デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.741-750(DK390315k) ページ画像

昭和6年7月1日(1931年)

是日、アメリカ合衆国サン・フランシスコノ人ハーヴェー・エッチ・ガイ、飛鳥山邸ニ栄一ヲ訪レ帰国ノ挨拶ヲナス。


■資料

総長ト外国人トノ談話筆記集 【ガイ博士の訪問】(DK390315k-0001)
第39巻 p.741-746 ページ画像

総長ト外国人トノ談話筆記集        (渋沢子爵家所蔵)
    ガイ博士の訪問
          (昭和六年七月一日午前十時半於飛鳥山邸)
   御約束の時間より十分程前にガイ博士(Dr. H. H. Guy)は王子邸に見えられ、軈て青淵先生は羽織袴で応接間に於て博士と会はれ進んで握手せられた。博士は嘗て宗教研究の為、永年日本に住はれた米国の紳士で久し振で再び来遊せられ、数ケ月滞在し近く帰米の筈である。博士は日本語通で今日は大部分日本語を使はれた。
青淵先生「其後は誠に打絶えてお目にかゝりません。私ももう元気がなくて日本の言葉で老衰と申しますが」
   (主客笑ふ。)
ガイ博士「私は明日帰国致す事になりました。本日はこれまでに致しました私の仕事、私の調査に就て子爵に御話申上げたいと思ひまして、無理に御都合を願つたのであります。……
  私は紐育の社会宗教研究所――ジヨン・アール・モツトさんの組
 - 第39巻 p.742 -ページ画像 
織した社会宗教研究所から派遣せられまして、外国伝道事業調査に参りました。伝道事業と申しても単にそれ丈ではなく、社会問題、農村産業の問題、宗教問題――宗教と申してもひとり基督教のみならず仏教をも研究し、つまり根本的に日本の――国民性と申しますか、それを研究するのが、私の任務であつたのであります。
  両国の親善を計るには互に理解する事が必要である。
  目的は伝道事業の調査ですけれども、これはそれのみを切離して見るべきものではない――日米親善と関係あるものと考へまして調査を進めて来たのであります。」
先生「さういふお考で両国の国民の情意を融和させるといふ事に御尽力下さつたのは誠に感謝に堪へません。兎角世間の事といふものは些細な事で齟齬を生ずるもので――例へば一方は餅が好きだと云ふと、一方は酒が好きだと云ふ――そんな事からひどい間違が生ずるものである。さういふ事にはなりたくない――」
博士「国を異にすると、宗教及哲学に誤解があります。私は仏教を研究して見ますと色々と悟る所がありました。」
先生「学問を生かして左様に趣味を以てして下さると、両国の融和を根本的に計られる事になります。」
博士「私は東西文化の融合といふ事が最も大切な事であると思ひます――風俗習慣の違ひの為に小さな誤解から大変な間違が生ずる事がある。それを防ぐには出来る丈日本の有様――即ち国民性はどういふのであるかといふ事を知る事が大切である。私は仏教の事に就て渡辺海旭さんに就て色々と話をきゝました。……」
先生「どういふ人だらうか。」
  ………………
博士「それから姉崎さん矢吹さんとも会ひました。又芝の増上寺の前にある浄土宗事務所に出てゐられる大村慧眼――この人は大正大学の教授です――さういふ人と一緒になつて仏教を研究しました又神道も研究したのです。」
先生「私は古い人間ですから米国の言葉に通ぜず、書物も読めませんけれども、亜米利加に対しては真に知己の国と思うてお交りをして来たのです。従つてお交りをする人が多う御座いますが、心細く感ずるのは有力な方で而かも別して御懇親に願ひお互に理解し合つた人々が死んで了はれる事です。ジヨン・ワナメーカさんなどはふとした事から深い知合になりましたが、これも亡くなられる、ハインツさんも死ぬ、ジヤツジ・ゲーリさんにしてもウイリアム・タフトさんにしても故人になりました――私の御懇意に願つた方々は大抵死なれたやうな気が致します。或亜米利加のお方は『お前が老人とのみ会うてゐるから、さう思ふのだからもつと若い人々と会ふがよい』などゝ戯言に申される方もありますが、或は左様かも知れません。然し此間も亦リンチさんが亡くなりました。私の知合で故人となつたのは老人だとのみ云へぬかと思ひます。私は残念で未だお若いのに良い友達を失つたと残念で堪り
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ません。私をよく知つて下さるガイさんのやうなお方はよく私の知人に残されて淋しく感ずる心持が判つて下さるだらうと思ひます。」
博士「リンチさんは非常に日本に同情して働いた人ですから、あゝいふ人の死なれたのは非常な損害です。」
先生「よく日本を理解した人です。リンチさんはアレキサンダさんと共に、千九百十五年の桑港の博覧会でお目にかゝつて互に打融けてお話を致しました。アレキサンダさんはお前の趣意なら善いからお前の趣意なら異存を云はぬと云つて、殊に商業会議所中に米日関係委員会を作つたからお前も作れといふ事で、私も東京に日米関係委員会を作りまして現在も会員が廿四人御座います。皆力あるものとは云へんが、多くは政治家・学者・実業家でして、宗教家も御座います。時によつて打寄つて何か事があると相談をしてをります。まあ今日の所では誤解から事を起すといふ事は先づ無からうと思つてをります。」
博士「それはありますまい、今後は……アレキサンダさんは今年此方へお出になるやうで御座いますね。」
先生「ハーさうですか。」
小畑氏「八月に桑港を立つて此方にお出のさうです。」
博士「アレキサンダさんは支那の太平洋問題調査会隔年会議に御出席でせう。」
小畑「さう承知して居ります……ガイさん、貴方も桑港のジヤパニーズ・レレーシヨンズ・コミツテーの会員でせう。」
博士「えゝ設立当初からの会員です。……」
先生「こちらに御出になつて何年になられますか。」
博士「千八百九十三年に――卅八年前に参りました。それから千九百七年迄をりまして帰国いたし再度参つたのです。来て見るとお前の日本語は廿年前の言葉ぢやないかと云はれますが……此間大阪で良友会の歓迎会がありまして出席しました所、子爵の書きなすつた徳孤ならず必ず隣ありといふ額がかゝつてゐました。あれ、よう御座んした、読んで非常に私が感じました。
  子爵の感化、子爵の人格の感化は著しいものでして、亜米利加でViscount Shibusawaと云へば産業方面に関係してゐる人で知らぬ人はありません。」
先生「私はもう田舎の農民で育つたのですから何も学問は無いのですたゞ百姓でも漢籍を習ひまして、他の子供より少々たちがよろしいといふので、いくらか百姓にしては余計習つたといふ位でしたが、当時の政府即ち幕府の外国に対する方法が悪い――徳川幕府といふものが天子をも抑へ大名に対する仕方もわるいと――いふことを漢学を修めた人々の間で論ずる者が多かつたものですから勢ひそれにかぶれて百姓の伜が謀叛をし一揆でも起すといふ計画にかゝつたのです。然し事を起すに至らずして止め、其後或事情から一橋といふ当時の名望ある大名に仕へる事になりました――百姓から侍になつたのです。お話すれは其経過は長う御座います
 - 第39巻 p.744 -ページ画像 
けれども、其辺の事は一切略します。斯ういふ訳で身柄は変遷しましたが、外国に対する考は変らず、私は依然として排外主義であつたのです。特に私の成長する時に強い刺戟となつたのは清国の亜片事件であります。林則除が英吉利の亜片を没収して焼棄てたに就て、英吉利は之を不都合であると論じてとうとう争になつて結局は香港を占領した。
  此事は「清英近世談」といふ本に出てをりました。之は、子供でも読めるやうに書いた本でした。英吉利の政治家でエリオツト、軍人でフラーメル、此両人に支那は非常に苦しめられました。此支那に対する英吉利の暴戻な非道な仕打を見ると、弱肉強食と少しも違はぬといふ感じを以て、英吉利は文明を称へて世界に誇るけれども、其英吉利すらさうだ、他の国々は以て知るべきのみと考へたのです。
  所がズツと時がたち、一橋の家臣となつた後に、慶喜公が弟君なる民部公子を仏蘭西に遣して、少くも五年許り留学させる、それには具合のよい丈夫な若い者を供につけてやりたいと云ふことで私が選に当り、他の多数の人々と共に私も行く事になりました。勿論、此留学は千八百六十七年仏蘭西の博覧会の礼式に、日本の代表者を出席せしめるといふ事が動機にあつたので、民部公子は即ち其代表者であつたのであります。玆に始めて、外国嫌の渋沢が外国に出たのです。そして仏蘭西へ行く船中で、同行の田辺太一――当時外国奉行の下に居り、外国関係を詳しく承知して居た人で号を蓮舟と云ひ中々学者でした。――此人から日本の外交の顛末、安政三年の米国条約の始末を聞いたのです。思ひ返すと随分古い昔です。ハリスは麻布の善福寺にゐる時に通訳のヒユースケンといふ人が殺されました――それ等の顛末を詳しく聞きまして、誠に愉快に思うたのはヒユースケンが殺されたというて、英仏の公使が旗を巻いて江戸を撤退した時に、ハリスは『それは日本の政府を侮辱する事になるから、自分には出来ない』といひ、『然らばもしも暴徒が押寄せて来たらば如何するか』と云はれたのに『それは拠無い、此処へ来て命を惜むといふやうなそんな意気地のない事は私はせぬ』というて麻布の善福寺を――これを公使館としてゐたのですが――動かなかつた。其他猶色々と条約の事などを大変に親切に世話して呉れました。かう云ふ考をして呉れるのは所謂ほんとうの王道といふものだ。それを夷などと考へてゐたのは誤であつたと真に恐縮して――田辺の説を詳しく聞いて此処に亜米利加に対しての感じを、タウンセンド・ハリスの行動によつて一変したのであります。亜片問題を口実にして他の国を取るといふやうな悪いのはあるが、正しいのは斯くの如く親切を尽して呉れる。
  道理正しい文明国のほんとうの姿はかういふものだといふ感じをもちましたが、其時の感触が私の一生を貫いて今日に及んでをるのです。
  亜米利加の日本に対する親切、又道理正しくして呉れる事、細か
 - 第39巻 p.745 -ページ画像 
い事は知らないのですが、実に温い国だと肝に銘じて、それ以来亜米利加に対しては特別に温かい感じを以て接して来たのです。たゞ亜米利加でも日本の労働者に対しては之を嫌ふ。又労働者も面白くは思はず従つて亜米利加を誹る。私も昔外国を誤解してをりましたが、その間に立つて国民同志の無智による誤解があつてはならぬと専心骨を折つてをるのであります。大して深い考も出来ませんけれども、自分はかうかういふ次第で今日に及んでゐるのであると、自分の衷情を打開けてお話するのです。お互にあの事は宜しい、あの考なら宜しいと、御理解を以て――政治上は別だが――国民のお互の融和を計り度いといふのが私の念願であります。加州方面などは色々な物議がありますけれども、又アレキサンダさん、リンチさん、アサートンさんのやうなお友達には永く渝らぬ友情を以て、言語は通ぜんけれども人間には心があるから、必ず両国の間に誤解は生ぜしめずに行かうといふ心掛でをります。
  私ももう九十二歳で、これから長い歳月をもつ事は出来ませんでせうけれども、私が生きてをります間は必ずこの事を怠らぬ心算であります。
  私一人丈ではありませんけれども、私共は真にお友達と思うて、亜米利加の方々に対してはお考違ひのない様にと云ふ事を、いつもいつも申上げてをるのであります。
  日本の事物が進んでゆくのは亜米利加の助による所が多いのです私は個人同志として腹蔵なく自分の思ふ所を申述べました。ことにガイさんなどはかう申上げた事に就ては十分御理解下さるであらうと思ひます。」
博士「誠に難有う――子爵が日本にゐらつしやるから皆が安心してをります。時々妙な問題が出ましても……」
先生「然し中々油断がなりませんよ。」
   青淵先生は「どうだ。向ふでお茶を上げよう」と仰しやつて席を立たれ、親らガイ博士を案内せられて庭園を御一巡あり、種種の花を指して博士に御説明あり、池の鯉に麩を与へて相倶に興ぜられ、青淵文庫で茶菓を呈せられ、須臾四方山の雑談を交された。
   博士は論語を幾度となく読まれたといふ事、島田三郎氏の解釈も読まれたといふ事、外務省の武富さんのお宅で先生の書かれた論語を拝見したといふ話をせられる。先生は御手許より右の論語を取寄せて博士に呈せられた。
   次にホノルヽのフリアさんの話が出、孔子の教が中庸を旨とするものであるといふ話が出、ローマ字ひろめ会や大阪のカナ文字会やサンスクリツトや、飛んで姉崎博士の著書"Religion of Japan"の事、イエール大学教授の浅河氏の事、加州大学の久能氏、スタンフオード大学の市橋氏、南加州大学の中沢氏、乾氏夫妻の事などが話題に上る。
博士「この次子爵が亜米利加へ御出掛になるのは何時でせうか。」
 - 第39巻 p.746 -ページ画像 
  先生「心は度々参ります。……
  どうも斯んなに疲れるかと思ふ程でして、まだ八十代はよろしう御座いましたけれども――未ださう事物がすべて判らんと云ふではありませんけれども……先づ人事不省といふ有様で……」
   (主客笑ふ)
   次に支那人の喧嘩好きの事、これは論語には教へてない事であるといふ事、又米国の両ムーア氏の事、エスバーグ氏、フライシヤカ氏の事、牛島氏の事など、それからそれへと話が廻つて行つて、別れを告げて立たれたのは十一時半を過ぎて居た。
  ○昭和二年十一月十日、日米関係委員会ハ、ハーヴェー・エッチ・ガイヲ東京銀行倶楽部ニ招待シテ、歓迎会ヲ開キ、次イデ十二月一日再ビ同所ニ招待シテ日米問題ニ関スル懇談ヲナセリ。栄一両日共出席ス。本資料第三十五巻所収「日米関係委員会」昭和二年十一月十日ノ条ヲ参照。
  ○是ヨリ先、ハーヴェー・エッチ・ガイハ大正十四年アメリカ合衆国バークレイニ在リテ、米日関係委員会ノ設立ヲ計画セリ。本資料第三十四巻所収「日米関係委員会」大正十三年十二月二十五日ノ条ニ収メタル一九二五年三月三日付書翰(同書第四四五頁)参照。


(小畑久五郎)書翰 控 ハーヴェー・エッチ・ガイ宛一九三一年八月一〇日(DK390315k-0002)
第39巻 p.746-747 ページ画像

(小畑久五郎)書翰 控  ハーヴェー・エッチ・ガイ宛一九三一年八月一〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
             (COPY)
           Viscount Shibusawa's OFFICE
                   August 10, 1931
Dr. Harvey H. Guy,
  c/o Mr. Henry Finke, Jr.,
  2901 Madison Ave.,
  Alameda, Calif., U.S.A.
Dr. Guy:
  Your esteemed letter of July 1 was duly to hand. I conveyed your appreciative words to Viscount Shibusawa.
  The framed "Gaku" came out beautifully and it is packed, ready to be shipped to the address at Alameda, by the M. S. Asama-Maru whose Captain is Mr. Shinomiya. I went to the Head Office of N. Y. K. and talked over the matter with Mr. Nagashima, the Head of the Passengers' Department and requested him to refer this matter to Captain Shinomiya as you told me to do so. Mr. Nagashima very courteously consented to do so.
  I am writing to Mr. S. Nakase of the N.Y.K.' s San Francisco Office to the effect that the "Gaku" is sent to his office and to notify to Mr. Finke as soon as it reaches him. Mr. Nakase is my friend, a fellow alumnus of Aoyama Gakuin.
  I am somewhat apprehensive of the fact that the Custom House may treat it as an art object, in the case of which a due charge may be made. Mr. Nakase will advise Mr. Finke about it, I am sure.
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  Viscount Shibusawa is well. He will not go anywhere else this summer, but spend the rest of the season at home.
  Trusting this will find you in the best of health, I am,
             Yours very cordially,
                   (Signed) K. Obata
(右訳文)
 加州アラメダ市
 ヘンリー・フインク氏方
  ハーヴエー・エーチ・ガイ博士殿
   一千九百三十一年八月十日    渋沢事務所
                      小畑久五郎
拝啓、益御清適奉賀候、然ば七月一日の貴翰正に拝誦御来意渋沢子爵に御伝へ申候
例の額は美事に表装出来致し四宮氏の船長たる汽船浅間丸にてアラメダの貴寓に送付するやう準備整ひ申候、貴下の御注意に随ひ、小生は日本郵船会社本社に赴き、船客課長永島氏に面会し本件に関し四宮船長に照会被下様依頼仕候処、同課長は快く御承引被下候
小生は日本郵船会社桑港支店の中瀬氏に一書を送り、同支店に額を送付したるに付、右到着の上は早速フインク氏に通知する様依頼仕候、中瀬氏は小生の友人にして青山学院の同窓に御座候
右額は税関にて美術品として取扱はるゝにあらずやと懸念致され候、然る上は課税せらるゝ事と存候、これに付ては中瀬氏よりフインク氏に適宜の注意有之べく候
渋沢子爵には健勝に有之候、今夏は何処へも避暑せられず私邸にて静養の事と相成候
貴下には益御壮康ならん事を奉祈上候 敬具


(ハーヴェー・エッチ・ガイ)書翰 渋沢栄一宛一九三一年一〇月二日(DK390315k-0003)
第39巻 p.747-748 ページ画像

(ハーヴェー・エッチ・ガイ)書翰  渋沢栄一宛一九三一年一〇月二日
                   (渋沢子爵家所蔵)
          Ft. Worth, Texas, Oct. 2, 1931
Viscount E. Shibusawa,
  Takinogawa, Tokyo, Japan.
My dear Viscount:
  Upon returning to the United States I went directly to New York where I have been ever since. I am now on my way to California where I shall be until January 1932 when I expect to sail again for Japan.
  During my absence the "gaku" which you so kindly presented to me arrived at Alameda and my son-in-law received it and placed it in his home where it is safe until my return.
  I cannot tell you how deeply I appreciate your kindness in sending this to me or how much I prize having something written by your own hand where I may look upon it and remember all your good works for international good-will.
 - 第39巻 p.748 -ページ画像 
Both the United States and Japan are deeply indebted to you for your efforts in behalf of complete understanding, which I feel is about to be realized.
  With high regard and heartfelt thanks,
                   (Signed)
                  Harvey H. Cuy.
My address until December will be 2901 Madison Street, Alameda, California.
(右訳文)
                        (別筆)
                        回答不要
 東京市                 (十月廿四日入手)
  渋沢子爵閣下
             テキサス州フオート・ウオーズ
   昭和六年十月二日      ハーヴエー・イーチ・ガイ
拝啓、益御清適奉賀候、然ば小生帰米後直ちに紐育に赴き、爾来同市に滞在致、只今加州に帰還の途上に有之候、加州には来年一月迄滞留の上再び日本に向け出発の予定に御座候
御恵送の「額」は小生不在中アラメダに順着、女婿拝受致し小生の帰宅迄保管致す事と相成居候
右御恵贈品に対しては感謝の念と喜悦の情とに満たされ御礼の言葉も無之、閣下が国際親善のため大に御貢献被遊候事実を想起せしむる記念品として永く珍蔵可仕候、日米両国の完全なる理解を計らんとする御努力に対し、両国は深く閣下に負ふ処有之候、完全なる諒解も将に実現することゝ信じ居候
右御礼旁得貴意度如此御座候 敬具
小生は十二月迄は左記に住居可致候
 「加州アラメダ市マヂソン街弐千九百○壱番」
  ○右ハ栄一病気ノタメ未閲読ノママトナル。



〔参考〕(丹羽成一)書翰 小畑久五郎宛一九二八年一二月一六日(DK390315k-0004)
第39巻 p.748-749 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕(小畑久五郎)書翰 控 丹羽成一宛昭和四年一月二二日(DK390315k-0005)
第39巻 p.749-750 ページ画像

(小畑久五郎)書翰  控 丹羽成一宛昭和四年一月二二日
                     (渋沢子爵家所蔵)
(控)
 加州フロウリン市
  丹羽成一様          東京市麹町区永楽町二ノ一
                 渋沢事務所
                    小畑久五郎小畑
拝復、益御清適奉賀候、然ば昨年十二月十六日付の貴書正に落手拝誦仕候、主の為め海外に在りて日夕教化運動に御尽瘁の由慶賀此事に御座候、御来示の如く一千九百二十年加州を通過せし際御面晤の機会を得候を鮮かに記憶致居候、貴兄には爾来加州の各地に御転任メソヂスト派の巡回主義を遵奉し居られ候由、之れ又慶賀の至りに御座候、何卒在留同胞諸氏の為め神国建設の為め御活動相成候様祈上候
キリスト教聯盟の事業を有効に援助せられしガイ博士に対する感謝の印として、貴兄を初め同労者諸氏が渋沢子爵の揮毫を同博士に進呈致度き希望なる由を数日前子爵に伝達仕候処、子爵には御揮毫を快諾せられ候のみならず、之を適当に表装せしめ出来上り次第貴聯盟よりの贈呈品として、子爵より直接ガイ博士へ送与せらるべき旨申聞け有之候に付き此旨御通知申上候、尚ほ該品をガイ博士宛発送の節は重ねて詳報可致候、渋沢子爵が此の如き寛大なる態度に出てられしはガイ博士に対する友情の厚きことゝ、海外に在りて宗教的及社会的事業に活
 - 第39巻 p.750 -ページ画像 
動せらるゝ貴兄等の御熱誠に同情せらるゝが為めと、小生も深く感佩罷在る次第に御座候、兎に角貴兄等の御希望が達せらるゝ次第に有之候へば真に欣快の至りに候、子爵は「任重道遠」の句よりも一千九百二十年の元旦(桑港に於て迎へられたる)の詩を揮毫せらるゝ事と相成可申候、即ち「不嫌無酒答佳辰、客裏韶光亦覚新、米寿算来猶欠五金門迎得太平春」に有之候
右貴答旁得貴意度如此御座候 敬具
  昭和四年一月二十二日



〔参考〕(阪谷芳郎)電報 控 ガイ夫人宛一九三六年一月一日(DK390315k-0006)
第39巻 p.750 ページ画像

(阪谷芳郎)電報 控  ガイ夫人宛一九三六年一月一日
                   (渋沢子爵家所蔵)
Mrs. Guy Berkeley California       Jan. 1, 1936
Sincere Condolence and deep sympathy
                   Baron Sakatani
  ○右ハ、ハーヴエー・エツチ・ガイ逝去ニ対スル弔電。