デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
3款 財団法人斯文会
■綱文

第41巻 p.96-99(DK410041k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)


 - 第41巻 p.97 -ページ画像 

是ヨリ先、是月十一日栄一歿ス。是日、栄一ノ葬儀ニ当リ、当会会長徳川家達、弔詞ヲ寄ス。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第三六―三七頁昭和六年一一月 ○弔詞(DK410041k-0001)
第41巻 p.97 ページ画像

竜門雑誌 第五一八号・第三六―三七頁昭和六年一一月
 ○弔詞
維時昭和六年十一月十五日、財団法人斯文会副会長・聖堂復興期成会副会長子爵渋沢栄一君ノ葬儀ニ列シ敢テ一言ヲ陳ヘテ霊柩ヲ送ラントス、君カ明治大正及ヒ現代ニ亘リ数十年ノ久シキ常ニ国家ノ重キニ任シ経済施設ニ社会教化ニ偉大ナル功業ヲ樹テ、以テ我カ国運ノ進展ニ尽サレシ実績ハ赫々トシテ中外ノ斉シク瞻仰スル所、今予ノ縷言ヲ要セサルナリ、唯一事言ハサルヘカラサルモノアリ、君夙ニ庭訓ヲ受ケ篤ク孔子中正ノ道ヲ信シ日夕論語ヲ愛誦シ、独リ之ヲ以テ護身符トナスノミナラス、又之ヲ世ノ実際ニ活用シテ百事ノ準則トナセリ、是レ君ノ恒言スル所ノ論語ト算盤ナル語ノ人口ニ膾炙セラルヽ所以ナリ
我カ斯文会ノ成ルヤ推サレテ副会長トナリ、内外ノ規画ニ焦慮尽瘁シ専ラ之カ発展ヲ期シ、又湯島聖堂ノ震火ニ遭フヤ哀傷措カス之カ再建ヲ策シ、復興期成会ノ成立トナリ、自ラ巨資ヲ投シ老齢ヲ意トセス斡旋事ニ当リ、只管之カ達成ニ努メラレキ、面会ノ今日アル主トシテ君ノ力ニ是レ由ルモノト謂フヘシ、惜イカナ聖堂未タ旧ニ復セス溘焉トシテ逝ケリ
予乏シキヲ両会々長ニ承ク、君旧誼ヲ遺レス誠実懇到常ニ匡救輔翼ノ実ヲ尽クシ、予ヲシテ幸ニ大過ナキヲ得シメタリ、而モ今ヤ則チ亡シ悲シイカナ
今ヨリ後会員諸子ト共ニ同心協力速ニ聖堂復興ノ業ヲ完成シ、益斯道ノ宣揚発揮ニ努メ以テ君ノ志ヲ纉ク所アラントス、君冀クハ瞑セヨ
                 財団法人斯文会会長
                 聖堂復興期成会会長
                   公爵徳川家達



〔参考〕竜門雑誌 第六〇〇号・第三四―三八頁昭和一三年九月 斯文会の使命と現状 青淵先生と湯島聖堂の復興 福島甲子三(DK410041k-0002)
第41巻 p.97-99 ページ画像

竜門雑誌 第六〇〇号・第三四―三八頁昭和一三年九月
    斯文会の使命と現状
      ――青淵先生と湯島聖堂の復興――
                      福島甲子三
      一
 渋沢青淵先生がその晩年まで絶えず念頭を放れなかつた事業は数多くあることゝ思ふが、その中にも湯島の聖堂の復興と之が維持方法に関する一事は、相当に大きな御苦心の種であつたと思ふ。申すまでもなく湯島の聖堂は徳川時代文教の中心であり、学問の本山ともいふべきものであつたが、明治維新学制の改革と共に、聖堂とは別に帝国大学始めそれぞれの学校なり機関なりが設けられ、随て従来行はれた孔子の祭典さへも、この聖堂では一向行はれないことゝなつて居たのである。然るに青淵先生等の首唱によつて、孔子祭典会なるものが先づ復興され、兎に角国民精神に最も関係深い儒教の本山たる面目が保たれて来た。ところが例の大震災の為に、さしも輪奐の美を極めた聖堂
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も、瞬時にして灰燼に帰し、剰へ幕府以来奉祠の中心となつた聖像までが焼失するといふ悲運に遭つたのである。青淵先生は之に就いて一方ならず痛惜の念を懐かれ、早くもその復興の計画を考へられたのである。
 そこで此の復興に就いては、容易ならぬ資金を要するので、先以て聖像を安置すべき奥殿だけでも建造してはどうかといふ議が起つて、不肖私から青淵先生に申上げたところ、遂にそれに要する費用だけは自分が負担してよいといふ御意志をお洩らしになり、莫大な金額(金五万円)を御寄附なされたのである。その後この奥殿を別に造るといふことは沙汰止みとなつたが、この莫大な御寄附が根となり種となつて諸方面からの醵金を誘ふやうになつたのである。
 震災後の復興事業は一般商店街等では比較的敏速に運んだが、この聖堂の復興に就いては、それが精神的な又無形な影響を有つといふ為に、自然に遅れ勝であつた。ところが畏くも聖上陛下の御下問をまで忝うしたところから、当事者は恐懼感激して、その事業の進捗に力め、地鎮祭から起工式次いでは落成式となつて、昭和十年にやうやう完成して今日帝都の一大名勝となつたのである。然るに惜しいかな、青淵先生には遂に之が着手の事実までも御存じなく御長逝となり、右の何れの諸式も一々たゞ御墓前に報告をなしたのみであつた。
      二
 元来、青淵先生の御主張であつた「論語と算盤」から申しても、先生が孔夫子に深く傾倒して居られたのは当然であるが、我が国教育の大本と仰ぐ 明治天皇の御勅語を拝見しても、その御趣旨は、我が国固有の国民精神は全く孔夫子の道と符節を合するが如きもので、或る人が論語を以て教育勅語の註脚であると述べたのは疑なき事実であるそれ故に青淵先生が一層孔夫子を尊崇せられ、随て湯島聖堂の復興に多大なる御苦労をなさつたのである。
 さて聖堂が出来たといつても、之を維持して行く方法が立たなくてはならぬ、即ち之が保管と共に、又斯の道を宣揚すべき機関がなくてはならぬ。この必要に応じて組織せられたのが斯文会なのである。斯文会は明治の初に於て岩倉右大臣首唱の下に出来た斯文学会と前述の孔子祭典会等を打つて一丸とした大同団結であつて、その成立過程に就ても青淵先生のお力を煩はしたことは尠くない。
 繰返へすまでもなく、斯文会の有する使命は、湯島聖堂に於ける釈奠並に聖堂の保管維持といふことゝ、儒道の宣揚研究といふことゝである。此の使命達成に就いて、特に吾人の恐懼感激措く能はざるものがある。それは聖堂復興事業の完成した時、畏くも 聖上陛下より、斯道勧奨の尊い御思召を以て、御物の孔夫子像一躯を斯文会に下し賜はつた一事である。即ちこの使命に就いては唯単に従来の伝統を継承して行くと謂ふばかりでなく、この尊い 聖旨を奉体することであるので、この使命の上に千鈞の重きを加へたといつてよい。
      三
 斯文会の事業としては、毎年春の釈奠、秋の先儒祭を行ふこと、春秋二季の大講演会、夏期講習会を開くこと、又広く東亜の学術思想を
 - 第41巻 p.99 -ページ画像 
研究発表し、又教育特に漢文教育全般に亘つて協議研究すること、毎月雑誌斯文を刊行すること等を定例として居るが、近年世道人心の趨向に鑑がみ、高等小学児童に対して、日本外史楠氏篇等平易な漢文教育を施す為の漢文普及講座を開設し、又一般大衆の為に儒教聖典講義を開いて、市民教育の向上に資せんとしてゐる。右の漢文普及講座は市内十数校に於て、毎週一回づゝ之を行ひ、儒教講義は斯文会講堂に於て毎週二回づゝ之を実行して居る。是等の外小学児童に対しては、夏期修養会を催し、又今次事変の関係上、この夏には時文支那語の講習会をも開設したのである。
 以上の事業に就いては、何れも益々拡大する必要があり、殊に小学児童に対する普及講座の如きは、年々その希望校の数が殖えて来て、一々之に応じきれない程となつて居る。それは、この講座に於て修了した児童の社会進出後の状況が、非常に好評を博して居る為で、この点に就てはそれらの児童雇用者間一致の意見で、現に市当局からも度度感謝の辞を寄せられて居る次第である。
 端なくも起つた今次の事変は、一般に漢文研究の必要を促進し、儒教講義の方でも常に相当の聴衆が熱心に詰めかけて居る有様である。
 右の如く斯文会の事業は、今後益々その必要を増すばかりで、会の当事者としては極力之を発展させ、時局の上にも、又一般公共の為にも、会としての意義ある効果を挙げたいと念願して居るので、これは又実に故青淵先生の御意志を継承達成する所以の一であると信ずる次第である。
 唯遺憾に堪へないのは、会としての基本金が前よりも少くなつた上に、利率の低下著しい為に、従来だけの事業さへも縮小しなくてはならない現状である。今次事変の結果に於ては、斯文会の当然しなくてはならない仕事が多々あると思ふに、斯様な現在の有様では誠に心許なく感ぜざるを得ないのである。
 顧れば湯島聖堂の復興当初には満洲帝国皇帝陛下親しく御参拝あらせられ、又落成式には孔夫子の裔孫、顔亜聖の後継者等が、わざわざ来朝して之に参列せられ、この聖堂を通して、日満支三国が結合融和されることを如実に示したといつてよい、それが今次の事変下に於て一層意義深いものとなつて来たことはいふまでもないことである。彼を思ひ此を想へば名状し難い感慨を催さゞるを得ない。故にこの貴重な紙面を借りて、斯文会の使命と現状とを語り、同憂の諸君子に訴へる次第で、抑も亦これが青淵先生に対する追懐と報恩の一部たることを信じて已まないからである。