デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
3款 財団法人斯文会
■綱文

第41巻 p.39-53(DK410014k) ページ画像

大正11年10月29日(1922年)

是日、当会主催孔子二千四百年追遠記念祭、湯島聖堂ニ行ハル。栄一参列ス。同日午後東京帝国大学法科大学第三十二番教室ニ於ケル当会主催記念講演会ニ出席シテ演説ス。更ニ帝国ホテルニ於ケル当会主催晩餐会ニ出席シテ演説ス。此祭典ニ当リ、栄一、金一千円ヲ寄付ス。


■資料

各個別青淵先生関係事業年表(DK410014k-0001)
第41巻 p.39 ページ画像

各個別青淵先生関係事業年表        (渋沢子爵家所蔵)
    斯文会
  大正十一年十月二十九日
東京帝国大学ニ於テ孔子二千四百年追遠記念祭ヲ行フ
 - 第41巻 p.40 -ページ画像 

竜門雑誌 第四一四号・第六二頁 大正一一年一一月 ○孔子二千四百年追遠記念祭(DK410014k-0002)
第41巻 p.40 ページ画像

竜門雑誌 第四一四号・第六二頁 大正一一年一一月
 ○孔子二千四百年追遠記念祭 青淵先生の副会長たる斯文会にては十月二十九日午前九時より湯島聖堂に於て孔子二千四百年追遠記念祭を執行したるが、当日は閑院・賀陽・山階の各宮殿下台臨あり、会長徳川公爵・副会長青淵先生・総務服部博士其他会員五百余名、来賓水野内相・鎌田文相・牧野宮相・清浦枢府議長・浜尾同副議長・江支那代理公使等五十余名、並に朝鮮総督府派遣の経学院副提学朴箕陽男爵中枢院参議官魚允迪氏等五十一名、台湾総督府派遣の許廷光・謝汝詮氏等四名の儒者参列し、極めて厳粛なる祭典を挙行し、午前十一時終了し、尚ほ午後一時より東京帝国大学法学部三十二番教室に於て追遠記念講演会を催し、青淵先生及び服部・高楠・井上諸博士の講演あり尚会員は上野公園日本美術協会に開催の追遠記念先儒遺墨展覧会を観覧し、更に午後五時より記念祝宴を帝国ホテルに開催したるに、来会者三百余名極めて盛会なりし由なるが、席上青淵先生には更に一場の演説を試みられたりといふ。


斯文 第四編第二号・折込 大正一一年四月 孔子二千四百年追遠記念祭規約(DK410014k-0003)
第41巻 p.40-41 ページ画像

斯文 第四編第二号・折込 大正一一年四月
    孔子二千四百年追遠記念祭規約
第一条 財団法人斯文会ハ孔子卒後満二千四百年ノ大正十一年ニ於テ特ニ孔子ノ盛徳ヲ記念シ其ノ我ガ国ニ及ボセル教化ヲ感謝センガ為ニ、祭典及ビ記念事業ヲ行フ
  一、祭典 大正十一年十月二十九日(日曜)東京湯島聖堂ニ於テ挙行ス
  二、記念展覧会
  三、講演会 祭典当日及ビ其ノ前後東京市内及ビ各地方ニ於テ開ク
  四、記念出版
  五、祭典ノ前後、東京市内ニ於ケル美術館図書館等参観ノ便ヲ計ル事
第二条 祭典及ビ記念事業ノ費用ハ寄附金ヲ以テ之ヲ支弁ス
第三条 前条ノ費用ヲ寄附シタル者ハ賛助員トス
  一、通常賛助員 金参円以上 一、特別賛助員 金拾円以上 一有功賛助員 金五拾円以上 一、特別有功賛助員 金百円以上
  一、名誉賛助員 金五百円以上
第四条 賛助員ハ祭典ニ列シ、記念展覧会及ビ講演会ニ臨ミ、且ツ諸種参観ノ便ニ与ルコトヲ得
  賛助員ニハ相当ノ記念品ヲ頒ツ
第五条 祭典及ビ記念事業完了ノ後ハ賛助員ニ対シテ収支決算ノ報告ヲ為ス
            東京市神田区錦町一丁目十八番地
  大正十一年三月      発起人 財団法人斯文会
      会長           公爵 徳川家達
      副会長          子爵 渋沢栄一
      同       法学博士 男爵 阪谷芳郎
 - 第41巻 p.41 -ページ画像 
      同          文学博士 井上哲次郎
      顧問           侯爵 徳川頼倫
      同            伯爵 徳川達孝
      同            同  松平直亮
      同            子爵 石黒忠悳
      同            同  金子堅太郎
      同            同  清浦奎吾
      同            同  牧野伸顕
      同       文学博士 男爵 細川潤次郎
      同          文学博士 小牧昌業
      同               土屋弘
   ○総務以下略ス。


斯文 第四編第四号 大正一一年八月 孔子二千四百年追遠記念祭賛助寄附金第二回報告(DK410014k-0004)
第41巻 p.41 ページ画像

斯文 第四編第四号 大正一一年八月
    ○孔子二千四百年追遠記念祭賛助寄附金第二回報告
○上略
金壱千円    子爵 渋沢栄一君
○下略


斯文 孔夫子祭典号・第四編第六号・第二八―四〇頁 大正一一年一二月 本会祭典記事(DK410014k-0005)
第41巻 p.41-48 ページ画像

斯文 孔夫子祭典号・第四編第六号・第二八―四〇頁 大正一一年一二月
    本会祭典記事
      一、準備
 孔子二千四百年追遠記念祭を開催し、以て孔子の盛徳を記念し其の我が国に及ばせる教化を感謝するの誠意を表さんといふ議の起りたるは、大正九年の末にあり。翌十年に至り其議漸く本会幹部及び有志者の間に熟し、四月十日本会事務所に於て孔子二千四百年追遠記念祭委員会を開き、仮規約を議定し、之を四月二十四日挙行の本会第二回孔子祭当日参列者に披露発表せり。
是より会の役員は時々会合して実行案につき協議したるが、祭典儀式の例年より荘厳鄭重なるべきは勿論、諸般の記念事業多く到底短日月の間に遂行し難きを以て、九月五日の理事会は、十一年四月挙行の予定なりし記念祭を延期して、同年十月に挙行すべき事を議決せり。而して十年十二月十五日及び二十四日には、本会幹部等本会事務所に参集し記念祭の件に関して協議を重ね、十一年二月一日発行の「斯文」第四編第一号には
 本年ハ孔子卒後満二千四百年ニ当リ、特別ノ祭典及ビ記念事業挙行ノ計画有之候ニ付、本年四月ノ例祭ハ延期致候
  大正十一年一月               祭典部
の会告を発表し、同年三月に至りいよいよ孔子二千四百年追遠記念祭規約を公表せり。而して其間同年二月二十七日附を以て準備委員を左の五氏に嘱託せり。
 中村久四郎  山口察常   松本洪
 高成田忠風  加藤虎之亮
 是より後会の幹部及び準備委員は屡々集会協議し、六月十三日には
 - 第41巻 p.42 -ページ画像 
理事協議の上常議員及び各部委員は総て準備委員たるべきことゝ定め且つ萩野由之・平田盛胤・棚橋源太郎の三君に特に委員を嘱託することゝなり、其前後寄附金の募集、諸記念出版、講演会の開催及び参観見学の方法等につきては諸役員共に奔走尽力して、常に緊張の態度を以て事に当れり。
 九月に入りては諸役員の集会奔走益々頻繁を加へ、事務は益々具体的実行的となりつひに事務分担を協議して
 一、本部 二、祭典総務係 三、式場及諸室係 四、貴賓係 五、分胙係 六、記念品係 七、受附係 八、接待係 九、新聞記者係 十、印刷係 十一、祭官伶人係 十二、祭器係 十三、展覧会係 十四、講演係 十五、見学参観係 十六、宴会係 十七、会計係 十八、弁当係 十九、諸学校生徒参拝係 二十、朝鮮台湾参列団交渉係 二十一、朝鮮台湾参列団接待係 二十二、高等学校協議会係
の二十二部に分ち、各部の委員を定めたり。
 十月二十七日・二十八日には一切の準備全く成りて、静に当日を待ち只管天気快晴を祈りたり。
      二、祭典当日
 大正十一年十月二十九日、夜来の黒雲飛揚して天気清朗秋祭の好日和となり、会員は皆天祐の好天気を祝福してやまず、午前七時諸役員は陸続祭典当日の役員室に充てたる東京女子高等師範学校の一室に参集し、設備等につき遺漏なきこと努めたり。
 さて祭典の次第は左記の順序を以て挙行せられたり。
一、諸員入場 十月二十九日午前七時三十分湯島聖堂(御茶ノ水東京博物館構内松住町電車停留場附近)仰高門入口ヲ開ク。賛助員及ビ会員諸氏ハ同時刻ヨリ参集、同八時三十分マデニ聖堂内式場ニ御着席ノ事。
一、祭主祭官伶人就座 同午前九時、祭主会長公爵徳川家達及ビ祭官伶人等定メノ座位ニ就ク。
一、祭典開始 本会総務挨拶
一、祭典次第
  一、奏楽    五常楽
  二、迎神式   (一同起立)
    奏楽    三台塩
  三、奠幣
  四、奠饌
    奏楽    皇麞
  五、祭主祝文捧読(一同起立)
  六、閑院宮・山階宮・賀陽宮殿下御拝
  七、朝鮮人奉告文
  八、台湾人奉告文
  九、舞楽 二曲
  十、幣饌ヲ徹ス
  十一、送神式(一同起立)
      奏楽 越天楽
  十二、秦楽 長慶子
 - 第41巻 p.43 -ページ画像 
    以上
一、祭典終了 式後本会祭典部長挨拶。
 右の祭典次第中祭主徳川会長捧読の祝文は巻頭に掲ぐる所の如し。
 祭主の祝文捧読についで捧読したる朝鮮儒林団及び台湾儒者の奉告文は祭典詞章欄内にあり、本会総務挨拶は左の如し。
 今ヨリ孔子卒後二千四百年追遠記念祭ヲ開始スベキニ付一言ヲ陳ベン、我ガ斯文会ハ明治初年故有栖川熾仁親王ヲ総裁ニ戴キ、朝野ノ碩学名士ヲ以テ組織シ、我ガ国徳教ノ振作ヲ目的ト為セル斯文学会ノ事業ヲ継承シ、而シテ更ニ之ヲ拡張セルモノナリ、斯文会ノ目的ハ儒道ヲ主トシテ広ク東亜ノ学術ヲ闡明シ、以テ明治天皇ガ教育ニ関シテ下シ賜ヘル勅語ノ趣旨ヲ翼賛シ我ガ国体ノ精華ヲ発揮スルニアリ、事業トシテハ教化・研究・祭典・編輯四部ヲ設ケ、ソレゾレ本会目的ノ達成ニ向ツテ努力シツヽアリ、祭典ハ元斯文学会ニテハ未ダ嘗テ行ハザリシトコロノモノナリ、往年有志者胥謀リテ孔子祭典会ヲ興シ、十数年継続シテ毎年四月本聖廟ニ於テ祭典ヲ行ヒ来リシガ、本会ノ設立ト共ニ祭典会ハ自ラ解散シテ本会ニ併合シ、爾来数年毎年四月本会ニテ祭典ヲ行ヒ来レリ、本年ハ孔夫子卒後満二千四百年ニ相当スルヲ以テ本会発起シテ特ニ追遠記念祭ヲ挙グルコトト為セリ、但準備ノ関係上本年ニ限リ十月ニ於テ祭典ヲ行フコトニ定メテ汎ク大方ノ賛助ヲ求メタルニ、諸方面ニ渉リ多数ノ賛襄ヲ得テ本会予定ノ記念事業ヲソレゾレ遂行シ、本日多数ノ朝野貴賓賛助会員等列席ノ上、此ニ祭典ヲ挙行スルヲ得ルニ至リタルハ本会ガ大方ニ対シテ深ク感謝スルトコロナリ、殊ニ朝廷ガ斯文学会以来今日ニ至ルマデ屡特別ノ恩眷ヲ垂レサセタマヒ、本日又閑院宮殿下・山階宮殿下・賀陽宮殿下ノ台臨ヲ辱クシタルハ会員一同ノ感激措ク能ハザルトコロナリ、朝鮮及ビ台湾ヨリ遠ク来リテ此式ニ参列セラレタルニ対シテ亦深厚ノ謝意ヲ表ス、抑々本会ガ孔子ヲ祭ル所以ハ、過去ニ於テ孔子ノ教学ガ我ガ国ノ文化徳教ニ与ヘタル徳沢ヲ感謝スルニアルコト勿論ナリト雖モ、啻ニ此ノミナラズ、亦現在及ビ将来ニ於テ徳教ノ振作ヲ図ラントスルニハ、孔子ノ教学ヲ離レテ其事行ハルベカラザルヲ信ズルニ因ルモノナリ、世人或ハ現時支那ニ於テ孔子反対ノ風潮有ルニヨリ、疑惑スル者有ルベシト雖モ、此クノ如キ事ハ政治上又思想上急激ノ変動有リシ場合ニ生ズルトコロノ現象ニシテ、且事ハ少数好奇者ノ間ニ限ラレ一般有識者ニ及バザレバ、蓋シ遠カラズシテ反動起リテ中正ニ帰スベキヲ疑ハズ、列席ノ諸君子ハ皆孔子教学ノ闡明ガ今日及ビ将来ニ必要ナル所以ニ就イテ吾人ト感ヲ同ジグセラルルコトト信ジ、其賛助ヲ感謝スト云爾
  大正十一年十月二十九日
又舞楽二曲の曲目楽師の姓名並に其解説は左の如し。
 五常楽
 仁和楽
   長慶子
 五常楽
      舞人       楽師  多久毎
 - 第41巻 p.44 -ページ画像 
      舞人       楽師  薗広茂
      同        同   奥好察
      同        同   多忠紀
 仁和楽
      舞人       楽師  多忠行
      同        同   豊昇三
      同        同   山井景昭
      同        同   東儀文盛
 長慶子
   管方
      笙        楽師  薗十一郎
      同     音頭 同   多忠保
      同        同   薗兼明
      篳篥   左音頭 同   東儀俊竜
      同    右音頭 同   東儀民四郎
      同        同   東儀俊輔
      笛    左音頭 同   豊時義
      同    右音頭 同   多忠告
      同        同   多重雄
      羯鼓       同   安倍季功
      太鼓       同   薗広虎
      鉦鼓       同   多馨
○中略
      三、饗宴
 祭典当日午後五時より朝野の貴顕有力者並に祭典名誉賛助員・特別有功賛助員等を帝国ホテルに招請し、盛徳奉頌の宴を開けり。水野内相を始め在朝の大官屈指の実業家等多数来会せられ、又朝鮮・台湾各地の儒林、祭典賛助員等亦之に列し、会長徳川公を始め本会役員殆んど全部出席して非常なる盛況を呈したり。又加藤内閣総理大臣は特に祝辞を寄せられ、水野内相は本会の趣旨に賛同し大に激励の祝詞を述べられ、会員一同感銘に堪へざるものありき。今列席者の芳名並に挨拶祝詞等を左に掲ぐ。
      列席者氏名
 子爵渋沢栄一○外二六八名氏名略
徳川会長の挨拶
 閣下並に諸君
 本年は孔夫子卒後二千四百年に相当致しまするに付、其盛徳を宣揚し遺風を瞻仰致しまする事は、大正聖代の治化を裨補する所以の一端ともなるべき事と信じまして、我斯文会に於て追遠記念祭を企て曩に案を具して大方の賛襄を請ひましたるところ、爾来諸方面の方方より我々の計画を賛成せられ、深厚なる御同情を寄せられました依りて本会予定の計画は夫々之を遂行する事を得まして、今日午前は湯島聖堂に於て祭典を挙行致しましたところ 載仁親王殿下 武彦王殿下 恒憲王殿下の台臨を辱くし、朝野の貴賓、多数の賛助員
 - 第41巻 p.45 -ページ画像 
朝鮮台湾各地儒林等の参列を得まして祭典を滞りなく終了しましたるは、本会の洵に欣幸とするところでございます、此に依りまして今回の祭典に就き御援助御同情を賜はり、又従来本会の事業に関し御助力を賜はりし諸君の御光来を相願ひ、一には感謝の微意を表し一には将来に於ける本会目的の達成に関しまして援助を賜はり、以て我々をして志を遂ぐるを得せしめられんことを請はんが為に今夕の会を催しましたるところ、御多用中御繰合せ多数賁臨せられたるは本会の最も栄誉とするところで御座います、此に満堂の閣下諸君に対し深厚なる謝意を表します、若し貴重なる時間を割愛され、将来に於ける我が国徳教の振作と此に関して本会の当に為すべき事業等とに就きまして高教を垂れらるるあらば、今夕の会合をして大なる意味有らしめ、孔夫子の盛徳景仰の義更に一層の深きを加ふる所で御座いませう、猶ほ此機会に於て一言清聴に入れ度き事が御座います、即ち朝廷は斯文学会以来屡々恩眷を垂れたまひ、曩には本会拡張基本金募集の事 上聞に達し特に賜金の恩命を拝し、最近に於て各宮殿下及李王世子殿下より亦賜金の命を拝したる事で御座いまして、殊恩を蒙り会員一同感激措くところを知らさる次第で御座います、就ては益々奮つて本会目的の達成に努め以て報答の実を挙げやうと存じます、玆に杯を挙げ、満堂閣下並に諸君の御健康を祈ります
加藤首相祝辞
 斯文会は広く有識の士と謀り、本日を以て孔子二千四百年祭を行ひ更に朝野の名流を会して盛宴を張り以て聖徳を奉頌す、予も亦徳川会長より案内を受けたれとも生憎出席することを得さるに依り、聊か一言を寄せて以て所思を陳ふ、惟ふに夫子の教本邦に伝はりしより、我か固有の道と融合して国民精神と為り、永く徳教の標準たることは改めて言ふを須たす。
 今や世界大戦の後に接して各方面に変動を来たし、殊に国民思想の上に影響する所少からす、此の時に当り益々斯道を宣揚し以て質実剛健なる美風良俗を振興保持するは、実に刻下の急務にして斯文会諸氏の努力に俟つもの多し。
 苟も世道人心を憂ふるの士は、精神的に各其の長する所を以て相共に之を扶助し其事業を大成せしめんことを望む、予は此の盛事を祝すると共に斯文会の益々隆昌ならんことを祷るものなり。
  大正十一年十月二十九日
                    男爵加藤友三郎
水野内相祝辞
  私は僭越ながら玆に立つて斯文会に対し御礼の御挨拶を申上げ、且つ聊か愚見を申述べて見たいと存じます。
 今日の午前の御祭か荘厳静粛に且つ盛大に行はれたことは、先づ第一に慶賀申上ぐべきことであります。而して今晩又此盛なる祝宴を開かれ鄭重なる御辞を受けましたることは、我々一同の大に感謝する所で謹しみて御礼を申します。
 扨て儒教の趣意は正心誠意より初まり修身斉家によりて治国平天下
 - 第41巻 p.46 -ページ画像 
に至るものであります。即ち一身一家の教訓であるとともに一国天下の大道であります。言ひ換ふれは一個人の教訓たると同時に国際的世界的にも活きたる教訓を与ふるものだと思ひます。
 又我々政治の局に当るものは只今隣席の渋沢子爵も申されましたが博く民に施し而して能く衆を済ふといふ教訓の如き真に服膺すべき教訓であると思ひます。特に儒教の名分を正しくし利をすてゝ義に勇むの精神は、現代の如く綱紀粛正を要する時に於ては尤も拳々服膺すべきものである。
 西洋の物質文明の長所は之を伝へ学ぶことも肝要であるが、道徳につきては東洋の聖人孔子につきて学ぶこと甚だ大なるものがある。特に古来千数百年儒教により世道人心を振興教化したる我日本にありては、決して儒教の徳教を忘れてはすまないのである。東洋道徳の美点と西洋文明の長所を併せて一大文化を作るのは我々日本人の使命である。徒に孔夫子其人の道を伝ふるが為に儒教を学ぶのではなくて、一大文化を作る為にも儒教を研究したいのである。
 最近まで朝鮮の政治に関係して居りましたが、朝鮮人の為め釈奠祭を振作して大に風教徳化の為に裨益する所あつた様に考へました。而して今内地に於ては此斯文会の如き有力なる団体が、儒教中心の教化団体となつて居ることは、内地人の為は勿論朝鮮人の為にも良好の影響を与ふることゝ確信もし、又内鮮融和の為にも有益の事と感喜の至に勝へないのである。
 儒教のやうな正大堅実躬行の徳教の益々盛になるのは、単に斯文会といふ一団体の幸のみにあらず、国家の為に大に望ましき事であります。(文責在記者)
渋沢副会長演説
 世道人心を救ふ点より見て、中正穏健にして特に実行的の長所を有する儒教が、現代に必要なるは誰人も異論なき事であります。又経済上より見れば、論語と算盤の説は故の三島中洲博士とゝもに之を論じたものでありますが、論語の雍也編と記憶して居りまするが、「子貢曰。如有博施於民。而能済衆。何如。可謂仁乎。」とある博く民に施し衆を済ふことが「仁」か又「聖」である、孔子様の教訓は国家経営の実務に当る方々も謹しみて之を聴くべきものと存じます。
 只今水野内務大臣閣下より御鄭重な御祝詞を戴き、且つ吾々に対し激励の御言葉を給はりましたことは誠に感謝に堪へない所であります。然して此の御言葉通り本会を発展せしめて、我が国風教の上に益々効果あらしめることは斯文会員全体の責任でありますが、これに就いては大に御来会の諸君にも亦一層の御援助を仰がなければならないのであります。どうか満堂の諸君には今後とも十分な御後援を賜はりて、本会をして所期の効果を挙げしめる様に御尽力を願ひたいのであります。(文責在記者)
      四、記念品
一、特別有功賛助員に頒つべき孔子像の揮毫は中村不折氏に依頼し、中村久四郎氏専ら其交渉に従事せり。
 - 第41巻 p.47 -ページ画像 
二、正平版論語の覆刻につきては故林泰輔氏先づ主として之を企て、其歿後安井小太郎氏主任となり、モリソン文庫と交渉につきては中村久四郎氏之に参与し、写真製版印刷の監督につきては内野台嶺氏専ら之に従事せり。
三、日本儒学年表の編纂につきては安井小太郎氏を主任とし、中村久四郎・山口察常・前川三郎・高成田忠風・諸橋轍次・竹田復諸氏編纂を分担し、安井氏之を整理し、印刷校正につきては諸委員中山口氏の力尤も大なり。
四、修訂聖堂略志は著者三宅米吉氏専ら修訂増補に従事し、印刷の監督及び校正は中村久四郎氏之に当れり。
五、「斯文」特別号たる孔子号は塩谷温氏を主任とし、編纂部の委員編纂校正に従事せり。
六、袖珍論語は矢野恒太氏のダイヤモンド論語を原本とし、同書の紙型を利用し、十数ケ処の誤字を訂正して印刷に附し、中村久四郎氏専ら其事に当れり。
      五、先哲遺墨展覧会
市村瓚次郎氏主任となり、萩野由之・黒木安雄・高野辰之・友枝高彦・菊池長四郎諸氏委員として之に参加し、先哲遺墨の選定及び所蔵者への交渉に尽力周旋し、帝室博物館所蔵品につきては神谷初之助氏、御物及び図書寮蔵書につきては工藤一記氏及び西村時彦氏尽力奔走し、陳列場の検分設備につきては、上記諸氏の外中村久四郎・佐久節・前川三郎諸氏之に参加し、上野公園内桜ケ岡の日本美術協会列品館を借用して展覧会場となしたるにより、同協会主事平尾貞美氏は本会役員神谷氏とゝもに周旋尽力、大に本会の為に便宜を与へられたり。
展覧会は廿八・廿九の両日之を開き、両日の入場者三千余名に達したるは、展覧会係諸氏尽力の効果と会場の好位置とによる、特に二十九日午後には辱くも久邇宮邦彦王殿下の台臨あり、市村・萩野両氏説明の任に当り、一時半余の間鑑賞せられたるは本会の光栄とする所なり
尚閉会後も観覧を希望する者少からず、開会期間の僅に両日なりしを惜むの情切なるものありたり、尚其の出品目録は本号に附録せり。
      六、記念講演会
孔子二千四百年追遠記念祭に因める我が斯文会の講演会は、全国十数箇処に於て挙行せられたるが、都下に於ても左記四箇処に於て之を挙行したり。毎回非常なる盛況を呈したる中にも、特に記念祭当日の講演会の如きは満堂立錐の余地なきまでの盛会なりき。これ固より夫子盛徳の然らしむる所たるべしと雖も、吾人は此によりて人心の帰向必ずしも悲観するに及ばざるを認めて中心の欣幸とするものなり。今左に其概要を列挙すべし。
    第一回
 一、日時 大正十一年十月八日午後一時開会
 一、場所 南葵文庫
 一、講演者及演題
   孔夫子追遠記念祭の意義
             文学博士 塩谷温君
 - 第41巻 p.48 -ページ画像 
   恥と仁と畏     文学博士 吉田静致君
   儒教と支那国民性  文学博士 市村瓚次郎君
 一、聴衆概数 七十名
    第二回
 一、日時 大正十一年十月十六日午後六時開会
 一、場所 明治会館
 一、講演者及演題
   孔子と現代     文学博士 春山作樹君
   孔子とソクラテス  文学博士 吉田熊次君
   大聖孔子   早稲田大学教授 牧野謙次郎君
   孔夫子の政治観    代議士 島田三郎君
 一、聴衆概数 二百人
    第三回
 一、日時 大正十一年十月廿二日午後六時開会
 一、場所 芝区元国民党本部
 一、講演者及演題
   孔子追遠記念祭典に就て
              文学士 山口察常君
   一貫の道      文学博士 宇野哲人君
   模造品と為る勿れ 第一生命保険相互会社社長 矢野恒太君
   偶感        陸軍大将 大迫尚道君
 一、聴衆概数 百名
    此の会は清明会の主催に応じたるものなり
    第四回
 一、日時 大正十一年十月廿九日午後一時開会
 一、場所 東京帝国大学法学部第三十二番教室
 一、講演者及演題
   開会の辞      文学博士 服部宇之吉君
   朝鮮に於ける儒教  文学博士 高橋亨君
   孔子二千四百年祭に就ての所感
               男爵 阪谷芳郎君
   孔子の教旨に就て  文学博士 井上哲次郎君
   偶感 第一生命保険相互会社長 矢野恒太君
   道徳と経済との調和   子爵 渋沢栄一君
   閉会の辞      文学博士 宇野哲人君
 一、聴衆概数 六百人
          以上
○下略


斯文 第五編第一号・第一―四頁 大正一二年二月 道徳と経済との調和 渋沢栄一(DK410014k-0006)
第41巻 p.48-50 ページ画像

斯文 第五編第一号・第一―四頁 大正一二年二月
    道徳と経済との調和
                      渋沢栄一
 私は別に申上ぐる程の好い意見を持つて居りませぬ。況んや、時間を違へて、矢野君に代つて戴いたので、寧ろ矢野君のみで、話を続け
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て戴いた方が、却て宜からうと思ひますが、約を違へた御詫び旁々一言を費したいと思ひます。
 道徳と経済との調和と云ふことは分り切つたことでありますけれども、自分は道徳の方は甚だ不得手でありますが、経済だけは、私が永年経営致しました、諸事業の経験から致して、多少の自信もある次第であります。併しながら、此道徳と経済とを申上げるに就ては、二千四百年の追想からして、孔夫子の採つた態度を諸君に申上げて、御参考に供したいと存ずるのであります。抑々耶蘇でも、釈迦でも宗門を以て多数を済度すると云ふ方であつたのでありますが、孔子は完全なる宗教家でもなく、其跡を尋ねて見れば全く勉強の人であつて、寧ろ其事業に就ては何等見るべきところはありませぬ。然るに其教が国境を越えて、遥々我国に伝はり、御同様其教を奉戴して居る有様を見ますと云ふと、決して一種の信念を以て、只人を導くと云ふ許りでなく自分が世に立つて、政をなさんとした様に見受けられ、先程井上博士の仰せられた様に、孔子の如き偉人は外にないと云ふ事は、或は適評かと思ふのであります。併しながら自分の意見が容れられず、諸国を流浪の末、魯に帰つてから、玆に初めて学問をされたのであります。後世之を種々に解釈する人はありますけれども、不幸にして孔子の徳は、斉に行つても、衛に行つても、魯に於ても、何れの国に於ても、用ひられず、六十八歳迄は苦労に苦労を重ねて、遂に晩年を学問的に終つたと云ふ風に、孔子の一生を見るのが、徹頭徹尾、誤のない判断だらうと思ひます。何処迄も倫理のみに信を置いて居つた人でありまして、其一端を見るに足るのは論語の「子貢曰。如有博施於民。而能済衆。何如。可謂仁乎。子曰。何事於仁、必也聖乎。尭舜其猶病諸」とある句であります。即ち博く民に施し、衆を済ふことに依つて、人類の向上発展に資したのであつて、要するに井上君の言はれた通り、凡庸の大きい人であつて、欠点がなく、総ての方面に発達し体と云ひ、楽と云ひ、詩と云ひ、書と云ひ総ての方面に達して居つたやうであります。終に七十になつて、所謂「心の欲する所に従つて矩を踰へず」とありまして、七十歳にして、心の欲するところに任すも常規を逸することなく、徳漸く成り、総ての方面に完全に達して、以て人類国家の為に、一身を捧げたと云ふことは、自分の一身を神に捧げて、万人の身代りとなつたと云ふ基督に優つたところの大精神でありまして、等しく国民教として仰がなければならぬ所以であります。私の孔子に対する観察は、甚だ浅薄でありますが、要するに孔子は、凡ゆる方面に優れて、吾々人類の為に尽されたと云ふことは、寔に貴いことであつて、今日に至るも、尚ほ其追遠記念祭が催されるのも、洵に謂はれありと申して宜からうと思ひます。
 孔子の最も力強く主張されたのは所謂仁義道徳でありますが、此の仁義と云ふものが、どう云ふ風にして経済に調和するかと云へば、経済の済と云ふ字は、救済の済でありまして、孔子も仁義道徳と、経済と云ふものが、日常離るべからざるものと論じて居つたやうであります。即ち論語二十篇を通じて、読んで見ましても、此意味は、相関係して居るやうに考へます。大学に依つてみましても、或は他の書物に
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依つて観察しましても、道徳と経済と云ふものが、全く密着して論じてござります。是は一緒に論ずべき事柄でありながら随分ひき放れる嫌が始終ございまして、是迄背中合せになつて参つたのであります。
 儒教が日本に伝つて参りましたのは、徳川幕府の初のやうに思ひます。当時藤原惺窩・林羅山の如き、博学の学者が出て居りますが、殊に徳川家康が元亀・天正の頃、世を治めるに武力のみでは不可なるを知り、文治を以てせなければならぬと云ふことを考へ、仏教と儒教とに力を入れ、自ら林羅山・天海僧正の如きを引上げたと云ふところを見ても、当時如何に文治に力を用ひたかと云ふことが分る次第であります。然るに旧幕府時代に至つて、極度に経済を顧みなかつたと云ふ状態に陥つたのでありますが、此両者は相分離して完全に発達するものでなく、孟子などの言ふが如く「奪はずんば饜かず」と云ふやうなことは、論ずる迄もない明なことと思ひます。故に、浅学菲才、殊に微力にして、敢て自己の思つたところを尽く成し得たとは思ひませんが、尤も今日は経済界を退きましたけれども銀行・会社を経営する上に於て、微力ながら我身だけは起つて来たのであります。
 要するに経済に依らぬ道徳は、本当の光を発することが出来ず、道徳に依らざる経済は、永久に維持することが出来ないと確信するのであります。甚だ不穿鑿で、自己の意見を諸君の前に表白致したことは頗る僭越でございますけれども、殆んど四十年近くも私が行ひ来つた経験よりして、道徳に依つたる経済、又経済に依つた道徳ならでは、完全に発達するものでないと云ふことを、玆に証明して諸君の御参考に供した次第であります。(講演筆記)


斯文 孔夫子追遠記念号・第四編第五号・第一一―一六頁 大正一一年一〇月 余の観たる孔夫子 渋沢栄一(DK410014k-0007)
第41巻 p.50-53 ページ画像

斯文 孔夫子追遠記念号・第四編第五号・第一一―一六頁 大正一一年一〇月
    余の観たる孔夫子
                      渋沢栄一
 孔夫子歿後二千四百年を迎へ、此に追遠記念祭を挙げることゝなり自分も斯文会役員の一人として其の事に与ることを得るのは誠に光栄に感ずる次第である。幸に湯島聖廟の如き荘麗なる堂宇があつて、此に聖像を始め四配の像を拝して、所謂在ますが如くお祭をなし得ることは、此上もない仕合である。又孔夫子の精神を戴いて居る斯文会の如き団体が世の中心となつて、お祭を行ふといふことは誠に結構なことで、形の上にも精神の上にも非常によいことゝ思ふ。斯文会のことを善くいふのは何だか自分の事を賞めるやうにも思はれるが、しかしこれは決して自分のことではない。又このお祭は単に斯文会の私すべきものでなく、国民全体が仰ぐべき公の事であるから、決して謙遜すべきものではないと思ふ。
 さて孔夫子の偉大なる人格に就いては今更申すまでもなく、二千有余年後の今日猶到る処に尊敬崇拝せられる事実に見ても、其の偉大なることが明らかに知られるのである。現に支那に於ても―唯或る地方に於ては幾らか違つてゐるが―何省に限らず到る処に文廟があつて何れも壮大なる殿堂が建てられてゐる。自分も先年支那に遊び、南京・北京を始め諸方の聖廟を拝し、何れも其の荘重宏麗なものであること
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に驚歎し孔夫子遺徳の広大なることを感じない訳には行かなかつた。(唯遺憾なことに病気の為め曲阜には参拝し得なかつた。)
 斯の如く二千余年の今日まで、尊崇せられて居る所以のものは、一に孔夫子の偉大なる徳沢の致す所である。然して此の徳沢をして永久に存続せしむると否とは、此の孔子の教を実際に用ゐて、之を行ふと否とに存するのである。現在の支那の国情を見ても深く感ぜざるを得ない次第である。
 孔子の道が二千余年の間伝はつて来たうちには、色々な変遷もあり之を伝へるには種々な人物が出たのであるが、就中斯の道を世に宣伝するに効果の多かつたのは孟子其人である。孟子は当時告子が人の性は善もなく悪もなく恰も水の如きものであると説いて居たに反して、人の性は善なりと高唱して孔子の道を宣揚するに努めた。其の後荀子が出て性悪論を主張したが、孔子の道は性善論であり、自分も全然之に賛同するものである。此の性善論はいふまでもなく人の本心は善であつて其の本心の善は何人も之を具有する所である、しかし此の本心が屡々現はれないのは、物欲が之を妨害するからである。孔子の道は要するに此の物欲の妨害を取除いて本心の善を明らかにするにある。此の如き孟子の性善論は孔子の道を闡明するに尤も有力であつた。
 次に孔子に対する評論を述べんに、古来孔子を以て政治家となし、之を宗教家とは見ないやうであるが、孔子の精神を云へば一種の新宗教を開かれたものとも云ひ得ると思はれる。しかしその事業行為の上から云へば孔子は釈迦とか基督とは異つて居る。要するに孔子は天下の人々を救ひ、社会の幸福を進めるには、実際上善政を施すことが第一の方法と考へられて政治の方面に熱中せられたものである。即ち政治によりて実生活の上から人を安んじ社会を幸福に導かうとせられたのである。釈迦・基督は人の心を治めることを主とし、世の実際を離れて別に宗教を説いた。孔子は全く之に反した方法を取られたのである。故に魯を始めとし、斉・衛・鄭・蔡其他の諸国を巡遊して、苟も自分の信ずる善政を施す所があらば、其の道を実行しようと努められたのである。併しながら当時の大勢は孔子の道を容れる所なく、遂に六十八歳にして故国に帰へられ、それより一意文学の方面に力を注がれたのである。斯様な事実は一見孔子は政治に失敗して、老後の一事業として文学に力を用ひられたもので、政治の失敗者にして一村学究に終られた観がある。故に或る種の論者―故人になつた福地桜痴氏の如き人は右様に孔子を見てゐた。かの子路・曾晢・冉有・公西華などが孔子に侍坐して各其の意のある所を述べたのに対して、孔子が点に与せんと曰つて、曾晢の暮春には春服既に成り云々の言葉に同意せられたことが論語に見えてゐるが、此の事が孔子が悟を開かれた始めであると説いて居る。又広沢斗岳といふ人はなかなか論語を研究して居る人であるが、この人は孔子の学は全く政治的学問である、孔子の意は周末の天下を尭舜の昔にかへし、人々をも亦斯様になさしめんことを念として努力せられたので、つまり孔子は学者でなく教育家であると説いて居る。又先年孔子祭典会の講演会に於て井上哲次郎博士は、孔子の性格には特殊の点がない、元来人の性格には一方に秀でゝ居れ
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ば他方に劣るといふやうに偏し易いものである。情に強く意に弱い人もあり、大事に対しては沈着であるが小事には却て汲々とするやうな人もある。しかし孔子は何れも平等であつて、平凡なる人である。然も偉大なる平凡である。常識も発達し想像力・理解力・記憶力等も十分に備はつてゐた、実に平凡なる偉大であると説かれたやうに記憶する。孔子の人格を見ることに就いてはこの井上博士の説に全く賛同するものである。右何れも孔子の一面観に過ぎないと思ふ。余の観る所では孔子が政治の事に汲々せられたのは、決して一身の栄達を図るとか、位を得たいとかいふやうなことを望まれたものではなく、全く天下の万民を安んじ、社会国家を太平ならしめるには、道理正しい政治を行ふことが第一である。故に自身の智識、自身の才能を用ひてくれるものがあるならば、身を以て実際の事に当り善政を施さうといふ希望であつたのである。釈迦とか基督とかは世と人とを完全に救ふには世の実際を離れて心を治めることに努めたが、孔子は世を安んじ人を救ふ手段として政治を撰ばれたものと云つてよい。故に若し其の当時文王の如き聖王があつたならば大公望の如くになられたであらう、漢の高祖に於ける張良、宋の太祖太宗に於ける趙普の如くになられたであらう。然も孔子の時代には此の如き聖王賢君がなかつたのである。かの夾谷の会に於ける措置なり、魯の相事を摂行せられた時直に少正卯を誅せられた事実を見ても、如何に正しい政事を取ることに努められたかが能く見られるのである。此の如く孔子をして真の働を出さしめる程の聖王がなかつたので、つひに意を政治に絶たれたのである。是に於て易・書・詩・礼・春秋などを編纂して後世に遺されたが、その中春秋を見ても孔子の正義を取られたことが明らかに知られる。春秋の初にある「鄭伯克段干鄢」の章の筆法を見ても如何にも厳格であつて、孔子には不似合と思はれるほど厳しいのである。孔子は実際文学にも音楽にも礼儀・作法・歴史等あらゆるものに就いても、能く之を知り之を働かす能力を有つて居られ、従て之を後世に遺されたのであるが、其の初一念は世を救ひ人を安んずるにありて、これが終生の目的であつたのである。かの論語に見えて居る「博施於民。而能済衆」といふことが孔子の真の眼目である。之をやるには実際上政治に与るに如くはないのであるから、諸国を歴遊せられたのである。故に孔子を以て単に政治家と見るのはよろしくない、寧ろ宗教家と見られ得るのである。凡そ世の中に於ては論理と事実とは兎角一致し難いものである。一例を云へば仏教の目的は人々をして正しい心に帰へり、真理に従はしめるにあるので、これは儒教と同じ事である。しかし仏教に於ては其の為に先づ人の心からして貪・嗔・痴の三つを取除くやうにしなくてはならぬと説いて居る。之を取除くには現在のこの社会に関係してゐてはなかなか容易に之を去ることが出来ない。故に家を出て妻子も有たず、全く現実の社会から遠ざかるやうにして、形の上から心を制することを努めるものである。然し斯様にしては実際の世の中と離れ人情に疎くなり論理と現実とが相反することになる。そこでかの親鸞は現実に居りながら真理を捉へようとして肉食妻帯を唱へ出したものである。孔子の教に就いても其の道を伝へ学ぶ者が余
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り孔子の道を崇高にし孔子の人格を崇拝する余りに却て世の実際とかけ離れたものとなしたやうである。殊に宋代の周張・二程子・朱子の如きは、其の為す所恰も仏教者の如くで、道は高尚なものとなつたが世の実際とは段々遠いものとなつた。我が徳川時代に於ける藤原惺窩林羅山等が朱子学を伝へ、之を官の学問とし正学となしたが、これ亦利害などに関係することを屑しとせず、実際と学理とを引離してしまつた。孔子の本意は決してさういふものではない、孔子の説かれた道は世の何人も之に依つて立つて行く所の大道であり、決して世の実際とかけ離れたものではない。先年孔子祭典会後の講演会に於て「実業界より見たる孔夫子」といふことを説いたことがあるが、徒に論理の高尚を喜んで孔子の道を高くするものは、唯盾の一面である。斯様にしては実業家などは孔子の門には入られぬ訳である。孔子の趣意は左様に限られたものではない、否世の実際と論理とが一致して、実際のうちに道が行はれ、此の両者が相離れない所に在ると云つてよい。
  (右は渋沢子爵談話の要旨を筆録せるものにして、文責全く記者にあり、尚文中記者の誤脱聞違等なきを保せず、子爵並に読者の寛容を乞ふものなり。編輯委員)


(増田明六)日誌 大正一一年(DK410014k-0008)
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(増田明六)日誌 大正一一年      (増田正純氏所蔵)
十月三十日 月 晴
○上略 一昨夜帰京せられた子爵ハ其夜不快にて迚も翌日ハ外出不能と気遣ハれたが、昨日孔子弐千四百年祝典で各処で三回迄講演を試ミられた○下略
   ○右ニ栄一三回講演ヲ試ミタリトアレド前掲資料ノ示ス所ハ二回ニシテ「余の観たる孔夫子」ハ末文ニアル如ク斯文編纂委員ニナシタル談話ナリ。三回トアルハ或ハ此レヲ加ヘルカ。「此ニ追遠記念祭を挙げることゝなり」云々トアルヨリ同日ノ談話ノ如キモ或ハ増田ノ誤記ナルカ明確ナラズ。