デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
6節 国際災害援助
3款 北支旱魃飢饉罹災民救済 附 中国災民児童救済及ビ帰国援助
■綱文

第40巻 p.44-45(DK400007k) ページ画像

大正10年(1921年)

是年栄一、栗塚竜子ノ中国災民児童救済ノ件ヲ賛助シ、金百円ヲ寄付ス。


■資料

支那飢民救済事業第一回報告(写)(DK400007k-0001)
第40巻 p.44-45 ページ画像

支那飢民救済事業第一回報告(写)     (財団法人竜門社所蔵)
    支那災民児童救済報告
○大正十年六月廿五日、本会評議員栗塚竜子氏来会せられ次の如き相談ありたり、同氏の談に
 「去る四月矯風会のために満洲に行き、序を以て北京の親戚を訪れたるに、折柄日華実業協会が経営する救済会にて五百人の災民児童を朝陽門外大平倉に収容せるを見たり、其光景実に悲惨を極めたるものが是等児童は何れも赤貧者の子女或ハ孤児にして、幼時より塩と豚の煮汁とを食とし産れし時に三日間湯をつかはせられたる外は曾て入浴などはせし事もなき子供等なれば、皮膚に浸み込みたる垢
 - 第40巻 p.45 -ページ画像 
は黒光をなして顔も手足も真つ黒なりしが、収容後は三度々々の食物を与へさて風呂に入れてやらんとせしに、兼ねて入浴と云ふ事を知らぬ子供達故殺されるにはあらぬかと恐ろしがりて逃げまはるを漸く無理に湯に入れて垢をこすり落さんとするも多年間しみ込みたる汚れは却々落ちず、厭がりて湯から出やうとするのを二本の竹にて子供の肩を両方から押へてよく湯に浸しおきては、竹ベラにて垢をこすり落すと云ふ始末なれど、多人数の事とて手が廻らず遂には竹ベラを与へてお互にこすり合へと云ひ付けて、追々に少しは人間らしき皮膚になりたるなりと、其中には風を引く者熱病に罹る者もありて実に悲惨極る有様にいひしれぬ哀れを感じたりしが、此内五十名ばかりは全くの孤児にして頼るべき親も兄弟もなき者故、どうかして日本人の手にて救ひ得られぬものにやとの相談を受けしかば子供等を集めて此老婦人に連れられて日本に行き度き者は無きかと尋ねしに、行きたしと手を挙けたるもの六十名あり、見ず知らずの者に連れられて西も東も知らぬ日本の地へ行きたしと希ふ幼な心はよくよくの事ならんと思へば、更に一層の哀れを感じ何とかして救ひ上げ度きものと考へたるが、現在日本にては奉公人なども少き折故、此際自分が引受けて屹度世話する事を約し帰京の途につきたり然るに其事が早くも新聞紙上に掲載されしため、帰京直ちに諸々からの申込ありて五十人の孤児は忽ちの内に行先の約定つきしかば、いよいよ孤児達を迎へに行かねばならぬ事になり、先づ第一に必要を感じたるは子供等に着する日本服にて、其用意を初めとし種々助力を仰ぐべく、最初石黒子爵に相談し、同子爵より渋沢子爵に紹介されて面会したるに、子爵も大に賛成いたされ、金百円を寄附されたる上、同氏の尽力にて大倉男爵より金百円、日華実業協会より金三百円、都合五百円の寄附を得たりしかば、該金をもつて児童等に着する日本服及び其他の用意に当て、尚色々の相談の結果渋沢子爵の申さるゝには兎に角生きたる者の世話を引受くるのであるし、また世間からの信用の上にも個人の事業とするよりは、団体の事業と為す方が万事に都合宜しかるべし、依て此際東洋婦人会に相談しては如何との事故、自分も現に同会の評議員であるを幸ひ、早速今日相談に来りたる次第なりと申されたり」