デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.188-194(DK410059k) ページ画像

大正10年3月13日(1921年)

是日、当会春季大懇親会ヲ飛鳥山邸ニ開ク。栄一臨席シテ前後二回ニ亘リ所感ヲ述ベ、毎月一・二回、当会主幹東正堂ヲ講師トスル「王陽明全書」ノ講読会ヲ提唱ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK410059k-0001)
第41巻 p.188-189 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一〇年        (渋沢子爵家所蔵)
二月六日 快晴 寒
○上略 東敬治氏来リ陽明学雑誌刊行ノ事及本月中会員集合ノ事ニ付談話ス○下略
   ○中略。
三月七日 晴 寒
○上略 午後二時三菱会社ニ抵リ青木菊雄氏ニ面会シテ○中略陽明学会ノ事ヲ依頼ス○下略
三月八日 晴 寒
○上略 東敬治氏ヘ書状ヲ認メテ陽明学会ノ事ヲ通知ス○下略
   ○中略。
三月十三日 晴 寒
○上略 午後二時王子ニ帰宅、陽明学会総会ニ出席ス、来会者六・七十人会場ニテ本会雑誌刊行ニ付爾来添心尽力セシ次第ト、目下ノ志想界ニ
 - 第41巻 p.189 -ページ画像 
対シ本学ノ必要ナル理由ヲ経過報告ト共ニ一場ノ演説ヲ為ス、後、東正堂・遠藤隆吉・井上哲次郎等ノ諸博士熱心ナル講演アリ、畢テ晩香盧ニテ茶菓其他ノ饗応アリ、午後五時過散会○下略


集会日時通知表 大正一〇年(DK410059k-0002)
第41巻 p.189 ページ画像

集会日時通知表 大正一〇年        (渋沢子爵家所蔵)
三月十三日 午後二時 陽明学会ニ関スル御会合(飛鳥山邸)


陽明学 第一四一号・第四〇頁 大正一〇年三月 社告五件(DK410059k-0003)
第41巻 p.189 ページ画像

陽明学 第一四一号・第四〇頁 大正一〇年三月
    社告五件
(一)此迄陽明学会の会則としては。本会員を以て特別・協賛・賛助賛成・通常の五種と致し候処。爾来時勢上誌代の引揚げを余義なくせられたるよりして、賛成員は通常員との会費に於ける、何等の差別なきことゝなり。先月よりは更に渋沢子爵の考案より、賛助会の設立となり。賛助の名号混雑を来す恐れもこれあることゝなるが故を以て。今後は旧会則の一部分脩正を加へ、旧賛助員を改めて賛成と称し、而して賛助の称号は専ら今回設立の賛助会員のみを称する事と致し候間、全会諸子に御報告申上候。
(二)此迄前号社説にも申したる事情のため、会員の集合なども中絶仕居候処、此よりは時々会合も計り度、不取敢今三月十三日を以て渋沢子爵邸内に懇親大会を催す内定に御座候、最も此儀は御案内書を出する筈に候得共、御都合も可有之入御耳候。遠地の御方へは一一御案内も致兼候得ども、得御出会度、若も御思召も有之候得は、其趣同月九日までに御通知被下度候。
○下略


陽明学 第一四二号・第三〇頁 大正一〇年四月 社報(DK410059k-0004)
第41巻 p.189 ページ画像

陽明学 第一四二号・第三〇頁 大正一〇年四月
    社報
本会集会の事も近来久敷中絶と成り居候処、此度会勢中興の気運に際会せるより、珍敷も春季大懇親会を三月十三日を以て、東京市外飛鳥山渋沢子爵の邸内に開きたるが、先づ到着者は直に園門より後園に入り、暫時園内見物して居る中、振鈴を聞て其大広間に上り講筵となる
講了して又庭園に下りて園遊会となる順序にて、議事無滞会者極めて多く、共に胸襟を開き挙杯歓を尽し、相互に十二分の交情を結び得たり、講演は渋沢子爵は前後に二回も起立所感を述べられ、主幹正堂の外、遠藤博士・井上博士等の演説、共に筆記もある事なるも、それは追て後号に出すことに致し、先づ大略を此に陳す


陽明学 第一四三号・第一―三頁 大正一〇年五月 三月十三日大会講演筆記の一 子爵渋沢栄一(DK410059k-0005)
第41巻 p.189-192 ページ画像

陽明学 第一四三号・第一―三頁 大正一〇年五月
    三月十三日大会講演筆記の一
                   子爵 渋沢栄一
陽明学会の大会が今日拙宅に於て開かれるに就きましては、私は最も喜んで御受けを致したのでございます、此学会の今日に及ぶまでは頗る歳月は経過しましたけれども、斯る古風な事柄は社会一般に兎角喜で受けて呉れぬものでございますから、事に当る諸君の丹精の割には
 - 第41巻 p.190 -ページ画像 
発展せぬ嫌があつて、私共古るい学説を好む者は甚だ残念に思ふて居るのでございます、此学会の創立以来、私は東正堂君とは御懇親に致しまして、私が陽明学に何等関係して居るでもなく又研究も致して居らぬのでございますけれども、其趣意は厚く尊重致して之れに依つて世に立ち事を処したいと云ふ念慮は甚だ強いのでございまして、為に引続いて陽明学雑誌を通読致して居り、又東君其他斯界の有力なる諸君と始終交際を致して居りますが、唯だ恐るゝ所は世間の新奇を好む人々からは甚だ尊重されぬと同時に、雑誌の発行部数も矢張少いやうな憾みがございまして、昨年の暮から正堂君・奥宮君等と屡々御会話致し何か手段が無からうかと云ふことから、先月の雑誌に其協議の次第が記載してあります通り種々御相談致した結果、従来の会員中に於て特に賛助員を造りまして、年限を以て相当の出資を願うことにして而して陽明学雑誌を今までの通りと云ふよりは更に幾分拡張するやうに致したいと議定したのであります、故に此雑誌にも記載されて出て居る要旨は、今日御集りの諸君は御覧下すつたであらうと思ひますが愈よ斯様に基礎が立つたに就ては、願くは今回を中興紀元として臨時総会を開きたいと云ふ正堂君の御希望から、私の宅で間に合うならば何の設備もないけれども、季節も良いから散歩旁々諸君の御集会を乞ふと云ふことで、即ち今日御会合を願ひましたのであります、但し私としては折角諸君の御集会に何等取設けもございませず甚だ恐縮でありますが、併し向後諸君の御尽力によりて御愛読なさる陽明学雑誌が益々発展して行く曙光を認めましただけは私の深く満足し御来会の諸君も御喜び下さるであらうと思ふのであります、蓋し斯様なる地味な学説は、決して目下欧米より伝来する突飛なる新説のやうに、青年客気の人々が珍重することでないのは時勢の然らしむる処でございますから、一般の流行は望みませぬけれども、併し左様な新奇の説のみに依つて、斯る真摯質実なる学説が段々世の中を引退くやうになることは、吾々が大に注意して其輓回に努むるのが、即ち正道を重んずる御同様の務めであらうと思ひます、果して然らば此陽明学雑誌の爰に再興の端緒を開きましたことは、私が多少微力を致して自己の誉を吹聴するやうでありますが、決して無用な骨折ではなからう、否諸君大に喜んで御賛成下さるだらうと思ひます、今日私の申上げますことは是だけでございますけれども、私が此計画に対して玆に自説を述べますのは決して老人になつたからではない、青年の時から孔孟の学問には興味を持ちまして、勿論研究が届いて居るなどゝ云ふではございませぬけれども、幾分の理解はある積りでございます、而して陽明学に対しても、正堂君と御交際以来多少知り得たのであります、私は元来朱子学を主と致しましたが、其性理の説には多少疑ひを持つて居りました、又陽明の説も勿論委しい書物は見ぬけれども、所謂知行合一とか致良知とか云ふことは、此の短かい言葉で殆ど孔孟の真理が言ひ尽されたやうに感ずるのであります、宋朝学者の説は余り理論に拘泥して実際に注目せぬ嫌ひがある、詰り唯だ空理を論じて実用を余所にする之に引換へて、陽明の学問は、学ぶと行ふとを一致させるのであるから、吾々実業に処する者には最も効果を得るだらうと正堂君にも御話
 - 第41巻 p.191 -ページ画像 
したことがあります、それに就て私は諸君に申上げて見たいと思ふのは、従来孔孟の教へとして種々なる学説がありますけれども、約めて申せば仁義道徳を高調にするのである、而して此仁義道徳を高調にすると云ふに付いての宋朝学者の説は、唯理論にのみ傾いて実行に伴はぬ嫌ひがあるやうに思ふ、元来孔孟の学問は理論のみを説くのでなく切実に其実行を努めたのである、周末の社会が孔孟の正しい教旨を理解せず、当時の諸侯も完全に応用しなかつた為に、拠なく孔夫子は六十八歳の時に魯に帰つて、遂に学問に依つて教を遺すことを勉められたやうに見受けられます、即ち孔夫子は実行の人であつて理論の人ではないのであります、然るに宋代の学者は其処に眼が着かないのではないかと私は思ふのであります、蓋し仁義道徳を高調して且つ実地に之を行ふたのは、即ち尭舜禹湯文武である、此等の先生は理論と実行とが其位地からして伴ひ得たのである、孔夫子は其位がないから仁義道徳を事実にして行ふことが出来ぬ、殊更宋代の学者となると理論を言ふのみであつたから事実と理論とが疎隔したのであります、此事に就て私は浅薄なる研究であるが能く道破したのは、唐の韓退之の原道に短かい言葉で言つてある、但し此原道は諸君御承知の通り大文章で後世の学者の喜ぶものであります、即ち「博愛之謂仁。行而宜之。之謂義。由是而之焉。之謂道。足乎己無待於外。之謂徳。」云々と其冒頭に仁義道徳を説明してあります、又孔孟教と楊朱墨翟又は仏老とか其他種々なる異説をも分析的に詳論して、其末に「由周公而上。上而為君。故其言行。由周公而下。下而為臣。故其説長。」と斯う書いてある、丁度尭舜禹湯文武は、自分の道理と行ひとが一致して居る、孔孟は其位置がないから、完全な行でないと言い現はしてあります、但し此解釈は私の素人理会で違うかも知れませぬけれ共、私は又此仁義道徳と云ふものは、唯だ国を治め天下を平らかにするのみに在るものではない、身を修め家を斉ふにもあるもので、荻生徂徠の所謂士大夫以上のみのものではない、農工商にも行ひ得る、更に広く論ずれば車夫馬丁にも仁義道徳は無ければならぬものである、故に此仁義道徳と経済とは全く一致すべきものであつて、経済を離れて道徳なく、道徳の伴はない経済は永久に維持するものでないと常に心に記して居ります、此私の見解に付ては、先刻も諸君と別席で御談話しましたが、先年三島中洲翁の学者の見地と私が実際家の資格で屡々論議した事があります、結局論語と算盤と云ふものが出来ました、其言葉の当否は兎も角も趣意は今申上げる通り事実と理論とが一致でなけければならぬものだ、行ふ事は知らねばならぬ、知つたら必ず行ふと云ふのである、此考は実に陽明学の主義と一致するであらうと思ふのであります、私の仁義道徳と経済とを一致すべしと云ふ事が、幸ひにも陽明学と其趣意を一にするならば、私が仮令其研究が浅薄であつても或は多少得る所があると申上げて宜いと思ひます、而して私は老衰しましたけれども、今日正堂君に御願ひ致したいことがあります、それは昨年の冬支那の人から王陽明全集を貰ひました、大部のもので、浅学なる私には白文は読めませぬ、縦令句読が附いても処々難解の処があるだらうと思ひます、故に正堂君に御依頼して既に句読を附けて戴きましたから、過日大磯に
 - 第41巻 p.192 -ページ画像 
転地の時に一二冊持つて参つて読んで見ましたが、未だ満足に読み得られませぬ、是から時を得て毎月一回二回是非会読と申しては失礼でありますが、御教授を請ひたいと思ひます、時に御望みの方があつたならば、時々御会合を得るならば更に面白いと思ひます、餅を貰つて砂糖を隣りに所望するやうな仕方でありますが、私自身が独力で賞味することが出来ぬから、終に正堂君を労するのであります、数月を経て大いに学び得ましたならば、陽明全集中から陽明学の骨髄は此点である、陽明先生の功績は斯様うであると云ふことを諸君に御話することも出来ませうが、是は学んだ上でなければ分りませぬ、併し私の前に申上げたことは、浅薄ながら既に学むだより得たのであるから、之を更に学むだならば或はもつとゑらい事を申上げるかも知れぬのであります、今日諸君の尊来を謝すると共に、私の平素の愚見でも諸君の御面前で申上げて置くのであります。
   ○講演筆記其二以下略ス。


陽明学 第一五〇号・第一―二頁 大正一一年一月 陽明学大会講演筆記(DK410059k-0006)
第41巻 p.192-193 ページ画像

陽明学 第一五〇号・第一―二頁 大正一一年一月
    陽明学大会講演筆記
 (編者曰く、右筆記は先般渋沢子爵の講演にして、昨年中に出す筈の処種々事情に紛れ漸く今号に出すことゝなりました、読者諒之)
今日は陽明学会の大会を私方に御開きに相成ましたは、私に於て最も愉快に感じました。東氏は思想問題の混乱の際に陽明学を興すは殊に必要であらうと云ふことを御述べになりましたが、私共も最も御同論であります。それが私共が余り学者たらざるに拘らず、どうぞ此陽明学会の雑誌の成るたけ発展するやうにと云ふ所以であります。又遠藤博士は陽明学の要点を三段に分けて委しく御説明を伺ひまして、悉くを記憶致しませぬが学者としての御研究成程左様であると啓発を得たのであります。更に末段に又井上博士の或は印度の若くは欧羅巴の総ての宗教哲学を網羅して、此陽明学と密著して御述べ下すつたことは如何にも該博な御説明で、唯だ私の学問の足らぬ所から残らず伺ひ取ることの出来ぬのは遺憾に存じますが。先刻も申上げました通り、此陽明全集はもう皆様も大抵御承知でもございませうが私が自分で知らないから大層らしく申上げる(此時には子爵は一帙の陽明先生全集を手にして)が、昨年の冬支那の人から貰ひました、唐本で小さい字ではございませぬがなかなか沢山の紙数がございます、まだ一向私は読んで見ませぬが、今日此会があるので年譜を少し許り読んで見ました陽明の年譜を見ると十四箇月で生れたと云ふ、それから五つまで一向物が言へない洵に詰らぬ人であつた、名を附け換へたらば大層豪らくなつたと云ふことが書いてありますが、是等は少し或は信ぜられんかと思ひます。段々十から十一、十七八、三十までの年譜を見ると、それはまた疑ふべくもあらず、なかなか豪らいものになつてをります。
先生の家系は例の王羲之から引いて居りまして御父さんは竜山公と言つた、なかなか面白い歴史があります。是等は皆陽明先生の年譜中にあるのでありますが、此の外色々有益の事は沢山あるので、前きに東君の言の塞源抜本論も此の中に在ると思ひます、どうせ十分に行きま
 - 第41巻 p.193 -ページ画像 
せぬが、併し私は之を素読してもそれで已に沢山に益すると思つて居ります、或其場合には此中の面白いものを或は解剖して、東君から其本文の意味を御話して戴くことも宜いかも知れぬ、或は例の陽明学会雑誌に追々面白い事を出して戴くと云ふことは大に吾々益することではないか、私にしては固り益して諸君にも定めて利益になる事と思ひますから、さう云ふ事をも御望みして居るのであります(是れによりて爾来雑誌中に陽明先生全集の論考を出す事となる)、蓋し此書物を初めて得たから喋々しく申すので、皆様は大抵は已に御承知であるかは知らんが、是から先きの雑誌に時々伝習録許りでなしに、陽明全集中から或る必要な事を東君から書いて戴くことは、御互に大に益することではなからうかと思ひますので幸ひ其事を此の機会に申上げて置きます。蓋し雑誌は段々に興味を増すものが発刊されるだらうと思ひますから、先刻も唯だ特別の賛助員許りでなしに、追々には一般に広く会員を増すやうに皆さんに御申合せを願ひたいと云ふことを東君からも申したので、私がまた附加へて置きますが、蓋し陽明学を進めるにはどうしても多数の同情を得るが必要であります。何分此上共に御一人で三人宛の会員を得ても、直ぐに数百人の会員を得ることは論を俟たんことでありますで、此節柄必要なる学問を成るたけ拡張致したいと思ひます、左様御承知を願ひたいと思ひます。何の取設けもございませんが唯だ粗末な茶菓が備へてございますから、どうぞ彼方らの方で御緩りと晩餐後に余談のあることを願ひます。


陽明学 第一四六号・第三四頁 大正一〇年八月 社告(DK410059k-0007)
第41巻 p.193-194 ページ画像

陽明学 第一四六号・第三四頁 大正一〇年八月
    社告
先般渋沢邸に開たる大会に端緒を発し漸次月次講演会をも相開度存候処、会場に適当の所無之かため及延引候漸く先七月十七日を以て東京築地本願寺に於て始めて一会を致し候。○中略猶会員中には講演丈にては少々物不足様に被存候方々も有之哉に承り候、さすれば此後は最初の時間を座談と致度候も如何可有之哉。講演会場としては、東洋大学も二松学舎も共に義侠的御同情を以て開放使用を許され候趣も有之候得ば、此は其各処に開くも宜敷様被存候。座談の方に於ては、先般大会にても渋沢子爵の御説の如く、陽明先生全書の会読と云ふも始まり可申、其場所は日本橋区兜町(渋沢事務所)かと内定致し候得ども、猶未だ其日が定らざるのみ、顧ふに子爵は八十有余の老齢を忘れ、世事多忙の身を以て、陽明全書の研究を思立たれ、已に昨年内に於て本会主幹に乞ふて其全書に訓点をせしめられて猶足らず、遂に其の会読を希望せらるゝは感服之至なれども、其開会の日は或は猶少々の延引は免るまじくと存候、因て座談を望まるゝ御方は已に先月より本会事務所に於ても陽明全書の講義あり主幹の講義はさしたる発明も無之候得ども座談の機会を求むるに寧ろ便也。陽明の学に徹底するには全書に拠らざる可からず、陽明の事変に臨たる精細行事は、全く其の奏疏公移に備るものにして全書に非れば知るに由なく、而して全書中にも此れはまた中々難読のものなり。今日たゞたゞ陽明々々と世の流行を追ふての致良知とか知行合一とかの言を唱へて大ざつぱに噪いて満足するも
 - 第41巻 p.194 -ページ画像 
のは我不知、苟も真実に其の陽明を研究して先生妙用の機を得んとするには、同志諸君の必らずや如何にもして其の全書を読破するの御功夫ありたくと存候。猶今日本会をして、より以上の意義ある有益のものたらしむるには御意見も可会御座承度候。