デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
7節 其他ノ資料
5款 外国人トノ往復書翰
■綱文

第40巻 p.653-658(DK400220k) ページ画像

大正15年7月28日(1926年)

是ヨリ先、アメリカ合衆国人シドニー・エル・ギューリックハ書ヲ小畑久五郎ニ寄セテ栄一ノ略伝ヲ請フ。仍ツテ是日、栄一自ラ閲歴ノ概略ヲ述ベテコレニ応ズ。


■資料

(シドニー・エル・ギューリック) 書翰 小畑久五郎宛一九二六年五月七日(DK400220k-0001)
第40巻 p.653-654 ページ画像

(シドニー・エル・ギューリック) 書翰  小畑久五郎宛一九二六年五月七日
                     (渋沢子爵家所蔵)
     FEDERAL COUNCIL OF THE CHURCHES OF
          CHRIST IN AMERICA
    NATIONAL OFFICES, 612 UNITED CHARITIES BUILDING
         105 EAST 22ND STREET, NEW YORK
                       May 7, 1926
Mr. K. Obata,
  2 Kabutocho, Nihonbashi,
  Tokyo, Japan.
 - 第40巻 p.654 -ページ画像 
My dear Mr. Obata:
  A friend of mine is planning to write biographical sketches of one or two Japanese and Chinese friends of America for syndicated Sunday School material and has appealed to me for suggestion.
  I think a brief sketch (1500 to 2000 words) of the life of Viscount Shibusawa would be exceedingly valuable. Perhaps you can tell me whether this material can be found already in print.
  I recall some very interesting statements regarding his very early life when he served as bodyguard, as I recall it, to Minister Harris.
  If you cannot refer me to something already in print, perhaps, you can prepare something or get Professor Clement or someone else to write it. It needs to be sketchy, with many incidents, since it is to be a story for young people in their early teens. Perhaps the Viscount himself will contribute from his memory of some of those early days.
                Cordially yours,
              (Signed) Sidney L. Gulick
                        Secretary
(右訳文)
          (別筆)
          白石・岡田ノ両氏ト共ニ御口授ヲ受ケ後修正シテ英訳シ発送セリ
          (栄一鉛筆)
          青年時代之経歴ニ付て談話を要せられ候ハヾ適当之時機ニ於て筆記し得る様講演可致事
 渋沢事務所               (五月廿七日入手)
  小畑久五郎殿     紐育、一九二六年五月七日
               シドニー・エル・ギユーリツク
拝啓、小生の一友人こと日曜学校協会の資料となさんが為め、日支両国に於ける米国の友人の略伝を執筆せん事を企て小生に意見を徴し来り候、渋沢子爵の略伝(千五言語乃至二千語)有之候はゞ誠に難有と存じ申候、已に印刷せるもの有之候や否や御一報被下候はゞ幸甚に存申候
小生の記憶する処によれば、子爵が青年時代にはハリス公使《*》の護衛と相成られ候事誠に興味有之事柄と存じ申候
已に印刷せるもの無之候はゞ、貴下に於て御執筆被下候か、クレメント教授其他の人々をして記述せしめられ度候、右は丁年未満の人々への話とすべきものなれば種々の事柄を含む伝記体とする必要有之候、子爵に於かれても御記憶より何か青年時代の事柄を御提供被成下候儀と存申候 敬具
*行間栄一鉛筆
 [事実ニ無之事

 - 第40巻 p.655 -ページ画像 

論文其他草稿類(一) (渋沢子爵家所蔵) 我が経歴を問はれて―米国人に答ふ― 青淵先生(DK400220k-0002)
第40巻 p.655-658 ページ画像

論文其他草稿類(一)           (渋沢子爵家所蔵)
    我が経歴を問はれて
      ――米国人に答ふ――
                      青淵先生
 私は東京を距る二十数里、埼玉県八基村と云ふ一村落に生れました。家は農業を主とし傍商業をも営んで居つたが、父が非常な働き手であつたから、貧困者の多い百姓の間では富有であるとは申されぬまでも相当の蓄財もあり豊かな方であり、漢籍を好んで読むと云ふ風で、一般の農民仲間では学問ずきであつたのでございます。従つて私も幼い頃から漢籍などを教へてもらひ、身体もいたつて丈夫な方であつたのに加へ、父母から愛育されましたので、何等のくつたくもなく頗る愉快に成長致しました。兄弟としては五歳上の姉と、十二下の妹とがあり、他の一・二の者は早死しましたので、男の子としては私一人でありました。左様な関係から、漸く長ずるに及んでは、家業を援けて勉強したものであります。
 子供の時分から記憶がよいと云はれ、感情の強い方ではあつたけれども、其の為事を破ると云ふ程激したことはなく、理智も備へて居たやうに自分ながら思つて居ます。七歳位までは親のいざないで漢籍の素読など学びましたが、其後は自分でも学問がしたいと云ふ考を持つに到り、私より十歳ばかり年長の尾高と云ふ隣村の親戚の者が、漢籍をよくしたから、此人を漢書の師とし、又友達として色々の教化を受けたのであります。
 私は理智も相当にあると同時に、感情に於ても人一つぱい強い方であつたから、父母から時に訓戒は受けたが、叱られることなど殆んどなく、家庭は円満で常に春のやうな気持であつた。がたゞ姉が病身であつたので皆々非常に心配した。私も少年ながらに、姉の看病には出来るだけ尽したので「活溌な性質の子であるのに感心である。実によくする」と云つて、人人から褒められたことを覚えて居ります。或る時父の留守に、母が人から勧められるまゝに、姉の病気平癒の為めに祈祷を依頼したことがありました。其時私は十四歳でありましたが、元来迷信を非常に嫌ひましたし、祈祷者が間違つたことを云ひましたので、事理明白に説いてやりました処、其巫女が恐縮して引下つたことがあります。
 家業である農業は早くから稽古して居ました。其他のことも大抵判るやうになり、十四歳の頃には父の名代として色々他人との交渉も致し、子供に似合はぬことをやつたなどゝ云はれました。例へば藍の売買などに就ても熟練した大人にも劣らぬ取引をし、農業ばかりやつてゐる人々を驚かせたこともありました。又趣味としては漢籍を読むと同時に、撃剣をやり、角力とか柔道もやりました。所謂文武両道をやつた訳であります。
 当時は国内次第に騒然として来た上、外国関係が段々面倒になつて来ましたから、私としては身は百姓でありますけれども私の気質としてヂツトして居ることが出来ない様になりました。私の十四歳の時に
 - 第40巻 p.656 -ページ画像 
コンモンドル・ペリーが来朝して、交易を勧め、幾分とも力を以て脅迫したのであります。然るに幕府が健全でなく、外交上の智識あり、才幹ある者も居なかつたので、確固たる所がなく、為めに幕臣及び三百諸侯の家臣の中で志ある者は、これを深く憂ひ、議論百出の有様であつた。而も漢学で固つた人々は、日本及支那の歴史から、天下の政事は天皇が行ふべきものである。このまゝ将軍に委ね置くべきでない従つて幕府は速かに倒さなければならぬ。斯様な声が高くなつて来たのであります。私は当時外交の詳細のことは少しも知らなかつたのでありますが、たゞ書物に依つて得た智識に依つて判断すると外国の無理を聞くことは甚だしく国威や国力を損ずる、抑日本は外国との交渉が少いけれども、ずつと昔神功皇后が三韓を征伐されたこと、其後の元冦の役のこと、更に四百年程前の豊太閤の朝鮮役などであつて、歴史上に於ては余り外国から辱めを受たことはなかつた。然るに今の有様は如何であるか。ペリーの来朝に次で英・仏・独・露等の国々の軍艦が頻りに渡来して、かなり無理な申出でをする。そして政権を握つて居る幕府は外国から馬鹿にせられ勝である。然も内に在つては当然主脳者であるべき朝廷に実権がなく、江戸と京都との間即ち公武の間には確執があり、内憂外患交も臻るの有様で、外交の軟弱を攻撃すると共に内政の改革を叫ぶ者が漸く多かつたのであります。
 其処で私は同志の人達と一の計画を立てました。其時は二十四歳でありました。私達の同志は段々議論を進めて行く内に、幕府を倒し、外国を排斥しやうとするに到つた結果、直接行動を採らうとしたのであります。然るに京都に滞在して居た同志中の一人が帰国して、事を挙ぐるの不可を力説し、種々議論をしたが、結局一同もそれに服し、中止することになりました。然し、此まゝ百姓で居ることは出来ないので、私は浪人となつて京都へ赴き、大体国家の成行を観察しやうとした。
 京都に居る間にも江戸の同志と文通して居りましたが、どうした間違か、暴動を起さうとした時、最も穏和説を主張し、遂に之を中止せしめた其者が、人を殺して、幕吏に捕縄せられ、其関係から私等も嫌疑の身となつた訳であります。此事は予て目をかけてくれた一ツ橋家の主脳者から始めて聞いたのであるが、其人の厚意で嫌疑も晴れたと同時に、一ツ橋家に仕へることゝなつた。
 然るに世の中のことは一つとて思ふにまかせぬもので、私達を推薦して呉れた人は暗殺せられ、翌々年には時の将軍が薧去した為め一ツ橋慶喜公が将軍職を襲はねばならぬやうなことになりました。慶喜公の将軍となられるに就ては、私は大いに反対説を唱へたのでありますが、微力な私の説は遂に容れられなかつたのであります。其後の実状から見て私は先見の明があつたと言へると思ふが、兎に角慶喜公は将軍職を継いだのであります。従つて私は最初倒幕を志して家を出たのであつたが、事こゝに至つて幕臣となるやうな破目になりました。処が慶喜公の弟君民部公子が仏国の博覧会へ大使として赴かれることになつた。そして少年の民部公子は博覧会終了後四・五年留学せられる其のお伴の内に私にお名指で命ぜられたのでありました。私も仏国に
 - 第40巻 p.657 -ページ画像 
於て幾分なりとも新らしい学問がしたいと考へ、喜んでお受けを致し公子に随従して西暦千八百六十七年、日本の慶応三年十一月十八日に日本を出発しました。私は勿論突然の命令でもあり、仏国のことは少しも知らぬ。此旅行は困難であると思つたけれど、さきに江戸や大阪や京都に居た時、色々の人々と意見の交換をした結果、どうしても外国の事情を知らねば駄目であると云ふことに気付き、外国のことを学びたいと思つて居た処でありましたから、喜んで御請した訳であります。
 然るに又更に世の中は予想通りに行かぬものであると云はねばならぬことが起つた、と云ふのは仏国の博覧会が終り、英・伊・墺・白・西等の諸国を訪問して、仏国へ再び帰つた翌年、留学の望みを絶つて帰国せねばならぬやうなことになりました。それは遂に幕府が倒れたからであります。かくして予期に裏切られて、民部公子に随つて帰国したのは、西暦千八百六十八年、即ち、明治元年の十二月でありました。
 最初百姓をよした時の私の考へは倒幕であつたのに、京都で事情止むを得ず一ツ橋の家来となつた。すると主人慶喜公が将軍となると云ふ風に、自然に私の身柄が変化したが、更に仏国で数年間学んで来やうと思つて居ると、幕府が倒れてしまつた。実に此間の有様を見ると私は数奇な運命を持つて居たものであるとつくづく思ひます。そして帰国して日本の状態を目のあたりに見ると、明治政府が成立したゞけならよいが、慶喜公は逆賊と云ふ汚名を着せられて駿府に小さくなつて居られる。私が仏国へ出発する時には将軍として、仮へ勢力は衰へかけて居たとは云へ、時めいて居たのでありますが、今は少さなお寺に籠居し罪人の如くであられるのですから、人生の無常を歎ぜずには居られませんでした。私は早く死んだ方がましだ、などゝ考へたのも其時分であるが、世の中に生れた以上自殺すべきでない、出来るだけ自己の能力を使つて国家社会に尽すべきであると覚悟しました。倒幕の志も、一ツ橋の家臣になつたのも、仏国へ行つたのも、皆それに依つて国家社会の為めに尽さうとしたのであつたが、何れも鶍《いすか》の嘴と喰ひ違つた。何分自分の大切な主人は将軍となり、次で駿府に籠居の結果になつて居る。慶喜公の反対派の人々で固めて居る政府へはいつては相すまぬ。故に政治は断念しやうと決心しました。然し政治界に立つことを断然思ひ切つたとて、今更国へ帰つて百姓となつても仕方がない。国に尽すと云ふ精神に変化のない以上、最も日本で後れて居る商工業に従事しやうと考へたのであります。勿論私も三十歳になつて居りましたから、海外を見て来て今日本で必要なのは微々として振はぬ商工業である。その上事業界には人物も居ないから、私自身大いに此方面に活動の余地があると云ふ発見をしたのであります。
 日本では由来、治者と被治者とでは、治者の方が偉い者として、被治者を圧へつけて居ました。従つて官尊民卑の風が旺んであつたから私は其の点にかねて疑ひを抱いて居たところ、海外の事情を見て其の間違ひであることを確めた。実際当時日本の有様と、海外の有様とを比較すると、殆んど相反して居るので、日本での財産家と云ふのは吝
 - 第40巻 p.658 -ページ画像 
嗇で貯め込んだものが多く、一つの事業にしても国家或は他との連絡が少しもなく、勢ひ地位も非常に低かつたのでありますが、外国での富者は生産事業に依つて富んだ上、国家や他事業と頗る連絡が深い。従て社会的の地位も高く、待遇も悪くないと云ふ訳でありますから、私はどうしても日本の商工業を発展せしめて外国の様にしなくてはならぬと思つたのであります。換言すれば私は今後政治界は断念して商工業の発達に寄与すべく、一般の人々が世に立つ事情に改良を加へたい。之を大目的として働いて見たいと決心し、直ちに株式会社やうのものを駿河藩で組立てかけました。然るに此時明治政府から是非大蔵省へ出仕するやうに、との勧説が急でありましたので、之を断りたいと思ひ、私は大隈さんに、私の経歴や決心を詳しく話して平に辞退したのであるけれども、大隈さんから懇切に説得せられ、では当分やつて見ようと云ふので、其説に服し、明治三年・四年・五年・六年まで大隈さんや井上さんなどを先輩として、大蔵省の事務に従ひ、後井上さん・伊藤さんなどと相談して国立銀行を起し、次で六年五月官を辞し、第一銀行の経営に従事し、四十余年を之に尽力したやうな次第であります。
 大正五年に実業界を退いて今日までは、一意社会事業に専念しまして、利害を離れ、国民の一人として、其の責務を果すと云ふ意味から斃れて後已むの覚悟で働いて居る次第であります。
  御希望によつて私の経歴を斯様に述べましたのも、日本は米国と懇親である、今後とも懇親を進めて行かねばならない、日本人全体が私の経歴とか覚悟とかと同様のものを持つのではありませんが、日本人としての気持には変りはありませぬ、私は学問はない者でありますけれども、人は真実でなくてはならぬ。偽りがあつてはならぬ、と云ふことを信条として居りまして、さうして勉強し、人には親切に、自己の責任を守ることを主義として居ります、これこそ単に渋沢個人の主義のみでなく、実に日本国民の主義であります、再び申しますれば、未だ日米関係は円満に解決して居るとは云へませぬ、大なる憂ひがあり、同時に希望もあるのでありますから、私の偽らぬ経歴を申述べたのでありまして、日本人の真の性格をこれによつて幾分なりとも知つて欲しいと思ふのでごいます。
                     (七月二十八日談話)
  ○ギューリック書翰ニハリスノ護衛云々トアルハ益田孝ノ誤リナリ。(「自叙益田孝翁伝」ニヨル)
  ○尚「竜門雑誌」第四五五号(大正一五年八月)ニ右一文転載セラレタリ。