デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.657-661(DK390295k) ページ画像

昭和4年11月20日(1929年)

是日、アメリカ合衆国シカゴ・ミルウォーキー・エンド・セントポール鉄道会社取締役会長ハリ・イー・バイラム、飛鳥山邸ニ来訪シ、栄一ト対談ス。


■資料

(ハリ・イー・バイラム)書翰 小畑久五郎宛一九二九年九月二三日(DK390295k-0001)
第39巻 p.657-658 ページ画像

(ハリ・イー・バイラム)書翰  小畑久五郎宛一九二九年九月二三日
                       (渋沢子爵家所蔵)
 - 第39巻 p.658 -ページ画像 
          H. E. BYRAM
        FIFTY-TWO WALL STREET
            NEW YORK
                 September 23, 1929
Mr. Kyugoro Obata,
  Secretary to Viscount Shibusawa,
  Itchome Yaesu-Cho,
  Kojimachiku,
  Tokyo, Japan.
Dear Mr. Obata:
  Remembering our very pleasant visit with Viscount Shibusawa on our last visit some years ago I am writing to ask you to present to him the compliments of myself and family and to say that we expect to again visit Japan this fall, sailing from Seattle on S. S. Jefferson November 2nd and arriving in Tokyo about the middle of November.
  We shall hope to have the pleasure of calling on Viscount Shibusawa during our visit. We often read of the active interest he takes in the affairs of the world.
  We also send our appreciation to you for the many kindnesses extended to us on our last visit.
             Yours very truly,
              (Signed) H. E. Byram
HEB : D
(右訳文)
                 (栄一墨書)
                 昭和五年四月七日一覧
 東京市                 (十月廿一日入手)
  小畑久五郎様
   一九二九年九月廿三日      エチ・イー・バイラム
拝啓、益御清適奉賀候、然ば数年前貴国漫遊の際、渋沢子爵を御訪問申上候時の甚だ愉快なる追憶に耽りつゝ、貴下を通じ子爵閣下に小生及び家族より御挨拶申上度一書拝呈仕候、猶申上度儀は小生等今秋再び貴国訪問を思ひ立ち、十一月二日ジエツフアーソン号にてシヤトル出発、十一月中旬頃東京着の予定に御座候
貴国漫遊中渋沢子爵を御訪問申上ぐる喜びを得度希望に候、子爵には益御健勝にて国際親善増進の為め御活動の由、新聞紙上にて屡々拝読仕候
曩に貴国訪問の際、貴下よりも種々御厚情を蒙り難有奉感謝候
右得貴意度如此御座候 敬具


総長ト外国人トノ談話筆記集 【米人バイラム氏の訪問】(DK390295k-0002)
第39巻 p.658-661 ページ画像

総長ト外国人トノ談話筆記集       (渋沢子爵家所蔵)
    米人バイラム氏の訪問
          (昭和四年十一月廿日午前十時於飛鳥山邸)
   シカゴ・ミルウオーキー・アンド・セントポール鉄道取締役会長バイラム(Harry E. Byram)氏は約束により、午前十時一
 - 第39巻 p.659 -ページ画像 
分も違はず飛鳥山に見えた。氏は四年前震災後に日本へ来てゐた事があり、今度の来遊は二度目である。
 氏は大きな細長い淡い赭顔の持主で、絶えず微笑をたゝへた見るからに精力家らしい実業家型の、むしろ英国風の紳士である。
 バイラム氏「今朝再度拝顔の栄を得ました事を嬉しく存じます。」
 子爵「どうも暫く御目にかゝりませんでした。此前に会ひましてから何年になりませうか。」
 バイラム氏「丁度五年前で御座いました。」
 子爵「私もだんだん年をとりまして日本流でございますと九十歳、御国の勘定では八十九歳と十ケ月計りになりました。」
 バイラム氏「お見受けしますところ誠に御壮健のやうで御目出度うございます。此前には妻と娘と娘の友人とで午餐にお招に与りましたが、今日は丁度妻と娘とは日光へ参りました。」
 子爵「日光は紅葉がよいでせう。少し遅いかも知れないが……。」
 バイラム氏「私は二・三日、鎌倉にをりましたが、紅葉で奇麗でした……。」
 子爵「先日はリンカンの伝記を戴きまして誠にありがたう御座いました。」
バイラム氏「リンカンは米国人の理想の人物でございまして、或意味ではワシントンよりも尊重せられます。」
 子爵「約五十年前の事ですが、グラント将軍が日本へ来られまして日本では大勢の歓迎委員が出来まして私が其長となり、上野公園で将軍を歓迎致しました。明治天皇にも臨幸遊ばされますし、そこで日本の古武術も御覧に入れました。又日は変りましたが、芝居に御案内致したり、夜会を催したりしまして、数回お目にかゝりました。至つて質樸な人で、当時の事が今も記憶に残つてをります。」
 バイラム氏「丁度リンカン及びグラント将軍は両方共イリノイ州の出身でありまして、私と同郷であります。」
 子爵「いや誠に貴方の国は道理正しいお方の出られる所で、悪と闘ひ正義に与する人々が多いのは羨しい次第でございます。ワシントンもリンカンも、グラントも皆さういふ人々であります。――妙なもので私が少年の頃、英国が鴉片について支那と戦争をして、香港をとつた事が子供の読む書物に出てゐました為めに『毒をのませた上に国を奪つた。これ位不道徳な事はない。強いからとて世界に威張つてゐるこんな間違つた事はない』と考へ、外国と云へば英国でも、米国でも、仏蘭西でも、独逸でも同様に考へ、全部が嫌ひでありました。然るに廿八歳の時に仏国行を命ぜられましたが、同行中にタウンゼンド・ハリスの事をよく知つてゐる人がをりまして、其通訳官ヒュースケンの殺された時のハリスの態度は、実に君子人の態度であつたといふ事を承つて以来、外国にも斯る立派な人のあることを知り、此までの排外的の考の間違つて居たことを覚り、別して米国に対しては親みが強くなり、米国を慕しくさへ思ふやうになりました。これは若い時の話ですが、今もなほ此思入を失つては居りませぬ。」
 バイラム氏「子爵の御経験も非常なもので十分日米親善にお尽し下
 - 第39巻 p.660 -ページ画像 
すつたのですが、その子爵の労は大いに報いられてをると存じます。と申しますのは、今度も日本へ参るにつきまして方々訪問して廻りましたが、米国ではたゞ子爵の御名前が知れてゐるといふ計りではなく敬慕の念を以て知れ亘つてゐますのです。」
 子爵「いや、恐縮で御座います。一体米国と日本とでは国情が大変に違ひます。亜米利加は大きいが、新しい国、日本は小いが古い国である。日本は貧乏国で帝国であるが、米国は民主国で金持である。斯く相違するに拘らず、生命を捨てゝも正義を守ると云ふ心は一致して居ります。ワシントン、リンカンなどはさうであらうし、タウンゼンド・ハリスなども形は違つてもその正義を重んじ人道に基いて行動したのであります。例へば米国が支那から土地を奪つたといふやうな事はありませぬ。私はタウンゼンド・ハリスの如き義気を以て事が行はれてゐるといふ事を非常に尊敬してをります。その米国との間に紛議があつてはならぬ。私は微力且老衰の身ながら両国間の親善増進の為に死ぬ迄尽力致してをるのであります。」
 バイラム氏「一寸お話中に申上て失礼で御座いますが、単に英国許りが悪いのではなく、かういふ対外態度は当時の文明国間の空気であつたかも知れません。即ち英国が印度其他に早くから交渉があり、東洋方面と交易があつた結果として斯くなりましたもので――幸に米国はその関係が無かつたから、悪い事をせずに済んだものかも知れませぬ。」
 子爵「つまり私は米人の武士道的精神――即ち正義と人道を重んずるといふ事を信ずるのであります。」、
 バイラム氏「誠に子爵のお考、並に年来御尽瘁の事は我々米国の知識階級にはよく判つてをりますので、子爵は自ら慰めて下さる事が出事るだらうと思ひます。日米間には漸く了解がつき出したのであります。親しく日本を訪問して、日本の実情を見まして従来の誤解を正さぬ人はないのであります。日本を誤解する人は日本を知らぬからであります。日本を知つた人で、日米親善を唱へぬものはないのであります。どうぞ御安心を願ひ度いのであります。
 子爵「御尽力の程感謝の至であります。御説の通り、親善には両方を知らねばならぬのであります。米国の銀行家のヘボンといふ人は、その為に『米国の大体をよく日本の学生に知らせる事が必要である。自由講座でもよいから米国に関することを東京の帝国大学で教へるやうに尽力して呉れ』と云ふので、大分の資金を寄越されましたので、ヘボン講座といふものが同大学に置かれる事となり、高木八尺といふ人を改めて米国に二箇年間留学せしめて米国の事を学問的に調べさせましたが、高木氏は既に帰朝して今ではその講座の主任教授になつてやつてゐます。これは大学に於て話すものですから、段々に学生に知られて来るでありませう。更にそれ以下の小さい子供の為には、ギューリキ氏が心配せられまして、人形の交換を致しました。これは子供に知らせる事ですけれども、子供の時から米国を知り日本を知らせ度いといふに就て、その知らせる手段には相成らうと思ひます。」
 バイラム氏「私は日本政府から勲章を貰ひました。前回に日本へ参
 - 第39巻 p.661 -ページ画像 
りまして、帰国しましてから貰ひました。(氏は左の襟にチヤンとその略綬をつけてゐた。)私がシカゴ・ミルウォーキー鉄道会社の社長でございます所から、一昨夜鉄道大臣に招待せられて何か申述べるやうに仰付かりました。丁度高久甚之助さんの作られました鉄道報告や其統計法等を拝見しまして、これを米国の方法に比較しました所が、極めて酷似致してをりました所から容易に比較論評をする事が出来まして、直ちに演説をする事が出来ました。これなども日米親善の一端かと考へます。――あまりお疲れになりましても恐縮でございますからこれで失礼を致し度いと思ひます。実に今回日本へ参りましての主なる喜びの一つは子爵に拝顔の栄を得た事であります。誠に有り難う存じます。」
 子爵「バイラム夫人や御令嬢にもどうぞよろしく御伝を願ひます。それではグッドバイ。」
 バイラム氏「さよなら。」
  斯くて会談約一時間にしてバイラム氏は辞去せられた。
  ○右ハ「竜門雑誌」第四九五号(昭和四年一二月)ニ転載セラレタリ。
  ○ハリ・イー・バイラムハ大正十三年ニモ来日セリ。本款同年五月十二日ノ条参照。