デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.156-158(DK390069k) ページ画像

大正6年11月23日(1917年)

是ヨリ先栄一、アメリカ合衆国人ハーディト会見ス。是日、ハーディ翁歓迎講演会、神田基督教青年会館ニ開カル。栄一臨席シテ演説ヲナス。翌二十四日帝国劇場ニ於テ、東京市主催ハーディ翁歓迎会アリ、栄一主人側ノ一人トシテ列席ス。


■資料

集会日時通知表 大正六年(DK390069k-0001)
第39巻 p.156 ページ画像

集会日時通知表 大正六年 (渋沢子爵家所蔵)
十一月十九日 月 午前十一時半 ハーデー翁外三名来約(兜町邸)
   ○中略。
十一月廿四日 土 午後五時 ハーデー翁歓迎会(帝劇)


竜門雑誌 第三五五号・第九〇―九一頁大正六年一二月 ○ハーデー翁歓迎講演会/○ハーデー翁と青淵先生/○帝劇のハ翁招待会(DK390069k-0002)
第39巻 p.156-157 ページ画像

竜門雑誌 第三五五号・第九〇―九一頁大正六年一二月
○ハーデー翁歓迎講演会 ハーデー翁歓迎講演会は、児童教養所理事長北垣守・同副長巌谷小波氏等に依つて発起せられ、十一月廿三日新嘗祭を卜し、午後六時より神田青年会館に於て開会せられたり。司会者北垣守氏の開会の辞に次で、巌谷小波氏「新日本の老爺」小松緑氏「日米の経済関係」添田博士「日米の使命」三宅雪嶺氏「黒船来訪の由来」と題する演説あり、次にハーデー翁は満場の拍手に迎えられて青淵先生等と与に壇上の椅子に着かれて、幾度か帽を打振りて感謝の意を表せり。神田男爵は英語にて翁の経歴を語り「願くば此の崇高な
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る老水兵が米寿までも百歳までも長へに生き永へんことを祈つて止まざるものなり」と述べ、次に青淵先生には「余り大勢の前にて面喰ひたり」と前提し、之れは内証話であるが今より六十余年前翁の黒船が突如浦賀に来航せられた時は、余は十四歳の子供にて故郷に居たりしが、夫れが動機となつて鍬を棄てゝ国事に奔走し、爾来星移り物変りて幾変遷、六十余年後の今日、更めて玆に当時の水兵たりし翁と握手するに至つたのは実に奇縁にして感慨無量なり」云々、と懐旧談を試みて熱心に歓迎の誠意を表せられ、最後にハーデー翁は松井氏の通訳にて「六十年前の思出」と題して約一時間に亘りて演説せられ、次に上陸以後のハーデー翁の活動写真の映写ありて閉会を告げ、十一時頃ハ翁は北垣氏より贈られたる桜井正次作の名刀を抱へて勇みて帰館せりと云ふ。
○ハーデー翁と青淵先生 米国珍客ハーデー翁は青淵先生と会見後、即ち十一月廿二日東京駅ホテルに於て訪問客に対し、其感想を語りて曰く
 渋沢男は頗る謹厳で方正、実業家と云はんよりは寧政治家か、教育家のやうな感じがした。私が「日本の発達は実に全世界を照らす光りである」と申した処、男爵は「イヤ其お言葉は有り難いが、日本はまだまだ殊に貴国に対しては大いに足らぬ処がある」と謙遜された。乃で私は「過去六十年間に是れ程目覚しい発達をした国は、歴史上空前の奇績的事実である。其急速なる発達と之を実現した国民の努力は世界各国民の学ばねばならぬ処です」と申した処、男爵も莞爾として首肯された云々。
○帝劇のハ翁招待会 東京市主催のハーデー翁の歓迎会は、十一月二十四日午後三時半より帝国劇場に於て開かれたり、主人側は青淵先生、中野市会議長、市参事会員、高橋・宮川両助役、主賓ハーデー翁、陪賓米大使館のボランタイン氏夫妻、米友協会員等にして、ハ翁は「米国にも此のやうな立派な劇場はない、私の一代に日本がこんな建築を為し得るに至つたのは此上もない愉快だ」と喜悦の情に堪えざるものの如く、演劇は大坂落城の一物語なりしかど、老水兵だけに熱心に見物し、中幕後食堂を開きて饗宴を催し、市よりは紀念品として一朱の台場銀を鏤めし銀の唐櫃形の宝石入箱を贈り、又野々山参事会員よりも幸四郎の似顔弁慶の人形を贈られ、翁は「此様な好い土産はない」とて喜悦満面、いと満足して八時半帰館せりと云ふ。


中外商業新報 第一一三六六号大正六年一一月二四日 ○日本刀を贈られて大喜び 昨夜のハ翁 渋沢男感慨(DK390069k-0003)
第39巻 p.157-158 ページ画像

中外商業新報 第一一三六六号大正六年一一月二四日
    ○日本刀を贈られて大喜び
      ◇昨夜のハ翁
      ◇渋沢男感慨
ハーデー翁歓迎大講演会は、既報の如く昨夜六時から神田青年会館で開かれた、聴衆は海嘯の如く押寄せ入口を締め切る騒ぎ、巌谷小波・小松緑・高島平三郎・添田博士・三宅博士・神田乃武男等の講演があつた、武徳会から二尺二寸白鞘の日本刀をハ翁に贈ると、翁は二・三遍推し戴いて喜ぶ、代つて渋沢男壇上に起ち「ハ翁を見て感慨に堪え
 - 第39巻 p.158 -ページ画像 
ない、自分が埼玉県の片田舎から江戸に飛出し大いに攘夷を唱へたるのは、実に此のハーデー翁がペルリ提督と共に浦賀を脅かしたのに憂憤したが動機であつた、当時ハ翁十七歳の青年、自分は十四歳の少年であつた」云々と当時を回想して涙滂沱たるものあり、次いでハ翁立つて昔語りに満場を感動せしめ、ハ翁来朝以来の活動写真が映写され大盛会裡十時半散会した


中外商業新報 第一一三六七号大正六年一一月二五日 ○交詢社から帝劇見物 引張凧のハ翁(DK390069k-0004)
第39巻 p.158 ページ画像

中外商業新報 第一一三六七号大正六年一一月二五日
    ○交詢社から帝劇見物
      ▽引張凧のハ翁
交詢社にては廿四日正午ハーデー翁を招きて歓迎会を催せり、会する者約二百名、水兵服のハ翁を正座に一同食卓に着き、軈て鎌田理事長起ちて歓迎の辞を述ぶれば、白髯を撫しつゝハ翁は起ちて謝辞をなして曰く、予は「老齢、思ふに余生幾許あるべからざるも生を此世に受くる限り、米国の一市民として日米親善の為に有らゆる力を致して天国に行かん事を盟ふ、然して予が墓碑には日本を記憶して忘れざる旨の一句を記さむ事を玆に声明すべし」と、更に鍋島侯の歓迎辞あり、同行者たる華父日報社長阿部氏の挨拶あり、午後二時散会せり、斯てハ翁は午後三時より東京市主催の招待に応じ、帝国劇場に赴けば、陪賓たる米国大使館ボラタイン氏夫妻、金子子・藤山商業会議所会頭、成瀬・福井・坂井・倉知・杉村其他の米友協会、日米協会関係者亦至り、主人側としては渋沢男・中野市会議長以下市参事会員、高橋・宮川両助役等出席したるが、翁は日本古代の演伎に興を催す事一方ならず、午後七時三十分食堂に入り高橋市長代理より歓迎辞を述べ、ハ翁の挨拶あり、午後十一時歓を尽して東京駅ホテルに入れり、当日市より記念として銀製唐櫃形宝石入箱を贈りしが、其中には嘉永六年の一朱銀を入れたり、之はペルリ提督来航当時幕府が品川沖に台場を築きし時、其工事に支払ふべく鋳造せる所謂「御台場銀」なり
   ○本款大正七年四月二十九日ノ条参照。