デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
7節 其他ノ資料
3款 其他外国関係資料
■綱文

第40巻 p.514-521(DK400153k) ページ画像

大正11年5月10日(1922年)

是ヨリ先、英米訪問実業団帰国ス。是日栄一等発起シテ、日本工業倶楽部ニ於テ其歓迎会ヲ開ク。栄一出席シテ挨拶ヲ述ブ。次イデ宮中賜餐、及ビ内閣総理大臣高橋是清ノ招宴アリ。栄一之ニ陪席ス。尚、引続キ数次ニ及ブ歓迎会アリ、栄一出席演説ヲ重ネ、是月三十日ニ至リ更ニ飛鳥山邸ニ歓迎午餐会ヲ催ス。


■資料

集会日時通知表 大正一一年(DK400153k-0001)
第40巻 p.514 ページ画像

集会日時通知表  大正一一年      (渋沢子爵家所蔵)
五月十日  水 正午後四時 訪英実業団歓迎会(日本工業クラブ)
○中略。
五月十二日 金 正午    英米訪問実業団員ニ御賜餐(宮中)(フロツクコート、シルクハツト)
  ○中略。
五月十四日 日 午後六時  団琢磨氏ヨリ御案内(ツキシ新喜楽)
五月十五日 月 午後六時  訪英米実業団歓迎晩餐会(日本工業クラブ)
五月十六日 火 正午    訪英米実業団歓迎午餐会(東商会議所)
五月十七日 水 午後五時半 銀行クラブ月例晩餐会
              英米訪問実業団一行招待(同クラブ)
  ○中略。
五月廿六日 金 正午    日本クラブ午餐会、大橋・団・藤原・中島・木内
              田中義一氏招待(日本クラブ)
  ○中略。
五月三十日 火 正午    エリオツト大使並英米訪問実業団一行招待会(飛鳥山邸)


竜門雑誌 第四〇九号・第六八―六九頁大正一一年六月 ○英米訪問実業団関係者賜餐(DK400153k-0002)
第40巻 p.514-515 ページ画像

竜門雑誌  第四〇九号・第六八―六九頁大正一一年六月
○英米訪問実業団関係者賜餐 今般畏き辺りにては、英米訪問実業団並に関係者御慰労の思召を以て、五月十二日宮中千種の間に於て賜餐の御沙汰あり、伏見宮博恭王・賀陽宮恒憲王両殿下台臨あらせられ、高橋首相・内田・山本各大臣・青淵先生・井上日銀総裁・牧野宮相以下宮内官等も参趨したりと云ふ。
○英米訪問実業団歓迎会 青淵先生・井上日銀総裁其他京浜間有力の実業家二十八名の諸氏発起となり、過般欧米各国の経済状態を視察して帰朝したる団琢磨氏其他十九名の諸氏を招待して、五月十日午後四時より丸之内日本工業倶楽部に於て帰朝歓迎会を開き、席上青淵先生の挨拶に次ぎ、一行の団長たりし団氏の謝辞あり、終つて一行中の中
 - 第40巻 p.515 -ページ画像 
島男爵は団員一同を代表して視察報告を為したるが、右は団全体の意見として発表せるものなりと云ふ。
○高橋首相の英米訪問実業団招待 高橋首相は、五月十一日正午永田町官邸に於て英米訪問実業団一行の諸氏を招待して午餐会を催したるが、当日は一行団長団琢磨氏外二十余名を主賓とし、青淵先生・井上準之助・和田豊治諸氏を陪賓として、席上高橋首相の挨拶に次ぎ団氏の謝辞ありて、午後二時散会せりと云ふ。
○東京商業会議所主催英米訪問実業団招待 東京商業会議所にては、五月十六日正午より同所楼上に於て過般帰朝せる英米訪問実業団一行を主賓とし、青淵先生其他を陪賓として招待し、午餐会を催したるが席上山科副会頭は起つて
 豊富なる新知識を抱いて帰朝されたることは、必ず我同業者の間に革新の導火を点ぜらるゝであらうと思ふ、尚先月渋沢子一行が帰朝された時、吾等は工業倶楽部員諸氏と共に歓迎の小宴を催したのだが、生憎子爵は御微恙のため出席されなかつたからこの席を借りて一言申述べたいが、子爵一行がワシントン会議の最中同地に在つて我国民として真実の意見を吐露しつゝあつたのは、我国を諸外国に誤りなく紹介する上に、多大な貢献があつたことは、衆知の事実である云々
の挨拶を述べたるに対し、青淵先生は謝辞を兼ねて大要左の如き演説あり
 余が五十年前に英米を訪問した折は、まだ列国の間に日本の存在を知つてゐる者は極めて少かつたが、今日では三大国の一として数へられ真に隔世の感がある、今後吾々は縁の下の力持であつていゝから国運の発展に微力を捧げたいと思ふ云々
終つて右一行中の団長たりし団琢磨氏は、謝辞に次ぎ大要
 吾々一行は米国を一巡してから英国へ、更に短時日ながら仏国の商工業一班をも視察して来たのだが、驚いたのは欧米諸国の相当な知識階級者にすら、今尚「日本」を知らないものがあつたことである渋沢子が五十年前に憤慨されたのを、今日尚くりかへさゞるを得ないといふ事実は、吾々に発奮すべしと促す大きな刺戟であると信ずる、尚吾等一行が各地の商業会議所に招待を受けて隔意なき意見の交換をしたときに、先方は粗製品をツキつけて、日本の商業会議所はかゝる輸出品に対し如何なる処置を執りつゝあるかをたゞした、吾等はそれらに一々説明を与へて、今後我商品に対し、遺憾に思ふ点や不都合だと感じたことは、遠慮なく日本の商業会議所へ通告して貰ひたいとすゝめて来た云々
と述べ、最後に後藤市長は陪賓側を代表して挨拶をなし、午後二時半盛会裡に散会せりと云ふ


中外商業新報 第一二九九二号大正一一年五月一二日 高橋首相主催となり英米訪問実業団を招待(DK400153k-0003)
第40巻 p.515-516 ページ画像

中外商業新報  第一二九九二号大正一一年五月一二日
    高橋首相主催となり
      英米訪問実業団を招待
高橋首相は十一日正午永田町首相官邸に、過般英米訪問から帰つた団
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琢磨・大橋新太郎氏等の実業団一行三十余名を招待し、陪賓としては各大臣並に井上日銀総裁・渋沢栄一子等出席歓迎午餐会を催したが、席上高橋首相から一場の左記挨拶あり、之に対し団氏左の謝辞あつて主客歓を尽し午後二時過散会○下略


英米訪問実業団誌 阪井徳太郎編 第五九〇―六〇九頁大正一五年四月刊(DK400153k-0004)
第40巻 p.516-518 ページ画像

英米訪問実業団誌 阪井徳太郎編  第五九〇―六〇九頁大正一五年四月刊
    第八章 本団の帰朝
○上略
 同夜○五月十日日本工業倶楽部に於て本団成立当初より種々斡旋の労を取られたる推薦者諸氏主催の歓迎晩餐会あり。蓋し本団一行の労を犒ふ最初の歓迎会なり。席上渋沢子歓迎の辞を述べ、団博士の謝辞に次で中島久万吉男は団員一同を代表し前記の本団意見書を呈し尚之を社会に発表するることゝし同九時散会せり。
 主催者側出席者左の如し。
  子爵渋沢栄一  男爵大倉喜八郎  男爵郷誠之助
  男爵森村開作    井上準之助   ○以下二十一名氏名略ス
  高橋首相主催午餐会
 十一日正午永田町首相官邸に於て高橋首相主催の本団一行歓迎午餐会あり。既に帰朝せる団員全部出席、陪賓として井上日銀総裁、渋沢子其他の諸氏臨席せり。主人高橋首相以下各大臣出席し、席上高橋首相より左の挨拶あり、之に対し団博士は別項の如き報告演説を試み、午後二時過散会せり。
      高橋首相挨拶○略ス
      団団長報告演説○略ス
 同夜七時半より団員一同丸の内銀行集会所に於て開かれたる日米協会主催の晩餐会に臨む。此の晩餐会は本団員歓迎の外に華府会議に出席せる加藤・徳川・幣原・埴原の各全権及び渋沢子の帰朝祝賀を兼ねたる日米両国の交驩なりき。宴に移るや協会会長金子子爵及び駐日米国大使「ビーチャー・ウォーレン」氏歓迎の辞を述べ、次で渋沢子・加藤海相等の答辞あり、続いて本団を代表し団博士は米国滞在中に於ける米国官民の懇篤なる款待を謝し、米国政治家の寛厚なる度量と世界平和に貢献せる偉大なる功業とを賞揚したり。加藤海相は列国の軍備制限に依り世界平和は自今鞏固に維持せらるべく、日米の国交は永久渝る所なかるべしと述べたり。最後に米国大使は大統領「ハーディング」、国務長官「ヒューズ」両氏の寄せられたる日米の交驩を祝する旨の電報を朗読し主客歓談裡に十一時半散会したり。
  宮中御賜餐
 畏き辺りに於かせられては特に実業団員御慰労の御思召にて十二日正午宮中千種の間に於て一同に午餐を賜はる旨の御沙汰あり、団員等は此の破格の恩命に接し感激措く能はざるものあり。午前十一時日本工業倶楽部に集合し、正午打揃ひ参内し東溜の間に休憩、軈て設けの席、千種の間に導かれ、牧野宮相より遠遊御慰労の聖旨を伝へられ、午餐を賜ひ、後牡丹の間に退出して茶菓を賜りたり。此日梨本宮殿下も台臨遊さるゝ筈なりしも、晋殿下の御訃音にて俄に御見合はせとな
 - 第40巻 p.517 -ページ画像 
り、伏見若宮博恭王・賀陽宮恒憲王両殿下台臨あらせられたり。団琢磨氏は両殿下に一々団員を御紹介申上げ、各団員との間に打寛ぎたる御物語あり、殊に一行の欧米談には両殿下もいと興ありげに耳を傾けさせ給へり。やがて午後一時十五分一同御礼を言上して退出せり。猶此席には渋沢栄一子・井上日銀総裁・和田豊治の三氏特に列席の恩命に浴したり。
○中略
  慰労歓迎会の数々
 五月十四日午後六時より団博士は発起人及び団員随員を新喜楽に招きて慰労晩餐会を開き、渋沢子・和田氏外出席者三十二名一夜の歓を尽して九時散会したり。
 十五日は午後六時より日本工業倶楽部主催の歓迎晩餐会あり、団員並に随員諸氏四十名、主催者側二百余名、郷男起つて歓迎の辞を述べて一行の為に乾盃し、之に対し団博士は謝辞並に欧米各地視察談を為したる後、和田豊治氏より団員諸氏の五分間演説を希望する所あり、大橋・串田・石井・井坂・松本・南条の諸氏交々起つて興味ある見聞談を試み、最後に渋沢子は各団員持参の土産を料理して膳に上らしめざるべからずと諧譃し十時半盛会裡に散会せり。
  東京商業会議所主催午餐会
 十六日は正午より東京商業会議所主催の団員歓迎午餐会あり、会頭藤山雷太氏病気欠席したるを以て山科副会頭司会し、渋沢子・後藤市長・山川外務省条約局長・田中農商務次官・鶴見商務局長・村上水産局長・宇佐美府知事・大倉男・外知名実業家数十名陪賓として参会したり。「デザート・コース」に入るや劈頭山科副会頭起ちて大要左の如き歓迎の挨拶を述べたり。
○中略
 次に渋沢子は陪賓として欧米曾遊に関する今昔の感を述べんとして五十六年前の海外漫遊当時の回想より二十年前英米に遊びし感想を語りて、断片裡に我が実業界の行べき途を説き、会議所の振興を促す所あり、次いで団博士は一行を代表して左の如き簡単なる答辞を述べたり。
○中略
而して最後に後藤市長より本団に対し東京市経営上に関する希望演説ありて、午後二時半散会せり。

 十七日午後六時東京銀行集会所主催の歓迎懇談会丸の内銀行集会所に於て開催せらる。本団よりは団・石井・伊藤・鋳谷・原・大橋・米山・南条・串田・馬越・松本・藤原・阪井・宮島・持田の十五氏、主催者側約二百名出席。一同晩餐を共にしたる後、志村源太郎氏一場の挨拶を述べ、之に対し団博士起つて答辞旁々海外経済事情に関する見聞感想意見を述ぶる所あり、午後九時散会。
 超えて廿五日には午前十時より永田町首相官邸に於て欧米に於ける労働問題に関する報告会あり。高橋首相始め内田外相・山本農相・大木法相・野田逓相・元田鉄相・中橋文相(床次内相・山梨陸相・加藤
 - 第40巻 p.518 -ページ画像 
海相は欠席)等出席し、本団よりは特に団博士・宮島清次郎・藤原銀次郎の三氏より最近欧米経済界に於ける労資協調問題の実情を主題とせる種々の視察談ありたり。次で卅日には渋沢子邸に於て慰労午餐会あり、六月三日には英国協会主催晩餐会、七日には国際聯盟協会主催午餐会あり。九日には横浜に於て井坂孝氏斡旋による横浜商業会議所及び二十八組合主催の講演会あり、同氏及び大橋新太郎・米山梅吉の三氏本団の所見を述べたり。又十五日は六時より常盤に於て本団より加藤海相・徳川公・埴原外務次官・横田千之助・林毅陸の諸氏を招待し鹿島会を開きたるが、鹿島丸出帆当日たる十月十五日を記念する為め今後毎年同月同日を期し鹿島会を開く事を申合せ散会せり。
○下略


東京商業会議所報 第五巻第六号・第一二頁大正一一年六月刊 ○英米訪問実業団帰朝歓迎会(DK400153k-0005)
第40巻 p.518-521 ページ画像

東京商業会議所報  第五巻第六号・第一二頁大正一一年六月刊
    ○英米訪問実業団帰朝歓迎会
大正十一年五月十六日正午、当所に於て英米訪問実業団一行の為め歓迎会を開催したり、出席者は主賓団・大橋・串田・中島・藤原・持田阪井・馬越・宮島・鋳谷・伊藤・米山・原・石井・松本・南条の諸氏陪賓田中農商務次官・鶴見同商務局長・村上同水産局長・伊藤同商事課長・字佐美東京府知事・後藤東京市長・渋沢子爵・大倉男爵・和田松方・木村(清)・服部(金)・有賀・加藤・福井・小野(英)・高田・高山・児玉の諸氏、高松・添田・松本・松岡・塩沢・井上の各博士、大阪商業会議所今西会頭・京都商業会議所錦光山常議員其他の主なる実業家・新聞通信社員、主催側当所杉原・山科両副会頭及議員特別議員等総員九十五名にして、正午一同食卓に着き「デザート・コース」に入り、山科副会頭は、英米訪問団御一行各位が世界大戦後の経済界変動の状況を視察の為め英米各地を訪問なされ、到処盛大なる歓迎を受け、各地の代表的実業家と意見を交換せられ、殊に英国皇帝陛下より拝謁を賜り一大福音を齎らして無事御帰朝ありしを以て、軈て我国経済上に寄与せらるゝこと多大なるべきを信ず、仍て玆に歓迎の微意を表し、又渋沢子爵閣下が先般米国より御帰朝の際工業倶楽部と聯合して歓迎会を開催したる節は、生憎御病気にて御光来を得ず甚だ遺憾に覚え居りたるに、本日幸に御臨席を忝ふしたるに由り、曩日華盛頓会議の最中同地に於て、間接に我国の為め御尽瘁下されたることに就き此機会に於て同子爵閣下に敬意を表し、並に英米訪問団各位に対し其御成功を祝し深く感謝する旨挨拶辞を述べ、次で渋沢子爵閣下は華府会議最中同地に在りて間接に自分の本分を竭したる迄にて、山科副会頭の讃辞には当らざるも、欧洲大戦後日本が英米と並び称せられて世界の強国となりたるは御同慶に感ずる所なりと説述せられ、次に団琢磨君より訪問団一行を代表し、渡航中到処に於て予想外の待遇を受け、米国に於ては時恰も華盛頓会議の最中なりしに拘はらず朝野知名の士と会談し、其結果米国人の我国に対する感情を緩和したるが如く英国に於ては我々訪問団一行の視察上に注意を払ひ同国政府が「プログラム」を造り諸種の便宜を供与せられ、団員中仏蘭西其他を訪問したる方々もあり、先年当会議所に於て招待せる加奈陀銀行の頭取ウオ
 - 第40巻 p.519 -ページ画像 
ーカー氏にも紐育にて会見、彼我の意見を交換して意思の疏通を努めたるが、之を要するに欧洲諸国は近時社会問題勃発し生活の安定を欠く為め、之れが匡救の方法に苦心し居れりとの報告ありて本日の招待を感謝せられ、主客歓談の後午後三時閉会したり
○中略
      渋沢子爵演説
 閣下並に諸君、唯今山科副会頭より歓迎の御言葉を頂戴致しました私は仲々それには当らぬのでございますが、唯無事に帰つたと云ふこと丈けは皆様に向つて申上げられるのであります、それに付いては今団君から年の上からお前より先きへ何か申上げろと云ふことでありましたが、年よりは私が先きへ帰つたから旅行順で申上げた方が宜からうかと思ひます、唯今余りに賞讃の言葉を頂いて私としては非常に恐縮して居ります、此度米国へ参つたことに付ては皆様も大抵御了解でありましようから、言ふ丈け野暮でありますが、唯私は自分の尽す丈けの本分を尽したと考へて居る丈けであります、決して功があつたとは思はぬのであります、表立つて仕事をしたのではない、随つて何等功がないとしても、誹りがない、と同時に誉がない代りに又誹りもないと云ふ訳であります、実は亜米利加でヘボン先生と年寄話をしたことがある、成る可く人は働きの表に現はれぬやうにするのが本当である、さうお前も心掛けなさいと言はれましたが、今もつて私は其事を忘れない、兎角影で働くことを好まず、それが表に現はれたいと云ふのは決して其の功能を成さぬものである、此の事は大いに考へなければならぬことゝ思ふのであります。
 併し夫れは暫く別の問題として、実は私は先達つて或る御席で外国旅行の今昔の談を申述べたことがありましたが、今から五十年前、英国倫敦の博覧会へ参りました時に、日本と云ふ国はどうも多数の人に分らなかつた、支那人支那人と言はれるので甚だ残念であるから、支那人ではない、日本人だと言ふと、それなら支那の属国かと言はれて、更に腹の立つたことがあるのでございます、当時ナポレオン三世が非常な勢力を振つて居つたが、之は独逸に破られ、暫く世の中は乱れて居つたが、日ならず平和は恢復し、先達つての大戦争に独逸皇帝はああいふ運命に陥つた、其時分何所の国か分らぬ日本が日英米と並び称せられて世界強国の地位に進んだと云ふことは、五十年前の昔を顧みますると実に喜ばざるを得ぬのであります、去りながら再び翻つて考へますると此有様が何時迄継続するか、後に又ナポレオン三世やカイゼルの如く、其昔日はどうであつたと嘆息の声を発するやうなことがあつてはならぬと日本の未来に向つて考を持たなければならぬやうに思ふのでございます、それは五十年前の昔の御話であるが、丁度私は二十年前に即ち一九〇二年に英吉利へ参つたことがございます、其時の御話を今日団君御一行の場合とどう変つて居るかと云ふことを知る為に申上げようと思ふ、其時の私の旅行は、全く今度の日本実業団が英米を訪問すると云ふ趣意ではございませぬけれども、併し渋沢が旅行するに付いては、商業会議所の会頭であるから、全国の商業会議所の人々が此所に打寄つて会議がございまして、其の会議に於て日本の
 - 第40巻 p.520 -ページ画像 
商工者の意見を欧米の国に疏通するやうにと云ふ訳で、意志疏通と云ふ職掌を持つて参つたのであります、意志疏通と云ふことは誠に漫然たる言葉で、仲々徹底的に言ふことは六ケしいのでありますが、其時倫敦商業会議所で頗る困惑の地位に立つた事を玆に告白して、諸君の御参考に供したいと思ひます、向ふの当時の商業会議所の会頭は、日本の横浜にも長く来て居つた人で、日本通である、折角渋沢が来たのだから、成る可く親しくして遠慮のない話をしたいと云ふので、私を招待された、其時には其商業会議所の何掛り何掛りと云ふ人も皆集つた私は招待されて意思疏通に対する意見を陳情せいと云ふことで、そこで、私は日本語で述べた、多分市原盛宏氏がそれを英語に訳したかと思ひます、商売上では何しろ隔意なき十分なる意見を御互に述べた、其時に会員中から一つ動議が出た、左様に極く遠慮のないことを話合うと云ふは誠に結構である、それで其の身柄は商業会議所の会頭であり、永年銀行業に従事して居ると云ふ渋沢に向つて一言することは実に名誉である、日本の商売人の御方々が、商業道徳を重んじて呉れぬと云ふことを自分は嘆息する、兎角商売人にはさう云ふ弊害は多いけれども、横浜に居る所の商売人の取引の仕方と云ふものは、全く誠意を欠いて居る、何事もチヤント約束を極めて契約をする訳にいかぬ、殆んど申合で以て取引をする、糸なら糸の景気が宜しいとちやんと約束通りやるが、少し悪くなると色々難癖を付けて約束を破る、取引が少しも堅固でない、約束を重んじない、之が東洋に於ける、而かも横浜・神戸の商売人の常習と云ふて宜しい有様である、そう云ふ風であるから之を直して貰ひたい、今一つの困難は送状を二重に書く、インボイスを両通書く、値の安いインボイスを書く、之は全く詐欺同様であるから忌やだと云ふとそれでは取引は止そうと云ふことになる、如何にも之は困る、どうぞ之を廃して貰ひたいと云ふ動議でありました私も之にも一寸面喰ひまして、成程御尤とも言ひ兼ねる、そんなことがあるものかとも申し兼ねる、何と答をしたものかと一寸躊躇しました、其時にミツドルと云ふ人、是は横浜に商店を開いて居りました、一時英国へ帰つて居られたので、私も一二度会見したことがある、其人が商業会議所の幹部の一人として来て居られたが、之が助け船になつて呉れた、ミツドル曰く成程さう云ふことは無いと言はれますまい併しそれが日本人のみにあるやうに言ふのは、少し無理な誣ひ言である、倫敦にもさう云ふ商売人が現在あるではないか、之は悪いことは悪いけれども、さう云ふことは、どうも商売人の或種類の人には決して無いとは言へない、それを総て日本の商売人がさうである如く論ずると云ふは、誣ひるも又甚しいではありませぬか、故に意志疏通と云ふ趣意は、左様に迄細かく立入つての考で言ふのではなからうと想像するから、先づ是位のことにして、今の動議は御取消になつたら宜からう、斯う言ふてミツドルが私を助けて呉れた、そこで私も夫れに対して黙つて居る訳にもいかぬから、今のミツドル君の御厚意は辱けないが、私は今立派に御受合申して、必らずさう云ふことは改めるやうにしやうと思ふ、それと同時に英吉利人もさうして貰ひたいと思ふ、善いと云ふことは共にやつて行かなければならぬ、同盟協約は双方お
 - 第40巻 p.521 -ページ画像 
互にす可きことはしなければならぬ、どうか相共にやりたい、斯う申したが、何も其当時契約書を書いた訳でもないから、夫れは其儘済んだのでありますが、此度の御一行に付いても段々御話を伺ひまして、中島君の覚書などを拝見しますると商業上のことに付いて矢張り種々の問題が提出されたやうであります、之はさう云ふことが出て参るのが宜しいのでありますけれども、二十年前に私が遭遇したやうなことは、今度はなかつたのでありませうけれども、今日御集りの皆様方に昔は斯う云ふことがありましたと云ふ事実談を、御参考に御聞きに入れた次第であります、無論私の申上げることは、今日の御讃辞に対して御答にはならぬのでございますけれども、一寸既往の旅行のことを回想致しまして一言御礼と致します。
  ○栄一、大正十一年一月三十日第四回渡米ヨリ帰国シ、二月二十七日東京商業会議所・日本工業倶楽部聯合、徳川公爵・渋沢子爵帰朝歓迎会開催セラル。右記事中山科副会頭演説要旨ニアル如ク当日栄一欠席セリ。本資料第三十三巻第三二六頁参照。