デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
7節 其他ノ資料
4款 慶弔
■綱文

第40巻 p.572-580(DK400186k) ページ画像

昭和2年8月18日(1927年)

是日栄一、アメリカ合衆国人エルバート・エッチ・ゲーリー死去ノ報ニ接シ、ニュー・ヨークノ同夫人ニ弔電ヲ発ス。十月二十四日、重ネテ同夫人ニ対シ、追悼ノ書状ヲ送ル。


■資料

外務省関係書類(三)(DK400186k-0001)
第40巻 p.572 ページ画像

外務省関係書類(三)          (渋沢子爵家所蔵)
                       別紙添付
                         明六
欧二普通第一四一一号
  昭和二年八月十七日
             外務次官 出淵勝次外務次官之印
    子爵渋沢栄一殿
  ゲーリー判事死去ニ関スル電信写送附ノ件
ゲーリー判事死去ニ関スル在紐育内山総領事代理来電写、別紙ノ通差進ス
(別紙)
ユーナイテツト・ステーツ・スチール社長 Judge Elbert H. Gary 十五日午前三時四十分当時自邸1130 Fifth Avenueニ於テ慢性心筋炎ニテ死亡、葬儀ハ八月十八日午前十時半郷里イリノイ州 Wheaton Gray Memorial Methodist Church(市俄古附近)ニ於テ執行ノ筈


渋沢栄一電報控 エルバート・エッチ・ゲーリー夫人宛昭和二年八月一八日(DK400186k-0002)
第40巻 p.572-573 ページ画像

渋沢栄一電報控  エルバート・エッチ・ゲーリー夫人宛昭和二年八月一八日
 - 第40巻 p.573 -ページ画像 
                    (渋沢子爵家所蔵)
                        11/11明六
    電報案
 紐育
  エルバート・エチ・ゲーリー夫人
御良人御逝去の悲報を聞き哀悼の至に堪へず。米国は各方面に卓越せる偉人を失ひ、日本にても最了解ある親友を喪へり
謹て衷心よりの弔意と深厚なる同情を表す
                     渋沢栄一
  ○右英文電報ハ昭和二年八月十八日付ニテ発信セラレタリ。


米国人来翰(六)(DK400186k-0003)
第40巻 p.573 ページ画像

米国人来翰(六)           (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
         Mrs. Elbert H. Gary
     acknowledges with grateful appreciation
       your kind expression of sympathy
  ○右ハ黒枠ツキカード。
(右訳文)
                    (栄一鉛筆)
                    九月二十八日一覧
                 (昭和二年九月十七日入手)
御鄭重なる御同情を賜り衷心より御礼申上候 敬具
               エルバート・エチ・ゲーリー妻


渋沢栄一書翰控 エルバート・エッチ・ゲーリー夫人宛 昭和二年一〇月二四日(DK400186k-0004)
第40巻 p.573-574 ページ画像

渋沢栄一書翰控  エルバート・エッチ・ゲーリー夫人宛昭和二年一〇月二四日
                      (渋沢子爵家所蔵)
                   (栄一鉛筆)
                   十月二十二日閲了
    案
 紐育市
  ジヤツヂ・エルバート・エチ・ゲーリー未亡人殿
                   東京 渋沢栄一
拝啓、然ば過般突然御良人御逝去の悲報に接し衷心より哀悼の至に不堪、不取敢電報を以て弔意相表し候処、頃日御鄭重なる御挨拶を賜り却て恐縮千万に御座候
今は悲しき想出となりたるも、去る五月末堀越善重郎氏帰国の節伝へられし御良人よりの御伝言に御座候、そは故人が今一度老生との御面会を希望被成、今一度老生に渡米致候様被申聞候事に御座候、右に対し堀越氏は、故人が老生より年少なるを理由として寧ろ故人の渡日を御勧め申上候趣に御座候、然るに僅に三ケ月を出ずして此悲を味はんとは、真に人世朝露の感深きもの有之候
遡れは一千九百二十一年、軍縮会議開催の際老生渡米仕候折、ロングアイランドの御別邸に於て又紐育の御本邸に於て盛宴御催被下候義記憶罷在候、御本邸に於ては特に別室にて御秘蔵のルイ第十四世の使用せられたる陶器を拝見仕候義、殊に印象深く鮮かに承知致居候、更に
 - 第40巻 p.574 -ページ画像 
エル・エル・クラーク氏邸に於て欧洲諸国の名士等と共に御饗応を受けし夜、種々御款待被成下候事をも想起し、在りし日の御温情御知遇を想返せば返す程悲しき極に御座候
御悲歎限りなき折柄、無躾にも斯る繰言を申上候は心なき業にて恐入候へども、事ある毎に御高配を忝うせし芳情感佩措く能はざるに、今や又御好意を仰ぐによしなく傷心措不能、老生としてはせめて在りし日の事共を追懐致、心やりと致度敢て申上候次第に御座候、衷情御諒恕被下度候
右得貴意度如此御座候 敬具
  昭和二年十月二十四日
  ○右英文書翰同日付ニテ発送セラレタリ。
  ○千九百二十一年ニ於ケル渡米ニ就イテハ本資料第三十三巻所収「第四回米国行」参照。


竜門雑誌 第四六八号・第一―六頁昭和二年九月 鋼鉄王ゲーリー氏に就て 青淵先生(DK400186k-0005)
第40巻 p.574-577 ページ画像

竜門雑誌  第四六八号・第一―六頁昭和二年九月
    鋼鉄王ゲーリー氏に就て
                      青淵先生
      一
 八月十五日に逝去せられた米国のジヤツヂ・ゲーリー氏に私が始めて会つたのは、氏が大正四年七月我が国に来遊せられた時で、何んでも支那方面を漫遊して来られたと記憶して居ります。王子の宅へ招待して晩餐会を催しました。然し当時は未だ懇親と云ふ程ではなく、寧ろ親しくしたのは、大正十年華盛頓会議の開かれたのを好機として私が渡米した時からであります。其の際氏は私をロング・アイランドの立派な別邸に招待し、午餐の饗応をして呉れ、種々懇談しました。またクラークと云ふ紐育のアメリカン・エキスチエンジ・バンクの頭取がありますが、此人がゲーリー氏と親しい間柄上、クラークの夫人が亦ゲーリー夫人と親しく、夫婦共ゲーリーの方が先輩と云ふ訳であるから、クラーク氏の邸で饗応を受けた時に、ゲーリー氏夫妻も出席して、主人顔に彼是接待して居りましたので、此の日にも親しく種々話しました。それから更に紐育のゲーリー氏邸に招待せられ、鄭重なる饗応を受けました。此時は主客合せて二十四・五人で、どう云ふ顔振れであつたか、よく記憶して居りませんが、私達の仲間は五・六人であつたと思ひます。夫人は特に親切の意味からであつたらうと思ひますが、私に道具類を見せるからと云ふので、中二階のやうな所に自ら案内して、其所に置いてあつた焼物の像に付て説明して「これは仏蘭西の有名な陶器で珍らしいものであるから、此前欧羅巴へ往つた時主人は余り進まなかつたが、私が特にすゝめて主人に買はしたのです」と自慢らしく話し何んでも何万弗とかであつたと云つて居りました。又其の脇の方に棚のある物置台のやうなものに、皿や鉢が陳列されてありましたが、これは何と云ふか記憶にないが、古代の焼物で欧洲の或る王様の持物であつたのを買つて来たもので、其の形が面白いとか色が非常に好いとか申して居りましたが、私はこうした物に全然趣味がないので「ハア、ハア」と云つて、只見たり聞いたりするばかりで
 - 第40巻 p.575 -ページ画像 
面白さうにしなかつたから「貴方は道具類は嫌いらしい、外に見せたいと思ふものもあるが止めにしよう」と云ふことで、中止しました。蓋し斯く御自慢の物を親しく説明して見せたのは、私がゲーリー氏と親しい間柄である為め、特に厚く待遇してくれたものであらうと思ひます。
 夫人の印象は、何れかと云へば日本風に云ふ優美な方でなく快活の方で、又頗る賢明であるらしかつた。話が大分飛ぶが、堀越善重郎氏が先頃米国から帰つてからの話に依ると、先般同氏がゲーリー氏に会つた時「渋沢さんに今一度会ひたいが、米国へ来ないだらうか」と云つたさうで、堀越氏が打返して「渋沢さんは貴方より年が上です。達者であるが、近頃余程弱つて居る模様であるから、米国へ旅行するのは困難かと思はれます。寧ろ貴方が日本へ御出になりませんか」と奨めたが「私も年をとつた」と云ふて、日本へ行つて見ようとは云はなかつたさうです。これも夫人が日本を余り好まないからであらうと想像されたとのことでした。
      二
 ゲーリー氏の手腕とか経歴とかに就て、私は直接に知る処が少いから、遺憾ながらそれに関して詳しく述べることを得ませぬが、聞く処に依ると、米国製鉄業の大合同を成し遂げ、今日のユー・エス・スチール・コーポレーシヨンを組織したのは、此の人に依つてゞあると云ふことであります。それは例のカーネギー氏が逝去してから後、ピッツバーグの製鉄所を盛大にしたは、シユワブ氏の力であると聞いて居りますけれども、シユワブ氏は力はあつたが、統御の点ではゲーリー氏の方が優れて居たので、あの寄合所帯のユー・エス・スチール会社を主宰するにはゲーリー氏が適任とされて、遂に其の事に当つた点から察しても、氏の物事を統一する力は偉大であり、さうした方面に才能もあり、徳望もあつたのであります。話が前後しましたが、前に話した私の始めてゲーリー氏に会つたのは斯かる評判の高くなつてから後であり、又私が米国でゲーリー氏に饗応を受けたのは、ゲーリー氏の日本来遊後更に数年後のことであります。爾来互に通信は交して居りましたが、会見する機会がなく、遂に幽明境を異にする身柄となつてしまつたのは遺憾の至であります。
 私は特に同氏と議論したと云ふやうなことはありません。たゞ別して渋沢には同情して呉れて居たらしく、私も感謝して居りました。と云ふのは米国西部の地方で、色々日本の移民に難癖をつけて排斥運動を起し、大正二年には土地法を制定して日本移民に多大の打撃を与へましたが、同九年にはこれを一層厳しくしやうと、加州方面の排日家が計画し、種々運動したのであります。其処で之を緩和するには米国人全体の好感に依らねばならぬとして、日米協議会を開き、互に胸襟を開いて懇談して見度いものであると考へ、金子堅太郎子や阪谷芳郎男其他有志の人々と評議して、日本で日米有志者の懇談会を開催することにし、米国側の人に来てもらうことにしました、当時の首相は原敬氏で、外相は内田康哉伯であつたと思ひますが、此の日米有志協議会の計画は政府からの指図でなく、私達の自ら進んで開かうとしたこ
 - 第40巻 p.576 -ページ画像 
とで、政府の人々とは内々の相談をして居りました。又海外を旅行して当時帰朝した後藤新平子も之に賛同し、此処に私が主脳者となつて其の実行にとりかゝりました。先づ米国西部では桑港に於ける米日関係委員会のアレキサンダー氏、リンチ氏、モーア氏等九人の来遊を乞ひ、更に大正九年二月末、米国東部の重な人を招待することにし、誰がよからうかと相談の末、ジヤツヂ・ゲーリーがよからうと云ふことになつたが、若し差支がある場合の為め今一人と云ふことでヴァンダーリップ氏にも招待状を出すようにしました。然し手紙のみでもどうあらうか、然りとて特別に使の者を渡米させるでもあるまい、と色々協議の結果、私が極く丁寧な手紙を書き、堀越氏が紐育に居つたので同氏に依頼して私の使として行つて貰へばよからうと云ふことになり同氏を煩はして、ゲーリー氏及其時分ナシヨナル・シチー・バンクの頭取であつたヴアンダリツプ氏に交渉しました。ヴアンダリツプ氏はスチルマン氏の後継者として紐育経済界の代表者であり、かなり勢力のある人でありましたが、私等の方では第一にゲーリー氏に交渉し、どうしても都合がつかぬ場合にはヴアンダリツプ氏を動かす手筈でありました。其の手紙の趣意は「我々は深く日米の国交に就て心配して居るが、米国西部地方では日本移民を嫌ふ。これは誤解がある為めであるから、直したいと思ふ。このまゝで進めば大変な間違が生ずる惧がある。西部の方は直接的であるが東部はさうでない。然し東部の人人から西部に説明するやうにして頂き度いと思つて居る。従つて之等に就ての協議をしたいと思ふから、是非来遊せられたい」と、特に丁寧に云ふてやりました処、ゲーリー氏は私の申分を親切な尤もな申込であるとして、来てもよいと云ふ意嚮であつたらしいが、差支が出来て、結局不可能となつたのでした。然し同じ意味の手紙がヴアンダリツプ氏にも行つて居ることを知つたゲーリー氏は、同氏と種々相談の結果、ヴアンダリツプ氏が来ることになりました。故に其時に、ゲーリー氏は来られなかつたが、二人で懇談しただけ、ゲーリー氏も此の問題には深く同情を持つて居たことがよく判ります。ヴアンダリツプ氏と一所に見えたのはヘンリー・タフト氏、キングスレー氏、イーストマン氏、ライマン・ゲージ氏等であつたが、之にはゲーリー氏の心配があり、日米関係に就て物議を起さぬやう、調和するやうにあり度いと思つて心配して呉れたのでした。従つて翌大正十年私が氏を訪ねた時には色々の方面から、私の心配にいたく同情して力を尽されたのであります。
 又大正十三年に移民問題が議会を通過し、所謂排日法が成立した時私は日米関係委員会を代表して遺憾である旨の書面を送つた処、それに対し、ゲーリー氏は
 「深厚なる興味と多大の満足とを以て拝誦仕候、小生は公私機会ある毎に必ず日本と合衆国との友誼的感情の継続すべきを力説し、且日本国民の大多数(上流を含む)は合衆国に対し友情を有する事を寸毫も疑はざる旨を陳述致居候、小生は両国間に永久的平和と親善とを維持せんとする両国の努力は決して空しからざるべきを今尚信じ居候、賢明にして親愛なる我大統領及其閣員の日本に対し懐く意
 - 第40巻 p.577 -ページ画像 
見は何等非難する理由無之かるべく候、小生は両国に対し果して如何なる処置を採るを以て最も公正なるべきかは敢て玆に卑見を披瀝不仕候、否之を公表するは妥当ならずと相考へ候、只平和と友情とを重んじて今日に至れる貴台の如き紳士の懐抱せらるゝ隠忍裁断及分別だに両国に存するならば、吾人の熱心に祈り求むるものを齎すに難からずと存候
と懇切に返事した程同情を持つて居りました。
 ゲーリー氏が鋼鉄会社を経営するに当つては、労働問題に留意し、労働者の待遇をよくし、事業に対しては幾分でも利害関係を有つことが必要であるとして、職工をして株主たらしめ、徒らに資本主義的に労働者を圧迫することなく、小さい働きの者まで共々に其の事業と利害得失を同じからしめるやうにし、道徳的に卅余万人の職工を制御して居りましたことは、広く世界の視聴を集めた処で、斯かる点は我が国の事業家が宜しく学んで然るべき事かと考へます。
      三
 要するにゲーリー氏と私との関係は、事業でもなく、学説からでもなく、単に日米両国の親善に就ての思入れから、同情して呉れ、色々会談したり、書面の往復をしたりしたのに過ぎませんが、こうした交渉の間にも、同氏の親切であることがよく判りました。又余り何事も事々しくすることを好まぬ人のやうでありました。兎に角ゲーリー氏は大紐育の事業界にあつても社交界にあつても第一人者でありまして日本移民の問題に就ても至極公平な考へを持ち、移民排斥の法律の如きは何時か訂正し度いと思つて居られたらしいのに、僅か一月ばかりの病気で逝去せられたのは、私として友人を失つたのみでなく、日米の為めに惜しいとしみじみ思ひます。殊に堀越氏が訪問した折「今一度渋沢と話し度い」と云つて居られたと云ふことを思ひ出せば、私も尚ほ談話を交換したい感情で充されて残念でならず、斯く話ながらも暗涙を催さずには居られないのであります。
 今ゲーリー氏の逝去に接して、米国の友人を憶へば、尚私よりも年若くして逝去した人が尠くないのであります。スチルマン氏、ゼームス・ヒル氏、ジヨン・ワナメーカー氏、ハインヅ氏、ハリマン氏、エリオツト氏、ドールマン氏、ルーズベルト氏、ウヰルソン氏、ハーヂング氏、ライマン・ゲージ氏等の中、エリオツト氏とジヨン・ワナメーカー氏とライマン・ゲージ氏は私より上であつたが、他は皆大分若くして逝いたのであります。兎に角、斯かる有力者を次々に失ふことは、日米両国の為めに深く悲しむ所であります。(九月一日談話)


(エンマ・ティー・ゲーリー)書翰 渋沢栄一宛一九二七年一一月二二日(DK400186k-0006)
第40巻 p.577-578 ページ画像

(エンマ・ティー・ゲーリー)書翰  渋沢栄一宛一九二七年一一月二二日
                  (渋沢子爵家所蔵)
          1130, Fifth Avenue
         New York, N.Y. November 22, 1927
My dear Viscount Shibusawa:
  I beg to acknowledge the letters of yourself and of your son, Masao Shibusawa, dated respectively October 24th and
 - 第40巻 p.578 -ページ画像 
 October 25th ultimo. I was glad to hear from you, and I thank you very sincerely for the kind expressions of regard and affection for Judge Gary which they contain. I am also grateful for your words of sympathy. Your good wishes are much appreciated and warmly reciprocated. I shall always remember with pleasure the many courtesies which you extended to us in Japan, especially the delightful luncheon at your home. I congratulate you upon your continued good health and upon your long life of kindly usefulness and constructive leadership.
             Sincerely yours,
               (Signed) Emma T. Gary
                   (Mrs. Elbert H. Gary)
Viscount E. Shibusawa,
 1 Nichome Yeirakucho Kojimachiku,
 Tokyo, Japan.
  ○右ハ黒枠ツキ用箋ニタイプセルモノ。
(右訳文)
                  (栄一鉛筆)
                  十二月二十九日一覧
 東京市                (十二月廿一日入手)
  子爵渋沢栄一閣下
            紐育、一九二七年十一月廿二日
             エンマ・テイ・ゲーリー
             (エルバート・エチ・ゲーリー未亡人)
拝啓、益御清適奉賀候、然ば閣下並に御令息正雄様よりの十月廿四日並に十月廿五日附御手紙正に落手難有拝誦仕候、閣下よりの御便りは誠に嬉敷拝見仕候、故ジヤツヂ・ゲーリーに対し敬意と御厚情とを忝ふし衷心より御礼申上候、尚ほ御同情の御言葉に対しても謹んで拝謝の意を奉表、且つ閣下の御厚志に対し感銘措く能はざる旨申上度候、私共の日本滞在中に忝ふしたる深厚なる御款待、特に貴邸に於ける愉快なりし午餐会は楽しき想出に御座候、閣下が不相変御壮健に被為入日本の為に有用且つ建設的の指導者として、御長寿の限り御尽し被遊候を大慶至極に存候 敬具


(アール・ダブリュー・キャンベル)書翰 渋沢栄一宛一九二八年六月五日(DK400186k-0007)
第40巻 p.578-579 ページ画像

(アール・ダブリュー・キャンベル)書翰  渋沢栄一宛一九二八年六月五日
                     (渋沢子爵家所蔵)
           LAW OFFICES OF
         KNAPP AND CAMPBELL
         208 SOUTH LA SALLE STREET
             CHICAGO
                   June 5, 1928
My dear Viscount Shibusawa:
  Mr. W. E. Gary, President of the Gary Wheaton Bank, has advised us of the fact that you and Messrs. Z. Horikoshi and Sansho Yamagata visited the mausoleum of Judge Gary on Memorial Day and there deposited a wreath in his memory.
  I have reported this fact to Mrs. Sutcliffe and Mrs.
 - 第40巻 p.579 -ページ画像 
 Campbell, Judge Gary's daughters, and to Mrs. Gary, Judge Cary's widow.
  On their behalf permit me to express our appreciation of your thought of him and our thanks for the expression thereof which has deeply touched us all.
             Very truly yours,
              (Signed) R. W. Campbell
Viscount Shibusawa,
  C/O Z. Horikoshi & Co.,
  140 S. Dearborn St.,
  Chicago, Illinois.
RWC:MH
(右訳文)
            (栄一鉛筆)
            特ニ此懇切なる来状有りし事を堀越氏へも通知致候方可然と存候事
            七月二十七日一覧 明六
 東京                   (六月三十日入手)
  渋沢子爵閣下
        シカゴ市、ナツプ・エンド・カメル法律事務所
        一九二八年六月五日
               アール・ダブルユー・キヤメル
拝啓、益御清適奉賀候、然ば閣下・堀越善重郎氏及山県三省氏は招魂祭当日に於て故ジヤヂ・ゲーリー氏の墳墓に御参詣相成、花環を御供へ被下候由ゲーリー・ホイートン銀行頭取ダブルユー・イー・ゲーリー氏より承知仕候
小生は右の趣故人の令嬢たるスツトクリツフ夫人及カメル夫人(荊妻)とゲーリー未亡人に報告致候処、何れも閣下の御芳志に感銘罷在、此旨小生より閣下へ御伝達申上候様にとの事に有之候間、一言申上候次第に有之候
右御礼旁得貴意度如此御座候 敬具
(欄外別筆)
 花環の代金に関し電話にて堀越氏に引合い申候処、其れは御心配下さらぬ様にと堅く御断り有之候(九月三日)


渋沢栄一書翰控 アール・ダブリユー・キヤンベル宛 一九二八年八月三〇日(DK400186k-0008)
第40巻 p.579-580 ページ画像

渋沢栄一書翰控  アール・ダブリユー・キヤンベル宛一九二八年八月三〇日
                     (渋沢子爵家所蔵)
          (栄一鉛筆)
          八月十一日一覧
          墓前ニ呈せし華輪之代価ハ早々堀越氏へ支払可申事
    案
 イリノイ州
 市俄古ナツプ・エンド・キヤメル法律事務所
  アール・ダブルユー・キヤメル殿
                    東京
                      渋沢栄一
 - 第40巻 p.580 -ページ画像 
拝復、六月五日附の御書面順着拝誦仕候、然ば先般友人堀越善重郎氏によつて、故ジヤツジ・ゲーリー氏の墓前に花環捧呈致候処、未亡人を始め御遺族の方々よりの御懇篤なる御挨拶を特に御通知被下恐縮至極に存候
右堀越氏は貴市に店舗を有し居、且老生と等しく故人と御懇親に願居候関係も有之候に付、同氏に託して敬意を表せし次第に御座候、微衷御諒察被下度候
右貴答旁得貴意度如此御座候 敬具
  ○右英文書翰ハ一九二八年八月三十日付ニテ発送セラレタリ。