デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
5款 孔子誕辰会
■綱文

第41巻 p.141-144(DK410048k) ページ画像

大正元年10月21日(1912年)

是日、孔子誕辰会第二回集会、東京帝国大学山上御殿ニ開カル。栄一、出席シテ演説ス。


■資料

孔子祭典会会報 第六号・第一七頁大正二年四月一九日 孔子誕辰会(DK410048k-0001)
第41巻 p.141 ページ画像

孔子祭典会会報 第六号・第一七頁大正二年四月一九日
○孔子誕辰会 明治四十五年十月二十一日午後四時より同会第二回の会を東京大学山上御殿に於て開き、渋沢・阪谷両男爵・井上(哲)博士等の演説ありて、晩餐にうつり、畢つて服部博士・塩谷学士の現下の支那に関する興味多き演説あり。又当日は細川侯所蔵の唐の呉道子筆の聖像を始として、諸家珍蔵の孔聖に関する書籍画幅等を展覧に供したり。会するもの無慮七十。稀なる盛会なりき。
 論語と算盤            男爵 渋沢栄一
 東西両洋の道徳的観念       男爵 阪谷芳郎
 孔子教につきて        文学博士 井上哲次郎
 支那に於ける道徳の危機    文学博士 服部宇之吉
 支那の近状並に学風について   文学士 塩谷温


竜門雑誌 第二九四号・第七三頁大正元年一一月 孔子誕辰会(DK410048k-0002)
第41巻 p.141 ページ画像

竜門雑誌 第二九四号・第七三頁大正元年一一月
○孔子誕辰会 服部宇之吉・井上哲次郎・星野恒三諸氏の発企せられたる孔子誕辰会は、十月廿一日午後四時より東京帝国大学構内山上御殿に於て開催せられたるが、当日青淵先生にも参会せられたり


東亜之光 第八巻第一号・第一〇七―一一一頁大正二年一月 孔子教と実業 渋沢栄一(DK410048k-0003)
第41巻 p.141-144 ページ画像

東亜之光 第八巻第一号・第一〇七―一一一頁大正二年一月
    孔子教と実業            渋沢栄一
 私如き者が此席に立つことは最も愉快に感じなければならぬ(拍手)今日孔子誕辰会に是非出るやうにと云ふ御案内を得まして参上致しましたが、今夕少々差支がございまして、食事の御仲間入りは御免蒙りますけれども、未だ時間もございますので皆様の御説を拝聴しようと思ひました所が、反対に、私がお話をしなければならぬ番外を引受けました。
 石が流れて木の葉が沈むと云ふやうな俗謡もありますが、今日の会合は殆んどそれが実現されたやうに思はれます。御集の皆様は、多くは所謂学識豊富の御方々で、殊に之れを専門にする御方が多いやうに思ふ。ところが、小説とか雑誌とか或は極て通俗のものでなければ読みこなしの出来ぬ商売人が此処に来て、お釈迦の前に説法どころではない、学者の前に学説を説くやうな反対な話になつたことは、即ち石が流れて、木葉が沈む方であると思ひます。併し斯かる機会も亦二千五百年以前の孔子様が冥途で御喜びになつて居るかも知らぬから、愚説を述べて、御参考とまでは行かずとも商売人の考は斯くあると云ふ
 - 第41巻 p.142 -ページ画像 
ことを御記憶に留めて頂きたいと思ふ。勿論丁寧な取調べをするの、細かに書物を読むのと云ふことは、素養もございませぬのみならず時間もない故、決して諸君の前にさう云ふ話をしやうとは思ひませぬ。又孔子教が宗教であるか宗教でないかと云ふ討論会にも、寧ろ私はお仲間入りを御免蒙りたいと思つて居ります。
 併し孔子の教育が、唯六ケ敷い書物を読む人ならでは理解が出来ない、効能がないと若し思ふならば、それこそ大間違ひである。孔子の教育ほど俗用に適応するものはない。即ち俗用に広く効能があつたから孔子教が偉いのである。それを宋学先生達が――唯今此処に御出席の御方々はさう云ふことはございませぬけれども、私の解釈する所によると、本源たる支那に於ても宋末の学者先生は孔子の教を吾々が近く理解し得られぬやうに六ケ敷く解釈して、日用の教旨ではない大変に深遠なものであるから、苛も久しく学んでそれを専門にして世の中のことを打棄てねば孔子教の薀奥に入ることは出来ぬことにして仕舞つた。それで事実と学問とが隔つて、一種の礼法とか、茶の湯の儀式とか云ふやうに孔子教がなつたと考へるのであります。明末の学説が何の位迄其時の通俗の用に用ゐられたか用ゐられなかつたかは、其当時の有様を私は知る程の深い学問を致しませぬけれども、蓋し其時分の政治と一種の学説とが大変懸隔して仕舞つたであらうと思ふ。所謂学理と実際とが全く隔絶して仕舞つたのは、宋末の衰へでありはしないかと思ふ。
 元来孔子の吾々に教へて呉れたことは、決してさやうに六ケ敷いものではないと思ふ。晩年に於て、魯の国が孔子を用ゐることも出来ない、孔子も亦仕へることを求めぬで、遂に専ら学問に従事したと云ふのは多分、哀公の何年であつたが、孔子が六十八の頃であつたといふことが論語の序に書いてあつたと思ひます。即ち教育専心に相成つたのは最終の六・七年の間にあらうかと思ふ位であります。但し此間に多数の天子を持つたから、其天子に対して或は仁を説き、或は政を説き、或は孝を説き、種々なる方面に教育をされてあるからして、決して教育を其以前から怠られたものではなかつたらうけれども、併し全く教育専心になられたのは寧ろ晩年であつたと云つて宜からうと思ふ而して此晩年に至るまでの間の総ての方面が、行状に於て、交際に於て、或ひは政治に於て、若くは殖産工業の事に就て、総て長けて居つた人と云うて宜からうと思ふ。単に論語の序を見ても或は為司職吏。畜蕃息とか云つて、凡ての芸に亘つたと云ふやうな事柄を見ましても事実に於て唯空理を説いたのではないと云ふことが誠に明かであらうと思ふ。日本に伝はつた朱子の学問が旧幕府の時分には広く行はれて先づ主たる学問は朱子学を奉ぜぬければならぬと云ふ様になつた。或は古学派もあり、折衷学派もあり、種々の学派があつたやうでありますが、維新頃までは、日本に伝はつた所の学説も矢張学問其ものと事実其ものとは別物だといふ如く教へられて居つた。私は古学派の方面のことは能く覚えて居りませぬが、彼の荻生徂徠の言葉と記憶して居りますが、道と云ふものは士太夫以上の者に説くべきで、農工商などの唱へるものでないと云ふことが教の要旨にしてある。故に漢学の高
 - 第41巻 p.143 -ページ画像 
尚な教は、損益を論ずる商売人などの窺知る所でないといふことを教旨としたやうに思はれる。宋末の先生方よりも更に吾々共を擯斥して商売人には学問はないと云ふやうな教の如くに想像されますのでございます。それが始終一般の風習と成つて居つて、実業とか商売とか云やうな事柄と、仁義道徳と云ふ如き教育とは殆んど相近づき得られぬものゝ如くに、私共青年の時分、――聊か漢学などを教はる頃ほひは始終それで居りました。明治の世になつてからは、私は六年に官途をやめて商売人になりまして、其時自から考へて、自分は先づ是から先き、算盤玉で世に立たうと云ふ覚悟をした。政治も必要であらう、教育も必要であらう、総ての方面が発達しなければならぬけれども、今見渡した所では何うも損益を図る商売工業の方面が甚だ力が鈍い、此力が斯くの如くであれば他の方面が如何に発達しても、日本全体の進歩は矢張り遅々として、国力は微々たることを免れぬ。矢張り他の方面の発達と同様に之れを発達させなければならぬ。之れを発達させるには、其向きに従事する者の現在の有様ではいかぬ。旧幕伝来の商売人と云ふものは、知識などは一向要らぬものである、学問などは以ての外である、覚えれば却て家を滅ぼす種になる。所謂売家と唐様で書く三代目が最も危険だと云ふ有様では、此世の中の富を作るといふことは、何うしても出来ないのであらう。己れ不肖なりとも、是から商売を遣るには何うしても道理正しき、幾らか学問的な利殖を図つて見たい、何に因つて心を定めたら宜からうか、といふことから色々考へまして、聊か乍ら読んだ論語は、何うも己を修めるにも、又人に接するにも、君に尽すにも、親に事へるにも、凡て日常各方面のことが能く教へてある。之れに依つて行くならば必ず利殖は為し得られる。一身は必ず立行ける。又西洋の学問は不幸にして十分学ばず、是から先工業とか科学とか云ふやうなことに就ては、勿論西洋の長所を段々学んで行かんければならぬけれども、己れの一身を修め人に接する君に尽すと云ふことに就ては此論語の教で大丈夫行けるであらうと、斯う覚悟した、損得は図つて行く、利益は収めて行くやうにするが、併し此論語の趣意だけは誤らぬやうにしたい、其時分の、富を成せば仁ならず仁を成せば富まず、と云ふことは全く間違である、仁にして且つ富むことが出来る、真正の富は仁でなければいけない、斯う自分は覚悟致しましたのでございます。
 爾来殆んど四十年に近く、微力何もすることは出来ませぬが、併し私は此孔子の教を堅く奉じて、商売も、工業も、鉱山業も、製造業も凡そ有りとあらゆる事業が少しも差支なく出来得て、其間に就て孔子より地下から叱られるやうなことは先づ致さぬつもりでございます。蓋し、私がさう思つても、孔子から見られたならば其れは違ふぞとおつしやるか知らぬが、自身は、自から欺いたことは必ずないと申上げます。蓋し孔子を奉じた為めに、私一身が富をなすことが出来ないならば或は然らぬかも知れぬけれども、微力ながら日本の実業界の発達に対しては聊か貢献致したと思ふのでございまして、所謂己れ富まぬでも国家を富まするに於て多少の力を尽したとすれば、若し私のすることが不仁でなかつたとすれば、仁をなせば富まずと云ふことは間違
 - 第41巻 p.144 -ページ画像 
つた話ではなからうか。されば仁義道徳は士太夫以上のものである、商工業家は仁義道徳は説く可からざるものであると、朱子は論じないかも知らぬが、若し徂徠の言の如くであるとしたならば、それは恰かも孔子様が奥の院に居られて、玄関番や取次の人が色々な妨げを云つて吾々がお近づきをすることが出来なかつたと云うて宜い。併し此玄関番や取次が凡て孔子様の真実なる趣意を吾々に伝へて呉れない人で――却て御主人を大事にしたかは知らぬが、御主人の意に反いて多数の人に間違つた取次ぎをして呉れたのである。さう云ふ邪魔者を排斥して、吾々が直接に行つて御辞儀をしたならば、却つて其深遠なることが極く卑近に解釈が出来たと斯う自分は思ふのである。
 此ことに就て始終さう云ふ愚説を述べて居る所から、私の七十の祝に友人が一つの画帳を拵らへて呉れた。其画帖に論語四冊と算盤一つ又シルクハツトの側に朱鞘の刀があると云ふ、甚だ不調和千万な画であるが、それを呉れた。是れは論語に揃はん《(算盤)》と云ふ画題で書いて呉れましたのです。或時三島中洲先生にそれをお目に掛けました所が、変なものだな、何うして斯麼な画があるのかと云はれるから、実は前来申上げたことを簡単に摘んで、斯かる趣意を以つて私は算盤を執つて居るつもりであると云ふことを話した所が、先生手を拍つて大いに喜ばれた。私は嘗て「義利合一論」と云ふものを書いた。丁度孟子の義を以て利とすると云ふ意味と同一で、真正の利は義でなければ出来ぬものであると云ふので書いた。そこでお前の論語は算盤論語で甚だ面白い、一つ説を書かう、殊に七十を祝する趣意で書かうと云ふので書いて下されました。其文章を此処で暗誦するまで熟読は致しませぬけれども蓋し其の趣意は前来申述べた所と余り違ひはないので、孔子の論語に十分算盤のあることを証拠立てる、又其算盤中に仁義道徳をも十分含蓄することを証拠立てられたのでございます。故に今此処に申上げることは唯私の一家言許りでなく、又私が深く尊敬して居る――今日の席にもござる三島先生も、論語と算盤を同一視して一つの御議論を下さつたのであります。更に進んで私は、甚だ此席で申上げるのは烏滸がましい申分でありますが、論語にばかり算盤がありはせぬ様に思ふ。私の見る所では大学にも算盤が沢山ある。是れも孔子の遺書と云ふのですから、蓋し今日孔子を祭る御方々の最も珍重されるものであらう、而して是れは大学とまで称へて居る。あの中にある格物、致知と云ふことは即ち一種の算盤であらうと思ふ。又其末の方に至つては生財有大道生之者衆、食之者寡、為之者疾、用之者舒則財恒足矣とある。今日の世の中は丁度其の反対に、之れを費やす者が衆くして之れを生ずる者が寡いから、或は財恒に足らずとなるかも知れぬが、兎も角も、大学の中にも尚算盤のあることを、爰に御紹介申して置きます。(孔子誕辰会講演)