デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.232-236(DK390138k) ページ画像

大正11年11月2日(1922年)

是ヨリ先、アメリカ合衆国ハワイ大学総長アーサー・エル・ディーン渡来ス。是日栄一、東京市養育院ニ案内シ、更ニ飛鳥山邸ニ招キテ午餐会ヲ催ス。次イデ翌三日、栄一、同人ヲ府下東村山村全生病院ニ案内ス。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK390138k-0001)
第39巻 p.232-233 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
十一月二日 木 午前九時半 デイン博士ヲ東京養育院ヘ御案内
          零時半 デイン博士招待会(飛鳥山邸)
 - 第39巻 p.233 -ページ画像 
        午後六時半 日米関係委員会催、ジヨルダン、デーン両博士招待会(銀行クラブ)
十一月三日 金 午前九時半 デイン博士ヲ村山全生院ヘ御案内
              デイン博士ヲ招待午餐会(日本工業クラブ)
   ○中略。
十一月廿五日 土 午後三時 日米関係委員会催、デーン博士懇談会(銀行クラブ)


(増田明六)日誌 大正一一年(DK390138k-0002)
第39巻 p.233-234 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一一年 (増田正純氏所蔵)
十月十四日 土 晴
子爵不相変御元気ナリ
定刻出勤
午前十一時外務省ニ永井局長訪問、ホノルヽに於ける布哇大学総長デーン博士来邦ノ件、同地アサートン氏ニ子爵ヨリ回答書状ノ件、シヤトル西北部聯絡日本人会ニ於ケル土地試訴費補助ノ件ニ付談話したり午後四時、服部文四郎氏ヲ東京商業会議所ニ訪ヒ、ホノルヽニある日米両国人に子爵より紹介したる書状と、日米関係委員会より同氏ニ在布移民教化運動ニ関する嘱託費として、金壱千五百円ヲ手渡したり
デーン博士接招ノ件ニ付キ、鶴岡出張中の姉崎正治博士・京都同志社の中瀬古博士及東京帝国法科山田三良博士ニ出状す
   ○中略。

十月二十日 金 晴
○上略
夜七時半、去九日プレシデント、ピーアス号ニ搭乗、来朝の布哇大学総長デイーン博士夫妻横浜ニ上陸、九時帝国ホテルニ投宿、博士ハ大ノ親日家ニテ夙ニ在布日本人の為ニ尽力する処あり、今度日米関係委員会の招待ニ応したのである
博士は六年前に大楓子油から癩病治療注射液を発見し、治療至難として全く治療薬無しと云ハれて居た癩患者に福音を与へ、布哇にて之カ治療ニ因りて全治したる患者が七百人に達したが、本年に入りて四十人が此注射薬にて全治したと云ふ。
○下略

十月二十一日 土 晴
定刻出勤
昨夜デイン博士来着ニ付き、其日程上ニ関し急き之先きへ電話を掛けて打合ハセを為した、廿三日日本女子大学参観及講演、午餐の事ハ同校幹事塘茂太郎氏へ電話して快諾を得た
○中略 零時半事務処に帰つた
昨夜来着のデーン博士夫妻が、子爵と会談して居る最中であつたので陪席して其談話を聞いた、博士とハ本年一月布哇にて面識がある、夫人とハ初対面の挨拶を為した
○中略
夕、姉崎博士来訪、デーン博士滞在中の日程編成に就き小畑と小生と
 - 第39巻 p.234 -ページ画像 
三人で合議した、漸く完了して帰宅したのハ九時であつた
○下略
十月廿二日 日 晴
○上略 十二時帰宅○中略帰宅後ハ終日、デーン博士の滞邦日程の編成に従事す
○下略


東京市養育院月報 第二六一号・第二一頁大正一一年一一月 ○布哇大学総長の本院及巣鴨分院視察(DK390138k-0003)
第39巻 p.234 ページ画像

東京市養育院月報 第二六一号・第二一頁大正一一年一一月
○布哇大学総長の本院及巣鴨分院視察 十一月二日午前十時、布哇大学総長アーサ・エル・デイーン氏は、渋沢院長・渋沢事務所員小畑久五郎氏と共に来院せられ、楼上会議室に於て小畑氏通訳の下に院長より本院事業に就き詳細なる説明を聴取の上、田中幹事の案内にて本院及巣鴨分院を視察せられたり


竜門雑誌 第四一五号・第七一―七二頁大正一一年一二月 ○デーン博士招待会(DK390138k-0004)
第39巻 p.234 ページ画像

竜門雑誌 第四一五号・第七一―七二頁大正一一年一二月
○デーン博士招待会 青淵先生には十一月二日零時半より、飛鳥山曖依村荘に於て今般渡来の布哇大学総長デーン博士夫妻の招待会を催され、尚ほ陪賓として添田博士・大河内子・古河男夫妻・姉崎博士夫妻頭本元貞・麻生正蔵・井上秀子諸氏列席の上、款待せらるゝ所ありたりと云ふ。
○全生病院視察 青淵先生には十一月三日午前九時半より、布哇大学総長にして癩治療研究の大家たるデーン博士を、東村山村全生病院に案内せられ、我邦に於ける癩病患者治療の実地を視察せしめられたるが、当日院長兼医長たる光田健輔氏の説明に依り、博士は親しく注射の実況を見、且つ自ら患者に手を触れて診察する所あり、尚ほ院内の礼拝堂に患者一同を集めて青淵先生及博士の講話ありたる由なるが、引続き正午より博士を始め、刈米・石津・三宅諸博士、並に窪田行政裁判所長官・横山衛生局長・田子社会局部長・田中太郎氏・安達憲忠氏等を日本工業倶楽部に招待の上、午餐会を催されたりと云ふ。


(増田明六)日誌 大正一一年(DK390138k-0005)
第39巻 p.234 ページ画像

(増田明六)日誌 大正一一年 (増田正純氏所蔵)
十一月六日 月 曇
○上略
デーン博士明日関西方面旅行ニ付、大阪・京都・神戸ニ於ける講演参観其他接待ニ付、市長並商業会議所会頭宛依頼状を認め、十時帰宅す
○下略


集会日時通知表 大正一一年(DK390138k-0006)
第39巻 p.234 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年 (渋沢子爵家所蔵)
十二月一日 金 正午 癩病ニ関スルディーン博士講演会(銀行クラブ)


東京日日新聞 第一六五五〇号大正一一年一〇月二二日 天刑病者の神様デ博士夫妻来朝 渋沢子爵の招待で癩病治療の状況を視察に(DK390138k-0007)
第39巻 p.234-235 ページ画像

東京日日新聞 第一六五五〇号大正一一年一〇月二二日
  天刑病者の神様デ博士夫妻来朝
    渋沢子爵の招待で
 - 第39巻 p.235 -ページ画像 
      癩病治療の状況を視察に
廿日午後七時、サンフランシスコから横浜に入港した太平洋郵船プレシデント・ピヤースで多数の名士が来朝した、まづ重なる人はハワイ大学々長アーサー・エル・デイーン博士夫妻、ハワイ無線電信局エツチ・エー・オキセンハマ氏夫妻及びニユーヨークの
 著述家 として知られてゐるイー・テー・シートン氏の夫人などである、デイーン博士は曾てホノルルへ赴任し 同地のカーリヒ癩病院に年々多数の天刑病者がおくられてくるのを見て、これが救済の途はあるまいかと考へ研究をつづけてゐたところ、五年程前支那の古文書の中にテモクライン即ち大楓子油が天刑病に特効があることをよみ、これで
 注射液 をつくり、実験したところ、非常の効果ををさめ、世界一千万人の同病者の救ひの神となつた人である、なほ博士この度の来朝は渋沢子爵の招待によるもので、近日中に帝国大学で講演する筈で、村松癩病院を初め仙台・熊本の回春病院をも視察すると


楽園時報 第二四巻・第一〇号昭和三年一〇月五日 渋沢子爵より受けた印象 アーサー・エル・ヂーン(DK390138k-0008)
第39巻 p.235 ページ画像

楽園時報 第二四巻・第一〇号昭和三年一〇月五日
    渋沢子爵より受けた印象
                  アーサー・エル・ヂーン
 経済及実業上に著しき技能を有する人は稀有でない。米国に於ても大事業を経営する才能の人は多くあるが。経済的才能に加へて国家的事業及び国際関係につける大なる理想を実現せる実業家は決して多く見ることはできない。渋沢子爵は正に其一人である。日本国外に於て子爵に献ぐる最高の尊敬は。全く実業及世界的関係に於ける彼が大なる才能と貢献に帰するのである。
 余は嘗て日本に於て渋沢子爵に接する光栄を得たが。当時余が直ちに感じたことは、この偉大なる人物は啻に財政家であり国士であると云ふだけでなく。人道の大なる愛好者であると云ふことであつた。これが渋沢子爵の真の性格を能く顕すものと余は信ずるのである。余は常に過去を憶ひめぐらすときに。東京の近くにある癩病院に於て。多くの患者の前に立て。心より湧き出る慰藉と友愛の言葉を与へつゝある子爵の面影が。余の目の前に浮び出て来るのである。日本に於ては癩病者は啻に恐れられるのみでなく卑しめられたものである。其処に日本の偉人は自ら訪問して最も不幸な人々に談話されたのである。又一日東京救貧院を訪問したが。其所には子爵の庇護を受けて居る数家族があつた。
 子爵が晩年労資協調のため日米親善のため。大なる興味を以て働きつつあることを聞き。其真情誠意に感激せざるを得なかつた。
 渋沢子爵の成功の秘訣は、顕著なる才能と精力に由るは無論であるが、子爵の品性の土台は正に彼が同胞に対する愛である。


竜門雑誌 第五二〇号・第一五四頁昭和七年一月 渋沢子爵と布哇の関係 布哇大学教授原田助(DK390138k-0009)
第39巻 p.235-236 ページ画像

竜門雑誌 第五二〇号・第一五四頁昭和七年一月
    渋沢子爵と布哇の関係
                布哇大学教授 原田助
 - 第39巻 p.236 -ページ画像 
○上略 布大前総長デーン博士により、癩病治療薬チヨルムグラ・オイルが発見された、その成績のいゝ事を私から渋沢子に通知すると、渋沢子の尽力でデーン博士を日本に招聘されたものである○下略
   ○右記事ハ「実業の布哇」(昭和六年十二月号)ニ掲載セラレタルモノヲ転載セルモノナリ。
   ○本資料第三十三巻所収「日米関係委員会」大正十一年十一月二日ノ条参照。