デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.737-739(DK390313k) ページ画像

昭和6年5月19日(1931年)

是日、アメリカ合衆国人故ライマン・ジェー・ゲージ夫人、飛鳥山邸ニ来訪シ、栄一ト対話ス。


■資料

総長ト外国人トノ談話筆記集 【○ライマン・ゲージ夫人の来訪】(DK390313k-0001)
第39巻 p.737-739 ページ画像

総長ト外国人トノ談話筆記集       (渋沢子爵家所蔵)
    ○ライマン・ゲージ夫人の来訪
             (昭和六年五月十九日於飛鳥山邸)
   早朝は雨で稍冷えたのに、九時頃から陽の目が差して来て次第にいゝ天気になつた。約により午前九時廿五分米人故ライマンゲージ氏夫人は令息ライマン・ゲージ(Lyman J. Gage Jr.)及令妹ヘレーン・リチヤーヅ(Miss Helen Richards)の両氏同伴曖依村荘を訪れた。小ゲージ君は今年十歳中々の愛嬌者である。
   青淵先生は御気嫌極めてよろしく、羽織袴で応接間に出て来られた。
ゲージ夫人「本日拝顔の機会を得まして誠に嬉しう存じます。」
青淵先生「私も奥さんにお目にかゝれる事を非常に嬉しう存じます。又本日はお妹さんや令息にもお目にかゝれるのは、丸で親類の者にでも遇ふやうな気持が致します。」
令息「私の父の昔の友人の子爵にお目にかゝるのは非常な光栄であります。」
夫人「早速ですが、本日は芝居にお誘ひを頂きまして有難う存じます私共一同非常に楽しみにして今夜を待つてをります。」
先生「御丁寧な御挨拶で恐縮に存じます。全体私自身で御案内致すべきですが、長らく夜分の外出を見合はせてをりますので、どうぞ不悪思召下さい。――元来、日本の芝居も元は大分下品なものでしたが、これではならぬと色々と改良致させました。劇場に致しましてももとは芝居小屋と申しましてね、見窄らしいものでしたが、漸く今日までになつて来ました。」
夫人「いや、お言葉で恐入ります。本日お目にかゝるに当りまして私の作曲致しました楽譜を持参致しました。御令嬢がピアノを御弾きになる時に御用ひ下さり度う存じます。」
   夫人は楽譜と紙とを出して云ふ。
夫人「又、先日富士山を見まして詠じました私の詩が御座いますから子爵に献じたいと思ひます。さうして之は息子の書きました絵であります。これも子爵に献じますさうで御座います。」
先生「それは有難う。――(絵を見らる)成程上手に出来てゐる……」
   先生は楽翁公の「自教鑑」の複製を取寄せられる。
夫人「逝きましたゲージが自叙伝を書いて置きましたので、只今出版の準備を致して居ります、出来ましたならば早速一本を子爵に呈したいと存じます。」
先生「最初にゲージさんにお目にかゝつたのは千九百廿年の事と思ひます。ヴアンダリプ氏一行の御一人でした。多分ヴアンダリプさ
 - 第39巻 p.738 -ページ画像 
んはゲージさんが大蔵卿であつた時、ゲージさんの引立で大蔵省へ入つた事と承知して居ります。ゲージさんは御老体にも拘らず日本との国交を密にしたいといふので日本へ御出になつたのでありました。私が千九百二十一年に亜米利加へ参つた際、ゲージさんを故郷のポイント・ローマに御訪問致した時、自ら自動車を操縦して私の宿所まで来訪せられたので、今でも御好意を忘れません――ゲージさんは実によく国民的外交といふ事に付て御心配下すつたのであります。
  此処に丁度奥さんや令息などにお目にかゝつたのは真に欣ばしいので、ほんとに親類に会つたやうな気が致します。外交官による国交もさる事ながら、個人として親しみの情を以てお目にかゝるのは最も大切な事と存じます。」
夫人「ヴアンダリプさんはゲージの秘書でした。」
先生「ハハア。秘書でしたか、それでヴアンダリプさんはゲージさんをお連れしたのですね。」
夫人「最近奈良で汎太平洋倶楽部が組織されましたので、其会合で私は一場の話を致しまして加州と日本との親交を高唱致した訳であります。その席には丁度徳川公が御出席なされました。」
夫人「ゲージは帰国致しましてから、到る所で日本礼讃の演説や談話などを致しました。ゲージは確かに亜米利加の大偉人の一人といふべき人物でした。」
先生「当時ゲージさんの如き重きをなす人がお出下すつたのは非常な有力な助けとなりました。――イーストマンさんなどもその時一緒でしたね。」
夫人「どうか此日米親善が年と共に進んで行く事を希望します。」
先生「斯く重立つた人達が両国親善に力を尽さるゝといふ事は喜ばしい事であるが、然し国民がですね――此渋沢は政治にも関係は無し明日をも知れぬ老人ですけれども、日米の国交の事となると、かうして微力でも骨折りを致してをります。ゲージさんヴアンダリプさんその他御懇意になつたお方は孰れも御尽力を下すつて居る。どうぞして日本からも礼儀を失はぬやうに情誼を尽して御付合をするやうに……私ももう九十二になります、もう間もなくお目にかゝれぬやうになるでせうが、此世に存在する以上は国の為に尽さうと致してをりますのですから、亡くなられたゲージさんの御身内の方にお遇ひ出来ますのは非常に嬉しう存じます。話は変りますが日本の偉人の一人で白河楽翁公といふ方があらつしやつた。此方は中々偉い方で種々の事業をせられましたが、此所にある「自教鑑」と云ふのは公が十二の時に書かれた書物です。楽翁公は名高い徳川家の一門で、幕府の老中唯今の総理大臣になられました。此本はずつと前幼少の時代に自ら戒める為書いたもので、日本文で英語は附いてはをりませんけれども、令息が十歳でいらつしやると承りましたので、お坊ちやまに差上げるので御座います。」
令息「有難う。」
 - 第39巻 p.739 -ページ画像 
夫人「有難う存じます。英訳は附いてをりませんでも、加州には多くの日本人がをりますから、容易に訳して貰ふ事が出来ます。」
   此時、青淵先生令夫人御出ましあり、握手を交され、御着席。
先生夫人「折角お目にかゝつたのに英語が話せませんで誠に残念で御座います。」
先生「二人共に英語は話せませんけれども、亜米利加へは私が四・五度、家内も二度参りましたよ。」
リチャーヅ嬢「誠に御健康にお見受け致しますから、もう一度御出下さる事が出来ませう。」
先生(小畑氏に)「ロス・アンジエルスは非常によくなつて、西部の紐育とでも言ふべき程であつた。紐育と言へば私が行つた時は車を赤いのと(シグナルの事)青いのを出して交通を整理してゐたが……。」
ゲージ夫人「私共は廿一日の竜田丸で帰らうと存じてをりますので、それでは――。」
   小畑氏は此三人は約一ケ年世界を漫遊して来た事、ゲージ少年が早く帰りたいと申してゐる事を申上ぐ。
先生夫人「お帰りになりたいでせうね――。」
   小畑氏は今夜の芝居のお話をする。
先生夫人「――紅葉狩ですか、それはきつとよろしう御座いませう。」
先生「お芝居は始めてですか。」
リチャーヅ嬢「お能だけ見ました。」
先生(小畑氏に)「役者は誰だね……あゝ菊五郎か。」
夫人、リチャーヅ嬢(同音に)「誠に奇麗です。」
先生夫人「お能よりももつと奇麗で御座いますよ。」
ゲージ夫人「然し子供がをりますから時間が遅れて全体を見られないかも知れません。」
先生夫人「然しまたと云つても大変で御座いますから、なるべく御覧になりますやうに……。」
先生「それではどうだね、お庭を御案内したら、御案内するやうに……。」
   御一行は庭を一巡して客間の前へ出られ、そこで美しく咲き乱れた石楠花の大株を前にして先生御夫妻と御一行と御談話ありゲージ少年はお庭に芽生えた紅葉の小さな木を珍しげに打見てゐたので、一本掘り起して根を包んでお土産にと少年に与へると嬉しさうに両手で上げたり下げたりした。
   天気は麗かに晴れ上つた。
  ○ライマン・ジェー・ゲージハ一九二七年一月二十六日歿ス。大正九年ニ来日セリ。本資料第三十五巻所収「日米有志協議会」大正九年三月二十八日ノ条参照。