デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.137-151(DK390059k) ページ画像

大正5年9月6日(1916年)

是日、東京市民有志者二十五名ノ発起ニヨリ、エルバート・エッチ・ゲーリー夫妻ヲ上野精養軒ニ招キテ晩餐会ヲ催ス。栄一発起人トシテ列席ス。十一日、内閣総理大臣大隈重信主催ゲーリー歓迎午餐会、早稲田大隈邸ニ開カレ、栄一出席ス。十二日東京商業会議所主催ゲーリー講演会同所ニ開カル。栄一臨席シテ所感ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK390059k-0001)
第39巻 p.137 ページ画像

集会日時通知表 大正五年         (渋沢子爵家所蔵)
九月六日  水 午後六時  ヂヤツジ・エルバート・エツチ・ゲーリー氏招待会(上野精養軒)
  ○中略。
九月十一日 月 午前九時  ゲーリー氏トホテルニテ御会見
              ゲーリー氏接見会
九月十二日 火 午前十一時 引続午餐会(商業会ギ所)
        午後七時半 石井外相ヨリ御招待(外相官舎)
              (燕尾服勲章ナシ)
九月十三日 水 午後七時半 米大使晩餐会(同館)


中外商業新報 第一〇九二三号大正五年九月七日 ○三井男の午餐会 ゲーリー氏招待(DK390059k-0002)
第39巻 p.137 ページ画像

中外商業新報 第一〇九二三号大正五年九月七日
    ○三井男の午餐会
      ゲーリー氏招待
三井三男爵・同元之助氏等の三井同族諸氏は、六日正午半より三田綱町の別邸にゲーリー氏夫妻を主賓とし、又陪賓として石井外相夫妻、井上侯夫妻、金子子、三島子、渋沢・古河の各男、添田寿一、奥田市長、井上府知事、益田孝、浅野総一郎氏等を招待して盛大なる午餐の宴を催し五時散会せり、尚ほ当日ゲーリー氏夫妻は同所に陳列せる古書画の陳列を観覧して深く日本美術の粋に感じ、更に余興の席画・独楽にいたく興を催し頗る大満足なりしと


中外商業新報 第一〇九二三号大正五年九月七日 鋼鉄王歓迎会 市有志者主催(DK390059k-0003)
第39巻 p.137-138 ページ画像

中外商業新報 第一〇九二三号大正五年九月七日
    ○鋼鉄王歓迎会
      市有志者主催
渋沢・三井・岩崎・古河各男、奥田市長・中野武営氏等東京市有志二十五名発起となり、六日午後六時半より上野精養軒にゲーリー氏及同令夫人を招待して盛大なる晩餐会を催せり、同六時四十分レセプシヨンを終り、同七時善美を尽せる新館の食堂開かる、宴酣にして米国々歌奏楽の後、石井外相の発声にて米国大統領閣下万歳を三唱し、之に対し米国大使ガスリー氏の発声にて 日本皇帝陛下万歳を三唱せり、デザートコースに入るや奥田市長は主人側を代表して、左の歓迎の辞
 - 第39巻 p.138 -ページ画像 
を述べたり
 今般ゲーリー君、同令夫人の遠路来朝せられたるに対し、東京市民有志者の主催にて玆に誠実なる驩迎の意を表明する機会を得たるを欣ぶ、惟ふに日米両国の親交深甚、商業関係著しく密接の度を加へ科学の進歩と経済機関の発達と相俟て太平洋貿易の益隆盛ならんとする秋に際し、米国の識見名望ある名士を迎へ一堂に相会するを得たるは、吾人一同の深く光栄とする所也、同君の滞留日数極めて短かしと雖、日本の社会・経済其他一般の事情を観察せられ、他の歴史に匹儔なき日米両国の親睦の状態に、更に一層の親密を加ふることに尽力せられんことを希望して熄まず
 本日の招待は設備頗る不行届にして、遠来の賓客に対し十分の満足を与ふること能はざる所なるも、冀くは驩迎会員一同の誠意を享受せられ、幸に一夕の歓を罄されむことを、終に臨み余は衷心ゲーリー君、同令夫人の健康を祈ると共に、米国に対する我国民の熱誠なる友情を了得せられんことを切望す
之に対しゲーリー氏は立ちて左の答辞を述べたり
 今夕は斯く叮重なる歓迎を忝ふし、我等夫妻は深謝の至りに堪へず実は貴国に足を入れし以来、観るもの将た聞くもの一として歓迎の意を示さゞるものなし、殊に今夕は電気にて彼方に我等夫妻歓迎の意を表されあり、此歓迎の表章の意を我等夫妻は永久に受けんことを冀望するのみならず、此食堂に掲げある我星旗を観るに於て一層快感を覚へり、加之、之が日旭章と相並んで掲げあるは幾何許り悦びの念を深くするものぞ、而して此処に並び掲げある日米両国旗が将来永久に亘りて何等の凌辱を受けずして、日米の国際関係が何時迄も斯く良好ならんことを冀望して已まず、若し我等夫妻の来朝が幾何にても日米の国交を温むるの資となれば幸甚之に過ぎず、終りに臨んで我等は再び貴国にて歓迎を受くの機会ある可く、若し是れ無かりせば諸君の多数が渡米せられんことを望む
と結び之にて宴を閉じ、仕掛煙火の余興等あり、主客歓談裡に十一時前散会せり


中外商業新報 第一〇九二三号大正五年九月七日 ○ゲ氏夫妻を歓ばせた池中の電光飾(DK390059k-0004)
第39巻 p.138-139 ページ画像

中外商業新報 第一〇九二三号大正五年九月七日
    ○ゲ氏夫妻を歓ばせた池中の電光飾
鋼鉄王ゲエリー氏夫妻の上野精養軒に見えたのは六時五分頃であつた塒を急く鴉が東照宮の森にと啼くのも、遠来の客には或ひは御馳走であつたかも知れぬ、杉の葉を以て飾られた休憩室には、渋沢男・三井男・奥田市長・中野商業会議所会頭等百余人の
△富豪実業家 等あり、夫妻を中央にして歓談が交へられる、ゲエリー氏は燕尾服、夫人は薄桃色のさも涼しさうな服装で縦横に応酬するところ、流石世界屈指の大実業家と肯かれた、七時になると新館との間に置かれた簾が除かれて、会衆は展望の好い食堂へ流れ込む、満堂緑滴る月桂冠に掩はれ、卓上には清雅幽致の純日本式盆石が並べられた
△三越音楽隊 の奏する楽の音寛永寺の緑葉を渡つて此遠来の珍客を
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浸すのであつた、日本の美術に太く興味を有つゲエリー氏は、卓上盆石の蛇籠を見て傍の奥田市長に「之は何ですか」と問ふ、市長は「之は河に置く波よけの蛇籠と云ふものです」と答へると「へー珍らしい形のものですね」と感嘆する、種々の演説が済むで愈々不忍池畔の
△仕掛煙火に と取掛る、之より先き、白く闇に屹立する婦人子供博覧会前なる音楽堂へ対ふ岸には「ジヤツヂ・ゲエリー、同夫人を歓迎す」と云ふ英字の電火飾煌々青い蓮の葉に映える、ゲエリー氏夫妻は市長・渋沢男等に囲まれて展望台へ出て「此景色は西洋画の深刻華麗でなくて、飽迄日本画の清淡幽致である、あの蓮の葉に宿る火影の美しきことよ」と
△嘆美措かず 処へ更に観月橋の中央弁天様の後に当てU.S.SC.(米国鋼鉄会社の略字)の仕掛煙火池上を罩むる涼気を割つて溌々紅の火を噴き壮観限り無い、ゲエリー夫妻は「恐れ入りますね」と相顧みて莞爾たり、斯くて夫妻は非常の大満足を以て九時半と云ふに帝国ホテルへ帰つた


竜門雑誌 第三四〇号・第一〇二―一〇三頁大正五年九月 △精養軒に於ける歓迎会(DK390059k-0005)
第39巻 p.139-140 ページ画像

竜門雑誌 第三四〇号・第一〇二―一〇三頁大正五年九月
△精養軒に於ける歓迎会 青淵先生・三井男・岩崎男・古河男・奥田市長・中野商業会議所会頭等、東京市民有志二十五名発企となり、九月六日午後六時半より、上野精養軒にゲーリー氏及同夫人を招待して盛大なる晩餐会を催せり、同七時新館に於ける食堂を開かれ、宴酣なる頃米国国歌奏楽の後、石井外相の発声にて米国大統領閣下の万歳を三唱し、之に対し米国大使ガスリー氏の発声にて 我天皇陛下万歳を三唱し、デザートコースに入るや、奥田市長は市民を代表して左の歓迎辞を述べたり。
    驩迎辞
 ジヤツヂ・エルバート・エツチ・ゲーリー君、貴下同令夫人並来賓諸君、今般ゲーリー君・同令夫人の遠路来朝せられたるに対し、東京市有志者の主催にて、玆に誠実なる驩迎の意を表明する機会を得たるを欣ぶ、惟ふに日米両国の親交深甚、商業関係著しく密接の度を加へ、科学の進歩と経済機関の発達と相俟て、太平洋貿易の益隆盛ならんとするの秋に際し、米国の識見名望ある名士を迎へ、一堂に相会するを得たるは吾人一同の深く光栄とする所なり。
 同君の滞留日数極めて短かしと雖、日本の社会経済其他一般の事情を観察せられ、他の歴史に匹儔なき日米両国の親睦の状態に、更に一層の親密を加ふることに尽力せられんことを希望して熄まず。
 本日の招待は設備頗る不行届にして、遠来の賓客に対し十分の満足を与ふること能はざる所なるも、冀くは驩迎会員一同の誠意を享受せられ、幸に一夕の歓を罄されむことを。
 終に臨み、余は衷心ゲーリー君、同令夫人の健康を祈ると共に、米国に対する我国民の熱誠なる友情を了得せられんことを切望し、乃ち玆に杯を挙げて驩迎の至情を表章す。
之に対しゲーリー氏は立ちて左の答辞を述べたり。
 今夕は斯く叮嚀なる歓迎を忝ふし、我等夫妻は深謝の至りに堪へず
 - 第39巻 p.140 -ページ画像 
実は貴国に足を入れし以来、観るもの将た聞くもの一として歓迎の意を示さゞるものなし、殊に今夕は電気にて彼方に我等夫妻歓迎の意を表されあり、此歓迎の表章を我等夫妻は永久に受けんことを冀望するのみならず、此食堂に掲げある我星旗を見るに於て、一層快感を覚へり、加之之が旭日章と相並んで掲げあるは、幾何許り悦びの念を深くするものぞ、而して此処に並び掲げある日米両国旗が将来永久に亘りて、何等の凌辱を受けずして日米の国際関係が何時迄も斯く良好ならんことを冀望して已まず、若し我等夫妻の来朝が幾何にても日米の国交を温むるの資とならば幸甚之に過ぎず、終りに臨んで我等は再び貴国にて歓迎を受くるの機会ある可く、若し是れ無かりせば諸君の多数が渡米せられんことを望む
と結び、之にて宴を閉ぢ、仕掛煙火の余興等あり、主客歓談裡に十一時散会せり。


中外商業新報 第一〇九二八号大正五年九月一二日 ○首相鋼鉄王歓迎(DK390059k-0006)
第39巻 p.140 ページ画像

中外商業新報 第一〇九二八号大正五年九月一二日
    ○首相鋼鉄王歓迎
大隈首相は米国鋼鉄会社々長エー・ゲーリー氏夫妻の滞京を機とし、一行を主賓として既報の如く十一日正午早稲田の自邸に歓迎の午餐会を催したるが、石井外相・米国大使ガスリー氏を始め、三島子、渋沢・三井・岩崎・大倉各男、新渡戸博士等二十余名も出席し、主客歓を尽し十二時過《(マヽ)》ぎ散会したり


竜門雑誌 第三四〇号・第一〇三頁大正五年九月 △大隈首相主催午餐会(DK390059k-0007)
第39巻 p.140 ページ画像

竜門雑誌 第三四〇号・第一〇三頁大正五年九月
△大隈首相主催午餐会 大隈首相は九月十一日正午、ゲーリー氏及同令夫人を早稲田の自邸に招待して歓迎午餐会を開けり、陪賓は米国大使ガスリー氏・石井外相・青淵先生・三島子・三井男・岩崎男・大倉男等二十余名にして、主客歓を尽して午後一時過散会せる由


中外商業新報 第一〇九二九号大正五年九月一三日 ○鋼鉄王歓迎会 商業会議所の催(DK390059k-0008)
第39巻 p.140 ページ画像

中外商業新報 第一〇九二九号大正五年九月一三日
    ○鋼鉄王歓迎会
      商業会議所の催
東京商業会議所にては十二日、米国製鋼会社長ゲーリー氏を招待して歓迎会を開きたるが、午前十一時半先づ会議室に於て接見会を開き、中野会頭の挨拶に次ぎ、ゲーリー氏は別項の如き日米経済関係に関する演説を試み、午後一時引続き楼上に於て歓迎会を開き、会議所議員同特別議員・来賓等七十余名出席、中野会頭の歓迎の辞に対しゲ氏の謝辞あり、一同午餐を倶にし同二時半頃閉会せり、尚ほ演説の聴衆は会議所議員の外実業家其他を合せ百七十余名、内主なる者左の如し
 三島子、渋沢男、志村源太郎、添田寿一、手島精一、奥田義人、安田善三郎、浅野総一郎、有賀長文、団琢磨、堀越善重郎、高松豊吉、頭本元貞、宮岡恒次郎、セール・フレザー、エル・アール・サイツ


東京商業会議所月報 第九巻・第九号大正五年九月 △米国鋼鉄会社々長ゲヱリー氏講演会(DK390059k-0009)
第39巻 p.140-141 ページ画像

東京商業会議所月報 第九巻・第九号大正五年九月
    △米国鋼鉄会社々長ゲヱリー氏講演会
 - 第39巻 p.141 -ページ画像 
米国鋼鉄会社々長ゲヱリー氏来邦に付、九月十二日午前十一時当所に於て講演会を開き、中野会頭開会の辞に次て、ゲヱリー氏は日米両国の実業家か相提携して経済上其他の利益を増進せさるへからざる所以を詳説せられ(訳文は論談の部に掲く)、終てゲ氏其他の来賓を食堂に誘引、デザートコースに入り、中野会頭ゲ氏の健康を祝し、之に対しゲ氏は来邦中の厚遇を謝し、渋沢男爵はゲ氏来京以来歓迎委員としての感想を述へられたるか、当日は頭本元貞氏始終通訳の労を執られたる為め、彼我の交驩上寔に好都合なりき


東京商業会議所月報 第九巻第九号・第五―一〇頁大正五年九月 【何れの国に於ても其民…】(DK390059k-0010)
第39巻 p.141-146 ページ画像

東京商業会議所月報 第九巻第九号・第五―一〇頁大正五年九月
            (九月十二日東京商業会議所に開ける同氏○ゲーリー氏歓迎会に於て)
何れの国に於ても其民衆の健康・幸福並に安楽の為めに最も必要なる条件は其の経済状態の健全なることである、而して国家の最も必要とするものは財力即ち金銭又は信用である、若し国家にして其の防禦と発展に必要なる財源を欠くときは、国力自から衰へ遂に滅亡に帰せざるを得ない、之に反して一定の国是方針の下に盛に工業を興し商業を進め、凡百の富源を極度に利用するときは、国家は其富を増殖し其民衆をして啻に衣食住の途を得せしむるのみならず、更に智徳を修むる事を得せしめ、且外敵に対しての充分の防衛を具備せざらむとするも得ないのである、而して公共の進歩を計り人民の教育を奨励し、各種有益の研究を行ふの結果は、必ずや国家の富力を累進的に増加するものである、之と同時に国運発展の最も著しき徴象たる学校並に美術館の建設を為すことを得るのである、要するに凡そ経済上の活動を継続的に又成功的に遂行する我国は、其の人民の安寧・幸福を増進するに必要なる条件を具備するものと称するを得るのである
然るに世の所謂道徳家・空論家・指導家・若くは自称先覚者は往々是等の簡単明瞭なる原理を観過し、或は軽視するの傾向がある、而して実際家は其の実際的なるが為めに嘲笑を受くることがある、試に卑見を述べんに、余は徒に四海兄弟の理想を説き却て其の家族を饑餓に陥らしめんより、寧ろ其の子に衣食の資を給するの人を好むものである余は又徒に人道の利益を主張し却て其の国を貧弱と衰亡に導くより、寧ろ実際に物質的成功を為す国民を敬慕するものであります
苟も日本の領土内に於て旅行するものにして日本が最近数年間に、其の富源の開発利用に関して成し遂げたる長足にして秩序ある成功の為めに深甚の感動を受けざるものはない、而して全国到る所に於て絶へず根本的変動の行はるるを見て最も驚くものは、蓋し日本人自身であらう、日本は実に近世的進歩的邦国である、故に日本に旅行するものは単に各種の方面に快感を覚ゆるのみならず、実際に其の要求を充たして安楽を感せざるものはない、現に米国人にして日本内地を旅行するものに付て云はんに、或は日本を以て理想国(ユートピヤ)と視做すものは無からんと雖も、さりとて米国又は欧洲大陸に劣れりとするものはない、玆に序でに一言述べたきことがある、其は日本には其の固有の風俗習慣があり、而して之れあるが為めに外来の旅客を喜ばし
 - 第39巻 p.142 -ページ画像 
め之を引付ける力がある、故に諸君は力めて之を保存せらるゝことが肝要であります
抑々日本が斯の如く成功し進歩したことに付ては幾多の原因がある、日本人は極めて勤勉なる国民である、其の多くは精神を籠めて且長時間引続き労働する様に見受ける、此の点に於て日本人と他の或国々の人民との間に著しい差違がある、而して日本に於ては政府の方針は正しく個人の自発的努力を奨励し、務めて之を養成するの傾向が見えて居る、政府は常に社会全体の幸福を増進することを以て其の念となし啻に経済上の発達に反対し之を阻止することなきのみならず、却て之を助けて正当の発展増大を遂げしむることを務むるのである、併しながら日本の国家並に人民が能く最近十年間に此の偉大なる経済上の進歩を成したる最大原因は、実に其の人民の不撓不屈の大決心に在りと云はざるを得ない、苟も日本人が実業其の他何れの方面に於ても一度意を決して之に従事するや、成功せざれば止まざるの決心を以て進まざるはない、日本人は一見して静粛謙譲であるが而も進取的にして、或は倦み或は退くことを知らざるものである、何れの事業を問はず最も堅忍の志に富みたるもの最も多く成功を収め、利便の多少は必ずしも成功の要素にあらざること経験の吾人に教ふるところである、而して不撓不屈の精神に於て何れの国民と雖も日本人に優るものはない
諸君は輓近経済的活動の各方面に於て材幹ある指揮者たることを証明したるが、特に製造工業に於て其の進歩最も顕著である、日本は現に斯く着々進歩発展しつゝありと雖も何時かは困難に遭遇せずとも限らない、其は他の各国と同様に日本に於ても製造業・鉱業・海陸運輸業は漸く重要なる業務となりつゝあるが故に、諸君も早晩労働問題を研究し且つ之を処分せざる可からざる事と思ふ、尤も日本に於ては特殊の理由あるが故に他国が之が為めに蒙りたるが如き困難は或は無かるべきも、幾分産業の発達に影響なきを得ないのである、斯くの如く日本に於ては此の労働問題は左程重大なる影響は無かるべき《(し)》、他の諸国殊に労働者に選挙権を与へある国に於ては、政策も政事家も此等労働者の態度に由りて決定せらるゝの状況であるが故に、労働問題は勢ひ甚大なる注意を惹起せざるを得ないのである、労銀が増加すれば資本家は其の製産品の売価を引上げざるを得ない、而して売価を引上ぐれば労働者は以前より価の貴い物を買はざるを得ない、斯の如く転々して結局は労銀引上の運動を企てたる本人自身の上に廻つて来るものである、然るに普通の労働者は此の見易き道理を了解せぬ者と見え、或る地方に於ては労働問題常に絶ゆる事がない、此に於て米国に於ける思慮あり公平なる資本家は、先づ其の投下したる資本額之に伴ふ危険及び需用供給の関係等を考慮したる上、労働者に対しても純益に付て至当なる分配を与ふるを以て賢明なる立場なりとする結論に到達したのである、而して労働者に対する問題に関しては先づ充分注意して、力めて公明正大なる態度を確定し、之を将て公平なる輿論に訴ふるのが得策である、他国に於ては大概此問題の為めに困難し居るも、日本に於ては決して之が為めに大に産業の自然的・合法的発達を阻礙せらるゝ事あるまいと信ずるものである、但だ米国にては此問題は重要な
 - 第39巻 p.143 -ページ画像 
るものにて非常に注意を払はれ居り、余も以前此事に関し口に筆に屡屡所見を述べたる事があります
更に玆に一つ大問題がある、米国にては政治家も実業家も之が為めに頭を悩まして居るが、日本に於ても工商業の漸次発達するに従ひ恐らく同様困難を感ずるに至るかも計られないと思はれる、若し果して然りとせば諸君が他の幾多の難問題を将て解決せられたると同様、此問題をも易々と解決せらるゝ様希望に堪へぬのであります
而して此大問題とは他に非ず大規模の事業に於て同業者間の競争を云ふのである、従来米国に於ける営業方法は彼我の間に激烈なる破壊的競争を行ひ、富力其の他優りたる武器を有するものは、之を有せざるものに対して飽まで圧迫を加へ、全然競争場裡より駆逐せざれば止まなかつたのである、故に此の競争に成功せんが為には有ゆる手段を尽し、其が不公平なると譎詐なると悪辣なるとは毫も顧る所なく、是に由りて破産者も頻々として継起したのである、其結局は如何と云ふに損を招きたる者は多数にありたるが、利益を得た者は一人も無いと云ふ状態であつた、此問題は目下日本に把つては未だ左程に切迫したるものでないと思はるゝが故に余り喋々するを要しないと思ふ、現今米国に於ては政府が実業界全体を大に取締りて競争は成る可く公平に且健全なる方法を以て行ひ、以て一方には物価を調節し又一方には有力なる大会社をして、消費者及び小会社に不当の圧迫を加ふることを得ざらしむる様取り計ふが最上策であると云ふ説に帰して居る、然れども諸君の内には或は之を弁難して実業に従事せる者が斯る態度を取る事甚だ困難なりと云ふ方があるかも知れぬが、実は米国に於ても之と同様の批難を試みて其旧来の態度を改善しなかつた実業家もあつたが是等は皆苦しき経験に依つて其の非を悟るに至つたのであります
余は箇人と国家とを問はず協力して事に当り、何等互に敵意なく嫉視することなく相提携して経営するを以て利益ありと固く信じ且之を推奨する者である、彼我相依り相助け自己も生き他人をも生かし、営業上の讐敵たるよりは寧ろ友人として行動し公明なる態度を以て正々堂堂と相争ふべきである、我が米国に於ては実業界の大競争者は此の主義に由りて行動したるが為めに、彼我共に経済的成功を収め得たのである、現に製鋼界に於ても必ずや其の重立ちたる人々が世界各国より集り来りて、胸襟を開きて協議する日の来る決して遠き将来ではないと信じて居る、其際には日本からも代表者を招待する事勿論である
吾人は今現に欧洲に於て盛に行はれつゝある大戦の終れる後、国内又は国際間の実業界に於て如何なる変化が生ずるかに付て之を前知するものではない、吾人は唯だ推察し得るのみである、抑も大戦の費用は壱千億弗(弐千億円)に上り、且間接の損失は恐らくそれと同額位であらう、又戦争に参加したる国民は其の負担する財政の重荷の下に呻吟する結果として、以前よりも大なる精力と熟練とを以て再興を計るであらう、随つて是等の国民は財政上の援助を必要とし、凡ゆる方面より之を得むことを努むるは必然の勢である、而して是等の国民は自国並に他国商業市場に於て最も激しき競争を行ふこととなるは明である、蓋し人間の知慧は必要によりて鋭敏となり、又不幸なる境遇に在
 - 第39巻 p.144 -ページ画像 
るものは益々奮闘するものである、故に商業の軌道は果して戦争の為め攪乱さるゝか否や、又如何なる度合まで攪乱さるゝかに付て何人と雖も確に予言することは出来ないのである、然れども自己保存の法則は容赦のなきものであるが故に、競争の必要上勢ひ人に対する温情に変化を生ずるに到ることなきを保せずと懸念するのである、然らば実際歴史上の画布の上に示さるゝ所の画は、余が上に示したるよりも更に大いに不愉快なるもので御座いましよう、現に戦争に参加して居る諸国は一方には戦争の為めに其の富を失ひ、又一方には実業発展の為めに新に資金の必要を感ずるが故に、必ずや凡ゆる方面に通商の道を求むことを努め、破格の安価と特種の条件の下に其の製品を提供し、従来より更に激烈なる競争をなすに至らんこと疑を容れない、而して是等の諸国が斯の如き方針を採るは正しく其の権利に属する事論ずるまでもない、唯其結果として従来日本若しくは米国の商人が、其の固有の市場と思惟し居りたる地方に侵入さるゝ恐あることは忘るべからざることである、世に説を為す者あり、曰く、戦争参加国は財産と人命を失ふこと多きを以て、戦後到底其の自国以外に経済上の発展を為すの余裕なきのみならず、恐らくは国内の需用すら充分に自ら供給すること能はざるべしと、併し静に此の問題を研究するときは此の説の謬れること明白である、其は兎に角富力の減少に苦しむ国民が其の要する資金を得んが為めに有りとあらゆる手段方法を尽すに方り、何人も之に向て苦情を唱ふるの理由がない、若し又仮令理由はあつても苦情の為めに事実の進行を阻止することは出来ないのであります
余は是より日米の関係に付て一言せんに、此の両国は如何なる態度を以て相対せんとするのであるか、両国共未だ戦争の為め何等金銭上の損失を蒙りたることはないのである、今や交通の便大に進歩して国と国との距離を短縮したるを以て日米両国は実際相接したる隣国の関係に在るのである、而して両国は相互に盛に売買の取引を為しつゝある尤も米国は日本に売る商品の凡そ倍額に当るものを日本より買入れつつあるのである、現に一千九百一年米国は日本より二九、二二九、〇〇〇弗の物品を買ひ、一千九百十五年には実に一〇八、三一五、〇〇〇弗を買ひたるに対し、米国の日本に売りたる額は一千九百一年に一九、〇〇〇、〇〇〇弗にして、一千九百十五年は四五、七四二、〇〇〇弗であつた、要するに日本は米国が喜んで購求する需用品を多量に製産し、米国が日本の需用品を製産する高は之に劣れるのである、然れども両国間に於ける貿易は今や駸々として進みつゝあり、又将来更に増進するの状況である、何れにしても我々米人は貴国に売り又貴国より買ふ事を喜ぶものである事を、記憶に置かれんことを望む、米国は現に富んで居り且将来益々富まんとして居るのである、而して米国は日本の為めには好き顧客にして日本の製産品を好愛し、之を需用し之を購求するの資力を有するものである、之と同時に貴国も亦其の需用する物品を購求するの資力を有するものにして、米国は貴国に売る事を喜ぶものである、要するに貴国は我国の為めに望ましき顧客である、今や此の両国は共に国運隆々として進み其の人口は年々に殖へ、其の富は歳々増して抵止する所を知らない有様である、此の時に際し
 - 第39巻 p.145 -ページ画像 
我々両国実業家は果して如何なる方針を採るべきであるか、苟も実業家たる我々に至るまで国家運命に関係せざる小問題に囚はれて、之れが為めに我々の態度を左右さるゝに甘んずべきであるか、但しは識あり智ある者の応に採るべき態度を以て互に相対すべきか、是れ吾人の講究すべき問題である、此の疑問に対して余は米国の実業家に代りて答弁を与へる事が出来る、即ち我々米国実業家は日米の間に現存する交誼の永続を希望するものである、殊に通商上最も密接なる関係を保つ日本実業家諸君を我が同盟者と思惟するものである、随つて日本が益々繁昌し其国運愈々発展することは吾人の喜ぶ所である
然らば日米両国の実業家は相互の利益を保護し之を増進せんが為、爾今正当の範囲に於て充分に相提携せざる可らざるの理は自ら明白であると思ふ、而して此の提携は単に相互に顧客として密接なる関係を持続するの意味に止らず、相互の国土以外に於ける第三の市場を開発し之に向つて相互の物産並に工業品を供給するに当りても、相互に腹蔵なく意志の疏通を計るの意味である、又斯の如き方針の実行が双方の為め極めて有利なるを確信する事双方の為め必要である、要するに或る特種の地域又は物品に対しては専ら之を日本人の活動に委するを至当とし、他の特種の地域又は物品に対しては之を専ら米国の活動に委するを至当とするのである、例へば日本に商品を輸入する場合に於ても、或種類のものは米国より輸入する方品質も好く価格も廉なることあり、又米国に輸入する場合にも之を日本よりする方他の外国よりも良き品を安く得ることが出来るのである、又第三者たる或国に対する場合に於ても、日米両国は仮令同一の商品を輸入するとしても、若し両者の間に其の取引の地方を劃定し互に相犯さゞるに於ては、両者は共に利益を受け、且つ一般消費者も利益を享くること疑を容れない、抑々協同(コーラペレーシヨン)の主義たるや一方には之に賛加する者を利し又一方には購買者を利するの趣意である、蓋し協同を実行せんとすれば勢ひ需要供給の関係を調節し、又製造の原価と運輸の費用を節約することとなるが故に、其の結果は一方には製造者の利益を増し又一方には消費者は安価なる物品を得るの利益を受けるのである
斯く論じ来れば日米両国の実業家が、各種の商業に於て相互に協同提携すること両者の為め必要なること自ら明かである、而して我米国の実業家は経済発達の為め充分其の責務を尽すことを避けるものではない、故に実際必要の生ずるに於ては我米国実業家は何時にても諸君と充分に同情的提携を実行する為め、適宜の案に付て協議を為す事を喜ぶものである
之を要するに両者の希望と意志にして一致を見るに於ては、之を実行するに方り何等の困難はなき筈である、就ては日米両国重立ちたる実業家は互に相接近し、従来よりも更に密接に且頻繁に交通する事今日の急務である、又両国実業家は宜しく外間の勢力の為めに誘惑され、相互に声援助力するの好機を失するの愚を避けざる可からずと思惟するのである、素より商業は商業的方法と原理に拠りて行ふべきであるが、併し道徳の原理に基き力めて公正親愛の態度を以て取引を為すときは、其の結果必ず満足するに足るものがあります
 - 第39巻 p.146 -ページ画像 
是れ余が日米両国民は相互の利益の為めに席に相協同提携することの有利なるを認むることを確信する所以である、此の目的を達せんが為め余は諸君と共に個人として充分に我任務を果さんことを期するものであります
将来政治・社会・通商・工業等の各方面に於て日米両国並に両国民の利益に関する諸問題に思を及ぼすときは、時に意見の相違を生ずることあるべきは敢て怪しむに足らざる事である、而して斯の如き場合に穏健ならざる、又道理に適はざる政策を主張するものもあらう
加之一方又は他方に於て一時過れる態度を採ることがないと保証し難いのである、併し之が為めに遂に両国間に由々しき大事を惹起するが如き事は万々ない事と信ずる、兎に角我々実業家が絶へず両国間に友誼を持続せしむる為めに全力を尽さなければならぬ、而して此の目的の為めに尽力する事は各其国に尽す所以である、要するに国内と国際間とを問はず何れの問題と雖も、之に対して正当の解決を見出すに非ざれば到底解決を得るものではない、苟も正当ならざる解決は一時的のものである、蓋し論理と正義は必ずや早晩矛盾と不正に打勝つの日が来るものである、不肖ながら余の微力の及ぶ限り日本並に其人民に対し、公正にして栄誉ある相互的対遇を得せしむることに努力することを期するものである、余は又日本の重立たる実業家たる諸君が、米国に対して余が日本に対すると同一の意志を有せらるゝ事を信じて疑はぬものであります
   ○右ハゲーリーノ演説ナリ。「中外商業新報」(第一〇九二九号・大正五年九月十三日)紙上ニモ其概要掲載サル。


竜門雑誌 第三四〇号・第一〇七頁大正五年九月 △ゲーリー氏出発(DK390059k-0011)
第39巻 p.146 ページ画像

竜門雑誌 第三四〇号・第一〇七頁大正五年九月
△ゲーリー氏出発 ゲーリー氏は予定の如く十四日午後三時、エンプレス・オブ・ルシア号に便乗して帰米の途に就かれたりといふ。



〔参考〕竜門雑誌 第三四二号・第三一―三二頁大正五年一一月 ○ゲーリー氏と其事業 青淵先生(DK390059k-0012)
第39巻 p.146-147 ページ画像

竜門雑誌 第三四二号・第三一―三二頁大正五年一一月
    ○ゲーリー氏と其事業
                      青淵先生
  本篇は国民時報記者が青淵先生を訪問して、其意見を聞かれたるものゝ由にて、十月発行の同誌上に掲載せるものなり(編者識)
 先頃来朝せるゲーリー氏は、十一日東京商業会議所《(二)》に於ける招待会席上、大に日本を賞讚し最後に将来日米の経済同盟を結ぶの必要ありと述べたが、こは元より一片の応酬的辞令で氏の来遊は別に何等の意味なく全く小閑を得て日本及び支那を漫遊したに過ぎないのである。
 氏は米国の所謂鋼鉄王で、其の社長として経営する「ユーナイテツド・ステート・スチール」会社は資本金弐拾九億円、工場百五十余、使用人弐拾余万人といふ盛大なるものである。氏は弁護士の肩書を有し、嘗ては判事を勤めた人であるが、其の資性温厚にして篤実、恭謙にして切実、且つ思想円満にして同情に富み、其の今日の地位を得たのは全く円熟せる人格の賜物である。「スチール」会社が今日の大を為したのは氏一派の代表する会社と、「カーネギー」一派の代表する
 - 第39巻 p.147 -ページ画像 
会社とが、明治三十三年合同をしたからで、当時は「カーネギー」派からシオールといふ人が代表して社長となり、氏は同格ではあるが総務部長といふやうな役をしてゐた。私が明治三十五年始めて米国へ行つた時、ゲーリー氏やシオール氏が年俸参拾万円も取るといふ話を聞いて頗る驚いたが、此頃氏に聞いて見ると実際は拾万弗、即ち我が弐拾万円であつたといふ事である。
 而して工場経営に伴ふ最も厄介なる問題は、例の労働問題――即ち「ソシアリズム」とか、「サンヂカリズム」とかいふ資本家対労働者の問題で、之に対してゲーリー氏は常に親切・同情・優待を以て臨んだが、シオール氏は極端なる圧迫主義で常に高圧手段を用ゐようとした。此の主義の相違は屡々両氏の間に闇闘を生じたが、結局シオール氏は自説の誤れるを覚り、ゲーリー氏の温和主義を容れると共に、断然会社を引退して其の地位を譲つたのである。爾来ゲーリー氏は専念社務に鞅掌して今日に及んでゐるが、其勢力人望は実に大したものである。現にシカゴの附近に氏の経営する工場を中心として、人口四万五千程の町が出来てゐるが、之にゲーリー町の名称を附したのを観ても、其の人望の如何を知る事が出来る。
 氏は常に正義・敏捷・誠実・勤勉を主義として活動してゐるか、近来の学校教育が徒に形式に流れ、軽佻浮薄にして実用に疎きを慨し、ゲーリー町に氏の考案に拠る学校を設立し、所謂「ゲーリー・システム」教育を施してゐるといふ事である。私共も何れ彼地へ行つた場合には是非見せて頂きたいと思つてゐるが、全く工業家の養成にまで注意してゐるのは敬服の外は無い。



〔参考〕竜門雑誌 第三五〇号・第三三頁大正六年七月 ○長野市に於ける講演 渋沢先生(DK390059k-0013)
第39巻 p.147-148 ページ画像

竜門雑誌 第三五〇号・第三三頁大正六年七月
    ○長野市に於ける講演
                      渋沢先生
  本篇は青淵先生が去五月中旬長野県下巡回講演の際、同十六日長野市城山蔵春閣に於て講演せられたるものなり(編者識)
○上略 昨年来朝しました鋼鉄王ヂヤヂ・ゲリー氏の会社では、其職工を幾人使うかといふに二十四万人使う、資本の高は幾らかといふと三十億万円、以て其壮大なるが分る、今日では此鋼鉄の製造高は三千万噸以上出来て居るといふ、或は四千万噸位ともいふ、日本では沢山の会社が寄り集つて東洋製鉄会社或は其他の大会社といふものが、造る高は幾らかといふと僅か三十万噸、八幡の政府製鉄高を合せて六十万噸然るに一の会社で四千万噸も造る、以て其壮大が分る、此会社の大立物ヂヤヂ・ゲリーといふ人が昨年九月日本に来た、私は是を知つて、是迄面識はないが此人を訪問した、斯ういふ特別の人が日本に旅行するについては別して前申上げたる日米関係と同時に、其支那に対する日米協力の点に就て其理由を述べますが、此時も充分其話を致しました。彼は私の言ふたのを信じた訳か何うか知りませぬが、九月十四日に帰国して其帰国後到る処に於て頻に其日米協力して支那の事業を致さなければならぬ、若し誤つて両国の間に衝突があると亜米利加の為に大に不利益で完全に事業が出来ない、今日の場合東洋に於て事を為
 - 第39巻 p.148 -ページ画像 
すには日本を他所にすると亜米利加人には甚だ不利益で又不道理な事であるから、実業界の人々は能く考へなければならぬといふことを、紐育、セントルイス、ボストン、市俄古等到る処で演説して居る様子で、其演説の筆記を度々私へ送つて呉れました○下略



〔参考〕日米有志協議会記録 同協議会編 第一五〇―一五五頁大正一〇年三月刊(DK390059k-0014)
第39巻 p.148-149 ページ画像

日米有志協議会記録 同協議会編 第一五〇―一五五頁大正一〇年三月刊
    日米有志協議会第六日 (大正九年五月一日)
○上略
渋沢男爵
日本の経済的協力を以て支那の事業の発展を期図すると云ふことはもう五年以来の私の主張でございます、大正四年に亜米利加に旅行しましたのは、太平洋沿岸の事が気に懸りました為めに、桑港に開かれた博覧会を機会に出ましたけれども、西部即ち加州方面の事は余り懸念と見えないのでありました、之に反して其当時まだ亜米利加は参戦しない時でしたが、欧羅巴戦乱の影響は亜米利加の富を頗る増しつゝありましたと同時に、日本も国は小さうございましても其影響があつて此発展の力を多く支那に向つて伸ばすと云ふことを心掛けて居つたのであります、故に亜米利加の発展は必ず支那に於て日本の事業と競争衝突に至りはせぬかと云ふことを憂ひたのでございます。既に欧羅巴の戦乱が経済関係から起つて右様な惨禍を呈するとするならば、万一亜米利加と日本が経済上相争うて左様な惨害を惹起すやうな事があつては、此上もない不幸である、況んや私共の希望は西洋の文明は亜米利加に、東洋の文明は日本に、東西洋の文明が太平洋を隔てゝ相接触し相融和してこゝに初めて世界の文明を完備させたいと云ふ希望に引換へて、亜米利加と日本とが若し相争ふやうなことになつては実に相成らぬと思ひました、為めに此意見を政治界に、経済界に、学者に亜米利加旅行中数々御話をしました、今日御列席下さる此御一行の首脳に立つて御いでになるヴアンダーリップ君には特に其事を申し上げた所以は、更に一の理由があつたのであります、即ち其頃紐育に於てはインターナシヨナル・コーポレーシヨンと云ふものを造られて、此広大なる会社が東洋に、南米に事業を発展させやうと云ふ経営であると承りました、果して然らば私の前に述べたる憂ひの点を此会社が惹起とも限らぬ、其首脳に居られ殊に従来御親しみある、又世界の平和にせぬ深き趣味を有つて居らるゝ経済界の権威者たるヴアンダーリップ君に此説を呈するのは、私の最も愉快に感じたのであります、しかし唯だ一場の談話では其希望が完全に徹底致さなかつたやうに思ひました、殊に其際は亜米利加の新聞社会の人々は、日本人が狡猾な口吻を以て自分の微力を亜米利加の力に借りて、日本の言葉で申せば他人の牛蒡で法会をすると云ふが如き誹謗迄私は受けましたが、私はさういうやうな野心はなかつたのであります、其会見の時にヴアンダーリップ君に是非貴下は東洋の事情を視察して戴きたい、詳しく見て下さつたならば此真実が分る、貴下の御胸に頷かれるであらうと思ひます、唯文書又は談話許りでは徹底的に貴下の御諒解を得難いと思はれると申し上げ、同君も期があつたら是非一覧したいと云うて御別れしまし
 - 第39巻 p.149 -ページ画像 
た、其希望が今日に達したに依つて私は深く喜ぶのであります、それが大正四年のことで超えて大正五年にヂャッヂ・ゲリー君が日本に御越しになりました、是は支那の旅行を終つてから日本に御出でになつたので、所謂東洋を概括的に御覧になつた、此御覧になつたゲリー君に対して私はヴアンダーリップ君に申上げたと同じやうな意味を御話をした、ゲリー君の其時の御答は趣意に於ては同感であるけれども、その方法をどうするか具体的の意見を聞きたいと云ふことでありました、私は元来政治家でありませぬから、従来の欧羅巴・亜米利加若くは日本の政治上に於ける支那との関係を詳かに知りませぬけれども常識を以て考へますると政治家であつても実業家であつても、善い事は善い、悪い事は悪い、他人の国を取らうと云ふやうな野心は宜くない政治家が言うても左様である実業家が言うても同様である、故に此見地から考へれば決して政治家でないと云うても意見が述べられないことはない、而して支那の財政を完全にするには是迄の有様ではとてもいけない、相当なる援助の方法を設けて経済上、財政上助けを与へると同時に或部分に干渉する、さうして此財政を鞏固にさせなければ支那の国は財政上から破産に陥るであらう、又貨幣制度を改善しなければならぬ、今日の貨幣制度では永久的に困難して世界の人々が支那に行つて貿易するに頗る困難である、而して之を決行するには是非日本の先例に倣うて完全なる政治上の力を加へた所の銀行の組織と兌換制度に拠る紙幣の発行が甚だ必要である、此銀行の組織、兌換制度、幣制の改善、此の三つに力を尽すには財政の基礎を鞏固ならしめねばならぬ、財政の基礎を鞏固にするには今日の場合英吉利・仏蘭西は兎も角も亜米利加と日本とは十分の力を入れ得るから、日米協力して先づ政治的に順序を立てゝ其根本を定めたいのである、此根本さへ確定すれば他の小さい事は事毎に皆米日協同でなければならぬと云ふには及ばない、其事業の範囲に於て互に譲るべきは譲り、又協同すべきは協同する、特に鉄道の如きは成るべく協同する、斯くなつたならば、支那に於て日米両国が競争する事がなくなるから、必ず支那をして右を向いたり、左を向いたり、亜米利加人に御世辞を云うたり、日本人を嫌うたりするやうな間違ひはさせずに一定の行動を執らせ得るであらう、若し之に反して此方で手を引いて嬉しがらせ、彼方で肱を引いて怒らせると云ふ如き所謂左顧右眄の有様であつたら、決して支那をして真直な途に進ましむることは出来ない、支那それ自身の心得違ひは已むを得ぬ事であるが、他の之に接触する国も共に心得違ひとなるのである、要するに狂者に倣う不狂者が同じく競奔する如きことは知識ある人の行動でないではないかとゲリー君に御話しました、ゲリー君は全然同意だと云はれた、日本に於ても他の宴席にて渋沢の説には全く賛同を表すると言はれましたが、帰米の後も公開の席若くは友人の寄合ひ等に於て其趣意を述べられたやうである。○下略



〔参考〕対米国策論集 第三一九頁大正一三年一二月刊 【米国の東洋に対する野心 内田良平】(DK390059k-0015)
第39巻 p.149-150 ページ画像

対米国策論集 第三一九頁大正一三年一二月刊
    米国の東洋に対する野心
                      内田良平
 - 第39巻 p.150 -ページ画像 
○上略 大正五年四月十九日に広益公司、即ちインターナシヨナル・コポレーシヨンと支那政府との間に大運河借款契約を締結した。此の運河は江蘇省運河借款と山東省運河借款との二つになつて居て、米国には頗る有利な契約であつた。当時我が帝国では、日独戦争の結果山東省に於て独逸の有して居た一切の利権を継承することゝなつて居た為め此の山東省運河借款に関しては当然抗議を為し得べき地位に在るので支那政府に詰問を試みた。其の時適ま日本に来た米国の鋼鉄王ジヤツジ・エルベート・ゲーリーが日本の実業家と意見交換の結果、日米共同して山東運河浚渫借款に応ずることになつた。蓋し米国の此の譲歩は外務省や実業家連中が国本勢力の発動として喜んだ所であるが、米国では別に期待する所があつたので、畢竟之れは一時の飴ねぶらせに過ぎなかつたのである。
○下略



〔参考〕(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 昭和二年(DK390059k-0016)
第39巻 p.150 ページ画像

(阪谷芳郎)日米関係委員会日記 昭和二年
                     (阪谷子爵家所蔵)
 二、八、一六 ジヤツジ・ゲリー死去ノ報アリ、弔電ヲ小畑ニ頼ム



〔参考〕外務省関係書類(三)(DK390059k-0017)
第39巻 p.150 ページ画像

外務省関係書類(三)           (渋沢子爵家所蔵)
                        別紙添付
                          明六
欧二普通第一四一一号
  昭和二年八月十七日
急           外務次官 出淵勝次 外務次官之印
    子爵 渋沢栄一殿
  ゲーリー判事死去ニ関スル電信写送附ノ件
ゲーリー判事死去ニ関スル在紐育内山総領事代理来電写、別紙ノ通差進ス
(別紙写)
ユーナイデツト・ステーツ・スチール社長Judge Elbert H.Gary十五日午前三時四十分当時自邸1130 fifth Avenueニ於テ慢性心筋炎ニテ死亡、葬儀ハ八月十八日午前十時半郷里イリノイ州Wheaton Gray Memorial Methodist Church(市俄古附近)ニ於テ執行ノ筈



〔参考〕渋沢栄一書翰 控 エルバート・エツチ・ゲーリー夫人宛一九二八年一月三〇日(DK390059k-0018)
第39巻 p.150-151 ページ画像

渋沢栄一書翰 控 エルバート・エツチ・ゲーリー夫人宛一九二八年一月三〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
                   January 30, 1928
Mrs.Elbert H.Gary
  71 Broadway,
  New York City.
  My dear Mrs.Gary:
  I am in due receipt of your kind gift in the form of a book entitled "Elbert Henry Gary, A Memorial" for which I thank you very much.
 - 第39巻 p.151 -ページ画像 
  With my best wishes and highest regards, I am
             Yours very truly,
               渋沢栄一(署名)
                   E. Shibusawa.
   ○大正十年十一月十三日、栄一アメリカ合衆国ロング・アイランドニゲーリーヲ訪問ス。