デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.166-171(DK410053k) ページ画像

明治43年6月11日(1910年)

是日、上野公園韻松亭ニ於テ当会懇親会催サル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK410053k-0001)
第41巻 p.166 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年 (渋沢子爵家所蔵)
六月十一日 晴 暑
○上略 四時上野韻松亭ニ抵リ陽明学会懇親会ニ出席ス、近江人小林某氏ヨリ大塩中斎ノ暴挙ノ時、其門人宇津木氏気節談アリ、後一場ノ演説ヲ試ミ畢テ一同ト酒食ヲ共ニス、食スル者三十人許ナリ、夜十時王子ニ帰宿ス


陽明学 第二一号・第五四頁 明治四三年七月 懇親会(DK410053k-0002)
第41巻 p.166 ページ画像

陽明学 第二一号・第五四頁 明治四三年七月
○懇親会 六月十一日午後四時より、先月々次会の決議に基き、愈々上野韻松亭楼上に於て本会の懇親会を開く、主幹が簡単なる開会の辞畢りて小林正策氏が師弟の関係と云へる演題にて、大塩中斎と其高弟宇津木静区と及び岡田某と云へるものとの三子相関連せる事実談をなせしが、中斎当時の変に於て、静区か従容死に就きたる事などより説て、静区の弟子岡田氏が其当時を目撃せることより、後に至りて其が特に静区の墓に参拝せる状態は、現に小林氏も共に其人に従ひて実際親ら其事を目撃せしことゝて、其誠人を動し聴者は皆其時に接し其事を見るか如き感をなし悲壮淋漓たるものありき、此の小林氏は近江彦根の人にて静区とは同郷にてもあり、平生私淑の心深く、また其家は嘗て浅見綗斎の学を伝へた歴代学者の家にて、旧年より我会員となり居らるゝ人なり、之に続ひて渋沢男爵は起て、其の平生の持論たる道徳と実業の一致ならさるべからざることより、其か陽明の学に感服する所以と云ふより前に小林氏の述へし宇津木・岡田二氏の如き師弟の義に厚きこと今其の談を聞くも、猶能く頑廉懦立の慨あらしむるは、此皆全く其人か嘗て王学に因て養ひ得し結果なるべしと云ひ、遂に今日教育上師弟の関係不振に対し、一層王学の必要に満座諸君の同感たるへきを述へて壇を降り、此より宴に移り互に胸襟を開き歓談湧くが如く、遂に同九時散会せり、会衆には評議員渋沢男爵・渡辺・松尾・菊地三氏、主幹東氏、幹事亀谷・里見二氏、其の他有馬男爵・千坂貴族院議員を始め、博士・学士・実業家種々ありて、中には横浜より特に来りて列席せし人もありて、頗ふる盛況を呈したり


陽明学 第二五号・第三―七頁 明治四三年一一月 仁義道徳と事業功名 男爵 渋沢栄一(DK410053k-0003)
第41巻 p.166-170 ページ画像

陽明学 第二五号・第三―七頁 明治四三年一一月
    仁義道徳と事業功名
                    男爵 渋沢栄一
今日の御寄合に私は是れと申して良い説を諸君の尊聴に達することは
 - 第41巻 p.167 -ページ画像 
出来ませぬ、此の程東君から今日の懇親会には、暫く欠席したから是非出て来いとの御勧でありまして、随つて繰合はせませうと御答をしました、参上したならば何か一説を述べるやうにといふ御注文でございました、併し是と申す説もございませぬけれ共一言申述べませうと御請合をいたして置きましたから、此席に立ちまして暫時静聴を煩はします。
唯今小林君から、而も実事談であつて誠に睹るが如く大塩中斎の行動に関する御話を伺つて、諸君と共に当時の日本の師弟の間の友誼の厚いことは、小林君が繰返して御述べの如く慕はしいものと思ひます、唯々大塩といふ人の自信が強くて、仮令悪事にあれ決行したことは其事柄の道理に反して居るのは咎めませうが、其自信の強いといふことは、矢張り一に学説が然らしめたものと思はれます、之に反して宇津木静区氏の道理正しい方に自信力を強くして誠に奇麗な死を遂げましたのは、真に武士道と称賛すべき事のやうに思ひまする、又岡田氏の其師宇津木氏に対して友愛の情五十年にして聊かも渝らぬは、小林君の御話で覩るが如くである、私抔は矢張り古い学問に育てられて居りますから、今日の学問は余りに課目が多くして、大勢の弟子を一緒に寄せて教授するから殆と、師弟の間柄は悪く申すと何やら寄席に行つて講談師の話を聞いて帰ると云ふ様な有様で、誰が話が巧かつた、誰は下手だと品評する位に止つて、師弟の間は殆ど路傍の人の如き有様である、あの姿では到底人格の修養などゝ云ふ事は六つかしからう、智育は段々進んで行く、其精神の修養は甚だ欠けると云ふことは、今日の学問に対して誰も唱へまするが、是は其筈だ、此の如きは人格修養の方法が段々に絶えて仕舞ふのでは無いか、昔の師弟間の有様とは実に雲泥霄壌である、先頃も、私は日本橋の学校で教育会の演説に其事を申しました、彼の熊沢蕃山が中江藤樹先生に師として事へた時の有様はあの通りである、相当に学問も出来て居り乍ら、詰り精神の修養といふことが甚だ必要と考へたればこそ、二日も三日も師を慕つて食事もせずに其門に立ちて、遂に師弟の約を結んだといふ、何ぞその志の厚いことである、斯くあつてこそ真の儒と言ふことが出来るであらう、大塩氏と宇津木氏との師弟の関係も、今小林君の実事談を伺つて見ても、自分の思うたことが間違はぬと申して宜しい、是は諸君も多分御同感であらうと思ひます。
私が玆に一言申上げて見たいと思ふことは、元来王学は仁義道徳を修めることを主としてありますけれ共、其仁義道徳は事業を為しつゝ修めるものである、といふ事を主義として居られる様に私には考へられる、同じ支那の学者でも、宋末の閩洛の学派になると、聖人の道を狭く解釈して、功名とか富貴とかいふものは、仁義道徳は近寄り得られぬものだと言ひ、殊に甚しきは其心を虚無恬淡にするといふ迄に論じて居られる様である、之に反して王陽明の説は、仁義道徳が事業功名と倶に為し得られるやうに説いて居る様に思ひます、私共は学問を修めて仁義を行ふを、唯々悟道的の説の如くに言ふことは好みませぬ、故に此生産的事業を頻に努めますが、国を富すとか世を益するとかいふことは殆ど断念した如き者で無ければ仁義道徳は出来ぬといふは、
 - 第41巻 p.168 -ページ画像 
全く解釈が間違つて居る、仁義道徳に依つて国は益せられ、世も富まされる、真正なる富といふは仁義で無ければ出来ぬものだ、又真正の仁義といふものは道楽にはやれぬ、試みに論語を読で見ると、子貢が孔子に問うて如有博施於民。而能済衆。何如。可謂仁乎。子曰何事於仁。必也聖乎。尭舜其猶病諸とある、広く衆に施して能く民を救ふといふことは生産的の事を度外にするものでありませうか、国家の富強といふことは即ち広く衆に施して能く民を済ふのである、国家の富強が生産の事を除て出来るといふものならば、殆ど道理に掛らぬものである、宋朝の儒者は、此の如く学問と人間の生計を引離して仕舞つたから、孔子の道統の伝を継いだなどゝ申しますけれ共、私は孔子の為に或一部分からいふたら罪人と見て宜い位に思ふのであります、之に反して王陽明の説は、全く今日の事業に対して仁義道徳が附いて廻るやうに説かれてありますので、頗る敬服して居ります、但し私は学問も浅し、又時間もございませぬので、此学会に這入つては居りますけれ共屡々之を修め此説を研究するといふことは出来得ませぬ、是は甚だ残念千万でございますが、どうぞ東先生などに充分御攻究下すつて斯かる筋合のものだといふことを学会の雑誌で御示しを頂きたいと始終希望することでございます。
それに付て此頃不図福本誠といふ人の著はした、元禄快挙録といふ書籍の中に、山鹿素行の伝が在るのを見まして、自分の深く感じたことがあります、素行は所謂活学者と言ひ得るやうに見受けられます、其当時の世の中に用ゐられた有様を見ましても、福本氏の快挙録に斯う云ふ事がある、其富王侯に比して、何とかいふ大名が雨に会つた時に素行の家に傘を借りに遣つたら三百人の雨具を立処に調へて貸した、之を以ても平日の家の富貴の有様が知り得らるゝと書いてあります、三百人前の雨具を平日用意して居るといふことならば、それこそ富王侯に比すと言つても宜からうと思ふ、各諸侯から聘されて、而も充分な禄を出された様である、又浅野長直は始終師として事へた、是は決して大名が御慰みに先生を聘するといふ風でなしに、真実師弟の礼を執つて待遇したやうに見受けられます、而して其禄は千石を以て聘したのであるが、後に浅野家を去る時分に長直の言ふには、貴下の才を以て貴下の人格を以てしては一万石の俸禄を進げねば適応せぬ、然るに余程意気相投ずればこそ、此の如き小禄を以て私の家に居つて呉れたのを深く喜ぶ、と云うて別れを惜むだ言葉があります、素行は其後幕府から嫌疑を受けて、再び浅野家に預けになる時に、其嫌疑は何に依て起きたかといふと、軍学の先生といふ方から多少の疑を受けたであらうと思ひますが、福本の快挙録の説く処では、聖教要録の著述に依つて朱子学者から大層怨まれて、遂に嫌疑の人となつたとあります
此聖教要録といふは上・中・下として極く短い漢文で書いてありますが、私は未だ悉くは読んでは見ませぬが、誠に簡単な文章で章毎に要領を掲げてそれに対する註釈が極く短文に書いてあります、別に嫌疑を受ける程の過激の意味は書いて無い様に見えますが詰り此山鹿素行の論だ、処が其頃の朱子学に対して全く反対であつた、閩洛の学者の説の仁義道徳を虚無恬淡に説いて居るのは大なる間違いだと熱論した
 - 第41巻 p.169 -ページ画像 
と見える、其証拠は孔子が子貢の問に対して必也聖乎、尭舜其猶疾諸即ち広く衆に施して能く民を済ふといふことは孔子の本領として居つた、尤も以て重い点で容易く出来る訳で無い、蓋し孔子は政事を行はうと考へた人と見える、政治を行ふといふに道理正しく国を富し兵を強くするといふことで無ければ、決して充分な仁義は行へる訳で無いそれを引離して仁義道徳をいふことは、心を虚無恬淡にするのであるその如く理解して、さうして孔子の伝来だといふ朱子派の説は大なる間違ひだといふことを始終論じた、詰りそれらの意味を以て聖教要録で論じたのが、反対派から大に攻撃されるやうになつたのである。
其証拠は、素行の日記に突然北条安房守から差紙が来た、安房守の屋敷で御目付が立会つて御不審の筋があると言つて咎を申渡された、その申渡の後に、安房守が何ぞ家族にでも申置くことがあれば私の方から伝へてやらうといふことを親切に言つた、所が素行は之に答へて、イヤ今日の御召出は必ず斯くあらんと覚悟して居ましたから、予め後事を申付けて参つた故に何等申残すことはございませぬ、仰付けられることは何んでも謹んで命を奉じませうと言つた、それから鉄砲洲の浅野の屋敷に二日ばかり居つて赤穂へ送られたといふことが日記に書いてあります、その日記も矢張り元禄快挙録の山鹿の伝記の中に記載されて居ります、私は聖教要録のみならず其他素行の著述された書物の中にはさう云ふ論説が有るかも知れませぬが、それは私は未だ見出しませぬけれ共、聖教要録といふものは左様に他を攻撃する如き論法を以て充されては居らぬやうです、唯々専ら論じあるのは義利の合一といふことを主張して居りまして真正の利は義でなければ得られるものでは無い、唯々利丈けでは必ず不義に陥るといふことを始終論じて居る、所謂義を以て利とすと孟子が梁恵王に答へて居ります、私は能く調べても無し、充分に主張はいたしませぬけれ共、山鹿素行といふ人は或は王学を奉じたものでは無いかと思ふ処がある、是も東君に伺つて見たら、或は然らん乎、素行は王学に付て別に明記されては居らぬが、或は其学派が相似て居ると申しても宜からうかといふことを御答でござゐました。
それから私は更に申添へますのは、孔子の教は唯々仁義道徳ばかりで無く、生産殖益のことが強く論じてあつたといふことを考へるのでございます、其証拠は誠に歴然としてある、例へば大学の三綱領といふて大学之道在明明徳。在親民在止至善といふことがございます、次に古之欲明明徳天下者。先治其国。
云々 此致知格物というのは何かといふと、産業を興すとか富を増すとかいう事に相違ない、格物致知といふことは唯々良心丈けを研磨する外には無いと解釈してから、終に虚無恬淡になつたのでせうけれ共今の理化学などは取も直さず格物致知であらうと思ひます、凡そ人は自分の地位を進めて行かねば其時勢の宜しきを得ることは出来ぬ、其次は自分で世の中を利することを勉めねばいかぬ、さうすると此誠意とか正心といふことが致知格物と共に論じてある所を以ても、孔子の教は唯々空理でなかつた事が明瞭である、即ち大学に明文が示してあります、そこにも気が附かずに、無暗に孔子の教を事物に遠かるやう
 - 第41巻 p.170 -ページ画像 
にして、富とか殖利とかいふことは聖人は言ふべからざるものだと宋朝の学者が説いた、日本にもさう云ふ説を始終唱道した学者も見えますが、私は是は最大事と考へるのであります、我々商売人を孔子は誠に珍重した、我々の道徳は孔子の教に至つて近い、それを学者が中間に墻壁を築いたから、どうしても此墻壁を是非取除けて仕舞はねばならぬ、私は「実業家から見たる孔夫子」と云ふ説を、孔子祭典会の節に述べたことがありますが、大学を読んで見ても誠に明瞭に指示されて居る様に考へられる、私は致知在格物といふ文章が全く霊心的のことで、物質的のことでは無いといふ解説があるかも知れませぬが、私は正心と誠意といふ処丈げは霊心的のことでありますけれ共、致知格物といふは物質的のことである、即ち孔子は其心を正うして富を致すといふことを教へて置いたに相違ない、それを富貴を望むのは聖人の教で無い、仁義を守る者は富を称することは出来ぬと解釈すると、孔子の学問と云ふものは全く人道を無理に引離す様になる、私は常に言ふて居る、後世の学者が私共俗人と孔子の教とをひどく遠さける可く拵へたことの墻壁をば、我々取除けることを努め居ります、確かに此墻壁を取除けるものは、致知格物の解釈で足りると云つて居るのであります、私の平日申す説も山鹿素行の説を見まして大に信用を強めました、更に又大学の致知在格物といふことも、欲明明徳天下云々といふを見ても、孔子の教を虚無恬淡などゝ解したのは宋儒のあれ程の学者に不似合なることである、我々浅薄な商人にも劣つた解釈をしたと言ひたい、如何に富むとも仁義を守つて行くことは出来る、又如何に富貴であつても道徳を修めて行けることゝ自分は思ひます、之を陽明学会の諸君に御勧めいたします。(拍手)



〔参考〕竜門雑誌 第二七三号・第一四―一五頁 明治四四年二月 ○知行合一の要 青淵先生(DK410053k-0004)
第41巻 p.170-171 ページ画像

竜門雑誌 第二七三号・第一四―一五頁 明治四四年二月
    ○知行合一の要
                      青淵先生
 本篇は、一月廿一日報知社主催の実業懇話会の招聘に応じ、青淵先生が同会席上に於て述べられたる意見の概要なり
      ○渋沢男爵の演説
新聞社の主催せる恁る懇話会に陪席の栄を得たるは誠に満足する処なり、世の中が追々進歩するに従ひ、凡ての出来事を知悉する便宜は得るが、さて其知る事と行ふ事が全く一致するは却々容易の業でない、是れ則ち陽明学者の云ふ知行合一であるが、殊に実業の方面は広きに亘り知ると共に行ふ事が肝要であると同時に能く知らねばならぬ必要がある、新聞は凡ての出来事を先に知て社会に教へる事を任務とし、実業は知る事は遅いが之を実行する事に黽めねばならぬ、若し此両者間の合一を欠く時は所謂知行不合一となるのである、然し知ると行ふとの間に於ける新聞の影響は、或は行ひ難い事を報道せぬとも限らず又実業家側に於て力の足らぬ為め行ふ事の出来ぬ場合もあらうが、兎に角両者相互に疏通を図り警告を試むるは、是即ち知行を合一ならしむる順序なりと信す、然して実業家をして現在知ると行ふとの段階に於て目下の時事問題に付て一言せんに、日本実業界の進歩は決して単
 - 第41巻 p.171 -ページ画像 
独に発達したるものに非らず、他の刺戟に依りて進歩したるなり、例へば明治初年の実業は政治方面より誘導せられたるもので、則ち当時の為替とか商社とか云ふ者の頭取などは、所謂仰付けられて成立し、亦何時も政治家及び新聞紙等が、世の事実を且知り且教へて高処に導き、実業家も亦た高処に達せんとの信念を以て今日の程度に迄進歩せしめた様に思はれるが、日本の富力は尚頗る微弱なるに係らず、却て昔日に比較すれば足取りが幾分鈍くなり、小成に安んじたるやの傾向あり、大国民とか列強の伍伴に入りしとか云ふも、之れ只鉄砲玉の御蔭のみで、まだまだ実業界の前途は憂慮に堪へぬ事が多いのである、果して然らば本年は亥年故猪突を勧むると云ふ訳ではないが、知ると共に行ふ事と、又高き程度に達する様に進む感念を以て一層勇気を鼓舞せねばならぬと思ふ、日本の実業は最初政治界の誘道に依て成立し四十年来幾分か此弊風が脱却したかの様であつたが、未だ何となく政治上の力強く、何も彼も政府の力に依頼する如き昔日に逆戻りして所謂政府万能に傾く恐れあり、一面商工業家が小成に安んずる趨勢を示し、四十年間の事物は此に花の咲止りではあるまいかと心配するのである、吾々は平素分を守り謙譲を主とする旨を主張するが、是は一身を守る教訓にして、国家に対する観念は常に向上発展の勇気を沮喪してはならぬ事と信ず、吾人老たりと雖も、本年の亥年は国家の為め奮励突進を試むべき覚悟を有せり云々