那の新らしい智識のある者は世界の大勢に通じて居りますが、斯様な者こそ其の政権を握るので、それは又日本と共に立つと云ふことのよく判つた者でなくてはならぬと思ひます。決して頭脳のない者には支那の統一は出来ない。のみならずそれは日本の為めにならないのであります。然るに此事を日本の政府は考へぬ。どうか此点はよく考へて欲しいのでありまして、革命に奔走して居る智識のある者と共に、東亜の為め事を計つてやると云ふお考へになつて頂きたいのであります。現在の如く、智識はなくても力のある者、金のある者を援助するやうでは、何時まで経つても支那の統一は出来ません、日本は統一出来る者を、援助する必要があるのであります。
添田氏 日本の今日ある原因は、明治の初年封建制度を撤廃したことにあり、それが為め平和を齎し、次で財政の統一から国勢の基礎を固めました。そして経済も勢ひ発達して参つたのでありますが渋沢子爵は実に此の明治の維新の大業に実際参加し、親しく手を下された人であります。故に其の実験談を御聞きになることは非常な御参考になることゝ思ひます。又日本の国論は単に政府のみではありません。否寧ろ政府の考へと国民全般の考へとは一致しないこともあるかと思はれる。其処で真に日本の国論を知らうとなさるならば渋沢子爵の御意見を聞かれる如くはありません。実に子爵は日本国民の真の代表者なのであります。而も其人は政治にも、政党にも超越して、只管日米問題・日支関係に就て心配されて居るのでありますから、子爵の御考へは即ち日本国民の意見であるとしてよろしいと存じます。
白岩氏 実際其通りでありまして、日本の政府の方針は常に一定するものがないのみならず、内閣が代ると又其の政策にも変化があると云う風でありますが、国民の意見には変化がありません。それは即ち渋沢子爵の御意見であります。
   此間子爵は、明治神宮外苑日本青年館に於ける米国行答礼人形の送別会へ出席せらるゝ為め退席、同時に児玉謙次氏が出席された。
児玉氏 我々は支那の平和と統一とを希望することが久しいのであります。然るに民国となつて以来十六年、此間常に内争が絶へないのを遺憾とします。此状態では今後何年擾乱が続くか判らないではありませんか。貴方などは北方軍閥と頻りに云はれるが、私達から見れば北方のみならず、南方も常に武力を以て立つて居るから、軍閥とは単に北方のみでない、南方もそうだと云ふやうな感じを持ちます。
添田氏 支那の力ある統一を望んで居ますのは日本のみでなく、列国皆然りで、現にシカゴ・トリビユーンと云ふ新聞の支那駐在員は(現在支那にはオネスト・リーダーがないから混乱に混乱を重ね
 - 第39巻 p.33 -ページ画像 
て居る)と云ふ意味のことを通信して居ります。之れが其の切抜であります。
白岩氏 其のオネスト・リーダーは蒋氏であると、私個人としては申し度いのでありまして、北方では到底統一は困難でありませう。然し南方にしても、内紛を続けて居る現状では希望を繋ぐに足りません。従つて蒋さんの努力を望むのであります。
蒋氏 実際支那は之まで安定を欠いて居りました。故に是非とも御言葉のやうに、統一あらしめるべく一時も早く国民革命を遂行したいのであります。それに就ては日本の政府の方針が、従来の如く誤つたものであつては困りますから、根本的な対策を樹てるやう御尽力を願ひます。日本政府の方針が如何に誤つて居るかをお話致しますと、現在力があるからと云ふて、世界の大勢の判らぬ軍閥者流を援助し、之に反し現在は左程力はなくとも、智識あり、大勢に通して居る者に助力を与へないことで、具体的に云へば張作霖を助けることなどはそれであります。此間も出淵さんに其事を話して、東亜政局の為め支那の智識ある者を友人として下さいと希望して置きました。
添田氏 過去の日本政府の方針は間違つて居ましたが、日本国民の輿論は一党一派に偏して居らぬ。偉大なるリーダーの出現を望んで之を後援するのであります。換言すれば支那四億の民を救ひ得る人を日本国民は支持する。私は本年の議会で国民党に希望を持つと述べたこともあります。
児玉氏 たゞ支那の中心が何時でも北京にあるとされて居るから、それと色々のことを外交団は交渉するのです。殊に南方の内紛が続けば、どうにも南方の人と相談することは出来ぬ。私は蒋氏が此の大切な時に米国へなど行くのが判らぬ。悠々閑々として居る時ではありますまい。
蒋氏 要するに民国は現状でも二十年や三十年経ても亡びはせぬ。民国人民と日本とは迷惑を感ずることでしよう。民国と日本の利害は共通でありますから、大いにその点に思ひを致されて、我々の国民革命を成功させるやうにしていたゞき度いと思ふのであります。即ち民国革命の成就は、東亜の平和を将来するからであります。そして平和が来れば門戸開放も出来ます。
添田氏 世界の大局を見ると、汎米聯盟と汎欧聯盟との組織が出来て居るのに、汎亜細亜は尚ほ形さへなさず混沌たる状態であります支那と日本とが相協力して、それ等汎欧・汎米の勢力に対抗するやうにせねばなりません。さうすれば他の侵略に対し自存の道が講ぜられます。どうかさう云ふ考へで革命をもやつて欲しいと存じます。
児玉氏 只今の蒋氏のお話には一寸失望しました。と云ふのは(現状でも支那は二十年や三十年は亡びぬ。但し支那国民と日本とは困るだらう)との御言葉は一国の統一を目論む人の言葉とも思はれないからであります。根本的の考へ方に誤りがあることの、確な証拠であります。換言すれば日本は支那があるから独立して行け
 - 第39巻 p.34 -ページ画像 
て居る。故に支那をこのまゝにして置かずに、何とか勘考せよと云はれるので、其の考は出発点から間違つて居ります。
蒋氏 いや支那が此まゝであることは、日本も苦痛になるから、国民革命を完成せしめるに援助され度いと申すのであります。
白岩氏 私も児玉氏と同様に思ひます。蒋さん達が革命は日本の為めにすると云ふが如き口吻を洩されるのは間違つて居ります。日本は決して支那と運命を共にしません。こう云ふことを申しますと渋沢子爵に叱られますが、極端に云へば支那がどうなつても日本は困らぬ。日本は自ら独立して自国を維持することが出来ます。
添田氏 日支は協力して行かねばなりませんが、支那がどうもならぬ時には、日本は自衛の手段を採ります。たゞ我々は支那の統一を両者が一致して、平和にやるやうに努力する必要があると思ふのであります。
蒋氏 民国が二十年・三十年は亡びぬと申したのは、日本が独立出来るとか出来ぬとか云ふことではありません。日本と民国との関係は密接で、隣国たる中国がひどくなれば、日本も影響を受けずには居らないだらうから、日本はよく其点を考へて我々を援助して頂き度いと申すのであります。
児玉氏 然し窮局になれば国際信義も条約も無視してよいとか、或は今のやうでは日本が困るだらうと云ふ考へを直す必要がありませう。私は物事を露骨に云ふが、それは真情を吐露するからと了解せられたいのであります。
蒋氏 結局私はそれを日本の方々に考へて欲しくて云つたので、御言葉の通り、外国との関係はどうでもよい、国内をそのまゝにして置いてもよいと云ふのではありません。
添田氏 国際信義を無視しては援けやうにも援け方がありません。故に支那は自ら立ち保つ考へにならねばならぬと思ひます。
児玉氏 国民革命は何処までも純で、正道を踏む公明正大なるものであることを必要とします。ではどうしたら国民革命が出来ると御考へになります。
蒋氏 支那は国民革命を遂行することで生き返るのであります。又その考へは東亜の為めであると云ふにあつて初めて成功します。今まで成功しなかつた原因は多々ありませうが、日本の対支根本方針が誤り、而も定つて居なかつたからであります。
白岩氏 日本の援助がなければ国民革命の出来ぬと云ふお話は真理であります。我々は蒋氏が共産党をたゝきつけたことは非常によかつたと思ひます。然るにこのまゝで国民党の方に内紛を続けて居るやうでは、援助のしやうがないのであります。
蒋氏 二十年・三十年支那が亡びぬと云ふたのは例へでありますから余り重く考へられないやうに願ひます。
張氏 蒋さんの申すのは、革命は独立的にやるから、兎に角革命に同情を寄せて欲しいと云ふのであります。
添田氏 理想的の運動であつて、蒋氏がやるならば、我々は大いに援助します。現にラモント氏も先般日本へ来て、支那へも行かうと
 - 第39巻 p.35 -ページ画像 
したが、蒋さんは日本へ来て居るし、他に中心勢力がないからと云ふので中止して帰りました。
蒋氏 今日は時間がないので残念でありますが、之れでお別れ致します。兎に角国民革命は独立してやり得る確信があります。たゞ日本に望むのはそれを妨害せぬことであります。此処に胸襟を開いたお話がお互に出来たことは頗る愉快でありました。



〔参考〕渋沢栄一書翰 控 蒋介石宛昭和六年三月(DK390005k-0005)
第39巻 p.35 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 蒋介石宛昭和六年三月 (渋沢子爵家所蔵)
  (別筆)
  昭和六年三月中華民国総司令蒋介石氏宛総長御手書ノ写
其後ハ御疎情ニ打過候へとも、閣下益々御清適凡百之機務御鞅掌の事と慶賀之至ニ候、回顧すれハ先年民国御統一の中途に於て弊邦御来遊相成、其際拙宅にまて御過訪被下御寛談の機会を得たるは最も愉快なる追憶として今以つて老生之脳裡に保存致居候、統一の御事業に付てハ爾来御経営宜を得て円満に大業を達成せられたるハ挙世称賛を禁し得さる所に御座候、右様の成功談に対して頗る赤面之至に候へとも老生本年は馬齢九十二歳と相成追々老衰致候に付、財界各方面の事業関係より退き余生を教育と社会事業に捧げ居候へとも、年来の宿志たる中華民国と弊邦との親善、殊に経済的相扶提携ニ付てハ今尚其方法に苦心致居候、偶知友古仁所豊氏を介して老生永年之所懐を披瀝するの機会を得たるハ、老生之深く喜悦する所に御座候、古仁所氏は老生旧来之親友にして老生の心事を最もよく了解するものに有之候間、何卒老生に対すると同様の御襟度を以て御接遇被下度候、玆に古仁所氏御紹介旁一書拝呈仕候 敬具
  昭和六年三月
                  子爵 渋沢栄一栄一
    蒋総司令閣下



〔参考〕杜峰丁丑随筆 庄司乙吉著 第九三―一〇〇頁昭和一二年一二月刊(DK390005k-0006)
第39巻 p.35-37 ページ画像

杜峰丁丑随筆 庄司乙吉著 第九三―一〇〇頁昭和一二年一二月刊
    支那より帰りて
                (昭和十二年四月二日、紡績聯合会委員会における報告)
○上略
 蒋介石氏と我々一行との会見は、同日午後四時から約一時間にわたり新生活の本部ともいふべき黄埔路の励志社で行はれた。此の日孔副院長を始め王寵恵・蒋作賓・呉鼎昌・張公権・兪飛鵬の五部長と許大使らも列席し、政府首脳部が殆んど一堂に集まるの観を呈しました。
 会場内にはこれと云ふ特別の装飾とてなく、唯『歓迎日本経済考察団』の横書きの大文字が黒く光つて、その上に梅と桜が描かれてあつた。申す迄もなく梅は支那を、桜は日本を表徴したものである。蒋介石氏は西安事変で怪我をしたと聞いて健康を気遣つて居たが、至つて元気そうに見受けました。
 開会に先ち蒋介石氏は旧知の間柄である児玉君を別室に招いて懇談の後、設けの席に現はれ、外交部、亜州司長高宗武氏の通訳で一場の挨拶を試み、一行と共に故渋沢子爵のために黙祷を捧げ、挨拶が済み
 - 第39巻 p.36 -ページ画像 
てから支那流の御茶で一行の健康を祝した。
 蒋介石氏の歓迎の辞は、特に国民政府から原稿を寄せられたが、原文の儘玆に御披露いたします。
        ×
児玉会長並に皆さん
 本日玆に皆さんを御招待する機会を得ましたことは誠に欣幸に存ずるところであります。皆さんのお出になる消息がこちらに伝へられまするや、我国は朝野を挙つて非常なる熱心さを以て、貴賓の御来臨を首を長くして御待ちして来たものであります。経験豊富にして徳望厚き日本実業界の名流たる皆さんに対しては、我国は朝野を挙げて普通以上の甚大なる御歓迎を致すもので御座います。皆さんは我国各方面に対して、直接間接皆夫々友誼関係を有する故、経済視察団を歓迎すると云ふより、寧ろ長年の友達を歓迎すると云ふ可きである。
 皆さんは明治維新からこの方日本の経済建設に尽瘁して来られた先輩ばかりでありまして、建国即ち創業の困難さに関しましては、皆身を以つて、親して経験して来られまして、深く深く建国過程中に於ける辛酸苦楽を嘗めて来られました方々ばかりで御座います。でありますから今正に建設途上にある我国に対しましては、必ずや非常にして甚大なる御同情を持つて居られることを信じて疑ひません。我が国民党の総理孫中山先生も嘗つて斯様に申して居られまする《(マヽ)》に『中国に国民革命がありまするのは、此は恰も日本に維新運動があるのと同様であります』或は却つて中国の遭遇した所の情況は、御国よりもより困難であると申してよいかも知れません。今中国政府は正に民間の経済界実業界と共に、日本維新建国時代と同様の精神を以て努力し邁進中でありますから、友情的なる相互援助及び先輩の御指導とを希望することも、又特別に深甚なる訳であります。どうか皆さんは、豊富なる御経験によりまして、中国の建設事業及び経済産業の諸般の事項に対して、御遠慮なく十分に御批評下さつて、大いに御教示下さることを希望するものであります。我が中国の実業界は必ずや心から好く之を受け入れまして、皆さんが嘗つて国家に捧げました好き模範を道しるべとし、中日両国をして文化上経済上肩を並べて共に進み、そして東亜の平和及び福利を保障せしめ得るであらうと存じます。
 我々東方人は東方の文化を尊重しなければなりません。此の点皆さんもきつと御同感であらうと信じまするが、東方人は何処までも東方的文化を離れることは出来ないのであります。此は恰も隣国は永遠に隣国であるのと同様に、地理及び歴史はすべて変更すべからざるものであります。若も東方民族にして東方文明に基礎を有しなければ、永遠に其他の民族と対等共存すことは不可能であると思ひます。東方文明の特徴は、仁義と道徳にありまして、東方国家は礼儀を重んずるが故に礼儀の国であると称されてゐます。私も少年時代、日本留学中、既に日本の国民が礼儀を尊重し、そして親切・謙譲の風習を有することを非常に敬意を抱いて居りました。その時既に日本建国の成功は実に此一点にありと認めたものであります。其後志を立てゝ革命に従事したのも、やはり我国固有の精神及び地位を恢復し、そして東方文化
 - 第39巻 p.37 -ページ画像 
を発揚すべく努力せんがためでありました。今尚記憶して居りますが私が昭和三年《(二)》、日本に滞在中、御国の実業界の重鎮でありました故渋沢子爵に会見したことがあります。其時子爵は自ら特別に註釈せられた論語を一部自分に贈つて呉れまして、そして特に其の中から「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」との一句を引用致されまして、私に申しまするに、自分は此の一句を一生の処世訓として時々刻々心に堅く記憶して居ります。そして常に此を日本の青年に示して来ました。此こそ我々東方精神の特徴であると説き、そして非常に親切に東方文化発揚の為めに、お互に努力する様希望すると語られました。
 今渋沢子爵は既に故人になられました。私は此を非常に残念に思つて居ります。然し彼の申された御言葉は私に非常なる感銘と記憶とを留めて居りまして、今に至るまで忘れることが出来ません。本日実業界の先輩たる皆さんに会ひまして、丁度渋沢子爵に会つたのと同様な気持が致しましたので、玆に又古い話をもう一度繰返へした様な訳であります。今皆さんに御起立を御願ひして、故渋沢子爵に対し黙祷して敬意を表し度いと思ひます。
  (一同起立三分間黙祷)
 本日皆さんを御招待申した訳でありまするけれども、すべてが非常に簡単でありますので、形式上荘重なる儀礼を表示することも、そしてこれと云つて多くの意見を皆さんに提供することも出来ないのを遺憾に思ひますが、然し同じく東方人的御親愛なる感情に基いて、徳望の甚だ高き隣邦実業界の先輩たる皆さんに対しまして、只一言非常に簡単でありまするが贈呈し度いと思ひます。それは即ち「仁親以て宝と為す」と云ふ一句であります。其意義に付いては皆さんも既に御存じのことゝ思ひまするが、蓋し仁と親とは人類の感情を結び、文明の進歩を促がす原動力であると信じて疑ひません。我々東方民族に在つては此が最も重要であります。冀くは中日両国の実業界及び両国々民が皆この「親仁善隣」の点から共同努力することを希望する次第であります。
 終りに臨み謹んで児玉会長並びに皆さんの御健康を祝します。
        ×
これに対し児玉君が立つて、一応の謝辞を述べた後に
 私は論語読みの論語知らずで、いたらぬことばかりではあるが、当時渋沢さんと共に、日華実業協会を創設して、渋沢さんの御考へに基づいて、及ばずながら日支両国の提携調和に努めて来たので、蒋院長の御挨拶はしみじみわれわれの胸を打つものがある。渋沢さんのいはれた論語の言葉は我々も決して忘れないが、蒋院長におかれても、この上とも、日支両国調和の為めに努められたい。
と挨拶して記念すべき茶会を終つたのであります。
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第五八四号・第八―一〇頁昭和一二年五月 日支国交の楔「青淵先生」 蒋介石氏の訪支経済視察団歓迎の挨拶(DK390005k-0007)
第39巻 p.37-39 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。