デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
8款 陽明学会
■綱文

第41巻 p.237-247(DK410063k) ページ画像

昭和2年9月10日(1927年)

是日栄一、渋沢事務所ニ開カレタル当会陽明全書講読会ニ出席シ、桃井可堂ニ就キ談話ヲナス。尚右講読ハ翌三年五月ニ至ル迄概ネ毎月開催セラル。


■資料

集会日時通知表 昭和二年(DK410063k-0001)
第41巻 p.237 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
九月十日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)


陽明学 第一九六号・第一―三頁 昭和三年四月 桃井可堂氏に就て(陽明全書講読会席上にて渋沢青淵翁の談話筆記)(DK410063k-0002)
第41巻 p.237-240 ページ画像

陽明学 第一九六号・第一―三頁 昭和三年四月
    桃井可堂氏に就て
      (陽明全書講読会席上にて渋沢青淵翁の談話筆記)
 此日(昭和二年九月十日)山田準氏は先づ暑休中大迫大将を訪問せ
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る談話を半時間余話されたるが、其談話中に大将の問として陽明学は危険云々の評があるとの件に就き、山田氏は危険にあらず、仕損じ行り過ぎとでも言ふべきかなど言へるに、列座の秋月左都夫老は危険とは如何なる場合を言ふやとの談を提起し来り、大塩中斎や佐倉宗五郎の話に及びたる際、青淵翁は座に入り来り以上の話を聞き本日は桃井可雄の葬式に赴く筈だが其祖父の桃井可堂の行事なども参考になるべきかとて、自分の年少時代の思想を取合せて左の如き談話を試みらる。
 桃井可堂と云ふ人は幕府を倒さうと企てた、其れが憤慨してゞはない、是非之を倒さなければならぬと云ふ考の人でありました。私は埼玉県の血洗島と云ふ処で成長したが、此人は僅か距つた阿賀野村と云ふ処で成長した。而して彼は学者になると云ふので一時同村の或家へ婿に行つたが、其妻から何でも好い待遇をされなかつたとかいふ忿懣もあつたのでせう、其家を去つて江戸へ出て東条文蔵(一堂)に就て学んで、後に桃井可堂として一通りの学者になつたのであります。此人が丁度今申す万延頃から文久の初め倒幕の考を起したのですが、或は今少し早く安政頃からでございませうか、其起りは能く分りませぬが、丁度江戸から故郷へ帰つて其企の為に大に奔走をしました、私共も其時分に桃井とは全く別に倒幕の挙をしようと云ふやうな考を持つて居つた。敢て陽明学をした訳ではなかつたのですけれども、どうももう直接行動でなくては駄目だ、唯々理窟を言つて居る位では迚も天下はどうする訳にもいかぬ、こちらで奮へば京都が動くに違ひない。京都が動けば幕府に変化が出来ると考へて、そこで倒幕の一軍を起さうと云ふ考を持つたのです。所が桃井も丁度故郷に帰つて其企を進め彼は吾々の仲間を合同してやらうと云ふ考を持つたのです。それで私共の首頭に立つた尾高惇忠と云ふ人に内々話があつた、此の尾高は先づ吾々仲間の中心に立つて色々の相談に応じた人であります。当時私は二十四で尾高は私より十歳上であるから三十四であつた。併し今の桃井の方からの相談に就ては吾々が協議をして到頭応じなかつた。詰り一緒になることは止めようと云ふことであつた。其止めようと云ふ理由は私も能く其の時の事を覚えて居るが、第一に先方は首脳に頼む人を名門から入れようと云ふ考があつた。其れは岩松万次郎と云ふ人である、之を首脳にしようと云ふ桃井の方の考であつた。所が我々の方では是はそれは甚だ危い。其人が果してそれだけの気力があるや否や、若しさうでないと唯々名門に囚はれて却て事が破れる虞がある、況や先方の連中は皆学問的の人で腕力の無い方の人であつた。直接行動に向つてはお前先に出ろと言うて後へ退く流の人であつた。吾々は相当に撃剣もやつて腕つ節の強い人間が多かつた、使はれるのが厭ではないがさう云ふ仲間と俄に一致して暴挙を企てると云ふ事は、悪くすると行り損ふから賛同せぬが宜からう。是は尾高を首め私共幹部の内密の協議で、桃井とは一緒にならずに済んだ。併し目的は同じである。倒幕と言うても唯々倒幕ではない、攘夷を主義とした倒幕である幕府が攘夷をせぬから幕府を倒すと云ふのである。丁度京都では三条さんが学習院などを拵へて長州が頻に跋扈して居る際であるから、少
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くもかの所謂高倉宮の令旨が来るであらうと思つた。それこそ大塔宮の尊氏追討の如き倒幕勢で、悪く言へば極端である。少し大塩と似たやうな考であつたかも知れませぬ。
 其れから桃井は吾々が一緒にやらぬから、自分等同志でやらうとした。所が首脳に頼んだ岩松万次郎即ち新田万次郎と云ふ人が、初めは同意して居つたが、いよいよと云ふ時になつて躊躇した。躊躇したものだから少し曝露しかゝつた。そこで事の起りは桃井であるから、桃井は自分で川越藩に訴へて出まして、到頭それが為に自分が総ての罪を引受けて、自分一人で暴挙を図つたと云ふ罪科を受けた。さうして何とか云ふ藩に預けられて居る中に食はずして死んだ。随分可哀想な話です。併し私共は仲間にならずに色々計画して居る中に、吾々の方から京都に出して置いた一人が――今お話申上げたのは文久三年の八九月頃の話であります――丁度十月の末に帰つて来まして、京都の実際を見た眼から頗る反対した。其の主意は、我々の計画は義挙でも何でもない。真の暴挙で、大塩よりも悪い。殆ど一揆と同じやうなものである。況や此八月の十八日に薩摩と会津とが一致した為に、京都の形勢は一変したのであるが、さう云ふことをお前方は詳しく知らぬのだと言ふのであつた。成程其時分にはさう云ふ事は吾々埼玉県の田舎には一月や二月では分りませぬ、そこで始めて形勢の変つた有様を聞いて、吾々は倒幕の計画を止めた。其後です、桃井の方は段々曝露してあゝ云ふ始末になつたのです。
  ○以下問答
山田 桃井さんの学風は如何いふ風の学流でありましたか
渋沢子 それは朱子学でせう。陽明学ではなかつたやうです。彼の師東条文蔵と云ふ人はどんな学派であつたか、矢張折衷学位でせう。桃井は自身が悪事をしたことが悪うござると訴へ出て、他の人の事は言はずに、遂に何とか云ふ藩に預けられて居る中に、食事を絶つて死にました。惜しい事をしました。
秋月 大橋訥庵の事件との関係は如何ですか。
渋沢子 我々も安藤を殺さうと思つたのだが、今考へて見ると、安藤が亜米利加と接触したのは寧ろ宜かつたので、安藤を殺さうと思つたのは間違つて居つたのです。併し当時は実に悪い評判がありましてね。堀織部正などは安藤が自分の妾を外国人に贈つたのを憤つて自殺したのだなどゝ云ふ噂があつた。其やうな卑劣極まる仕方をするからどうしても生かして置けぬと云ふやうな議論で、丁度今お話した京都から帰つて来て私共の暴挙を止めた尾高長七郎と云ふのが其前年に大橋に奨められて坂下へ出ようとした。其時私共は不同意で止めた。さうしてそれよりももう少し大事をしようと云ふのが今お話したやうな企となつたのです。それにしても京都の模様を伺つた後でやらうといふ事になつたのです。其時には吾々の仲間では中中力ある者があつた。もう皆死にましたが、撃剣家の千葉の塾に居つた真田範之助・佐藤継助・竹内錬太郎・横川勇太郎などゝ云ふのが居りました。それから海保漁村の塾生で中村三平、それに吾々、皆腕つ節の強い方で、一人々々なら必ず勝てるやうな連中許りであ
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るから、何所かの藩を非道い目に遭はして、兵を率ゐて横浜へ出掛けようと云ふやうな考であつた。それを尾高長七郎が切に止めまして、到頭それで其事は止んだ。所が桃井の方は止めずに愚図々々して居つたものだから、段々曝露しかかつたので。桃井は自ら罪に服して、さうして他の連累を免れしめたと云ふ訳なので、一面から言へば立派な人でありました。今日は其人の孫の葬式に行く矢さきに斯んな話をする都合になつたのは、如何にも不思議であります。


集会日時通知表 昭和二年(DK410063k-0003)
第41巻 p.240 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年       (渋沢子爵家所蔵)
十月八日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)


陽明学 第一九四号・第六―九頁 昭和二年一二月 陽明全書講読会年譜講義(承前) 正堂講義(DK410063k-0004)
第41巻 p.240-242 ページ画像

陽明学 第一九四号・第六―九頁 昭和二年一二月
    陽明全書講読会年譜講義(承前)
                      正堂講義
      (九月十日第二土曜 十月九日第二土曜《(八カ)》 共に麹町区永楽町一ノ仲二十八号館渋沢事務所に於て)
十一月返江西云々。
 先生初称病欲堅臥云々とは。先生の江西事件に遭逢せしは、実に先生に於るの最大難関に出合されたる訳にて。而も事社稷の存亡に係るものなるがゆへ、臣子の義として、推委苟免しておる訳にもならぬことなり。因て先生も赤身体当、死生禍福を度外に措て、其事に臨まれたるも。出来得る限りは初より引退閑地に就き度は、固り亦其人情である。が今宸濠を破滅致し、先生は其献俘として已にこれが引渡をも済せられ。且つ種々讒構沸湯も正に盛なる折柄、臥病勇退の好時機とせしなるべきも。武宗の猶南巡して未だ帰京に決せずそれに、群奸が其左右に伴随して武宗の身辺も憂慮すべく其間万一の事変も図られざることの見へては。堅臥もならず。因て往ちに京口より寧ろ天子の行在所に趨りて、何とか計る所あらんとせられたるに似たり。然るに已に楊一清の固く其行を止むるに逢ひ、先生は恰も其進退に苦しみおらるゝに際し、朝廷よりも再び江西に帰るよふ江西に巡撫を命ぜられたるがため、遂に湖口より江西省方に帰るに決せられしものであるが。此の先生の径に行在に趨りて何事をなさんと思われたるも、而して一清の固く其事を阻止せるも、其意果して如何ん。一清は正に大学士として当時朝廷の内閣に居るものなるも、此れは嘗て先生先考竜山公の墓誌銘をも書きたるものなれば別人の如き悪意で之を止めたでは必らずあるまい。後の条に、江彬将不利於先生。先生私計彬有地。即計執彬武宗前。とあるが。是れどもか、若しも先生にして径に行在に至りて、江彬を武宗の前に執へて死を於て其罪を訴んとせる事にもあれば、無謀の極である。一清の固く止むるが至当であるが。先生が仮りにもそんな軽挙を思附かれる人でもない。或は先生は無聊煩悶の余、且つは此を以て彬等を恐嚇して其奸心を挫かれたる事にもあるか。凡そ此等の事、猶後学我等の宜しく深く其事情を察して、以て先生心法の微を知らねばならぬ所である。○忠等方挟宸濠捜羅百出と云ふは、先生は已に捕
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虜たる宸濠などは張永の手に引渡をしておらるゝ上は、最早武宗親征の必要もなく、忠等の兵卒を引率せるものゝ来省も無用たる明白となるも。忠等は猶宸濠の余党も捜索せねばならぬとの口実を以て遂に推して来省をなし。其捜索口実の下に、却て其何罪もなき良民を誣ひて、濠の余類となし、または多くの兵糧を徴発するなど、捜羅百出は。蓋し彼其行為は、全く虚妄の托言を以て而して其実其意は寧ろ此に因て禍乱を生ぜしめて、且つは以て先生を窮地に陥入れて以、国事を誤らしめんとするに在るものにして。先生の其間に処する、上は以て国を憂ひ、下は以て民を憐み、激せず、屈せず、堅忍委蛇として、よくよく其難を済せしは苦心極まるものである。一書に此時の事を記するありて云ふ、張忠許泰等は大に先生を咎めて曰く。元来寧府の富厚は天下第一なりしと聞く、然るに今何等の余財なき事にしておるは如何にと。闇に先生が隠蔽しおるには非るかを詰るものゝ如かりき。先生曰く、寧王従前より其財を挙げて悉く之を京師に輸送して、党類をこしらへ、内応をなさしむるがために天子の左右、或は諸要人などへは、之を贈賄とせるなり。今現に其帳簿の籍に記し明白なれば、何時とも一々に其人を調べる事も出来るのであると。忠泰等も此れには其心中大に惧《おそれ》をなし、此より敢て再び言はぬ事となりしとあり。又一書に云ふ。先生が寧王を破りてより遂に寧府に入り宮室の一切を掃除せし時に、朝士の寧王と通ずる私書も沢山ありしが。先生は皆之を焚棄して曰く。反側子をして安心せしむと。而して、今忠等に答ふるに反側子たるものの証拠物は、ちんと手本に所持しおらるゝものゝ如し。此併し、先生の妙用手段。其実其証拠は当時焚棄せしものを以て、今猶手に在が如くに見せて以て忠等の心を威したが。又は当時の焚棄と云ふのが、一種反側子を安心せしむるの仮設計略にして、而も其実万一後日の用にもと其真なるものは窃に人知らず保存しおられしものかならんか、年譜中此二事は必らず並録して後学の研究に供したきものである。○先生の始欲犒賞北軍。泰等密禁勿受と云には。陳幾亭の評語に曰く、欲犒則徳在我。禁受則怨有帰。と、此が実に破的でよく当りてをる。○又按るに忠泰江彬などに対せらるゝの態度を見るに。彼等は如何に横逆を加ふとも、先生は益々礼を厚ふし、遂に彼等を屈して班軍をせしむるに至らしめておらるゝ所は。丁度伝習録下巻に、尚書烝々不格姦とあるを以て、舜の心を説き出し、舜の瞽瞍を化して善人たらしむるに至るは、全く其奸を格《たゞ》さずして舜は唯自ら尽したるの所にあるとの説である。然れば聖舜の心は、先生自身行得てそれを知られたるものである。凡そ此皆先生学問自得の処。孟子離婁篇に云。有人於此。其待我以横逆則君子必自反也。として其幾度も唯々自反を重ねて最後に、其横逆由是也。君子曰。此亦妄人也已矣。如此則与禽獣奚択哉。於禽獣又何難焉とあるを。往時池田草庵先生が、此は孟子の語で、我等が異議を言ふてはすまぬなれども。其最後の於禽獣又何難せんとあるは、我等がどふも了解出来ぬ事である。そこが孟子の未だ英気あるを免れざる所ではあるまいかと、語られた。と云ふ事を、予は予が先人より嘗て聞きたるが、蓋し草
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庵先生は此の陽明王子の意より、此説を得られたものであらふ。
十五年庚辰。先生四十九歳
 二月赴召次蕪湖。尋得旨返江西云々。先生は前年に献俘として上京途中に止められ、遂に権宜の処置を取り、献俘は張永に引渡して取次せしむる事となり、次で江西に返られたるは。勅命にもよるが、忠泰等が宸濠の余党捜索などに口実を仮り、多兵を引率して乗込み種々擾乱を計るによるも。今已に其軍兵も引挙げて後なるに、猶又赴召の事あるかは、忠泰の讒による。忠泰等は頻りに先きに横暴を先生に加へ地方を擾乱せんとして得ず。此時先生は猶盛に練兵の事などして居らるゝを以て、因て又之を口実に先生を讒して叛志あるものとなして云ふ彼を召せば必らず至らずと、此を証として讒せしものなるが故先生直ち至る。因て忠泰の讒亦成らぬ事となり、返江西の勅命が出たのである。此時忠泰が矯命に出たる事も多々ありて直偽錯出。勅命としても一々信用もならず。此に対する先生の進退応否を誤られざるを得しは、張永の武宗の下群姦中に居て時々先生に忠泰等の奸詐の事状武宗の真意などを通知せしによる。故に先生は当時の成功は一は上に王晋渓の先生に同情至極せると、二は張永擁護との功による。因て此等の所より先生の作用を窺ひ来りて、王竜渓などは中宦論の著もありしと聞く。而して後来張居正の中宦馮保と相結托して、彼丈の事をなしたるは、稍々非難の点もなきにしあらざるも。兎も角王張諸子は必らず此の先生の行事に観て、省悟せしものなるべし。○此時若有一孔可以窃父而逃吾亦終身長往不悔云々の言は、先生が孟子中より取りて其の言をせられたるものにして、特に其理の当然を言いしものである。而して事実難成の事情に在る今日果して此期に臨めば先生之を如何にせるか我等は更に研究する所あるべし。○江彬将不利於先生云々、此事は前にも謂ひし如く先生が江彬を以て武宗の面に執へて論責せんとせるは寧ろ危険千万である。然ども江彬は忠泰同腹の奸人にして其人物より推測して先生の深憂ありし事知るべし。馮夢竜の智嚢に一条ありて云ふ。武宗南巡。当弥留之際。楊石斎廷和已定計擒江彬。然彬所領辺兵数千人、為彬之爪牙。皆勁卒也。恐其倉卒為変。計無所出。因謀之王晋渓。晋渓曰当録其扈従南巡之功。令至通州聴賞。于是。辺兵尽出。彬遂成擒。と、此に視ると、当日切迫の事情も亦略察せらるものが大にある。○先生此時の題詩、東林、天地、講経台諸詩。大抵今先生集中に皆現存し居るも、唯游白鹿洞歌なし。而して此詩は別に先生真蹟として伝ふるものあれば、左に録す。
 (猶本誌巻首を参照すべし)
      游白鹿洞歌           陽明先生作
 何年白鹿洞。正傍五老峰。五老去天不盈尺。俯窺人世煙雲重。我欲攬秀色。一々青芙蓉。挙手石扇開半掩。緑髪玉女如相逢。風雷隠々万壑潟。馮崖倚樹聞清鐘。洞門之百丈松。千株化尽為蒼竜。駕蒼竜騎白鹿。泉堪飲。芝可服。何人肯入空山宿。空山空山。即我屋。一巻黄庭石上読。

 - 第41巻 p.243 -ページ画像 

集会日時通知表 昭和二年(DK410063k-0005)
第41巻 p.243 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月廿六日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)
   ○中略。
十二月 十日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)


陽明学 第一九五号・第一六―一九頁 昭和三年二月 陽明全書講読会年譜講義(承前)(DK410063k-0006)
第41巻 p.243-245 ページ画像

陽明学 第一九五号・第一六―一九頁 昭和三年二月
    陽明全書講読会年譜講義(承前)
      十一月二十六日第四土曜 十二月十日第二土曜 麹町区一ノ仲二十八号館渋沢事務所開会《(永楽町脱)》
                      正堂講義
是月還南昌 是迄は京師には武宗の帰られなく、宸濠も捕はれてをるも、未だ死刑を正されざれば、武宗左右には姦党の蝟集して闇に乱を醸し、武宗身辺の懸念もあるので、先生は出て兵を観しなどして闇に以て姦党の魂胆を挫きおられたるも、南昌に恰も姦党の多く入込で誅求暴歛を肆まゝにするので、窮民の乱を激生するの様子もある、因て一先づ其南昌府に帰られたのである。
三月請寛租。語極痛切。先生の請寛租の疏は、唐竜朱節と共に出されたのである。先生全書中其全文が存録しあるゆゑ、若し一たび其を読得ば、其如何に痛切の情理を述てあるか、直に分るものなるが、先生の苦心は、此に謂へる、計処寧藩変産官銀。代民上納。とある一語にあり。其故は此時姦党が沢山入込で無理無法なる誅求暴歛を言募るので、窮民の勢、乱をなすは必らず免かれず。而して姦党は寧ろ其乱を喜ぶものにして、若も江西一省が再び禍乱の巷と化するときは。姦党は忽ちに宸濠を〓出《(抜)》して、さんざんなる事をなすにも至るべし。さりとて、若し少しも其誅求を斥けて行はれぬことゝせば、私腹を肥に道なく、容易にそれで折合筈もなし。因て先生は如何に痛切に言はれても、到底それで何等の効力なきを洞察しておらるゝので遂に一案を其間に発し、寧藩の遺産は賊贓、之を変換せば官銀となるので、以て民に代り上納せば、一時姦党の私慾を塞ぎて此上民に誅求せぬことゝなるとの考を以て、上疎中に特にこれを願はれたるので、やつとの事で、民が乱を発生せずして、姦党の計略も外づれたので、民困稍蘇るは其事である。○三疏省葬不允。此は先生が祖母岑夫人の葬の事である。元来先生は幼時母鄭氏に死去せられて、継母にかゝられる事となりしより、特に祖母岑夫人の懇切なる鞠育を受けられたので其の情愛はまた格別。先きに先生が初め南贛に在りて勦賊の事に懸居らる時よりも、岑夫人年已に八十余の高齢にますますすゝまれると共に、頻りに其愛孫先生を今一回見て死に度いと言はるゝと聞かれたるに、先生溜らなくなりて、続々其帰省を請ふて居らるゝが、許さずである中に、臥病となり、遂に死去となりたるゆゑ、なまじいに其葬になりとも帰りたく、またまた三疏も重て帰省を願はれたのだが此回も許されなかつた。此事に就て先生高弟銭緒山は云ふ。昔先師の遺稿を輯録せし時に、便道帰省疏と、再報濠反疏と同日附にて上りておらるゝを見て疑ふた、かゝる国家危急存亡の時に当りて、よくも帰省などゝゆふ暇があつたも
 - 第41巻 p.244 -ページ画像 
のだと。そこには、後に陳幾亭の弁説がある。昔周公が流言の変に遭ふと雖も、周公の其間に処して、安間自得、平日に異らざる情態で、詩にも公孫碩膚赤〓几々とある。丁度陽明先生も其通りで中々凡人の測る所ではないと。誠に幾亭の説の如く、先生に於ては臨機制変運謀人神の事ゆゑ、かゝる大変に処ても充分の余裕あるがゆゑ便道帰省の請もあつたのであらうが、朝廷の諸臣中到底これを知る筈もなければ、当時許さずとして詔せしめて曰く。待事平来説と、此は実に最なる言である。予謂。先生前宸濠反時の帰省は許さぬとも宜しいが、此度の三疏は、宸濠は已平ての跡始末である。而して猶曰。不允。甚以て不仁無情の沙汰である。五月大水。先生疏自劾四罪云々。此の自劾と云ふは固り其真実自反の誠心より来る言たるに相違なきも、亦之を以て君心の開悟を願はれたる巧妙法とも見へる。昔周公摂政の時に其子伯禽をして成王に侍せしめ、成王過あるときは則ち伯禽を鞭たれた。それはなぜに成王を止めぬかとの譴めである。而して亦成王をして自ら其言を聞て悟らしめんとの意である。故に礼記に曰く。昔周公摂政。抗世子之法於伯禽。所以善成王也。と孟子の孔踞心を斉王に称するも、其通りで、陽明先生も蓋し周公孟子より此等妙用を得来られたるものか。
六月如贛 十四日云々。先生和黄山谷の詩は集中にも存録あるが、ここにて刻行などする程の関係切要のある様にも思れない。蓋し先生偶然作られたるものを後より誰かの刻行せしものか。先の開先寺に石刻を留めし程の精神を見ず。年譜には載せぬも宜しい。○羅欽順の書に答へられし文は、伝習録中巻にもだしてあるが、予は嘗て先人に聞た。先生此文には、羅整庵が再び折返して問ひたる書あるも其文は先生は遂に見ずして歿せられたるが如しと。予は整庵の集も未だ読まぬゆゑに、先人の果して何によりて言ひしかを確むること能はざるが、嘗て陽明先生の答羅整庵此篇の真筆原稿を見た事がある。それによると何時かの舟中で書せられたのである。若し先生の整庵の第二書は見ずして歿せられしとせば、後の思田方へ出征せしときの舟中書して遺されたので、整庵第二書は見られぬ筈である。若し此書が此年の作とせば先生此後に帰省を遂げられ、遂に竜山公の逝去となり、彼是にて凡そ六年間も其郷方越に居られたためで、第二書を見られぬ筈はない。年譜此条下に此事を記すは誤るか。未詳。俟考。○是月至贛。大関士卒云々。先生の此際種々嫌疑讒謗の中に立ち盛に錬兵の事をなしをらるは、其中心深慮のあるによる事は、前にも云ふ如なるが、陳幾亭は此に評して曰ふ。大作用。大胆力。息遠方邪。不専君側小人と。然ども、予は君側の邪を息むる事が慥に其本意なるべしと思ふものである。
七月重上江西捷音 先生は最初江西捷音疏は、其当時既に此前年たる即ち正徳十四年七月三十日附を以て、とくより上達して居らるゝにも拘らず、武宗左右の姦党等は相比周して先生の書は一向に取次ぎ収納せずして、知らぬふりに執成して、武宗の狂惑に乗じて、其が親征なとと云ふ噪となりたるも、到底先生が既に宸濠を擒獲してをらるゝ事は、天下世上の人目に掩ふ可らざるの事となりをる事は、
 - 第41巻 p.245 -ページ画像 
此に張永の言の如きものあるより、姦党の種々魂胆慾望も六ケ敷なりたるに際し、張永の中に立ちて苦心周旋もある事にて、遂に先生の江西捷音の改訂を得て、多少其功を以て姦党等にも譲られる様にして、此の戦勝は初より姦党等の兼て其取次たる、威武大将軍の釣帖もありて従事なしたるものと云ふ事にせられて、漸くにして姦党等の腹中も収まりて、武宗も始て北京に帰へるとの議となりたるので、此の重上江西捷音疏は即ち其改訂のものにて、原文改訂前のものとも共に此の全集中に輯録してあるゆゑ、学者は宜しく共に前後二文を併読て以て先生苦心の跡を察すべきものである。少々所々改訂してあるも、緊要の筆は先づ其の欽差威武大将軍よりとして言を立て、次に姦党などの名も附してある所であらふ。蓋し如何に先生が天下のためなれば其功をば姦党に譲りてもよしとせるとも、其ため遂に自己を捨て姦党中の人となる訳にはなれない。因て先生は鄭重に威武大将軍の旨を遵奉すとせるは単に姦党等の旨に因るものに非るを示せるものである。威武大将軍は他に非らず、当時武宗の自称である。先生は唯天子の旨を遵奉す。何ぞ姦党の意を受けんと云ふに在り。此其最も捷音疏中改訂用意の処。
 費文献公宏送張永還朝序曰云々。後学のものも、当時の陽明先生を娟嫉して種々先生の行事に妨害をなし、讒説の沸湧となるは其姦党張忠許泰の如きは論なきも、朝廷の上に称して正人君子となす賢者にも頗ぶる多く其人あるを疑ふは、慥に其故あることなるも、或は当時内閣中に於て楊廷和費宏即ち費文献の如きも亦其の娟嫉者中の一人に屈指するものが少からず。清儒陽明学者毛西河も亦云ふ、楊公辻和与王恭襄晋渓有隙。極恨文成於平濠平賊但帰功本兵一字不及内閣。費文憲即文献宏 以忤濠被禍。已経薦引。而文成無一疏相及。共憾之。と、然ども今文献の送張永の言を見るに、張永が最初に楊一清と協力して劉瑾を除き、今又陽明先生に協力して陰に陽に其心を尽すを以て、体国愛民の誠心に出たるものとなして、盛に其賞賛を極めしを見るに、却て自身に先生を娟嫉することある筈なし。西河の説酷論に似たり。


集会日時通知表 昭和三年(DK410063k-0007)
第41巻 p.245 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年         (渋沢子爵家所蔵)
一月 廿八日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)


陽明学 第一九六号・第九―一〇頁 昭和三年四月 陽明全書講読会年譜講義(承前)(DK410063k-0008)
第41巻 p.245-246 ページ画像

陽明学 第一九六号・第九―一〇頁 昭和三年四月
    陽明全書講読会年譜講義(承前)
      (昭和三年一月二十八日第四土曜 麹町区永楽町一ノ仲二十八号館渋沢事務所に於て)
                      正堂講義
八月咨部院。雪門生冀元亨寃状。此の冀元亨と云ふは、字は惟乾にして、闇斎と号する、椘中武陵人。最初陽明先生に竜場謫居中に従学せしより、遂に王門中屈指の高弟に列し、凡そ明儒学按理学宗伝等にも、其伝を附して其名高し、此が何故に寃罪に陥るに至り、而して先生が特に其ため雪寃の事に焦心せしかは、極めて其故ある事に
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て。已に張本全書年譜中に見ても、先是宸濠攬結名士助己。凡仕江右者。多隆礼際。ともありて、宸濠が内に不軋の心を抱きながらも外に好賢の虚名を装ひ、恰も先生が南贛勦賊に従事しながらも猶盛に講学をして居らるゝを幸として、先生に門生中の誰れかを遣して下さいと、先生の学をきゝて見たきように申越したるが如し、此時元亨即ち闇斎には先生の幼子正憲の家庭教師たらしめられて正に先生の下に在り、因て此人を以て宸濠の所に至り、講書によりて闇に其非心を挌し、且は其果して奸謀あるかを察せしめしものである。闇斎濠と学を講して協はず。決意速に帰り、先生に濠の必らず叛くを告ぐ。先生もために闇斎の身を危ぶみ、間道より其郷里に帰りおらしめたるが。後に先生が宸濠を討つて国難を平げられし時に、武宗の下にある群姦張忠許泰などの姦謀も手筈が違ふ事となり、種々に先生に妨害を加へしも亦成らざるより、幸に先生が闇斎を濠の所に遣したるの形迹あるを以て、此を手懸に、先生も嘗て濠党たるものとの讒をなし、先づ闇斎を其罪に陥れ、因て以て又其禍を先生に嫁せんとする魂胆より、已に遠く郷里に帰り居たる闇斎を逮捕して投獄拷問する事とせるも、闇斎は毫も屈するなき事が聞へたるより先生も急に其の雪寃をなししものであるが、之を此に李卓吾が大に其筆を奮つて、此李卓吾所以不取也と、決して闇斎が宸濠の所に往きて先生用間即ち濠の奸謀真否浅深をも探索する使命に適するの柄でない。唯此だけは先生の大失策。と自分の姓名までを出して其断案を下し、何と先生一言もあるまいと、先生に一棒を下した積りである。然れども予謂ふ、卓吾の論必らずしも当らず。冀闇斎は先生門下第一剛毅堅確の者にして、未だ通材の人とは謂はれぬものなるが、先生が其門下多くの俊才を措きて、特に闇斎を用ひしは正に此場合の適才にして、先生の深慮である。蓋し先生の宸濠の如き大難を容易に平克せしも、全く其用間の功によることは已に明白周知の事なるも、先生の用間亦一・二に止らず。何ぞ之を失策とせん。卓吾は其浅智を以て謾に議す、此吾の取らざる所以である。羅洪先が贈女兄周汝芳序略に述ぶる事柄の如き、先生の宸濠に於て深謀遠慮以て其の沈機密運の妙を成せし情状最も見るべく、而して其用間も亦一・二に止らざる事推て知るべし。清儒毛西河は却てまた先生は劉子吉と地位大懸隔なるを以て交るべき筈もなしとして、全く此子吉往訪の事を非認しおるが、此最も浅見弁ずるに足らず。但先生の子吉の母を葬りての奠文は文章として頗ぶる拙、遂に先生の筆に非ずとおもはるまでゝあるのみ。


集会日時通知表 昭和三年(DK410063k-0009)
第41巻 p.246-247 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年         (渋沢子爵家所蔵)
三月 十日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)
   ○中略。
四月十四日 土 午後二時 陽明学会(事務所)
   ○中略。
五月十二日 土 午後二時 陽明学会講義会(事務所)
   ○中略。
 - 第41巻 p.247 -ページ画像 
五月廿六日 土 午後二時 陽明全書講読会(事務所)



〔参考〕(塩見平之助)書翰 渋沢栄一宛 昭和三年四月二〇日(DK410063k-0010)
第41巻 p.247 ページ画像

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