デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
17款 国訳論語ノ編訳
■綱文

第41巻 p.330-340(DK410083k) ページ画像

昭和3年3月11日(1928年)

斯文会編訳ノ国訳論語稿本完成ヲ告ゲタルニヨリ、是日、飛鳥山邸ニ於テ同会ノ報告会開カル。


■資料

招客書類(二) 【拝啓、益御清適奉賀候、然ば昨年二月二十日御会議相願候斯文会国訳論語の義は…】(DK410083k-0001)
第41巻 p.330 ページ画像

招客書類(二)              (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清適奉賀候、然ば昨年二月二十日御会議相願候斯文会国訳論語の義は、昨年来同会に於て編訳致居候処此程原本出来致候に付き右御報告を兼ね御緩談願上度と存候間、御多忙中恐縮ながら来三月十一日(日)正午飛鳥山拙宅へ尊来被成下度候、右御案内申上度如此御座候 敬具
  昭和三年三月一日            渋沢栄一
 尚々御手数ながら御来否同封葉書にて御回示被下度候
 国訳論語稿本は数日内に斯文会の方より御手許に差出し申候に付、予め御覧被成度候


集会日時通知表 昭和三年(DK410083k-0002)
第41巻 p.330 ページ画像

集会日時通知表  昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
三月十一日 日 正午 国訳論語の件(飛鳥山邸)


竜門雑誌 第四七五号・第七九頁 昭和三年四月 青淵先生動静大要(DK410083k-0003)
第41巻 p.330 ページ画像

竜門雑誌  第四七五号・第七九頁 昭和三年四月
    青淵先生動静大要
      三月中
十一日 国訳論語編纂関係者招待会(曖依村荘)


招客書類(二) 【昭和三年三月十一日(日)正午飛鳥山邸 国訳論語ノ件】(DK410083k-0004)
第41巻 p.330-331 ページ画像

招客書類(二)              (渋沢子爵家所蔵)
 昭和三年三月十一日(日)正午飛鳥山邸
  国訳論語ノ件
              (太字・太丸ハ朱書)
              欠公爵徳川家達  病気
              ○男爵阪谷芳郎
                ○服部宇之吉
                ○中村久四郎
                ○福島甲子三
                ○宇野哲人
                ○三宅米吉
                ○矢野恒太
                欠内藤久寛
                欠塩谷温   旅行
                ○安井小太郎
                ○市村瓚次郎
                欠島田鈞一
                欠工藤一記  病気
                ○山口察常
                ○内野台嶺
 - 第41巻 p.331 -ページ画像 
                欠諸橋轍次
                ○飯島忠夫
                ○平野彦次郎
                ○山本邦彦

                ○主人
                 増田明六
                 高田利吉
                 主人ノ命ニ依リ参加
    以上〆二十三名
          内出席十八名
           欠席五名
 一、料理 (前回常盤屋日本食)常盤屋ニ申付済
 一、余興 (前回ナシ)無シ
 一、接待順序 青淵文庫ニテ会談 日本客間ニテ午餐
 一、事務処ヨリ接待ニ出張ハ井田善之助


(増田明六)日誌 昭和三年(DK410083k-0005)
第41巻 p.331 ページ画像

(増田明六)日誌  昭和三年      (増田正純氏所蔵)
三月十一日 日 曇
午前十一時飛鳥山邸ニ至リ、正午より開会さるゝ斯文会の国訳論語ニ関する報告会場の設備をした、事務処より井田善之助君手伝ニ来た
正午同会の阪谷男爵・服部宇之吉博士其他の博士諸氏就れも国訳論語ニ関し尽力せられし人々十七名来会した、子爵の外小生と高田利吉君とが参列、凡て二十名、服部博士より昨年三月廿日飛鳥山邸ニ於て国訳を為す事を決定し、其際指定せられたる委員は熱心之ニ従事し、玆ニ完成ヲ見るニ至りしとて経過を報告し、渋沢子爵謝辞を陳へ、夫より、午餐ニ移り餐後再度会合して種々談話を交換し、午後四時散会した
○下略


斯文 第一〇編第四号・第七〇頁 昭和三年四月 ○国訳論語稿本成る(DK410083k-0006)
第41巻 p.331 ページ画像

斯文  第一〇編第四号・第七〇頁 昭和三年四月
    ○国訳論語稿本成る
 客年三月より論語国訳委員会に於て起草中なりし国訳論語は、二月十六日第二読会を開き、同月二十五日は午後一時より夜に入り、翌二十六日には午前九時よより日没まで委員会を開き顧問之に参加し、第三読会を終り稿本完成したるに付、三月十一日正午より飛鳥山渋沢子爵邸に於て会長・副会長・理事・監事・参与等を招致し、其の報告会を開催さるゝことゝ為れり。


斯文 第一〇編第四号・第七〇―七一頁 昭和三年四月 ○渋沢子爵邸論語報告会(DK410083k-0007)
第41巻 p.331-332 ページ画像

斯文  第一〇編第四号・第七〇―七一頁 昭和三年四月
    ○渋沢子爵邸論語報告会
 三月十一日正午十二時飛鳥山渋沢子爵邸に於て国訳論語報告会を開く。一同着席するや委員長服部博士は昨年来委員会の経過に関して詳細なる報告あり、畢つて、別室に掲げられたる聖像に対し各自礼拝を
 - 第41巻 p.332 -ページ画像 
為し、日本食の饗宴に移る。珍味佳肴盤に満ち、各々款談に耽りしが又前席に復し子爵の論語に関する説話あり、散会せしは午後四時三十分なりき。当日の出席者左の如し。
 子爵  渋沢栄一  男爵  阪谷芳郎  文学博士服部宇之吉
 文学博士宇野哲人  文学博士三宅米吉  文学博士中村久四郎
     福島甲子三     矢野恒太  文学博士市村瓚次郎
     安井小太郎     山口察常      内野台嶺
     飯島忠夫      平野彦次郎     諸橋轍次
     山本邦彦


斯文 第一〇編第五号・第一―一〇頁 昭和三年五月 国訳論語に就いて 斯文会総務 服部宇之吉(DK410083k-0008)
第41巻 p.332-337 ページ画像

斯文  第一〇編第五号・第一―一〇頁 昭和三年五月
    国訳論語に就いて
                斯文会総務 服部宇之吉
 昭和二年一月斯文会副会長阪谷男爵は、同じく副会長たる渋沢子爵の旨を銜みて論語の新釈作成に関して提議あり、予は会に於て註釈を作成することは実行甚だ困難にして、多くの歳月を費すにあらざれば不可能なる所以を答へたるに、阪谷男爵は余り多くの時日を要するならば註釈の事は暫く之を措き、字句名物等に就きて極めて簡単なる註解を加へたる国訳を作成しては如何と提議せられたり、予は更に国訳も亦至難なる理由を述べ反復弁論せる結果、両副会長の意志が儒教の最重要なる経典なる論語を多数の国民に読み易からしめ、以て孔子教の宣揚国民思想の善導に資し、兼ねて斯文会が発起計画せる聖堂復興の促進に資せんとするにあることを知りたれば、予は意を決して論語国訳作成の事を引受け、其の方法等に就いて案を立つることとなせり
 退いて熟考し且一二の人に謀りたる結果、斯文会内に論語国訳委員会を設け、委員長一名・委員五名及び顧問四名を置き、委員長及び委員には手当を支給し、一ケ年を限りて国訳を完成することとし、案を具へて理事会に提出し其の同意を得、更に常議員会の議に附し決定を見るに至れり、此に於て徳川会長より予に委員長を、飯島忠夫・内野台嶺・平野彦次郎・諸橋轍次及び山口察常五氏に委員を、文学博士市村瓚次郎・文学博士宇野哲人・島田鈞一及び安井小太郎四氏に顧問を委嘱せられたり、委員は合議の上内野・山口二氏を挙げて起草委員と為し、起草委員は毎週一回土曜日を以て起草委員会の定日と為し、全委員会は毎週一回木曜日午後四時より開会することとし、起草委員の作成せる案は直に謄写版に附し、木曜日以前に於て之を委員会役員及び斯文会役員全体に配布することとなせり、委員会は暑中休暇を除き四十週を以て、論語二十篇の国訳を完成すべき見込を以て一切を立案せり
 委員は先づ国訳に関する凡例、印行の体裁等に就き数回の協議を重ねたる上、一般用として細珍型本、及び主として小学校の用に供すべき国定教科書読本型本の二種を印行する事の案を立て、各種正文のみのものと、註解を附したるものと二様の見本を作成せり、諸般の準備成りたれば、昭和二年二月二十日渋沢副会長邸に於て斯文会役員及び国訳委員会役員の会議を開きたり、予は中学校等に於て漢文を教授す
 - 第41巻 p.333 -ページ画像 
ることの必要を極力主張する斯文会が、論語を国訳に附せんとすることは一見甚しき矛盾の如くなれども決して然らず、国民の多数は漢文を学び居らざれば、原文のままにては論語を読むこと能はず、今此等の人人をして論語に親ましめんが為めに、国訳に附せんとするものなれば、斯文会平素の主張と毫も相戻るところ無し、否寧ろ国訳により一歩進みて原文を味ははんとする気分を養ふに至るべし、又国訳に附するにしても委員会などを設け、一年の歳月を費す必要無かるべしと為す者もあらんが、斯文会の事業と為す以上は委員会を設くるは当然の事なるべし、而して委員会は、従来の訓点本に就きて比較研究を行ひ、義理と最も善く相当れるものを採るべく、万已むを得ざる場合の外は吾れより古を為さざるべし、此くの如くせば二週間を以て論語一篇の国訳を決定せんとするには少からざる努力を要すべし、一年の歳月決して多しと言ふべからずと云ふ旨を弁じ、然る後に国訳に関する凡例、印行の体裁等を議に附したる結果、註解は之を附せざることに決定せる外、其の余は総べて委員会の提案の如く可決されたり
 起草委員は例言に示したる十五種の訓点本を択び、最も細密なる注意を払ひて各本の訓点を謄写し、以て国訳の参考資料となせり、昭和二年三月数回の起草委員会を開き、全委員会の議に附すべき国訳原案若干を作成し、以て四月第一木曜日以降木曜日毎に連続して全委員会を開くことを得べき手筈を整へたり、昭和二年夏期、全委員会は休会したれども起草委員会は仍数回開会して、九月以降全委員会の議に附すべき国訳原案の作成に努めたり、昭和三年二月末に至る間に於て起草委員会を開けること四十四回、全委員会を開けること三十七回に及び、若干の問題を残して論語二十篇の国訳を一と先づ完成せり、尋で問題として残したるものの決定の為め、全委員会を開けること更に一回、又此くして完成せる原案に就き、学而篇首章より尭曰篇末章に至るまで通篇四百八十二章内郷党篇十八節を通読して、更に若干の修正を加へ終に国訳正文を確定せり、国訳の決定に就いては委員及び顧問の意見相同じからざる場合は、結局委員長の決定に従へり、意見余り多く相分れたる場合には、朱子集注に従ひたるもの二三有り
 昭和三年三月十一日渋沢副会長邸に於て、昨年と同一の範囲を以て斯文会役員等の会議を開き、国訳完成の報告を為せり、当日は国訳に関する参考資料及び国訳原稿全部を陳列せり、当日の会議に於て予は這次完成せる国訳に本づき、原文に句読訓点及び送仮名を施したるものを作成し、以て中学校等の用に供することを提議し、可決されたり今当日の報告の大要を記すること左の如し
一、国訳に就いては成るべく読みたるままにて判り易からしめんとする方針を採れり、随つて訓読する方判り易しと思ふ場合は勉めて訓読によれり、但強ひて訓読によることを避けたり
一、毎章読点、句点。を施せり、但誤読を生ずる恐ある場合には一一読点を施したり、随つて漢文に在りては読点の省かるべき場合少からず、又普通に句点を用ひる場合にも、意味を解する便利上読点を用ひたるもの少からず
一、引用句に記号を施し、人名等が二つ以上列記せらるる場合に平列
 - 第41巻 p.334 -ページ画像 
点を施すこと概ね普通の例に同じ
一、一章の中に時を異にせる二つの事項有る場合等には、段落を施して之を区別せり
一、上欄外に記せる数字は通篇の章数を示し、毎章の下に記せる数字は一篇内の章数を示す
一、多数の国民に読み易からしめんが為めに総振仮名附きと為せり、仮名の用法は文部省所定送仮名法に拠れり
一、其、夫、此、是、之、焉、奚、有、無等の文字は、特に本字を用ひる必要ある場合の外は凡て仮名に書き改めたり
 以上は体裁に関する主要なる事項なるが、更に内容に関する二三の点に就いて説明せん、即ち底本・読方等に関して特に説明するところあらんとす
一、国訳に関して第一に起りたる問題は、何を底本と為すべきかと云ふことなり、種種研究の結果近数百年間最も広く行はれたる朱子集注本を底本と為すことに決定せり、但注疏本・古本等に従ふ方意義明瞭なりと認むる場合には、此れに拠りて朱子本を補正せり、今其の例を挙ぐること左の如し
 (1)学而篇第四章(第四章)朱子本には与朋友交而不信乎とあるを正平本・皇侃本等に拠りて、而の字の上に言の字を補へり
 (2)学而篇第十五章(第一五章)朱子本に貧而楽とあるを、正平本皇侃本等に拠りて、楽の字の下に道の字を補へり
 (3)学而篇第十六章(第一六章)朱子本に患不知人也とあるを、正平本・皇侃本等に拠りて、不知の字の上に己の字を補へり
 (4)公冶長篇第十六章(第一〇八章)朱子本に久而敬之とあるを、正平本・皇侃本等に拠りて、敬の字の上に人の字を補へり
 (5)公冶長篇第二十五章(第一一七章)朱子本に車馬衣軽裘とあるを、阮元等の説に従ひて、軽の字を削れり
 (6)郷党篇第六節(第二三六章ノ六)朱子本に必表而出之とある之の字は、正平本・皇侃本等に拠りてこれを削れり
 (7)先進篇第十二章(第二四八章)古本・皇侃本等に拠りて、若由也不得其死然の句の上に曰の字を補へり
 (8)子路篇第十五章(第三〇〇章)朱子本に一言而喪邦有諸とあるを、皇侃本に拠りて、而の字の下に可以の二字を補へり
 (9)子路篇第二十八章(三一三章)朱子本に兄弟怡怡とあるを、正平本・皇侃本等に拠り、句末に如也の二字を補へり
 (10)憲問篇第二十九章(第三四四章)朱子本に君子恥其言而過其行とある而の字を、正平本・皇侃本等に拠り且阮元等の説に従ひて之の字に改めたり、随つて読方も亦朱子集注本と同じからざるを致せり
 (11)陽貨篇第八章(第四二五章)居吾語女の上に、大永本・皇侃本等に拠りて、曰の字を補へり
 (12)陽貨篇第二十一章(第四三八章)朱子本に女安則為之とあるを皇侃本に拠りて、句の首に曰の字を補へり
 (13)子張篇第二十四章(第四七八章)多見其不知量也の朱子集注に
 - 第41巻 p.335 -ページ画像 
多与秪同、適也。とあり、然れども多の字にマサニと傍訓を施すことは、一般の人に向つては不適当なりと認めて、本字を表はさずして仮名のみを用ひたり、敢て朱子の正文を改めたるにあらざるなり
 (14)成るべく原文の文字を改めざる方針を採りたる為め、左の二ツの場合に於ては朱子の文字を改むるの説に従はず
  (い)泰伯篇第十二章(第一九六章)三年学不至於穀不易得也の至の字を、朱子は志の字に改むべしと為すも、今之に従はず仍字のままに読めり
  (ろ)微子篇第十章(第四五三章)君子不施其親とある施の字を、朱子は経典釈文に弛の字に作れるに従ひ文字を改めて読みたるが、阮元等が施弛二字古相通ずと云ふ説に従ひ、文字を改めずして仍舎ツと読めり
 (15)先進篇第十二章(第二四八章)及び憲問篇第六章(第三二一章)に同じく不得其死然とあるは、経伝釈詞に然猶焉と云へる説に従ひて、ソノ死ヲ得ザラン(先進篇)ソノ死ヲ得ズ(憲問篇)と読みたり、随つて訳文には然の字は現はれず、敢て之を削りたるにあらざるなり
 (16)八佾篇第四章(第四四章)に礼与其奢也寧倹喪与其易也寧戚とある二つの其の字は意味なき詞なりと云ふ説に従ひ、之を読まず随つて訳文には其の字は現はれず、敢て之を削りたるにあらざるなり、述而篇第三十五章(第一八二章)・子罕篇第十一章(第二一六章)及び微子篇第六章(第四四九章)亦同じ
 (17)子罕篇第二十三章(第二二八章)法語之言能無従乎改之為貴とある改之の之の字は、漢文のままならば兎に角、訳文にこれを表はすときは誤解を生ずる恐あるにより、訳文にこれを現はさず、随つて巽与之言能無説乎繹之為貴とある繹之の之の字も訳文には現はさず、何れも敢てこれを削りたるにあらざるなり、又公冶長篇第二十五章(第一一七章)に老者安之朋友信之少者懐之とあるは、皇侃及び邢昺の説並に朱子が一説として認めたるものに従ひ老者ニハ安ンゼラレ朋友ニハ信ゼラレ少者ニハ懐カレンと訳せり随つて三つの之の字は訳文には現はれず、敢てこれを削りたるにあらざるなり、憲問篇第十八章(第三三三章)莫之知の之の字、陽貨篇第十六章(第四三三章)或是之亡也の之の字及び子張篇第二十章(第四七四章)不知是之甚也の之の字亦皆これを読まず
 (18)顔淵篇第十章(第二七一章)の末に誠不以富亦秪以異とあるを程伊川及び朱子の説に従ひ、季氏篇第十一章(第四一五章)其斯之謂与の句の上に移せり、顔淵篇には削りたることを標記せず季氏篇には括弧を施して移入を標識せり
 (19)郷党篇は朱子集注本に従ひて一篇と為せり、但朱子集注本に十七節とありて実は十八節なるは甚だ解し難けれども、今十八節と為せり
一、読方に関しては前項によりても略々想像せらるる如く、多少従来のものと異なるところ有りと雖も、其は読み下し行きて判り易から
 - 第41巻 p.336 -ページ画像 
しめんが為めに、敢て前人の成例に従はざりしもの数四あるに止まり、初めにも説明したる如く吾れより古を為さざるを原則とし、努めて典拠を求め敢て新奇を致さざりしなり、今前項に記せるところ以外、従来と異なるもの猶一・二の例を挙げん
 (1)学而篇第十五章(第一五章)に詩云如切如磋如琢如磨其斯之謂与とあるを、詩ニ「切スルガ如ク磋スルガ如ク琢スルガ如ク磨スルガ如シ」ト云ヘルハ、其レコレノ謂カと訳したり
 (2)先進篇第二十一章(第二五七章)に由也問聞斯行諸子曰有父兄在とあるを、由ヤ聞クママニ斯ニコレヲ行ハンカト問ヒシニ子ハ父兄在スコトアリト曰ヘリと訳せり、其の下に在る求也問聞斯行諸子曰聞斯行之も亦同じ
 (3)為政篇第十八章(第三四章)に子張学干禄とあるは、山本北山等が詩早麓篇を学べることなり該篇に豈弟君子干禄不回とありと云へる説に従ひ、子張、干禄を学ブと訳せり
 (4)子罕篇第一章(第二〇六章)に子罕言利与命与仁とあるを、普通に子罕ニ利ト命ト仁トヲ言フと読み朱子も之に従へるが、今物徂徠の説に従ひ利の字にて句を切り子罕ニ利ヲ言フ。命ト与ニシ仁ト与ニス。と訳したり、前年斯文会に於て孔夫子卒後二千四百年記念として出版せる単跋本正平版論語の訓点も亦此れに同じ
 (5)先進篇第一章(第二三七章)に先進於礼楽野人也後進於礼楽君子也とあるを、朱子も普通の読方に従ひ先進後進を熟字となせり今劉宝楠の説に従ひ先ヅ礼楽ニ進ムハ野人ナリ、後ニ礼楽ニ進ムハ君子ナリ。と訳せり、前現正平版論語訓点も亦同じ、但此れは皇侃の義疏に一説として挙げたるものに拠りしものにして、劉説とは意味少しく異なれり
 (6)季氏篇第五章(第四〇八章)益者三楽損者三楽の二つの楽の字及び其の外六つの楽の字を、朱子は経典釈文に五教反とし願フの義と為せるに従ひて音を附したるが、多数の国民には解し難かるべければ物徂徠が音洛と為せるに従ひて読めり
 (7)陽貨篇第二十一章(第四三八章)に宰我問三年之喪期已久矣云云とあるを、朱子も普通の説に従ひ宰我問三字にて句を切り、三年之喪の四字を下に属して読みたるが、今元亀鈔本に宰我問三年之喪の七字を一句と為せるに従ひて読めり
 (8)公冶長篇第二十五章(第一一七章)無施労の施の字は、朱子集注に張大之意と言へるに従ひ、直にホコルと訓ぜり
一、訳文の作成に際し常に注意を払ひたる事は、努めて意味を限定又は固定せざらしめんことにあり、換言すれば解釈の自由を妨げざるに努むるにあり、但注意を払ひたるに止まり、実際に於ては訳文に依りて意味は固定せらるるを免れず、此れ亦已を得ざることなりとす、今左に二三の顕著なる例を挙げん
 (1)学而篇第四章(第四章)伝不習乎の句は何晏・伊藤仁斎・物徂徠等は習ハザルヲ伝フルカと読み朱子等は伝ヘテ習ハザルカと読めり、今前説に従ひて訳したれば朱子の如くは読み得ざるに至れり
 (2)為政篇第十九章(第三五章)に挙直錯諸枉則民服挙枉諸錯直則
 - 第41巻 p.337 -ページ画像 
民不服とあるは、包咸・朱子等は直ヲ挙ゲテ諸ノ枉ヲ錯ケバ則チ民服セン云云の如く読み、物徂徠・劉逢禄等は直ヲ挙ゲテコレヲ枉ニ錯ケバ則チ民服セン云云の如く読めり、今後説に従ひて訳したれば、朱子等の如くは読み得ざるに至れり、願淵篇第二十二章(第二八三章)も亦然り
 (3)里仁篇第十一章(第七七章)に君子懐徳小人懐士君子懐刑小人懐恵とあるは、孔安国・朱子等は君子小人の句を何れも平列の句と為し、李充・物徂徠等は君子の句を小人の句の原因と為せり、今後説に従ひて訳したれば前説の如くは読み得ざるに至れり、此かる場合は猶少からず今一一之を挙げず
 (4)雍也篇第十四章(第一三三章)に不有祝鮀之侫而有宋朝之美難乎免於今之世矣とあるは、鄭玄は侫あらずして美あるときは今の世に免れ難しと解し、朱子は程伊川に従ひて侫と美とあるにあらざれば今の世に免れ難しと解し、金仁山の如きは而の字は与の字と同じとさへ言へり、今鄭玄に従ひて訳したれば程伊川の如くは読み得ざるに至れり
 (5)先進篇第七章(第二四三章)に鯉也死有棺而椁とあるは許慎は将来を想像せる言と為し、鄭玄は之を駁して過去の事実を言ふと為せり、朱子の説も亦然るべし、今鄭説に従ひて訳したれば許慎の如くは読み得ざるに至れり
 (6)陽貨篇第七章(第四二四章)に吾豈匏瓜也哉焉能繋而不食とあるは、何晏・朱子等は匏瓜自身物を食はず故に能く久しく一処に繋り居ることを得と為し、劉宝楠等は匏瓜は苦瓜のことにして苦きが故に人に食はれず、故に能く久しく一処に繋かると為せり、今後説に従ひて訳したれば朱子の如くは読み得ざるに至れり
 此かる例猶少からざれども繁を避けて省略に従ふ


竜門雑誌 第四八一号・第二七三―二七六頁 昭和三年一〇月 青淵先生と論語 服部宇之吉(DK410083k-0009)
第41巻 p.337-340 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第二七三―二七六頁 昭和三年一〇月
    青淵先生と論語           服部宇之吉
 青淵先生と論語との関繋に就いては、過般飛鳥山の子爵邸にて開かれた斯文会役員及び国訳論語委員会役員の聯合会議の席上に於て子爵の口から詳しく承はつた、子爵が論語を尊信せらるゝ所以は少年時代からの庭訓の然らしむるところでもあらうが、明治初年官を辞して野に下り、嘗て欧洲にて調査したる銀行を我が国に創設せんとせらるゝ際、論語を以て一生の守本尊とされたに就いては自ら其の理由が無ければなるまい。而して其の理由には一般的のものと、特殊的のものとがあらうと思ふ。孔夫子の道は仁である、仁は天の徳にして又人に賦与せられて人の性を成すものである、天の徳としては完全なるものであるが、人に賦せられたものとしては発達実現して然る後に始めて完全の徳となるのである。而して之を発達実現せしむることは吾人の天に事ふる所以の義である、之が発達実現は即ち個性の完成人格の実現であるが、此れのみで仁の事が終るのではない。完成せる人格の力に依りて普く天下の人をして皆能く其の人格を完成せしむることに努め更に進みて天下の物をして皆能く其の生を遂げしむることに勉むるに
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於て仁の事方めて全しとするのである。此の主義は実に論語を一貫して居るものであり、青淵子爵が己れを修め人を導き事を理め世に処する所以の根本主義として信奉せらるゝものであらう。此れ論語を尊信せらるゝ一般的理由であらうと思ふ。既に一般的であるから銀行を創設さるゝに就いて特に論語を守本尊とされた理由は、自ら別に無ければなるまい。それは利といふことに関して論語に見はれたる教訓であらう、子爵が数十年間論語と算盤といふことを唱へられて居る趣意も亦此こにあらうと思ふ。
 論語に『子罕ニ利ヲ言フ』とあるほどで、利に関することは極めて少い、孔夫子は殆ど利といふことを言はれなかつたのである。其の極めて稀れに言はれたものゝ中に『利ニ放リテ行ヘバ怨多シ』とある。此れは専ら利を目的として行ふ場合を言ふたものであり、然も其の利と云ふのは自己の利益特に物質的利益を指して言ふたものである。孔夫子の此の言は特に実業家を戒めたものではないが、自ら実業家の服膺すべき戒めである、又『君子ハ義ニ喩リ小人ハ利ニ喩ル』と言はれた。凡そ人の頭脳に直ぐに浮み来る観念は、其の平生の習ふところに従ふものである、君子の平生習ふところは義にあり、小人の平生習ふところは利にある。随つて事を為さんとする時の目的、又は動機が君子にありては義であり、小人にありては利である、義とは正しき道又は人の道のことであつて、近くして言へば自己を成す所以のもの、遠くして言へば天に事ふる所以のものである。親に孝君に忠といふことは人の道であり、それはやがて自己を成す所以、又天に事ふる所以であると知つて之を行ふ者は君子である。忠孝を行へば自己一身に利得があると知つて、其の利得の為めに忠孝を行ふのは小人である。道は同じく忠孝の一筋であるが、此の道に由る所以に義と利との区別があるので、そこに君子と小人との差別が生ずる。孔夫子の教は利を目的又は動機とする小人の道を説くものではなく、義を目的又動機とする君子の道を説くものである。
 右の如く言ふと、孔夫子の教は実業に従事する人には全然没交渉のものであるのみならず、孔夫子は実に実業を排斥したのであらうと思ふ人もあるかも知れないが、今説明したところのことは、人の道に就いてのことであつて実業に就いてのことではない。孔夫子の教は倫理教育及び政治に関する教であつて、経済を主としたものでないから、実業に関する事などは自ら殆ど説かれないのは当然のことであらう。人の道を説くに就いては利を目的又は動機とするものは之を排斥された、経済関係に於ける利に就いては殆ど言はれなかつたが、絶対に言はれないのではなかつた。そこで論語に『子罕言利与命与仁』とある此の句は普通には『子罕ニ利ト命ト仁トヲ言フ』と読むが、それでは論語の内容と一致しない、論語には命のことは決して少くない、人事を致して天命に安んずるといふのは孔夫子の教の要諦であるから、其の意味は論語に頻に見えて居る、命の字が無くても命の観念が立派に見はれて居る場合もある、左様の訳で罕に命を言ふといふことは成り立ち得ない、又仁の字は論語に数十ケ処見えて居る、決して罕に言ふとはいへない、そこで朱子などは論語には仁の作用は多く言ふてある
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が仁の本体に至りては則ち殆ど言はれなかつたといふやうに解釈して居るが、それは無理な説である。故に前に挙げた句は物徂徠の説に従つて『子罕ニ利ヲ言フ命ト与ニシ仁ト与ニス』と読むべきである、此処に青淵子爵の論語と算盤の趣意が存するのであると思ふのである。
 利益を得らるゝであらうとも思はず唯廉価であるといふので土地を買つて置いたところが、何年か経る中に周囲が開けて地価が上つて意外の利益を得た人があるかと思ふと、大に儲けやうとして鉱山に手を出して失敗し、其の穴を塡めやうとして船を買つて又失敗したといふ人もある、利益を得るも得ないも個人の自由意志のみの能く決するところではない、個人の意志を超越せる或るものがそこに認めらるゝ、個人の自由意志は即ち人、その或るものとは即ち天である。此処に人事又人力と天命との関係が認めらるゝ、孔夫子の教にあつては凡そ我が性分内の事は必ず最善を尽して而して後に天命を言ふのである。今言ふところの利の如きは則ち性分外のものに属し、而して我が自由意志の必ずしも能く得るところにあらず、之を得るに命あり故に天命に安んずべしといふが孔夫子の趣意である。利を得るに命ありと知れば所謂無理をすることがなくなる、利は必ず人力で得らるゝと思ふと、自ら無理をすることになる、無理をするとしないとの差別は人格の上にも亦仕事の上にも著しき差別となつて現はれて来る、青淵子爵の人格及び仕事に於て吾人の最も感服するところのものは、確に無理をせられぬといふ点にあると思ふ。子爵の教を奉ずる人々が我が実業界に於て一種の異彩を放つのも亦此の点にあらう。
 孔夫子か利を言はれる場合には仁と与にされたといふことは第一に人を愛し人を利するを以て謂ふところの仁と与にせられたといふことである、利を謀ることが人を損し人を害することになり易いので仁といふことを常に忘れざるやうにせよといふのは孔夫子の教の趣意である。更に他の方面からいふと、自己の利益と一般の利益との一致といふことに心つかば、国利民福を進むることによりて自己の利益を得ることにならう。此れ又仁と与にするの一面であらう、孔夫子は又『得ヲ見テハ義ヲ思フ』と言はれた。眼前に大なる利得があつて手を出せば取れるといふ場合には直ぐに手を出すのは普通の人情であるがそれを取ることが正しきや否、其の利得は我が権利に属するや否等のことを思ふて取ると否とを決すべしといふのである。我が武士道に於て義利の弁別といふことを八ケ間敷いふたのも此の点である。生命よりも貴んだところの義は左伝に見ゆる孔夫子の語に『義以テ利ヲ生ズ』とある如く利の原因となるものである。此くの如く利と義との関係は一面に於ては相拒否し一面に於ては相一致し、其の間に矛盾があるやうだが決して左様ではない。要するに利と云ふ観念に相違があるのである、個人の物質的利益は義と相容れざることがあるが、国家社会の利益は義を本とするのである。孟子は仁義を相対の原則として説いたので意味の少しく異つて来た場合もあるが、論語にありては仁義は同じものゝ二面であるといふて宜しい。即ち人を愛し人を利することが人性の自然の発露であるとして見た場合にはそれは仁である。左様にすることは人の道である天に事ふる所以であると見た場合にはそれが其
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のまゝ義である、孔夫子の教では此様になると思ふ。青淵子爵が九十歳に垂んたる老齢を以て、今に猶国の為め世の為め人の為めに力を致されて居られるのは何人も敬服措く能はざるところであつて其れは銀行の事に従はれたる初めより、孔夫子の仁と与にするの主義を奉じ義を以て利の本とする、孔夫子の教を体せられたるに依ることゝ思ふ。
 子爵の論語と算盤といふ主義は蓋し前述の如きものであらうかと思ふ。