デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.508-517(DK390250k) ページ画像

昭和2年10月7日(1927年)

是日、アメリカ合衆国モルガン商会代表者トマス・ダブリュー・ラモント、渋沢事務所ニ来訪シ、栄一ト対談ス。次イデ十八日、栄一、帝国ホテルニラモントヲ訪フ。


■資料

集会控 自大正一五年一一月二六日 至昭和四年六月三〇日(DK390250k-0001)
第39巻 p.508 ページ画像

集会控  自大正一五年一一月二六日 至昭和四年六月三〇日   (渋沢子爵家所蔵)
    二年十月中
十月七日(金)後四 トーマス・ダブリユー・ラモント氏ト御会見 事務所
  ○中略。
十月十八日(火)後三・四五 ラモント氏ヲ御訪問 帝国ホテル


(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記 昭和二年(DK390250k-0002)
第39巻 p.508 ページ画像

(阪谷芳郎) 日米関係委員会日記   昭和二年
                     (阪谷子爵家所蔵)
 ○二、十、四 銀行クラブニテ団・井上二氏、ラモント及スミス一行ヲ招待、余欠席ス。七日渋沢事務所ニテ渋沢・余頭本・小畑同席、ラモント氏ト会話ス。 ○下略


竜門雑誌 第四七〇号・第九八―一〇四頁 昭和二年一一月 ラモント氏来訪(DK390250k-0003)
第39巻 p.508-512 ページ画像

竜門雑誌  第四七〇号・第九八―一〇四頁 昭和二年一一月
    ラモント氏来訪
   米国モルガン商会のラモント氏は、十月七日午後四時事務所に来訪、頭本氏の通訳にて子爵と左の如き談話を交換せられた。
子爵「真珠の養殖をやつて居ります御木本氏が懇切に、貴方に鳥羽の養殖所へ一度御出でが願ひ度いと云ふて書面を認め、之を私より伝達する様にと依頼せられましたので森賢吾氏に御渡し致しましたが、御覧下さいましたことゝ思ひます」
ラ氏「拝見いたしましたが、遺憾ながら時間がないので参ることが出来ません。御断りの返辞を致しました」
子爵「扨て此頃経済界を全くのいて居る私には、経済上の事柄に就て申上げることは出来ませぬけれど、日米の国交に間違を生ぜしめぬやうにと云ふことは、米国から日本が金融を受ける以上熱心に希望して居ります、お忙しい貴方にお目にかゝり、此事を親しく申上げたいとお出でを願つた訳で恐縮であります」
ラ氏「私はそのことには興味を持つて居ります」
子爵「日米の関係に就て別に懸念する点はありません。然し日本の人気も気早い事があつたり、米国人中にも親切な人があると同時に突飛な人もありますから、此の間に行違を生ずる惧れがないとも限りません。私はそれを防ぎたいと思ふのでございまして、我々は自発的に日米関係委員会を組織し三十余名、政治家・学者・実
 - 第39巻 p.509 -ページ画像 
業家等が打寄つて常に相談致して居ります。此処に居る阪谷男爵も頭本氏も其会員であります。従つて早く申せば、それを貴方のやうな有力な方に知つて頂き、日本を了解して下さるやうにしたい。それが私の日米問題に対して居る主義であります」
ラ氏「至極結構です」
子爵「古いことを申すやうですが、自分の身の上を申上げると、私の心中がよく判ると思ひます。丁度只今から七十五年前私の十四歳の時始めて米国を知りました。と云ふはコモンドル・ペリーが来朝したからで、当時はおしなべて外国を一様に見て居りましたから、米国をも侵略的な国だと思ひました。それは無理のない事柄なので、八十年程前英国が阿片を支那へ売付けてから、物議を醸し遂に戦争をして香港を取つたのでありますから、英国を暴戻な国としたが、日本人はさうした事実を聞いて、うつかりして居れば国を取られるかも知れない、故に外国の侵略に対して力を尽さねば生き甲斐はないと自覚して、私は百姓であつたが所謂壮士の仲間には入りました。併し其後次第に世の事態を知るに及んで、其考へはよくない誤つて居る、或は中には暴戻な貪婪な国もあることはあつたが、米国の如きは殊に然らずと知りました。そしてどうしても西洋文明の科学的な進みを知らねばならぬと考へるやうになり、二十七・八歳の時代、即ち仏蘭西へ民部公子のお伴をして行く時分には、夢が醒めて、米国の日本に対する親切が就中よく判つたのであります。斯様な私一身のことを申し上げるのは無躾のやうですが、私の二十台の頃に外国に対する考への変つたことを打あけて、お話した次第であります。爾来米国と日本とは一層親善の関係を継続し、政治的には相互に公使の派遣から大使へ進む、又実業上の通商は益々進んで、私達は米国を友とし、先輩国として敬愛しつゝあつたのであります。処が彼の移民法と云ふ問題が起りまして、日本人にとつては、面白くない事になりました。勿論私は此事を苦情がましく申上げるのではなく、たゞ事情をお耳に入れて居るのですから、誤解のない様に願ひます。然し斯様なことで、昔流の一徹な武士気質の者は間違つた解釈をし易いのであります。私達はよく事情が判つて居りますから、之等の人々の誤つた考へを正す為めに、米国が昔から日本に親切で、常に日本に尽して下さつた事などを広く知らせる事に努力致して居ります。日本開国の当時、よく日本の為めに努めて倦まなかつたハリスなどには深く敬服して居りますが、去る一日ハリスが来朝当時滞在し領事館として居た伊豆下田柿崎の玉泉寺に其の記念碑を建てましたから、それに就て一寸申上げます。タウンセンドハリスは、七十二年前の安政三年に下田へ渡来し、九月四日玉泉寺に始めて領事旗を樹てました。其の日の日記があります、それには先づ(旗竿を樹て、それから日本での最初の領事旗を掲揚した。自分は日本の為によかれと思つて居るが、果して今後どう成るであらうか)と書いて居りますので、建碑式の日に私は(日本は現在斯くの如くなりました。此事を在天のハリスの霊に告げて
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お礼を申します)と申したやうな次第であります」
ラ氏「お話を伺ひまして私も一・二申上げ度いと存じます。子爵は将来日米両国の間に衝突するが如き懸念はない。と仰せられましたが、私は更に強く絶対に左様なことはないと信じさう申します。移民法に就てのお話によりますれば、日本人の間に悪い感情を持つ人もあるかのやうでありますが、これは無理からぬことゝ存じます。併し米国側としては、此の法律が定まつてから以後、国民の日本に対する感情が却つて好くなつて来たことは争へませぬ。私が此方へ参ります前、国務卿ケロツグ氏は(米国の日本との関係が今日程協調的であることはない)と申して居りました。又実にゼネバに於ける海軍々備制限の会議に於て、日本の代表は常に米国代表と協力せられたことを感謝致して居ります。更にケロツグ氏は附加して(君が日本へ行き、民間や政府の事業に援助することに対しては満足の意を表する)と申しました。両国の経済関係に就て尚ほ一言清聴を煩します。近来米国の銀行や金融業者の間で、日本の事業会社の社債引受を進んで行ふ傾向があり、之が関係は益々強くなつて居ります。其の一つの実例を云へば、震災翌年の一月、森財務官は紐育に於て一億五千万弗の公債募集の要務を帯びて見えましたが、米国多数の資本家側では金高が多いから失敗するかも知れぬと申しました。けれどもモルガンは二つの理由、即ち一つは日本は今必要に迫られて居ること、もう一つには日米間の親善の一助になるのであるから、是非引受けねばならぬとて遂に此の日本の公債を四・五万人の米国人に持たせました聖書の中に(宝のある処に爾の心がある)と云ふ言葉があります米国は進んで日本に投資致しますが、之を使ふ日本の実業家が注意して有用に使つて下さることを切に希望するのであります」
子爵「私は経済界を去つた身柄でありますが、永年経済のことに携りましたゞけ、お言葉を承りまして釘をさゝれるやうに感じます。日本の実業家に力を入れて仕事をしてもらうやうに努力致しませう、どうも今日の処、日本では経済のみでなく政治も、遠慮なく申すと合理化して居ないやうであります。とは申せ決して将来を懸念する程ではなく、多少拙いことはあつても、又大いなる進みもあります。米国の親切をよく受けこなし得るかどうかに就て、老人である丈け幾分かの懸念を抱いて居りますが、どうか阻却の起らぬことを祈つて止まぬ次第であります」
ラ氏「そのお言葉を伺つて満足致しました。今一つお暇する前に移民のことを申上げ度いと思ひます……」
子爵「誠によく実情を御研究の上でのお話で了解いたしました。我々から日本の移民を評すると、無学な者が多い処へ、日露戦争に勝つたから、幾分とも威張る風になつたので勤勉で嫌はれる上に、品格の悪いので、よけい嫌はれたことゝ思ひます。実に此事は遺憾でありますが、私は米国に対して、決して不平や苦情は申しませぬ。たゞ貴方などのお心に、此事を存じて置いて頂いて、折があつたら改正し下さるよう希ひます。此問題に就て私達は日本の
 - 第39巻 p.511 -ページ画像 
内地にては物議を生ぜしめないことが出来ると信じて居ります。又先に申しましたやうに、ハリスには日本が斯うなつたと告げましたが、貴方には日本に金を貸して下さつたが、其結果遂には斯うなりましたと、次でお告げし得るやうになり度いと存じます」
        ――――――――――
    ラモント氏と再会見
   十月十八日午後四時、帝国ホテルに於て子爵とトマス・ダブルユー・ラモント氏とは再び会見せられた。
ラ氏「能く御出て下さいました。御厚意を感謝致します。御掛け下さいませ」
子爵「明日御帰国の由を承知しましたので、御多忙とは存じましたが鳥渡でも御別れの御挨拶を申上げ度いと考へた為め強て参上致しました。私は事業界から隠退致しました身柄で御座いますので、経済界の状況も能く存じませんですが、此度の御渡来に依つて我邦の為に御計り下された事が多々あることゝ信じ、国民の一人として厚く御礼を申上げます」
ラ氏「鄭重な御言葉を頂戴しまして真に有難く存じます。日本に於ては子爵閣下の御意見より以上に、重きをなす意見は無いと信じて居りますから、子爵の御一言は私に取つて千鈞の重きをなすものであります」
子爵「過日御来訪の節に申上げましたが、タウンセンド・ハリスは七十二年前に我邦に参られまして種々尽力されました。
  其日記の一節に頗る意味の深い句があります。即ち『之れ果して日本の為め幸福なりや否や』といふのであります。私は玉泉寺構内に建設せられたる記念碑の除幕式に臨み、一場の挨拶を致しましたが、其時臨席の人々に向つて私は諸君と共に、今日在天のタウンセンド・ハリスの霊に対して『然り確に日本の為めに幸福なりしと答へんとす』と申しました。七十二年前に発せられた質問に対して漸く答ふることが出来たのですが、貴方の此度日本の為めになされた事に対しては、七十二年を待たず唯今直ぐ日本の為め幸福で御座いますと答へる事が出来ます」
ラ氏「身に余る御賞讚の御言葉を戴きまして恐縮に堪へません。私が一万五千哩以上の里程を旅行して、今回実地調査致しましたことを、本国及ロンドンに報告致しますが、其報告はエンカレージングなものである事を申上げて置きます。私は今日も将来も日本国の為めに微力を致す決心で御座います」
子爵「御言葉を真に有り難く拝聴致します。然し我国の一部には慢心に駆られて稍もすれば米国・英国、次ぎに日本などと自惚れて居る者も少くは御座いません。此等の人々には時に苦言を呈して戴くのが有益と存じます。最も溌刺たる精神を以て進む者を無暗に抑へるのも考へものですが、兎に角貴国や英国などとは到底比較にならぬ程の懸隔が御座いますから、時には此方面に就て貴方方から御注意を受くる必要があると存じます」
ラ氏「日本は決して劣つて居らぬと思ひます」
 - 第39巻 p.512 -ページ画像 
子爵「一千九百二十四年、彼の移民法が貴国の議会を通過しました時私はハーヴアード大学名誉総長エリオツト博士に書面を送つて、米国の仕打が甚だ無情な事を慨歎して善後策を講ぜられ度いといふ意味を漏らしました。之に対してエリオツト博士は懇切なる回答を送られました。其内に国と国との交際が円満に行はるゝには万事対等でなければならぬ、日本の婦人教育などもモー一層進める必要があるではないかと曰はれました。私は学問がありませんから教育家たる資格はありませんが、日本の女子教育には大に努めて居ります。先年御令閨が御出で下さいまして、一場の御話を下さいました日本女子大学の為めには特に尽力致して居りますから、御帰りの節は此事を御令閨に御伝へ戴きたいと思ひます」
ラ氏「家内は子爵の此御言葉を聴いて非常に喜ぶことゝ存じます、必ず伝へます」
子爵「御多忙の処御邪魔を致しまして相済みません。私はもう一度貴方に御目にかゝり度いと思ひますが、今年八十八歳の老人ですから到底貴国に参る訳けに参りません。私の死ぬる前に必ず御出で下さい。然しかう申すからといつて私は直ぐに死ぬると申すのでは御座いません」
ラ氏「先夜或る宴会の折、子爵閣下の米寿の御祝ひを申上げましたが私は此次ぎには九十九歳の御祝ひを申上げ度いと思ひます」
子爵「其れでは御無礼致しました。先刻申上げました女子教育に関聯して、御令閨の日本女子大学に於ける御演説を拝聴して感佩致しました時の記憶を、未だに忘れぬ事をどうか御令閨に御伝へを願ひます」


(トマス・ダブリューラモント) 書翰 渋沢栄一宛 一九二七年一〇月二六日(DK390250k-0004)
第39巻 p.512-513 ページ画像

(トマス・ダブリューラモント) 書翰  渋沢栄一宛 一九二七年一〇月二六日
                     (渋沢子爵家所蔵)
23 Wall Street
 New York
              On Board S. S. President pierce
             Enroute San Francisco, California
                    October 26, 1927
Personal
My dear Viscount Shibusawa :
  As I leave the shores of Japan after my too brief visit there I must thank you again for the kind attention which you bestowed upon me, and for the views with which you were good enough to favor me. It is always a great satisfaction to me to feel that I have you for a friend, and one of my cherished hopes is that the future may hold out further opportunities to show my sincere friendship for the Japanese people.
  With every good wish, I am,
             Sincerely yours,
           (Signed) Thomas W. Lamont
 - 第39巻 p.513 -ページ画像 
  Thank Mr. Obata for his kind interpretation,
    My regards to Count《(Baron)》 Sakatani.
To-
Viscount Eiichi Shibusawa,
  1036 Nishigahara,
  Takinogawa,
  Tokyo, Japan.
(右訳文)
          (栄一鉛筆)
          十一月二十四日一覧
          特に回答にハ及ばずとも存候も、懇切なる来書ニ付同氏滞京中充分之接待し得さりしを謝し、且来状之要旨ニ答へて相当之謝辞申通度事
 東京市               (十一月十五日入手)増田
  子爵 渋沢栄一閣下
        桑港へ向ふプレシデント・ピアース号にて
        一九二七年十月二十六日
              トーマス・ダブルユー・ラモント
拝啓、益御清栄奉賀候、然ば極めて短期間の滞在の後日本を去るに臨み、小生は閣下より忝ふせる御厚意並に拝聴の栄を得たる御高見に対し重ねて御礼申上度と存候、小生が閣下を友人として有する事は小生の常に大いに満足する処有之、小生の最も希望致候は将来小生が日本国民に対し、深厚なる友誼を披瀝し得べき機会を得候事に御座候
右御礼まで申上度如此御座候 敬具
 追而小畑氏が御親切なる通訳の労を執られしを拝謝し、尚ほ阪谷男爵にも敬意を奉表候


渋沢栄一書翰 控 トマス・ダブリュー・ラモント宛 (昭和二年一二月二六日)(DK390250k-0005)
第39巻 p.513-514 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  トマス・ダブリュー・ラモント宛 (昭和二年一二月二六日)
                     (渋沢子爵家所蔵)
                    (栄一鉛筆)
                    十二月七日一覧 明六
    案
 紐育市ウオール・ストリート二三
  トーマス・ダブルユー・ラモント殿
                   東京 渋沢栄一
拝復、十月廿六日付の御懇書正に落手拝読仕候、然ば貴台には首尾能く東洋の御旅行を果され、無事御帰国の由慶賀此事に御座候、東京御滞在中は数回御面会の栄を得候も、日夜御多忙を極めさせられ候為め緩々御款談の機会も無之、日々御多忙中に御帰国成され候を頗る遺憾に存候、我邦財界の実情に関する貴台の保証的御意見が発表せられ候により、貴国の諸財団が我邦に対する誤解を解き、従来の信用を恢復せられ候由承知致し、貴台が如何に貴国経済界に重きを為され居るかを感佩罷在候、何卒今後共、此方面より日米親善に御努め被下候様願上候
右御回答旁得貴意度如此御座候 敬具
  ○右英文書翰ハ昭和二年十二月二十六日付ニテ発送セラレタリ。
 - 第39巻 p.514 -ページ画像 
  ○本款大正九年三月六日ノ条参照。


渋沢栄一書翰 控 額賀大直宛 昭和二年一〇月七日(DK390250k-0006)
第39巻 p.514 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  額賀大直宛 昭和二年一〇月七日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然ば本書持参のトーマス・ダブルユー・ラモント氏は、米国モルガン会社総理事にして同国経済界に於ける最有力なる一人に有之、我国外債募集等に付ては常に不容易厚配を得居候方にて、今回の来遊に付ても朝野を挙げて御歓迎致候は新聞紙にて御承知の義と存候処、近く貴宮参拝の由を承り候に付ては出来る限りの御便宜御与へ頂き度、同氏と年来懇親に願居候老生より御願申上度、一書得貴意候次第に御座候 敬具
  昭和二年十月七日            渋沢栄一
  日光東照宮
    額賀大直殿



〔参考〕中外商業新報 第一四九五三号 昭和二年一〇月五日 ラモント氏歓迎の晩餐会 昨夜銀行倶楽部において ラ氏の震災思ひ出話(DK390250k-0007)
第39巻 p.514-517 ページ画像

中外商業新報  第一四九五三号 昭和二年一〇月五日
  ラモント氏歓迎の晩餐会
    昨夜銀行倶楽部において
      =ラ氏の震災思ひ出話=
トマス・ラモント氏歓迎の晩餐会は、既報のごとく四日午後七時から丸の内東京銀行倶楽部に於て開会
 (主賓)
 紐育モルガン商会組合トマス・ラモント、国際聯盟の財政部員ゼレマイヤー・スミス、モルガン社マーチン・エガン、ラモント氏秘書エドワード・サンダース、ラモント氏の友人エドワード・イグリー(陪賓)
 米国大使マクベー氏、三土蔵相、山本農相、西久保市長、渋沢子、埴原正直、森賢吉
 (主人側)
 浅野総一郎、団琢磨、井上準之助、池田成彬、児玉謙次、梶原仲治串田万蔵、木村久寿弥太、大倉喜八郎、鈴木島吉、佐々木勇之助、結城豊太郎の諸氏、其他六十四名出席
晩餐終つて後、先づ米国大使マクベー氏立て、天皇陛下聖寿無窮の乾盃をあげ、続いて三土蔵相、米国大統領のために乾盃し、デザートコースに入つて別項の如く井上日銀総裁歓迎の辞、ラモント氏の謝辞あり、スミス氏また簡単なる挨拶をなして後、出席者相互に懇談をまじへて午後十時散会した
    井上氏の歓迎辞
 ◇今晩吾等の主賓米国ヂエ・ビー・モルガン商会のトマス・ラモント氏及び御一行を歓迎申上けますことは、私の最も愉快とし且名誉とする処であります、今晩の主人側としましては、今日日本の実業界各方面の代表的人士を網羅したと申上げても差支ないかと存じます、又陪賓の各位には私共の招待を御承諾御出席下さいましたことは私共の誠に光栄とする処でありまして、私は今主人側並陪賓各位を代表しまして一言歓迎の辞を述べたいと想ひます
 - 第39巻 p.515 -ページ画像 
 ◇米国が大戦後世界の建て直し及経済界の安定の為めに、如何に多大の貢献をされたかは私の此処に詳しく申上げるまでもないことでありまして、オーストリア、ハンガリー、独逸、さては白耳義の財政改革・通貨の安定、英国に於ける金本位の復帰、其他諸国に於ける復興の事業に米国が大いに与て力を致したと云ふことは諸君周知の事実でありますが、私が特に申上げたいことは、此欧洲の復興運動にモルガン商会が非常に深い関係を持て居る事と、今晩主賓たるラモント氏が、モルガン商会の事業に於きまして重要な地位を占めて居らるゝと云ふ事実であります、次に又最近まで国際聯盟の下にハンガリー国財政委員長の要職にあり、同国の財政改革に尽力され其の名声は世界的に知られたゼレマイア・スミス氏の功績も亦吾等の牢記すべき処であります、今夕ラモント氏と共に同氏を此の席に歓迎致しますことは、私共の大に欣喜とする処であります
 ◇モルガン氏及氏の主宰さるゝモルガン商会は、曩に隣国支那の借款団に関係され居りましたが、戦後直ちに東洋の形勢に着目されまして、先年ラモント氏は東洋の事情視察の為め渡来せられ、関係国間に新に対支那四国借款団の成立を見るに至り、以来ラモント氏の名は借款団と共に連想せらるゝ様になりました、それ以来モルガン商会と吾々、又個人としてラモント氏と私共との間に、親密な関係が生じて来たのであります
 ◇大正十二年の大震災後、日本が巨額の外債を発行するに当りまして、ラモント氏の関係されて居るモルガン商会が其成功の為に大に尽力され、其結果日本は巨額の対外支払を安じて何の故障もなく決済することが出来たことは、諸君の猶ほ記憶に新らしい処であります。又昨年東京及び横浜市債に売出しに就きましても、同商会は多大の尽力を惜まなかつたのであります、斯くして此の両市は今日諸君が見らるゝ通り彼の灰燼の中から、かくも立派に復興しつゝあるのであります
 ◇私が特にモルガン商会の行為に対して感謝致したい事は、大震災後日本の信用が国際市場におきまして動揺せんと致して居た時に方りまして、日本の前途に信頼して巨額の復興公債を大胆に引受けられたる点であります
 我国の財界は最近未曾有の大恐慌に遭遇致しまして、今なほその跡始末に忙殺されてゐる次第であります。併し私は今日はラモント氏を御迎へ致すに最も好都合の時機であると考へます。それは今日こそ日本の実状をありの儘に視察・判断して頂くに都合が好いと思ふからであります、又今日の機会をもちましてラモント氏が旧交を温め、更に新交を結ばれ、又この機会において日本人及びその国情に就きまして、なほ一層深い理解を得られ、依つて以て日米の関係を一層密接にし、両国親善の絆を一層強められるに至らんことを満場の諸君と共に希望且期待する次第であります
     ラモント氏答辞
 ◇私は井上総裁の誠に懇篤な歓迎の辞を伺ひまして、貴国及び貴国人に、殊に今夕此処に見えて居らるる私の真の友人に対する私の感
 - 第39巻 p.516 -ページ画像 
謝の意、如何に表すべきかを知らぬ次第であります
 ◇井上総裁は大戦後の欧洲の建て直しの事業に於きまして、我々の採りました役割に就き私共の社員及米国に於ける一般同業者に対しまして非常な賛辞を賜はりました、大戦後に於て欧洲は苟も世界の平和と恢復を希望する人士の献身的協力を必要とする状態にあつたのであります、此の時に方りましてモルガン氏及吾等同僚が、独り吾等のみならず全米国の実業界の希望たる、この世界の建て直しの事業に微力を添へることが出来ましたのは、吾等寧ろ大に幸福とする処であります、井上総裁は日本帝国と我モルガン商会との関係に就て申されましたが、之は私の特に愉快に感ずる処であります
 ◇一九二三年九月に日本を見舞つた彼の大震災は、日本の方に取りまして最も痛心な災厄でありまして、又欧米各国は日本の非常な惨害に驚愕したのでありましたが、今亦此処に出席して居らるゝ方々が日本人の先達として、此の大災害の結果に打勝つた其の大なる意気と成功に対して驚きの眼をみはつたのであります、貴国民が一人の如く相一致して平然其の災害の恢復に当られた勇気は、実に全世界にある日本の友人に対する、一つのインスピレーシヨンでありました
 ◇此の貴国人の卓越せる精神が発揮せられました為に、吾がモルガン商会は敢然として一九二四年二月に、只今井上総裁の申されました一億五千万ドルと云ふ巨額の公債の発行を引受けることになつたのでありまして、此の公債の交渉に当られましたのは此処に御出席の森賢吾氏の敏腕に委ねられたのでありました、此の公債があまり巨額でありました故に或方面に於きましては、其の成功を疑はれたのでありました、併し乍ら吾モルガン商会を主とせる米国の財団は此の公債を成功せしむべく決心しまして之に向つて努力したのでありますが、本公債の成功はとりもなほさず日本の海外に於ける信用の確固たることの証左でありました
 ◇一九二三年の大災に次で数月前には、貴国銀行界の恐慌がありました、我米国に於きましても一九〇七年即ち二十年前に金融界の恐慌がありまして、貴国と略ぼ同様な経験を致したのであります、貴国の私共の友人方は此の銀行騒動に直面しましても、震災時に於けると同様な卓越したる能力と勇気とを以て事に処せられましたのであります、勿論私が日本に参りましてから未だ間もないことでありますから、貴国の内情に親しく通ずると云ふ訳には参りませんが、併し私は日本が今日未だ其難局より全く脱し切れないとしても、時局は既に収拾せられて徐々に然し確実に恢復の途に就て居ると確信して居らるゝ諸賢の言を其儘受け入るゝものであります、私の此の確信は一般貴国人が過去に於て発揮されました勇気からのみ得たのではありません、特に此の多難の時局に方りまして今夕此処に御出席の貴国の有力の方々の人物及能力に対する信頼の念から来たものであります
 ◇終りに臨みまして私は到る処に東京市の復興事業が驚くやうに進歩して居ること、殊に諸建築新道路の建設の進捗して居ることを見
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まして慶賀の意を表する次第であります、是れやがてこの地方全体の通商交通に大なる刺戟となると思ひます
    ラ氏滞在日程
三日来朝のラモント氏日程如左し
 △四日、井上・団氏外金融実業代表者及総理大臣、米国大使等の歓迎会 △五日午前参内、正午総理大臣午餐会、晩東邦電力松永氏の晩餐会 △六日東京視察、午後七時四十分三井男招待会 △七日正午岩崎男の午餐会、後六時日米協会の晩餐会 △八・九日日光見物 △十日正午ハーバート校友会の午餐会 △十一日団氏と富士山見物晩帰京後十一年会招待会△十三日関西見物以後不明 △十七日正午米国大使の午餐会 △十八日正午日本銀行の招待会 △十九日帰国



〔参考〕中外商業新報 第一四九五五号 昭和二年一〇月七日 三井男邸のラモント氏歓迎会 ラ氏市内視察の印象を語る(DK390250k-0008)
第39巻 p.517 ページ画像

中外商業新報  第一四九五五号 昭和二年一〇月七日
    三井男邸のラモント氏歓迎会
      ラ氏市内視察の印象を語る
西久保市長以下の案内で復興途上の我帝都を神田から浅草本所と、六日夕刻までくまなく視察したラモント氏一行は、一旦ホテルにひきかへし少憩の後、予定の通り午後七時から麻布今井町の三井高精男の歓迎晩餐会におもむいた
 主賓側はトマス・ラモント氏を始め、イーグン、スミス、サンダース、イグリーの五氏で、陪賓として
 米国大使マクベー氏並に同夫人、同国総領事バアーカ氏並に同夫人書記デウーマン氏並に夫人、田中首相、三土蔵相、牧野伸顕伯、井上準之助氏並に同夫人、渋沢子、金子堅太郎、森賢吾氏、主人側は三井高精男爵、同令嬢祥子氏、同弁蔵氏並に夫人、同高長氏、同高篤氏並に夫人の三井一家を始め、団琢磨、有賀長文、福井菊三郎、池田成彬、米山梅吉、牧田環氏等
出席者四十余名、多くは夫人づれで会は同四十分より開かれたが、その夜は殊に打とけて堅くるしいことは一切ぬきとの主人側の意向で、直にテーブルに着き高精男の乾盃にわきあいあいの内に晩餐をとつたが、ラ氏は昼間視察した復興の東京市の
 印象を座談的に話したりして、歓談裡に八時半晩餐会を了り、後で同邸内の能楽舞台で梅若万三郎氏、並に六郎氏の「紅葉狩」の仕舞が催され、秋の夜にふさはしい宴で歓を尽して、一同邸を辞したのは同十時近かつた