デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
1節 儒教
20款 栄一ノ儒教ニ関スル論説講話
■綱文

第41巻 p.404-421(DK410092k) ページ画像

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■資料

竜門雑誌 第四一七号・第二四―三〇頁 大正一二年二月 ○本社総集会に於て 青淵先生(DK410092k-0001)
第41巻 p.404-408 ページ画像

竜門雑誌  第四一七号・第二四―三〇頁 大正一二年二月
    ○本社総集会に於て
                      青淵先生
 服部博士の知天命の御説を諸君と共に拝聴致しまして洵に快く感じました。本会に於ては例に依つて私も一言申述べねばならぬので此壇に立ちましたが、私は是といふ考案を具へて参上致しませなんだので先生の今のお話を敷衍するやうに当りますけれども、御演説の末段に道徳経済合一論は渋沢が主義として居るのだと云ふ御言葉もありましたから、其事に就て更に一言を申添へやうと思ひます。敢て孔子の道徳を私風情が世の中に普及すると云ふことが出来能ふものではございませぬ、況や我身を顧みると、極めて凡庸でありますから、自らを揣らず左様な位置に立たうなど云ふ抱負は持つて居りませぬけれども、唯恐るゝは今の利と義との差別が、兎角世間で誤解されて、利に就けば義は全く除け物になつてしまふ。義を専らにすれば利は得られぬものだと云ふことは、真正の学問ある御方は左様な謬見は無いかも知らぬが、一般にはさう云ふ思違があつて、利義の別が疑問に置かれるやうであります。疑に置かれると云ふよりは強く申すと両立せぬやうに論ぜられて居りますので、私はさう云ふ訳はなからうと深く胸に問ひ心に答ひ、決してさうではない、と其昔から断案して居るのであります。何処の席でも兎角身の上の経歴を叙しますけれども、明治の初に私が銀行界に入るときの覚悟は、自身は今日迄の官吏を捨てゝ変つた方面に働くと云ふに就ては、どうしても一つの守る所を持ちたいものだ。丁度其頃親友の玉乃世履と云ふ人が、私の官を辞して銀行者となるのを甚く諫止して呉れた。其言葉は「足下は青年時代から漢籍を修めて、国家の憂を我が本分とし、尊王と攘夷とを主義として家を出た人である、それから浪人として後一橋に召抱られ、続いて幕府に転じたと云ふやうな様々の変化はあるが、是は時勢が足下をして変化せしめたのであるから、足下の所信の一直線に行へぬのを咎めはせぬけれども、既に朝廷に仕へて居る身である。今官を辞して実業界に投じ銀行者になると云ふことは、或る点からは一見識でもあらうけれども、或は恐る、若しも君が将来に於て、唯銖錙の利を事として一守銭奴になると云ふことであつたら、実に惜いことではないか、僕は足下の親友として深く憾む。どうも世間一般の有様が、富貴功名にのみ傾けば必ず道理を踏誤る。況や現在の商売社会は実に見るに堪へぬやうな姿ではないか、此渦中に投じて足下が如何なる主義を以て立つ積りか、諺にいふ、朱に交れば赤くなる、終に昔日郷貫を離れる時の思想は全く消滅して、物質にのみ憧憬する人間になり終りはせぬかと虞れる。是は友人として甚だ憂へるから能く考へ直したら宜からう」と、斯う
 - 第41巻 p.405 -ページ画像 
云ふ切実なる諫言であつた。それが私をして例の論語と算盤、若くは道徳経済合一説を思起させた原因である。其時に熟々自分でも考へまして、成程玉乃氏の忠告は尤だ、仮令才学乏しき身であつても、家を捨て農業を余所にして、嗚滸がましくも人を支配する位置に立つて、所謂国を治め天下を平かにすると云ふ方面に努力して来た身が、今日は反対に、営利事業に身を委ねて、自己の富を図ると云ふことになると、其結果は富さへ得れば宜いと云ふことになつて、大切なる道理徳義と云ふものが、段々疎くなるのは自然の趨勢と思はねばならぬ。それに就いて私が仮令価値なきものにしても、友人として斯の如く義理分明に諫めて呉れるのは洵に懇切の至りだと思うて、左なきだに官を罷めて実業界に入るには、大に熟慮せねばならぬといふ一心があつたが、況してさう云ふ忠告から玆に尚更深く考へて、自分の身を其処に基くばかりでなく、世の中の事業をして、さうならしめたいと云ふことが、一歩進んだ慾望と相成つたのであります。其時に私は玉乃氏に確答して「君の忠告の一部には服従するも、官を辞して銀行者となるのは決意を翻すことは出来ぬ、左りながら銖錙の利を争ふて物質の奴隷とはならぬ故に、将来は論語に依つて銀行を経営して見る積りであります」と云ふことを明言した。今日其言が果して完全に徹底致したとは申上げ兼ねます。殊に力も乏しく知識も足らず、且つ時勢も宜しきを得なかつたから、旁々以て思ふ所十あつても、行ふ事は五つにも足らぬと云ふ有様ではありましたが、幸に其覚悟を以て始終事に当つたのであります。殊に数年前実業界を去りました後、こゝぞ幾分にても自分の宿望を果すべき時機と思ふて、所謂斃而止の覚悟で此道徳仁義と生産殖利との一致、即ち道徳経済合一説を飽迄も主張して居るのでございます。
 孔子の知天命に就て服部博士の細かい御説は私共そこまで考へ至らぬ点が多かつたやうに思へます。私抔が此狭隘なる区域に於て仁義道徳に依つて世の中に立たうと思ふと、成程孔子が如何に苦心したであらうか斯くあつたらうと云ふことが、二千四百年を隔てゝ人情も世態もまるで違ふ今日であつても、真理と云ふものは、時の古今と地の東西に関係がないものと見えまして、斯かる場合には斯くもあつたらうと著しく思当るやうに考へられるのであります。私の微力を以て世に立つて、多少の苦心をして見てから昔を思ひやると、別して成程と感ずるのでありますけれども、併し此感ずると共に又自ら一新して進んで行くことも出来るやうに思はれます。
 義と利の差別に就て博士の丁寧に御説き下すつた事は、実に適切に思へます、大学にも以義為利と云ふ事がありますが、丁度今御引証になつた論語の九思と云ふ所に見得思義と云ふ事が、即ち義が利の根本になると云ふことの一証と言へるやうに考へられます。蓋し生産殖利には必ず得ると云ふことを要件とする、其得るを以て本とするのが、即ち道徳仁義から生れて来ると云ふことは、既に二千四百年以前の真理であつた、今日の時代と、人情も風俗もまるで変つたやうであるからして、左様に相一致するものがどうしてあるかと思はれますが、併し前に言ふた義利の別などを能く攻究して見ますと、或る事柄に就て
 - 第41巻 p.406 -ページ画像 
は些とも変らぬやうに思はれて、所謂万古不易とか千歳不朽とか云ふ言葉は、古人が吾々を欺かぬやうであります。
 私が今日玆に申上げたいのは、憂に先ち、楽みに後れると云ふ事に就て卑見を述べて見たいと思つて此壇に登りました。服部先生の前段の御説に対して自己の経歴を思起して聊か申して見ましたけれども、抑も人の世に立つや、心ある者は成べく天下の憂に先つて憂ひ、天下の楽みに後れて楽むやうにありたい。是は古人も能く言うた事で、論孟の中にも必ず其章句がありませうが、明確なるは古文真宝に載つて居る、それは范仲淹と云ふ人の岳陽楼の記であります。私は時々好んでこれを読むで深く先憂後楽と云ふことに感じて、どうぞ人はさうありたいと常に其の心を以て事に当り物に接して居るのであります。但し人の性質として先憂後楽と同様に、総ての事物を悲観的に見るのと又楽観的に見るのと、現代若くは既に故人になられた名士にもさう云ふ差異があります。恰も先憂後楽と同じやうに、物を見るのに先づ喜んで見る、善い方ばかりを見るのと反対に憂ひて見る、悪い方ばかりを見る人とあります。適切の例を挙げると、本年の正月薨去になつた大隈侯爵などは楽観的の人でありました。何か悪い事柄があつても、ではあるけれども斯う云ふ善い事もあると云うて、悪い方を打消して善い方を挙げて楽観する、是も一の見方であります。例へば社会主義であるとか甚しきは無政府主義であるとか様々の悪風潮が流行しても之を楽観してそれは一面から云へば新知識が進んで来るから、さう云ふ説も生ずるのである、新しい見解から顕れて来る現象である。さう恐れぬでも宜からうとさう云ふ塩梅に悪い方を善く観る。反対に悲観的の人になると総てを悪く見る。故井上侯爵などは悲観者流で、何事も気に入らない。事業が繁昌しても其衰微の来るを憂ひ、道を通つて見ても人夫が働いて居ないとてどうもあれでは困るといふ、私抔も同じく其の弊がありますけれども、兎角人々には習癖があるもので、右から見る流と左から見る流と両端があります。一概にどちらが善いとか悪いとか言へぬやうです。それと同時に先憂後楽にも、自ら似たやうな気味がありはせぬかと思ひます。悲観者は始終憂を先にする、楽観者は寧ろ楽を先にする、私自身を以てすれば憂を先にする方の流儀であつて、范希文の岳陽楼記に言はれた通り、噫微斯人吾誰与帰と云ふ事が最終に書いてありますが、私も范希文には喜ばれる方の一人たるを失はないと思ひます。何処まで行つても此憂と云ふものは附いて居つて、二十四・五歳で稍々世間の事が解つてから玆に六十年、此六十年の間常に憂を先にして経過し来つた。さりとて憂の多い世の中であるが、或は又自己の心が憂を始むのであるか、斯く考へて見ると寧ろお恥しいやうである。当初外国人の来た時に先づ憂へ初めた。是は日本は取られはしないか、実に大変な事だ、是では成らぬと、其時の憂は最も大であつた。而してその関係から世間の事を知り得るやうになると、日本の国体が、天子に依つて統御されると云ふことは、建国の初より定つて居るに拘らず、世は封建制度となつて鎌倉覇府以来天子の力が微々として振はぬ、武将の専断に政治が行はれて居ると云ふは怪しからぬ事である、殊に階級制度を以て天下の政治は士族のみに
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依つて支配されると云ふのは、如何なる間違であるか、どうしても此制度を打破らなければ、真に国家を安泰にすることは出来ない、斯う云ふやうな観念が起つたのであります。其間の苦心惨憺実にえらい憂であつた、どうしたら此悪制度が破れるものかと云ふやうな思に沈んだのであります。それから種々様々に変遷して、私の身は終に欧羅巴へ行くやうになり、外国滞在中に封建制度が倒れて帰国してから図らずも朝廷へ仕官するやうになつた、左様に変化はしたけれども、其頃迄は多く政治界に対する希望を以て其憂としたのである。
 私が銀行者になつてから経済界より全体を観察すると又新らしき憂が生じた、それは王政復古してから明治の政治が大に進んで行くにしても、此現状では世の中は政治家と軍人ばかりに競奔して、終に国家は如何に成り行くであらうか、畢竟国家は経済を基礎とする、然るに其富は薩張り進む模様が見えない。其時に大隈侯・井上侯は前後大蔵省に居られて常に実業上には心を用ゐられて、会社事業に就ても大蔵省に於て明治初年より色々な手段を取つて見たけれども、適当な人が其職に就かぬから、為替会社・商社・開墾会社・廻漕会社などと云ふ各団体は出来たけれど、一年も経たぬ中に大抵潰れてしまひ、一般の商業は概して個々孤立の有様である、之に反して内外の政治には追々に欧羅巴の制度に真似て進行するけれども、商工業の方面は実に微々たるものであつた、斯る有様にて、我が邦を他の列強に比肩しやうと思ふに至つては、殆ど自己を知らざるの甚しきものであると私には思はれて、是も亦当時の深憂であつた。甚しきは唯理窟倒れで亡滅する国家になりはせぬかとまで憂へたのであります。是は到底政治界に足らぬ知識で苦しむよりも、実業界に微力を尽すのが必要であると其覚悟を堅くしたのも、亦其憂から発したのであります。扨実業界に身を置いて見ると、銀行も思ふやうには信用が拡張しない、商工業も振はない、其時に於ける憂と云ふものは、己れ自身の働きの鈍いばかりでなく、或は政治上社会上に自分の意嚮と一致せぬやうな場合のみ多くありまして、其憂は日常去ることが出来なかつた。併し其憂の中にも追々に事物の進歩はあつたに相違ない。五十年の既往を今日から顧ると実に大進歩を為して居ります。けれども又此進歩に就て、更に又憂を生ずるのは今日の世の中が余り功利に傾きて所謂不奪不饜といふ有様にまで陥るの虞はなきか、今より之を匡救するには仁義道徳と生産殖利との一致を講明するが適当の務である、是は独り日本ばかりではない、欧米諸国でも道徳と経済とは合一どころではなく、常に相反目する、殊に世を挙げて段々精神修養の観念が薄らぎて唯功利にのみ走る。斯の如くにして進むときは終には独り日本の為にのみ憂へるのみではなく、世界としても真正なる平和は保ち得られぬではないか。一方には吾々が丹誠して工業を盛にするには合本法が必要だ、資本を集めて其力を大きくし機械力を活動させるに如くはないと、其方針に向つて進んで行くと、又今日は資本労働の紛議を惹起する、土地の開墾を努め、耕作を盛にしたいと思うても、農と工との業務の差異から次第に農業の利益が減じて、随て地主と小作人との紛議が生ずる、斯の如く各方面から種々の憂が横溢して来るやうに見える。斯く考へて見
 - 第41巻 p.408 -ページ画像 
ると、結局後楽は得ることなく、唯先憂だけで世の中は終りはせぬかと悲観せざるを得ぬ。さりとては情けない、人間と云ふものは唯憂のみで此の世の中に存在するかと云ふやうにまで思ふのであります。併し又別に考の立て様にて、左様に憂へると云ふものの、其憂ふる中に各人の知識が進歩して其憂に応じて自然と改良し又は解決して行くのである、其跡に就て視察すると、其始め憂ばかりを先に見て楽はないやうであるけれども、前に憂へたものを後から見ると、憂へた為に変体して喜びと立直つたと云ふ事も決して少くないのである。先づ第一に外国との関係が深く憂べきものと思うたが、それは或る点は己れの狭い見解で世の中を見た誤解の憂であつたのである。又階級制度を嫌ふのも、幕府が倒れて自然に直つた維新以後の人心が政治軍事にのみ傾くのを見て行末如何と憂へたが、其憂は事実であつても、今日は追追に改良して来た。斯様に或る憂が改良され或る憂が消滅すると云ふことも決して少くないやうでありますから、唯世の中が憂のみに終ると云ふのは更に考慮して見ると、所謂杞憂と言ひ得るやうにも思はれます。而して此間には苦悶の如く見える事も其事を心として努力して行くならば、其間には真の楽が出来るのであります。論語に知之者。不如好之者。好之者。不如楽之者といふ本文があります、此楽みは前に述べた先憂後楽の楽とは文字は同じでも意味は少しく違ひませうけれども、苦悶といふも快楽といふも其憂の中に楽みは含み得られると思ふ。即ち知之者。不如好之者。好之者。不如楽之者と云ふ、此知と云ひ好と云ひ楽と云ふことは唯或る事物に就て言うたのではない、人の本分に対しても世の進運に対しても此知・好・楽の三段に孔子が力説せられたのは、洵に其事に深く熱中すると云ふことを意味したものと思ひます。而して其憂を以て楽みとすると云ふことも人として必ず出来ぬ事でなからう、是に於て私は常に此憂を以て楽みとして、先憂もなく後楽もなく憂は我身の楽みなりとして一生を送りたいと期念して居ります。之が私の先憂後楽混合論で要するに経済と道徳とを一致せしむる如く憂と楽とを一致させたいと思ふのであります。(拍手)
  ○右ハ孔子追遠記念講演会ヲ兼ネテ大正十一年十一月五日、日本工業倶楽部ニ開催サレタル竜門社第六十八回秋季総集会ニ於テナサレタル講演ナリ。


竜門雑誌 第二四一号・第一五―一六頁 明治四一年六月 ○修養談 青淵先生(DK410092k-0002)
第41巻 p.408-409 ページ画像

竜門雑誌  第二四一号・第一五―一六頁 明治四一年六月
    ○修養談
                      青淵先生
 左の一篇は成功一一の四に掲載せられたる先生の談話筆記なり
 私は素より学派や学説を彼是批判する程の学問ある者でないが、然し支那古聖賢殊に孔子の教を尊信し、何か処し難き事あれば必ず論語を思出し、此は斯うある、彼はアヽあると、最後の審判を論語に仰ぐ事にして居る、論語二十篇は実に人道の要を網羅した金科玉条で、身を修め事を処するの法悉く其中に尽されて有ると思ふ
孔子の教は何処までも実行を重んじたもので別に高遠難渋な処がないそれを後世の学者が註釈を加へて種々と六ケしい説を並べ立て、聖人といふものは、全然仙人か仏菩薩なんどの如く普通人の迚も及ばぬ別
 - 第41巻 p.409 -ページ画像 
種族にして仕舞つた、是に於て学問と実行と分離して全く別々のものとなつたのであるが、朱子学などは殊に此弊がある、処が朱子学の後に現はれた王陽明の知行合一説は、この学問実行分離の弊を矯正したのであるから、其説いた処が誠に面白い、それで余は精神修養の糧として陽明学を推薦したいと思ふ。
一体朱子を初めとして程明道・張横渠などいふ学者は、虚霊不昧とか寂然不動とか余りに高妙で実際に縁遠い事を説いたので、其学を奉ずる者は自然と一室に静座し、香でも焚いて読書しなければ学問をやるもので無いといふ風になつたのであるが、学問は何もソーいつたものであるまいと思ふ、賓客に接するも事務を執るも行くとして学問ならざる莫しで、今斯う君の質問に対し私が忠実に御答へする、君がそれに不服あれば亦忠実に反対するといふのも、所謂人に交はるに信を以てするので、又学問であらう、学問即ち事業、事業即ち学問、事業を離れて学問を求めるに及ぶまい、陽明の知行合一は此点について最も味があると信ずる
或ひは陽明学も亦良知良能を主として余りに直覚的な処からして、動もすれば知識・経験を軽んずるの傾きを生じはしまいかと言ふものがあるけれども、陽明がいくら良知良能を主張したからとて生れた儘で善いとは説くまい、人間の性霊は種々の境遇に触れ種々の事情に逢ふてますます光輝を発するものであるから、知識・経験の必要なことは言ふまでも無い、但自己の良知良能は何処までも曇らさずに置かねばならぬ、私は学者で無いから詳しくは言へぬけれども、此理由よりして陽明学を喜ぶものである


竜門雑誌 第二五四号・第一―六頁 明治四二年七月 ○訓言(DK410092k-0003)
第41巻 p.409-411 ページ画像

竜門雑誌  第二五四号・第一―六頁 明治四二年七月
    ○訓言
 本欄に掲ぐる所のものは本社員が親しく青淵先生に就きて教を乞ひ其要領を筆記して更に先生の検閲を煩したる者なれば、尋常の説話と其撰を異にし、先生自筆の訓言と多く択む所なかるべきなり
      人間処世の本義
吾人が此世に処して日夕活動しつゝあるは自己の為めなるや将た他人の為めなるや、抑々吾人が一身の栄達を謀らんと欲するも亦其本分と謂ひ得べきか、孝経に曰はずや「立身行道。揚名於後世。以顕父母孝之終也。」と、乃ち立身出世は啻に其身其家の幸福のみならず、其余恵延いて九族に及ばん、人たるものが一身の栄達を望で已まざるは正に是れ人間自然の性情にて、毫も恥づべきことに非ず、然れども単に夫れ丈けの務めにて処世の能事了れりと為すは誤れり、蓋し共同生存は人類自然の性情なり、其性情の自然に従ひ公共の福利を謀つて忠なるこそ人間処世の本分と云ふべけれ、人に男女の別あれども互に孤立して生存を全ふし得べきに非ず、同類相集りて自ら家を成し部落を成し郡と為り国と為りて、一の組織体を形づくるに至るは、人類自然の性情の発動に基く所の共存体の膨脹に外ならざるべし、其集団愈々大なれば則ち其関係益々密切と為り複雑と為り、而して同胞相親み相助けて戻らざるこそ、健実に其組織体の発達を遂げ得て富国とも為り強
 - 第41巻 p.410 -ページ画像 
国とも為り得る所以なれ、若夫れ其領土は如何に広く住民は如何に多くも、同胞相親み相助くるに非ずんば、其国は決して富国と為り強国と為ることを得ざるは古今の歴史に徴して明なり、嘗に見よ、英国は印度に比し其何分一の国民を有するに過ぎざる小国なるに、幾倍の国民を有する印度を征服したるは何ぞや、只其国民の相親み相助くると否とは即ち存亡の岐るゝ所以にして、今日英国の富強世界に冠たるは其国民が相親み相助くる結果に外ならざるなり、然るに若しも同胞相親み相助くるの性情乏しからんには、否な相和し相助くる中にも公共の為、国家の為めなる観念を欠かんには、如何に其国民が知識に富み力量勝れたりとて、其国の健実なる発達は得て期す可らず、孔子曰く「吾道一以貫之」曾子之を釈して曰く「夫子之道忠恕而已矣」と、忠恕の本義も亦同胞相親み相助くるの義に外ならず、是を以て吾れ人と共に世に処し身を立て人と欲せば、則ち一身以て公に奉ずるを以て其主義本領と為さゞる可らず
然れども単に義勇公に奉ずるの精神、即ち誠意誠心のみにては、其行為の効果を全ふするを得ず、即ち学問経験の必要なる所以にして、学に拠りて道理を知り、道理を知りて後其事物の是非善悪を識別するの能力を具備せざる可からず、然し如何に事物の是非善悪を識別するの明知を備へたりとて、誠意誠心に欠くる所あらんには、其行為や共同互助の効果を収むる能はざるや必せり、故に克く学びて克く道理を知り、而して之を行ふに一身以て公に奉ずるの誠意誠心を以てせば、蓋し愆ちなきに幾からんか、約言すれば吾人が総ての行為の動力は、高尚なる誠意と最善の知識とに須たざる可らずと云ふに在り、古語に曰く、真知を欠ける誠意誠心は完全の効果を収むる能ずと、余は此言の大に翫味すべきものあるを覚ふるなり
      孝悌と知識、仁と富
孔子曰「君子務本。本立而道生。孝弟也者。其為仁之本与。」蓋し孔子の意は仁の本は其れ孝弟に在らんかと云ふに在りて、知を末とし仁を本としたるに非ざるべし、然るに後の学者が、知は動もすれば狡猾に走り易し、才は動もすれば軽薄に流れ易し、誠意誠心を養ふには先づ孝悌忠信の道を教へざるべからずとて、余り之れに重きを措きたる結果、恰も孝悌と知識とは両立し難きものゝ如く誤解し、知識を主とすれば誠意を欠き、誠意を主とすれば知識を欠くの虞なきを得ず、然れども仮令多少知識に欠乏を来たすことありとても、誠意誠心の養成を主とせざる可らずと解釈して、之を実際に行ひたる結果、遂に知見狭き誠意の士を尊崇するの傾向を生ずるに至れるは、儒教の為めに余の甚だ惜む所なり、如何に誠意誠心の掬すべきものありとても、如何に其志は善美なりとても、終始方針を誤り所作に迷ふ所あらんには、其事の成就せざるは勿論、遂に世人の疎んずる所と為り、終世貧困を免る能はずして、世の智慮深く富み栄える人を見ては、不義の富貴は浮雲の如し、我に於て何かあらん抔と空嘯きて、道を楽む其心事は高潔なるに似たれども、斯の如き気風が一世の風習を成すに於ては国富を増進する能はざるべし、事、此に至りては儒教の弊害も亦極れりと謂ふべきなり、儒教の仁と富に於けるも亦然り、仁を行へば富む能は
 - 第41巻 p.411 -ページ画像 
ず、富まんと欲すれば仁なる能はざる如く説きたるは、蓋し孝悌と知識との両立す可らざるものゝ如く思考したる観念に胚胎したる謬想にして、決して真正なる孔子の教旨に非ざるや明けし、無分別なる孝悌は行ふて事に益なく、却て身を誤り人を誤ること多きに非ずや、又衣食足りて礼節を知る如く、富みて仁なる者多きも亦事実なり、孝悌と知識、仁と富とは如何なる時代に於ても与に並び馳せて決して相戻るものに非ざるなり、泰西の教に於ては此弊薄きが如くなれども、儒教に於ては此弊殊に甚しとす、現時の如き物質的進歩の著しき時世に於て、斯る弊風の増長することもあらんには、決して国富を増進することを得ざるべし、予や聊か儒教の趣味を解すると同時に此弊あるを遺憾とすること久し、敢て此説を為すものなり


竜門雑誌 第二五四号・第七―一三頁 明治四二年七月 【・・・竜門社春季総会○明治四二年五月二日に於ける青淵先生の訓話・・・】(DK410092k-0004)
第41巻 p.411-414 ページ画像

竜門雑誌  第二五四号・第七―一三頁 明治四二年七月
    ○人道と儒教
 本篇は竜門社春季総会○明治四二年五月二日に於ける青淵先生の訓話なり
 此竜門社の春季総集会が斯様に好天気を得ましたのは御互に此上もない喜ばしいことでございます、唯今社長からして竜門社の社則改正並に此社の主義綱領を定めることに前回決定致したといふことを皆様へ報告がございました、而して其綱領といふものは私が平常自分の主義として居る所を採つて、それを此社の主義に致すといふことに確定されたといふは如何にも喜ばしうは感じまするけれども、其喜ばしう感ずると同時に甚だ恐懼に堪えぬのでございます、先頃評議員の出来まする時、評議員諸君に対して私は斯く考へまするといふことを述べました事柄は筆記されて竜門社雑誌には訓言とまで題されて冒頭に出て居りまするで諸君も御覧下されたでありませうから、最早其事に就て再び之を重複する必要はございませぬけれども、蓋し此は評議員諸君に向つて申述べたのでありますから、今日之を敷衍致して他の諸君にも斯く御承知ありたいといふことを申述るやうに致さうと思ひます前席に田中館博士から度量衡の有益なる御講話を拝聴致しましたが、結局は事を処し物を行つて行くに、斯る標準が要る――今私の申述べやうといふことはメートルの如き正しきものでもなく、左様に大なる実測に必要なる学術的のものではない、申さば唯渋沢の一家言に止るかも知れませぬ、併し独り私が自分の発明を申上るではなくて、人間は斯くあれかし、世に立つて勤めるには斯う心得たら宜しからうといふことを、学問の狭い私であるから唯単に儒道――即ち孔子の教に依つて申述べるに過ぎぬのです、故に此孔子の教といふものが、百幾年前に赤道と北極星とを測つて、指定めたメートル法の如く適切には参らぬか知らぬけれども、蓋し人の標準とすべき点に於て、余り大なる違ひは無いであらう、矢張拠るべき道としては孔子の立てた教が甚だ適切である、果して左様に思ひますると、矢張此標準を以て論ずる点に於ては渋沢の一家言ではない、古い昔の説をば玆に諸君と共に之を遵奉して行かうといふに過ぎぬのであると、斯う御諒解下さるやうに願ひたいと思ふのであります。
      ○地租改正と度量衡○略ス
 - 第41巻 p.412 -ページ画像 
      ○国体の精華と教育淵源
 さて本題に戻つて此竜門社の主義綱領でございますが、元来儒者の教から説を立てゝ見ますと、人といふものはどういふ訳で此世の中に生存して行くか、大きく云ふたならば何で生れて来たか、之を一つ考へて見なければならぬ、考へると同時にどう自分を保持して行つたら宜からうかといふことを、もう一つ研究しなければなるまいと思ふ、詰り銘々が唯己れさへ都合の好いやうにするだけが抑々人の務めであるか、又それで人たるものは完全と言ひ得るか、孝経には立身行道。揚名於後世。以顕父母孝之終也。とある、即ち父母を顕はすといふ眼目から、立身行道。揚名於後世。其間には必ず功名富貴といふものは皆籠つて居る、さうすると此功名富貴といふものが人生の要務のやうにも相成りまするけれども、併し人間が集つて一国を成して其国を進めて行くといふには、唯単に己れだけが功名富貴を求むれば、それで能事終れりとすべきものではなからうと私は思ふのである、先刻田中館博士のお述の如く、度量衡に対する要点は、例へば相欺き相偽ることなからしむる標準と、又一方には大きな事を研究する材料と、其必要とする点が二つあると仰しやいましたけれども、人の世に処するは単に二つであるか又は三つであるか、若し哲学者に十分攻究させて見たならば、種々説があるでありませう、私の浅学で右等のことを軽々判断することは出来ませぬ、又深く攻究して玆に申述るのではないけれども、之を哲学的に論ぜずに、御互が常に遵奉せねばならぬ、又尊敬すべき教育勅語に依つて考へて見ても、人間の此世に処するは自ら二つの意味を含蓄して居ることは明瞭であると思ふのです、「克く忠に、克く孝に、億兆心を一にして、世々厥の美を済せるは、此れ我が国体の精華にして、教育の淵源亦実に此に存す」と仰せられた、即ち忠孝といふものが、日本国民の最も精華である、骨髄である、と云ふことを先ず冒頭に置て、それから爾臣民――と、せねばならぬ事を仰せられた御趣意は「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信し、恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習ひ、以て智能を啓発し、徳器を成就し、進で公益を広め、世務を開き……」尚何と仰せられたか「国憲を重し、国法に遵ひ」――それだけで済むかと云へば「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すへし」と斯う仰せられてある、即ち前に私が申した儒者の教から観察する人間の務めといふものは、己れ一身に対しても栄達富貴を求むべきものではあるけれども、単にそれだけの事で、人は此世に立つものではない、即ち国家といふものを、何処までも其国民が相共に担つて、さうして国運を進めて行く、従つて其行動は君には忠、父母には孝、朋友には信、尚汎く家に対しては努めて之を愛し、且つ敬するといふ所謂忠恕の心を拡めて、世の進みを助けて行く、是が人間の務めであつて、而して其間に己れ一身の栄達も含まれて居る、故に工業に従事するにも商売に従事するにも、唯単に其事に就て己れを利するのみが本分だとは私はどうも思はれない、蓋し工といひ商といひ、其他総ての物質的業務に従事するものは、詰り己れの利益を図るが目的だといふことも、或は言ひ得るでありませう、人力を挽くのも賃銭を貰ふた
 - 第41巻 p.413 -ページ画像 
めであつて、若し賃銭さへ貰へば人力は挽かぬでも宜いと、斯ういふ風な議論があるかも知れぬけれども、私はどうもそれは至当な議論ではないと思ふ、人力を挽かずに唯賃銭を貰ふといふことは、或は人力挽として希望することかも知らぬけれども、併し人として決して希望すべき道ではない、即ち車を挽くといふ務めに対して、そこに報酬が生じて来るのである、是と同じく商売人は即ち有無相通ずるといふことが己れの職分であると考へて見ると、其有無を通ずる職分の間から其智恵其働き其事柄に依つて、報酬が或は多くなり或は少くなるのである、即ち職分に対する報酬であるから、唯報酬のみを望むが目的ではないと、斯う覚悟せねばなるまいと思ふ、丁度前に申す国に尽すといふ意念と、己れ一身の栄進を求むるといふ希望と権衡を保つて、彼れにのみ重からず、是れにのみ傾かず、相並んで行き得たならば、相当の智恵を持ち、良い学問をして、適当な事業に十分なる勉強をしたならば、そこで始めて其事業も世に効能があり、其人も亦相当の栄達が出来るであらう、或は相当の技倆あり知識ある人で、而して其権衡をも失はぬのにそれ程の声価を得ぬ者もありませう、又或は反対に、偶然の結果に依つて其知識技倆以外に大層立派になるものもありませう、けれども其結果だけに就て其人の世に尽した功績を判断する訳には行くまいと思ふ、古人の言葉に成敗を以て英雄を論ずる勿れ、――敗れたからといふて其人が英雄でないとは言へぬ、是等は決して孔子の教即ち儒道から立てたる議論ではない、寧ろ歴史家などの古来の英雄豪傑の成敗を見て、或は嘆息の言葉を発する場合に表はした言語であらうと思ひますが、併し吾々実業界にも随分さういふことがあらうと思ひますからして、此実業界に従事する御互多数の人々は成敗を措て、先づ人といふ本分を尽すといふことを目的として、さうして併せて其一身が人たるに恥ぢぬといふことを心掛けねばなるまいと思ひます、私が竜門社の綱領としたいと思ふた所謂訓言は先づ其要を申述べた積りである、今日玆に申述べるのは、決して大方の諸君に申上げるのではない、寧ろ竜門社の青年の人々に能くお心得あれかしと思うて玆に一言を添へ置く次第でございます。
      ○仁義道徳と利用厚生
 今一つ是も訓言の中にあることでございますけれども、兎角人の間違ひ易いことであるから、重複ながら玆に申述べますのは、仁義道徳のことゝ、利用厚生のことです、彼を為すと是が出来ぬ、是に依ると彼に外れるといふ誤解が押並べて世間にあるやうに思ひます、是は前に申す心掛を以て世に立つ人々は能く理解して決してさう離るべきものではないといふことを十分会得して事に当るやうにしたいと思ふのです、蓋し其事は昔から左様に隔離したものではなかつたのである、私は浅学ながら度々此漢学の弊を論じて孔孟の訓の仁義道徳と利用厚生とを引離すやうに立論したのは、閩洛派といふ程子・朱子あたりの学派が最も罪を造つたといふことを申して居りますが、既に大学などにも明瞭に書いてある、経書を残らず私は記憶も致しませぬし、又それを一々例証するも煩はしうございますが、財務のことに就て大学の一番終の右伝之十章に、此謂国不以利為利。以義為利也。と二つ返し
 - 第41巻 p.414 -ページ画像 
て書いてある、又孟子には王何必曰利亦有仁義而耳矣――是は梁の恵王の問に対する答です、大学は孔子の遺書である、孟子は申すまでもなく孟軻の七篇である、此孔孟の訓言は義利合一にあることは確実なる証拠がある、決して利益といふものが仁義と背馳したものでないことは明かに解つて居るが、後世の学者は誤つて富といふものは兎角仁義忠孝或は道徳と引離れたものゝ如く解釈をした為めに、大に漢学といふものが世の中に疎じられるやうになつた、若し又実際其通であつたならば、漢学の必要といふものは失くなつて、漢学は唯一の心学になつてしまふ、心学といふものゝみで世に活用せぬものであつたなら孔子の教は少しも尊敬するに足らぬと私は思ふのです、併ながら、孔孟の世に訓へる言葉は、決して左様に迂濶な、現在と引離れたものでないといふことは、四書中の各章に就て証拠立てられるやうである、故にどうぞ竜門社の諸君に望む所は、前に申した如く、先づ第一に人たる本分を尽すと同時に、道徳と功利といふものは必ず相共に進んで行ける、利用厚生の道は仁義に依つて益々拡張発達して行けるものであるから、仁義忠孝を論ずれば貧困に甘んじ、所謂、飯疏食飲水曲肱而枕之。それが仁義忠孝の骨髄だと、斯様に誤解のないやうにしたいのであります、さらばといふて、前にも申す通り唯一身が富めばそれで能事終れりとすることは、どうしても仁義忠孝の教から云ふても、又人たる本分から云ふても私は希望すべきことではない、人たるものは国家に対し、それこそ強く言ふたならば、此世を黄金世界にし遂げるだけの責任があるものと解釈して此世に立ちたいものと思ひます、始終書物を読み道理を攻究する余暇もございませぬ、又それ程私は学問的の人でもないが、此竜門社に対しては先づ私が標準となつて、どうぞ諸君と共に今の利用厚生と仁義道徳とを併行させることを一の主義として、此主義の下に立ち、益々之を拡張して行きたいといふ今日でありますからして、是に対して斯くありたい、斯様自分は考へるといふことは、機会のある毎にいつも此事を申述るに憚りませぬ、又諸君に於てもお考のあつたことはどうぞ月次会若くは総会等に於て、黙してござらずに十分考を述べられるやうに致したいと思ふのでございます、物の標準といふものは唯今田中館博士のお述になつた如く、誠に必要なることは疑もなく吾々も感じて居る、権然後知軽重、度然後知長短。物皆然。心為甚也。と孟子の言葉にあつたと思ひます、私は今のメートルの根原も能く知らず其数字も弁へませぬけれども、孟子の云ふ権度以外の心の標準は、今申述べたことが決して諸君を誤らせるやうなことは無いと信じますから、どうぞ今田中館君の述べられたメートル法に標準を取ると同時に、孔孟の教を十分に心の標準と為し下さることを希望致します、是で御免を蒙ります。(拍手)
 先生曰く 今や窮民救恤の声を聞くも其真理を解くもの稀なり、然れども社会・政治・経済孰れの見地より考察するも、早晩窮民救恤の必要を痛切に感ずるの時機に逢着するや必せり


青淵百話乾 渋沢栄一述井口正之編 第四六八―四七三頁 明治四五年七月刊(DK410092k-0005)
第41巻 p.414-416 ページ画像

青淵百話乾 渋沢栄一述井口正之編  第四六八―四七三頁 明治四五年七月刊
    六二 精神修養と陽明学
 - 第41巻 p.415 -ページ画像 
 余は深奥なる学問の素養がある訳でないから、素より倫理学上の学派や学説を彼れ是れ批判する程の能力もないし、又深く西洋の学問に造詣したのでもないから、広く世界に其の範を求めて兎や角と論ずることは出来ない、併しながら青年の頃より好んで支那古聖賢の書物を読み殊に孔子の教を尊奉し、若し日常生活に於て何事か処し難いことでもあれば、論語を指導者として一切の審判を仰ぐことにして来た。
 学者の罪なり 余が論語を道徳上の典型として居ることは、口癖の如く何にでも引合に出して言ふ所であるが、兎に角論語二十篇は人道の要旨を網羅した金科玉条で、世に処し身を修め事を処するの法は悉く其の中に尽されて居る。孔子の教は何処迄も実行を重んじたもので彼の老荘等他学派の人々の説の如き高遠迂濶な所がない。何人にも解り、何人にも直ちに実行され得る真に実践的の教である。しかるに後世の学者は孔子を以て神か仏かの如く考へて、其の説いた教に対して種々に六ケ敷い説を附け加へ、註釈に註釈を重ねて遂に難解のものであるかの様にして仕舞つた。若し彼等が孔子の説いた所のまゝを以て直ちにこれを世に行はんとしたならば、寧ろ其の効果は多かつたであらうに、学者が其の間に介在して苦心に苦心を積んだ結果、却て面倒なものにして仕舞ひ、聖人は全然人間界のものでなく、仙人か仏菩薩のやうなものであるとの観念を世人に抱かせて、普通の人間には迚も及びもつかぬ別種なものに拵へ上げて仕舞つたのは、実にいらざるお世話と言はねばならぬ。さて其の結果は学問と実行といふものとは、別々に分離して来たのであるが、彼の朱子学の如きは殊更この弊害に陥つて居る。
 知行合一説 然るに朱子の後に現はれた王陽明は、其の『知行合一説』に於て学問と実行との分離せることの弊を矯正せんと試みたのであるから、余は其の説が中々面白いものだと思ふ。故に余は精神修養の資料として陽明学を推薦して置き度い。一体宋朝の学者には朱子を初め張横渠・程伊川・程明道などの人々が『虚霊不昧』とか『寂然不動』などと説いたものが有つて、それが為め、学問は却て高尚幽玄なものとなり終り、実際界とは非常に遠ざかつて仕舞つた。従つて其の学を奉ずる人々は、自ら一室に静坐しながら香でも焚いて読書三昧に入らねば、真の学問をするものとは謂はれない様な傾向になつて行つた。併し余の考ふる所を以てすれば、学問といふとも何も必ず左様迄態とらしくしなければならぬものではあるまいと思ふ。例へば日常のことゝても、考へ様では総て学問ではなからうか。一の事務を執るのも、来客に接して談話するのも、何から何まで観じ来れば一種の学問であると自分は解釈する。何故なれば、来客に対して談話をする際でも、自分が忠実に事を談ずるに、先方がその説に不同意があるとすれば、同じく亦忠実に反対説を述べるといふ様にして、互に信実を主として交るならば、所謂『朋友に交るに信を以てす』といふ経語に称ふことになるから、これ実に生きた学問といふとも敢て過言ではなからうと思ふ。何事に対しても斯のごとく観察すれば、世の森羅万象一として学問ならざるはなしで、延いては学問即ち事業、事業即ち学問といふことになり、事業を離れて学問を求むることも出来なければ、学
 - 第41巻 p.416 -ページ画像 
問を離れて事業を求むることも出来ないといふ点に落ちてゆく。王陽明の『知行合一説』は此の点に於て最も価値あるもので、学問と実際とを接近せしむるところは、彼の朱子学一派の輩をして顔色無からしめて居る。而して精神修養の一助として陽明学を推す所以も亦実に玆に存して居るのである。
 良知良能論 然るに陽明学に、反対意見を抱ける者は、陽明所説の『良知良能』に就いて駁論して、『陽明学は良智良能を主とし、余りに直覚的であるから、動もすれば、知識を恃みて経験を軽んずるの傾向を生じはしまいか』と云ふ。これは如何にも尤のやうには聞えるけれども、併し王陽明が如何に『良知良能』を主張したからとて、人は総て生れた其のまゝでよいとは説くまい。人間の生霊といふものは種々雑多の境遇を経たり、色々様々な事情に遭うたりするに依つて、いやが上にもますます光輝を発するものであるから、それに対して、智識や経験の必要であることは言を俟たぬのである。故に王陽明も必ずそれ等の事を軽視する筈はないことゝ思ふ。但し境遇や事情の為に、自己の良知良能に変化を与へらるゝやうな事が有つてはならぬので、それは何処迄も良知良能たる明鏡の曇らぬ様にして置くといふことが緊要である。
 自分は固より学者でないから、陽明学を説明するにその系統を明かにして秩序的に説くことは出来ないので、是だけは或は読者に解らず仕舞ひにならぬとも限らぬが、兎に角余は以上の理由で陽明学を好むのである。世に余と感を同うするの士があるならば、希はくは専門家の研究に成つた所の陽明学に就いて研究を重ねて戴き度い。


陽明学 第九〇号・第八―九頁 大正五年四月 米国土産談 (男爵)渋沢青淵翁(DK410092k-0006)
第41巻 p.416-417 ページ画像

陽明学  第九〇号・第八―九頁 大正五年四月
    米国土産談        (男爵)渋沢青淵翁
 此篇は先日吾会主幹が翁の帰朝後坐談に聞きたることを綴りたるのである(文責記者)
予が此程米国一遊中には各処より招待に遇ひ余程演説の数をも重ねたるが、其中に感じたる所は、予が接したる兎も角彼方上流の紳士と云ふ者は、吾等東洋儒学より看ても殆ど吾が孔孟主義の如き信念を持て居ることである、固より彼方には吾儒学専門学者と云ふ程の旗幟を立て居る者はなく、世上一般の信向は無論基督主義ではあるも、吾等は時々其機会に遭遇せる毎に、往々吾論孟などの説に渉りて、自然吾東洋にもかかる高尚完備せる教門のあるを知らしむるに務めたりしが、彼等のよく聞分けて飲込むには賛嘆の外はない、唯だ彼は其理のよき所は自から我基教中にも已に備はつて居ると思ふものゝ如し、因て若しも此に学力徳行の兼備せる真人豪がありてよく導きたらんには、自然に皆よく其の言を咀嚼して遂には吾儒門に入らするは蓋し難事でもなきようなり、其は固り其筈にて陽明先生の所謂良知で、苟も人として世に生れたる限りは良知は誰れも持つて居る故に、良知の上より論ずれは、基督も孔孟も吾等凡夫も東洋西洋の別もなきがゆゑであるまいか、唯陽明と云ても孔孟と云ふても、其名が立てば何か別のものかのように思ふ所より、丁度我々が基督教を何となく嫌におもふものゝ
 - 第41巻 p.417 -ページ画像 
多いと同じく、彼等にもちよとはまり難い所がある、予は一日某日曜学校に、彼の有名なる所謂ニユーヨーク百貨店王ジヨン・ワナメイカー氏に誘はれて其大会に臨みたりしが、其会衆何千人と云ふ席にて予を紹介して、此仁は東洋の哲学者にてあるが、其の哲学たる孔孟主義を聞くに誠に結構至極の主義にして、吾基督主義に何等の別はないやうである、然れば此後は此の大会を移して之を日本に開こうと云ふて其尽力もなし下さるとの事であるが、追てはどうか吾が宗に御入をも願ふ積りである、と斯う紹介したのであるが、予は誠に道の真理に東西の別はないので、苟くも理に協ふた信向は自然に一致する者であるゆゑ、真理に志すものは並に相提携して世道人心の拯済をせねばならぬものであるというて答へたのであるが、其時予は心窃にこうおもうた、彼が其の宗旨の主張もよいが、われよりは今に於て其の方に宗旨換は思ひもよらない、それを迫ると嫌気がさす、それだから其時そなたこそ我が孔孟宗に改まりて貰ひたいと迫らうかとおもう気も起るので互にさうなれば其結果は例の喧嘩で、折角東西両洋思想感情も漸次接近せるものがまたまた離隔する事となりては、其が実際の道徳には何等の益にもならない、それでまた斯う思ふた、基教の主義によれは己の欲する所は人に施せとあるによりて、彼はそれを以て我に当れば宗旨換をも云ふのであらうが、我は彼の論語の己の欲せざる所は人に施すなかれとある教を守り、そんな嫌気のさすことを以て人に迫るべきに非ず、吾は唯其実践躬行によりて真実の道徳を彼に示せば彼は自然に吾宗旨になつてくるので、これが即ちまた陽明先生の流義ではあるまいか、と斯う思ひて喧嘩は先づ避けたのであるが、彼の熱心にはまた窃に敬服もした、要するに己の欲する所は人に施せど己の欲せざる所は人に施す勿れとは、表裏より説きて意味同じきがごとくなれども其運用に違ひがある、丁度程朱は仏を破するを以て道を明かにするとなし、陸王は之と抗せず而して吾が実行を示すを以て道を明にするものとせるが如きやうであると思もはるが、こゝはどうか吾同志の諸君の御教正を受けたいものである、猶此程遊中の談は沢山なるもそはまた後に申上る機会もあらうが、今は此の一事を談しておく。


実験論語処世談 渋沢栄一著 第八三七―八四五頁 大正一一年一二月四版刊(DK410092k-0007)
第41巻 p.417-421 ページ画像

実験論語処世談 渋沢栄一著  第八三七―八四五頁 大正一一年一二月四版刊
    偉大なる孔子の遺訓
      ○唐沢斗岳氏の孔子政治家論
 孔子の事について、始終色々の論説がありますが、此の間、福井毎日新聞の唐沢斗岳と言ふ人が、「孔子政治家論」と言ふ書物を著はして、手紙を添へて寄贈された。是れに関して些か所見を述べて見たいと思ふ。
 従来孔子を論ずる人々の説は、押なべて孔子を道学先生として、一種の宗教的観念を持つが如き、或は一種の哲学的道理を論ずる所の学説をなす人と見て居るけれども、自分の見る所は全く是れと違ふのである、唐沢斗岳氏の添書に依れば、孔子を単なる学者と見ず、純然たる政治家と見て居る。其の著書「孔子政治家論」は未だ良く読んで居らぬけれども、其の内容の大体は、孔子は元来政治家であつたが、不
 - 第41巻 p.418 -ページ画像 
幸にして世に容れられず、実際政治家としては失敗の人であるが、失敗が失敗に終らず、後年になつては実際政治を断念して、社会教化と言ふ方面から世を済はんとして、専ら政治教育に力を尽すに至つた。而して孔子の思想は是れに依りて二千数百年後の今日儼然として伝へられて居るが、事実に於て実際政治家としての手腕を充分発揮し得なかつた為め、此の方面に力を注ぐに至つたので、本来の目的は専念政治にあつた事は、論語や大学に依つて見ても明かである。現に論語や大学には斯く斯くの説があると言ふ意味のもので、手紙には渋沢は是れを何う見るかと言ふ事が書いてあつた。
      ○福地桜痴氏の孔夫子論
 成程唐沢氏の孔子政治家論は、従来の孔子論よりも少しく見方が違つて居る様であるが、然し是れは唐沢氏の新説ではなく、前にも是れと同じ様な意味の観察をした人があつた。明治初年の頃、文筆を以て頗る有名な福地桜痴と言ふ人があつた。此の人の実父は有名な学者で漢学の造詣が深く、殊に孔孟の学問を深く究めた人であるが、桜痴と言ふ人は頗る磊落な人で、始終狭斜の巷に出入し、夫子の道などについては殆んど無頓着なやうな人であつたけれども、流石に実父の薫陶を受けただけあつて、論語については一見識を持つて居たものである確か明治十四・五年頃の事と思ふが、向島の大倉喜八郎氏の別荘に友達等が相会して、花見の会を催した事があつた。その時福地桜痴氏も見えられて「孔夫子」と言ふ演題で一場の講演を試みられてあつたが非常に文筆の達者な人だけあつて、門人との問答を巧に引証したり、論語の学問を哲学的に解釈したり、所謂談話の背景が頗る面白く引例が該博なだけに、一段と興味深く聞かれたのであつたが、その時の講演が丁度唐沢氏と同じ様な解釈を下して居つた。今回唐沢氏の著書を読むに及んで、図らずも数十年前の福地氏の論と同様なのを思ひ出して一入の興味を覚えたのである。
      ○井上哲次郎博士の孔子観
 時日は確かに記憶して居らぬけれども、最初の孔子祭典会が湯島の孔子聖堂で催された際だつたと思ふ。井上哲次郎博士が、孔子に就いて一場の講演を試みた事がある。博士の孔子論は、些か世人と趣きを異にし、孔子は非凡な人ではない、平凡な人であつた。平凡を短く言へばヘボになるが、孔子は所謂ヘボではなく、偉大なる平凡の人とでも言ふべき人格者であつた。英雄とか豪傑とか世間に持て囃さるゝ人は、確に尋常人に傑出した点があつたに相違ないが、或る一面に非常に長所があつても、他の反面には大なる欠点を有して居るのが常である。例へば非常に決断力があつて兵を動かすに疾風迅雷的で軍神と云はるゝ様な人でも、人間としての半面を見る時は、或は温情に欠けて居るとか、惨酷な行為を平気でするとか、或は感情に強く激し易いとか言ふ欠点を持つて居る。ナポレオンにしても、豊臣秀吉にしても、英雄であつたには相違ないか、人間としては大なる欠点の有つた事は否まれぬ事実である。
 是れに反して孔子は、殊更に何々が勝れて居たと思ふ点はないが、仁義を弁へ、礼義を知り、健康を保持し、其他人間としての備ふ可き
 - 第41巻 p.419 -ページ画像 
総ての条件を悉く具備して居り、従つて其の言語行動が人としての最高点に達して居つた、且つ六芸に通じ、行くとして可ならざるはなく一言一行、悉く後世の人の以て模範とすべきものであつた。是れを以て孔子を偉大なる平凡人と称すると言ふ意味の講演であつた。之れは頗る変つた孔子の観察法であつて、余程面白い見方であると思ふ。
      ○孔子の理想は人類の幸福増進にある
 井上博士の説は別として、福地桜痴・唐沢斗岳両氏の説に依れば、孔子は政治家として立たんが為めに汲々として居た様に見て居るが、是れは余程見方が誤まつて居はしまいか?孔子の時代は周末であつて先王の道は大に頽れて居つた。孔子は是れを大に慨嘆し、何うにかして先王の道を再び盛んならしめて、人民をして其の堵に安ぜしめんと考へ、是れが為めに熱心に道を説かれたのである。而しながら道を行ふには直接政治の衝に当るより捷径はない。それが為め孔子は招聘に応じて屡々仕官した。然し孔子は権力に依りて名を後来に貽そうとか又は高位高官について権力を張り度いとかいふやうな念慮は微塵も有つたのではない。之によつて道を行はんとせられたのであつて、人民の幸福を増進せんとする念慮の外はなかつたのである。孔子は魯の国に於ては、太夫の職に次ぐ重要な職に就き、魯斉の君の会にも出でゝ小国で有りながら其の使命を恥かしめず、文事有る者必らず武事有りと云ひて断乎として卑俗の音楽を排けたり、姦臣を一刀両断にしたり頗る果断の処置を取り、温厚の風に似合はぬ疾風迅雷的の風を偲ばせらるゝやうな事もある。
 要するに孔子の理想とする処は、政治を理想的に発展せしめて、四百余州を統治する事が真の目的で有つたのではなくて、人の人たる道を教へ、民の幸福を増進し、今の言葉で言へば社会の秩序を保ち、人類の幸福を増進して、理想的社会を実現せんとするのが其の真目的であつたのである。其の政治に干与せるは、其の理想を実現せんための一つの手段に過ぎなかつたのである。而して時の君王が孔子を利用する為めには辞を厚ふして聘したけれども、根本の精神が違つて居るから、利用する事が出来なくなつてしまふと、弊履の如く孔子を顧みない。それで志を述べる事は出来ないから、六十八歳にして直接政治に干与する念を断ち、専心教化の事業に従はれたのであるが、直接或る権力に就く許りが必ずしも政治の要諦ではない、人民の幸福を増進し各々其の堵に安ぜしめる様にするのが真の政治の根本であつて、是れは必ずしも為政者としての立場につかなくとも為し得る事柄である。孔子が直接政治家としての念を断つてからは此の意味に於て自分の意志を世間に広めんとしたので有つて、此の趣意は論語の全巻を通じて窺ひ得るのである。
      ○孔子の道は仁を以て根本とする
 論語の中に「広く民に施して而して民を救ふ仁と言ふ可き也」と言ふ章句が有る。之れは人たる者の最上の行ひとして最も守るべき道であるが、是れが孔子の世に立たんとする根本なのである。子貢が「何ぞ仁を事とせん」と言つた時に、孔子は諄々として仁の道を説き、人間として仁の最も必要なる事を説かれた。而して孔子は如何なる場合
 - 第41巻 p.420 -ページ画像 
に於ても容易に仁を許さず、非常に高い標準に是れを置かれたものである。
 孔子の教は仁を以て根本とする、仁は人類社会の幸福増進を目的として説かれたもので、孔子の真意は此の人類の幸福増進の外にはなかつたのである。されば孔子が先王の道を説いたのは、文字通り解釈すれば王侯のためにのみ説いたものゝ如く誤解する者も有るかも知れぬが、実際に於ては、国民の為めであり、民衆の為めで有つたのである其の王侯の道を説いたのは、善政を施くには王侯を善導するを捷径とし、且善政を施けば国民は知らず識らず勇み悦んで発展して行けるので、此の点に力を注いだのである。究極する処、孔子は仁を以て人間の幸福を増進する最高の道と思はれたのに外ならぬのである。
      ○現今の政治と孔子の真意
 日比谷に於て多数を占めさへすれば、実権を握り得て自分の意見を行へると言ふ様な観念は、現今の上下を通じて一般に懐く所のものである。成程現今は多数政治であるから多数を占めさへすれば自分の無理も通らう、従つて善政の施さうとすれば出来得べき筈である。それにもかゝはらず現実の状態は之れを裏切つてゐるらしく吾々の眼に映ずる。是れは民衆のための政治ではなく、自己のための政治である。広く民に施して而して民を救ふを仁と言ふ可きなりと云ふ孔子の教から言ふと、斯る事は出来得る筈はない。政治は人民のための政治で自己のための政治でない、自己の権力を濫用して、自己の利益を計る事は、是れを政治と云ふ事は出来ぬ。
 孔子が嘗て実際政治に近かうとしたのは、全然是れと趣きを異にする。孔子は為政者としての立場から広く民に施すの意義を事実に施そうとしたのである。孔子の思想の根本は人類の幸福増進が目的で、今の言葉で云へば、博愛がその根本で有つたから、是れを徹底的に達成せしむるには、政治に依らねばならぬと云ふのが、孔子の生粋で有つたので有る。
      ○山鹿素行の論語観
 論語の学者には大体古学・朱子学・折衷学の三派に分れて居るが、朱子学者は余り此の点を尊重せぬけれども、折衷派は頗る是れを尊重して居つた。山鹿素行は元来が兵学者であるけれども又折衷派の錚々たる者であつた。当時幕府は政策上から朱子学を奨励し、林家が大学頭として文教の司の地位にあつたのであるが、山鹿素行は幕府の儒者林家に反対して、政教要録を著し、孔子の教は道学者の説くが如き死学ではなく活学問である。今日の如く文字上の形式だけを尊重して孔子の真の精神を見ぬのは大に間違つて居ると非難した。是れが幕府の忌諱に触れて、赤穂義士の義挙で有名な浅野長矩の父、浅野長広の下に多年(九年許り)幽閉されて居たが、その当時大石良雄に薫陶したのが彼の義挙に少なからず影響が有ると言はれて居る。其の真偽は良く判らぬが、兎に角山鹿素行は単なる兵学者ではなく、折衷派の学者としても、確に一見識を備へた偉い人で有つたと思はれる。素行の説くが如く、孔子の孔子たる所以は、其の処死学でなく悉く活学問であつて、何時の時代に於ても人間として是れを学ぶ可き価値の存する所に
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あると思ふ。孔子の偉い処は実に人類の幸福増進、社会の向上発展を理想とした点であつて、人間として必らず守る可き道を判り易く平易に説いた処に真の価値を認める。是れ孔子の孔子たる所以で有つて、私も素行の説には頗る賛成である。若し福地桜痴や唐沢斗岳の如く、単に孔子を政治家として立たんとするものと見るならば、一を知りて二を知らざるものと言ひ度い、蓋し孔子の直接政治に携はらんとしたのは、道を行はんとする手段で有つて、其真の本領は全く人類の幸福増進に有つた事は、論語乃至大学の章句に就いて見れば良く了解さるるであらう。
○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正一二年(DK410092k-0008)
第41巻 p.421 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一二年         (渋沢子爵家所蔵)
一月二十三日 晴 寒
○上略 渡部求氏依頼ニ係ル忠経講義ニ対スル意見原稿ヲ修正ス○下略
一月二十四日 曇 寒
○上略 渡部求氏依頼ノ忠経講義ニ付テ意見ノ原稿ヲ修正ス○下略
一月二十五日 雪 寒
○上略 又渡部氏依頼ノ忠経ニ対スル意見ヲ調査ス○下略
  ○中略。
二月五日 曇 寒
○上略 忠経講義ノ序文ヲ修正ス○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正一四年(DK410092k-0009)
第41巻 p.421 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一四年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 快晴 軽寒
○上略 客歳他人ヨリ贈付セラレタル柿木寸鉄氏著ノ孔子聖教ノ攻究ト題スル一書ヲ読ム、但其緒言・目次等ヲ読過シ本論ニ入リテハ未タ其一端ヲ窺フノミナルモ、孔聖ト儒学トノ区別及仁義道徳等ノ主義ヲ分析シタル一種ノ科学的経書研究ト称スルヲ得ヘシ○下略