デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
7節 其他ノ資料
4款 慶弔
■綱文

第40巻 p.545-547(DK400170k) ページ画像

大正6年3月13日(1917年)

是日栄一、築地三一教会ニ於テ執行セラレタル、故アメリカ合衆国特命全権大使ジョージ・ダブリュー・ガスリーノ葬儀ニ参列ス。


■資料

集会日時通知表 大正六年(DK400170k-0001)
第40巻 p.545 ページ画像

集会日時通知表  大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
三月十三日 火 午前十時 ガスリー氏葬儀(築地、三一教会)


東京朝日新聞 第一一〇二一号大正六年三月九日 △純潔の人 ◇軽薄な外交が嫌ひ 昔を思出して懐む渋沢男爵の談(DK400170k-0002)
第40巻 p.545 ページ画像

東京朝日新聞  第一一〇二一号大正六年三月九日
  △純潔の人
    ◇軽薄な外交が嫌ひ
    ◇昔を思出して懐む
      渋沢男爵の談
ガスリー大使卒去の報を齎し渋沢男爵を訪へば、男は『ガスリー大使が逝くなられましたト』と記者の言を疑ふ者の如く、一方執事をして米大使館に確かめしめ、果して事の真実なるを知るや『驚き入つた事である
△実に吃驚しました』と嘆息稍久しうして後、扨語りて曰く
『大使と私とは相当懇親な間柄でありましたから善く存じて居りますが、大使は誠に質朴で真率な方で、日米関係に就ても律義に心配して居られました、嘉永六年コンモドル・ペリーに依つて日米の国交が開始されてから今日迄、ペリー提督でもハリス監督でも皆日本に対して親切を国交の第一義として居られた、私は開港の当時外交の事には関係は無かつたが、攘夷家として日米の関係に就ては
△常に心掛けて、国際関係は何うしても親切と云ふ事から出発せねばならぬと感じてゐたので、此事を大使に話すと、大使も渋沢は昔の事を知つて日米親交の事を説かれるから、今日の軽薄な外交とは違ふと云ふ様な話があつた事もあつた、大使は前申した様な人であるから、赫々たる手柄は無かつたが、日米の親交に就ては非常に功績の有つた人である、斯の如き純潔の人を失つたのは非常な損失で、日米親交の為め寒心に堪へぬ』
  ○「竜門雑誌」第三四七号(大正六年四月)ニ右栄一談話ヲ転載ス。


中外商業新報 第一一一一一号大正六年三月一四日 ○悲しき讃美歌 ガスリー大使の柩を送る 晴れし日も涙に曇るとばかり(DK400170k-0003)
第40巻 p.545-547 ページ画像

中外商業新報  第一一一一一号大正六年三月一四日
  ○悲しき讃美歌
    ガスリー大使の柩を送る
      ▽晴れし日も涙に曇るとばかり
 - 第40巻 p.546 -ページ画像 
米国大使ガスリー氏逝いて五日、十三日は其葬儀の日なり、大使館に於ては早朝より種々の準備に忙しく、未亡人始め館員の誰彼今更の如く涙の裡に
 ◇最後の首途 を送る可く、先づ八時半遺骸の前に一同祷を籠め軈て九時十五分米国々旗の模様を染たる布もて覆はれし霊柩は、葬儀係ローブ氏の指揮に依り使丁八名の手にて玄関前に舁ぎ出され霊柩車に移さる、此処に並居る人々等しく面を伏せて深き名残を惜むと間もなく、前庭に整列せる近衛軍楽隊の「哀みの曲」を吹奏するあり
 ◇春早き朝は 晴れたれども樹々の梢を渡る風物悲し、斯くして葬列は九時廿分警視庁宮沢警部外一名の騎馬先駆となり、特に故大使の為めに派遣されたる近衛騎兵聯隊草野中尉の率ゆる二箇小隊、次に畏くも両陛下より御下賜ありし雪白の大花輪が自働車にて運ばれ、其後を未亡人は黒色の喪服に尽きぬ憂ひを包みつゝ冥界の国に通ふ夢の浮橋を渡り行く風情して之亦
 ◇自働車にて 随へば、続いて代理大使ウヰラー氏夫妻、ホーン中佐夫妻、海軍武官レツドルス氏、陸軍武官ボートヰン氏、同アイロン氏、三等書記官ウヱルス氏、書記生ホレー氏夫妻等柩車の前後に従ひ行く、葬列は約二町余に亘り、沿道近衛歩兵第一・第三両聯隊より派遣の儀仗堵列兵と一般民衆とに見送られつゝ、三一教会に向へり
    弔砲殷々
      両陛下御名代の
      両宮殿下御参列
虎の門より一路三一教会に着せしは同九時五十分、参会者の出迎を受けて霊柩祭壇の中央に運ばるれば、直に司会者なる同教会監督牧師ジヨン・マキム師は、牧師二十余名と共に祭壇の前面に現はれピアノに合せて
 ◇歌詞を合唱 し、続いて旧約全書コリント全集第十五章《(マヽ)》を頌し讃美歌、祈祷を行ふ、満場声なく歔欷の起るあり、時に 天皇陛下御名代梨本少将宮、皇后陛下御名代同妃伊都子殿下、閑院大将宮殿下及各宮家御名代御附武宮、寺内首相以下各大臣、東郷・井上・奥・川村各元帥、英・仏・露・伊各国大公使、金子・末松両枢密顧問官、上原参謀総長・島村軍令部長・徳川上院議長・戸田式部長官、出羽・片岡・伊集院・瓜生・井口各海陸大将、渋沢男・伊藤式部次長・安達公使等
 ◇起つて礼拝 すれば未亡人は感に堪へ兼ねてよゝとばかりに泣き沈みつ、マキム師は再び起つて聖書を朗読すれば、明石橋附近に駐屯せる陸軍野砲兵は火蓋を切つて十九発の弔砲を発し、弥が上にも悲痛の気を誘ひつ、教会前に整列せる儀仗隊も亦捧銃の敬礼を行ひ、十一時其式を終る
    東京出発
      機関車の前に米
      国旗淋しく翻る
滞りなく葬儀を終へし大使の霊柩は玆に三一教会を出で、未亡人・大使館員、宮内・外務両高等官並に前記儀仗兵の警衛にて十一時五分東京駅に入たるが
 - 第40巻 p.547 -ページ画像 
 ◇是より先き 砲・工・輜重各兵より成れる三個小隊の儀仗堵列兵は玆に整列し、見送りの為め先着せる仁田原師団長・幣原外務次官・井上府知事・添田寿一氏等知名の人々の来迎を受け、葬儀係ローブ氏の先導にて第四昇降場より使丁八名の手にて第七番駅歩廊に移され、臨時列車第三輛目の霊柩車内に舁込まれ未亡人以下館員一同同乗、見れば
 ◇機関車の前 には一旒の米国々旗黒き喪章をつけて風にはためきてあり、斯て歩廊の一隅に整列せる陸軍戸山学校音楽隊が奏する哀音を後に、列車は汽笛の響も寂しく轢轆として出発し横演に向へり、而して横浜駅に着するや、柩は三度霊柩車に載せられて米国海軍病院の一室に納められたり
  ○尚、ガスリーニ就イテハ本資料第三十九巻所収「其他ノ外国人接待」大正二年十二月十五日及ビ大正四年二月一日ノ条参照。