デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
2款 孔子祭典会
■綱文

第41巻 p.8-13(DK410004k) ページ画像

大正5年4月23日(1916年)

是日、当会第十回祭典、湯島聖堂ニ開カレ、栄一参列ス。式後、東京帝国大学法科第三十二番教室ニ講演会催サレ、栄一演説ス。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK410004k-0001)
第41巻 p.8 ページ画像

集会日時通知表 大正五年        (渋沢子爵家所蔵)
四月廿三日 日 午前八時半 孔子祭典会(東京女子高等師範学校)
        午後一時  孔子祭典講演会(帝大法科三十二号教室)


竜門雑誌 第三三六号・第一二三頁 大正五年五月 ○第十回孔子祭(DK410004k-0002)
第41巻 p.8 ページ画像

竜門雑誌 第三三六号・第一二三頁 大正五年五月
○第十回孔子祭 は四月廿四日午前八時《(三)》より、お茶水女子高等師範学校の孔子廟に於て執行せられたり。祭典委員長嘉納治五郎氏以下各委員諸氏は、午前八時より大成殿に集りて開扉式を行ひ、委員長以下各委員諸氏の焼香礼拝あり。同九時祭主の祝詞に次いで委員長の挨拶ありて奏楽裡に迎神式を行ひ、祭主小牧貴族院議員の祭文朗読ありて式を終り、尚ほ午後一時より帝国大学第三十二号教室に於て青淵先生・遠藤・林両文学博士の孔子に関する講演あり。更に午後五時より、女子高等師範学校に朝香宮殿下を始めとして青淵先生、市村・林・三宅各文学博士を招待して晩餐会を開きたる由。


孔子祭典会会報 第一〇号・第四五―五三頁 大正六年四月刊 孔子祭典会講演筆記(第十回) 実業家の孔子観 男爵渋沢栄一(DK410004k-0003)
第41巻 p.8-13 ページ画像

孔子祭典会会報 第一〇号・第四五―五三頁 大正六年四月刊
 ○孔子祭典会講演筆記(第十回)
    実業家の孔子観
                   男爵渋沢栄一
 学者先生方のお仲間となつて、孔子祭典会の講演に出席いたしましたのは、甚だ光栄に存じます、私が玆に申上げたいと申すのは、寧ろ孔子の教を研究するといふよりは孔子の教が、今の遠藤君の言はれた娑婆に於て我々実業家と、どういふ関係であつたかといふことを始終考へて居りますのであります、それ故に寧ろ研究よりは自身が斯う思ふといふことを諸君に御質問申して見て、若し是であると思はれたらどうぞ御賛同を請ひたい、といふことに過ぎないのであります。
 「実業家の孔子観」と書いてありますが、私は寧ろ極手短く申したら、道徳と経済の関係がどうであるかといふことを申上げて見たいのであります、モウ一つ極適切に申すと、孔子の最も主眼として教へたのは論語と思ひます、私は学者でないから易がどうであるとか、詩・
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書がどうであるとかいふ細かな穿鑿は為し得られませぬが、論語だけは聊か好んで読んで居ります、悉く読んだとは申しませぬが、併し聊か記憶もございます、此の論語と算盤がどうであるかといふことを、極手短に申すと、道徳と経済といふ六ケしい言葉よりも、論語と算盤といふことを申したら一番能く分ると思ふ、之を変つた方面から言へば、実業家の孔子観ともなります、演題は何れにも為し得るとして、極近道に申すと、論語と算盤といふことに御覧置きを願つて置きます孔子といふ人は実に偉い人で、殆ど三千年に近い歳月を経ても、国の違う日本でも斯の如く尊重して、今日も祭典を致すといふのは、蓋し其徳の高いことは申す迄もない、其徳の高いといふのは頭から後光が発したとか、或は磔にした者が三日の間に復活したといふ様な偉蹟は一つもない、誠に平凡な人である、然らば何が尊いかと言へは其人の言ふた事、其志が尊いのであると私は思ひます、嘗てズツと以前の祭典会の後の講演会に、井上博士が孔子観をお述べになつたのを記憶して居ります、孔子は至つて平凡の人である、凡人の人の大変大きいのである、多く偉人といふものは変つた有様を持つて居る、故に逸話とか奇蹟とかいふものが甚だ多いのである、或点には大いに長じて或点には拙ない、或点は人の企て及ぶことが出来ない所があるといふが、孔子は申して見れば総てが平均して居る、凡庸の人の大変偉いのであると例を引ひてお述べになつたことがあります、甚だ孔子を評し得て宜いと思ひます、只今遠藤博士は、孔子の性慾の事に付てお説がありましたが、私はさういふことは研究して居りませぬが、私は或は思ふ孔子は凡庸の人であるから、耶蘇・ソクラテスの様な風でなかつたと思ふ、矢張り一通りの人並の情慾を持て居つたと思ふ、又持て居ても宜いと思ふ、三年喪の如きも咎むれば、今日の世の中には多少傷つく所があるか知らぬが、それは丁度父は子の為に隠し、子は父の為に隠す、直きこと其中にありといふ説明を孔子は既にしてあります、丁度其意味を以て春秋を書いたと思ふので、誠に人情の極適切なる所を申した様に思はれます、元来孔子は周の時代にあの通り諸侯を遊説しましたけれども、孔子は学者として世の道を布かうといふよりは、寧ろ自身が周末の天下をして極太平に至らしめたい、道理正しい政を以て政治をして見たいといふのが本願であつたと思ふ、敢て国君にならうとは思はぬが、自身の智識、自身の才能が用ひられるならはそれを以て支那の天下を治めて見たいといふ理想が抑々本願であつたらうと思ひます、四方を周遊して段々説いて見たが、中々真に用ひ呉れる者がなかつた、遂に再びであるか三度であるか諸方を流寓して帰つて来たのが六十八であつて、其六十八からはもう仕途を絶て学問専一になつたといふ様に私は見受けられます、故に孔子の一代は教育家として、宗教家として用ひ立たうといふのではなく政治家として周の天下を太平ならしめたい、即ち先王の政を自身の力に依て為す、君子の道を行ひとい《(マヽ)》としか思はれませぬ、通常人の行ふ可きことを論じて居つたと私は論語を解釈します、論語斗りでない、孔子の説いて居る所がさういふものであらう、孔子の心がさういふものであらうと思ふ、学者のお説に依て多少の相違がございませうが、井上博士がさういふ様にお
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説きになつた、私はさう思ふて居る、孔子は平凡の人で、其志も教育専門でなく一通りの政治を為さうと考へて居られたが、志が世に合ぬので遂に書物を書いて後世に教を残したのであるとお説きになつたが自分もさう考へる、孔子の書いて居るものは、私共の見る所では論語に於て一番能く分り易く感じて居ります、これが誠に所謂道徳の根本とも言ふべきもので、其後に追々と後の学者が出て身を修め家を斉へ国を治め天下を平にする、王公貴人より匹夫匹婦に至る迄之に依て己の身を修め、人に接し、社会に立つことが出来るといふから、追々に之を尊重して遂に年を経るに従て其言ふことの人情に協ひ、道理にも協ひ、所謂倫理道徳を完備して居つた為に、年を経る程尚ほ尊くなつた様に思ひますが、併し孔子自身はそれを実行する考であつたと思ふ所が漢唐以下の学問はどうであつたか、私は学者でないから、いつの時代の学者は孔子の学問を斯う解釈した、其後はどうかといふことを詳かにしませぬが、自分等の覚へて居るのでは、例へば韓退之が原道といふものを書いて孔子の教を説いて居りますが、すこし後に宋朝に至つて程子・朱子が出た、大抵四書の書物は朱子の注が日本に専ら行はれて居るのみならず朱子の学派は徳川家に於て家康公以来行はれた家康公が藤原惺窩を聘したが、惺窩は朱子学であつた、其門人の林道春が徳川家に仕へたので朱子学はお家の学問になつた、支那に於ても朱子学は最も道徳学の一の原因淵源とも言ふ可き有様に評判された様に見へますが、日本に来て殊に徳川家の尊重する所となつて、大層朱子学は日本に行はれました、此朱子学が孔子の趣旨を一般に伝へたものである、併し孔子自身は自分が其事を行ふのであるが、宋朝の学者から以来は、只此文字を解釈してそれを人に教へるといふ方の側であつた、韓退之の原道には、揚子墨翟と孔子孟子の総と始終比較して論じて居る、而して周公迄は其事を行ふ人と教へる人と同じである様に其事が行はれたが、孔子以後になつては行ふ人と教へる人と別になつて仕舞つた、故に其文字が長いと言ふて居る、文字はハツキリ覚へませぬが既に韓退之の原道といふ書物にさういふことが書いてあります丁度取も置さず自身やうと《(マヽ)》いふ方と教の方とが別になつた形がある、朱子学をやつて朱子の説を主張した者は、皆自身の経営ではなくて、只道徳といふものは斯様なものである、国家の務は斯うするものである、人といふものは斯くするものであると教へるか、自身のすることは別だといふ様に言と行を別にした、これはどうも孔子の趣旨を大に変化せしめたことゝ思ふ、而て此多くは教へるといふ方が日常人の経営に属する所の修身斉家といふよりは、治国平天下といふものが教の極度になるから、其極度が教の趣意であるといふことにしてあつた為に、今の道徳学問といふものは殆ど今日の実業界抔に用ゆべき日用に必要のないものゝ如くに、日本では相成つて仕舞つた、これは孔子の教が子子自身《(夫)》の考と、後の教育をする学者先生の悪く申せば心得違ひから丸で方角違ひの大層高尚なものにして、日常普通の生活上には左様な面倒な事は用ひられぬものだといふ様に誤解されて居ると思ひます、況や生産殖利等に従事する者に於ては、仁義道徳といふものとは殆ど全く一致せぬものゝ如く遂に誤解さるゝのである、今も遠藤博士
 - 第41巻 p.11 -ページ画像 
からお話があつたが、仁斎抔は、道徳といふものは士大夫以上に必要なもので、農工商抔には道は入らぬものだといふ様なことが何かの書物に書いてあります、左様に迄教へる学理と事実とが違つて居る、徳川三百年の末路迄、道徳といふものと経済といふものは殆ど一致を失つたと私は思ふて宜からうと思ふ、然るに果して経済といふものが道徳を離れて行けるものか、又道徳といふものが只道徳ばかりで働き得るものか、経済を抜いて道徳が立つものか、斯う講究して見ますとこれはどちらも決してさうはならぬので、経済を以て道徳が十分に活動されて行くものである、又道徳に依て必ず経済が安固に存続して行くものである、然るにも拘らず前に申上げる通り、道徳学といふものが生産殖利と全く別になつたといふものは、本を正しますと、教へると行ふと差別して、行ふ方の側が教へる者とは全く違うものになつた所からして、先づ第一に区別され、それから其次には、多く治国平天下といふ方に道徳学問といふものは用ゆべきものだ、普通の一身一家の事業経営等の教になるものでないといふ様に誤つたのが、道徳・経済の別を為す原因と思ひます、不肖乍ら私は殆ど四十年生産殖利に衣食する者であります、左様な論理から考へると、モウ殆ど六ケしい道義とか所謂倫理道徳といふものは全く無意味な人間にならねばならぬかと、初め銀行事業を経営する時に深く考へたのであります、併し自ら思ふに、どうもさういふ理屈はなからう、仮令ひ利子の勘定をするからと言つて、人と貸借をするからと言て、物の売買をするからと言て倫理道徳と相違するものでない、物の売買をし人と貸借をして利足を取るといふのが不道徳であるといふことはどうしてもない筈である、孔子の教は決して左様なことはない、苟も正しい道理に依て得る利益は、即ちこれは私利であるけれども尚ほ之を公益と言て宜い、正しい方法に依て殖産することは、或る一身若くは一家の富を増す訳であるけれども、これは即ち国の富と為し得るものである、私利は公益なり公益は又私利なり、斯う考へて見ますと、どうしても道義といふものに依つて生産殖利は必ずなつて行くものである、即ち倫理道徳と経済は同一なものであると考へましたからして銀行業を始めました、昔から伝はつて居る仁義道徳と生産殖利と一致す可らざるものゝ如き教はどうも安心が出来ませぬ、自分はこれが一致し得るものと考へて、遂に今の種々なる方面に付てさういふ説を試みましてございます、丁度今日此処に持参しましたが、三島先生が幸に私の説を深く解釈して下さいまして、経済道徳合一論といふものを丁度十年斗り以前にお書きになりまして、且つこれは二松学舎で丁寧に論じ講義をされた様であります、此説に依りますと、独り論語に依た計りでございませぬ、モツと古い書物に依て、例へば尭典とか或は大禹謨とか易とか総ての書物に依て、此経済と道徳が全く一致するものだといふことが論究されたのでございます、これは其頃に拝見して、成程これは学者先生も斯う言ふて下されば、自分の深く信じて為したことが間違はなかつたといふことを大に安心したのでございます、それから其後に私が始終さういふことを申して居る為に、丁度七年以前私の七十になつたを祝ふ為に、或友人が私に一つの画帳を拵へて呉れました、其画帳の中に、
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論語の書物と算盤と、それからシルクハツトに朱鞘の刀と取交ぜたる画が一枚這入て居つた、随分取合せの悪いものであつて、人が見たら何の判じ物か知らぬと思ふ様なものである、丁度三島先生に其画帳をお目に掛けると、「これは何か」、「これは論語と算盤であります」、「成程、論語と算盤少し釣合が悪いがどういふ理由で斯ういふものを書いたか」といふことから、「それは丁度あなたの御説と似た様な訳で、私は商売が全く論語で出来ると思ふ、算盤は論語である、論語は算盤である、あなたのお説は道徳と経済は一致するといふことでありますから、矢張り論語と算盤は一致する、其事を始終私が申して居るので友人が斯ういふ画を書いて私の七十を祝して呉れたのである」と申した、三島先生はそれを見て帰られて私の七十を祝する為に、論語算盤説といふものを書いて下さいました、これは短いものでありますから一寸読んでお聞に入れることに致しませう、即ち道徳と経済が一致だといふことを、極手短かに先生が私を祝する為に賞めて書いてありますから、一寸此処で読むと、自分の事を自分で賞める様に見へますがこれは三島先生が書いたのでありますから、私自身がさう思ふかどうかは分りませぬ。(笑)
    論語算盤説
                      三島中洲
 (本文は略す)
 これが中洲先生の論語算盤説で、私の七十の時に画工の書いた画帳から見て書かれたので、諧謔の文章の様でございますけれども、更に一歩進んで前に書かれた道徳経済合一説といふものは、これは真面目なものでありまして、中々長うございますから朗読は止めましたが、実は此の長いものが縮めて申すと、論語算盤説の一種の諧譃文で殆ど尽し得られるかと思ふのであります、而てモウ一つそれを繰返して申上げれば、憚り乍ら私は明治六年から銀行業者になりまして、丁度今年で四十余年務めて居ります、先づ其間に論語を践み違へたとは自身は思ひませぬ、併し算盤もさう桁違ひもせぬでどうやら此銀行も相当の成績を挙げて東京市内の一銀行たることを失はぬで居りますと、論語と算盤とは全く一致するものと申上げて宜い様に考へます、(拍手)さうするとモウ一歩進んで、道徳と経済といふものは必ず合一なものであるといふことを、三島先生は学者の方から仰しやつたが、私は実業家の方から、私は三島先生の各種の経書に依て証拠立られたことを私は反対に各種の算盤から、斯くすれば道徳を失はぬものである、斯くすれば道徳に合するものである、算盤の中に必ず道徳はございます経済の中に道徳が屹度保ち得られといふことを証拠立ることが出来ると思ひます、孔子は全く自分が事を執らずに道徳を説いた人であつたけれども、併し事を執る意味を以て道徳を論じたのである、後の学者は全く道徳と経済とを引離して論じましたが、今日三島先生は兎に角漢学者で在つしやる、経済上の事に左迄お力をお入れにならんあもう《(マヽ)》私は固より学問の方は浅学で、只論語を好んで読むに止まりますが、どうか三島先生の学問と私の算盤と合せて、今の宋朝以来の間違ひを幾らか正したならば、後世をして学者が誤つて居た様であつたと、幾
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らか喜びの顔が見へるであらうかと思ふのであります、更にモウ一言申添へて置きたいのは、昨年私は亜米利加に参りまして、丁度今の耶蘇の事柄に付て、耶蘇宗教者の老人と二・三遇ひまして、頻に精神上の話を致しました、彼等は宗教から頻に哲理を論じて居りました、私は孔子の教から人の覚悟といふものは斯くなければならぬといふことを論じまして、日曜学校の大会を来年戦争が止んだら日本に開くといふことに付て、ピツツバーグのハインツといふ人とワナメーカといふ人、此両人と遇ひまして、彼れは宗教家、私は東洋哲学者の位地で頻に話を致しました、ワナメーカと段々論じ合て見ますと、宗教の主義と孔子の道徳説は帰する所はどうも一致する様であるが、果して一致するならば何ぜ君は宗教になつて呉れぬか、耶蘇教を奉じて呉れぬかと言て私に入会を勧められたことがあります、其時の言葉に、孔子の学説は宜いか知らぬが、不幸にして孔子の故国は其学説を健全に現はす国柄であるとは言へぬではないか、して見れば孔子の学説は殆ど死んだも同様である、之に反して耶蘇の教はまだ運命をもつて居る、即ち立派に生存して活動して居る、教旨として宜いではないか、故に死に掛つて居る孔子の教が宜いとした所が、耶蘇の方が尚ほ宜いから宗教を変へるが宜いだらうと忠告されました、若し孔子が日本に生れた人ならば私は弁解するのであるが、孔子は支那の人に違ひない、支那の現在は論語と同じに見ることが出来能はざるのでありますから、此弁解に実は窮して、ワナメーカに黙して答へずで別れて帰つて来ましたが、私は孔子の教はまだ死んだと思はれぬ、縦し死んだか知らぬが支那では死んでも、日本では之を蘇がへらせなければならぬ(喝采)どうかお力を添へて貰ひたいと思ふのであります。(拍手喝采)



〔参考〕集会日時通知表 大正六年(DK410004k-0004)
第41巻 p.13 ページ画像

集会日時通知表 大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
四月廿二日 日 午前九時 孔子祭典会(湯島聖堂)