デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.87-95(DK390032k) ページ画像

大正元年12月6日(1912年)

是ヨリ先、アメリカ合衆国カーネギー平和財団ハ、日米交換講演ノ為、ハミルトン・ダブリュー・メービーヲ日本ニ派遣ス。是日栄一、メービー夫妻及ビ息女ヲ案内シテ、東京蚕業講習所ヲ参観セシメ、次イデ飛鳥山邸ニ午餐会ヲ催ス。此後、各種団体ヲ通ジテ歓待ニ努ム。


■資料

竜門雑誌 第二九五号・第六九―七〇頁大正元年一二月 ○メービー博士招待午餐会(DK390032k-0001)
第39巻 p.87-88 ページ画像

竜門雑誌 第二九五号・第六九―七〇頁大正元年一二月
○メービー博士招待午餐会 青淵先生には日米両国間名士講演交換の為め、米国カーネギー平和協会より我国に派遣せられ、去二日着京したる「ハミルトン・メービー」博士・同令夫人・令嬢を去六日飛鳥山邸に招待して午餐会を催されたり。
当日午前十一時同博士には令夫人・令嬢を伴ひ新渡戸博士と馬車に同乗して西ケ原蚕業講習所に着す、先是先生は堀越善重郎氏と共に同所に在りて之を迎へ、夫れより同所に於ける養蚕・製糸等の状況を案内説明を為したる後、午後零時半飛鳥山邸に案内し、陪賓として招待せられたる左の諸氏に一々紹介を為して午餐の宴に移る、宴半にして先生は簡単に博士来朝の労を謝し、且友人紹介の為めに此小宴を催ふせる旨を挨拶するや、博士は起ちて
 吾々は始め日本人を美術家として又愛国者として知れり、次ぎて勇気ある武士として之を知り、最後には智識に富み勇気ある紳士的事業家として知るに至れり。
 吾々の日本に到着以来、到る処歓待を受け、身の外国に在るを覚えざる程にて、特に本日渋沢男の此の美くしき家庭を開放して歓迎せられたるは別して陳謝する処なり、吾々米人は日本人が東洋及西洋に対して有する友情の厚きを疑はざると共に、日本人に対して非常の尊敬を払ふものなり、吾々の友人が嘗て日本を漫遊し、某学校を参観したる時、其生徒が己れの学校を参看せる外国人あるを知らざる態度にあるを見て大に敬服し、之を友人たる英国人に語りたるに日本人は生れながらにして紳士なれば、仮令如何なる参観人ありとするも、耳語又は凝視する事無しと答へられたりと聞けり、如此日本人は固有の紳士的性質を有するものなれば、之を西洋に及ぼさゞるべからざる天職を有するものなりと思考す。
 - 第39巻 p.88 -ページ画像 
 当地に着以来多数新聞記者等の来訪を受け、日本に対る感想は如何と問はるゝ毎に、余の着後第一の感想は総て事々物々日本的なる事に在りと答ふるを常とせり。
 余の渡来は、新渡戸博士が米国人に教へたるが如く、日本人に教を遺さんが為めにあらず、日本人より教を受け、之を帰国の後米人に伝へんとするにあり。
 物質の余りに発達し居る国民は、人間としての価値下れるを見る、人間の価値上りて物質的のもの其次位たらすんばあらざるなり、而して日本は人間の価値に尤も重きを置くものなる事は、其美術に見て明かなり云々。
と結び、次に博士夫人亦立ちて深く青淵先生・同令夫人の厚意を謝し此の日の愉快なりしを語り、終に臨み「此の演説は自分に取りて初めての事にして恐らく亦最後のものなる可し」と、湧くが如き歓談と共に宴果て後、先生には博士外一同を庭園に導き、茶室にて抹茶を勧め後庭園を散歩して再度室内に入りて新橋芸妓の手踊を観覧し、主客十二分に歓を尽して午後四時半一同辞去せられたり、当日の陪賓諸氏如左。
 高橋是清男・近藤廉平男・阪谷芳郎男・添田寿一氏・大倉喜八郎氏・早川千吉郎氏・浅野総一郎氏・大橋新太郎氏・新渡戸稲造氏・同令夫人・姉崎正治氏・埴原正直氏・鎌田栄吉氏・高田早苗氏・福井菊三郎氏・同令夫人・小野英二郎氏・頭本元貞氏・堀越善重郎氏・同令夫人。
○中略
○メービー博士東京市養育院及女子大学校参観 青淵先生には新渡戸博士と共に、去る十四日午前十時半メービー博士を東京市養育院に案内して、内院事業を一覧に供し、夫れより日本女子大学校に同伴し、同校を参観し且生徒の手に成れる午餐を饗したる後、同博士に一場の講話を請ひたる由。
   ○「中外商業新報」第九五五九号(大正元年十二月六日)ニ右渋沢邸ニ於ケル招待会ノ記事アリ。略ス。


東京市養育院月報 第一四二号・第一一頁大正元年一二月 メービー博士の来観(DK390032k-0002)
第39巻 p.88 ページ画像

東京市養育院月報 第一四二号・第一一頁大正元年一二月
○メービー博士の来観 十二月十四日午前十時、メービー博士は渋沢院長並に新渡戸博士同伴にて来訪あり、本院及巣鴨分院を巡観して同十二時三十分退出せられたり。


渋沢栄一 日記 大正二年(DK390032k-0003)
第39巻 p.88-89 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年 (渋沢子爵家所蔵)
一月九日 曇 寒
午前七時半起床半身浴ヲ為ス、八時銀行集会所書記長久万俊泰氏来リ○栄一大磯ニ在リメビー博士ヲ本月十七日ヲ以テ銀行倶楽部晩飧会ニ招待シ、同時ニ集会所楼上ニ於テ其講演ヲ聴問スルニ付、開宴其他ノ手続ヲ協議ス○下略
   ○中略。
一月十六日 雨 寒
○上略 午後七時、三田桂公爵邸ニ抵リ米人メビー博士招宴ニ出席ス○下略
 - 第39巻 p.89 -ページ画像 
   ○中略。
二月七日 晴 寒
○上略 午後四時半華族会館ニ抵リ、米国人メビー博士招待ノ手続ヲ打合ハス、五時同氏ノ講演会ヲ開キ、一場ノ挨拶ヲ演フ、午後六時過講演畢リテ銀行倶楽部晩飧会ヲ開ク、会員八十有余名、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、メビー博士ヨリモ謝詞アリ、賓主歓ヲ尽シ夜十時散会ス
   ○中略。
二月十一日 晴 寒
○上略 午後八時帝国劇場ニ抵リ、米人メヒー氏観劇《(ヲ脱カ)》ニ誘引ス、新渡戸・宮岡○恒次郎二氏夫妻・小野氏○英二郎来会ス、夜十一時帰宿ス○下略
二月十二日 晴 寒
○上略 零時半早稲田大隈伯邸ニ抵リ、米人メヒー氏招宴ノ午飧会ニ出席ス○下略
   ○中略。
二月十七日 晴 寒
○上略午前十時帝国ホテルニ抵リ○中略又米人メヒー氏ヲ訪問シ近日関西旅行ノ慰問ヲ為ス○下略
   ○中略。
二月十九日 小雨 寒
○上略十二時半麻布今井町三井男爵邸ニ抵リ、メビー氏招宴ノ午飧会ニ出席ス、設備割烹善美ヲ尽ス○中略
三井邸ニ於テメビー氏南満行ニ関シテ、新渡戸氏同行ノ件及其旅費等ノ事ヲ小野・福井二氏ト協議ス


竜門雑誌 第二九七号・第七一―七二頁大正二年二月 ○メービー博士招待会(DK390032k-0004)
第39巻 p.89-90 ページ画像

竜門雑誌 第二九七号・第七一―七二頁大正二年二月
○メービー博士招待会 銀行倶楽部にては去二月七日午後四時半、目下滞京中なるメービー博士を華族会館に招待して講演を請ひ、且晩餐会を催ふしたり、先づ博士は青淵先生の紹介にて演壇に立ち、謹厳の態度にて徐ろに口を開きて曰く、産業上銀行家程能力・智識・才能を要するものなきに、此等銀行家諸君と会合するは実に全国実業家に会するの感あり、余の光栄之に過ぎずとの冒頭を置き、進んで経済上の発達は幾多の変遷を経て今や世界共通的となり、為めに世界の平和に至大の貢献を為せるが、就中銀行家が戦争の防止に甚大の力を有するはバルカン戦乱の之を証明する所なりと述べ、更に米国当面の問題たる関税改革及トラスト征伐に論述して曰く
 米国の関税は其始め収入主義にて課せられたるも、其後民主共和の両党対立するに至るや、共和党は之を保護関税主義に改むるに至れり、蓋し保護政策が大に産業を発達せしめたるは疑を容れざるも、同時に実業と政治に不正の聯結を促がしたるは之を否定すべからず斯る弊害は前大統領タフト氏に依りて之を除かんことを企てられたるも、未だ国民の希望を満足するに至らずして、関税改正問題は目下米国の輿論となり居れり、従つて今後関税の低減は漸次其歩を進むることゝならんも、低減せらるゝは羊毛其他日常品に過ぎずして奢移品[奢侈品]は其恩典に浴するを得ざるべし、次にトラスト及独占の弊に
 - 第39巻 p.90 -ページ画像 
対する米国の輿論は既に其高点に達せるが、輿論のトラストに反対するは単に製品を騰貴せしむる為めにあらずして、政府の監督を不能ならしむるが為めなり、モルガン及ベーカーの二人は三百二十億弗、即ち七百億の資本を自由に左右するの勢にて、トラストが政府を歯牙に懸けざるは怪むに足らざるなり云々
と演べて大喝采を博せり、斯くて講演後直に晩餐会を開かれ、卓上青淵先生の挨拶及同博士の答辞あり、主客互に歓談し、午後十時散会せりと


銀行通信録 第五五巻第三二九号・第三〇九頁大正二年三月 銀行倶楽部第九十七回晩餐会(DK390032k-0005)
第39巻 p.90 ページ画像

銀行通信録 第五五巻第三二九号・第三〇九頁大正二年三月
    ○銀行倶楽部第九十七回晩餐会
銀行倶楽部にては二月七日午後四時三十分より、華族会館に於てメービー博士の講演会を兼ねて第九十七回会員晩餐会を開きたり、当日は会員以外に於て銀行員の聴講を許し、定刻渋沢委員長の紹介に依り、銀行及関税問題に関する博士の演説あり、終て午後六時より晩餐会に移り、一同歓談を共にし午後九時散会せり


竜門雑誌 第三〇三号・第一一―一七頁大正二年七月[八月] ○メービー博士の衷情 青淵先生(DK390032k-0006)
第39巻 p.90-95 ページ画像

竜門雑誌 第三〇三号・第一一―一七頁大正二年七月[八月]
    ○メービー博士の衷情
                      青淵先生
      文明の老人
 本編は五月廿五日午後一時より、飛鳥山曖依村荘に於て開かれたる本社第四十九回総集会の講演会に於ける、青淵先生の講演なりとす
 春季の総会が仕合せに好天気で、竜門社員諸君の為に甚だ喜ばしい訳であります、今日は高橋博士より時に取つて重要の問題、又田中館博士からは未来の発展に深い興味を持つ学術上のお話を精しく拝聴致して、縦令素人ながらも、稍々要領を伺ひ得たやうに思ひます、社員諸君も定めて御同感であらう、此両君の学理と事実とを詳細に御分解なすつて、吾々に御説明を下された其労を、諸君に代つて謝し上げまするのであります。
 私は何時も此会には一言を述べる例になつて居りますから、今日御断りするのも甚だ遺憾に心得ますので、此壇に登りましたが、三月末に旅行先で工合を悪くした為に、爾来一ケ月ばかり休養して居りまして、其後稍々快方でありますけれども、どうも演説をすることが余程困難でございます、悪くすると逆上する気味があつて、健康の為に宜くないかと思ひます、私の口が無くなりますると、筆ばかりになるけれども、其筆も近頃は大に鈍つて来ました、段々種々の機関が減損するやうに思ふと、少し心細くなりますけれども、果して全く口を閉ぢて居られるか、是から気候でも好くなつたら、雲雀のやうに少々づつ囀ることが出来るか、どうぞ暫く御猶予を願ひたい、それ故に私の今日のお話は――時間も大分経つて居りますから、余り管々しい事を申さずに、唯諸君と共に此の竜門社の将来を祝して、老も若きも勉強しようと云ふことを告げるに止めようと思ひますが、併し一言申上げたいのは、他国の人が我国民をどう観るかと云ふ問題に付て――今高橋
 - 第39巻 p.91 -ページ画像 
君が加州土地法に関して、法理若くは実際に付てのお講演がありましたが、其亜米利加人が日本を如何に観察して居るかと云ふことである但し是は或一部の狭い範囲ではありますけれども、頃日来の談話を事短かにお話して見ようと思ふ。
 カリフォルニア州の或る地方に於ては日本人を人と見ぬと云ふけれども、押並べてさうとも限らない、先頃交換教授として日本へ参つて居つたメービー博士が、帰国するに臨んで日本の観察を簡単に私に述べられたが、――其事を私は爰に諸君に移して置きたいと思ふのであります、少しく旧聞ではありますけれども、亜米利加人の吾々を観る目は斯様である、此点は斯うもありたい、彼の点は斯く懸念すると極く真率に衷情を述べられて、決して溢美も邪推も無いやうに思ひましたから、其事を話して見ようと思ひます、併し是は来賓諸君にお聴かせする程の話ではございませぬ、只竜門社の諸子のお心得までにと申すのであります。
 元来メービー博士の日本へ来たのは、交換教授と云ひまして、日米間の国交が動もすれば常軌を逸するやうなことがあるから、努めて之を緩和せしめたい、又一方には両国の真相を両国民、若くは両国の学生に明細に知らせたいと云ふ趣意で、最初菊池博士も行つた、又米国からラツトと云ふ博士も来た、一昨年は新渡戸博士が行かれて、其交換にメービー博士が昨年十一月に来られ、半歳余各地に於て講演して当月初旬に東京を出立した、其滞在中に帝国大学を始め、各私立の大学・銀行集会所若くは商業会議所、其他大阪・京都・神戸の各所に於て講演をされて、更に満洲・朝鮮の旅行をして、此月十日に帰国されたと云ふ順序であります、私が特に其世話を致したと云ふのは、此交換教授の取扱ひは、単に民間ばかりで世話するのではありませぬけれども、亜米利加に関係の深い人々が一の団体を組織して、其団体に於て教師の来往を送迎し且つ多少の世話を致すに依て、到着以来始終接触致して種々なる世話を致して居りましたから、博士も私の労を多とした様子であつて、帰国の前に一日特に話したいと云ふて兜町の宅へ参られて、差向ひにて(通訳は勿論這入つて居りましたが)、色々の談話をした、其話の顛末である、博士は朝鮮・満洲の旅行を大変喜んで――最初は此旅行を予期せなんだのであるが、兎角亜米利加人が朝鮮・満洲に付て不満を訴へる、外国人と日本人と特殊の待遇をすると云ふ誤解を持つものですから、故に至公至平の博士の如き人に能く実況を見させた方が宜からうと云ふ考から満洲旅行をも勧めた、それで其旅行を終つて帰つてから、いざ帰国すると云ふ時に特に会見を求めて来られて、彼れの言ふた概要は、第一満韓の旅行は別して自己を利益したやうであるが、全体に於て殆ど半年間各学校又は官辺若くは実業家・学者等の種々なる方面から、款待を受けて温いお世話を戴いたから、其点に付ても感謝に堪へぬけれども、是は先づ普通のことであるからそれが忝ないと云ふて唯謝意を述べるに止めずに、失礼ながら貴下は日本に於ては老人中で特に国を愛し君に忠なる人と深く信じて居る、又今度の私の旅行に付ては、容易ならぬお世話を下すつた人であるから、自分の衷情を忌憚なくお話して置く、或は置土産になるで
 - 第39巻 p.92 -ページ画像 
あらうと思ふ、そこで満韓の旅行に付て、従来米国人のいふ処は、兎角日本人にのみ便利を与へ、欧米人には不親切であると云ふが、それは誤解であると云ふことを、私は十分理解した、満洲に於ける経営には見る目に依つて、多少不公平といふ感触を与へることもあるやうに思ふが、是等は殊に注意ありたい、例へば亜米利加人が頻りに苦情を云ふて居つたから、能く聴いて見ると、其苦情の事実は甚だ乏しい、大豆の買入方が日本人には便利であるけれども、海外の人には不便であるとて、頻りに愚痴を言ふて居つたが、能く聴いて見ると、日本の人は、満洲の大豆を農家に就て買ふ、亜米利加の人は市場に持つて来たのを買ふ、そこで日本人が先に買入れるものだから、亜米利加人の方が苦情をいふ。畢竟日本人の方が勉強なのである、亜米利加人の方が殿様商ひをするから不便を感じて、終に不平を言ふやうになる、決して内外人に依つて取扱に差等のある訳ではない、是等の点に付ては能う外国人に解らせるやうにしたならば、機会均等の主義に背くなど云ふ苦情は追々に消滅して行くであらう、朝鮮に於ては宗教問題に多少の面倒はあるけれども、是も能く質して見ると、強ち宗教家が悉く適当で政治が悪かつたとも言へぬやうである、――此点に付ては私の関係の少ないことであつたから、余り叮嚀の説はなかつた、唯私の朝鮮に対する事業発達に付ては、今日寺内総督の主張する会社令を廃さなければいかぬと云ふことは、メービー氏も同感で、他の事柄に付ては能う運んで居るけれども、自分の眼から見れば実業の発達を企図するならば会社組織を、もう少し寛大にせねばなるまい、其点に付ては渋沢の主張は尤もだと云ふて同情を表された、併し施政の大分は決して宜しきを失つては居らぬ、好い工合にやつて居らるゝと、或はお世辞かも知れぬが、満韓に対しては概して讚辞を呈された。
 それから吾々国民性の全体に付てどう云ふ評語があつたかと云ふとメービー氏の言ふには、私は初めて貴国に来たのだから総てのものが珍らしく感じた、如何にも新進の国と見受け得る所は、上級の人も下層の人も、総て勉強して居ると云ふことは著しく眼に着く、惰けて居る者が甚だ少ない、而して其勉強が、さも希望を持ちつゝ愉快に勉強するやうに見受けられる、希望を持つといふは、何処までも到達せしむると云ふ敢為の気象が尽く備つて居る、殆んど総ての人が喜びを以て、彼岸に達すると云ふ念慮を持つて居られるやうに見受けるのは、更に進むべき資質を持つた国民と申上げて宜からうと思ふ、それらは善い方を賞讚し上げるけれども、唯善いことのみを申して、悪い批評を言はねば、或は諛言を呈する嫌がありますから、極く腹蔵のない所を無遠慮に申すとて、私の接触したのが、官辺とか会社とか、又は学校などであつたから、余計にさう云ふことが眼に着いたのかも知れぬけれども、兎角形式を重んずると云ふ弊があつて、事実よりは形式に重きを置くと云ふことが強く見える、亜米利加は最も形式を構はぬ流儀であるから、其眼から特に際立つて見えるのかも知れぬけれども、少しく形式に拘泥する弊害が強くなつて居りはせぬか、一体の国民性がそれであるとすれば、是れは余程御注意せねばならぬことゝ思ふ、又何処の国でも、同じ説が一般に伝はると云ふ訳にはいかぬ、一人が
 - 第39巻 p.93 -ページ画像 
右と云へば一人は左と云ふ、進歩党があれば保守党がある、政党でも時として相反目するものが生ずるけれども、それが欧羅巴或は亜米利加であれば、余程淡泊で且つ高尚だ、然るに日本のは淡泊でもなければ高尚でもない、悪く申すと甚だ下品で且つ執拗である、何でもない事柄までも極く口穢く言ひ募るやうに見える、是は自分の見た時節の悪かつた為に、政治界に於て、殊にさう云ふ現象が見えたのでありませう、――而して彼は之を解釈して、日本は封建制度が長く継続して小さい藩々まで相反目して、右が強くなれば、左から打倒さうとする左が盛になれば右が攻撃する、之が終に習慣性となつたであらうと、彼はさうまでは言ひませぬけれども、元亀・天正以来の有様が遂に三百諸侯となつたのだから、相凌ぎ相悪むと云ふ弊が兎角に残つて居つて、温和の性質が乏しいのではないか、之が段々長じて行くと、勢ひ党派の軋轢が激しくなりはしないかといふ意味であつた、――私も此の封建制度の余弊と云ふことは或は然らんと思ふ、既に近い例が水戸などが大人物の出た藩でありながら、却て其為に軋轢を生じて衰微した、若し藤田東湖・戸田銀次郎の如き或は会沢恒蔵の如き、又其藩主に烈公の如き偉人が無かつたならば、斯ばかり争もなく衰微もせなんだであらうと論ぜねばならぬから、私はメービー氏の説に大に耳を傾けたのであります、それから又我が国民性の感情の強いと云ふことに付ても、余り讚辞を呈さなかつた、日本人は細事にも忽ちに激する、而して又直ちに忘れる、詰り感情が急激であつて反対に又健忘症である、是は一等国だ大国民だと自慢なさる人柄としては、頗る不適当である、もう少し勘忍の心を持つやうに修養せねば往けますまい、と云ふ意味であつた、更に畏多いことでありますけれども、国体論にまで立入て彼れは其の忠言を進めて、実に日本は聞きしに勝つたる忠君の心の深きことは亜米利加人などには迚も夢想も出来ない、お羨しいことゝ敬服する、斯る国は決して他に看ることは出来ぬでありませう、予てさう思つては居たが、実地を目撃して真に感佩に堪へぬ、さりながら私をして無遠慮に言はしむるならば、此有様を永久に持続するには、将来君権をして成るべく民政に接触せしめぬやうにするのが肝要ではあるまいかと申されました、是等は吾々が其当否を言ふべきことではございませぬ、併し此抽象的の評言は一概に斥くべきものでもなからうと思ひますので、如何にも親切のお言葉は私だけに承つたと斯う答へて置きました、此他にも尚ほ談話の廉々はありましたが最終に其滞在中の優遇を謝して、此半年の間真率に自分の思ふことを述べて各学校で学生若くは其他の人々に親切にせられたことを深く喜ぶ、目下日米の間に面白からぬことのあるのを深く遺憾としますけれども、私が今此処で弁解をした所で、日本人に喜ばれもしますまいし、又それには相当の解決法もあらうと思ひます、私も其解決に付ては屡々本国に電報も打ちました、帰国しましたら亜米利加の人に届くだけの融和を勉めますと云ふて別れたのでございます、是は特に取り立てゝ御話する程のことではありませぬ、亜米利加の学者の一人が、日本を斯く観察したからと云ふて、それが大に我国を益するものでもなからうけれども、前に申す如く公平なる外国人の批評に鑑みて、能くこれに
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注意し、所謂大国民たる襟度を進めて行かねばならぬ、さう云う批評によりて段々に反省して、終に真正なる大国民となる、それと反対に困つた人民だ、斯かる不都合がある、と云ふ批評が重なれば、人が交際せぬ、相手にならぬと云ふことになるかも知れぬ、されば一人の評語がどうでも宜いと云ふては居られぬ、恰も君子の道は妄語せざるより始まると、司馬温公が誡められた如くに、苟めにも無意識に妄語を発するやうになつたならば君子として人に尊敬されるやうにならぬ、して見ると一回の行為が一生の毀誉を為すと同じやうに、一人の感想が一国の名声に関すると考へる、メービー氏の左様に感じて帰国したと云ふことは、些細なことであるけれども、やはり小事と見ぬ方が宜からうと思ふのです、是に付て考へて見ても御互に平素飽迄刻苦精励して今日までに進んだ国運をしてどうぞ弥増拡張させたいと思ふが、それに付て一言したいのは、近頃は青年々々と云つて青年説が大変に多い、青年が大事だ、青年に注意しなければならぬと云ふは私も同意するが、私は自分の位置から言ふと、青年も大事であるけれども老年も亦大切であると思ふ、青年とばかり云ふて老人はどうでも宜いと言ふのは考へ違ではないか、曾て他の会合の時にも申したが、自分は文明の老人たることを希望する、果たして自分が文明の老人か野蛮の老人か世評は如何であるか知らぬが、自分では文明の老人の積りである諸君が見たら或は野蛮の老人かも知れぬ、併し能く考察して見ると、私の青年の時分に比較して、青年の事務に就く年齢が頗る遅いと思ふ例へば朝の日の出方が余程遅くなつて居る、さうして早く老衰して引込むと、其活動の時間が大層少くなつてしまふ、試に一人の学生が三十歳まで学問のために時を費すならば、少くも七十位までは働かねばならぬ、若し五十や五十五で老衰するとすれば、僅に二十年か二十五年しか働く時はない、但し非凡なる人は百年の仕事を十年の間に為るかも知れぬが、多数の人に望むには、さう云ふ例外を以てする訳にはいかない、況や社会の事物が益々複雑して来る場合に於ておや、但し各種の学芸技術が追々進化して来ますから、幸に博士方の新発明で、年取つても一向に衰弱せぬとか、或は若い間にも満足なる智恵を持つといふやうな、馬車よりも自働車、自働車より飛行機で世界を狭くするやうに、人間の活動を今日よりも大いに強めて、生児が直に用立つ人となつて、さうして死ぬまで活動すると云ふ工風が付けば是は何よりである、どうぞ田中館先生などに、其御発明を願ひたいものであります、(笑)夫れまでの間は年寄がやはり十分に働くことを心懸ける外なからうと思ふのです、而して文明の老人たるには、身体は縦令衰弱するとしても、精神が衰弱せぬやうにしたい、精神を弱らせぬやうにするには学問に依る外はない、常に学問を進めて時代に後れぬ人であつたならば、私は何時までも精神に老衰と云ふことはなからうと思ふ、是故に私は肉塊の存在たるは人として甚だ嫌ふのである、身体の世に在る限りはどうぞ精神をも存在せしめたいと思ひます、文明の老人たることは私の平素これを庶幾して居る事ですから、此席には私程の老人は見えぬけれども、さりとて又青年ばかりでもないから、斯う申上げますことが、年取つた人のお為めにもならうかと思ひます、ど
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うぞ唯青年々々とばかり言ふて老人はどうでも宜いと、言つて戴きたくないと思ひます。(拍手)


日米外交史 川島伊佐美著 第三五七頁昭和七年二月刊(DK390032k-0007)
第39巻 p.95 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。