公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第41巻 p.100-102(DK410042k) ページ画像
大正15年3月17日(1926年)
湯島聖堂ハ大正十二年九月一日関東大震火災ニ罹災シ、翌十三年四月仮聖堂ヲ建テ、御物孔子像ノ交付ヲ受ケテ奉安式ヲ挙行シ、爾来孔子祭典ヲ継続シ来タレルモ更ニ聖堂復興ノ議起リ、去ル二月二十五日、栄一斯文会役員トソノ方策ヲ協議シ、是日宮内大臣一木喜徳郎、総理大臣若槻礼次郎ヲ訪問シテソノ援助ヲ請フ。次イデ五月三日徳川家達、栄一等ヲ貴族院議長官舎ニ招キ、復興計画発表ニツキ議ス。
渋沢栄一 日記 大正一五年(DK410042k-0001)
第41巻 p.100 ページ画像
渋沢栄一 日記 大正一五年 (渋沢子爵家所蔵)
二月二十五日 晴 寒
○上略 午飧後兜町事務所ニ抵リ○中略 二時斯文会ノ件ニ関シ服部・三宅・内藤・矢野・福島ノ諸氏来会ス、阪谷氏モ来会ノ筈ナリシモ故障アリテ欠席ス、聖堂復興ニ関シテ斯文会後援ノ事ヲ協議ス、阪谷氏ニハ予ノ助言ヲ一同ヨリ要求セラル、畢テ若槻氏ヘノ回答状ヲ裁ス○下略
○中略。
三月七日 雪後曇 寒
○上略 福島甲子三氏来訪、聖廟建設ニ関スル寄附金募集方法、並ニ阪谷男爵ニ理事長就任ノ件ニ付種々ノ意見ヲ交換ス○下略
○中略。
三月十七日 晴 寒
○上略 宮内省ニ出頭シ、一木宮相ニ会見シ○中略 斯文会ニ於テ聖廟再興ヲ計画スル挙ヲ御援助ノ事ヲ懇願ス、又帝国議場ニ抵リ若槻首相ニ会見シテ同様ノ事ヲ懇願ス○下略
聖堂復興期成会書類(DK410042k-0002)
第41巻 p.100 ページ画像
聖堂復興期成会書類 (渋沢子爵家所蔵)
大正十五年三月十七日午後二時宮内大臣を宮内省に、同日午後三時若槻氏を貴族院に訪問し、聖堂復興資金の件に付夫々懇談し、其答は
(一)宮内大臣は民間に於て其れ迄努力せらるゝならば何とか考慮すべし
(二)総理大臣は御話の趣旨はよく了解した、何とかしたいけれども本年は予算を組んだ後のことゝて何とも致方なし、来年のことゝもならば又其様な話も起れば敢て反対はしませぬ
と云ふにありたる由にて、即日福島甲子三氏に電話し、更に十九日山本邦彦氏来訪に付重ねて詳細話し置けり
大正十五年三月十九日白石記 白石
聖堂復興期成会書類(DK410042k-0003)
第41巻 p.100-101 ページ画像
聖堂復興期成会書類 (渋沢子爵家所蔵)
- 第41巻 p.101 -ページ画像
拝啓、益御清福奉賀候、陳者曩に申上候湯島聖堂復興計画の方針略相熟し候ニ付右発表方に関し御高見相伺度、来る五月三日午後二時貴族院議長官舎ニ御枉駕被成下度、此段得貴意候 敬具
大正十五年四月卅日
公爵 徳川家達
子爵 渋沢栄一殿
追て当日若し御差支ニ候ハヽ代人御差出被下候様致度此段申添候
集会日時通知表 大正一五年(DK410042k-0004)
第41巻 p.101 ページ画像
集会日時通知表 大正一五年 (渋沢子爵家所蔵)
五月三日 月 午後二時聖堂復興ニ付会合(徳川貴族院議長官舎)
○右ト同様ノ記事ヲ「竜門雑誌」第四五三号(大正十五年六月)青淵先生動静大要中ニ掲グ。
(徳川家達)書翰 渋沢栄一宛大正一五年五月一五日(DK410042k-0005)
第41巻 p.101 ページ画像
(徳川家達)書翰 渋沢栄一宛大正一五年五月一五日
(渋沢子爵家所蔵)
拝啓、然者先日来御協議相願候湯島聖堂復興期成会の儀、近く成立を見るを得べき運と相成候事は誠に喜ばしき事と存候、但所要の資金巨額に上ると国民多数の力を合せて復興を実現せんとするに就ては、復興の完成までには数年の歳月を要すべきことゝ存候、其期間は曩に宮内省より斯文会に下賜あらせられたる孔夫子の像は、現在の如く宮内省の庫内に保管を請ひ置き、毎年祭典の際仮聖堂に送迎申す外ハ無之と存候、聖像御下賜以来已に三年を経たるに、今後猶数年現状の儘になし置き候事は、至尊の深き思召に対し奉りて恐懼に堪えざる次第と奉存候、思ふて此に至れば衷心実に安からず、乃種種考慮致候処、復興さるべき聖堂は正殿の後に完全不燃質の聖像奉安処を設くべき計画に相成居り、而して右奉安処は正殿と切り離して造営し得べきものなれば、先づ之を建造する途は無之歟といふ事に考へ及び候、右に関し先づ以て老台の御意見承知致度候、其上にて更に御相談を願ひ可申候
先は右得貴意候 敬具
大正十五年五月十五日
公爵 徳川家達
子爵 渋沢栄一殿
渋沢栄一書翰 控 徳川家達宛大正一五年五月二〇日(DK410042k-0006)
第41巻 p.101-102 ページ画像
渋沢栄一書翰 控 徳川家達宛大正一五年五月二〇日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、本月十五日付御手紙拝見仕候、然者大正十二年大震火災の後直ちに斯文会が炎上せる湯島聖堂の旧址に仮聖堂を建造し、祭典の続行に努むることを 聞召され、宮内省より下賜あらせられたる孔夫子の像の奉安に関して御憂慮相成候次第は老生に於ても全然御同感之至に御座候、外ならぬ聖堂の復興の事なれば大に力を致すべく覚期致居候が、貴諭の如く復興を数年の外に見ることは頽齢の老生に取りては日暮道遠の感を免れず候、随て貴諭の聖像奉安の儀に関しては同憂の情一層切なるもの有之候、就いては聖堂復興期成会成立の上は金五万円を寄附可致候、若し聖像奉安処の造営此によりて可能と相成り候て、貴憂の一面を安んずることを得ば誠に大幸之至に御座候、而して老生
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も藉りて早く復興の一部の実現を見るを得ば欣快不可過之候、聖像奉安処の儀は斯文会の新に考案せるものにして、旧聖堂の規模以外に増設さるべきものなれば、老生に於て右の如き希望を申出で候ても必ずしも不遜ならざるべしと存候、此れ貴諭に対して敢て衷情を吐露し以て御答と為す所以に御座候間、宜敷御諒察之程願上候 敬復
大正十五年五月二十日
子爵 渋沢――
公爵 徳川――宛
〔参考〕中外商業新報 第一四三三六号大正一五年一月二五日 近く復活する湯島孔子廟 神体となる聖像は今上陛下御秘蔵品(DK410042k-0007)
第41巻 p.102 ページ画像
中外商業新報 第一四三三六号大正一五年一月二五日
近く復活する湯島孔子廟
神体となる聖像は
今上陛下御秘蔵品
ボタンを押せば方三尺の床が音もなく地下に落こんで上に鉄の蓋がかぶさり、床上の御厨子は床と共に防火構造の地下室に収まつて、お厨子の中の孔子像は
地震があらうと火事があらうと無事安穏である……かういふ仕組で、本郷湯島の聖堂の復興が計画されてゐる、財団法人斯文会が中心となつて計画をすゝめてゐる聖堂復興期成会は、近く宮様を総裁に、徳川公を会長に戴いて発会式をあげ、百万円の復興資金と廿万円の維持資金の募集に取りかかることになつてゐるが、聖堂の名で残る孔子廟は今は全国に水戸・佐賀・伊勢と
徳川興亡三百年の間に三度大火に遭つて不思議に厄を免れたが、四度目のあの大震災で灰燼に帰したものである
計画中 の新廟は大成殿・杏壇門・入徳門など古式そのまゝで、伊東忠太博士の設計で頑丈な耐火構造である、竣成の上は建物は政府に寄附することになつてゐるが、新廟の神体となる聖像は今上陛下御秘蔵の品で、陛下御幼少時の御教育主任曾我祐準子が職を退くにあたつて、陛下に献上したものであつて、身長約二尺の青銅製で、明末の儒者朱舜水が日本に渡来して流浪して居た際、柳河の藩儒安東省庵に養はれてゐたが、水戸に仕官がなつた時省庵に礼として贈つた二体の聖像の一つで
一つは 今に安東家に伝はり、一像は転々して曾我子を経て宮中の御物となつた由緒つきのものであるが、渋沢子・阪谷男・江木前文相等の尽力で拝借といふ名義で畏き辺から交付されたものである