デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
7節 其他ノ資料
4款 慶弔
■綱文

第40巻 p.567-571(DK400183k) ページ画像

大正15年8月26日(1926年)

是日栄一、アメリカ合衆国人チャールズ・ダブリュー・エリオットノ死去ヲ悼ミテ、同夫人ニ弔電ヲ発ス。


■資料

渋沢栄一電報控 チャールズ・ダブリュー・エリオット夫人宛大正一五年八月二六日(DK400183k-0001)
第40巻 p.567 ページ画像

渋沢栄一電報控  チャールズ・ダブリュー・エリオット夫人宛大正一五年八月二六日
                    (渋沢子爵家所蔵)
                (栄一鉛筆)
    電報案         十五年八月二十六日閲了
 マサチユーセツツ州
  ケンブリツジ市
   チヤールス・エリオツト夫人様
                   東京 渋沢
御良人ノ御逝去ヲ深ク悲ム、特ニ世界平和及教育事業ノ為メ痛惜ノ情ニ堪ヘズ。
  ○右英文電報ハ同日付ニテ発セラレタリ。


竜門雑誌 第四五六号・第一―六頁大正一五年九月 三知人の訃音に接して 青淵先生(DK400183k-0002)
第40巻 p.567-571 ページ画像

竜門雑誌  第四五六号・第一―六頁大正一五年九月
    三知人の訃音に接して
                      青淵先生
○上略
     一、エリオツト氏
 チヤールス、エリオツト博士はボストンのハーバード大学の名誉総長であつて、繁々会見して談話を交換したと云ふではないが、古い知人の一人である。私は其の人格を知つて、最初から誠に正しい人であり、何事も大観し、極く公平に見る人であると信じ、其の学者であり政治家であり、教育家である処の偉大なる人格を尊重し、重んずべき
 - 第40巻 p.568 -ページ画像 
人であると思つて居た。
 確か明治四十二年渡米実業団の米国を訪ぬる以前であつたと思ふがエリオツト博士は夫人同伴で来遊せられ、此の飛鳥山へ来訪された。其の時にも日米問題に就て種々話したことを記憶して居るが、エリオツト氏は
 「私達が主張する思ひやり、即ち先方のことをよく考へて何事をも行ふやうにすれば、物議の起ることはありませぬ。北米合衆国と日本の如き新進の両国間を親密にするのにも、其の考へが一番大切であります。如何に勉めて両国間を接近せしめやうとしても、一方に他を凌ぐと云ふ気持があれば、どうしても交りは破れます。米国に其の気持が多いやうであります」
と申して居たので、よく自国の欠点なり長所なりを知り、自国民の性癖を見て遠慮なく物事に批判を加へる偉大な人であると思つたのである。其後渡米実業団を組織して渡米した時には、ハーバード大学を参観してお世話になつた。其際の感想は今特に申す程のものはないが、それから大正四年の冬ボストンで会見した。
 当時私は日米の国交に関し深く憂慮をして居た、と言ふのは例の移民問題からである。処が恰度パナマ運河が開通した記念として、桑港で博覧会が開かれるに就て日本からも出品されたいと主催者から懇切に云つて来た。私などは排日が相当盛んであるけれども、左様なことは一切気にかけない様にと、友人などゝも相談して、政府や民間に対し出品を奨めた。折柄欧洲の風雲は漸く急であつて、英国・仏国の如き、申込はあつたが、実際の出品は困難な状態にあつたから、若し英仏の出品が不可能ならば博覧会は誠に淋しいものになる。だから日本からの出品を特に増す必要がある、として当局者を鞭韃し、民間の人人に慫慂したものである。果して桑港大博覧会は欧洲諸国からの出品は殆んどなく、日本からの出品が大いに眼を惹いて、主催者であるモーア氏の如き非常に喜び、日本に対し少なからぬ好感を持つたと云ふ有様であつた。又桑港に在る日本の移民は、此の博覧会の協賛会を造つて、博覧会を後援した程であつた、が然し其後始末がうまく行かず遂に私の手で処理したこともあつた、これは別問題であるけれども、私は此博覧会へ赴いた時、序を以て東部各地を歴訪し、エリオツト博士に会見したが、この時にもしみじみ大人物であると思つたことを今更ながら想起する。
 予て懇親にして居るスタンフオード大学の総長ジヨルダン博士とも東部に行く前会見し世界の平和とか日米問題とかに就て意見を交換したので、其事をエリオツト博士に談話し更に大要斯様に話しました。
 「日米間の親善を増進することは、私達の義務であるとしてそれに努力致して居ります。日米間の問題のみならず、更に進んで世界各国間の争はあらゆる方法を講じて防止せねばならぬと思ひますが、此点に付てはジヨルタン博士は、人の智恵が進めば進む程争は少くなると云ふ意見を持つて居られる。然し私の見る所では精神的の智識は進めば進む程争を減らすであらうけれども、物質的の智識は進めば進む程我儘がつのるから、自然紛争も多くならざるを得ぬ。故
 - 第40巻 p.569 -ページ画像 
に精神的に智識の進むことに対して特に力を致さねばならぬと思ひますので、其事を申述べました。然るに博士は物質的の智識が進めば損得と云ふ利害の念が明かになつて来るから自然争はなくなる。最近の例を挙げても独逸がモロツコのことで仏蘭西と事をかまへやうとして、モルガン氏に借金を申込んだ処、モルガン氏が平和の為めなら喜んで応ずるが、戦争に使ふ金を貸すことはならぬ、と断つたので、遂に物議は起らず立消へとなつたことさへある、と主張された」
と記憶のまゝに話したところ、エリオツト博士はかう述べた。
 「ジヨルダン君は智識が進むと戦争は起らぬと主張して居たさうでありますが遂に今度の大戦乱が起りました。従つてそれに就ては同君に相当の考へや議論があるであらうが、私は智恵が進むことのみに望は持たず何とか好い方法が無ければならぬと考へて居ります。そして平和の為めには出来るだけ不便な点を正し度いと思ひます。貴方の云ふ物質上の智識が進めば我儘になると云ふことなどは、その我儘を抑へる者があつて然るべきで、それを為さず世界の平和を求めるのは間違でありませう。それから今度の欧洲大戦でありますが、果してどうなるか、いやどうすればよいかに付て考へねばなりませぬ。独逸を押へて手を延し度いのは英国であるが、英独の争ひをそのまゝにして置けば其の終結を告げるのには随分長くかゝるであらう。何等かの方法を以て余り長くかゝらぬ様にせねばならぬ。それには独逸を極端に困却せしめる必要がある。それを実現するには大なる力が入用であると思つて居ります。其の方法は、或は机上の空論だと云はれるかも知らぬが、先づ経済的に独逸を困憊せしめる為め聯合国側が制海権を握り経済的に封鎖することである。此方法が実現すれば、軍隊を動かして攻撃するよりも遥かに大なる効果があると思ひます。此の制海権を握り独逸を遠巻きにするには、米国を聯合国に加入せしめ伊太利をも引入れねばなりませぬ。かくして悠然と経済上から圧迫するならば、独逸は真に手も足も出ず、此処に平和を見るに到るでありませう。大隈首相は貴方とは非常に懇親であると承つて居るが、御帰国の上は是非首相にさう云ふ風にするやう勧説されたい。又エリオツトがさう云つたと伝へて頂きたい」
と熱心に主張された。私は米国の聯合国加入は結構だと思ひましたから、受合ふことは出来ないが、日本が其方に傾くやうに努力しませうと答へました。この説に対しウヰルソン大統領は如何なる意向を有して居たか判明しないが、私はエリオツト氏の達見に感服した。そして続いて道徳論などをした事を想起する。
 エリオツト博士は誠に公平な考へ方をする人であつたから、大体の観察を誤らず、一方に偏せず少しも過激な説を立てなかつた。確かに中正なる大人物であつたと思ふ。
 一昨年米国の排日移民法が通過したことは、実に無法な行り方だと思つて居る。殊に永年斯うした結果になることを憂へ微力を致して来た自分としては真に遺憾に堪へなかつたから何とか好い手段はないものであらうかと種々考慮したのである。然し何分国際問題のことであ
 - 第40巻 p.570 -ページ画像 
るから、無闇に憤慨して、あせつて見ても致し方がない。殊に老人の吾々が憤れば、若い人達を一層激昂せしめるに止り、却つて両国の関係を悪化せしめるからよろしくない。寧ろ米国の心ある人々の間には日本に対しては相済まぬことをしたと考へて居る人もあらうから、怪しからんと正面から詰問はせず、同時にお願ひするとは云はず、適当な手紙を書いて米国各方面の知人へ発送することにしたが、勿論エリオツト博士にも之を送つた。その要領は
 「今年(一昨年のこと)の四月移民法が制定せられ、七月から実施せられることになつたのを、米国人として、好いことをしたとはまさか思はないであらう。好い法律でないものならば、何とか改める方法はありますまいか」
と云ふやうな、曖昧摸糊たるものであつた。処がエリオツト博士からは親切と云へば親切なと云へるけれど又皮肉とも見える返事が来た。
 「御申越の通り『千九百二十四年は両国関係に悲むべき跡を残せる年』として小生も御同感に御座候、新移民法の米国議会通過は両国政府間並に両国民間の友誼に対して甚しき打撃を加へたるものと、日本の味方も日本国民も考へらるゝ事と存候。然しながら此暴戻なる議会の議決は一般米国民に反動を惹起可致候へば、終には両国の伝統的親善関係は次第に確実に向ふと期待罷在候」
と冒頭先づ当方よりの通信に答へ、進んで
 「日米両国現在の問題を解決せんが為に、日米両国民の間に存する真の相違を考究する事は重要なる事柄と存候。就中最も重大なる相違は、婦人に対する待遇の異れる事に候。米国に於ては男女両性は対等若くは僚友の関係に有之候に、日本に於ては女性は全然男子の従属者に御座候。米国に於ても近年迄は家庭に於ても学校に於ても男女両性は其教育法に相違有之候へ共、今日にては少女及び若き婦人の教育法は次第に少青年の教育法に類似し来り申候。日本に於ては幾百年間結婚なるものは当事者の意志及希望を無視し、家長によりて取結ばれ候得共、米国に於ては如此は稀有の事に候。若し日本の法律及習慣を変更し、次第に強制結婚の跡を絶ち、日本全国をして一夫一婦の制によらしむるに至る時、日米両国は今日以上に同情ある間柄となり得べしと存候……」
 とあつたから、当時は皮肉とも見られたが、決して皮肉ではなく真に心配して居たのであつた、親切な心した手紙であつたと今も思つて居る。然るに今日では既に亡い人の数に入つたのであつて、心から注告を再び聞く由もない。
 私は悲報に接すると直ちに未亡人に対して電報を以て追悼の意を表して置いた訳であるが、実に斯様に立派な公平な大人物の逝かれたのは残念である。たゞ年齢は九十三歳であつたから、其方面から又已むを得ないことであつたと云へやう。
  ○本記事ハ第二項張謇、第三項アール・デー・タタト続キ、ソノ末尾ニ(八月三十日談話)ト記ス。
  ○エリオット夫妻ノ来訪ヲ明治四十二年渡米実業団ノ訪米前トアルハ誤リ。明治四十五年六月ナリ。本資料第三十五巻所収「ニユー・ヨーク日本協会
 - 第40巻 p.571 -ページ画像 
協賛会」明治四十五年六月二十九日ノ条参照。